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誰も見たことのない彼女

あらすじ

職場の同僚・朝霧光一(あさぎりこういち)には、長年そばにいるという女性がいる。名前は姫奈真子(ひいなまこ)。しかし、誰も彼女に会ったことがない。写真も記録もなく、それでも光一は当たり前のように真子を語る。

光一に惹かれた宮城遥(みやぎはるか)は、告白を断られたことをきっかけに、真子の存在を調べ始める。やがて無言電話、手紙、尾行――見えない誰かの気配が遥に迫る。調べるほど、光一の過去と、遥自身が忘れていた痛みも浮かび上がっていく。

真子は実在するのか。嫌がらせの正体は誰なのか。そして「彼女」とは何者なのか。

信じていた関係が崩れるとき、遥は自分自身の空白にも触れてしまう。答えは、誰も見ていなかった場所にあった。



第一章 真子の匂い

朝霧光一は、いつも少しだけ早く出社する。

始業の二十分前。エレベーターを降りた瞬間、オフィスにはまだ人の体温がない。蛍光灯の白い光だけが、無人のデスクを均等に照らしている。その静けさが、光一には心地よかった。

自分のデスクに鞄を置き、給湯室へ向かう。コーヒーメーカーのスイッチを入れると、低いモーター音が室内に広がった。豆を挽く音が止むころ、濃い香りがゆっくりと空気に溶けていく。

光一はその匂いを、毎朝ここで嗅ぐ。

けれど今朝は、それより先に別の匂いに気づいていた。

自分のジャケットの袖口。かすかに残る、出汁と醤油が混ざったような温かい匂い。昨夜、真子が作った筑前煮の匂いだった。

光一は袖口を少しだけ顔に近づけ、それからそっと離した。特に何も思っていないような顔で、コーヒーカップを手に取る。
――――――
午前の仕事は淡々と進んだ。

光一の仕事ぶりを一言で表すなら、「過不足がない」だった。求められたことを、求められた水準で、求められた期日に仕上げる。それ以上のことはしない。それ以下のことも、しない。

上司からすれば扱いやすく、同僚からすれば少しだけつかみどころがない。飲み会には参加するが、場の中心には立たない。冗談も言うが、笑われるほどではない。怒ることは、ほとんどない。

ほとんど、という言葉が必要なのは、一度だけ例外があったからだ。

三年前。当時の同僚が、酒の席で言った。

「朝霧さんってさ、彼女ほんとにいるの? 一回も見たことないじゃん」

その夜のことを、当時その場にいた社員は今でも断片的に覚えている。グラスが割れる音。椅子が倒れる音。そして、光一が発した言葉ではなく、その声の低さと温度を。

翌朝、光一は何事もなかったように出社した。

それ以来、社内で真子のが出るときは、決まって当たり障りのない内容に留まる。「最近どうですか」「元気そうですね」。それ以上踏み込む者は、いなかった。
――――――
昼休み、光一は自席でスマートフォンを見ていた。

画面の中身は、隣の席からは見えない角度になっている。特に隠しているわけではなさそうだが、自然とそうなっていた。

十二時を少し過ぎたころ、光一は静かに立ち上がり、給湯室へ向かった。

宮城遥は、その背中を目で追った。

遥が今の部署に異動してきたのは、四ヶ月前のことだ。最初は特に意識していなかった。ただ、一緒に働くうちに、光一の「過不足のなさ」が気になり始めた。過不足がないのに、どこかが余っているような気がした。うまく言葉にできないまま、気づけば目で追っていた。

給湯室から戻った光一は、温かそうな弁当箱を持っていた。

タッパーが二段重ねになっている。手作りらしく、蓋の端に白いテープが貼ってあった。

隣の席の先輩社員、田辺が声をかけた。

「また真子さんの手作り?」

「そう」と光一は短く答えた。「昨日の筑前煮の残りと、今朝巻いてくれた卵焼き」

「いいねえ」と田辺は笑った。「長続きしてるね、ほんとに」

「うん」

それだけだった。

光一は弁当箱を開けた。湯気は出ないが、まだほんのりと温かそうだった。出汁の匂いが、ごくわずかに漂ってきた。

遥は自分のコンビニのサンドイッチを見つめた。

セロファンの包みを開けると、パンと具材の平たい匂いがした。冷えていた。
――――――
午後の会議が終わったあと、光一は廊下で電話をしていた。

遥はたまたまその廊下を通りかかった。足を止めたのは、意図したことではない。

「うん、大丈夫。今日は定時で上がれる」

光一の声は、社内で使う声より少しだけ柔らかかった。

「冷蔵庫に入れといてくれたら食べるから。無理して起きてなくていいよ」

そこで一拍、間があった。

「わかった。じゃあ、また後で」

通話が終わる。光一はスマートフォンをポケットに戻し、振り返った。

廊下に遥がいることに気づくと、軽く会釈した。

「お疲れ様です」

「お疲れ様です」

それだけで、光一は歩いて行った。

遥はしばらく、廊下に立っていた。

電話口の向こうから、相手の声は聞こえなかった。でも光一の声の柔らかさが、空気にうっすら残っているような気がした。

匂いでも音でもない、何か。

遥にはそれが、ひどく実在するものに感じられた。
――――――
定時の五分前、光一はデスクを片付け始めた。

帰り支度をしながら、独り言のように言った。

「今日、真子が風邪気味でさ」

田辺が「あらら」と返した。

「大したことないといいね」

「たぶんね」と光一は言った。「でも念のため早く帰る」

鞄を持って立ち上がる。「お先に」と言って、光一はオフィスを出た。

エレベーターの扉が閉まる音がした。

遥はその音を聞きながら、自分のデスクで画面を見つめていた。

姫奈真子。

頭の中で、その名前を一度、声に出さずに読んだ。

誰も見たことがない。写真もない。それでも確かに、あの弁当箱の中にいた。ジャケットの袖口に残っていた。廊下の電話越しの声の柔らかさの中にいた。

遥は、それがひどく不思議だと思った。

同時に、少しだけ悔しいと思った。

理由は、うまく言葉にできなかった。

ただ、胸の奥に、何か古いものが触れた気がした。

何なのかは、わからなかった。

オフィスに残った蛍光灯の光が、無人になり始めたデスクを、朝と同じ温度で照らしていた。

遥は立ち上がり、コートを手に取った。

鏡のないまま、オフィスを出た。

第二章 告白の朝

遥が光一を意識し始めたのが四ヶ月前だとすれば、その気持ちに名前をつけたのは、三週間前のことだった。

きっかけは、たいしたことではない。

残業で遅くなった夜、給湯室でインスタントのスープを作っていたとき、光一が隣に来てコーヒーを淹れた。それだけだ。特別な会話はなかった。ただ、疲れた時間帯の、狭い給湯室で、二人分の湯気が混ざった。

コーヒーと、コーンスープ。

その匂いが混ざった一瞬に、遥は気づいた。ああ、好きだ、と。

論理的な根拠はなかった。

でも遥は、自分の感覚をわりと信じるほうだった。少なくとも、今の自分は。
――――――
告白したのは、その三週間後の金曜日の夜だった。

口実はすぐに作れた。「駅前に新しいイタリアンができたんですけど、行きませんか」。光一は断らなかった。遥はそれを、脈があると解釈した。あるいは、そう解釈したかっただけかもしれない。

店は駅から三分ほどの場所にあった。木の質感を活かした内装で、照明は少し暗めだった。扉を開けた瞬間、焼いたパンの匂いと、ニンニクをオリーブオイルで炒める匂いが混ざって流れてきた。胃が鳴りそうになるのを、遥はこっそり抑えた。

二人分のグラスに赤ワインが注がれた。

会話は弾んだ。仕事の話、部署の愚痴、田辺さんの口癖の話。光一はよく笑った。社内で見るより、少しだけ輪郭が柔らかかった。

ワインが二杯目になったころ、光一は言った。

「宮城さんって、どこかで会ったことありましたっけ」

遥の指先が、グラスの中で一瞬止まった。

「よくある顔なんです」と遥は言った。「よく言われます」

笑い方は、用意していたみたいに滑らかだった。

光一は「そうかな」と言って、また笑った。それ以上は聞かなかった。

遥はワインを一口飲んだ。舌に渋みが広がった。飲み込んでから、息をゆっくり吐いた。
――――――
デザートのパンナコッタが運ばれてきたころ、遥は言った。

「朝霧さんのこと、好きです」

間があった。

光一はスプーンを置いた。遥の顔を、一度まっすぐ見た。その目に、驚きはあった。でも、困惑や迷いはなかった。

「ごめん」と光一は言った。「俺には真子がいる」

声は穏やかだった。拒絶というより、事実を告げるような言い方だった。

遥はワインを一口飲んだ。

「真子さん、ですよね」

「うん」

「会ったことないんですけど」と遥は言った。笑いを少し混ぜた。「どんな人なんですか」

光一は少し考えるような間を置いた。

「穏やかな人だよ」と言った。「静かで、でもちゃんといる感じの人」

ちゃんといる感じ。

遥はその言葉を、胸の中で一度繰り返した。

「長いんですよね、真子さんとは」

「長い」と光一はうなずいた。「もう十年以上になる」

「すごいですね」

「そうかな」

光一は窓の外を一瞬だけ見た。雨が降り始めていた。店のガラスを、細かい水滴が伝っていく。街灯の光が、濡れたアスファルトに滲んでいた。

「真子がいなかったら」と光一は静かに言った。「俺、今ここにいなかったと思う」

遥は何も言えなかった。

言葉の意味が、一度では測れなかった。

パンナコッタの白い表面に、スプーンの跡がついていた。遥はそれをただ見ていた。
――――――
店を出ると、雨は本降りになっていた。

光一が傘を差し出した。遥は首を振った。「駅まで近いので」と言った。

「そう」と光一は言った。「今日は誘ってくれてありがとう。楽しかった」

嫌みではなかった。本当にそう思っているのが、声でわかった。

それが余計に、遥には堪えた。

光一は傘を開いて歩いていった。雨音の中に、革靴の音が混ざって、すぐに聞こえなくなった。

遥は雨の中に立ったまま、しばらく動けなかった。

冷たい雨が髪を濡らした。アスファルトが濡れた匂いがした。遠くで居酒屋の換気扇が回る音がした。

諦められない、と思った。

でも同時に、もっと古い感情が、どこかから滲み出てきた。

この感覚を、知っている。

雨の匂い。断られた夜の、体の冷たさ。

遥はその感覚を、すぐに押し込んだ。

違う、と思った。あれとは違う。あのころの私とは違う。

今の私は、あのころとは別の人間だ。

そう言い聞かせながら、遥は歩き始めた。

雨が、コートの肩を叩き続けた。
――――――
翌週の月曜日から、遥は調べ始めた。

最初は軽い気持ちだった。SNSで「姫奈真子」と検索する。ありふれた行動だ。失恋した人間がよくやることだ、と自分に言い訳しながら、スマートフォンの画面を見た。

結果は、ゼロだった。

同姓同名の別人は何人かいた。しかし光一と繋がりのある「姫奈真子」は、どこにも見つからなかった。

フェイスブック。インスタグラム。X。どこにもいない。

遥は少しだけ首を傾げた。

今どき、SNSを一切やっていない人も珍しくはない。それだけで何かを疑うのは早計だ。

でも気になった。

気になり始めると、止まらなかった。

田辺に、さりげなく聞いてみた。「真子さんって、朝霧さんとどこで知り合ったんですかね」。田辺は首を振った。「さあ、聞いたことないな。聞ける雰囲気でもないしね」と笑った。

他の同僚にも、それとなく聞いた。誰も知らなかった。写真を見たことがある人もいなかった。会ったことがある人も、いなかった。

光一が話す真子は、いつも断片だった。

風邪をひいた真子。弁当を作ってくれた真子。映画を一緒に見た真子。電話の向こうの真子。

断片は確かに積み重なっている。でもそれを繋げると、輪郭が浮かぶはずの場所に、何もなかった。
――――――
水曜日の昼、遥は総務の古株社員、永井に声をかけた。

永井は勤続十八年で、社内の人間関係をほぼ把握していた。世話好きで、聞けば大抵のことを教えてくれる。

「朝霧くんのこと?」と永井は言った。「あの子は昔からああいう感じよ。真子さんって人の話、入社したときからしてたもん」

「会ったことありますか、永井さんは」

「ないない」と永井は笑った。「写真も見たことない。でもまあ、ちゃんといるんじゃない。あれだけ自然に話すんだから」

遥はうなずいた。

永井はふと、何かを思い出したような顔をした。

「そういえば」と永井は言った。「宮城さんって、出身どこだっけ」

遥が答えると、永井は少し目を細めた。

「あら、私と同じ地元じゃない。どおりで見たことあるような気がしたのよ」

「そうですか」

「昔の知り合いに似てるのかな。気のせいかしら」永井は首を振った。「まあいいか」

遥は微笑んだ。

永井は「そうかあ」と言って、自分のデスクへ戻った。

遥は温くなったコーヒーを飲んだ。苦かった。
――――――
調べながら、遥はある事実に行き当たった。

光一の生い立ちに関する、断片的な情報だ。

共通の知人から、偶然聞いた話だった。光一は幼いころ、親からの育児放棄に近い状況に置かれていた時期があったらしい。詳しくは誰も知らない。本人が話さないからだ。ただ、「親がまともじゃなかった」という話は、古い知人の間では知られていた。

遥はその話を聞いたとき、胸の奥が少し痛くなった。

同時に、ある考えが頭をよぎった。

幼いころから孤独だった人間が、存在しない誰かを作り上げることがある。愛されなかった記憶が、愛してくれる誰かを必要とする。それは珍しいことではない。

姫奈真子は、いないのではないか。

遥はすぐにその考えを打ち消した。

でも、完全には消えなかった。

その夜、遥はベッドの中で天井を見つめた。雨はまだ降っていた。窓を叩く雨音が、一定のリズムを刻んでいた。

ちゃんといる感じ、と光一は言った。

いる感じ、と。

遥はその言葉を、今度は違う意味で繰り返した。

枕が、頬に冷たかった。

目を閉じると、雨音だけが残った。

その音の中に、ずっと昔の雨の音が、かすかに混ざっているような気がした。

第三章 記録のない女

調べるほど、何もなかった。

それ自体が、異常だった。

遥は仕事帰りの電車の中で、スマートフォンの画面を見続けた。吊り革を掴んだ手が、何度も検索ワードを変えた。「姫奈真子」「ひいな まこ」「Mako Hiina」。アルファベット表記まで試した。どれも、繋がらなかった。

車内はラッシュの残滓で混んでいた。隣の男性のコロンの匂いが強かった。ドアの隙間から夜風が入ってくる。乾いた、少し冷たい匂いだった。誰かの鞄が腕に当たった。誰も謝らなかった。

画面だけが、明るかった。
――――――
翌日の昼休み、遥は一人でカフェに入った。

窓際の席を取った。コーヒーを注文して、ノートを開いた。調べてわかったことを書き出してみる。整理すると、自分が何を知っていて何を知らないかが、はっきりする。

知っていること。

姫奈真子という名前。光一が、真子とは十年以上になると言っていること。料理が得意らしいこと。体調を崩すことがあること。電話で話していること。

それだけだった。

知らないこと。

顔。職業。年齢。住所。出身。学歴。SNSアカウント。共通の知人。写真。声。

書き出すと、ひどく非対称だった。

コーヒーが運ばれてきた。深煎りの、少し焦げた匂いが立ち上った。遥はカップを両手で包んだ。陶器の温かさが、じわりと手のひらに移ってきた。

存在する人間には、必ず記録がある。

学校に通えば卒業アルバムがある。会社に勤めれば名前が残る。SNSをやらなくても、誰かの写真に映り込む。誰かの記憶に残る。何かの書類に名前が載る。

姫奈真子には、それが何もなかった。

遥はコーヒーを一口飲んだ。苦さが舌に広がった。後味に、かすかな酸味があった。

いないのかもしれない、という考えが、また戻ってきた。
――――――
その日の午後、遥は思い切って光一の古い知人に連絡を取った。

大学時代の友人だという男性で、共通のSNSの繋がりから辿り着いた。メッセージを送ると、翌日には返信が来た。

会って話しましょう、ということになった。

待ち合わせは駅前の喫茶店だった。

扉を開けると、煙草の残り香と、古い木の匂いが混ざっていた。長く使い込まれた匂いだった。カウンターの中でマスターが布巾を動かしている音がした。

相手は三十代前半の、眼鏡をかけた穏やかそうな男性だった。名前は坂本といった。

席に着くなり、坂本は少し困ったような顔をした。

「正直、最初は断ろうと思ったんですよね」

「そうですか」

「朝霧の知り合いって言われても、状況がわからないし」坂本はカップを両手で包んだ。「でも、メッセージに書いてあった一文が引っかかって」

「一文?」

「『姫奈真子は、本当にいると思いますか』って」

坂本はそこで少し間を置いた。

「それ読んだら、来ないわけにいかなかった」

遥は何も言わなかった。

「俺も、ずっと思ってたから」と坂本は言った。声が少し低くなった。「ただ、誰にも言えなかっただけで」

カウンターの中でマスターが布巾を動かしている音がした。外を自転車が通った。チェーンの音がして、遠ざかった。

「だから、話します」と坂本は言った。「俺が知ってることだけですけど」

「俺も会ったことないんですよね」と坂本は続けた。「大学のころから、真子がいるって言ってたけど、一度も紹介してもらったことない」

「変だと思いませんでしたか」

「変っていうか」坂本はコーヒーカップを回した。「朝霧がそういう奴だと思ってたから。プライベートを混ぜない人なんだと」

「写真も?」

「見せてもらったことない」坂本は首を振った。「聞いたこともあるんだけど、なんか話が逸れるんだよな、いつも。その話題になると空気が変わる感じがして、自然と聞かなくなった」

遥はメモを取った。ボールペンの先が、ノートに小さな音を立てた。

「朝霧さんの昔のこと、知っていますか」と遥は聞いた。「子供のころとか」

坂本の表情が、少し変わった。

「少しだけ」と坂本は言った。「本人から聞いたわけじゃないけど。親が、あまりちゃんとした人じゃなかったらしいね。詳しくは知らない。朝霧も話さないから」

「放っておかれていた、とか」

「そこまでは」坂本は首を振った。「でも、ご飯とかちゃんと食べてなかった時期があるとか、そういう話は聞いた」

遥は手を止めた。

弁当箱が頭に浮かんだ。二段重ねの、手作りの弁当。蓋の端の白いテープ。出汁の匂い。

「真子さんの名前を、大学のころから聞いていましたか」と遥は聞いた。

「聞いてた」と坂本は言った。「入学してすぐのころから、もういたと思う。だから俺たちは、そういうもんだと思ってた」

「でも会ったことはない」

「ない」坂本はうなずいた。「一度だけ、合コンに誘ったことがあるんだよ。そしたら『真子がいるから』って断られた。それで、ああそういう感じなんだなと思って、それ以上は誘わなくなった」

遥はカップを持ったまま、少し考えた。

「坂本さんは」と遥は言った。「真子さんが、本当にいると思いますか」

坂本は少し黙った。

「いると思いたいけどな」と坂本は言った。「でも正直、考えたことはある。あいつの昔のこととか聞くと、なんか、そういう人が必要だったのかなって」

「そういう人」

「支えてくれる人が」坂本は窓の外を見た。「俺には言えないけどね、本人に。あの暴力事件のこともあるし」

「暴力事件、って」と遥は言った。

坂本は、少し迷うような顔をした。

「学生のころだよ」と坂本は言った。「もう、十年以上前」

遥はペンを止めた。

「飲みの席でさ」坂本は声を落とした。「誰かが、軽い気持ちで言ったんだ。『真子なんて、本当にいるのかよ』って」

遥は、息を止めた。

「そしたら朝霧が」坂本はカップに目を落とした。「立ち上がって、テーブルを蹴った。グラスが割れて、そいつの胸ぐらを掴んでた」

「朝霧さんが」

「普段、あんなに穏やかな奴がだよ」坂本は言った。「怒鳴りもしなかった。ただ、目だけが——うまく言えないけど、底が抜けたみたいな目だった」

坂本はそこで、少し黙った。

「次の日には、何事もなかったみたいに笑ってた。だから、余計に怖くてさ」

遥は何も言えなかった。

「それから誰も」と坂本は言った。「真子の話を、茶化さなくなった。いるとか、いないとかじゃなくて。触れちゃいけないものになったんだ」

喫茶店の外を、自転車が通り過ぎた。チェーンの軋む音がした。それが遠ざかると、また静かになった。

カウンターの中で、マスターがカップを置く音がした。
――――――
坂本と別れたあと、遥は一人で歩いた。

商店街のアーケードの下を通った。八百屋の前を通ると、土の匂いがした。根菜類が積まれていた。人参、蓮根、牛蒡。ごつごつした、重たい質感のものばかり。

真子が筑前煮を作った、と光一は言っていた。

遥はその野菜を見ながら、また考えた。

仮に真子がいないとして、弁当を作る手がある。電話の向こうに声がある。

いないはずの人間が、あまりにも多くの痕跡を残している。

アーケードを抜けると、夜風が来た。少し湿った、夜の匂いだった。魚屋の閉まったシャッターの前に、海の名残りのような匂いが漂っていた。

遥はコートの襟を立てた。

確かめるしかない、と思った。

人間は、消えない。

消えているように見えるとき、そこには必ず、消えなければならない理由がある。
――――――
マンションに帰ると、部屋の空気が冷えていた。

暖房をつけた。しばらくは、機械的な温風の匂いがした。埃が熱されるような、乾いた匂い。

遥はコートを脱がないまま、鏡の前を通り過ぎた。

通り過ぎてから、少しだけ立ち止まった。

振り返らなかった。

そのままソファに座って、ノートを開いた。

今日調べたことを書き足す。ボールペンの先が走る音だけが、部屋に響いた。

書きながら、ふと思った。

記録がない人間を探している。

でも、記録を消したくなるのは、どんな人間なのか。

存在を消したい人間か。

あるいは、存在を消さなければならなかった人間か。

ボールペンが止まった。

暖房が、ようやく部屋を温め始めていた。
――――――
その夜、遥のスマートフォンに、知らない番号から着信があった。

出ると、無言だった。

雑音もない。ただ、誰かが電話口にいる気配だけがあった。

十秒ほど待って、遥は言った。

「もしもし」

返事はなかった。

代わりに、かすかな音がした。

息遣いではない。もっと遠い音。

部屋の中にいる誰かが立てる、衣擦れの音に似ていた。

遥は通話を切った。

画面を見つめた。非通知だった。

部屋の中が、急に静かに感じられた。換気扇の音。冷蔵庫のモーター音。暖房の低い音。自分の呼吸の音。

遥は立ち上がり、玄関の鍵を確認した。

閉まっていた。

でも、もう一度確認した。

鍵に触れた指先が、少しだけ冷たかった。

第四章 気配

次の着信は、三日後だった。

夜の十一時過ぎ。遥がちょうどシャワーから出たところだった。スマートフォンの画面が光っていた。非通知。

遥は濡れた髪のまま、画面を見つめた。

出た。

また無言だった。

今度は少し長かった。遥は何も言わずに待った。耳を澄ませた。

かすかに、音がした。

風の音だった。屋外にいる誰かが、電話を持っている。そう感じた。

それだけで、遥の背中に冷たいものが走った。

通話を切って、カーテンを閉めた。閉めてから、なぜ閉めたのかを考えた。

誰かが外にいると思ったからだ。

自分の部屋は四階だった。見えるはずがない。それでも、カーテンを開ける気にはなれなかった。

浴室から、シャンプーの甘い匂いがまだ漂っていた。濡れた髪が首に貼りついた。遥はそれを、タオルで押さえた。手が、少し震えていた。
――――――
翌朝、通勤路に違和感があった。

いつもと同じ道を歩いていた。駅まで徒歩八分。コンビニの前を通り、交差点を渡り、高架下をくぐる。毎日同じ順番で、同じ景色を通り過ぎる。

高架下に差し掛かったとき、後ろに気配を感じた。

足音が、自分と同じリズムで聞こえた。

遥は立ち止まった。

後ろの足音も、一拍遅れて止まった。

振り返った。

高架下の薄暗い空間に、人影があった。若い女性だった。俯いていて、顔は見えなかった。スマートフォンを見ているようだった。

遥はもう一度歩き始めた。

足音が、また続いた。

改札を抜けるまで、その足音は消えなかった。改札を抜けて振り返ると、女性はいなかった。

遥はホームに立ちながら、自分に言い聞かせた。

たまたまだ。同じ方向に歩いていただけだ。

電車が来た。ドアが開く音がした。乗り込みながら、遥はもう一度改札の方を見た。

誰もいなかった。

車内は朝の匂いがした。コーヒーと、温まったコートと、誰かの整髪料。重なって、少し息苦しかった。
――――――
その週の木曜日、遥は仕事から帰ると、玄関のドアに異変を感じた。

ドアノブに、何かが引っかかっていた。

細く折りたたんだ紙だった。

遥は周囲を確認してから、紙を取った。広げた。

手書きの文字だった。

丁寧な、静かな字で、こう書いてあった。

    光一に近づかないで。

それだけだった。

遥は紙を持ったまま、しばらく立っていた。

廊下の蛍光灯が、一定のリズムで微かに揺れていた。どこかの部屋からテレビの音がした。笑い声が混じっていた。

心臓が速くなっていた。でも、それと同時に、別の感覚があった。

この字を、どこかで見たような気がする。

遥はその感覚を、すぐに打ち消した。

気のせいだ、と思った。

冷たい空気が、ドアの隙間から入ってきた。
――――――
部屋に入って鍵をかけた。チェーンもかけた。

紙をテーブルの上に置いて、眺めた。

丁寧な字だった。怒りよりも、静けさを感じさせる字だった。それがかえって、不気味だった。

遥はスマートフォンを取り出した。警察に連絡すべきか、と考えた。でも、何を言う。紙が一枚あるだけだ。証拠にもならない。

しばらく考えて、写真を撮った。記録だけしておく。

それからソファに座って、天井を見た。

光一に近づかないで。

書いたのは、真子だろうか。

真子が存在するとすれば、こういう行動を取る人間だということになる。住所を調べ、通勤路を把握し、無言電話をかけ、手紙を残す。

それは、どういう人間なのか。

光一を守ろうとしている人間だ、と遥は思った。

でも、それだけではなかった。

坂本から聞いた話が、頭に浮かんだ。学生時代にも一度、同じようなことがあったと。あのときも、真子の話を茶化した誰かに、光一は手を上げた。

二度。まったく同じ引き金で、まったく同じことを。

意図してやっているわけではないのだろう、と遥は思った。でも、それがかえって怖かった。意図していないのに、繰り返している。

同じ構造だ、と遥は思った。

でも、光一が自分でこれをやるだろうか。あの温厚な、過不足のない男が。

わからなかった。

台所へ行って、やかんに水を入れた。火をつけると、低い音がした。水が温まるにつれて、音が少しずつ高くなっていく。遥はその音を聞きながら、立ったままでいた。

お湯が沸いた。

遥はカップに注いだ。湯気が立ち上った。両手で包むと、熱かった。でも、離さなかった。
――――――
翌週の月曜日、遥は出社すると光一のデスクを見た。

光一はいつも通りだった。早めに来て、コーヒーを淹れて、静かに仕事を始めている。

何も変わっていない。

遥は自分のデスクに座った。パソコンを立ち上げながら、光一の横顔を見た。

普通だった。

あまりにも普通だった。

それが、遥にはどうしても引っかかった。

光一はキーボードを打ちながら、独り言のように言った。

「真子、風邪よくなったみたいで」

田辺が「よかった」と返した。

「心配してたんでしょ」

「まあね」

光一は短く笑った。それだけだった。

遥はその横顔を見ながら、手紙の字を思い出した。

丁寧な、静かな字。

光一の字を、見たことがない。

見たことがないのに、なぜあの字が引っかかるのか、遥には説明できなかった。
――――――
昼休み、遥は一人で近くの公園のベンチに座った。

コンビニで買ったおにぎりを食べながら、スマートフォンを見た。

あの夜撮った、紙の写真を開いた。

光一に近づかないで。

丁寧な字。静かな怒り。

遥はおにぎりを一口食べた。海苔の、磯の匂いがした。風が来て、落ち葉が足元を転がった。乾いた、軽い音がした。

もし光一がやっているとしたら、彼は何を守ろうとしているのか。

真子を、だろうか。

でも真子の存在は確認できない。存在しない誰かを守るために、こんなことをするだろうか。

遥は空を見た。雲が速く流れていた。

存在しない誰かを守る。

そう考えたとき、ふと思った。

守る対象が存在しなくても、守るという行為は存在できる。

光一にとって、真子が実在するかどうかは、関係ないのかもしれない。

光一の中で、真子は確かにいる。

それだけで、十分なのかもしれない。

おにぎりを包んでいたセロファンが、風に揺れた。遥はそれを握りしめた。

ふと、もう一つの考えが来た。

守る対象が存在しなくても守れるなら。

自分を守るために、存在しない誰かを作ることも、できる。

その考えが、どこから来たのか、遥にはわからなかった。

セロファンを、ゴミ袋に押し込んだ。
――――――
その日の夜。

遥がマンションに帰ると、エントランスに人影があった。

若い女性だった。

フードを被っていて、顔が見えなかった。遥に気づくと、すっと身を翻して外に出ていった。

遥は立ち止まった。

追いかけようとして、足が止まった。

外は暗かった。人気がなかった。

遥は追わなかった。

エレベーターに乗って、四階のボタンを押した。ドアが閉まる音がした。鏡張りのエレベーターの中で、遥は自分の顔と向き合った。

疲れていた。

でも、それより先に、何か別のものが顔に出ていた。

うまく名前がつけられなかった。

ドアが開いた。

廊下は静かだった。

自分の部屋のドアの前まで来て、遥は立ち止まった。

ドアノブに、また紙が挟まっていた。

今度は、すぐに手が伸びなかった。

しばらく、ただそれを見つめた。

廊下の蛍光灯が、また微かに揺れていた。

遥の耳に、自分の心臓の音だけが聞こえた。

それから、ゆっくりと手を伸ばした。

紙を開いた。

また同じ字だった。

    まだ調べているの。

    やめて。


第五章 彼女に会った

二枚目の紙には、ドアノブから取り外したときに気づいた。

まだ調べているの。やめて。

表にそう書かれていた。その裏側に、細かい字で。

住所と喫茶店の名前、そして日時。毎週木曜日の午後六時、と書いてあった。来い、とは書いていない。でも来い、という意味だと遥にはわかった。

遥はその紙を、テーブルの上に置いた。

二枚を、並べて見た。

「やめて」と書かれた紙の字は、見慣れていた。これまで届いた手紙と、同じ字だった。丁寧で、迷いのない字。

でも、住所の字は違った。

少し急いで書いたような、角のある字だった。

同じ人が書いたとは、思えなかった。

遥はしばらく、それを見つめた。それから写真を撮って、ノートに日付を書いた。手が、少し冷たかった。
――――――
指定の場所へ行ったのは、受け取った翌日の夕方だった。

電車を乗り継いで三十分。降りた駅は小さかった。改札を出ると、すぐに住宅街だった。アスファルトの隙間から雑草が伸びていた。電柱の黄色い街灯が、まだ点くには早い時間から灯っていた。

どこかの家から夕飯の匂いがした。

醤油と、何か甘いものを煮る匂いが混ざって、路地に漂っていた。玉ねぎを炒める匂いも混じっていた。生活の匂いだった。誰かがここで、今夜も食事を作っている。

番地の先に、小さな喫茶店があった。

看板に店名はなかった。ドアのガラスに、手書きで「OPEN」とだけ書かれた札が下がっていた。

遥は一度立ち止まった。

深呼吸をした。夕方の空気は冷たく、かすかに湿っていた。落ち葉が足元で鳴った。乾いた、軽い音だった。

ドアを開けた。
――――――
ベルが鳴った。古い、金属の音だった。

店内は狭かった。テーブルが四つ。カウンターが六席。天井が低く、木の梁が横に走っていた。長く使い込まれた木の匂いがした。

コーヒーの匂いがした。深煎りの、少し焦げた匂いだった。それにミルクの温かい匂いが混ざっていた。カウンターの奥で、何かが低くぐつぐつと煮える音がした。

客は他にいなかった。

奥のテーブルに、女性が座っていた。

三十代前半に見えた。髪は耳の下で切り揃えられていた。服は地味だった。主張のない色の、シンプルなニット。テーブルの上にカップが一つあった。湯気が細く立ち上っていた。

女性は遥に気づくと、立ち上がりも微笑みもせず、ただ目を向けた。

その目が、遥の足を一瞬だけ止めた。

冷たいわけではない。でも、温かくもなかった。値踏みでもない。ただ、見ていた。値段も感情も乗せずに、ただ見ていた。

遥は向かいの椅子を引いた。木の足が床を擦る音がした。
――――――
注文を聞きに来た店主に、遥はコーヒーを頼んだ。

女性は何も頼まなかった。カップの中身はまだあった。

二人の間に、しばらく沈黙があった。

店内のぐつぐつという音が、低く続いていた。

遥は待った。

女性が先に口を開いた。

「来たんですね」

声は低かった。落ち着いていた。怒りも、警戒も、表面には出ていなかった。

ただ、静かだった。静かすぎた。

「来ました」と遥は言った。「真子さんですか」

女性は少し間を置いた。

否定しなかった。

肯定もしなかった。

ただカップを両手で包んで、遥を見た。

「光一のことが好きなんですか」と女性は言った。

「はい」

「諦めたほうがいい」

声に感情はなかった。脅しでもなかった。ただ、事実を言うような言い方だった。それが、脅しより怖かった。

遥はコーヒーが運ばれてくるのを待った。カップが置かれる音がした。深煎りの湯気が、顔の前に立ち上った。苦い匂いが鼻に来た。

「なぜですか」と遥は聞いた。

「光一には、私がいるから」

遥はカップを持った。一口飲んだ。苦かった。後味に、かすかな酸味があった。

「あなたは」と遥は言った。「光一さんの、何ですか」

女性はカップを持ち上げた。一口飲んだ。それから、テーブルの一点を見た。

答えなかった。

窓の外で、風が来た。電線が微かに鳴った。街灯が一つ、点滅してから安定した。
――――――
沈黙が続いた。

遥は女性を見た。

横顔が、街灯の光で薄く照らされていた。整った顔だった。でも、どこか疲れているような、長い時間をかけてすり減ったような、そんな顔だった。

この人は、と遥は思った。

この人は、怖い人なのか、それとも。

判断できなかった。

無言電話をかけた人間が、今こうして向かいに座っている。でもその顔には、敵意がなかった。怒りもなかった。

あるのは、ただ静けさだけだった。

その静けさが、かえって遥を緊張させた。

遥は思い切って聞いた。

「付き合っているんですよね」

女性は横顔のまま、少し笑った。

口元だけの、小さな笑いだった。

否定しなかった。

肯定もしなかった。

窓の外で、自転車が通り過ぎた。タイヤが濡れたアスファルトを擦る音がした。それが遠ざかると、また店内の静けさが戻った。

「光一は」と女性は言った。「昔から、そういう人なんです」

「そういう人」

「大切なものを、大切にしすぎる人」

遥はその言葉を、すぐには理解できなかった。

大切にしすぎる。

それは褒め言葉のように聞こえたが、女性の声は褒めているような温度ではなかった。もっと遠い場所から、長年かけて出した結論を述べるような声だった。
――――――
コーヒーが半分になったころ、遥は気づいたことがあった。

この女性は、一度も光一の話をするとき「彼氏」と言っていない。

「光一」と呼ぶ。名前だけで呼ぶ。

それは親しい証拠にも見えるし、別の何かにも見える。

遥はさりげなく聞いた。

「光一さんとは、長いんですよね」

「長い」と女性は言った。「長すぎるくらい」

「恋人として?」

女性はカップを置いた。

陶器がテーブルに触れる、小さな音がした。

それから女性は遥を見た。まっすぐに。

「あなたは」と女性は言った。「なぜそう思うんですか」

遥は言葉に詰まった。

「光一さんが、そう言っていたから」

「光一が」女性は少し首を傾けた。「そう言いましたか」

遥は思い返した。

俺には真子がいる。

確かにそう言った。でも、恋人とは言っただろうか。

記憶を辿った。

言っていなかった。

遥は気づいたことを、表情に出さないようにした。でも、指先が少し冷たくなった。コーヒーカップを持ち直した。温かかった。その温度に、少しだけ助けられた。
――――――
女性はそのあと、ほとんど何も語らなかった。

遥が何かを聞くたびに、少し間を置いて、短く答えた。あるいは、答えなかった。

遥が「嫌がらせをしたのはあなたですか」と聞いたとき、女性は初めて、遥から目を逸らした。

窓の外を見た。

雨が降り始めていた。細い、静かな雨だった。街灯の光の中を、雨粒が斜めに落ちていった。

「帰ったほうがいい」と女性は言った。「雨になった」

「答えてください」

「帰ったほうがいい」

女性は繰り返した。同じ声で、同じ温度で。

遥はカップを置いた。

立ち上がろうとして、止まった。

「最後に一つだけ」と遥は言った。

女性は窓の外を見たまま、待った。

「あなたは、光一さんを愛しているんですか」

長い沈黙があった。

店内のぐつぐつという音だけが、低く続いていた。

女性はゆっくりと遥を見た。

「愛している、という言葉が正しいかどうか」と女性は言った。「私にはわからない」

「なぜ」

「長すぎて」と女性は言った。「その言葉が合うのかどうか、もうわからなくなった」
――――――
店を出たのは、一時間後だった。

女性はまだ店の中にいた。

遥は傘を持っていなかった。細い雨が、頭に落ちてきた。

遥はテーブルを振り返った。

ガラス越しに、女性の横顔が見えた。カップを両手で包んで、窓の外を見ていた。

何を見ているのか、遥にはわからなかった。

外に向いているようで、もっと遠い場所を見ているような気がした。

遥は歩き始めた。

住宅街の路地に、醤油の匂いはまだ残っていた。誰かの夕飯が、まだ終わっていない。

街灯の下に、落ち葉が積もっていた。雨に濡れて、重たくなっていた。

遥は歩きながら、さっきの言葉を繰り返した。

なぜそう思うんですか。

思い込んでいた、と遥は思った。

でも同時に、別の問いが生まれていた。

あの女性は、何者なのか。

あの住所を書いたのは、誰なのか。なぜ、あの人はそこで待っていたのか。なぜ「恋人」と答えなかった。

そして、嫌がらせの問いから、なぜ目を逸らした。

雨が少し強くなった。

遥はコートの前を合わせた。

答えより先に、また新しい謎が積み重なっていた。

ふと、遥は立ち止まった。

さっきの喫茶店を、もう一度振り返った。

ガラスの向こうに、女性の姿はもうなかった。

いつの間にか、いなくなっていた。

遥はしばらく、その空席を見つめた。

カップの輪染みだけが、テーブルに残っていた。

第六章 似ている字

月曜日の朝、遥は少し早く出社した。

光一より早く来たかった。

自分のデスクに座って、パソコンを立ち上げながら、オフィスの入口を見ていた。蛍光灯の白い光が、まだ人の来ていないデスクを均等に照らしていた。給湯室からコーヒーメーカーの低いモーター音が聞こえた。誰かがもっと早く来て、スイッチを入れていった。

コーヒーの匂いが、廊下まで漂ってきた。

いつもは好きな匂いだった。

今朝は、少し息苦しかった。

七時五十分。

エレベーターの音がして、光一が来た。

いつも通りだった。鞄をデスクに置いて、給湯室へ向かう。少しして、コーヒーカップを持って戻ってくる。椅子を引いて座る。パソコンを立ち上げる。

その一連の動作を、遥は横目で追った。

何も変わっていない。

遥は自分のカップを両手で包んだ。温かかった。

この人が、と思った。

この人が、あの紙を書いたのか。

信じられなかった。でも、否定もできなかった。
――――――
午前中、遥は仕事をしながら光一を観察した。

光一は淡々と仕事をしていた。電話を取り、書類を捌き、後輩の質問に短く答えた。声のトーンは一定だった。表情も、ほとんど変わらなかった。

十時過ぎ、光一は席を立った。

トイレだろうと思った。でも少し時間が経っても戻らなかった。

遥はさりげなく席を立った。給湯室に向かうふりをして、廊下を見た。

光一は廊下の奥、非常口の近くに立っていた。スマートフォンを耳に当てていた。

遥は給湯室に入って、お湯を出した。蛇口から水が流れる音がした。やかんに当たって、少し跳ねた。

光一の声は聞こえなかった。でも、電話が長かった。

お湯が沸くころ、光一が戻ってきた。給湯室の前を通り過ぎるとき、遥と目が合った。

「お疲れ様です」と光一は言った。

「お疲れ様です」

それだけだった。

光一の顔は、普通だった。

普通すぎた。

遥はお湯をカップに注いだ。湯気が上がった。手の甲に当たって、温かかった。
――――――
夕方、遥は一つのことを試した。

帰り際、光一のデスクに近づいて、書類を一枚置いた。「確認をお願いします」と言った。

光一は「ありがとう」と言って、受け取った。

その瞬間、遥は光一の手元を見た。

ボールペンを持ち直す、その指の動きを。

手紙の字を思い出した。

丁寧な、静かな字。

光一の字は、見たことがなかった。

書類への返答が戻ってきたのは、三十分後だった。

遥は受け取って、そっと広げた。

走り書きだった。ただのメモだった。

でも遥は、その字をしばらく見つめた。

似ていた。

似ている、と思った。

断言できなかった。でも、似ていた。

遥は書類をファイルに挟んだ。手が、少し震えていた。
――――――
決定的だったのは、水曜日の夜だった。

遥はその日、いつもと違う道で帰った。

スーパーに寄ろうと思って、一本隣の通りに入った。夕方の商店街で、惣菜の匂いがした。揚げたての天ぷらの、油と衣の匂い。隣の魚屋から、海と塩の匂いが混ざって流れてきた。

スーパーで牛乳と卵を買って、袋を下げて歩いた。

マンションの手前の角を曲がったとき、遥は足を止めた。

道の向こうに、人影があった。

光一だった。

マンションの方向を向いて、立っていた。スマートフォンを操作していた。

遥はとっさに、電柱の陰に体を引いた。

心臓が速くなった。息を殺した。電柱のコンクリートが、手のひらに冷たかった。

光一はしばらくそこに立っていた。スマートフォンを下ろして、マンションのエントランスを見た。それから踵を返して、来た道を戻っていった。

革靴の音が、アスファルトに響いた。

一定のリズムで、遠ざかった。

消えた。

遥は電柱の陰から出た。

光一が立っていた場所まで歩いた。

アスファルトに、靴底の跡はなかった。でも、空気がまだ少し温かい気がした。

気のせいだ、と思った。

でも、手の中の袋が重かった。牛乳と卵の重さが、現実だった。
――――――
部屋に帰って、荷物を置いた。

コートを脱がないまま、椅子に座った。

光一が、自分のマンションの前に立っていた。

たまたまかもしれない。この辺りに用事があったのかもしれない。でも、光一の家は反対方向だ。

遥は膝の上に手を置いた。

光一がやっている、と思った。

でも、すぐに揺れた。

あの人が、と思う。

あのコーヒーを淹れて、弁当を食べて、定時に「真子が風邪気味だから」と帰っていく人が。

廊下で電話をするとき、声が少しだけ柔らかくなる人が。

でも、だからこそかもしれない、と遥は思った。

あの柔らかさは、何かを守るときの柔らかさだ。

守るものがあるとき、人は穏やかになれる。そして守るものを脅かされると、別の何かが出てくる。

三年前の暴力事件。

からかわれた相手に、あの温厚な男が手を上げた。

同じだ、と遥は思った。

あのときも、今も、光一は同じことをしている。

ただ、今の光一は、それを自分がやっていると認めていない。
――――――
遥はコートを脱いで、台所に立った。

買ってきた卵でスクランブルエッグを作った。フライパンに油を引く音がした。卵を割ると、黄身が崩れた。バターを足すと、甘い匂いが台所に広がった。

ゆっくり箸で混ぜながら、半熟で火を止めた。

皿に盛って、テーブルに座った。

一口食べた。

温かかった。やわらかかった。

それだけで、少しだけ落ち着いた。

遥は箸を置いて、手の甲を見た。

利き手の、人差し指の側面。

ボールペンを長く持つと、うっすら跡がつく場所。

今日、そこが少し赤くなっていた。

遥は自分でも気づかなかった。

いつ、何を書いたのか。

思い出せなかった。

フライパンの上に、バターの焦げた匂いが残っていた。
――――――
その夜、遥のスマートフォンに、また非通知の着信があった。

今度は出なかった。

画面が光って、消えた。

遥はスクランブルエッグの皿を洗いながら、その着信を見た。

水の音が、台所に響いた。

蛇口を閉めると、静かになった。

遥は利き手を、もう一度見た。

人差し指の、赤い跡。

記憶にない跡。

窓の外で、風が来た。ガラスが微かに震えた。

遥はその音を聞きながら、台所に立ったまま、しばらく動けなかった。

第七章 約束の名前

封筒は、鞄の中に入ったままだった。

警察には、行かなかった。紙が一枚あるだけでは、証拠にならないとわかっていた。

だから、民間の鑑定機関に、自分で依頼した。その結果だった。昨日の夕方、受け取った。

開けていなかった。

開けようとするたびに、手が止まった。

なぜ止まるのか、遥にはわからなかった。ただ、開けてはいけない気がした。開けたら、何かが変わる気がした。

真子に会いに行こうと思ったのは、その夜だった。
――――――
前の喫茶店に、もう一度行った。

夕方の同じ時間に、同じ席に座った。コーヒーを注文した。深煎りの湯気が立ち上った。苦い匂いが、前回と同じだった。

封筒は、鞄の中に入れたままにした。

三十分待った。

真子は来た。

前回と同じコートを着ていた。同じ席に座った。店主が何も聞かずにカップを持ってきた。

真子はカップを両手で包んだ。湯気が、二人の間に細く立ち上った。

今日の真子は、前回より少しだけ疲れて見えた。目の下に、薄い影があった。

「また来たんですね」と真子は言った。

「聞きたいことがあって」と遥は言った。

「前回と同じ答えしか返せませんよ」

「違う質問です」

真子は遥を見た。

遥は続けた。

「光一さんは」と遥は言った。「あなたの、何ですか」

真子の目が、少し変わった。

怒りでも、驚きでもなかった。

何か、長い時間をかけて沈殿したものが、底から動いたような目だった。

店内のぐつぐつという音が、低く続いていた。

真子はカップを置いた。陶器の、小さな音がした。

「守ると、約束した人です」と真子は言った。

遥は待った。

「私が先に、約束したんです」と真子は続けた。「光一が、まだ小さいころに」
――――――
真子の話は、短かった。

饒舌ではなかった。でも、一言一言が重かった。

光一が小学生のころ、真子は同じ町に住んでいた。年齢は光一より七つ上だった。光一の家の事情を、近所だったから知っていた。親が機能していなかった。食事が満足になかった。夜、一人でいることが多かった。

真子は時々、光一に食事を作った。

特別な理由はなかった。ただ、放っておけなかった。

「光一はよく食べた」と真子は言った。「黙って、全部食べた」

遥はコーヒーを持ったまま、聞いた。

「それから、ずっと続いているんですか」

「続いています」

「なぜ」

真子は少し考えた。

考えながら、カップの縁を指でなぞった。

「光一が中学に上がるころ」と真子は言った。「私、この町を離れることになって」

真子はそこで、窓の外を見た。

街灯の光の中を、枯れ葉が一枚、ゆっくりと落ちていった。

「光一が泣いた」と真子は言った。「声を殺して。行かないでって言った」

遥は何も言えなかった。

「だから言ってしまった」と真子は言った。「ずっといるって。どこにいても、ずっといるって」

言ってしまった、という言い方だった。

約束した、ではなかった。

「その場を収めたかっただけだった」と真子は続けた。「正直に言えば、そういう気持ちもあった。でも光一にとっては、それが全部だったみたいで」

真子はカップを置いた。

「私が町を離れたあと」と真子は静かに言った。「光一が、壊れかけた」

遥は息を止めた。

「何日も食べなかったり、手紙を何十通も書いたり」真子は言葉を選ぶように話した。「雨の中、私の実家の前で待っていたこともあったと、後から聞いた」

遥は何も言えなかった。

「そのとき初めてわかった」と真子は言った。「私の言葉が、あの子を縛ってしまったことを」

しばらく、沈黙があった。

店内のぐつぐつという音だけが、低く続いていた。

「だから続けているんですか」と遥は言った。「光一さんのために」

真子は少し間を置いた。

「最初はそうだった」と真子は言った。「でも今は、わからない」

「わからない?」

「やめたいと思ったことは、何度もある」

真子の声は、初めて少しだけ揺れた。

「でもやめられない。光一のためだけじゃなくて」真子はカップを見た。「あのとき『ずっといる』と言った自分を、裏切ることになるから」

遥はその言葉を、すぐには理解できなかった。

しばらくして、わかった気がした。

真子は光一を守っているのではない。

正確には、守っているだけでもない。

昔の自分の言葉に、縛られている。

「会わないのも」と遥は言った。「同じ理由ですか」

真子は少し考えた。

「会ったら」と真子は言った。「光一の中にいる私が、壊れる気がして」

「壊れる」

「光一が支えているのは、今の私じゃない」真子は静かに言った。「子供のころに約束してくれた、変わらない私だから」

窓の外で、風が来た。電線が微かに鳴った。

「でも現実の私は」と真子は続けた。「年を取っている。疲れている。光一が思い描いているものとは、もう違う」

真子はそこで、少し笑った。

口元だけの、小さな笑いだった。

「会わない方が」と真子は言った。「私は光一の中で、綺麗なままでいられる」

遥は何も言えなかった。

「残酷ですよね」と真子は言った。自分に言うように。「でも、そういうことだと思う」

「どうして会わないんですか」と遥は言った。「もう終わらせればいいじゃないですか」

真子は遥を見た。

「終わらせたら」と真子は言った。「光一がいなくなる気がした」

「いなくなる」

「私の中から」真子はカップを持ち直した。「光一を支えていることが、もう私の一部になってしまっているから」

遥は黙った。

光一だけが縛られているのではなかった。

真子も、縛られていた。

お互いに、お互いを縛っていた。

名前のない関係が、二人をそれぞれの場所に留め続けていた。

「ひとつ、聞いてもいいですか」と遥は言った。

真子は遥を見た。

「あなたのことを、調べたんです」と遥は言った。「名前で。何度も」

「出てこなかったでしょう」

真子の言い方は、質問ではなかった。

「どこにも」と遥は言った。「学校にも、会社にも、どんな記録にも。姫奈真子という人は、いませんでした」

真子は少しだけ笑った。さっきと同じ、口元だけの笑いだった。

「いないんです」と真子は言った。「姫奈真子なんて人は」

遥は真子を見た。

「それは」と真子は言った。「光一がつけた名前だから」

店内のぐつぐつという音が、低く続いていた。

「私には、別の名前があります」と真子は続けた。「戸籍にある名前。学校で呼ばれていた名前」

「じゃあ、姫奈真子って」

「光一が、小さいころに呼んだ名前」

真子はカップに目を落とした。

「あの子は、私の本当の名前を、うまく言えなかった。何度教えても、違う音になった。あるとき、その音が『真子』になって」

真子は少し間を置いた。

「最初は、訂正しようと思いました」

「しなかったんですか」

「その名前で呼ぶときだけ」と真子は言った。「あの子が、安心した顔をしたから」

遥は何も言えなかった。

「親からも、学校からも、あの子は呼ばれていなかった。誰からも、選ばれていなかった」真子は静かに言った。「自分だけが知っている名前で呼べる人が、あの子の、たった一つの居場所だったんだと思う」

「だから」

「だから、訂正できなかった」と真子は言った。「最初は、小さな優しさのつもりだった。でも、それも約束と同じだった」

真子はカップを両手で包んだ。

「いつのまにか、降ろせなくなっていた」

遥は、しばらく動けなかった。

いないのは、真子ではなかった。

姫奈真子という、名前だった。

でも、その名前だけが、光一にとっては本物だった。
――――――
コーヒーが半分になったころ、真子が遥の手元を見た。

「それ」と真子は言った。「何ですか」

遥は鞄を見た。

封筒が、少しだけ顔を出していた。

「筆跡鑑定の結果です」と遥は言った。「手紙を書いた人を調べてもらって」

「開けていないんですか」

「開けられなくて」

真子は少し間を置いた。

「見てもいいですか」

遥は封筒を取り出した。真子に渡した。

真子は封筒を受け取って、静かに開けた。中の紙を取り出した。広げた。

店内のぐつぐつという音が、低く続いていた。

真子の目が、紙の上で止まった。

一秒。二秒。

「この名前」と真子は言った。

遥は待った。

「あなたじゃないの」

遥は真子の手の中の紙を見た。

鑑定書に書かれた名前。

宮城遥。

「違います」と遥は言った。「私じゃ——」

そこで、止まった。

利き手を見た。

人差し指の側面。ボールペンを長く持つと、跡がつく場所。

薄く、赤くなっていた。

いつから赤いのか、わからなかった。

いつ、何を書いたのか、思い出せなかった。

遥の指先が、冷たくなった。

待って、と遥は思った。

私は光一の筆跡を調べてもらったはずだ。なぜ、結果に自分の名前がある。
――――――
そのとき、遥の頭の中で、何かが動いた。

体の奥から、声が来た。

遥の声ではなかった。でも、遥の声だった。

また来たの。

遥は息を止めた。

また同じことをしようとしている。

頭の中で、雨の匂いがした。

古い雨の匂い。ずっと昔の、冷たい夜の匂い。

手紙を書いた夜の匂い。最初の手紙ではない。もっと前の。もっとずっと前の。

遥の目の前に、映像が浮かんだ。

薄暗い部屋。机の上の便箋。眼鏡のレンズ越しに見えた、自分の字。前髪が、視界に垂れていた。

好きです。返事をください。

それだけ書いた。

返事が来た。

封筒の中に、折りたたまれた一枚の紙。丁寧な、静かな字で。

俺には真子がいる。

それだけだった。

遥は、その記憶を十年以上、どこかに押し込んでいた。
――――――
「思い出しましたか」と真子が言った。

声は静かだった。責めていなかった。

遥はうなずけなかった。でも、うなずいていた。

「あのころの光一が」と真子は言った。「あなたの手紙を持って、私に電話してきたんです」

「電話を」

「ええ」

真子はカップの縁に指を添えた。

「離れてから、光一が自分から私に電話をかけてきたのは、二度だけです」

遥は顔を上げた。

「二度?」

「一度目は、あなたの手紙を受け取ったとき」

真子は静かに言った。

「そして二度目は、今回。あなたに会ってほしいと頼まれたときです」

遥は何も言えなかった。

離れたあと、光一は何十通も手紙を書いた。でも、声を聞かせてはこなかった。

その光一が、二度だけ電話をかけてきた。

どちらも、自分のことではなかった。

「この子のことが心配だって」真子はカップを見た。「自分が断ることより、断られるあなたのほうを、ずっと気にしていました」

「光一は、昔からそういう子でした」と真子は続けた。「自分のことより、人のことに、一生懸命になってしまう」

「断るときでさえ、誰かを傷つけたくなくて」

真子は少し笑った。口元だけの、小さな笑いだった。

「あの電話の声で、私は思い出したんです。ああ、この子は何も変わっていない、って」

遥は目を閉じた。

まぶたの裏に、あの返事の紙が浮かんだ。

傷つけないための、丁寧な字だった。

でも遥は傷ついた。

傷ついて、眼鏡を外した。前髪を切った。別の自分を作った。

そうしないと、生きていられなかった。
――――――
頭の中の声が、また来た。今度は、もっと近かった。

ねえ。

遥は目を開けた。

また同じ場所に来てしまったね。

声は責めていなかった。ただ、疲れていた。長い時間をかけて、疲れ切った声だった。

私はずっと止めようとしていた。手紙を書いたのも、電話をかけたのも、全部あなたを止めるためだった。

遥は唇を開いた。

「なんで」と遥は言った。声が出なかった。もう一度言った。「なんで、黙って」

言っても、あなたは聞かなかったから。いつも、そうだった。

声が、少し遠くなった。

もう守れない。

遥は、その声が消えていくのを感じた。

深いところへ。また眠るように。

店内のぐつぐつという音だけが、低く続いていた。
――――――
遥は気づくと、泣いていた。

声は出ていなかった。ただ、頬が濡れていた。

真子が、テーブルの上にハンカチを置いた。音もなく、静かに。白いハンカチだった。アイロンがかかっていた。

しばらくして、遥が口を開いた。

「じゃあ」と遥は言った。声が、まだ少し震えていた。「どうして彼女なんて呼ばせたんですか」

真子は静かに言った。

「呼ばせていないよ」

遥は顔を上げた。

「私は」と真子は言った。「一度も『彼女』なんて言っていない」

「光一も」と真子は続けた。「一度も『恋人』とは言っていない」

「そう思ったのは」真子は遥を見た。「あなた自身です」

遥は、息を吸った。

吸いながら、思い返した。光一の言葉を。最初から、全部。

俺には真子がいる。

それだけだった。ただ、それだけだった。

恋人とは、一度も言っていなかった。
――――――
遥は店を出た。

住宅街の夜道を歩きながら、スマートフォンを取り出した。

光一に、メッセージを送った。

少しだけ、話せますか。

返信は、十分後に来た。

いいよ。駅前で。
――――――
駅前のベンチに、光一は先に来ていた。

コートの襟を立てて、スマートフォンを見ていた。遥が近づくと、顔を上げた。

「寒いね」と光一は言った。

「すみません、急に」

「いや」

二人並んで、ベンチに座った。

駅前の広場に、風が来た。枯れ葉が、アスファルトの上を転がった。乾いた、軽い音がした。遠くで終電のアナウンスが流れた。

遥は正直に話した。

調べ始めたこと。真子に会ったこと。手紙の筆跡が自分のものだったこと。学生時代の記憶が戻ってきたこと。

光一は黙って聞いていた。

遥が話し終えると、しばらく沈黙があった。

街灯が、二人の足元を照らしていた。

「知ってたよ」と光一は言った。

遥は顔を上げた。

「君が調べていること」光一は前を向いたまま言った。「坂本から連絡があった。それより前から、なんとなく気づいてた」

「だから、マンションの前に」

「確認したかった」と光一は言った。「君の、様子を」

遥は何も言えなかった。

「食事に応じたのも」と光一は続けた。「同じ理由だ」

「真子さんに会えたのも」と遥は言った。「ドアノブに、住所の紙がかかっていたんです」

光一は、すぐには答えなかった。

「あれを書いたのは」と遥は言った。「あなたですか」

風が、二人の間を通り過ぎた。

「君は、いつか真子に会う気がしていた」と光一は言った。「俺の知らないところで会われるより、いいと思った」

遥は息を呑んだ。

「真子さんに、頼んだんですか」

「会ってやってほしい、とだけ」と光一は言った。「来るかどうかも、何を話すかも、真子が決めたことだ」

遥は、あの喫茶店の女性の、静かな横顔を思い出した。

光一は少し間を置いた。

「俺はね」と光一は静かに言った。「自分の心の内側に、もう誰も入ってきてほしくないんだ」

声に、怒りはなかった。責める色もなかった。

ただ、長い時間をかけて決めた言葉だった。

「だから君が調べているとわかったとき、正直に言えば怖かった。でも同時に、君の中に何かが見えた気がして」

「何かって」

「危うさ、と言ったら言いすぎかもしれないけど」光一は少し考えた。「ただの執着じゃない、もっと深いところにあるもの」

遥は黙っていた。

光一の言葉が、皮膚の下に染み込んでくる感じがした。

「そんなのだめですよ」と遥は言った。

言葉が、自分でも思っていなかった方向へ出た。

「私はずっと探していた。学生のころから。あなたの、幼いころの境遇を抱えている感じ。仕事も必要以上にしない。能力を出さない。殻の中にとどまっている感じ」

遥は続けた。自分の声が、少しずつ、自分のものではなくなっていくのがわかった。

「それが好きなんです」

「あなたが、壊れたままでいてくれたから。私と、同じ場所にいる気がしたから」

光一は、何も言わなかった。

遥は笑った。笑ったつもりだった。頬は、濡れていた。

「だから、困るんです」

声は、静かだった。

「私を置いて、あなたまで普通にならないでください」

口だけが、遥の知らない感情で動いていた。

「私より先に救われるなんて——そんなの、許せない」

言い終えてから、遥は自分の言葉に驚いた。

こんなことを、思っていたのか。

こんなことを、ずっと。

光一は何も言い返さなかった。

ただ、遥の言葉が終わるのを待っていた。

それから、静かに口を開いた。

「君の中にある、その危うさは」と光一は言った。「最初から、君を壊すためにあったものじゃない」

遥は動けなかった。

「むしろ」と光一は続けた。「君を守るために、残ったものなんだと思う」

その言葉が、遥の体の中心に落ちた。

落ちて、広がった。

視界が、ゆっくりと歪んだ。

足に力が入らなくなった。遥はそのままベンチから崩れるように、体を小さくした。アスファルトの冷たさが、膝から伝わってきた。

光一は立ち上がらなかった。

ただ、隣に座ったままでいた。

風が来た。

枯れ葉が、また転がった。

どれくらいそうしていたか、わからなかった。

遥はゆっくりと、立ち上がった。

足元が、少し頼りなかった。でも、立てた。

歩幅は小さかった。でも、その場をしっかりとあとにした。

光一は、何も言わなかった。

遥も、振り返らなかった。
――――――
翌朝、遥は出社した。

コーヒーの匂いが廊下に漂っていた。光一が給湯室でコーヒーを淹れている音がした。豆を挽く音。モーターの低い音。それが止んで、深煎りの匂いが廊下まで流れてきた。

田辺は、少し不思議そうに遥を見た。

「あれ」

「え?」

「なんか、雰囲気変わった?」

遥は、パソコンの画面から少しだけ顔を上げた。

「そうですか」

「うん。なんていうか……前は、少し張りつめてた気がするのよ」

田辺は言葉を探すように、首を傾けた。

「何かに追われてる、っていうと大げさだけど。ずっと息を詰めてるみたいな」

遥は何も言わなかった。

田辺は、ふっと笑った。

「でも今日は、少し楽そう」

「……楽、なんですかね」

「少なくとも」

田辺は遥の顔を見た。

「あなたのそんな表情、見たことなかったわ」

遥は、少しだけ目を伏せた。

良いことだったのか、悪いことだったのか。

まだ、自分でもよくわからなかった。
――――――
給湯室から、光一が戻ってきた。

カップを持っていた。湯気が細く立ち上っていた。

遥と目が合った。

「おはようございます」と光一は言った。

「おはようございます」

光一はデスクへ向かった。椅子を引いて座る。カップを置く。パソコンを立ち上げる。

いつも通りだった。何も変わっていなかった。

遥は自分のデスクに戻った。

昨夜、光一に言った言葉が、まだ耳の奥に残っていた。

私を置いて、あなたまで普通にならないでください。

自分でも知らなかった言葉だった。

自分でも知らなかった、自分の声だった。

窓の外で、風が来た。枯れ葉が一枚、ガラスに触れて、落ちていった。かすかな音がした。

遥はキーボードに手を置いた。

私がこの人を好きになった理由は、と遥は思った。

もしかしたら、この人の境遇や殻の中に自分を重ねていたからかもしれない。

でも、もっと深いところに、別の理由があった気がした。

この人を見ているつもりで、ずっと、自分の中に眠っていたものを見ていたのかもしれない。

自分を守るために存在していた、あの声を。

あの声は、もう聞こえなかった。

でも、消えたわけではない気がした。

ただ、もう必要がなくなっただけかもしれなかった。
――――――
光一がコーヒーを飲んでいた。湯気が上がって、消えた。

いつも通りの朝だった。

誰も見たことのない彼女は、ずっとここにいた。

真子では、なかった。

本当の遥を、誰も見たことがなかった。

光一も。真子も。会社の誰も。

そしてたぶん、遥自身も。

パソコンの黒い画面に、ぼんやりと自分の顔が映っていた。

エアコンの風に、前髪だけが、かすかに揺れた。

ただの、反射だった。

遥はゆっくりと、その顔から目を逸らした。

そして、仕事を始めた。

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