運命を待つ道
あらすじ
目を覚ますと、俺は見知らぬ道を歩いていた。
前にも後ろにも、うつむいた人々の列。
足は自分の意思とは関係なく、ただ同じ歩幅で進み続ける。
そこは――「運命を待つ道」。
列の先には、なぜか見覚えのある女。
そして、すべてを知っているように語りかけてくる、白いシャツの男。
歩き続けるうちに、俺の前には、
選ばなかった人生と、言えなかった言葉が浮かび上がっていく。
運命に従うのか。
それとも、自分の足で道を選ぶのか。
これは、何も選べなかった男が、
もう一度、自分の人生を選び直すまでの物語。
第一章 列
揺れていた。
水の中にいるみたいに、なにもかもがゆらゆらと揺れて、輪郭がさだまらない。ここがどこなのか、思い出せない。頭のなかに、うすい膜が一枚かかっているようだった。考えようとすると、その膜のむこうへ、するりと逃げていく。
体も、重かった。腕も、肩も、鉛を入れたみたいに、思うように動かない。ただ、足だけが動いていた。俺の意思とは関係なく、右、左、右、と、ゆっくり、ゆっくり、前へ進んでいく。列を乱さないように。一定の間隔を、けっして崩さないように。
列、と、頭のどこかが言った。
俺は、列を歩いていた。
どれくらい、そうしていただろう。少しずつ、膜がうすくなっていった。意識が、水面へ浮かびあがるように、ゆっくりと戻ってくる。まず、足音が聞こえた。自分の、それから、たくさんの足音。乾いた地面を、大勢が同じ歩幅で踏んでいく音。
なんだ、ここは。どこだ。
俺は、自分を見た。
スーツを着ていた。よく見慣れた、仕事用の紺のスーツ。足元は、革靴だった。磨いたばかりの、黒い革靴。──働きに出るときの、いつもの俺の姿だった。それなのに、どうしてここにいるのか、まるで思い出せない。
顔をあげて、まわりを見た。
人が、並んでいた。前にも、後ろにも、ずっと。老人がいて、若い女がいて、子どもみたいに小さい影もあった。作業着の男もいれば、着物の年寄りもいる。男も女も、年寄りも若者も、てんでばらばらで、なんの統一性もなかった。ただ一つ共通しているのは、みんなが同じように、うつむいて、ゆらゆらと、前へ歩いていることだった。
俺のすぐ前には、年配の男がいた。その一つ前は、俺より少し上の世代に見える男で、スラックスに白いシャツを着ていた。さらにその前は、女だった。これも仕事着のような格好で、ふらふらと、まるで眠りながら歩いているみたいに、頼りない足取りで進んでいく。
誰かに、聞かなければ、と思った。
俺は、すぐ前の男の背中に、思いきって声をかけた。
「あの──」
返事は、なかった。
「あの──」
男は、振り向きもしない。うつむいたまま、同じ歩幅で歩いていく。
「あの、すみません」
今度は、腹から声を出した。列の空気を、震わせるくらいの声で。それでも、男の足取りは、少しも変わらなかった。
だめか、と思った。ここでは、声は届かないのかもしれない。誰も、俺のことなど、聞いていないのかもしれない。──そう思って、うつむきかけた、そのときだった。
前の男が、振り返った。
いや、正確には、俺の前の、そのまた前。スラックスに白いシャツの、俺より少し年上に見える男が、首だけをこちらへ回して、俺を見た。
「どうしました?」
急に振り向かれて、俺は、少しあせった。けれど、それ以上に、反応があったことが、うれしかった。この場所で、はじめて、誰かと目が合った。
「あの、ここは、どこですか」
男は、ふしぎそうに片眉をあげた。それから、ちいさく笑った。
「ここ?」
まるで、当たり前のことを聞かれて、少しあきれたような顔だった。
「おかしなことを言う人だね。ここは──運命を待つ道だよ」
運命を、待つ、道。
その言葉の意味を、俺はうまく飲みこめなかった。運命を待つ。この、終わりの見えない列が。この、ゆらゆらと歩きつづけるだけの道が。
いやな予感が、背筋を這いあがってきた。
「えっ──俺って、死んだんですか」
口に出してから、自分でも、ぎょっとした。けれど、そうとしか思えなかった。列。うつむいた人々。運命を待つ道。──こんなもの、あの世としか、思えない。
男は、また笑った。今度は、声を出して。
「縁起の悪いことを言うね、兄さん」
そして、なんでもないことのように、こう言った。
「死んでないよ。ここは、運命を、ただ待つための道なんだ」
死んでいない。
その言葉に、俺は、ほっとしたのか、それとも──もっと得体の知れないものを感じたのか、自分でも、わからなかった。
男は、それだけ言うと、また前を向いてしまった。
俺の足は、あいかわらず、ひとりでに動いていた。右、左、右。列を乱さず、ゆっくりと。
そのずっと前で、仕事着の女が、ふらふらと歩いていた。
第二章 声
どれだけ歩いたのか、わからなかった。
この道には、時間がなかった。日が昇るわけでも、暮れるわけでもない。空はずっと、うすい灰色のままだった。ただ、足だけが進んでいく。右、左、右。俺はもう、自分が何時間そうしているのか、数えるのをやめていた。
前を歩く、あの女が、気になっていた。
仕事着のような格好をした女。ふらふらと、眠りながら歩いているみたいな頼りない足取りで、俺の少し前を進んでいる。顔は見えない。それなのに、さっきから、妙に目が離せなかった。あの後ろ姿を、どこかで見たことがある気がする。──気のせいだ、と、そのたびに打ち消した。こんな場所に、知り合いがいるわけがない。
「気になるのかい、あの人が」
すぐ前の、白いシャツの男が、また首だけこちらへ回して言った。俺の視線の先を、見抜いたような口ぶりだった。
「いや、その──なんとなく」
「まあ、誰かを気にしているうちは、まだいいのかもしれないね」
男は、前を向いたまま、ひとりごとのようにつづけた。
「この道を外れる方法も、あるには、あるんだけどね」
道を外れる。その言葉の意味を、俺は聞き返そうとした。けれど、男はもう、それきり黙ってしまった。
気づくと、白シャツの男の足取りが、ゆるんでいた。ゆっくりと、俺は列のなかで前へ出て、いつのまにか、あの女のすぐ後ろを歩いていた。
俺は、思いきって、その背中に声をかけた。
「あの、すみません」
女の肩が、びくりと動いた。ふらふらとした足取りのまま、面倒くさそうに、半分だけこちらを振り返る。
「……なに」
「ここが、どこか、知ってますか。さっきから、気になって」
「知らないわよ。そんなこと」
女は、また前を向いてしまった。取りつくしまもなかった。
「でも、あなたも、わからないまま歩いてるんでしょう。だったら、一緒に──」
「話しかけないで」
声に、とげがあった。俺のなかで、なにかが、ちりっと焦げた。
「そっちが、こっちを見るような歩き方してたから」
「見てないわよ。自意識過剰なんじゃないの」
「ああぁ──めんどくさい人だな。そうなら、そう言えばいいだろう」
言ってしまってから、しまった、と思った。けれど、遅かった。女が、勢いよく振り返った。ふらふらしていた足取りが、噓みたいに、しゃんとしていた。
「なんですって。あなたが、何も言わないじゃない」
「は?」
「いつもそう。何も言わないで、勝手に、終わらせる。──困ると、そうやって、左の眉を、触るのも。昔と、ちっとも、変わってない」
言われて、俺は、自分の指が、左の眉に、触れているのに、気づいた。あわてて、手を、下ろした。
「駅で、別れた日も、そうだった。私が、何度も、振り返ったのに。あなたは、一度も、呼び止めて、くれなかった」
駅。雨の、匂い。閉まりかけた、電車の、扉。──見たこともない、はずの断片が、頭の奥で、ちらついた。
「だいたい、お前が──」
言いかけて、俺は、口をつぐんだ。
お前。──いま、俺は、この女に、お前と言った。
女も、動きを止めていた。目を見開いて、俺を見ている。俺も、女を見ていた。ふたりして、その場に立ちつくすように、けれど足だけは、あいかわらず、列を乱さず進んでいた。
知っている。
この人を、俺は、知っている。
わかった瞬間、背筋が冷たくなった。──だけど、こんなふうに、感情をぶつけあったことなんて、一度もなかった。いつも、静かに、きれいに。何も言わず、言わないことを察しあって、納得した大人を、ふたりで演じていた。笑って、うなずいて、角の立たないように。そうやって、俺たちは──
突然、後ろで、男が大笑いした。
「ははは」
白いシャツの男だった。腹の底から、心底おかしそうに。
「お二人さん。お似合いだね」
「──何を、言ってるんですか」
俺は、思わず、その男を見た。見て、ぞくりとした。
いま、この人は、笑った。声を出して、こんなにも、楽しそうに。
「あなたは……そんな言い方を、する人じゃ、ないでしょう」
言ってから、俺は、自分の言葉に、たじろいだ。
なぜ、俺は、この男のことを、そんなふうに言ったんだろう。まるで、昔から、この人を知っているみたいに。この人が、どんな言い方をする人なのか、知っているみたいに。
この人は、もしかして──。
その先を、俺は、うまく、思い浮かべることができなかった。
第三章 もしも
あの女とは、あれきり、口をきいていない。
喧嘩のあと、女はまた前を向いた。足取りは、頼りなかったが、さっきまでとは、どこか、違って見えた。俺も、それ以上は追わなかった。追いかけて、何を言えばいいのか、わからなかった。知っている、という感覚だけが、胸の奥に、小骨のように刺さっていた。だが、それが誰なのか──名前も、いつ、どこでの記憶なのかも、思い出せないままだった。
俺は、うつむいて、歩きつづけた。
そのうちに、妙なことに気づいた。
地面を、見ていたはずだった。乾いた、灰色の道を。それなのに、いつのまにか、そこに、別のものが映っていた。水たまりに景色が映るように、道の表面に、見覚えのある風景が、ゆらいでいた。
オフィスだった。
俺の、働いていた会社の、あのフロアだった。デスクがあって、俺が座っていた。──いや、俺のはずなのに、その男は、俺とは、違った。うまくいっている、わけではなかった。何かの失敗を前に、誰かに、頭を、下げている。それでも、逃げずに、その場に、とどまっていた。席を、立たなかった。俺には、できなかったことだった。
あれは、俺だ。
あきらめなかった、俺だ。
あの日、あの案件で、俺が投げ出さずに、もう一歩ふみとどまっていたら。頭を下げて、助けを求めていたら。──たぶん、あの男のように、なっていた。道の上に映るその景色は、俺が選ばなかった、"もしも"の続きだった。
「見えるだろう」
白いシャツの男の声だった。
「この道を歩いていると、見えてくるんだ。怖がらずに、ひとつずつ、選んでいた場合の、あんたの人生がね」
道の景色が、切り替わった。
今度は、部屋だった。小さな、けれど、あたたかそうな部屋。食卓に、あの女がいた。喧嘩をした、あの女だ。笑っていた。俺も、そこにいて、笑っていた。ふたりの間で、湯気の立つ皿が並んでいた。──言い争うでもなく、黙りこむでもなく、ただ、当たり前のように、笑っていた。
胸が、締めつけられた。
「素直に生きていれば、あんたは、これを手にしていた」
男の声は、やさしかった。やさしいのが、かえって、こたえた。
「でも、あんたは、選ばなかった。選ぶのが、こわかったんだ。失うのが、こわかった。だから、何も選ばないことにした。──それも、ひとつの生き方だよ。誰も、責めやしない」
俺は、何も言えなかった。図星だったからだ。
「なあ、兄さん」
男が、ふいに、声の調子を落とした。
「もう、疲れただろう。こんな道を、いつまでも歩く必要が、あるのかね」
男は、前方の、分かれ道へ、目を向けた。
「外れる道だって、あるには、あるんだ。あそこで、ちょっと足を、横に出すだけで、いい。そうすれば、もう、歩かなくて、済む」
顔をあげると、たしかに、前方に、道が分かれている場所があった。分岐点、というのだろうか。何人かが、その手前で、うつむいたまま、どちらへ行くともなく、ただ流されるように、片方の道へ吸いこまれていった。自分では、選んでいなかった。足が、勝手に、決められた方へ運んでいくのだ。
「外れれば、どうなるんですか」
俺は、聞いた。
男は、答えなかった。ただ、笑っていた。あの、腹の底からの笑いではなく、何かを言いかけて、やめたような、笑みだった。
外れれば、歩かなくて済む。──それは、救いのようにも、聞こえた。けれど、なぜだろう。道を外れる話を聞くと、俺の足の裏には、じくじくと、いやな汗がにじんだ。まるで、体のどこかが、それを、拒んでいるみたいに。
俺は、分岐点を、見つめた。
あの女は、そのずっと前を、あいかわらず、ふらふらと歩いていた。分岐点が、近づいていた。彼女も、あそこで、どちらかへ、流されていくのだろうか。
なぜか、それだけは、見たくない、と思った。
第四章 分かれ道
分岐点は、すぐそこまで来ていた。
近づくにつれて、それが、どういう場所なのか、わかってきた。道が、二つに分かれている。片方は、これまでと同じ、灰色の一本道。もう片方は──よく見えなかった。分かれてすぐのところで、霧のようなものに、飲みこまれている。その先に何があるのか、ここからでは、うかがい知れなかった。
列は、その手前で、少しずつ、二つに割れていた。
誰も、自分では、選んでいなかった。
分岐点にさしかかると、人々は、うつむいたまま、ふっと、どちらかへ吸いこまれていく。まるで、はじめから、そちらへ行くと決まっていたみたいに。抗う者は、いなかった。抗おうとする気配すら、なかった。ただ、静かに、決められた方へ、流されていく。
俺の、すぐ前を歩いていた、年配の男が、分岐点に入った。
男は、灰色の一本道のほうへ、進んでいった。何事もなかったように。表情も、変えずに。そのまま、また、ゆらゆらと、歩きつづける列の一人になった。
次は、少し離れたところにいた、若い男だった。
その男は、霧のほうへ、吸いこまれていった。
俺は、目で、追った。
男は、霧に入ると、すっと、下へ、落ちていった。
落ちた、としか、言いようがなかった。道が、そこで、途切れているのか。それとも、霧の向こうに、崖でもあるのか。男の体は、抵抗する間もなく、下方へ消えていった。声も、あげなかった。ただ、落ちて、小さくなって、見えなくなった。
背筋が、ぞっとした。
死んだ、と思った。あれは、死だ。外れれば──いや、あちらの道へ入れば、人は、落ちて、消える。だから、この男は「外れれば歩かなくて済む」と言ったのか。歩かなくて済むというのは、つまり、そういうことだったのか。
けれど。
俺は、落ちていった男の、最後の姿を、思い返した。
落ちる、その一瞬。男の顔が、こちらを向いた。ほんの、まばたきほどの間だった。──あの顔は、こわがっていなかった。むしろ、どこか、ほどけたような、ゆるんだような。長いこと歯を食いしばっていた人間が、やっと、力を抜いたときのような。そんな顔を、していた。
死ぬ人間の、顔だろうか、あれは。
「気になるかい」
白いシャツの男が、また、口を開いた。
「あそこへ行った者が、どうなるのか」
「……死ぬ、んですか」
男は、すぐには、答えなかった。灰色の道の、ずっと先を見るような目を、していた。
「さあ、どうだろうね」
はぐらかすような、言い方だった。だが、俺は、その横顔が、いつのまにか、真顔に戻っているのに気づいた。まるで、そこだけは、嘘をつきたくない、とでもいうように。
「ひとつ、言えるのは」
男は、前を向いたまま、静かに言った。
「あそこへ行った者は、二度と、この列には、戻ってこない。それだけだ」
戻ってこない。
その言葉を、俺は、頭のなかで、転がした。死ぬ、とは、言わなかった。この男は、死ぬ、とは、言わなかった。ただ、戻ってこない、と言った。
落ちる、のではなく。──降りる、のだとしたら。
あの、ほどけたような顔は。あれは、終わってしまった顔ではなく、何かから、やっと、解き放たれた顔だったとしたら。
俺の足は、あいかわらず、勝手に、前へ進んでいた。分岐点は、もう、目の前だった。灰色の道と、霧の道。俺の足は、どちらへ、向かうつもりなのだろう。俺には、まだ、わからなかった。俺自身が、決められないのだから。
ずっと前で、あの女が、分岐点に、さしかかろうとしていた。
第五章 並んで
あの女が、分岐点に、入った。
俺は、息を、のんだ。
女は、ふらふらとした足取りのまま、霧のほうへ──あの、落ちていく道のほうへ、吸いこまれようとしていた。自分では、何も選んでいない。ただ、決められた方へ、流されていく。さっきの、若い男と、同じだった。
「おい」
声が、出た。俺の足は、列に縛られたまま、彼女のところへは、行けなかった。ただ、声だけが、届けとばかりに、飛んでいった。
「おい、そっちは──!」
女の足が、霧の縁を、踏もうとしていた。
「放っておきなよ」
白いシャツの男の、声がした。
「あの人は、もう、決めたんだ。決めたことにしたんだ。あんたが、どうこうできることじゃ、ない」
その言い方に、俺のなかで、何かが、はじけた。──だが、はじけたのは、俺だけでは、なかった。
「うるさい」
女だった。
霧の縁で、女が、足を、止めていた。止まるはずの、ない足を。うつむいていた顔を、上げていた。上げるはずの、ない顔を。
「うるさい、うるさい、うるさい!」
女は、叫んでいた。誰に、というでもなく。この道に、この列に、この場所すべてに、叩きつけるように。
「なんで、勝手に、決めるのよ。私の行き先を、なんで、あんたたちが、決めるのよ。私は──私は、まだ、こんなところで──!」
その瞬間だった。
女の足が、霧のほうではなく、灰色の道のほうへ、ぐいと、向きを変えた。決められていた道を、はずれて。自分の、足で。
俺は、目を、疑った。
できるのか。──選べるのか。この道で、自分の行き先を、変えられるのか。
「なんで」
俺は、思わず、つぶやいていた。
「なんで、あんただけ、方向を、変えられるんだ」
女は、肩で、息をしていた。自分でも、驚いているようだった。自分の足が、命令にそむいたことに。
白いシャツの男を、見た。男は、もう、何も言わなかった。ただ、じっと、女を見ていた。その目には、笑いも、揺さぶりも、なかった。何か、確かめるような、色があった。
俺は、歩きながら、必死に、考えた。
さっきの女は、何をした。──怒った。腹の底から、抑えることを、やめて、怒った。ふらふらと流されるのを、やめて、うるさい、と、叫んだ。
怒りが、彼女の足を、動かしたのだろうか。
いや。
彼女はただ、勝手に決められることを、拒んだのだ。──自分の行き先を、自分で。
いつのまにか、俺は、彼女の、すぐ隣を、歩いていた。
列の間隔が、崩れていた。俺と彼女の足が、同じ歩幅で、並んでいた。どうやって、そうなったのか、わからなかった。ただ、気づけば、俺たちは、横に、並んで、歩いていた。
しばらく、どちらも、口を、きかなかった。
「……さっきは」
先に、口を開いたのは、彼女だった。声から、とげが、抜けていた。
「怒鳴って、ごめん」
「いや」
「あんなふうに、大きな声、出したの、いつぶりだろう」
彼女は、前を向いたまま、ぽつりと言った。
「あなたには、一度も、出したこと、なかった」
俺は、何も、答えられなかった。答えの代わりに、胸の奥の小骨が、また、ちりっと、痛んだ。
「なあ」
俺は、聞いた。
「さっき、霧のほうへ、行くのが、嫌だったのか」
彼女は、少し、考えてから、首を、横に振った。
「行き先が、嫌だったんじゃ、ない」
まだ、かすかに震える、自分の足元を、見た。
「勝手に、決められるのが、嫌だったの」
その一言が、なぜか、俺の胸の、いちばん深いところに、落ちた。
俺たちは、並んで、歩いた。
なぜだろう。並んでいると、この灰色の道が、ほんの少しだけ、あたたかいものに、思えた。
第六章 見覚え
道が、暗くなってきた。
灰色だった空が、鉛の色に沈み、足元の道も、輪郭がにじんでいた。並んで歩いていた彼女の顔も、暗がりのなかで、うまく見えなくなっていく。俺は、なぜだか、また、あの重い膜が、頭のなかに戻ってくるのを感じた。歩きはじめた、あのときのように。
諦めそうに、なっていた。
彼女と並んで、ほんの少し、あたたかかった。その、あたたかさが、かえって、こわかった。どうせ、俺は、これも、手放すんだろう。仕事も、彼女も、みんな、そうやって、こわくなって、手放してきた。だったら、いっそ──と、足が、ふらりと、道の端へ、寄っていった。
「よせ」
鋭い声だった。
白いシャツの男が、俺の腕を、つかんでいた。
いつのまに、後ろから、俺の隣に来たのか。男の手は、驚くほど、強かった。俺の腕を、道の中央へ、引き戻した。
「そんな顔で、外れるんじゃ、ない」
「……あんたが、外れろって、言ったんじゃ、ないか」
「外れるのと、投げ出すのは、違う」
男は、俺の腕を、つかんだまま、言った。声が、さっきまでと、違っていた。どこか、突き放すような、よそよそしい調子は、消えていた。低く、ぶっきらぼうで、けれど、その奥に、隠しきれない、何かがあった。
「自分で、選んで、外れるならいい。だがな、こわいから逃げるのは、ここでも、また、同じことの、繰り返しだ。──お前は、それで、いいのか」
お前。
俺は、その言葉に、動きを、止めた。
この男は、いま、俺を、お前、と、呼んだ。
俺は暗がりのなかで、男の顔を、まっすぐに見た。はじめて、正面から見た。歳のわりに、白いシャツの似合う、背筋の伸びた男。目じりの、深い皺。への字に結んだ、口元。──その、口元に、俺は、目を、奪われた。
知っている。
この、への字の口を、俺は、知っている気がした。何かを言いたいのに、言えずに、ただ、黙って結んでいる、その口を。どこかで、ずっと、見てきたような──。だが、それが、誰なのか、どうしても、像を結ばなかった。頭の奥の、あの重い膜が、思い出そうとするそばから、するりと、記憶を、逃がしてしまう。
膝が、震えた。
わけも、わからず、目の奥が、熱くなった。この人を、見ていると、胸の、いちばん深いところが、疼いた。会いたかった、誰か。もっと、話したかった、誰か。とうとう、一度も、まともに、話せなかった、誰か。──その、顔の輪郭が、この男に、重なりかけて、また、ぼやけた。
「あんた……」
俺は、かすれた声で、言った。
「あんた、誰なんだ。俺は……あんたを、知ってる、気がする。さっき、笑ったろう。腹の底から、あんなふうに。あんな笑い方をする人を、俺は──」
言いながら、なぜか、胸が、詰まった。
あんなふうに、声を出して、楽しそうに、笑う。そんな人が、俺の、そばに、いた気がする。いや──いなかった、気もする。俺の、知っている、その人は、こんなふうには、笑わなかった。いつも、ただ、黙って、口を、への字に、結んでいた。何ひとつ、語り合わないまま──。
もしかして、この人は──。
その先を、俺は、どうしても、思い浮かべることが、できなかった。膜の、向こうに、その名前は、あるのに。手を、伸ばせば、届きそうなのに。届か、なかった。
「……もっと、話したかった」
気づくと、俺は、そう、つぶやいていた。誰に、言うともなく。この男にか、それとも、記憶のなかの、あの人にか、自分でも、わからないまま。
男は、しばらく、黙っていた。
やがて、ぽつり、と、言った。前を向いたまま、低い、ぶっきらぼうな声で。
「……いま、話してる、じゃないか」
俺は、言葉を、失った。
なぜだろう。その一言が、胸の、奥の奥まで、まっすぐに、届いた。まるで、ずっと、待っていた言葉みたいに。だが、なぜ、待っていたのか、それすら、俺には、思い出せなかった。
男は、それ以上、何も、言わなかった。ただ、俺の腕から、そっと、手を、離した。離した手を、行き場がないように、宙で、一度、握って、また、開いた。
その、不器用な手を、俺は、暗がりのなかで、ずっと、見ていた。どこかで、見た手だ、と、思った。どこで、見たのかは、やはり、思い出せなかった。
第七章 二人で降りる
俺は、決めた。
この道を、外れよう、と。
あの、不器用な手を、見ているうちに、腹の底が、静かに、据わっていった。逃げるためじゃ、ない。今度こそ、自分で、選ぶために。
前方に、分岐点が、見えた。灰色の道と、霧の道。
俺は、霧のほうへ、足を、向けようとした。
「じゃあ、俺、先に、降ります」
彼女に、そう言って、俺は、笑ってみせた。せいいっぱいの、笑顔で。手を、彼女のほうへ、伸ばしかけて──それから、霧の縁へ、足を、踏み出そうとした。
踏み出せ、なかった。
足が、道から、離れなかった。まるで、見えない鎖で、つながれているみたいに。俺は、もう一度、力を込めた。だめだった。足は、灰色の道の上に、貼りついたまま、びくとも、しなかった。
「……なんで」
俺は、愕然と、した。
「なんで、降りられないんだ。俺は、決めたのに。ちゃんと、自分で、選んだのに──」
彼女は、道を、外れられた。感情を、爆発させて。俺には、それが、ない、というのか。俺の気持ちなんかじゃ、この道は、外れられない、というのか。
力が、抜けていった。
やっぱり、俺には、無理なんだ。──いつもの、あの、諦めが、また、足元から、這いあがってきた。決めたつもりでも、結局、俺は、何ひとつ、選べない。そういう、人間なんだ。
「──また、それ」
彼女の声が、した。
顔を、上げると、彼女が、怒っていた。あの、分岐点のときと、同じ、まっすぐな目で。
「あんたは、いつも、そう。すぐ、諦める。ちょっと、うまくいかないと、すぐに、ぜんぶ、投げ出す」
「でも、足が──」
「一人で、だめなら」
彼女は、俺の前に、立った。
「二人で、降りれば、いいじゃない」
彼女の手が、俺の手を、握った。あたたかい、手だった。
握られた手の、温度を、俺は、知っていた。あの雨の駅で、とうとう、握れなかった手だった。
「私も、ね」
彼女は、少し、笑った。泣きそうな、笑い方だった。
「私も、一人では、自分で、選べなかったの。ずっと。……だから」
俺は、その手を、握り返した。
握った瞬間、足の裏の、あの、貼りつくような感覚が、ふっと、ゆるんだ。二人で、握りあった手のぶんだけ、道が、俺たちを、放してくれた気がした。
俺は、隣の、男を、見た。
「あんたは……あんたは、どうするんだ」
男は、灰色の道の上に、立っていた。俺たちと、同じようには、霧のほうを、見なかった。ただ、俺を、見ていた。
「俺には、もう、戻る朝が、ないから」
男は、静かに、言った。その言葉の、奥にあるものを、俺は、あえて、聞かなかった。聞いては、いけない気が、した。ただ、なぜだろう。この人を、ここに、置いていくのが、たまらなく、つらかった。その理由も、わからないまま。
「……わかった。ありがとう」
俺は、そう、言うのが、精いっぱいだった。ずっと、言えなかった言葉を、最後に、一度だけ、言えた。
それから、俺は、彼女の手を、しっかりと、握り直して、霧のほうへ、足を、踏み出した。
今度は、踏み出せた。
二人で、霧の、縁を、越えた。
体が、ふわりと、軽くなって、下へ、下へと、降りていく。落ちる、のではなかった。ゆっくりと、やさしく、どこかへ、降りていく。灰色の道が、上のほうで、どんどん、小さく、なっていった。並んで、歩いていた人々も、分岐点も、みんな、遠ざかっていく。
その、いちばん上で。
あの男が、こちらを、見下ろして、いた。
そして、口を、開いた。
俺の、名前を、呼んだ。
「直人。がんばれよ」
その、瞬間だった。
声が、降ってきたのと、同時に、頭の奥の、あの重い膜が、すうっと、晴れた。ばらばらに散らばっていた記憶が、呼ばれた名前を、芯にして、みるみる、ひとつに、つながっていく。への字の口。都合が悪くなると、そらす目。行き場のない、不器用な手。腹の底からの、笑い声。──ぜんぶ、ぜんぶ、あの人の、ものだった。
親父だ。
あの人は、親父だった。ずっと、俺の、すぐ前を、歩いていた。生きているあいだ、ろくに、呼んでもくれなかった、俺の名前を。それを、いま、あの、への字の口で、呼んでいる。
「その人の、手を──離すなよ」
俺は、上を、見上げた。
小さくなっていく、灰色の道の上で、親父が、手を、振っていた。あの、行き場のなかった、不器用な手を。いま、はじめて、まっすぐに、俺のほうへ、伸ばして。
「──親父」
やっと、そう、呼べた。
俺は、彼女の手を、握りしめた。
光が、さした。
まぶしくて、目を、閉じた。閉じたまぶたの裏で、親父の、への字の口が、ほんの少しだけ、笑ったように、見えた。
足の裏に、地面の感触が、戻ってきた。
いつものように、左の眉へ、手が、伸びかけた。
俺は、その手を、下ろした。
次の一歩を、俺は、自分で、踏み出した。
