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そうであるならば

ときどき、語源が気になる言葉がある。例えば、さようなら。

最近は、ここnoteから卒業される方が何人かいて、その方々の投稿を読むにつけ、寂しい気持ちと、いまだに毎日更新している自分に少し呆れのようなものを感じてしまう。

去っていく方は、それなりの理由があって(たんに面倒くさくなったとしても)、noteに割く時間がなくなってしまうのだと思う。

そんな投稿に「さようなら」とあった。さようならは「左様ならば」が短くなった言葉と言われている。仮に、この言葉を「そうであるならば」と解釈すると、主客がひっくり返るように感じたのだ。

「今日はもう帰ろうか」

「そうであるならば、私も帰ります」

ふだん、帰りを切り出した側が言うのが、さようならの挨拶なのだけれど、上の会話にしてみたら、実は違うのかも知れない。


僕は いくつかのSNSにアカウントがあるものの、フォローしてくださっている方々はそれぞればらつきがある。noteを離れていってしまうと、そのまま関係性が消えてしまう方も多い。

SNSは、いつ入っても、いつやめてもいい。それはその人のタイミングだし考え方によるわけで、noteにも自分では書かず、ひたすら読むだけの方もいる。

辞めるときに挨拶をするのは、関係性を見出しているからなのかも知れない。何か利益のようなものがあったから、それに対して感謝を伝えなくては、という動機からかも知れない。

そうであるならば、

辞めることを伝えられた側からも何かを言わないといけないのではないかと思う。それは、文句でも慰留でもなく。感想のような、決意表明のような。

毎日更新を始めて、もうすぐ3年になる。その間、新たにフォローしてくださる方も増えたし、ふわりと去っていった方、アカウントは残しているけれど活動されていない方、きっと多くいる。

去っていくタイミングは人それぞれだけれど、残っている人として、「左様ならば、」と言うチャンスがあるなら、読んでいただいたこと、読ませていただいたことに感謝を伝えたいし、新しい挑戦を応援したい。


noteに限らずSNSの使い方は人によって違うのはよく分かっているけれど、noteの時間は無駄だった、と言われてしまうと、きっと僕はとても寂しく感じてしまうだろう。

僕自身がnoteにかなりの時間を割いてしまっているし、誰かの投稿を読むたびに、新しい挑戦や発見ができる気がするのだ。

それまで投稿を読ませていただいたり、読んでいただいた方がいなくなるのは寂しい。

いつでも戻ってきてくださいね、と思う反面で、幸運にも戻ってきたときに、果たして自分はまだいるのだろうかという、ちょっとした不安というか疑問もある。

だから僕は、戻ってきてね、とは言わないようにしたい。


ともすると、自分のやっていることを問われているような心境にはなるものの、きちんと卒業の挨拶があることは、とてもありがたい。それを書くのも勇気がいることだし、終わりを決めるというのは、自分を認められたということだから。

そういう勇気に応えるのが、読んだ側なのだとしたら、僕はまたこれからも書いていくし、もしまた会えることがあれば、嬉しいと思う。


#ありがとう

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もつにこみ 最後まで読んでいただき、ありがとうございました! いただいたチップは、モンブラン研究費用や子どものおやつ代にします(笑)