【#疑問が学びに変わる時】浄土真宗の法話のどこがいいんだろう?から宇宙に放り投げられる話
数年前、友人から「新宗教を脱会したい」と相談された。彼がそこで楽しく活動しているとばかり思っていた私は驚いたが、1年半におよぶ彼の葛藤や、仲間の輪から離れる不安にそっと寄り添った。もともと彼らが主催する勉強会に参加していた私は、その真摯な学びの姿に深く感心していた。けれども、彼らが所属する浄土真宗系の新宗教には決して入会することはなかった。
大学で東洋哲学を専修していた私にとって、宗教はあくまで学術的視点から眺める対象であり、自らが入信するなど考えも及ばなかったからだ。客観的な目で物事を見られる人間だと、どこかで自負していた。「そんなんはいるわけないじゃん。」
友人が無事に脱会したあと、なんかもやもやしたものが私の中にあった。あんなにも真面目で、賢い人たちが心を奪われる浄土真宗の教えとは、いったいどんなものなのだろうか。「本物」の法話があるとしたら聴いてみたい。思い立ったらすぐに行動してしまう私は、さっそく「浄土真宗の法話検索」を頼りに、滋賀にあるお寺へと足を運んだ。友達の脱会でお世話になった方がお話をされるのを発見したのだ。
駅からだらだらと続く坂道を二十分ほど上った小さなお寺。ネットで検索したときには「どなたでもどうぞ」と書いてあったけど、受付の方は明らかに私を「どこから来た人なの?」という不審な目で見ていた。す、すみません、よそ者です。ものすごく緊張しながら、ご年配の方々に混じって座った。
そこで聞いた初めての法話は、分かりやすいたとえや親鸞聖人の言葉に満ちていて、理屈っぽい私の心にもすんなりと聴けた。なるほど、ふんふん、と。
しかし、最後の五分でそれはガラリと覆った。
すっきりと腑に落ちるどころか、「南無阿弥陀仏」という言葉が、まるで宇宙の彼方へぽーーーんと放り出されたかのように全くわからなくなった。あんなに平易な日本語で聞いていたはずなのに、理解の枠組みが崩れ落ちていく。
いったい、これは何なのだろう。
あまりのわからなさに、なんとしても答えが欲しくなった。
別の場所でも法話を聞き、Kindleの仏教本を読み漁り、知り合いになった先生に何度も質問をぶつけた。やがて気づいたのは、「自分が南無阿弥陀仏の何がわからないのかすら、ことばにできない」ということだけだった。
この探求の歩みは、いつしか私自身を突き動かし、わたしは得度することを選んだ。
勉強を重ねて真宗大谷派の教師資格試験に合格し、修練を受けて教師となった。たくさんのお聴聞友達(共にお念仏する人たち)にも遇ってきた。
たくさん本を読み、法話を聞いて、「なるほど、こういう教義なんだな」と分かった気になった瞬間、お聖教を開いた途端に「あれ、本当にそうか?」とまた振出しに戻る。その繰り返しだ。
「浄土真宗の法話のどこがいいんだろう」
そう思ったあの日から、私の小さな疑問は深い学びへと変わり、気づけば人生そのものを歩む道となっていた。学びでは収まらなかった。
わからなかったり、わかったような気になったりしながら、今日も私はこの途上を歩いている。

