私はわがままに生きる
【はじめに】
この話は、「私を取り戻す旅」の続きです。
もう自分から目をそらすのはやめました。
救ってもらった命を、誰かの正解のためではなく、自分のために使い始める。
それは、私が私らしく生きるための、最初の決意。
体育館の鍵を閉めると、重い金属音がやけに響いた。
子どもたちの喧騒が去ったあとの校舎はひっそりとしていて、夕闇が隅の方から忍び寄ってくる。
ほうきを壁に立てかけたまま、私は深く息をついた。
一人でいることには慣れたはずなのに、ふとした隙間に、胸の奥がざわつく。
それは、自分を誤魔化しきれなくなったときに聞こえる、小さな軋みのような音だ。
「最近、ちょっと元気ないですよね」
振り返ると、最近顔を合わす機会が増えた、私に懐いてくれている女の子のお母さんが立っていた。
「……そう見えます?」
「見えます。どこか遠くを見てるみたいに」
やわらかいけれど、逃げ場をなくすような真っ直ぐな声。
いつもなら、「そんなことないですよ」と愛想笑いでやり過ごしただろう。そうやって「波風を立てない人形」のように振る舞うのが、私の生きる術だったから。
でも今日は、その仮面がひどく重く感じられた。
「ちょっと、考えごとがあって」
彼のこと。私たちの間に流れる、沈黙という名の溝。
彼は不器用で、口下手で、私のすべてを飲み込んで守ろうとしてくれた。
けれどその優しさが、私を甘えさせ、「人間」になったはずの私を、また変化を拒む「動かない人形」に変えてしまっていたのかもしれない。
「大人って、考えごと多いですよね」
彼女はそう言って、少しだけ自嘲気味に笑った。その表情に、私は思わず本音をこぼしてしまった。
「ちゃんと話したほうがいいってわかってるのに、言えないことってありますよね。言えば何かが壊れそうで……」
言った瞬間、指先が冷たくなる。
「あります。……私、それで後悔したことあるんです」
夕方の光が、彼女の横顔を淡く縁取る。
「今じゃなくていいかな、相手のためにも今は黙っていよう、って。そうやって先延ばしにしていたら……その『今』ごと、なくなっちゃって」
風が吹き抜け、私の髪を揺らす。
“今じゃなくていい”
私は、自分を納得させるための呪文のようにその言葉を使ってきた。
かつて、壊れかけていた私を、彼は命を懸けて救ってくれた。
母親という呪縛から解き放ち、「人間」としての命をくれた。
そんな彼を、私はもう二度と困らせたくなかった。
だから、自分の歪みや、本当の欲求に蓋をしていたのかもしれない。
「変わること」は「壊れること」だと思い込んで、怖かった。
「ちゃんと話せる人がいるなら。いるうちに、話したほうがいいですよ」
彼女の言葉が、静かに私の足元に置かれる。
「後悔ってね、やらなかったことのほうが、長く、深く残るんです」
心臓が、ドクンと強く跳ねた。
私は何を守ろうとして、立ち止まっていたんだろう。
彼を思いやっているふりをして、本当は、彼がくれたこの「命」を、自分の意思で動かす勇気がなかっただけじゃないのか。
沈黙が落ちる。私は、自分の胸の奥をそっと探った。
離れて過ごしたこの時間、彼がいなくても、私はちゃんと生きていた。
寂しさはあった。けれど、それは「彼がいないと動けない人形」に戻ったからではなく、一人の人間として彼を愛おしいと思う、熱を持った感情だった。
家に戻り、縁側に腰を下ろす。
沈みゆく夕日を見ていると、幼い頃の記憶が、古い映画のように再生された。
お母さんの前で「物」のように扱われ、感情を殺していた日々。
でも、この家でおじいちゃんやおばあちゃんと過ごした時間は、私はただの「私」だった。
スイカの種を飛ばし、泥だらけになって、怒られて、それでも笑っていた。
あのとき、私は確かに人間だったのに。
変わったんじゃない。私はただ、私であることを忘れていただけだ。
私は、感情を持っていい。
彼を欲しがっていい。
寂しいと泣いていい。
完璧じゃない、生身の私を、彼に見せてもいい。
そのほうがずっと息がしやすいことに気付いた。
熱を帯びた涙が、頬を伝った。
わがままでいい。
あの頃の私が笑っていた選択を、今の私も選びたい。
私が、私を好きでいられるほうを。それだけ。
暗くなり始めた部屋で、スマホの画面を灯す。
けれど、スマホを手に取っても、指先はまだ画面の上で迷っている。
「どうして、こうなっちゃったんだろう」
彼との生活は、たしかに温かかった。
「人間」になった私は、彼に甘え、泣き、笑い、時には怒ってみせることもあった。
それは決して嘘ではなかった。あの瞬間の感情はすべて、彼が命を懸けて救い出してくれた、本物の私の声だったはずだ。
それなのに、私たちの間にはいつの間にか、透明で冷たい膜が張り始めていた。
縁側に座り、夜の匂いを吸い込みながら、私は自分の心の醜い部分をそっと覗き込む。
笑うことも、怒ることも、実は「彼が受け入れてくれる範囲内」で、無意識に計算して演じていただけだったのかもしれない。
「幸せなんだから、これくらい我慢しなきゃ」「救われたんだから、わがままを言っちゃいけない」
そうやって自分を縛ることを、私は「愛」だと勘違いしていた。
私は、彼に「汚い自分」を見せる勇気がなかっただけなんだ。自分自身を、誰よりも私が信頼していなかった。
スマホの画面が、暗闇の中で白く光っている。
泣きたい時に泣き、嫌な時は嫌だと言い、触れてほしい時はそう叫ぶ。
たとえそれで彼とぶつかったとしても、それこそが、彼が私にくれた「命」の本当の使い方だ。
彼がいなくても、私は崩れなかった。
でも、彼がいるから、私はもっと私になれる。
私はゆっくりと、メッセージを打ち込んだ。
もう、長い言い訳も、自分を飾る言葉もいらない。
「近いうちに帰ります。」
送信ボタンを押した指先は、もう震えていなか
った。
怖い。まだ、怖い。
でも、もう逃げない。
戻るんじゃない。
私は、一人の人間として、彼に会いに行く。
自分の足で、しっかりと。
(つづく)
【後書き】
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
自分の気持ちを優先することは、彼を裏切ることだと思っていました。
でも、本当は逆。
私が私を生きることが、彼が救ってくれた命への、一番の恩返しなのだと気づきました。
不器用な二人の、新しい物語を、ここからはじめていこうと思います。
