盆
「八月十日より、十日間を夏季休暇とする」
閻魔大王の発表を受け、地獄では休暇前の仕事が急ピッチで進められていた。
血の池地獄では、罪人たちが大釜の中で
浮いたり沈んだりしている。
時折、のぼせた者は釜から上がり、冷えたビールで喉を潤した。
男もその一人だった。
ベンチに腰掛け、
ジョッキを傾けていると、白髪の老人が声をかけてきた。
「やあ、久しぶりだね」
男は軽く会釈した。
「もうすぐ夏休みだな。盆にはシャバへ
帰るんだろ?」
男は残りのビールを飲み干した。
「僕は帰りません」
「へえ、そりゃ珍しい。どうしてだい?」
男は俯いた。
「……家族に合わせる顔がないんです」
老人もビールを飲み干すと、男の肩をぽんと叩いた。
「あんたはまだ若い。家族はきっと会いたがってるさ」
そう言い残し、老人は一足先に釜へ戻っていった。
「こら、そこの男! 飲み終わったなら、さっさと釜へ入れ!」
赤鬼に怒鳴られ、男も慌てて大釜へ飛び込んだ。
浮いたり、沈んだり。
「熱いぞ! そろそろ出してくれ!」
「鬼ども、火を弱めろ!」
罪人たちの叫び声が響くなか、男は一人、考えていた。
家族の顔が浮かぶ。
「……会いたい」
男は釜の底で、そっと呟いた。
そして迎えた夏休み。
閻魔大王が罪人たちを前に告げた。
「本日より十日間、皆の自由を許可する。盆を利用して人間界へ戻るもよし。
地獄の娯楽施設で過ごすもよし。ただし、期限は必ず守るように」
地獄中に歓声が上がった。
人間界へ向かう出口には、たちまち長い列ができた。
男は娯楽施設へ向かう者たちに紛れ、一人で歩き出した。
「こんなところにいたか」
振り返ると、あの老人が立っていた。
「お前さんの分も持ってきたぞ」
差し出されたのは、人間界への外出申請書だった。
「さあ、これを持って一緒に行こう」
老人は男の腕をつかみ、強引に出口へ向かった。
「僕は……やっぱり帰れません」
「まだそんなことを言ってるのか」
「僕、自分から死を選んだんです」
老人の足が止まった。
「家族を置いて、勝手に逃げた。
きっと許してくれませんよ」
老人は何も言わず、男の背中を押した。
出口は眩しい光に包まれている。
男が恐る恐る足を踏み入れると、目の前に小さな受付が現れた。
「申請書を」
案内人に言われ、男は握りしめていた紙を差し出した。
案内人はそれを見るなり、眉をひそめた。
「白紙じゃないですか。きちんと記入していただかないと困ります」
男はペンを受け取った。
名前、生前の職業、死因――。
最後に『行き先』の欄で手が止まる。
男はしばらく迷った末、そこに一言だけ書いた。
『家族』
案内人は申請書に目を通し、
大きな扉を開けた。
「あなたの場合、ご家族にすんなり会えるとは限りませんよ」
「……やはり、そうですか」
「まあ、時間はあります。気長に捜してください」
人間界へ戻った男は、懐かしい町をさまよった。
生前暮らしていた家は、すぐに見つかった。
だが、玄関の前まで来ると足が止まった。
中から家族の笑い声が聞こえてくる。
自分がいなくても、家族は暮らしている。
そのことに安心しながらも、男は少し寂しくなった。
やがて玄関が開き、一人の女性が出てきた。
妻だった。
男は思わず物陰に隠れた。
見つかるはずなどないのに、顔を合わせるのが怖かった。
妻は庭先に立ち、辺りを見回した。
「帰ってきてるなら、さっさと入りなさいよ」
男は息をのんだ。
恐る恐る妻のあとに続き、家の中へ入った。
仏壇には自分の写真が飾られている。
その前には、好物だった唐揚げと冷えた
ビールが供えられていた。
成長した娘が、写真を睨みつけた。
「お父さんのこと、まだ許してないからね」
男は俯いた。
やはり、帰ってくるべきではなかった。
踵を返そうとした、そのとき。
娘が小さな声で続けた。
「でも……会いたくないとは言ってない」
妻は黙ってビールの栓を開け、
グラスに注いだ。
「私だって許してないわよ。
何も言わずに、勝手にいなくなって」
グラスを仏壇の前へ置く。
「だから一度くらい、ちゃんと謝りに帰ってきなさい」
男は二人のそばに座った。
何度も謝った。
何度も二人の名前を呼んだ。
しかし、その声が届くことはない。
それでも妻は、誰もいないはずの場所に向かって言った。
「おかえり」
男は顔を覆い、声を殺して泣いた。
十日後。
地獄へ戻ると、出口で老人が待っていた。
「家族には会えたか?」
男は目を赤くしながら、うなずいた。
「許しては……もらえませんでした」
「そうか」
「でも、帰ってこいと言われました」
老人は満足そうに笑った。
二人は並んで血の池へ向かった。
大釜の前では、赤鬼が金棒を手に待ち構えていた。
「休暇は終わりだ! さっさと釜へ入れ!」
男は自ら大釜へ飛び込んだ。
湯は相変わらず、死ぬほど熱い。
それでも男は笑っていた。
来年もまた、帰る場所がある。
