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「これだ」と思えるものの正体

「これだ」と思う瞬間

何かをつくるとき、選ぶとき。

私たちは、たくさんの選択肢の中から、
無意識に「これだ」と思えるものを探している。

noteを書く題材を考えるとき。
絵を描くとき。
写真を撮るとき。
料理をつくるとき。
仕事で何かを決めるとき。

「こっちのほうが正しそう」
「こっちのほうが評価されそう」
「こっちのほうが効率がいい」

頭の中では、いろいろな理由を並べる。
でも、ときどき、それとは別に、

「なぜかわからないけど、こっちがいい」

と思う瞬間、ありませんか?

うまく説明できない。
まだ完成していない。
むしろ、他の案のほうが合理的と頭では思う。

それでも、「これだ」と思う。

私は、この感覚がずっと気になっていた。
評価とは少し違う。

まだ姿ははっきりしない。でも、「こっちに行けば、何かありそうだ」
という予感がある。

「これだ」と思うものの正体は、「手触り」。

手触りという言葉を選んだのは、
それが「見えるもの」だけではないから。

ものの表面を触ったとき、
私たちは硬い、柔らかい、ざらざらしている、
冷たい、といった情報を受け取る。

でも、それだけではない。

触れた瞬間に、
「これは好きだ」
「なんだかほっとする」
と感じることもある。

頭で分析するより先に、 身体のほうが反応している。
私が探していた「これだ」も、それに少し似ている気がする。


好きより前の感覚

「好き」と似てるが「手触り」は、その前にある感覚と思います。

なぜなら「好き」は、すでにあるものにも感じられる感情。
一方で、「手触り」は、 まだないものにも感じられる。

まだ存在していないものに、 伸ばした手の先に、
ほんの少しだけ触れられる感覚。

私は、建築を考えているとき、まだ図面の中にしかないのに、
「この空間はきっと気持ちいい」と信じて、実際に建物になる瞬間まで、
図面に向き合えるのは、この手触りを信じているから。

まだ文章を書き終えていないのに、 「この先を書きたい。行けそう」
と思えるとき、手触りを感じませんか?

まだ形になっていないものの先に、 何かがある気がする。
私にとっての「手触り」は、 そんな予感に近いのかもしれない。


「手触り」を探し続ける

だから空想建築を続けている。

奇抜な建物を考えたいからではない。
自分が「これだ」と思えるものが、
どんなものなのか知りたいからだ。

これは建築だけの話ではないのかもしれない。

文章を書くときも。
写真を撮るときも。
仕事をするときも。

私たちはきっと、
自分なりの「これだ」を探している。

その感覚を、もう少し丁寧に拾ってみたい。

「これだ」と思えるものには、 きっと、自分だけの手触りがある。





と、床に転がっていた、息子のスクイーズをひろって、ひらめいた。ぷに。


気持ちいいよね。もういっかい。ぷに

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