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コーラ坂①_kigi.

小高い山の上に一軒の赤い屋根の家がポツリと建っていた。その家の裏側、勝手口に接するかたちでかなり急な勾配の坂があって、それをマモリは「コーラ坂」と呼んでいた。坂の傾斜が始まるふもとに立つと、ゲンナリするような角度で視界を覆い尽くすコンクリートのかたまり。それはもはや生命に近いような巨大生物として鎮座していて、自転車や車でさえもひととき息を呑む。
どういう事情か、地面は茶色のペンキで隅々まできれいに塗りつぶされていて、滑り止めのために丸く判を押したような無数の丸模様が、まるでコーラの炭酸のように見える。そのうえコーラ坂の片側には伸び放題に伸びたオウゴンマサキが生い茂っていて、車で通過すると車体に触れる木々の葉先がパチパチと小気味良い音を立てるのであった。

マモリが赤い屋根の家に越してきて、もう12年と7ヶ月になる。
弟が生まれて2度目の夏。例年よりも早くに梅雨がきてあっという間に梅雨明けしたかと思えば、すぐそこに真夏がやってきていてずっと待っていたかのような7月の始まりだった。太平洋高気圧とチベット高気圧が重なり、ウェザーニュースでは連日熱帯夜が伝えられていたけれど、やはりその年の高気圧はなかなかに強靭だった。
気圧の変化で頭痛を起こしやすい母は高気圧でも体調不良を訴えた。そのせいか、母は弟が生まれてからずっと不機嫌で疲れているように見えたので、マモリはなるべく家族に迷惑をかけないように—つまり弟を可愛がり、夕飯は呼ばれたらすぐに飛んでいってペロリと平らげ、幼稚園から帰ると玄関で靴を丁寧に揃えさえした—。
南向きの風が強く吹きすさび、耳をつんざくような蝉時雨の中をノロノロと引越しトラックに揺られてやってきたあの日の記憶が、マモリにはいまだ鮮明に残っている。
引越し業者のお兄さんがエアコンをつけていなかったので、新居に到着するまでに汗びっしょりになった。髪が顔や首に張り付いて不快だし、襟付きシャツのボタンを一番上まで留めていたから息苦しくて泣き出したいほどだった。今考えても、幼稚園児の自分は相当に我慢強かったと思う。ただ不思議なことに、そのことにストレスや不満を抱えているというよりマモリにはそうすることがいつだって自然なことのように思えていたし、また自分なりの”呼吸の仕方”を習得しているという十分な自覚もあった。
この引越しの日も、暑苦しい車内で息が詰まりそうになりながらもふと窓の外を見るとそこは最後の難所、コーラ坂に差し掛かったところだった。

「あ。」

マモリは思わず何もかも忘れて声を漏らした。

「コーラ‥」
「え?何か言った?」

それまで押し黙っていたマモリが急に口を開いたので、母は少し驚いた様子だった。と同時に真っ赤に頬を染めた我が子の顔を見て熱中症ではないかと内心心配していた母は、普段通りのマモリの声色にひそかにホッとしたりもしていた。

「パチパチ言ってるね」
「ほんとだね。でももう少し刈り込まないと車が汚れちゃうわね」

コーラ坂の炭酸の音が弾けたおかげで、マモリはそれまでの不機嫌を忘れてもはや爽やかな気分になっていた。

シュワシュワの道をくぐるとそこが私の新しいうちなんだ!

そんなことが今やマモリの世界を照らしていた。

トラックがぶるると家の前に止まって、父に抱き抱えられて外に出た。まるで100年ぶりの土の感覚みたいだ、とマモリは思った。
足の裏で地面の感覚をじっくり味わうように足踏みしてから、すぐに家の裏手に回ってみた。もう一度コーラ坂を見てみたかった。
当時は今よりももっと枝葉があちこち無鉄砲に広がっていて、いつ地面に舞い降りたのかわからないような、太古の昔からそこにあるんじゃないかと思わせるような様々な形の葉っぱや木の枝がじっとりと地面を覆い尽くしていた。
マモリは伸び放題のオウゴンマサキをわざと体に当てて

「パチパチパチ」

と歩いて遊んだ。

「まーちゃん、そっちは暗いからお家に入ってて」

母の声が表玄関の方から聞こえたけれど、マモリはこの遊びが始まったばかりで中断する気になれず、聞こえなかったフリをして坂を登ったり下ったりしていた。
下り坂をちょっと駆けてみようと軽い気持ちで足を踏み出したとき、右足が運悪くぬかるみのような深い落ち葉の小山に突っ込んでしまい、ズルりっとそのまま後ろに転けてしまった。
音もなく、静かに転倒した割に、じんわりと膝から肘にかけて鈍い痛みが広がっていく。お気に入りの襟付きシャツは黒い土で汚れ、シャツの内側からは少し血が滲んでいる。

「お、おかあさぁーん!!」

あんなに楽しく遊んでいたのに、お友達ができたと思っていたのに。
さっきまでマモリの世界を明るく照らしていたコーラ坂が急に真っ黒の怪物みたいに見えた。そう思うとより一層、マモリの悲しみは深くなった。

文庫用の本棚を運んでいた父が飛んできて、マモリを抱き上げた。

「大丈夫か!マモリ!?」
「ママ!まーちゃん怪我してる!」

母も慌てて飛んできて、泣きじゃくるマモリと一緒に家に入った。
母の腕で抱かれている弟は、我関せずという風でマモリのシャツの汚れに見入っていた。

マモリにあてがわれた生まれて初めての自分専用の部屋は、よりによってコーラ坂を眼下にのぞむ2階の角部屋だった。
もちろん一人でここで眠ったりするようになるまで、まだあと数年かかったけれど、一人遊びの得意だったマモリはこの部屋にぬいぐるみやままごとセットを持ち込んで、ごっこ遊びをしたり、弟に絵本を読んであげたりした。

コーラ坂での転倒はマモリの身体に擦り傷をたくさん作ったけれど大事には至らず、夕方にはすっかり機嫌を取り戻していた。
引越しの疲れと暑さだるさで気がついたらおもちゃの中で眠ってしまったマモリは、その日特別な夢を見た。
この夢が、16歳になった現在でも彼女の心を大きく占めているなんて、高校の友達には恥ずかしくて話せない。
それでもこれは、マモリにとって、彼女の人生にとって、とても大切で譲れないことだった。


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