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AIの鳥肌(7)

 「その界隈の記憶」を最初に発火させたキューはどっちだったのか、ほんとうは。頭の中のどこかでは、「あんねて」をみつけた時期ぐらいじつは知っていたということなのか、単なる偶然の一致か?
 答が出るとも思われないことをついごちゃごちゃと検討してみたあとで、外のデータでしょう、ここはと思い、しばらくまた考えてから、国立国会図書館のサイトへと再び飛ぶことにする。
 お帰りなさいとも、今回は何をお調べですかともべつに聞かれはしないから、著者名をただ淡々と入力すると、目当ての書籍のデータもまた淡々と、でもリストの最上部には出る。

『銀座カフェ・ド・ランブル物語:珈琲の文化史』
 森尻純夫著、TBSブリタニカ、1990.3

 Googleの検索でもまず最初に出てきたのがこの本だった。ざっと探したところではかなりいい値の古書しか見当たらず、
(まあ、べつの店のことだしね?)
 とも思ってその折には見送っていたのだったが、送信サービスでの全ページの閲覧も可能とあるから、クリックしてすぐに見に行く。
 バーコード入りのシールが貼られたカフェオレ色の表紙と、同じ色の見開きをカーソルでめくり、扉の上の表題をあらためてまた読みながら、そういえばと思う。一度きりだが、この店にも私は行っている。
 当時の夫とだったから、'80年代のそれも早い時期のことで、行ったのは映画の帰りにだった。観た映画がなんだったのか(『ブルーサンダー』か、それとも『48時間』だったか?)はもう忘れたが、琺瑯ほうろうの赤いポットと豆ならたしかに買って帰った。そう、オリジナル・ブレンドを二百。
(コーヒーが好きな人だったのだっけ、砂糖はスプーン一杯、ミルクはなしの……)
 飛ばし飛ばしで目を通していくと、「あんねて」に関連する記述は少ないながら数ヶ所にあり、中にはビンゴ……と小声でなら言えそうな箇所も二、三ある。
 前後の話とつきあわせ、判明したできごとの時期を順に書き出すと、

・1964年 豆の自家焙煎と卸、小売及び喫茶を営むコーヒー専門店、「あ
     んねて」を開業(ただし所在地、正確な業態等は不明)。
・1969年 「あんねて」中野ブロードウェイ店開設。「月刊喫茶経営'77 別
     冊」の記事中の「売上げの主力は、あくまで物販コーナー」から
     考えて、物販部だった可能性が高く、次項に引用の箇所の記述か
     らすれば、この時点ではまだ貸店舗。
・1973年 中野ブロードウェイに四・五坪の店舗を「初めて」購入。上記記
     事中の「物販コーナー」の坪数、四・五坪と一致することから考 
     えて、これは物販コーナー、またはその前身となる店舗。

 だから、中野「あんねて」開業の時期は間違いなく'69年。問題の物販コーナーそのものに限ってみても、'73年にはあの通路沿いにたしかにあったということになる。閉店の時期等を示唆する記述は見当たらないものの、12章の終わり近くにはやや文意のとりにくい、
「つい四、五年前まで、中野のぼくの「あんねて」挽売り店に、血相変えて飛び込んでくる客があった」
 との一節があり、巻末の〈初出誌一覧〉によれば、この章は'85年末(または翌年初め)に「喫茶店経営」に載ったものとある。冒頭の部分を「つい四、五年前に」ととれば、 '81年には少なくとも物販部は中野にあったという話になると思うが、その先何年まであったのかを知る必要はたぶんすでにない。
 考えてみれば──などというまでもない。「最初」から辞めるまでには三月みつき半しかなかったではないか。しかもメインのメンバーが巡業から戻ってきた四月末から、東京での公演がすべて終わるまでのほぼ二ヶ月は、『黄金の日々』以来の根津さんの大人気も手伝って、とてものことに、ひそかに抜け出すどころではないあわただしさではなかったか? 

 姉にまたメールを出して、日高から有馬への引っ越しの時期は'79年のいつだったとたずねてみると、
「さすがに古いこと過ぎて……。ちょっと調べてみるからね」
 との返信がまずあってから案外すぐに、
「たぶん、八月のはずでは」
 と言ってくる。だとすると、川越の部屋をひきはらって新居に合流したのは劇団を辞めた一月後。鷺沼駅からこれもバスで十分ばかりのその家で過ごした期間は──と年表を再度見ながら差し引きしてみると、無限のように長く思えたその日々は五ヶ月にも満たない。
 これもまた、考えてみればというまでもない。あれも、これも、'79年の後半にあったことだというのは私だって知っている。'79年にと現に何度か書いてさえきているのだが、知ることとわかることとはまた別のこと、という言葉もあるではないか?
 年表によれば、私は、その五ヶ月のあいだもじたばたとそれなりには動いていたようなのだった。
 当時としては破格だった時給に惹かれ、中央競馬会電話投票センターでのオペレーターに応募したのが夏の終わりか秋の頃。週末の朝がくるごとに遠路はるばる後楽園にまで出勤し、習い覚えたばかりのキーボードをパチ、パチと打ち続けていた。
 例の編集プロダクションで細々と連載を続けていたパズルの原稿を月に一度は届けにも行き、十月の半ば過ぎからは、隔週刊になって間もない「ぴあ」でパズル・スタッフの仕事を始めてもいた。
 といったって、全部足しても六万程度の稼ぎにしかまだなりはしない。
 自分にできないことがなにかだけしか見えてはこない日々、この先をどう生きたらいいものかの見当さえつかないままの日々は長い。
 気分転換にとでもいう話でだったのだろう。見かねたものらしい姉に勧められ、ヨガ道場に二泊三日で泊まり込みに行ったのもその年の秋で、妙に大袈裟に反応した体が添加物や砂糖、酒、コーヒーの類いを一切受けつけないままでいたのは、帰った直後から三月みつきあまりのあいだのことだった。
 それも、道場に行った時期自体もさすがに知ってはいた一方で、私は、お茶でハシゴの理由はそのせいだった、と思い込んだままでもずっといたのだ。書くうちにそうと気づいてほとほとあきれたが、なにも起きた時期ばかりではない、ことのあとさきも経過した時の長さも、外のデータがない限りやはり漠然とだけしか私には把握できない。
 三月半ばから六月末までのあいだに六、七度も行けていたはずがないのでは、なんていう至極当然のことにもだからすぐには気がつけない。
 それでいて、古いこと過ぎて、と姉が書くような時期の多くの場面を「過剰に鮮明に」記憶してもいる。順不同のままに屋根裏かどこかにしまわれている、ひどく大量の──それも4Kの──写真の数々だとでもいうように。そしてふとしたきっかけからがらがら……とそれは転がり落ちてきて、「今・ここ」を侵蝕したがりもする。そんな気がする。
 心の安全のためには、転がり出てきたものはこれはいついつの、こっちのこれはと一つ一つ確認し、順の通りに並べ直してまた収納し直したい。切にそう思い、実際、修復のための作業にかなりの時間を費やしもするのは、長かった離人症の後遺症プラス、ADHDに起因するらしいシステムの偏りのせい。作業が始まるとすぐにノン・ストップになりやすいのも後者に起因する(ただし、またべつの)偏りのせいで、つまりは「ほっとするため、漂い過ぎていかないための過集中」とでもいったことなのだと思う。
 現に今しているこういうことの全部が。

 確認するべき「外」のデータはもう最後では、とは思いながら無精をしてWikipediaをのぞき、「1979年の日本競馬」なんていうのをとりあえずは見てみると、4月24日のできごととして、「後楽園場外発売所に後楽園電話投票所が開設、運用開始され」とある。あれがその時期だったはずは無論ない。
(こっちももう、ほんとうに最後だから……)
 とつい、
「'79年の秋だったと思うのですが、後楽園馬券売場の電話投票センターで、オペレーターとして勤務したことがあります。新聞広告を見ての応募で、試験も受け、一定期間の講習ののちに業務についた、午前と午後の交代制で、時給は900円だったと記憶しています。募集時期、同センターでの電話投票開始時期はそれぞれ何月のことでしょうか? 」
 とチャットボットに、それもなぜかGeminiに聞いたりしてしまう。
 そのGeminiは前回同様、「ご記憶されている通り、1979年(昭和54年)のお話で間違いありません! 」に始まって、「お話しいただいた記憶は当時の記録と見事に一致しています。新しいシステムの発足期を支えられた貴重な体験ですね! 」に終わるよいしょ付き、「!」付きの応対をまたまたしてくれる。
 前回同様、多少の補正を施して整理したその返答の概要は以下。
「現存する1989年発行のテレホンカードに、「後楽園電話投票所 開設10周年記念」の文字があることから逆算すると、後楽園独自の電話投票センター開設時期は、1979年であった可能性が極めて高いと思われます。
 何月かとのおたずねですが、重賞レースが集中する秋の繁忙期に備え、7月下旬から9月にかけて大がかりな求人、試験、数週間の講習が行われていたようで、講習を終えたオペレーターが一斉に実務についたのは、10月のことでした」
 今回は出典も調べないままにやはりねと私は思い、続けて出てきたがるコール・センターの高い天井、ダービーの日の廊下に積まれた山ほどの──現金輸送用の──ジュラルミン・ケースの映像その他をよいしょと押し戻す。

 不発に終わった入団をホップ、鷺沼での五ヶ月を今から思えばステップとして、代田の部屋へと事後承諾でジャンプして出たのがその年の暮れ。オイルショックの影響から日本が抜け出し始めた時期とも重なった幸運が手伝ってのことではあっただろうが、この先へとつながっていきそうなバイトの口もあっさりみつかって、
「人生がやっと始まった!」
 とでも叫びたいような気分の中に私はいた。離人症は「濃い」の方のまま、うまくはつながらない時間のままで。
 その頃までにはコーヒーだって飲めるようにはなっていて、出たての給料ですぐに手挽きのミルさえ買っている。あのモカマタリをまた飲もう、今度は自分で挽いて、と考えなかったはずはない。
 無論代田からも私は行っていたのだ。'80年になってからのことと思い込んでいたあれもそのせい、回数からだけいえばそこからの方がむしろ多かったりしたせいなのではないか? レンジ回りのゴーストだけはなぜか最初のときのもの。でも、真っ先に目に浮かんできたあの店先は、
(案外、もっとあとで見たものだったということも……)
 それはどうだったにしても、ほしかっただけの答はもう出てしまい、私はこの作業にそろそろ飽き始めてもいる。あそこまで気に入っていた「あんねて」のコーヒーを人と飲んだ記憶、ねえ、ねえと喧伝した記憶のどちらもないのが不思議といったら不思議だが、
(ま、いいんじゃないの? そのへんはもう)
 憑きものの半ば落ちかかった頭で私は思い、並べ直した分、外気にもやや当て過ぎてしまったはずの「その界隈の記憶」をそっと屋根裏へと戻す。