悲観は気分、楽観は意思
「悲観主義は気分によるものであり、楽観主義は意思によるものである。気分にまかせて生きている人はみんな、悲しみにとらわれる。いや、それだけではすまない。やがていらだち、怒り出す。」
この「悲観は気分、楽観は意思」という言葉を初めて見つけた時、「やっぱりそうだったのか!」と目の前が開けた気がした。私は幼い頃から、理由もなく悲しくなって泣きだす子どもで、その上、カンに障るタイプの泣き虫だったのだろう。慰められるより「泣くな!」と叱られることの方が多かった。悲しくなる出来事なんて何も起きてないはずのに、急に泣き出しいつまでもヒンヒンメソメソしていたら、そりゃあ鬱陶しいだろう。親が怒る気持ちもわからなくはない。しかし、悲しくなる理由が自分でもわからないのに、未熟な幼児がコントロールできるわけがない。
なぜ私はすぐ悲しくなるのか、みんなは悲しさに引っ張られないのか?ずっと考えているうちに、「私だけ、どこかおかしいのだ」という固定概念が出来上がった。
けれど、生物のセンサーは不安、恐怖といった悲観により強く反応するものらしい。幼児期は特に「見捨てられ不安」に敏感になりがちだ。私は弟ができて以来、特に「見捨てられる」ことが怖かった。
私は父方の一族の初孫だったのだが、女児であったため、父も祖父も生まれた私の顔を見たのは母の退院後だったと聞く。喜ばれない初産の後、孤独に産院で泣いて過ごした母は不憫だ。家格も資産もない単なる貧乏一族なのに、なぜか父も祖父も、「跡取り男児」を熱望しており、弟は実質的初孫として大歓迎ムードの中すくすく育った。
母はマイナススタートした私を、なんとか認めさせようと思ったのだろう。「なんでもできる子」に仕立て上げようと必死だった。それが私のためでもあると思っていたのだろう。「三輪車に乗る」などという、本当にどうでもいいことでも特訓させられた。字を読むのも書くのも三歳で覚えたが、今度は「書く字が汚い」と散々言われたりもした。当たり前だ。手先の器用さが育つ前に字を覚えてしまったものだから、未発達な微細運動が変な癖字を書かせていたのだろう。本当にどうでもいいコンプレックスを植え付けられたものだと思う。
その後の私は「できないこと」に過剰に反応するようになった。社会で生きていくための能力は満遍なく備わっているのに、ひとつでも苦手なことがあると自分を責める。外向きの自分をいかに完璧に仕上げるかばかり考えて、自分の本音を見つけたり育てたりすることを疎かにする。できないことばかり見てしまうため、何をしても自分に満足しない。躍起になって「できる自分」を見せたくて苦手なことにも手を出し、最悪な結果しか出せずにまたガッカリする。
そりゃあ、人生悲しいことばかりに映るだろうよ。自分で進んで悲しくなることばかりやってるんだもん。もともと持っている繊細なアンテナが他人に叱られないように、ネガティブな自分ばかりを拾う。ダメな私をなんとか潰してもっとよい私にならなくては、とダメさばかりを拾う。そもそも「できること」で満足しようという意識がない。
キツかったなあ。まじで。
「気分」という、潜在意識に刷り込まれたマイナスに任せて生きるのは、本当にしんどいことなのだ。意識してその刷り込みがつれてくる「気分」と戦わねばならない。それが「楽観は意思」という意味なのだろうと思っている。
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