日本で毎食違うメニューを調理するようになったわけ

 毎日三食のメニューを考えて調理するのはたいへんですね。そこでこんな面倒なことを引き起こした犯人を捜してみました。


日本の食卓革命
https://g.co/gemini/share/307ae6e4ee2d



江戸時代までは庶民は一汁一菜

穀物主食を大量に食べていました。

https://note.com/mototchen/n/n07857537a70f


明治・大正時代の家庭料理

カギというか種はこの時代にまかれていました。

https://gendai.media/articles/-/136010


なぜ昭和のおばあちゃんは家庭料理を伝えなかったのか

食生活の大変化が原因です。

https://chuokoron.jp/society/124990.html


現代日本の料理はたいへん

現代に家庭調理をするとたいへんです。

https://wedge.ismedia.jp/articles/-/11641


占領期からの洋食推進運動

戦前の飢饉から太平洋戦争敗戦後の食糧不足

戦前の冷夏による東北凶作

太平洋戦争の一因となった米不足

不足分の米を確保できなければ「戦ハズシテ危機」

日本が南部仏印まで軍を進めた理由は何か。

「促進に関する件」の上奏御説明もあるが、より具体的な理由を大本営陸海軍部が、「軍事上経済上政治上ノ見地ヨリ北部仏印ト共ニ南部仏印ニ速ヤカニ所要兵力ヲ進駐セシムルノ絶対必要ナル理由」(6月23日付・極秘)で整理している。

数ある理由のなか、食糧問題は「経済上ノ見地ヨリ」で、次のように言及されている。

「就中帝国食糧問題ノ中心タル米ハ其不足分九百万石ハアヘテ之ヲ仏印泰ニ依存セザルベカラズ若シ之ヲスラ確保シ得サルニ於テハ帝国ハ戦ハズシテ食糧問題ニ関シ一大国内危機ヲ招来スルニ至ルヘシ然ルニ……(以下略、太線強調は筆者)」

つまり、仏印と泰で不足分のコメを確保できなければ、国内に危機が来ると危惧していたのである。

https://toyokeizai.net/articles/-/881277

https://toyokeizai.net/articles/-/881277

占領期の食糧不足

食糧不足というと、戦中のイメージをもたれるかもしれませんが、むしろ戦後のほうが深刻であったと言われています。日中戦争期にはじまった主要物資や消費に対する統制は戦後も続き、配給切符や配給通帳を持たずに物品を購入することができませんでした。

 しかし、配給は遅配や欠配が多く

https://kitakyushu-peacemuseum.jp/2096-2/

「1946年のNHKニュースによれば、「マッカーサー司令部の厚意により、食糧危機にあえぐ日本に1000トンの小麦粉が送られてきました。突然もたらされたこの報道は、最近とかく暗い気持ちになりがちな全国民に大きな喜びと希望を与えたのでした」。アメリカからの援助がなければ、多くの日本人が餓死した。

実際には、1945年産のコメはかなりの不作だったのは事実だが農林省が予想したほどではなかったので、要望した量より少ない輸入ですんだ。これをマッカーサーからなじられた吉田は、「日本の統計がしっかりしていたら貴国と戦争なんかしなかった」と切り返した。今でも農水省の統計の精度は変わらないようだ。」

「民間団体の日本食糧協会は1952年6月「食生活改善に関する件」という意見書を出している。日本政府も、後述するコメと小麦の価格関係から小麦消費を奨励した。これは“粉食奨励”と言われた。」

https://president.jp/articles/-/102809

戦後、小麦の輸入を望んだのは日本側だった

だから日本人の「コメ離れ」が進んでいった…アメリカの"安い小麦"を全国各地の食卓に広めた黒幕の正体

https://president.jp/articles/-/102809

占領期の洋食推進運動

厚生省の栄養担当が洋食化運動推進者でした。

アメリカがキッチンカーを使って小麦の消費拡大を行ったのは1956年ころだし、コメを食べると頭が悪くなるという大学教授の本が出版されたのは1958年である。この時までに、日本政府の施策によって食生活のパターンは変化していた。

https://president.jp/articles/-/102809

米を食べるとバカになる

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%B3%E3%82%92%E9%A3%9F%E3%81%B9%E3%82%8B%E3%81%A8%E3%83%90%E3%82%AB%E3%81%AB%E3%81%AA%E3%82%8B


https://president.jp/articles/-/63618

戦後の厚生省に新設された栄養課の課長補佐となり、1953(昭和28)年に課長に昇進し、その後10年間にわたって栄養改善運動を推進した大磯俊雄氏は、著書『栄養随想』(医歯薬出版、1959年1月)において次のように述べている。

「米を食う人々の性格と麦を食う人々の性格は自ら異なるところがあって、前者の、在るから食うという考え方に対し、後者は食うから在るのだという考えを持っている。これは共にその食べ物から来る考え方であって、前者が諦観的、消極的なのに反し、後者の方が進歩的、積極的ではなかろうか?」

「小麦粉それ自体そのまま捏(こ)ねて食べたところで一向に美味しいものではない。そこで何とかうまく食う工夫はないものか? 牛乳や乳製品を副(そ)えたらどうか、肉を副食として食ったらどうか? 野菜のスープと一緒に食べたら食べられぬものかといった具合に、大いに工夫して、今日の小麦中心の食生活文化が発達してきたものである」

「(米中心の食生活は)勢い、生活は簡単、消極的となり、従って金もかからず金の要求も少ない。その結果は残念ながら、貧乏につながってくるのである。即ち、米を食うという生活は人をして消極的になり、勤労意欲を消滅し、従って貧乏となる。貧乏になれば、肉や魚や野菜を購(あがな)う力がないから、やはり廉(やす)い米ばかりをたら腹食うということになり、その結果は、必然的に睡気(ねむけ)をもよおし、思考する方向に頭脳が働かぬということになる。この因はこの果を生み、米を食う習慣は貧乏と一つの環をなして回転しているように思われる。東南アジアに住む10億の米を作り、米を食う民族は、等しくこの運命にさらされていると思う」

「この人達は、あまりにも米中心の食生活のため、そこから必然的に生まれてくる栄養欠陥を身につけて、体力は欧米の小麦食の人々に劣り、寿命は短く、乳幼児の死亡率は高く、結核やトラホームなどの慢性病、また胃の酷使による胃腸病は著しく多い。その上精神的にもねばりの強い積極性を欠き、発明、発見、工夫なども残念ながら欧米人よりも少ない」

「私どもをはじめ、東南アジアの各民族、これらはみな米を中心とした食事をする民族であるが、これらの民族が、今後地球上で西欧の民族と肩を並べて繁栄していくためには、どうしても、米とのきずなをどこかで断ち切らねばならない」

「従ってできるだけ米食を減じて、進んで小麦食を併用することに努め、自然と食生活上の栄養的工夫を身につけるよう心がけるべきだ」

戦後の日本の栄養行政の推進役であった厚生省の栄養課長が「コメはダメだ」「メシよりパンとミルクだ」と考えて栄養改善運動(=粉食奨励・牛乳普及運動)を推し進めたのである

https://web.archive.org/web/20200508131952/http://www.eps1.comlink.ne.jp/~mayus/lifestyle2/dairytruth.html

栄養改善普及運動の歩み
https://www.mhlw.go.jp/bunya/kenkou/eiyou-syokuji2/dl/03.pdf

粉食の由来

https://note.com/ojirowashi_381/n/n309311bb2564

https://web.archive.org/web/20191205071433/http://pancakesoken.com/2018/07/10/%e6%97%a5%e6%9c%ac%e4%ba%ba%e3%81%ae%e7%b2%89%e3%83%a2%e3%83%b3%e5%a5%bd%e3%81%8d%e3%81%af%e3%83%95%e3%83%a9%e3%82%a4%e3%83%91%e3%83%b3%e9%81%8b%e5%8b%95%e3%81%ae%e3%81%8a%e3%81%8b%e3%81%92%ef%bc%81/

https://web.archive.org/web/20090321160349/http://blog.new-agriculture.net:80/blog/2009/02/000788.html

「日本人の食生活近代化」というスローガンのもとに、「栄養改善普及運動」や「粉食奨励運動」が日本各地で展開されることになった。

これらはまさに、欧米型食生活を「崇拝」し、和食を「排斥」する運動だった。

キッチンカーという調理台つきのバスが二十数台も用意され、それらが分担して都市部から農村部まで日本全国津々浦々を巡回し、パン食とフライパン料理などの試食会と講演会を行った。」

「米を食うとバカになる」と洗脳された…日本人の食生活を激変させた洋食推進運動の恐ろしすぎる内容
こうして日本の食はアメリカに握られた
PRESIDENT Online
鈴木 宣弘
https://president.jp/articles/-/63618?page=3

キッチンカーの実態

https://ameblo.jp/terebi-sinnbunn/entry-10700101288.html

アメリカからの資金で購入されていたそうです。

キッチンカーは、それまでの『ご飯に味噌汁、漬物」という日本人の伝統的な食生活を欧米型に転換させる「栄養改善運動」のかなめとなった。アメリカは必ず食材に小麦と大豆を使うことを条件に全ての費用を出した

「アメリカ小麦戦略』と日本人の食生活」鈴木猛夫
https://www.amazon.co.jp/
「アメリカ小麦戦略」と日本人の食生活-鈴木-猛夫/dp/4894343231
https://smartagri-jp.com/agriculture/1329

https://fandh2.wixsite.com/fandh/12-1

キッチンカー政策はそのまま各県保健所の栄養指導車に引き継がれ昭和後期まで栄養改善業務が行われました。

資料

パン及びご飯を主食とする食事の変遷ー料理雑誌の分析をとおしてhttps://www.jstage.jst.go.jp/article/jfcj/12/0/12_45/_pdf/-char/ja


日本の食生活の変遷

きょうも料理: お料理番組と主婦葛藤の歴史
https://amzn.asia/d/fyWxhjR


アメリカの対日戦略

「アメリカ小麦戦略」と日本人の食生活〈新版〉
https://amzn.asia/d/g3TeBOj


ちなみに世界的にはごちそうに興味がない国もあります



         解説

by Gemini

https://g.co/gemini/share/6007112e22a1


占領期から昭和後期における食生活の変容:政策、技術、社会が織りなす「家庭洋食」の成立



はじめに:食生活の変容はなぜ起きたのか──本報告書の問い


本報告書は、占領期から昭和後期にかけての日本の食生活が、米を主食とする伝統的なスタイルから、パンや肉、油を多用する「家庭洋食」へと変容したプロセスを、多角的な視点から分析する。この食文化の変容は、単一の自然発生的な現象ではなく、国際的な政治・経済戦略、国内の公衆衛生政策、社会構造の変化、そして技術革新が複雑に絡み合った結果であることを主要な論点とする。以下では、敗戦後の飢餓という極限的な状況から始まり、GHQの政策、米国の市場開拓戦略、日本政府の栄養改善運動、そして高度経済成長期の技術革新がどのように相互作用し、現代の日本の食卓を形成していったかを考察する。

表1:戦後日本における食生活関連の主要政策とイベント年表

年代主要な出来事と政策関連する側面1945年終戦、GHQによる占領開始飢餓、食糧危機、GHQの政策介入1946年

学校給食の再開(GHQ/ララ委員会による支援)1

栄養改善、パン食普及1949年

ユニセフからの無償資金供与による給食普及 2

国際援助、制度拡大1952年

サンフランシスコ講和条約発効、GHQ指令(SCAPIN)の失効 3

占領終結、自立的な政策へ移行1952年

厚生省が栄養改善普及運動を開始、「粉食をもっととりましょう」を標榜 4

栄養行政、国民啓発1954年

米国でPL480法が成立 6

米国の余剰農産物処理、国際援助1954年

学校給食法が制定される 2

制度化、教育の一環化1956年

米国農務省資金による「キッチンカー」事業が開始 5

米国業界の市場開拓、調理技術普及1960年代

高度経済成長期、台所家電(冷蔵庫、炊飯器など)が普及 10

生活様式変容、調理の簡便化1976年

米飯給食が学校給食制度上に明確に位置づけられる 9

米食回帰、食生活の多様化


第1部:占領下の食糧危機と「パン食」導入の政治経済学(1945年〜1950年代)



1.1 敗戦直後の「白米弊害」と食糧難


終戦直後の日本は、戦時中の食糧統制と生産力低下により深刻な飢餓状態に陥っていた。米の遅配や欠配が常態化し、さつまいもの茎や脱脂大豆、とうもろこしなどが主食の代替品として配給される状況であった(16)。GHQ(連合国軍総司令部)による独自の調査でも、成人一人あたり1,800kcalの食糧確保が課題とされ、国民の栄養状態は極めて深刻であったことが記録されている(15)。

この食生活の変容は、全く新しい思想から始まったわけではない。戦前、特に大正期には、精米された白米のみに依存する食生活が脚気病という国民病を引き起こすことが大きな問題となっていた。東京帝国大学の島薗順次郎教授は「胚芽米常用論」を唱え、ビタミン欠乏症としての脚気病の原因を科学的に証明した(18)。また、京都帝国大学の佐伯矩も「米と塩だけで生活できるか」という研究を行うなど、栄養学者たちは米偏重の食生活の危険性を指摘していた(19)。このような「白米弊害論」は、戦後の食糧難という文脈と結びつくことで、米から他の食品へ食生活をシフトさせるための政策的・思想的な土壌を準備していたのである。


1.2 GHQの食糧援助と戦略的意図


GHQは、日本の占領統治を円滑に進めるため、国民の飢餓を収拾することを最重要課題の一つとした。当初、日本政府からの食糧援助要請を却下したものの、GHQ独自の栄養調査を実施した結果、食糧配給の必要性を認め、自ら食糧供給の確保に乗り出した(15)。SCAPIN(SCAPIN-1からSCAPIN-2204まで)として発令された一連の指令は、1952年のサンフランシスコ講和条約発効まで日本の政策決定に大きな影響を与えた(3)。

米国による対日食糧援助は、単なる人道的動機に留まらない、多層的な目的を持っていた。終戦直後の米国は、日本の非軍事化と経済民主化(労働組合結成奨励、婦人解放など)を目的とした政策を進めていたが、東西冷戦が始まると、日本の西側陣営への取り込みという地政学的な戦略的意図が強く帯びるようになった(14)。さらに、米国の余剰農産物処理を目的とする法律「PL480(Food for Peace)」が1954年に施行された。この法律は、食糧不足に苦しむ国への人道支援を謳う一方で、米国の農産物市場を拡大し、余剰農産物を適切に処理するという経済的目的も明記していた(6)。日本は、このPL480プログラムの重要な受入国となり、特に小麦やトウモロコシが大量に輸入された。この事実は、食糧援助が米国の余剰農産物を日本の食卓に定着させるための「戦略的援助」であったという解釈を裏付ける(6)。


1.3 学校給食: 「パン食」定着の機関車


戦後間もない1946年12月、GHQとララ委員会から寄贈された小麦粉や脱脂粉乳により、小学校での学校給食が再開された(1)。貧困児童だけでなく全児童を対象としたこの施策は、国民の栄養改善を目指すGHQの重要な一手であった(15)。この給食事業は、日米講和条約の調印に伴う食糧援助の打ち切りという危機を迎えたが、政府は1954年に「学校給食法」を制定し、給食を教育の一環として位置づけ、恒久的な制度とした(2)。この法律制定の背景には、米に偏った栄養的欠陥を是正し、食生活を合理的に改善するという目的が明確に存在した(9)。

学校給食は、単なる栄養補給の場ではなかった。毎日決まった時間に提供されるパンと脱脂粉乳の給食は、戦後の子どもたちに、米以外の主食を食べる習慣を強力に植え付けた(1)。これは、食糧政策の意図通り、米の消費量を抑制し(21)、パンや牛乳の需要を創出する基盤となった。また、学校給食は栄養の知識を伝えるだけでなく、民主主義的思想の普及、食事訓練、そして家庭の食生活改善に寄与するという教育的な目標も担っていた(22)。子どもたちが学校で新しい食習慣を身につけ、それを家庭に持ち帰ることで、ボトムアップでの食文化変容を促す重要な役割を果たしたのである。


第2部:米国からの食糧援助と「洋食」の普及戦略(1950年代〜1960年代)



2.1 「栄養改善運動」と米国農産物業界の共鳴


GHQによる占領が終わり、日本が自立的な政策運営を始めた後も、米国の影響力は続いた。日本政府(厚生省)は、戦前の「白米弊害論」の延長線上で、国民の栄養改善を目的とした啓蒙運動を展開した(5)。昭和28年以降、「1日1回粉食を。」「もう1匙の油を。」といった具体的なスローガンを掲げ、米の持つ欠落を補うため、粉食や肉、乳製品、油の摂取を推奨した(4)。

この日本の栄養改善政策は、米国の農産物業界の市場開拓戦略と完全に一致していた。米国農務省(USDA)の資金援助のもと、日本の厚生省がこの運動を主導していたことは、この政策の背後にある二重性を明確に示している(5)。日本政府は国民の健康増進を、米国政府および業界は余剰農産物の輸出市場拡大を目指し、利害が一致した結果、協働体制が構築された。1957年には、全国学校給食会連合会とワシントン小麦生産者協会との間で「小麦及び酪農製品の日本における市場開拓に関する契約」が締結されている(23)。これは、米国業界が日本の学校給食市場に直接的に介入し、供給体制を構築したことを示す決定的な証拠である。

表2:「栄養改善運動」と「食糧供給」の政策目標対照表

実施主体掲げられた政策目標(日本側)隠れた経済・政治目標(米国側)日本政府(厚生省) (米国農務省の資金援助)

国民の栄養改善、健康増進、食生活の合理化 4

米国農産物の輸出市場拡大、余剰農産物処理 5

米国政府(GHQ)

日本の民主化、非軍事化、飢餓の緩和 14

東西冷戦下の対日戦略、西側陣営への取り込み 6

米国農産物業界

日本の食生活の近代化、栄養指導 5

小麦、乳製品、肉類の消費習慣の確立 5


2.2 「キッチンカー」とメディアによる啓蒙


米国農務省の資金(PL480の枠組み)で運営された「キッチンカー」事業は、この普及戦略の最も象徴的な事例であった。1956年から4年間にわたり、日本栄養協会が運営する「栄養指導車」(「キッチンカー」とも呼ばれた)が全国津々浦々を駆け回り、約200万人に料理講習を実施した(5)。この移動式指導車は、流し台、ガス台、冷蔵庫などの調理設備を完備し、油と肉、卵を使った調理法を実演指導した(5)。特に、油で炒める調理法は「フライパン運動」と呼ばれ、昭和31年頃にはオムレツなどが広まったとされる(25)。

この活動は、テレビがまだ普及していない時代に、家庭に「新しい調理法」と「粉食・油食」のメッセージを直接届ける、極めて有効な手段であった(5)。さらに、料理雑誌も新しい食文化の伝達に大きな役割を果たした。明治期には『西洋料理指南』のような料理本が出版され、大正時代には主婦層をターゲットにした料理雑誌『料理の友』が創刊されていた(26)。これらのメディアは、カレー、コロッケ、とんかつといった「和洋折衷」の洋食メニューを紹介し、家庭で洋食を調理するという文化を醸成する役割を担った(26)。


第3部:高度経済成長期における生活様式と家庭料理の変容(1960年代〜1970年代)



3.1 台所革命: 家電の普及と調理の近代化


高度経済成長期に入った昭和30年代後半から40年代にかけて、電気炊飯器、電気冷蔵庫、ガスコンロといった台所家電が急速に普及した(10)。これらの家電は単なる便利な道具ではなく、家事労働を劇的に軽減し、女性の生活時間に大きなゆとりをもたらした(12)。

この技術革新は、調理技術の変革を通じて、食文化の変容を加速させる決定的な要因となった。伝統的な日本の台所は「かまど」(竈)を中心としており、米を炊き、煮物を調理するスタイルが主流だった。しかし、ガスコンロの普及により、火力の調整が容易になり、フライパンを使った炒め物や揚げ物など、油と肉を多用する調理法が家庭でも手軽に行えるようになった(10)。電気冷蔵庫は、生鮮食品の買い置きや、バターやチーズ、生クリームといった洋風のデリケートな食材の保存を可能にし、食生活の多様化を後押しした(12)。これらの技術は、栄養改善運動や学校給食で推奨された「洋食」を、日々の家庭料理として現実のものにしたのである。


3.2 社会構造の変化と食の簡便化


戦後の家族制度の崩壊と核家族化の進行は、家庭での食事スタイルにも大きな影響を与えた(28)。大家族で食事を作るという伝統的なスタイルが薄れ、共働き家庭が増える中で、家庭での調理はより簡便化・効率化が求められるようになった。この社会構造の変化は、家電製品の普及と相まって、インスタント食品、レトルト食品、冷凍食品といった新たな食品産業を創出した。インスタントラーメンの爆発的な普及は、家庭に小麦ベースの食事が定着する後押しとなり(21)、冷凍食品の売り場はスーパーマーケットに登場し、家庭料理の選択肢を劇的に広げた(10)。これらは、栄養改善運動が推奨した「洋食」調理を、手間なく実現する手段として広く受け入れられた。


第4部:昭和後期から現代への影響と課題



4.1 米消費量の減少と食料自給率の低下


食生活の変化は、統計データにも明確に表れている。1960年には年間118kgだった一人あたりの米消費量は、昭和後期にかけて急激に減少した(21)。昭和52年の一人あたり一日当たりの穀物摂取量も最低値の329グラムを示しており、これは主に米の摂取量減少によるものであった(29)。この一方で、小麦や肉類、乳製品の消費量は増加した(29)。

この食の「洋食化」は、米の消費減少と同時に、海外からの輸入に依存する食料構造を生み出した。昭和40年度には73%だった食料自給率(カロリーベース)は、昭和後期にかけて大幅に低下し、平成22年度には39%まで落ち込んだ(30)。これは先進国の中でも最低水準であり(31)、戦後の食糧政策がもたらした長期的な帰結として、現代の日本が抱える食料安全保障上の脆弱性を浮き彫りにしている。

図1:一人あたり穀物消費量推移(米 vs. 小麦)

データに基づいて生成されたグラフのイメージ
横軸:年代(昭和30年代、昭和40年代、昭和50年代)
縦軸:一人あたり年間消費量(kg)
グラフの線1:米の消費量。昭和30年代後半から急激に減少。
グラフの線2:小麦の消費量。昭和30年代後半から増加傾向を示し、その後安定。


4.2 「日本型食生活」の完成と新たな健康課題


戦後、多様な栄養素をバランスよく摂取できるようになった食生活は、「理想的な『日本型食生活』」として称賛された(1)。学校給食でパン食に慣れ親しんだ世代が大人になり、パンや洋食は日本の食卓に完全に定着した。しかし、伝統的な食生活が抱えていた栄養不足の問題は解決された一方で、それは新たな健康課題を生み出した。

飽食の時代に突入し、肉や油、糖質の過剰摂取が、肥満や生活習慣病の増加という形で現れた(32)。戦前が「脚気」という単一栄養素の欠乏に悩まされたのに対し、現代は食生活の偏りや過剰摂取による複雑な病に直面している。この問題意識は、現代の「食育」運動の背景にもなっている。現代の食育は、単なる栄養補給の指導を超え、食の自己管理能力の育成、食品の生産者や調理者への感謝、そして食文化の理解といった多角的な教育目標を掲げているのである(33)。


おわりに:食文化変容の多層的な意味


本報告書で明らかになったように、占領期から昭和後期にかけての日本の食生活変容は、GHQによるトップダウンの政策、米国政府と業界による市場開拓戦略、日本政府の公衆衛生政策、そして高度経済成長期に起こった技術革新と社会構造の変化が複合的に作用した結果である。この変容は、単なる食の好みや流行を超え、日本の産業構造、社会、そして人々の身体にまで深く影響を及ぼした。その過程で、栄養改善という明確な成果を上げる一方で、食料自給率の低下や現代的な健康課題といった新たな脆弱性も生み出した。この歴史の複雑な軌跡を理解することは、現代の日本の食文化と、それが直面する課題を深く考察する上で不可欠な知見となる。

いいなと思ったら応援しよう!