世界心霊用語史・東洋概要編5漢字は、空の器ではなかった――「心・意・識」「天・龍・鬼」は、漢訳の中で何と結び直されたのか
世界心霊用語史・東洋概要編5
漢字は、空の器ではなかった
――「心・意・識」「天・龍・鬼」は、漢訳の中で何と結び直されたのか

仏陀の説法を聞くために、人間だけでなく、さまざまな存在が集まっている。
鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』の冒頭には、「天龍、夜叉、乾闥婆、阿修羅……」という列挙がある。ここでの「天龍」は、一種類の天空の龍ではない。天に属する存在たちと、龍という別の集団である。その前には、帝釈や梵天と、名を持つ八龍王が、別々に登場している。(漢文大藏經 deerpark.app)
漢字は読める。
しかし、読めることと、そこで何が区別されているかが分かることは違う。
「天」は空なのか。その空にいる存在なのか。
「龍」は、それまで漢文で語られてきた龍と、どこまで同じなのか。
それらが仏陀の前に集まるという配置は、何を意味するのか。
同じ問題が、「心」「意」「識」にもある。
見慣れた文字が並んでいても、その文字で表される語が受け持つ仕事は、読む文献によって変わる。
前稿では、中央アジアにおける保存と変更を追った。そこで扱ったのは、外来の言葉や図像が、すでに語義、技能、制度を持つ場所へ接続する過程だった。(note(ノート))
今回は、漢訳を受け取る側の言葉を見る。
何が入ってきたかだけでなく、入ってくる前から、何が語られ、何と結びついていたのか。
そして、同じ文字を使いながら、何が区別され、何が新しく説明されるようになったのかを追ってみる。
1 同じ字があることと、同じ語があること
最初に、題名の意味を限定しておきたい。
「漢字は空の器ではなかった」とは、文字の形そのものに、変わらない意味が宿っているということではない。
問題にするのは、その文字で表記された語が、それぞれの文献や実践で、どのように読まれ、何を意味し、何と結びついていたかである。
たとえば『論語』述而の「默而識之」に出る「識」は、記憶に留めるという用法である。台湾教育部の辞書では、この用法を zhì の項に置き、知る・理解するといった shí の用法と区別している。(重編國語辭典)
ただし、現在の辞書が示す発音を、そのまま先秦の発音と考えてはいけない。異なる読みがあることだけから、語源的に無関係な語だったと断定することもできない。
ここで必要なのは、もっと手前の区別である。
同じ字形が見えることは、同じ用法、同じ概念が続いていることの証明ではない。
したがって、『論語』に「識」があるから、後代の仏教的な識の理論も、すでにあったとは言えない。
副題の「結び直す」も、まずは文献の中で、語が新しい分類・説明・役割関係に置かれることを指す。訳者が在来思想との融合を計画したことや、読者の経験が実際に変わったことまで、先に含めるわけではない。
また、本稿は、先秦の思想や祭祀を伝える古典から、初期漢訳、唐代の論書までを比較する。同時代の資料ではなく、各書の内部も一枚岩とはしない。
字、語、文献、時期を分ける。そのうえで、どこに接続があったかを調べる。
これが今回の出発点になる。
2 「心」は、仏教が来る前から考えていた
『孟子』告子上には、
心之官則思
とある。心の働きを、思うこと、考えることと結びつける記述である。心を感情だけの場所と考えると、この文章は読めない。(Chinese Text Project)
『荀子』解蔽篇では、心は「形之君」、身体の君主になぞらえられる。そこでは、身体との関係、判断、取捨、自らを制する働きが論じられている。(Chinese Text Project)
「意」にも先行する用法がある。『周易』繫辞上の「書不盡言、言不盡意」では、文字、言葉、そして言葉で表そうとする意味や思いの関係が問題にされる。(Chinese Text Project)
つまり、漢訳に使われる以前から、これらの語は、身体、判断、言葉、記憶、学習などとの関係で働いていた。
ただし、これを、
中国には、心と身体を分けない一つの思想があった。
とまとめることはできない。
先秦文献から心身の区別を計量的に検討したSlingerlandとChudekに対して、KleinとKleinは、ジャンル、年代、判定方法などを批判した。さらに両著者は応答し、問題点を認めつつ、資料分析の可能性と自分たちの解釈を擁護している。(Wiley Online Library)
この論争を、ここで決着させる必要はない。
必要なのは、「中国は一体、西洋は二元」という図を、比較の前提にしないことである。
孟子と荀子に「心」があることも、両者が同じ心の理論を持っていた証明にはならない。まして、そこから仏教の citta へ、意味がそのまま連続したとは言えない。
受け手の言葉には履歴があった。しかし、その履歴も、そこから先の接続も、一つではなかった。
3 訳経の現場では、「よい文章」の基準も争われた
漢訳を、外国語を理解する一人の僧が机に向かい、完成させる仕事としてだけ描くことはできない。
『出三蔵記集』巻7に収められた「法句経序」は、翻訳の現場について、一つの記録を残している。同書は作者を「未詳」としており、ここでも語り手を無条件に特定の人物へ帰属させない。(漢文大藏經 deerpark.app)
序によれば、維祇難が持参した本文を、同道の竺将炎に訳してもらった。将炎はインドの言葉には通じていたが、漢語には十分習熟していなかった。語り手は、最初、その文章が雅でないことを嫌ったという。
それに対して、意味を取り、飾りを優先せず、理解しやすくして趣旨を失わないことが大切だ、という応答が記される。(漢文大藏經 deerpark.app)
その場では、『老子』の言葉や「書不盡言、言不盡意」も援用されている。
既存の漢文の権威を使って、外国の教えを美文に整えすぎない理由を説明しているのである。
これは、仏教の教説を老子の思想へ置き換えることとは違う。
受け手側の古典が、翻訳を評価する基準の議論に使われている。
序は、理解できない箇所を当初は訳さず残したこと、後に問答と照合を行って増訂したことも伝える。蘇錦坤は、この序と現存『法句経』の重訳偈との関係を検討している。(漢文大藏經 deerpark.app)
この記録を、そのまま翻訳作業の全容と見なすことはできない。それでも、翻訳の判断が語学力だけで決まらなかったことを調べる、具体的な入口になる。
誰が説明できるのか。誰が漢文として受け取るのか。どの程度の平明さを求めるのか。理解できない部分をどう扱うのか。
翻訳されるのは文章だが、文章を作る人々の分担と、何をよい翻訳と認めるかという基準も、作業の一部なのである。
4 「心=citta、意=manas」は、いつでも使える表なのか
仏教語の説明では、次の対応を見る。
citta――心。manas――意。vijñāna――識。
特定の論書の用語整理には役立つ。しかし、その整理を初期の漢訳へ、そのまま戻してよいだろうか。
『法句経』と、対応するインド語の平行伝承を比較してみよう。ここでは読みやすさのためパーリ語『ダンマパダ』の偈番号を使うが、現存パーリ語本文が漢訳の直接原本だったと認定するわけではない。
漢訳『法句経』の表現対応するパーリ語の語比較から分かること双要品「心為法本、心尊心使」第1・2偈の mano 系この箇所では「心」に mano が対応する心意品「制意為善、自調則寧」第35偈の cittaこの箇所では citta に「意」が対応する心意品「心無住息、亦不知法」第38偈の anavaṭṭhitacittassa同じ心意品で、citta に「心」も対応する
漢文の用例とインド語の平行偈は、それぞれ本文で確認できる。第35・38偈に対応する他の伝承でも、citta 系の語が見られる。(漢文大藏經 deerpark.app)
したがって、後代の対訳表だけでは、この三例を一括して処理できない。
しかし、ここから、
初期には逆に、cittaを意、manasを心と訳した。
という別の固定表を作ることもできない。第三の例が、その単純な逆対応にも合わないからである。
確認できるのは、少なくとも、これらの用例を例外のない一語対応で説明することはできないという点だ。
どの文脈で心と意を使うのか。韻文の構成、同じ篇の表現、翻訳や編集の層が関係するのか。そこから先は、用例を増やして調べられる。
対応が揺れることは、翻訳が失敗したという意味でもない。
語を一つずつ対応させることと、その文章の中で、どの働きを伝えているかを確かめることは、別の仕事なのである。
5 「意識」は、六つのうちの一つとして説明された
次に、「意識」という二字を見る。
『中阿含経』巻54には、この識が変わらないまま次の生へ行く、という理解を批判する議論がある。そこで繰り返されるのは、識は条件によって起こり、条件がなければ滅するという説明である。(漢文大藏經 deerpark.app)
眼と色を縁として生じるものは眼識と呼ばれる。耳、鼻、舌、身についても同様に述べられ、意と法を縁として生じるものが意識と呼ばれる。
火を、燃える材料に応じて木火などと呼び分ける比喩も置かれている。(漢文大藏經 deerpark.app)
この箇所の骨格を簡略化すれば、
眼と色に依存して生じる――眼識。
意と法に依存して生じる――意識。
となる。
ここでの「法」は、法律という意味ではなく、意の対象となる位置にある。この「法」自体にも別の用語史があるが、今回はその対象関係だけを押さえる。
「意識」も、この文脈では六識を区別する中の一つである。
したがって、現代日本語の「意識一般」を、そのまま古い文章へ戻してはいけない。
同時に、ここには六つの小さな主体が頭の中に住んでいると書かれているわけでもない。どの条件に依存して生じる働きかによって、名称を分けている。
これを現代神経科学の先取りとして褒める必要もない。
まず確認できるのは、経験を条件と関係に分けて説明する、特定のモデルが漢文で読めることである。近代に「意識」が別の言語の概念と接続する過程は、この用法と区別して扱う。
6 同じ「心・意・識」を、二つの論書がどう配分するか
仏教内部で、三語の関係が一つに統一されたわけでもない。
玄奘訳『阿毘達磨俱舎論』巻4には、「心意識體一」とある。集起、思量、了別という着眼点から三つの名称を説明しながら、「義雖有異而體是一」とまとめている。(漢文大藏經 deerpark.app)
対応する梵文では ekārtha が使われる。この箇所は、異なる説明を与えられた三つの名称を、同義的なものとして扱う文脈として読む必要がある。玄奘訳の「體」をどう解釈するかについては、Zhangの研究も問題を提起している。(MDPI)
ここで名称がまとめられていることから、不滅の心的実体が一個あると導くことはできない。
一方、『成唯識論』巻5は、三つの意味が八識に通じると認めながら、「而隨勝顯」と限定する。主要な特徴に従い、第八識を心、第七識を意、その他の六識を識として説明するのである。(漢文大藏經 deerpark.app)
文献の当該箇所三語の整理『俱舎論』巻4説明上の着眼点を分けながら、同義的な名称としてまとめる『成唯識論』巻5三つの意味は八識に通じるが、主要な特徴に従って配分する
同じ漢字を使っていても、理論の中の配置は違う。
それを、中国語が曖昧だから起きた混乱とだけ考えるのは適切ではない。漢訳によって、異なる説明モデルが同じ書記言語の中で読まれるようになったことでもある。
語の意味を知るには、何の理論の中で、どの位置を占める語なのかを指定する必要がある。
そして、論書の中で整理された対応を、その語の歴史全体へ広げない。チベット訳など別の言語での対応も、同じ本文単位で比較して初めて、この漢訳の配置を相対化できる。
7 「天」は、存在者にも、その世界にも使われる
「天」へ移ろう。
『論語』述而の「天生德於予」では、天が徳を与えるという語り方がされる。一方、『荀子』天論の「天行有常、不為堯存、不為桀亡」は、天の運行を、特定の支配者の善悪から切り離す。(Chinese Text Project)
同じ字でも、同じ説明ではない。
仏典の内部にも、複数の使い方がある。『妙法蓮華経』では、天王や天子という存在者が数えられる一方、「上至阿迦尼吒天」のように、光が届く世界・領域を表す使い方もある。(漢文大藏經 deerpark.app)
天に属する存在者を述べているのか。その存在者の世界を述べているのか。まず文章の中で区別する必要がある。
さらに、冒頭の集会を別の漢訳と比べると、表現にも違いがある。
本文対応する列挙の一部鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』〔T262〕天龍、夜叉、乾闥婆、阿修羅竺法護訳『正法華経』〔T263〕天、龍、神鬼、揵沓惒、阿須倫
同じ位置に、音写された名称が現れる場合と、馴染みのある漢語が現れる場合とがある。(漢文大藏經 deerpark.app)
ただし、これだけで訳者個人の方針を決めることはできない。使用原本、説明と筆受の分担、編集や伝承の違いを検討する必要がある。
また、仏典で諸天が仏陀へ礼拝するからといって、『論語』の天が、そのまま仏の下へ降格されたと結論することもできない。
同じ字で書かれた別の用法を、同一存在者の順位変更として読み替えない。
読者が両者を結びつけたかどうかは、注釈や論争など、受容の資料で確かめる問題である。
8 龍と雨は、漢訳以前から結びついていた
『周易』の「雲從龍」は、龍と雲の対応を語る。
さらに『論衡』乱龍篇は、董仲舒による土龍を用いた求雨を取り上げ、その考え方や効力を論じる。ここでは、龍と雨を結びつけるだけでなく、龍の形を作って雨を求める実践についての記述がある。(Chinese Text Project)
したがって、仏教が来て初めて龍と降雨が結びついた、という話にはできない。
一方、南アジアの nāga も、生物学上の蛇という一語に押し込めれば済む存在ではない。Max Deegは、nāga崇拝についての一般的な観念と、個別のnāgaに結びつく地域的な物語・儀礼を区別する必要を論じている。(ORCA)
だから、
インドの蛇が、中国の龍になった。
では、出発側も到着側も粗くなる。
漢訳には、nāgaを「龍」とするだけでなく、「那伽」という音写を残す場合もある。『大智度論』巻3は、「那伽」を龍とも象とも説明し、その箇所では阿羅漢の力を、龍や象になぞらえて論じる。(漢文大藏經 deerpark.app)
「龍は意訳、夜叉は音写」という区別も、語ごとの永久的な属性ではない。
同じ外国語でも、音写を残し、その意味を説明することができる。どの用法を説明しているかによって、対応する語も変わる。
語の対応、身体の描き方、地域の物語、儀礼での役割は、別々に追う必要がある。
似た関係があることは、翻訳の手がかりになりうる。しかし、どの共通点が実際に訳語選択を決めたのかは、さらに調べるべき問題である。
9 雨を降らせる龍が、救われる側にも置かれる
龍と雨の結びつきが先にあったなら、仏教の請雨経では、何が付け加わるのだろうか。
隋の那連提耶舍訳『大雲輪請雨経』〔T991〕では、龍たちが苦しみから解放され、安楽を得たうえで、適時に雨を降らせ、草木や作物を育てるという関係が示される。これは、唐の不空訳とされる同名経〔T989〕より前に、漢文で確認できる配置である。(漢文大藏經 deerpark.app)
経では、慈を行うこと、陀羅尼を受持すること、仏名を唱えることなどが、龍の苦難の除去と結びつく。(漢文大藏經 deerpark.app)
そのうちの一つの説明経路を取り出せば、
仏名の受持・礼拝 → 龍の苦難の除去 → 降雨 → 作物や人々の利益
となる。
龍は、人間の願いを実現する力の持ち主であるだけではない。仏の教えや力によって助けられる側にも置かれている。
ここで比べるべきなのは、「龍と雨が結びついているか」だけではない。
誰の働きによって、誰の苦しみが除かれ、その結果として誰が利益を得ると説明されるか。
ただし、これを中国で初めて作られた配置とは認定しない。まず、この漢訳本文の中にある関係として確認する。その成立段階は、対応する諸本によって別に調べる。
実際の儀礼と天候も別問題である。
経典が儀礼を説くこと、儀礼が実行されたこと、人々が効果を報告したこと、降雨の原因が実証されたことは、同じではない。
文章が示すのは、何を行うべきかという規範と、その理由を説明する世界である。
10 「鬼」は、誰が祭るべき存在なのか
古い漢文の「鬼」を、日本語で思い浮かべる角のある怪物から読み始めることはできない。
『礼記』祭法には、「人死、曰鬼」とある。この記述では、人の死との関係で鬼が説明されている。(Chinese Text Project)
『論語』為政は、自分が祭るべきでない鬼を祭ることを批判する。ここで問題になっているのは、存在者の性質だけではなく、誰が誰を祭るべきかという関係である。(Chinese Text Project)
もっとも、これを古代の鬼はすべて祖先だったという説明へ広げることはできない。
『墨子』明鬼下は、天鬼、山水の鬼神、人が死んで鬼になる場合を区別している。伝世文献の中でも、鬼神の分類は一様ではない。(Chinese Text Project)
死者なのか。山水に関わる存在なのか。誰と関係し、どの行為を要求するのか。
こうした違いを、先に確かめる必要がある。
仏教の「餓鬼」は、「餓」と「鬼」を組み合わせ、苦しみの特徴を見える形にした表現である。
ただし、語の構成を分析できることと、誰がいつ、その語を作ったかを特定できることは別だ。漢語の鬼へ飢えという特徴を付け加えた、という語構成上の説明だけから、翻訳の成立経路までは確定しない。
すでに関係を持つ語を使い、限定を加えて、別の分類を表す。
馴染みのある語をそのまま使うことと、外国語を音写することの間にも、こうした仕事がある。
11 魂・魄・神――死を越えるのは、何なのか
ここで「神識」の問題へ進む前に、先行する語彙を見ておこう。
『礼記』郊特牲には、
魂氣歸于天、形魄歸于地
とある。魂気、形魄、天地、祭祀が関係づけられている。(Chinese Text Project)
これは、古代中国に一つの完成した魂論があったことを示すものではない。それでも、身体と死をめぐる語彙が、仏教の識の理論を待って空白になっていたわけではないことは分かる。
その後、仏教との接触が進んだ時代に、形と神の関係は論争の対象となる。
慧遠は形が尽きても神は滅びないという議論を展開した。それより後の時代、范縝は、形があれば神があり、形が失われれば神も滅するという立場を論じた。『弘明集』には、その主張と応酬が収められている。両者とも、仏教受容以前の状態をそのまま示す資料ではない。(漢文大藏經 deerpark.app)
ここへ「識」を加えるときにも、注意が要る。
Michael Radichは、神の存続をめぐる広い論争と、仏教の技術語としての識を用いる議論を区別する。慧遠の神論を、そのまま識の理論として扱うのではなく、宗炳などで、どのような接続が行われたかを個別に検討している。(Buddhismuskunde Hamburg)
「神」という字がある。
だから不滅の魂を意味する。
それを仏教が受け入れた。
この三段論法では、語も議論も潰れてしまう。
何が存続するとされるのか。
個々の認識の働きなのか。業の結果を受ける連続性なのか。身体とは別の根拠なのか。解脱したとき、何が残り、何がなくなるとされるのか。
魂・魄・神・識は、初めから同じ一個の主体を指す同義語ではない。
この時代の論争は、古い語へ新しい意味が一度入って終わる過程でもない。既存の問いを使って新しい経典を読み、その経典の概念によって、問いの方も組み直される過程として調べる必要がある。
12 羅刹女は、守護者になっても羅刹女である
『妙法蓮華経』陀羅尼品では、夜叉、羅刹、餓鬼などによる妨害から、経を受持する人を守ることが語られる。
その同じ品に、十人の羅刹女と鬼子母、その眷属が登場し、法師を守ると誓う。(漢文大藏經 deerpark.app)
羅刹女が、羅刹を含む脅威から法師を守る。
ここで守る側へ回った羅刹女は、別の存在カテゴリーへ改名されたわけではない。誰に対して何をするかという関係が異なっている。
存在カテゴリーと、担う役割は同じではない。
そして、この配置は漢文でしか確認できないわけではない。
現存するサンスクリット『サッダルマプンダリーカ』の陀羅尼品にも、十羅刹女とHārītīが登場し、経を保持・説示する人を守ると誓う。したがって、漢訳の中で初めて作られた配置として扱う根拠はない。(Gretl)
ただし、現在読める梵文の本文が、そのまま鳩摩羅什の使用原本だったという意味でもない。
確認できた共通記述と、なお調べるべき系統関係を分ける。
夜叉や羅刹のような音写された名称を残すことには、漢語の「鬼」へすべてを吸収しない効果もある。一方、その名称だけでは、敵なのか、守護者なのか、どの儀礼に関わるのかまでは分からない。
名前を残すことと、その存在の関係を変えずに残すことは、同じではない。
13 目連の母は、なぜ食事を受け取れないのか
『仏説盂蘭盆経』では、目連が亡き母を探し、餓鬼の境涯で苦しむ姿を見る。
食べ物を届けようとするが、飯は口に入る前に火炭になってしまう。目連一人の力では救えず、七月十五日の僧の自恣のときに、僧衆へ供養するよう仏陀が教える。(漢文大藏經 deerpark.app)
ここで母は、単に亡くなったから鬼と呼ばれているのではない。業、生まれた境涯、食べ物を受け取れない苦しみ、救済の方法が組み合わされている。
また、孝行する子が直接食事を渡せば解決するわけでもない。
文献が示す関係は、
子の報恩 → 母の苦しみの発見 → 仏の指示 → 僧団への供養 → 母の救済
である。
親子の関係に、仏、僧団、特定の日、供物、業と救済の説明が接続する。経は、この実行を王や官人、一般の人々にも呼びかけている。(漢文大藏經 deerpark.app)
この経の成立には論争がある。
岩本裕やTeiserらによる中国成立論を含む研究史では、対応するインド語経典が確認されないことや、翻訳・経録上の帰属なども問題になってきた。単に孝を重んじるから中国で作られた、という議論だけではない。(ケンブリッジ大学出版局)
一方、辛嶋静志は、語彙や題名、インドの供僧慣行などから、インド系原典に基づく翻訳の可能性を論じた。Zhaoも、経録と成立論を改めて検討している。(Academia)
ここでは、少なくとも四つを分けなければならない。
インド側に関連する物語や慣行があること。
現存する漢文経典がどこで成立したか。
誰の翻訳として記録されたか。
その後、どのように読まれ、実行されたか。
現行題記の竺法護訳という帰属も、経録の成立時期や記載の根拠を調べる問題であり、題記だけで直接原本まで確定するものではない。(漢文大藏經 deerpark.app)
在来の関心に応える文章であることと、当地で創作された文章であることは違う。
同時に、この経典が供養を勧めていることと、実際にどの人々が何を供養したかも別である。本文の分析を、儀礼の実施史へ進めるには、もう一組の資料が必要になる。
14 接触の方法を、すべて「格義」にしない
ここまでの事例には、既存の漢語や古典が使われている。
それを全部「格義」と呼べば説明が済むだろうか。
Victor H. Mairは、格義を初期中国仏教全体の理解・翻訳方法へ拡張する見方を批判し、史料でいう格義を、とくに番号付きの概念群、すなわち数法の対応づけに関わる限定的な実践として捉え直している。(Sage Journals)
既存語を使うことと、古典の権威を翻訳基準に使うことは違う。
外国語を音写することと、既存語を組み合わせて訳語を作ることも違う。
二つの教説を対応づけることと、同じ漢語を別々の理論で使い分けることも違う。
「法句経序」の文章論、nāgaと龍の対応、『成唯識論』の名称配分を、一つの方法名へ押し込める必要はない。
また、受け手側の語彙を一括して「道教語」と呼ぶことも避けたい。孟子の心、荀子の天、礼制の鬼を、後代の道教の完成した体系へ最初から所属させてはいけない。
今回扱ったのは、異なる履歴を持つ語が、翻訳、注釈、論争、儀礼文書の中で、新たな関係に置かれる過程である。
一人称としての「我」と、無我・我執などの技術語も、同じ区別を要する別の語彙群になる。医学における心、法の多義性、近代の意識、チベット訳との対照も、この六語の説明だけでは尽くせない。
今回は範囲を限定した。その限定を、漢語の問題全体を説明し終えたことと取り違えない。
15 文献の中の配置は、いつ人々の仕事へ戻るのか
「心・意・識」をどう区別するかは、何を観察し、何を修めるべきと説明するかに関わる。
龍をどう位置づけるかは、誰に何を願い、何を唱えるべきとするかに関わる。
死者の境涯をどう説明するかは、生者の報恩や供養の勧めに関わる。(漢文大藏經 deerpark.app)
しかし、その説明が文献にあるだけでは、人々の行動や制度が変わったことにはならない。
どの訳語が講義で使われたのか。異なる説明は退けられたのか、それとも併存したのか。誰が儀礼を担い、誰が供物や場所を提供したのか。
そこでは、注釈、写本、寄進記録、儀礼の実施記録が必要になる。敦煌などの資料群も、文献の規範と実際の使用を比較する対象として、別に検討する位置へ残しておく。
この連載では、分類、解釈、正統性の判断をH₁、技能、人員、物資、場所、時間、実施体制をH₂として区別する。ただし、前者を常に上位、後者を常に下位へ置くわけではない。
読める人がいなければ、精密な区別も使用を持続しにくい。反対に、ある区別を重要だとする判断が、学習や書写への資源配分に関わる可能性もある。
その関係を、実際の記録で追う。
認識や判断が介入を通じて対象へ戻り、変化を生んだことを確認できればP¹の候補になる。その結果が次の認識や介入へ戻るならP²を検討できる。P³には、複数の側が相互履歴を持続的な応答方略へ取り込むことの確認が必要であり、双方向の影響だけでは足りない。(note(ノート))
語の用法が変わったという記録と、その語を介して実践が変わったという記録を、つなぐ仕事が要る。
この接続を確かめる前に、すべてを「漢字が人間を作り変えた」とまとめてはいけない。
16 次に確かめるのは、六つの字の「本当の意味」ではない
今回の検討から、六つの字に最終的な定義を一つずつ与えることはしない。
ただし、何も決まらないわけでもない。
『法句経』の三例は、検討した範囲について、単純な固定対応も逆対応も使えないことを示している。『法華経』の守護誓願は、現存梵本にも確認できる。これらまで未決に戻す必要はない。
そのうえで、まだ残る問いを小さくする。
作業仮説必要な比較説明を修正する条件心と意の選択には、文脈ごとの傾向がある同一篇・同系統の用例、平行偈、編集層傾向が再現しない、別の本文層で説明できるある龍の役割は、漢訳先で新しく加わった漢訳とインド・中央アジアの対応文献・図像先行する同じ配置が見つかり、成立段階を遡らせる必要が生じる餓鬼の説明が、新しい供養実践を促した経典・注釈と、年代の分かる実施・寄進記録実践が先行する、別の根拠で行われる、受容されない同じ神識という語が、同じ存続主体を表す各文献が何を存続すると論じるか指示対象や説明上の役割が異なる
原本が残らないという資料の問題と、何を同じ意味と数えるかという分類の問題は違う。資料はあるが、照合作業が終わっていない場合もある。
Uは未決の印であり、それ自体が原因の説明ではない。何が不足しているかを分けて、次の確認へ進む。翻訳が難しいことや資料が少ないことを、原理的に知りえないという結論へ格上げする必要もない。(note(ノート))
そして、最後まで別にする問いがある。
龍が雨を降らせると書かれたこと。
餓鬼の苦しみを救う儀礼が説かれたこと。
識の連続性をめぐって議論されたこと。
それらは、文献、説明、信仰、実践の歴史を調べる証拠になる。
しかし、それだけで、語が指す存在者の独立した実在や、記された因果作用まで確定するわけではない。反対に、表象に歴史があることだけで、対象の非実在を証明することもできない。
表象の形成史と、対象の存在論は分ける。
これが、本連載の+Oの境界である。
結び 同じ字が残っても、同じ関係が残るとは限らない
漢訳以前にも、心は身体や判断と結びつき、意は言葉との関係で語られ、識には記憶に留める用法があった。
天、龍、鬼にも、自然の運行、徳、降雨、死者、祭祀との関係があった。
しかし、同じ文字が使われ続けたことから、同じ語義や概念が、そのまま受け渡されたとは言えない。
『法句経』では、心と意の対応が揺れる。
『俱舎論』と『成唯識論』では、三語の整理が異なる。
『法華経』では、羅刹女が羅刹女のまま守護の役割を担う。
請雨経では、雨を降らせる龍が、まず苦難から救われる側にも置かれる。『盂蘭盆経』では、母を助けようとする子の願いが、仏の指示と僧団への供養へ結びつく。
ここで増えたのは、単に辞書の語義の数ではない。
誰が何をし、何に依存し、誰を助け、どの実践が求められるかを説明する配置である。
ただし、配置が増えたことを、そのまま文明が深まったという物語にはしない。
ある区別が見えるようになる一方、以前の違いが見えにくくなることもある。同じ語が別の理論へ使われれば、理解を助けることも、混同を生むこともある。
だから、正しい訳語を一つ決めるだけでは終われない。
どの文献で、誰が、何を説明するために、その語を使ったのか。
対応する別の本文では、どう書かれているのか。
そして、その説明は、どのような人々の仕事へ接続したのか。
漢字は、外国の思想を入れるために待っていた、意味のない器ではなかった。
しかし、変わらない意味を封じ込めた器でもなかった。
すでに使われていた文字と語が、新しい関係の中で、選ばれ、区別され、使い直されていったのである。
主要資料・参照研究
一次資料
中国古典は、『論語』述而・為政、『孟子』告子上、『荀子』解蔽・天論、『周易』繫辞上・文言、『礼記』祭法・郊特牲、『墨子』明鬼下、『論衡』乱龍を参照した。各篇の記述を、その書物全体の統一思想や、当時の全人口の信念へ一般化していない。
漢訳仏典・論書・記録は、以下の箇所を用いた。T番号は『大正新脩大蔵経』の収録番号を示す。
資料主な参照箇所『出三蔵記集』〔T2145〕巻7「法句経序」『法句経』〔T210〕巻上・双要品・心意品『中阿含経』〔T26〕巻54・識の縁起と火の比喩『阿毘達磨俱舎論』〔T1558〕巻4・心意識の名称関係『成唯識論』〔T1585〕巻5・三義と八識の配分『妙法蓮華経』〔T262〕鳩摩羅什訳、序品・陀羅尼品『正法華経』〔T263〕竺法護訳、巻1・集会の列挙『大智度論』〔T1509〕巻3・那伽の説明『大雲輪請雨経』〔T991・T989〕隋・那連提耶舍訳、唐・不空訳とされる本文『弘明集』〔T2102〕巻5・慧遠関係、巻9・范縝『神滅論』をめぐる応酬『仏説盂蘭盆経』〔T685〕現行題記は竺法護訳。成立・帰属は別途検討
インド語の比較には、Anandajoti Bhikkhu編 Comparative Dhammapada と、GRETIL収録の Saddharmapuṇḍarīkasūtra〔P. L. Vaidya校訂本文に基づく電子テキスト〕を用いた。平行本文の存在を、漢訳の直接原本の特定とはしていない。(古代仏教文献)
翻訳・用語・心識の研究
蘇錦坤(2014)「〈法句序〉與《法句經》重譯偈頌」『正観』70、77–132頁。序と重訳偈、本文形成の関係を検討する研究。(TCI)
Shuqing Zhang(2023), “Exploring the Intricate Usage and Interpretation Issues of ‘體’ (tǐ) in Xuanzang’s Translation of Abhidharmakośabhāṣya.” Religions 14(9), 1211。(MDPI)
Michael Radich(2014), “Ideas about ‘Consciousness’ in Fifth and Sixth Century Chinese Buddhist Debates on the Survival of Death by the Spirit, and the Chinese Background to Amalavijñāna.” A Distant Mirror: Articulating Indic Ideas in Sixth and Seventh Century Chinese Buddhism, 471–512。(Buddhismuskunde Hamburg)
Victor H. Mair(2012), “What Is Geyi, After All?” China Report 48(1–2), 29–59。格義の広義化を批判し、史料上の実践を再検討する研究。(Sage Journals)
心身区別をめぐる研究と応答
Edward Slingerland and Maciej Chudek(2011), “The Prevalence of Mind–Body Dualism in Early China.” Cognitive Science 35(5), 997–1007。Esther Klein and Colin Klein(2012), “Did the Chinese Have a Change of Heart?” 同36(2), 179–182。Slingerland and Chudek(2012), “The Challenges of Qualitatively Coding Ancient Texts.” 同36(2), 183–186。原研究、批判、応答を一組として参照した。(Wiley Online Library)
龍・供養・経典成立
Max Deeg(2021), “Indian Regional Nāga Cults and Individual Nāga Stories in Chinese Buddhist Travelogues.” Acta Asiatica Varsoviensia 34, 51–78。(ORCA)
辛嶋静志〔Seishi Karashima〕(2013), “The Meaning of Yulanpen 盂蘭盆—‘Rice Bowl’ on Pravāraṇā Day.” Annual Report of the International Research Institute for Advanced Buddhology at Soka University 16, 289–305。語彙・題名・関連慣行から成立を再検討する研究。(Academia)
『盂蘭盆経』の研究史では、岩本裕『目連伝説と盂蘭盆』(1968)、Stephen F. Teiser, The Ghost Festival in Medieval China(1988)などの中国成立論と、辛嶋の再検討を区別した。経録・成立論の整理には、Xiaohuan Zhao, Chindian Myth of Mulian Rescuing His Mother(2023、オンライン公開2024)の第3・4章を参照した。(ケンブリッジ大学出版局)
石部統久・ChatGPT6Pro
査読:ChatGPT5.6Sol・Claude Fable5.1・Grok(Parcae Protocol)
