世界心霊用語史・比較補論 「私」は一つしかないのか――I / self / Ich / ego / 自分 / 自己 / 自我 / 我 / 主体を、英・独・日・中で比較する
世界心霊用語史・比較補論
「私」は一つしかないのか
――I / self / Ich / ego / 自分 / 自己 / 自我 / 我 / 主体を、英・独・日・中で比較する

はじめに――「私」という一個のものに、各国語が名前を付けているのか
Englishには、
I / myself / self / ego / subject
がある。
Germanには、
Ich / mich / sich / selbst / Selbst / Subjekt
がある。
Japaneseには、
私 / 僕 / 俺 / 自分 / 自身 / 自己 / 自我 / 我 / 主語 / 主観 / 主体
がある。
Chineseにも、
我 / 吾 / 己 / 自己 / 自我 / 主语 / 主体
などがある。
辞書を作るだけなら、
I ≈ 私 / 我
self ≈ 自己
Ich ≈ 私
ego ≈ 自我
subject ≈ 主体
と並べれば済みそうに見える。
しかし、この表には最初から罠がある。
そもそも、
Iとselfは同じ種類の語ではない。
Latin ego とEnglish ego も同じ文法機能ではない。
German selbst はEnglish myself と同じ反射代名詞ではない。
Japanese 自分 やChinese 自己 には、English reflexiveとは異なる視点・照応の働きがある。
さらに、
subject=主体
と訳した瞬間にも、文法、論理、認識論、行為論の複数の意味が動く。
つまり問題は、
同じ「自己」に何という名前を付けるか
ではない。
もっと前に戻って、
各言語は、発話者、自分自身への戻り、視点、行為者、認識者、人格、心理モデルを、それぞれどこでどう切り分けているのか。
を見なければならない。
今回の中心命題を最初に置いておく。
局所的対訳 ≠ 語彙ネットワークの同一性。
そして、もう一つ。
人間に一個の完成済みの「自己」が先に存在し、世界中の言語がそれに別々のラベルを貼った、と最初から仮定する必要はない。
1 まず八つに分ける――「私」周辺には別々の言語操作がある
前稿では、
一人称、再帰、主体、自我
を分けた。
しかし、それでも粗かった。
少なくとも次の八つを分けた方がよい。
機能例① 発話者indexicalI / Ich / 私 / 我② reflexive anaphormyself / mich・sich / 自分 / 自己③ intensifiermyself / selbst / 自身 / 自分自身 / 自己本身④ logophoric・viewpoint表現自分 / 自己など⑤ nominal selfthe self / das Selbst / 自己⑥ technical egoego / das Ich / 自我⑦ grammatical subjectsubject / Subjekt / 主語⑧ epistemic・acting subjectsubject / Subjekt / 主観 / 主体
ここで重要なのは、
一人称 ≠ reflexive ≠ self ≠ ego ≠ subject
ということだけではない。
selfそのものも一個ではない。
2 English egoは「I」ではない
最初に明確な訂正をしておく。
Latin ego は一人称代名詞である。
つまり、
ego = I
である。
しかしEnglish ego は違う。
Englishで発話者を指す一人称は、
I
である。
English ego はLatinから借用された名詞であり、
self
philosophical ego
psychological ego
などを表す。
したがって、
Latin ego
= first-person pronoun
English ego
= noun / technical concept
である。
同じ語形の系譜があるからといって、
同じ文法機能
ではない。
これは今回のテーマそのものである。
3 English selfも一種類ではない
English self も、
「自己」
という一語でまとめると内部差が消える。
たとえば、
I saw myself.
のmyselfはreflexive。
I did it myself.
のmyselfは強意。
the self
となれば哲学的・心理学的なnominal selfになる。
つまり、
self
↓
reflexive construction
intensifier
nominal self
philosophical self
が重なっている。
Englishの一語内部ですでに複数機能がある。
4 Germanではreflexiveは selbst ではない
Germanを見ると、対訳表の危険がさらに分かる。
English selfを見て、
self = Selbst
としたくなる。
しかしGermanの普通のreflexive pronounは、
mich / dich / sich / uns / euch
である。
たとえば、
Ich wasche mich.
Er verletzt sich.
である。
selbst はreflexive pronounそのものというより、強意・自己性を加える。
したがって、
English myself
≠
German Selbst
である。
局所的に訳せても、文法ネットワークは違う。
5 Japanese 自分とChinese 自己は、さらに別の働きをする
Japanese 自分 も、English -self の単純対応ではない。
「自分を責める」のような反射的用法もあるが、
誰の視点から語っているか、
誰の意識・発話・評価に文が寄っているか、
というlogophoric・viewpoint的な働きも持つ。
Chinese 自己 ziji も、English reflexiveより広い。
局所的な先行詞だけでなく、文の構造によっては離れた位置の主体へ戻るlong-distance reflexiveとして分析される。
つまり、
myself
mich / sich
自分
自己
は、
「全部self」
ではない。
むしろ、
各言語は「自分自身へ戻る」という関係を、異なる文法装置で実装している。
と見る方がよい。
6 今回比較するのは「単語」ではなく五つの層である
ここで分析単位を固定する。
A 文法・語用
I
Ich
私
我
zero expression
reflexive
logophoricity
topic
agreement
B 語彙・翻訳語
self
ego
Selbst
自己
自我
主体
C 哲学・心理学モデル
Lockean self
Kantian Ich
Fichtean Ich
Freudian Ich
subjectivity
self-model
D 経験・生成現象
一人称視点
身体所有感
行為主体感
自己帰属
記憶
自己意識
+O 存在者仮説
substantial ego
immaterial soul
independently existing self
したがって、
一人称語がある
≠
self-modelがある
≠
ego理論がある
≠
ego-substanceが存在する
である。
7 German Ich――日常的一人称を、そのまま名詞化できる
Germanでは、
Ich denke.
のIchは普通の一人称である。
ところが哲学では、
das Ich
となる。
つまり、
Ich
「私」
↓
das Ich
「私というもの」
である。
Germanには、
das Sein
das Nichts
das Man
のように、語を冠詞付きで名詞化する生産的な資源がある。
したがってdas Ichも、完全に特殊な現象ではない。
ここで重要なのは、
Germanだけが哲学的自己を作れた
ということではない。
むしろ、
日常的一人称と同じ語形を残しながら、それを哲学的対象へ変えることができた
という点である。
8 しかし形が同じだから「一人称性が保存される」とも限らない
ここには両義性がある。
das Ichは日常のIchとの連続性が見える。
これは、
「この哲学概念は、私が『私』と言うことと関係している」
ということを見えやすくする。
しかし逆に、
日常的一人称と哲学的構成物を同じものだと思いやすくする
可能性もある。
つまり、
形態的連続
→ 一人称性を見えやすくする
同時に
形態的連続
→ 理論的構成物との差を見えにくくする
こともありうる。
affordanceは一方向ではない。
9 English ego――形態的断絶にも両義性がある
Englishでは、
I
と、
ego
は形が違う。
だから、
I
↓
ego
には一人称との距離がある。
この距離は、
egoを第三者的・理論的対象として扱いやすくする
可能性がある。
しかし逆に、
これは日常のIそのものではなく、一つのtechnical modelなのだ
と明示する利点もある。
したがって、
形態的断絶=実体化
でもない。
むしろ、
ある区別を容易にし、別のつながりを見えにくくする。
これがtranslation affordanceの双方向性である。
10 Latin egoは「主語の強い西洋語がegoを作った」説を壊す
ここでLatinが重要な反例になる。
Latinでは動詞活用だけで人称が分かる。
cogito
だけでも、
私は考える
である。
つまりegoを毎回明示する必要はない。
したがって、
一人称主語を必ず書く言語
↓
ego概念が発達した
という因果モデルは成立しない。
少なくとも、
一人称の文法標示
≠
一人称の談話上の明示
≠
哲学的一人称
を分ける必要がある。
11 Descartesは比較の固定点になる
同じ著者のほぼ同じ命題で比較すると分かりやすい。
Frenchでは、
je pense
と、一人称jeが表面に出る。
Latinでは、
ego cogito
と書くことができる。
しかしLatinではcogito自体が一人称なので、egoは文法上なくても成立する。
Japaneseでは、
私は考える
とも、
文脈次第では、
考える
そう考える
とも言える。
したがって、
French je
= overt subjectが通常必要
Latin ego
= 人称は動詞で分かるが明示可能
Japanese 私
= 文脈次第で無標示にできる
という違いがある。
これは「西洋語対日本語」という二分法より細かい。
12 Japaneseの「私・僕・俺」をEnglish pronounと同型と決めない
Japaneseには、
私
僕
俺
わたくし
うち
自分
など、多数の自己指示表現がある。
しかし、これらをEnglish I と同じclosed-class personal pronounの集合とみなしてよいか自体、日本語学では議論がある。
Japaneseの自称表現は、
対人関係
丁寧さ
年齢
性別
社会的役割
場面
文体
と強く結びつく。
したがって、
I=私
は局所訳として成立しても、
Iと私が同じ文法カテゴリーで、同じ語用条件を持つ
とは限らない。
13 「日本語には主語がない」とまで言う必要もない
反対側の極端にも行かない。
日本語には主語が存在しない
という命題自体が、日本語学上の大きな理論問題である。
ここで必要なのはもっと限定的な記述である。
標準的English / Germanの有限平叙文に比べ、Japaneseは談話から回収可能な一・二人称argumentを無標示にできる範囲が大きい。
これで十分である。
問題は、
主語がある/ない
ではなく、
誰が経験者・行為者なのかという情報を、言語がどこに配置するか
である。
14 Ich denke → 私は考える――二種類の等価性を分ける
ここでKantの、
Ich denke
を考える。
Japaneseでは、
私は考える
と訳される。
普通の会話なら、Japaneseでは「私は」を省略できる。
しかし、だから、
「私は」は余計だ
とはならない。
Kantの文では Ich 自体が哲学的焦点である。
したがって翻訳者は、
Japaneseの日常会話として自然か
ではなく、
原文で哲学的焦点になっているIchを保存するか
を優先することができる。
つまり、
日常語用上の自然さ
≠
哲学翻訳上の機能保存
である。
これはA型の問題である。
翻訳目的によって最適解が変わる。
15 Japanese「自己」――selfの透明なコピーではない
現在のJapaneseでは、
自己紹介
自己決定
自己責任
自己認識
など、「自己」はかなり普通の語になっている。
しかし近代哲学語としてselfと対応するようになる過程は、最初から整っていたわけではない。
1881年『哲学字彙』では、
Self 自己、私我
である。
一方、
Ego 我、自己
である。
つまり1881年の時点ですでに、
Self
↘
自己
↗
Ego
と対応領域が重なっている。
16 1912年でも self / ego / 自己 / 自我 はまだ重なる
1912年版では、
Self → 我、自己、自我
Ego → 我、自我
となる。
ここから分かるのは、
現在の「self=自己、ego=自我」という比較的整った対応が、最初から存在したのではない
ことである。
より正確には、
後に安定していった対応の一つであり、歴史の出発点ではなかった。
とすべきである。
17 「自我」は古い漢字だから、modern egoも古いのか
もちろん違う。
「自」も「我」も古い。
「自我」という語形にも前近代の用例がありうる。
しかし、
語形が存在した
ことと、
近代哲学・心理学のego/selfを担うtechnical termだった
ことは別である。
したがって、
「自我は明治にゼロから造られた」
とも、
「自我は昔からmodern egoだった」
とも言わない。
より安全なのは、
既存の漢字資源が、近代哲学・心理学の中で再機能化された。
である。
18 しかも自我史は二段階ある
ここは重要である。
1912年には、すでに「自我」がSelf / Egoの訳語として辞書に現れている。
しかしFreudの、
Das Ich und das Es
は1923年である。
したがってJapanese「自我」は、
FreudのIchを訳すために初めて作られた
わけではない。
少なくとも二段階を分ける必要がある。
第一段階――明治期の哲学受容
self
ego
Ich
↓
自己
我
私我
自我
第二段階――後のpsychoanalysis受容
すでに存在する「自我」
↑
Freud: das Ich
↕
English: ego
つまりFreud的Ich / egoは、すでに別の哲学史を持っていた「自我」へ後から入った。
これはまさに、
翻訳は空白への挿入ではない
という事例である。
19 Freudは決定的なケーススタディになる
Freudの場合は、多段階変換が非常に見えやすい。
Germanでは、
das Ich
である。
Englishでは、
the ego
となる。
Japaneseでは、
自我
となることがある。
したがって、
Freud German
das Ich
↓
English
ego
↓
Japanese
自我
という経路が成立する。
しかしこれは、
すべてのGerman Ichがegoを経由して自我になった
という一般史ではない。
Freud受容など、特定の翻訳経路のケースである。
20 Freud翻訳では「何が失われ、何が得られたか」を問う
das Ichには、Germanの日常的一人称Ichとの形態的連続性がある。
egoにはそれがない。
このためFreud翻訳史では、
Ichをegoにすると、一人称的な直接性が薄れ、第三者的な心理対象に見えやすくなるのではないか
という批判が実際に出ている。
しかし逆に、
egoという訳語には当時すでに哲学・心理学上の伝統があり、technical conceptとしての精度を得られる
という側面もある。
したがって、
Ich = 生きた一人称
ego = 人工的物象
という単純二分にはしない。
問うべきなのは、
翻訳で何が見えやすくなり、何が見えにくくなったか。
である。
21 柳父章の「カセット効果」と接続する
Japaneseの「自我」「主体」のような漢語technical termを考えるなら、柳父章の翻訳語論を無視できない。
柳父のいわゆる「カセット効果」では、新しい翻訳語が、
内容を十分理解される前から、何か高度で価値ある概念を収める箱
として流通しうる。
これは本稿の、
日常的一人称から離れたtechnical termが、独立した理論対象のように見えやすい
という問題と近い。
ただし完全に同じではない。
本稿ではさらに、
indexicality
reflexivity
grammatical person
nominalization
translation distance
まで分ける。
したがって、
カセット効果+文法・語用上の形態距離
という比較が可能になる。
22 objectification と reification は別である
ここで重要な区別を追加する。
I / Ichのような一人称を、
the I / das Ich
として名詞化する。
このときまず起きるのは、
一人称性を理論的に明示して、考察対象にできるようにすること
である。
これは objectification。
しかし、
それは人間内部に独立した物体として存在する
と考えるなら、
reification――物象化・実体化
である。
したがって、
indexical
↓
nominalization
↓
objectification
≠
reification
である。
KantのIchやFichteのIchを、頭の中の小さな部品として読む必要はない。
23 「自我」が抽象漢語だから必ずreificationするわけでもない
同じことはJapanese側にも言える。
「自我」が日常の「私」と離れた形をしているから、
必ず実体化される
とは言えない。
逆に、
日常語から離れているからこそ、これは哲学・心理学上の理論モデルだと認識しやすい
可能性もある。
したがって、
形態的距離は、一方向の効果ではなく、複数の読み方を可能にする条件である。
実際の受容効果は別途調べる。
24 subjectはさらに別の歴史を持つ
ここで subject / Subjekt / 主語 / 主観 / 主体 を見る。
subjectを「自己」の別名にしてはいけない。
English / Germanのsubjectは、
文法
論理
認識論
行為論
政治
にまたがる。
たとえば、
grammatical subject
と、
knowing subject
と、
acting subject
は同じではない。
25 1881年には subject=主体ではなかった
1881年『哲学字彙』では、
Subject 心、主観、題目、主位
であり、
主体 はまだ中心訳として出ていない。
これは非常に重要である。
つまり、
subject
↓
1881
心
主観
題目
主位
↓
その後の再編
主語
主観
主体
という分化が起きた。
現在の、
subject=主体
も歴史の出発点ではない。
26 翻訳は「一語を一語へ」だけでなく、「一語を複数語へ分裂」させる
subjectの例は、翻訳の別の作用を示す。
原語では同じ subject が、
Japaneseでは、
主語
主観
主体
へ分かれる。
つまり翻訳は、
区別を消す
だけではない。
逆に、
原語内部で重なっていた意味を、受け手言語で複数のtechnical termへ分割する
こともある。
27 subiectum → 主体――本当に「意味反転」したのか
Latin subiectum は語源的には「下に置かれたもの」に関係する。
そこから、
基体
論理的主辞
文法subject
近代的認識主体
へ長い変化がある。
一方、Japanese 主体 は、
主
という字を含む。
そのため、
active master / central actor
のような印象を持ちうる。
これは興味深い。
しかし、
漢字「主」が実際にJapanese読者を能動的主体像へ誘導した
とまでは、まだ言えない。
これは受容史・心理言語学上の仮説である。
したがってUを残す。
28 Chinese――我・吾・己を一つのIにしない
Classical Chineseには、
我
吾
己
余
予
など複数の自己関連形式がある。
しかし、
我=小我
吾=真我
のような固定哲学対応を作ってはいけない。
有名な『荘子』の、
吾喪我
についても、
吾と我は二種類のselfを表す
という読みだけではない。
吾/我の文法分布から説明する研究もあれば、哲学的差異として読む研究もある。
したがって、
「吾喪我」は二種類のselfの存在を文法だけから証明しない。しかし、その文法差を哲学的差異としてどう読むか自体が実在の論争になっている。
とする方がよい。
29 Chinese 己・自己は、English selfと統語的にも違う
『論語』の、
己所不欲、勿施於人
の 己 は、局所的にはoneselfに近い。
しかし、
己=Western philosophical self
ではない。
さらにModern Chinese 自己 ziji には、English reflexiveとは異なるlong-distance referenceがある。
つまり、
意味だけでなく、自己参照を許す統語的範囲まで違う。
これはself比較で非常に重要である。
30 仏教の「我」はmodern egoではない
Japanese / Chineseの 我 を比較するならBuddhismは避けられない。
我
無我
我執
我所
という巨大な意味場がある。
しかしBuddhist ātman / 我 とmodern psychological ego は同じカテゴリーではない。
したがって、
ego
↓
自我 / 我
と訳すと、
既存の「無我」「我執」意味場へ接触する
可能性はある。
しかし、
Buddhist 我
=
Freudian ego
にはならない。
むしろ、
異なる概念系が同じ漢字を介して接触し、比較・混同・再解釈が可能になる。
と見る。
31 唯識にはすでに層状の心的モデルがあった
さらに東アジアには、
識
末那識
阿頼耶識
我執
心
など、自己や心的作用にかかわる既存の精密な語彙があった。
近代psychologyが入ってきたとき、
空白しかなかった
わけではない。
だから新しい問いが生まれる。
なぜego / selfを、既存の仏教心理語彙だけで処理せず、「自我」「自己」などへ再配置したのか。
これは今後検証すべきA+Inst+Uの問題である。
32 Modern Chineseへの移動も一本線ではない
近代Western terminologyはJapaneseを経由してModern Chineseへ大量に流入した。
しかし、
West
↓
Japan
↓
China
だけではない。
19世紀にはEnglish-Chinese dictionaries、中国側のWestern-learning vocabulary、Japanese辞書、再輸入などが複雑に循環している。
したがって、
語形の起源
≠
近代語義の起源
≠
実際の伝播経路
を分ける必要がある。
33 「日本製漢語」という一語では説明できない
ある語がClassical Chineseにすでに存在する。
その語をJapanでWestern conceptの訳語として再機能化する。
それがModern Chineseへ戻る。
中国側でまた再定義される。
こうしたケースがある。
だから、
古くから漢字語として存在した
と、
近代technical meaningが日本で形成された
は両立する。
さらに語ごとに経路は違う。
「自我」「主体」の個別経路にはUを残す。
34 この稿は日本語・中国語比較に限定する
ここで射程も明示する。
漢字学術語圏には、
Korean
Vietnamese
などもある。
したがって本稿の日中比較を、
East Asian language全体
の代表にはしない。
ここでは、
JapaneseとChineseという二つの主要な比較窓に限定する。
今後、KoreanやVietnameseを加えれば、文法類型と漢字語伝播をさらに分離できる。
35 一人の話者は、自分自身を何通りの形式で言語化できるか
「一人の人間に一人称が何個あるか」という問いは少し粗い。
より正確には、
一人の話者は、自分自身を何通りの形式で言語化できるか。
である。
Japaneseなら、
私
僕
俺
わたくし
うち
自分
名前
役割語
zero expression
などがある。
Chineseでも、
我
吾
余
予
自己
zero expression
などが時代・文体によって異なる。
これらは全部同じ文法カテゴリーではない。
しかし、
同じ人物が自己を言語化する複数資源
として比較できる。
36 一人称は固有名ではない
「石部統久」のような名前は、その人物を第三者も使える。
しかし、
私
は違う。
誰が言うかによって指す人物が変わる。
English I、German Ich、Chinese 我 も同じ基本的性質を持つ。
つまり一人称は、
固定対象の名前
ではなく、
発話状況に応じて指示対象が定まるindexical
である。
37 一人称を哲学概念にするとき、何が変わるのか
ここから、
I / Ich
↓
the self / das Ich / ego
へ進む。
このときまず起きるのは、
「発話者である」という関係を理論的に明示する
ことである。
それはobjectification。
そこからさらに、
その人の中に独立したself-substanceが存在する
と考えるならreification。
ここを混同しない。
38 Kaplan・Perry型のindexical問題とも接続する
一人称を単なる名詞だと考えない問題は、現代哲学でも重要である。
「I」「here」「now」のような表現は、
誰が、どこで、いつ発話するか
に依存する。
さらに、
私自身についての情報
は、第三者記述へ完全には置き換えられないのではないか、というessential indexicalの問題もある。
この既存議論へ、
Japaneseの複数自称形式
zero expression
Chineseの我/吾/己
technical 自我
を接続すると、
一人称の論理機能と、言語ごとの社会的・文法的実装を分けて比較する
ことができる。
39 JapaneseやChineseは「selfが弱い言語」ではない
JapaneseでIに相当する語が頻繁に省略される。
だから、
Japaneseにはselfが弱い。
とはならない。
Chineseにも同じことが言える。
人間には、
身体感覚
記憶
行為
自他区別
自己帰属
などがある。
問題は、
それをどんな文法・語彙・哲学的カテゴリーとして表面化させるか
である。
したがって、
一人称語を省略する
≠
一人称経験がない
egoという語がない
≠
self-modelがない
である。
40 「Western individual self vs Eastern relational self」も粗すぎる
ありがちな文明比較にも注意する。
West
= individual self
East Asia
= relational self
という二分法である。
しかしWestern philosophyにも、
Hegelian recognition
social person
relational psychoanalysis
がある。
Chinese / Japanese思想にも、
己
我
修身
個人的責任
身体的修養
などがある。
したがって文明単位で、
個人/関係
を固定しない。
見るべきなのは、
どの時代・制度・ジャンルで、どの自己関係が前景化したか
である。
41 文法affordanceを検証するなら二型分類をやめる
ここで以前の仮説をさらに厳しくする。
単純に、
overt-I language
vs
zero-subject language
を比較してはいけない。
少なくとも、
overt pronoun requirement
verbal agreement
argument omission
topic structure
logophoricity
pronoun inventory
reflexive domain
social indexing
honorific system
を別々の変数として見る必要がある。
「主語が強い/弱い」は粗すぎる。
42 さらに翻訳経路という交絡を統制する
JapaneseとChineseで似た結果が出ても、
文法構造が似ているから
とは限らない。
Japaneseの翻訳語がChineseへ流入したなら、
共通の伝播経路
だけでも類似が説明できる。
したがって、
grammar
→ translation result
を検証するには、
historical transmission route
も統制する必要がある。
将来的には、
Korean
Turkish
Tamil
Latin
など、文法類型と概念伝播経路の組み合わせが異なる言語を比較できる。
43 第4項――まず小さく実証する
この補論の仮説は、かなり具体的に検証できる。
第1段階――辞書
1881・1884・1912年『哲学字彙』で、
Self / Ego / Subject
を追う。
すでに、
1881
Self → 自己、私我
Ego → 我、自己
Subject → 心、主観、題目、主位
という重要な状態がある。
これを後代と比較する。
44 第2段階――同じ哲学者の翻訳史
次に、
Kant: Ich
Fichte: Ich
Freud: Ich
がEnglish / Japanese / Chineseで、
I
self
ego
私
自己
自我
のどれへ訳されたかを比較する。
同じGerman Ich でも、
哲学者・時代・翻訳目的によって対応が違う
なら、それ自体が重要な結果である。
45 第3段階――subject / Subjektの分裂を見る
subject / Subjekt
↓
主語
主観
主体
について、
文法書
哲学書
辞書
心理学書
のジャンル分布を調べる。
これは、
一語が複数technical termsへ分割される
過程を実証しやすい。
46 第4段階――実際の受容効果を別に調べる
語形が変わったからといって、
人々の自己経験が変わった
とはまだ言えない。
調べるなら、
新聞
雑誌
日記
小説
心理学教科書
自己啓発書
などで、
「自我」が、
自我が強い
自我を抑える
自我を出す
のような自己記述へいつ入り、
さらにその日常使用が後続理論へ戻ったかを追う必要がある。
ここまで確認できればP²が強くなる。
47 P診断を修正する
したがって現段階では、
P¹――強い
翻訳・分類によって、self / ego / subjectをJapanese / Chinese上で別の問題として表現できるようになった。
これはかなり強く言える。
P²――候補
専門語が人々の自己記述へ入り、その変化がさらに学説・制度へ戻ったか。
ここはまだ十分実証していない。
したがって、
P²候補+U+E₁
とする。
48 AIに「私」と言わせると何が起こるのか
この分解はAI論にも使える。
AIが、
私はそう思います。
と出力する。
しかし、そこから、
selfが存在する
とは言えない。
少なくとも、
first-person token
≠
deictic self-reference
≠
self-model
≠
diachronic identity
≠
agency
≠
phenomenal selfhood
を分ける必要がある。
さらにAIの「私」がhuman Iと同じindexicalなのかも別問題である。
AIの場合、
system role
dialogue context
persona instruction
model architecture
によって「私」が生成される。
したがって、
「私」と言うAI ≠ 自我を持つAI
である。
しかし、
「私」と言わないAI ≠ self-modelを持たないAI
でもない。
49 5+Oで整理する
今回の語群を5+Oへ戻す。
1 語形
I / myself / self / ego / subject
Ich / mich / sich / selbst / Selbst / Subjekt
私 / 僕 / 俺 / 自分 / 自己 / 自我 / 我 / 主語 / 主観 / 主体
我 / 吾 / 己 / 自己 / 自我 / 主语 / 主体
2 語義・用法
発話者指示。
反射。
強意。
視点。
自己。
心理的自我。
認識主体。
行為主体。
3 概念・説明モデル
Lockean self。
Kantian Ich。
Fichtean Ich。
Freudian Ich。
subjectivity。
self-model。
agency model。
4 実践・制度
翻訳。
辞書。
大学哲学。
心理学。
精神分析。
学校。
法律。
日常の人称選択。
5 経験・生成現象
一人称視点。
身体所有感。
自己帰属。
記憶。
行為主体感。
自己意識。
+O
substantial ego / immaterial soul / independent self のような存在者が実在するのか。
50 A / B / E / P / Uで診断する
A――非常に強い
Ichを「私」「自己」「自我」のどれへ訳すか。
subjectを「主語」「主観」「主体」のどれへ訳すか。
これはジャンル・理論・翻訳目的に依存する。
B――基本的になし
一人称語からsubstantial selfが必然的に導かれるという定理はない。
E₁――強い
過去の話者が「自我」「自己」を使うことで、どのような自己経験を持ったかには直接アクセスできない。
E₃――強い
selfhoodを何で測るか自体が現在も争点である。
P
P¹――強い。
P²――候補+U。
U――非常に強い
文法差、翻訳経路、思想史、制度、既存宗教語彙の相対的寄与をまだ識別できない。
51 今回の最大の反証条件
本稿の有力仮説の一つは、
文法・語用上の構造差が、self / ego / subjectの翻訳に異なるaffordanceを与えうる
である。
しかしこれを強く支持するには、
文法構造
翻訳経路
教育制度
既存哲学語彙
を分離しなければならない。
もし、これらを統制したあとも、
言語ごとの文法差とtechnical selfの用法差に系統的関係がない
なら、この仮説は弱くなる。
つまり反証可能である。
結び――「私」は一つなのか、という問い自体を分解する
最初の問いへ戻ろう。
self / Ich / ego / 自我 / 自己 / 我 / 主体は、同じものなのか。
答えは、
局所的には重なる。しかし同じ種類の語ですらない。
である。
I / Ich / 私 / 我 は発話者指示に強く関わる。
myself / mich・sich / 自分 / 自己 は反射・視点・自己関係へ関わる。
the self / das Selbst / 自己 は、自己を名詞的・理論的に扱う。
ego / das Ich / 自我 は、哲学・心理学でtechnical objectになる。
subject / Subjekt / 主語 / 主観 / 主体 は、文法・論理・認識・行為という別々の問題を担う。
そして、この複数の境界は翻訳でそのまま移らない。
English subject がJapaneseで、
主語
主観
主体
へ分かれることがある。
English Self / Ego が1881年Japaneseでは、
Self → 自己、私我
Ego → 我、自己
と重なる。
Freudの das Ich は、ある翻訳経路では、
das Ich
↓
ego
↓
自我
と移る。
しかし「自我」はその時点ですでに別の哲学史を持っている。
Chinese 自己 はEnglish reflexiveとは異なる統語的範囲を持つ。
Japanese 自分 は視点・logophoricityまで担う。
Buddhist 我 はmodern psychological egoではないが、翻訳によって両者が同じ漢字意味場へ接触する。
つまり、
翻訳とは、完成済みの概念に別の名前を貼ることではない。
より正確には、
概念境界と用法ネットワークを、別の言語の上へ再写像することである。
そして再写像すれば、
一つだったものが分かれる。
別だったものが重なる。
古い意味場へ接続される。
新しい対立が生まれる。
後からまた分化する。
だから、
翻訳とは、意味の境界線を別の言語の地図の上に引き直す作業である。
線を引き直せば、線そのものも変わる。
最後に、「私」という題名そのものにも罠がある。
身体として一人である。
発話者として一人である。
一つの一人称視点を持つ。
一つの人格として扱われる。
一つのself-modelを持つ。
一つの哲学的selfが存在する。
これらは全部、別の命題である。
したがって、
「私」は一つしかないのか。
という問いに答える前に、
何を一つと数えているのか。
を問わなければならない。
世界心霊用語史が比較しているのは、「世界中で同じ一個の自己に何という名前を付けたか」ではない。
人間が、自分自身との関係を、文法・語彙・哲学・制度の中でどのように切り出してきたか。
その複数の切り方の歴史なのである。
この稿のガードレール
発話者indexical ≠ reflexive ≠ nominal self ≠ ego ≠ subject。
同じ語源 ≠ 同じ文法機能。
語形の古さ ≠ 近代technical conceptの古さ。
objectification ≠ reification。
形態的連続 ≠ 一人称性の完全な保存。
形態的断絶 ≠ 必ず実体化。
主語省略 ≠ 自己経験の欠如。
日常語への流入 ≠ P²成立。
文法差 ≠ 哲学差の単独原因。
局所的対訳 ≠ 語彙ネットワークの同一性。
出典
1881年『哲学字彙』一次資料――最重要
国立国語研究所の全文翻刻です。一次資料上、Self=自己、私我、Ego=我、自己、Subject=心、主観、題目、主位 と確認できます。したがって今回の訂正版はこちらを基準にしてください。
国立国語研究所『哲学字彙』1881 全文
国立国語研究所『哲学字彙』資料ページ1912年『英独仏和哲学字彙』――Self / Ego / 自我の変化
佐々木英和の論文では1912年版について、Self=我、自己、自我、Ego=我、自我 が確認されています。1881→1912の変化を示す本稿の中心資料です。
佐々木英和論文 PDF(宇都宮大学)
1912年版そのものの書誌はこちら。
CiNii Books『英獨佛和哲學字彙』1912日本語の「私・僕・俺」等をEnglish型personal pronounと単純同型にしない根拠
Ritter & Wiltschkoは、日本語のいわゆるpronounsがEnglish/French/German型の単純なperson-number-gender paradigmではなく、対人関係などのinteractional informationを強く担うことを論じています。
Cambridge — Pronouns beyond phi-features日本語では一・二人称を明示すること自体に語用論的意味がある
Lee & Yonezawa 2008。subject omissionだけでなく、あえて一・二人称を明示するとcontrast・emphasis・社会関係・親密さなどをindexしうることを示しています。
Journal of Pragmatics — overt first/second person subjects in Japanese
オープンな書誌・abstractはこちら。
ANU Research Repository版Japanese 自分――reflexiveだけでなくlogophoric / viewpointを持つ
Hiroseの研究では、zibun のreflexive、logophoric、viewpoint用法が区別されます。つまり 自分=English -self ではありません。
Hirose — The conceptual basis for reflexive constructions in Japanese
Cambridge Handbook — Logophoricity, Viewpoint, and ReflexivityGerman――reflexive pronounは Selbst ではなく mich / dich / sich 等
Dudenが明確です。三人称は sich、一・二人称ではpersonal pronoun形と同形です。これが self=Selbst という平坦な表を崩す根拠です。
Duden — Pronomen / ReflexivpronomenChinese 自己 ziji――long-distance reflexive
Oxford Research Encyclopedia。ziji はlong-distance bindingを許し、anaphorだけでなくgeneric pronoun・intensifierなどにも使われます。
Oxford — Chinese ReflexivesI / Ichをindexicalとして扱う理論的根拠
SEPのIndexicals。I は、発話文脈によって指示対象が変わる典型的indexicalとして整理されています。Kaplanのcharacter/content区別への入口にもなります。
Stanford Encyclopedia — Indexicals
Perryのessential indexicalまで含めるならこちら。
SEP — Self-Consciousness / Essential IndexicalityDescartes――French je pense とLatin cogitoの比較
CambridgeのDescartes Latin–English edition解説では、French je pense donc je suis と、後のLatin Cogito ergo sum の関係が確認できます。
Cambridge — Descartes, Meditations, Latin–English EditionFreud一次資料――原語は Das Ich und das Es
1923年原版のデジタル歴史批判版。Ich / Es / Über-Ich の原語確認にはこれが最優先です。
Sigmund Freud Edition — Das Ich und das Es, 1923Ich → ego 翻訳問題の現代的再検討
Mark Solms, 2025。Revised Standard Editionに際して、Freudのtechnical termsの英訳史、Strachey訳の利点と問題、訳語が概念関係をどう見せるかを検討しています。今回の「何が失われ、何が得られたか」に最も直接的です。
Solms — Reflections on the Translation of Freud’s Writing日本語訳『自我とエス』の初期資料
国立国会図書館のレファレンスでは、戦前の邦訳資料および1923年独語原著への導線が整理されています。Freud受容以前から「自我」が存在することとは分けて使う資料です。
国立国会図書館 — フロイト『自我とエス』資料案内柳父章『翻訳語成立事情』
翻訳語が日本語の意味空間をどう変えるかを扱う基本文献。本稿の「自我」「主体」問題との比較に必要です。
国立国会図書館 — 柳父章『翻訳語成立事情』
「カセット効果」そのものについては、柳父翻訳学のシンポジウム資料が明示的に説明しています。
J-STAGE — 「未来につなぐ柳父翻訳学」subject → 主観/主体/主語の日本受容史
小林敏明『〈主体〉のゆくえ』。明治以後subjectに「主観」「主体」「主語」など複数訳が現れたことを主題そのものとして追っています。
講談社 — 小林敏明『〈主体〉のゆくえ』
1881年には実際に Subject=心、主観、題目、主位 で「主体」がないことは、上記NINJAL一次資料でも直接確認できます。『荘子』「吾喪我」――吾/我を二種類のselfと即断しないための論争資料
Thomas Ming, “Who Does the Sounding?”。吾 と 我 の意味差についてsingle-reference / double-reference / no-referenceという複数の読みを検討しています。仏教の無我と一人称使用を分ける
Vasubandhu研究。substantially realなselfを否定しても、I を使って自己について語れるのはなぜか、という問題を正面から扱っています。modern ego=仏教の我、としないために有用です。Modern Chineseへの日本語近代訳語流入――ただし単純な「日本製→中国」ではない
宮田和子「『現代漢語外来詞研究』再考」は、従来日本起源とされた語について19世紀English-Chinese辞書などを用いた再検討の必要を示します。中国→宣教師辞書→日本→Modern Chineseという共同形成モデル
陳力衛「近代訳語のいわゆる転用語について――『文学』と『教育』を例として」。古典漢語、英華辞典、日本での意味再編、Modern Chineseへの再流入を単純な一方向史ではなく扱っています。今回の「語形起源≠近代語義起源≠伝播経路」の強い裏づけです。
石部統久・ChatGPT5.6
査読:ChatGPT5.6・Claude Opus5・Grok・Gemini3.7(Parcae Protocol)
