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アウシュヴィッツの様々な議論(21):『死の軍団』は最初の始まりはR.フォーリソン……まさかこんな話だったとは。絶句。

『死の軍団(Legions of Death)』はジャーナリストのルパート・バトラーが著した本ですが、この本にはアウシュヴィッツ司令官だったルドルフ・ヘスがイギリス軍によって逮捕された時の状況が、その逮捕を担当した当事者への取材によって詳しく記述されており、修正主義者たちは「やはりヘスに対して拷問があったのは事実だった!」と騒いだようです。

この『死の軍団』を最初に扱ったのが誰なのかは知りませんが、ロベール・フォーリソンの論文記事で取り上げていたのがどうやら有名なようです。ツンデル裁判で有名なエルンスト・ツンデルも同時期に何やら述べているようなのでこちらから以下にコピペ引用しておきましょう。

参考資料:著エルンスト・ツンデル 『ニュルンベルク: 消えざる犯罪(訳:NSJAP)』より
 戦慄すべき「残虐行為」を,ホェスがニュルンベルクで証言したことは事実である.自ら署名した陳述書の真偽について,彼が宣誓したことも事実である.彼はこの中で,何百万人をガスで殺す指令書を受け取ったことを認めている.しかし,この陳述書は英語で書かれており,家族の話では,ホェスは英語を話すことも聞くこともできなかったのである. 私たちには今,『死の軍団』という本がある.この本の中では,ルドルフ・ホェスが拘留中,死ぬほど殴打されたことが記されている.彼を殴打したのはイギリ ス警察に属するユダヤ人であった.彼らは殴打後も,ホェスが悲しい「証言」,「陳述書」を書くまで拷問を続けた.そしてこの証言が,連合国宣伝部によって その後ずっと用いられたのである.以下にルパート・バトラーによる『死の軍団』からの抜粋を示そう.判断するのはあなたである.

<抜粋内容はこちらにあるので省略>

このように拷問と脅迫で得られた証言が,私たちがよく知っている「ユダヤ人をガス室で殺した」事件の証拠となっているのである.

引用中、強調した部分はツンデルのウソです。『死の軍団』の当該部分を読めばわかりますが、逮捕時に暴行はあったものの、勾留中の暴行など『死の軍団』には一言も書いていません。また細かい話ですが、その記述されている逮捕時の暴行は、逮捕時に同行していた医務官が、軍曹たちのヘスに対する暴行を止めないと死体になるかもしれないよ、と逮捕の責任者に忠告しただけであり、「死ぬほど殴打した」とは書いていません。さらに、逮捕後の最初の尋問中に暴行があったことはヘス自身が自伝で書いています(日本語版ではヘスは「鞭」と書いていたことになっている)が、脅迫とはどこにも書いていません。

修正主義者たちにとって、ルドルフ・ヘスのニュルンベルク裁判での証言や回想録に書かれた詳しいユダヤ人虐殺に関する説明は「真っ赤なウソ」でなければなりません。嘘でないことを認めたら修正主義は一巻の終わりです。ニュルンベルク裁判での被告については厳しい取り調べがあったことについて私自身は詳しくは存じてはいませんが、修正主義者たちは拷問的な尋問があったと言っており、『137人の睾丸を破壊した』話を修正主義者は大好きなように、ヘスについてもその「真っ赤なウソ」は拷問によるものだという筋書きで通しておきたいのでしょう。ですから、ツンデルのように勢い余ってウソを書いてしまったのかもしれません。『死の軍団』にはヘスが自白をするまでの勾留中三日間について、拷問など書いてません。

彼からまとまった言葉を引き出すのに3日かかった。しかし、いったん話し始めると、彼を引き止めることはできなかった。

と書いてあるだけなのです。ところが、今回翻訳紹介しているフォーリソンの論文は、よく読むとフォーリソンは自分の憶測部分(なかなか区別しにくいが)以外は、『死の軍団』の当該箇所をどうやら正確に読んでいたことがわかるのです。彼は当論文で「3日間の拷問を受けたと言われている」と妙な書き方をしているのがそれです。『死の軍団』を前にして論述しているのに、「言われている」と書くのは変です。多分、上で引用したフォーリソンの修正主義者仲間でもあるツンデルの記述が念頭にあるのだと思います。しかしツンデルは『死の軍団』にそう書いてあったと言っているのですから、フォーリソンはツンデルの記述を暗に否定していることになります。

その上さらに、三日間の間に一般に思われるような拷問がなかったことすらフォーリソンは明らかにしてしまっています。私にはそれは修正主義者の言うような拷問とは程遠いものとしか思えませんが、フォーリソンにとってはそれが拷問なのでしょう。いやはや、実に興味深いと言うか、奇妙な論文です。修正主義者たちはどうして、このフォーリソン論文の異常さに気がつかないのでしょうね?

なお、この翻訳記事公開時には私の方で何箇所か私自身の注釈を挟んでおいたのですが、今回修正するにあたって、全ての注釈を削除しました。ですから、注意して欲しいのですが、フォーリソンのこの論文はフォーリソンの単なる憶測と曲解だらけでして、事実である部分と単なる憶測・曲解の部分を可能な限り区別して読む必要があるとだけ言っておきます。

註:以下翻訳のみ、2026年1月に全面改訂。今回改訂にあたって、最小限の註を加えておきました。

▼翻訳開始▼

イギリスはいかにしてルドルフ・ヘスの自白を得たか

ロベール・フォーリソン

ルドルフ・ヘスは、アウシュヴィッツ強制収容所の三代にわたる歴代所長のうち、最初の所長であった。彼はしばしばアウシュヴィッツ所長と呼ばれ、一般大衆は『アウシュヴィッツの所長』という題名で出版された書物によって彼を知っている。

彼は1946年4月15日、証人として国際軍事裁判所に出廷し、その供述は大きな衝撃を引き起こした。被告人たちを驚愕させ、世界中から集まった報道陣の面前で、彼は歴史上かつて知られたことのないほど恐るべき犯罪を自白した。彼は、ユダヤ人を絶滅せよという命令をヒムラーから個人的に受け取ったと述べた。また、アウシュヴィッツでは300万人が絶滅され、そのうち250万人がガス室によって殺害されたと推定した。これらの自白は虚偽であった。それらは拷問によってヘスへ強要されたものであり、彼に拷問を加えた者たちの正体と、その拷問の内容が明らかになるまでには、1983年まで待たねばならなかった。

ルドルフ・ヘスの自白は、特に殺人的ガス室による体系的なユダヤ人絶滅が歴史的現実であったとする理論の要石を成している。これらの自白は、本質的には四つの文書から成り、年代順に並べると以下のとおりである。

1.1946年3月14日(あるいは3月15日?)午前2時30分に署名された書面による供述書である。これはドイツ語で書かれた8ページのタイプ原稿である。通常の状況下であれば、いかなる民主国家の裁判所も、表題も印刷された行政上の参照番号も欠き、タイプあるいは手書きによるさまざまな訂正が散在し、それらにイニシャルも付されず、末尾に訂正または削除された語数の総計についての注記もないこの文書を、証拠として考慮することに同意しないであろうと私は考える。ヘスは、14.3.46 230と書き込んだ後、この文書に最初の署名をした。さらに、手書きであるはずだが実際にはタイプされている二行の文の後に、再度署名している。その文は次のとおりである。

私は上記の供述を読み、それが私自身の供述と一致しており、純然たる真実であることを確認する。(公式訳)

続いて、二人の証人であるイギリス軍曹の氏名と署名が記されている。一人は日付を記入しておらず、もう一人は3月15日と記している。最後の署名は第92野戦保安部隊の大尉のものであり、彼は、囚人ルドルフ・ヘスが自発的に供述を行った全過程において二人の軍曹が立ち会っていたことを証明している。記されている日付は1946年3月14日である。場所はどこにも記されていない!

連合国はこの文書にNO-1210という番号を付した。

2.22日後の1946年4月5日に署名された宣誓供述書である。これは英語で書かれた20ページに及ぶタイプ原稿である。これは驚くべきことである。すなわち、ヘスは自らの言語ではなく、看守たちの言語によって、宣誓のもとでの供述書に署名したのである。彼の署名は三度現れる。最初の二ページの下部、そして三ページ目かつ最終ページの下部であり、そこには四行からなる文章が続いている。これもまた英語で、タイプされており、次のように書かれている。

私は上記のとおり書かれた英語を理解する。上記の供述は真実である。この供述は私によって自発的に、いかなる強制もなく行われたものであり、供述書を読み終えた後、私は1946年4月5日、ドイツ・ニュルンベルクにおいて、これに署名し、作成した。

これに続いて、スミス・W・ブルックハート中佐の署名があり、次の文言が記されている。1946年4月5日、ドイツ・ニュルンベルクにおいて、私の面前で提出され、宣誓された。

形式の点において、この文書は、可能であれば、前の文書よりもさらに受け入れがたいものである。特に、英語式に大文字で書かれた全文の行が後から追加されている一方で、他の行はペンによる一本線で抹消されている。これらの訂正の横の余白にはイニシャルがなく、また、抹消された語についての要約も文書の末尾に存在しない。連合国はこの文書にPS-3868という番号を付した。

ヘスが本来は自分の母語で書かれるべきところを英語で書かれた宣誓供述書に署名していたという事実を隠し、さらに抹消された語句や追記・訂正を消し去るために、ニュルンベルクでは次のような手口が用いられた。すなわち、原文を作り直し、それをドイツ語から英語への翻訳として提出したのである。しかし、この欺瞞の責任者は作業をあまりにも急ぎすぎた。彼は、第10段落への手書きの追記(英語的な筆記体で書かれたもの)を、第9段落の末尾への追記だと思い込んでしまった。その誤解の結果、第9段落の末尾は完全に意味不明なものとなった。したがって、同じ文書番号PS-3868を付された二つの異なる文書が存在することになる。すなわち、ヘスが署名した文書と、その作り直しである。ニュルンベルク裁判で使用されたのは、この作り直し、すなわち実際には露骨な偽造文書であった。文書PS-3868をヘスによるものとして再録したと主張するある歴史書は、実際にはこの作り直しを再録しており、しかも第9段落の末尾および第10段落全体を、そうであることを断ることなく省略している。アンリ・モヌレ、La Persécution des Juifs dans les pays de l’Est présentee à Nuremberg、パリ、現代ユダヤ史資料センター、1949年、159~162頁を参照せよ。

3.すでに言及した、1946年4月15日に国際軍事裁判所(IMT)で行われた、あの劇的な口頭供述である。これは文書PS-3868が作成されてから10日後のことであった。逆説的なことに、ヘスの出廷を求めたのは弁護側の弁護士、すなわちエルンスト・カルテンブルンナーの弁護人であったクルト・カウフマンであった。彼の明白な意図は、推定されている絶滅の責任者がカルテンブルンナーではなくヒムラーであることを示す点にあった。検察側の代表(当時はアメリカ人の副検事、ハーラン・エイメン大佐)がヘスを尋問する段になると、彼はヘスが署名した宣誓供述書を読んでいるかのように見えたが、実際には「作り直し」からの抜粋を読んでいた。エイメン大佐は第9段落(同時に第8段落)を読まなかったことについて弁解を与えた。彼は各抜粋を読むごとに立ち止まり、それが実際にヘスの供述した内容であるかどうかを尋ねた。それに対して彼が受け取った答えは、Jawohl、Jawohl、Jawohl、Ja, es stimmt、二文からなる回答(そこには、ハンガリー系ユダヤ人が1943年の早い時期にすでにアウシュヴィッツで殺害されていたとする明白な誤りが含まれていた。実際には彼らの最初の輸送団がアウシュヴィッツに到着したのは1944年5月2日である)、Jawohl、Jawohl、Jawohl、一文からなる回答、Jawohl、そしてJawohlであった[IMT,第XI巻、457~461頁]。ヘスの発言は、IMT叢書のドイツ語版テキストに基づいて引用されている。

通常の殺人事件であれば、絶滅やガス室について、すなわち歴史上前例のない犯罪とその犯罪手段について、百の質問がなされてしかるべきであったが、そのような質問は一つもなされなかった。とりわけエイメン大佐は、世界中の新聞で翌日に見出しとなる記事を書き立てることになる記者たちの面前で朗読した、その恐るべき文章について、いかなる細部も、いかなる追加情報も、ただの一つとして求めなかったのである。

4.一般に『アウシュヴィッツの司令官』という題名のもとにまとめられている諸文書である。ヘスは、裁判を待つ間にクラクフの刑務所に収監され、ポーランド共産主義政権の看守たちの厳重な監視のもとで、これらの文章を鉛筆で書いたとされている。彼は1947年4月2日に死刑を宣告され、14日後にアウシュヴィッツ強制収容所で絞首刑に処された。彼のいわゆる回想録がドイツ語で公刊されるまで、世界は1958年までの11年間を待たねばならなかった。


翻訳者註:この「11年間」については、研究者でも知らない人が多いようなのですが、講談社学術文庫版のヘスの回想録である『アウシュヴィッツ収容所』には、最初のドイツ語版にだけあったらしいマルティン・ブローシャートの序文が掲載されていて、そこに以下のような説明が書かれています。

この資料の異常さは、すでに数年前、ポーランド語でヘス文書が最初に公表された際、ワルシャワの中央委員会を動揺させた。この文書は、一九五一年にワルシャワのポーランド法務省出版局から刊行された「ヒトラーによる犯罪調査のための中央委員会」報告第七巻の中にある。これには、自伝の他に、個別の比較的短い文書の一部も含まれている。この最初のポーランド語版への序文を書いたのは、すでに名前を挙げたポーランドの犯罪学者スタニスラウ・バタヴィア教授だった。彼の報告によれば、彼はクラカウで計十三時間にもわたって、ヘスと面談したとのことである。さらに一九五六年、『アウシュヴィッツの指揮官、ルドルフ・ヘスの回想』というタイトルで、ヘス文書の、二番目のポーランド語による完全版が、ワルシャワ法律出版から刊行された。この版には、自伝を含むヘスのすべての文書と、さらにヘスが一九四七年四月十一日絞首刑に処せられる前にドイツにいる彼の妻や子供たちに宛てて書き、発送される前にポーランドでコピーされた二通の手紙も含まれている。

ルドルフ・ヘス、『アウシュヴィッツ収容所』、講談社学術文庫、p.25(強調は私)

ブローシャートが編纂したドイツ語版は1958年ですが、その前の1951年と1956年に二つのポーランド語版が出版されていたのです。なお、以降でフォーリソンは「ブロシャートは、ヘス(あるいはそのポーランド人看守)が信じ難い主張を行っていたことをあまりにも明白に示し、彼の著作全体の信頼性を疑わせかねないいくつかの断片を、あえて削除するにまで至った」などと、あたかもまずい記述をブローシャートが削ったかのように主張していますが、ブローシャートはその省略理由を序文で詳述しており、フォーリソンの主張のようなことは一切書かれていません。それにポーランド語版の二番目のものでは全てが含まれている、とありますのでフォーリソンがまずい箇所をあたかも隠したかのように言っているのは的外れでしかありません。


それらはドイツ人歴史家マルティン・ブローシャートによって編集されたが、学問的手法への配慮はなされていなかった。ブロシャートは、ヘス(あるいはそのポーランド人看守)が信じ難い主張を行っていたことをあまりにも明白に示し、彼の著作全体の信頼性を疑わせかねないいくつかの断片を、あえて削除するにまで至った。

以上に列挙した四つの文書は、その成立において密接に結び付いている。これらをより詳しく見ると、相互の内容には矛盾も存在するが、大部分においては内部的に整合している。NO-1210の8ページは、ある意味でPS-3868の20ページに要約されており、この後者の文書が国際軍事裁判所における口頭証言の中心文書として用いられ、最後にクラクフで書かれた回想録が全体を締めくくる。したがって、その基礎であり母型となるのは文書NO-1210である。ポーランドの予審判事ヤン・ゼーンの監督下で書かれたクラクフ回想録において、ヘスは、まさにその最初の自白をイギリス側がいかにして得たかについての詳細を述べることになるのである。

最初の自白についてのヘスの告白(1946年3月14日または15日付文書NO-1210)

ドイツにおける戦争は1945年5月8日に終結した。ヘスはイギリス軍の手に落ち、SS隊員用の収容所に投獄された。彼は訓練を受けた農学者であったため、比較的早期に釈放された。看守たちは、自分たちの捕獲した獲物の重要性を知らなかったのである。労働局は、デンマーク国境から遠くないフレンスブルク近郊の農場で、彼に農業労働者としての仕事を見つけた。彼はそこに八か月間留まった。軍警察は彼を捜索していた。彼が連絡を取ることに成功した家族は、厳重に監視され、頻繁な家宅捜索を受けていた。

ヘスは回想録の中で、自身の逮捕の状況と、その後に続いた出来事を語っている。彼が受けた扱いは、とりわけ残虐なものであった。一見すると、ポーランド側が、イギリス軍警察についてヘスが行ったあのような暴露を許したことは意外に思われる。しかしよく考えてみると、彼らは次のような動機の一つ、あるいは複数によって、そうした可能性があることが分かる。

  • 自白に誠実さと真実味の外観を与えるため。

  • イギリスの方法とポーランドの方法とを比較させ、ポーランド共産主義者にとって有利な印象を読者に与えるため。実際、ヘスは後に、クラクフでの拘禁の最初の段階において、看守たちは彼を肉体的にも、そして何より精神的にも、ほとんど完全に破壊するところまで追い込んだが、その後は「非常に礼儀正しく思いやりのある扱い」をしたため、彼は回想録を書くことに同意したと述べている。

  • イギリス警察がヘスに署名させた文書(NO-1210)に含まれるいくつかの荒唐無稽な点について説明を与えるため。その一つは、ポーランドのいかなる地図にも存在しなかった場所における「絶滅収容所」の捏造である。すなわち「ルブリン近郊のWolzek」である。これはベウジェツとの混同ではあり得ない。なぜなら、ヘスは三つの収容所について語っているからである。「Belzek(原文のまま)、Tublinka(原文のまま)、そしてルブリン近郊のWolzek」である。さらに後の箇所では、Treblinkaの綴りは訂正されている。付言しておけば、ヘスによれば、ヒムラーがそれらをすでに「絶滅収容所」として稼働していると彼に告げたとされる時点(1941年6月)には、ベウジェツ収容所もトレブリンカ収容所も、まだ存在していなかった。

以下に示すのは、ヘス自身が用いている言葉であり、順に、イギリス側による彼の逮捕、文書NO-1210となる文書への署名、さらに一層苛烈な扱いを受けたミンデン・オン・デア・ヴェーザーへの移送、ニュルンベルク裁判所の刑務所での拘留、そして最後にポーランドへの引き渡しについて述べている。

私は1946年3月11日(午後11時)に逮捕された。

私の毒薬の小瓶は、その二日前に壊されていた。

眠りから起こされたとき、私はまず強盗に襲われたのだと思った。当時は強盗事件が頻発していたからである。彼らはそのようにして私を逮捕することに成功した。私は野戦保安警察によって虐待された。

私はハイデに連行され、八か月前にイギリス軍によって釈放されたのと同じ兵舎に収容された。

最初の尋問では、殴打によって供述が引き出された。私は、その調書に何が書かれているのか知らないが、署名はした。アルコールと鞭は、私にとって耐え難いものであった。その鞭は私自身のもので、偶然にも妻の荷物の中に入っていたものである。それは、私の馬にすらほとんど使われたことがなく、ましてや囚人に使われたことなどなかった。それにもかかわらず、尋問官の一人は、私がそれを用いて囚人を常習的に鞭打っていたと確信していた。

数日後、私はイギリス占領地区の主要な尋問センターであるミンデン・アン・デア・ヴェーザーに移送された。そこで私は、イギリス人の検察官である少佐の手によって、さらに粗暴な扱いを受けた。

刑務所の環境も、そのような扱いにふさわしいものであった。

三週間後、私は驚いたことに、髭を剃られ、髪を切られ、洗うことを許された。それまで、逮捕以来、手錠は一度も外されていなかった。

翌日、私はトラックでニュルンベルクに移送された。同行したのは、フリッチェ弁護のための証人としてロンドンから連れて来られた一人の捕虜であった。国際軍事裁判所による私の拘禁は、それまでに受けてきた扱いに比べれば、まるで保養のようなものであった。私は主要被告人たちと同じ建物に収容され、彼らが法廷に連行される際に毎日目にすることができた。ほとんど毎日のように、すべての連合国を代表する者たちが我々を訪れた。私は常に、とりわけ興味深い動物として指さされた。

私がニュルンベルクにいたのは、カルテンブルンナーの弁護人が、弁護側証人として私を要求したからである。私のような者が、いったいどのようにしてカルテンブルンナーの無罪を助け得たのか、私は当時も理解できなかったし、今なお理解できない。刑務所の条件は、あらゆる点で良好であり、時間があれば読書ができ、蔵書の充実した図書館も利用できたが、尋問は極めて不快なものであった。それは肉体的というよりも、はるかに強い心理的影響によるものであった。私は尋問官たちを本気で責めることはできない。彼らは皆ユダヤ人であったからである。

心理的に、私はほとんど切り刻まれるような状態であった。彼らはあらゆることについて知りたがり、それもまたユダヤ人によって行われた。彼らは、私に待ち受けている運命について、何の疑いも残さなかった。

5月25日、たまたま私の結婚記念日であったその日に、私はフォン・ブルクスドルフおよびビューラーとともに飛行場へ連れて行かれ、そこでポーランド人将校に引き渡された。我々はアメリカの航空機で、ベルリン経由でワルシャワへ飛行した。移動の間、我々は非常に丁重に扱われたが、イギリス占領地区での体験と、東方で人々がどのように扱われているかについて聞いていた話を思い出し、私は最悪の事態を恐れたのである。(『Commandant in Auschwitz』、リヴァプール卿ラッセル序文、英訳版、ワイデンフェルト・アンド・ニコルソン、1959年、173~175頁)

1983年に明らかになった、ルドルフ・ヘスを拷問したイギリス人についての暴露

修正主義者たちはかなり以前から、ルドルフ・ヘスのさまざまな自白には、あまりにも多くの重大な誤り、意味不明な要素、そしてあらゆる種類の不可能事が含まれているため、内容やそれが得られた状況について事前の分析を一切行うことなく、ニュルンベルクやクラクフの裁判官、さらには一部の自称歴史家たちがそうしたように、それらを信じることはもはや不可能であることを示してきた。

ヘスは、おそらく第92野戦保安部隊に属するイギリス兵によって拷問を受けたのであるが、その仮説を確認する必要があった。その確認は、ヘスの逮捕の状況と、いわゆる三度にわたる厳しい尋問の様子を描写し、かつ主たる拷問者の名(ユダヤ系のイギリス軍曹)を明らかにする書物が、イギリスで刊行されたことによってもたらされた。

その書物はルパート・バトラーによるもので、1983年に刊行された(Hamlyn Paperbacks)。バトラーは他にも、『The Black Angels』『Hand of Steel』『Gestapo』という三冊の著作を著しており、いずれもHamlyn社から出版されている。ここで問題となる書物の題名は『Legions of Death(死の軍団)』である。その着想は反ナチ的なものである。バトラーは、この書物の調査をロンドンの帝国戦争博物館、現代史研究所、ウィーナー図書館、その他同様に名声ある機関で行ったと述べている。彼は書物の冒頭で、これらの機関、そして数名の個人に謝意を表しており、その中の一人がバーナード・クラークである(「アウシュヴィッツ所長ルドルフ・ヘスを逮捕した人物」)。著者は、クラークによる文書または録音された供述とされるものの断片をいくつか引用している。


翻訳者註:私自身はわざわざ米国Amazonからその『Legions of Death』のペーパーバックを取り寄せ購入したのですが(テキストを取り込む目的で、スキャンを業者に依頼したのでペーパーバックはその時に処分されてしまっています)、「著者は、クラークによる文書または録音された供述とされるものの断片をいくつか引用している。」などとは同著には一切書かれていませんでした。また、以降で書かれている「三日間の拷問」も書かれていません。詳細は以下を参照してください。


バーナード・クラークは何の悔恨も示していない。それどころか、「ナチ」を拷問したことに対するある種の誇りさえ見せている。ルパート・バトラーもまた、その点について何ら批判すべきものを見いだしていない。彼らはいずれも、自分たちの暴露の重要性を理解していない。彼らによれば、ヘスは1946年3月11日に逮捕され、「首尾一貫した供述」を得るまでに三日間の拷問が必要であったという。しかし彼らは、そのいわゆる「首尾一貫した供述」が、実のところ、1946年3月14日または15日の午前2時30分に、震え上がった犠牲者が署名させられた狂気じみた自白そのものであることに気付いていない。その自白は、ヘスの運命を決定的に封じるものであり、同時に神話に最終的な形を与えるものであった。その自白はまた、ユダヤ人絶滅の最高地点とされ、とりわけ殺人的ガス室の使用が主張されるアウシュヴィッツ神話を、決定的に形作ることになったのである。

1946年3月11日、クロス大尉、バーナード・クラーク、そしてさらに四名の情報将校が、いずれもイギリス軍の制服を着て、その多くが背が高く威圧的な姿で、ヘス夫人と子供たちの住む家に踏み込んだ。

その六人はいずれも、「持続的かつ容赦ない高度な取調べ技法に習熟していた」とされている(235頁)。クラークは叫び始めた。

「もしあなたが[ご主人がどこにいるのか]を話さなければ、あなたをロシア側に引き渡します。そうすれば、あなたは銃殺隊の前に立たされるでしょう。あなたの息子はシベリア送りになります。」

クラークによれば、ヘス夫人はついに耐えきれず、夫が潜伏していた農場の場所と、その際に用いていた偽名、フランツ・ラングを明かしたという。そしてバーナード・クラークは次のように付け加えている。

「息子と娘に対して適切な威嚇を加えることで、まったく同一の情報が正確に得られました。」

その後、このユダヤ系軍曹と、三度にわたる厳しい尋問の専門家である他の五人は、ヘスを探し出すために出発し、夜中に彼を不意打ちにした。彼はその農場で、家畜の屠殺に使われていた部屋の一角にある小部屋で眠っていたのである。

ヘスは、イギリス軍の制服を目にしただけで、恐怖のあまり叫び声を上げた。

クラークは「お前の名前は何だ」と怒鳴った。

「フランツ・ラング」と答えるたびに、クラークの手が囚人の顔面に激しく叩きつけられた。四度目にそれが起きたとき、ヘスはついに崩れ落ち、自分が誰であるかを認めた。

その自白は、逮捕隊に加わっていたユダヤ系軍曹たちの憎悪を一気に解き放った。彼らの両親は、ヘスの署名した命令に基づいてアウシュヴィッツで死んでいたのである。

囚人は二段寝台の上段から引きずり下ろされ、パジャマは身体から引き裂かれた。彼は裸のまま屠殺台の一つへと引きずられ、クラークには、殴打と叫び声が果てしなく続いているように思われた。

ついに軍医が大尉に向かって、「このままでは死体を連れ帰ることになります。止めてください」と進言した。

毛布がヘスに投げかけられ、彼はクラークの車まで引きずられた。そこで軍曹は、相当量のウイスキーを彼の喉に流し込んだ。するとヘスは眠ろうとした。

クラークはその男のまぶたの下に制式警棒を突き込み、ドイツ語で命じた。「豚の目を開けていろ、この豚野郎。」

そのとき初めて、ヘスは後に何度も繰り返すことになる弁明を口にした。「私はヒムラーから命令を受けただけです。私はあなたと同じ意味での兵士であり、我々は命令に従わなければならなかったのです。」

一行がハイデに戻ったのは午前3時ごろであった。雪はなおも渦巻いていたが、毛布はヘスから引き剝がされ、彼は全裸のまま刑務所の中庭を歩かされ、自分の独房へと連れて行かれた(237頁)。

このようにしてベルナルトは、「[ヘス]から首尾一貫した供述を引き出すのに三日かかった」と明かしている(同書)。この告白は、レクサム・リーダー紙に掲載されたケン・ジョーンズ氏の記事(1986年10月17日)によって裏付けられている。

ケン・ジョーンズ氏は当時、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州ハイデに駐屯していた第5王立騎馬砲兵連隊の一等兵であった。「戦時中の活動についての尋問に協力しなかったため、彼は我々のもとに連れて来られました。彼が来たのは1945年から46年の冬で、兵舎内の小さな独房に入れられました」とジョーンズ氏は回想している。ジョーンズ氏とともに、さらに二人の兵士が、尋問に向けて彼を精神的に打ち砕く手助けをするため、ヘスと同じ独房に配置された。「我々は斧の柄を手に、昼夜を問わず彼と独房に座っていました。彼が眠りに落ちるたびに突いて起こし、抵抗力を削ぐのが我々の仕事でした」とジョーンズ氏は述べている。ヘスが運動のために外に出される際には、真冬の厳しい寒さの中、ジーンズと薄い綿のシャツだけを着せられた。三日三晩眠らされなかった後、ヘスはついに崩れ落ち、当局に対して全面的な自白を行った。

以上のような状況の下で、バーナード・クラークという軍曹兼通訳の残虐な発想に導かれたイギリス軍保安要員という乱暴者たちによって引き出されたクラークの供述は、ヘスの最初の自白、すなわちNO-1210という番号が付された原初の自白となった。クラークによれば、いったん拷問された囚人が話し始めると、それを止めることは不可能であったという。1946年当時と同様に、1982年あるいは1983年になってもなお、自らがヘスに強要した自白の重大性をまったく理解していなかったクラークは、次に、真実として提示される一連の架空の恐怖譚を描写している。すなわち、死体に火が付けられた後、そこからにじみ出た脂肪が他の死体の上に注ぎかけられた(!)という話である。彼は、ヘスがアウシュヴィッツにいた期間だけで死者数を二百万人(!)と見積もったこと、殺害は一日一万人(!)に達したことを語ったとしている。

クラークの任務には、ヘスが妻や子供たちに送る手紙を検閲することも含まれていた。囚人に家族への手紙を書く許可を与えるか否かを左右する権限が、強力な心理的武器となることは、すべての警察官が知っている。囚人に「歌わせる」ためには、その許可を一時停止あるいは取り消すだけで十分な場合もある。クラークは、ヘスの手紙の内容について、次のような興味深い発言をしている。彼は次のように打ち明けている。

時として、喉に塊がこみ上げてきた。一人の人間の中に、二人の異なる人間がいたのである。一人は人命にまったく配慮しない残虐な男であり、もう一人は柔和で愛情深い男であった(238頁)。

ルパート・バトラーは、その叙述の締めくくりとして、ヘスは自らの責任を否認しようとも、そこから逃れようともしなかったと述べている。実際、ニュルンベルク裁判においてヘスは、「分裂病的無関心」とでもいうべき態度で振る舞った。この表現は、囚人の心理監視を担当し、その盗聴によってアメリカ検察を助けたアメリカ人刑務所心理学者G・M・ギルバートのものである。ヘスが「二つに裂けていた」と信じることは、確かにできる。彼はぼろ切れのように見えたが、それは彼らが彼をぼろ切れにしてしまったからである。

「無関心である」とギルバートはその著書の229頁に記している。次の頁でも彼は「無関心である」と繰り返し、239頁では「分裂病的無関心」と書いている(Nuremberg Diary、1947年、Signet Book、1961年)。

クラクフでの裁判の終結において、ヘスは死刑判決を表面的には無関心に受け止めたが、ルパート・バトラーは次のように論評している。

[ヘスは]連合国には命令があり、それが実行されないということは絶対にあり得ないと理性的に考えていたのである(同書)。

これ以上うまく言うことはできないであろう。ルドルフ・ヘスは、完全に自らの正しさを信じ込んだ征服者たちの慈悲に委ねられた何千人もの被告ドイツ人と同様に、西から来た裁き手であれ、東から来た裁き手であれ、彼らの意思に従って苦しむ以外に選択肢はないということを、早々に悟っていたように思われる。

続いてバトラーは、元ポーランド総督ハンス・フランクの事例に手短に言及する。同じ道徳的満足感に満ちた口調で、彼はフランクの逮捕とその後の扱いの状況を語っている。

いかなる種類の名声も、彼を逮捕した二人の有色人種のGIをまったく感心させることはなかった。彼らは、フランクを激しく殴りつけ、トラックに放り込んだ後になって初めて、ミースバッハの市立刑務所へ移送することを確実にしたのである。

露骨な虐待の痕跡を隠すため、彼の上には防水シートが投げかけられた。フランクはその覆いを利用して、左腕の動脈を切り裂こうとした。

明らかに、そのような安易な逃避が許されるはずはなかった。アメリカ陸軍の軍医が彼の命を救い、彼はニュルンベルクの国際軍事裁判所で裁きを受けることになったのである(238~239頁)。

ルドルフ・ヘスとハンス・フランクだけが、そのような扱いを受けたわけではなかった。最もよく知られた事例としては、ユリウス・シュトライヒャー、ハンス・フリッチェ、オズヴァルト・ポール、フランツ・ツィアライス、ヨーゼフ・クラーマーらが挙げられる。

しかし、その帰結において、ルドルフ・ヘスの事例は群を抜いて重大である。ドイツ人がユダヤ人絶滅政策を有していたことを証明する文書は一つも存在しない。この点については、レオン・ポリアコフも1951年に同意していた。

全的絶滅計画と正確に呼び得る構想に関して言えば、その三、四人の主要な当事者は1945年5月に自殺した。いかなる文書も残されておらず、あるいは、そもそも存在しなかったのかもしれない。

(Bréviaire de la haine: Le IIIe Reich et les Juifs、カルマン=レヴィ、1951年、Livre de Poche、1974年、171頁)

いかなる文書も存在しない以上、ポリアコフ流の歴史家たちは、クルト・ゲルシュタインやルドルフ・ヘスのような疑わしい自白に、主として何度も立ち戻ってきた。そして時には、自分たちの都合に合わせて文言を改変することさえ行った。

バーナード・クラークは、「今日ではイングランド南部で働く成功した実業家である」(Legions of Death、1983年、235頁)。実際、1946年4月15日にニュルンベルクで聞かれた声は、彼の声であったと言うことができる。その日、副検事エイメンが、驚愕し圧倒された聴衆の前で、ルドルフ・ヘスの所谓の自白を一節一節読み上げたのである。その日、世界的規模の嘘が始動した。すなわち、アウシュヴィッツの嘘である。その巨大なメディア的出来事の起源には、バーナード・クラークを含む、イギリス軍保安部隊の数名のユダヤ系軍曹たちがいた。「今日ではイングランド南部で働く成功した実業家」である彼らである。

モーリッツ・フォン・シルマイスターの証言

戦時中、モーリッツ・フォン・シルマイスターはヨーゼフ・ゲッベルスの個人付報道官であった。1946年6月29日、彼はハンス・フリッチェ弁護側証人としてIMTの前で尋問を受けた。彼の供述は、ゲッベルス博士の実際の人格、ならびに戦時中に連合国によって流布された強制収容所に関する残虐物語の洪水に対する、ドイツ公式報道機関の態度を理解するうえで、とりわけ興味深いものであった。

終戦時、モーリッツ・フォン・シルマイスターはイギリス軍に逮捕され、イングランドの収容所に抑留された。そこで彼は、同じ被収容者に対する政治的「再教育」という任務を与えられていた。ニュルンベルクで証言する前、彼は航空機でロンドンからドイツへ移送された。最初は、イギリス軍憲兵隊の主要な尋問センターであったミンデン・アン・デア・ヴェーザーに収容された。そこから自動車で(1946年3月31日―4月1日)ニュルンベルクの刑務所へ移送された。その同じ車にルドルフ・ヘスが同乗していた。モーリッツ・フォン・シルマイスターとは、まさにヘスがその「回想録」の中で言及している、フリッチェ弁護の証人としてロンドンから連れて来られた「戦争捕虜」にほかならない(上掲、393頁参照)。

1983年9月にワシントンでアメリカ人研究者マーク・ウェーバーから入手した文書(その正確な出所はいまだ明らかにする許可を得ていない)の写しによって、彼らがニュルンベルクへ向かう車中で自由に会話できたことが分かっている。その文書は2頁余りの分量であり、そこにおいてシルマイスターは、ヘスにかかっていた嫌疑に関して、ヘスが彼に次のように打ち明けたと報告している。

Gewiss, ich habe unterschrieben, dass ich 2 Millionen Juden umgebracht habe. Aber ich hätte genausogut untershrieben, dass es 5 Millionen Juden gewesen sind. Es gibt eben Methoden, mit denen man jedes Geständnis erreichen kann — ob es nun wahr ist oder nicht.

「確かに、私は250万人のユダヤ人を殺害したという供述書に署名した。しかし、500万人だったと書いて署名することも同じくらい容易であった。真実であるか否かにかかわらず、いかなる自白でも引き出すことのできる方法というものが存在するのである。」

ルドルフ・ヘスが署名したもう一つの自白

ルドルフ・ヘスを拷問した英国側に、自制する理由はまったくなかった。1946年3月14日(あるいは15日)の午前2時30分に文書NO-1210へ署名させた後、彼らは3月16日にも、ヘスから新たな署名を得た。今回は英語で書かれ、英語の筆記体による文面の末尾への署名であり、本来なら場所名が記されるべき箇所は空白のままであった。看守たちは、英語で書かれた次のような簡単な書付に彼の署名をさせた。

______ Gaolにおいて、1946年3月16日、アウシュヴィッツ強制収容所元所長ルドルフ・ヘスにより自発的になされた供述。

私は、1941年5月にヒムラーから受けた命令に基づき、1941年6月/7月から1943年末までの期間、私がアウシュヴィッツ所長であった間に、200万人の人々をガス処刑することを個人的に手配した。

signed.
Rudolf Höss,
SS-Stubhr.
Eh. (?) Kdt. v. Auschwitz-Birkenau

(「signed」という語さえも、英語の筆跡で書かれている。)

アウシュヴィッツ神話

我々は以前から、アウシュヴィッツ神話がもっぱらユダヤ系の起源をもつことを知っている。アーサー・R・バッツはその事実を著書『二十世紀の欺瞞』で述べており、ヴィルヘルム・シュテークリヒも『アウシュヴィッツ神話』で同様に論じている。「アウシュヴィッツの噂」の創作と流布の主要な担い手は、順に、二人のスロヴァキア人、アルフレート・ヴェツラー(またはヴェツクラー)とルドルフ・ヴルバ(またはローゼンベルク、ロ-ゼンタール)、次いでハンガリー人のラビ、ミヒャエル・ドーフ・ベル・ヴァイスマンデル(またはヴァイスマンデル)、さらにスイスではロンドンやワシントンと連絡を取っていた世界ユダヤ会議の代表者ゲルハルト・リーグナー、そして最終的にはアメリカ人のハリー・デクスター・ホワイト、ヘンリー・モーゲンソー・ジュニア、ラビのスティーヴン・サミュエル・ワイズであった。こうして、1944年11月にワシントンで公表された、いわゆる世界難民委員会報告書、すなわちアウシュヴィッツおよびビルケナウに関する報告が生まれた。この報告書の写しは、アウシュヴィッツ収容所に関与したドイツ人を訴追する任務を負った軍法監督官の訴追資料に含まれていた。それは、同収容所におけるユダヤ人のガス殺害とされる出来事についての公式見解を構成していた。おそらくそれは、「アウシュヴィッツ所長」に対する尋問者・取調官・拷問者にとっての参照文献として用いられたのであろう。ここに挙げられた名前はすべてユダヤ人である。

さらに、最初の英国人拷問者であるバーナード・クラークがユダヤ人であったことが、今では明らかになっている。二人目の英国人拷問者であるドレイパー少佐(?)もまたユダヤ人であった可能性がある。同様に、二人のアメリカ人、心理学者G・M(グスタフ・マーラー)・ギルバートおよびハーラン・アーメン大佐もそうである。最後にポーランドでは、ヘスは多かれ少なかれ同様の扱いをしたポーランド系ユダヤ人と向き合うことになった。彼が「回想録」を書いた際には、これもおそらくユダヤ人であった予審判事ヤン・ゼーンの監督下にあった。

体制派の歴史家たちは、ヘスが拷問を受け、強要の下で自白したという点を否定している。しかし、1983年にルパート・バトラーの著書が刊行されて以降、その否定はもはや不可能となった。修正主義者たちは正しかったのである。

1985年以降は、なおさら否定できなくなった。1985年1月から3月にかけて、修正主義文献を頒布したとしてユダヤ系団体および検察により告発されたエルンスト・ツンデルの裁判が、トロント(カナダ)で行われた。ルドルフ・ヴルバは検察側証人として証言した(現在はブリティッシュ・コロンビアに居住)。検察の質問に答える間は断定的で自信に満ちていた彼は、ツンデルの弁護人ダグ・クリスティによる反対尋問において、劇的な敗北を喫した。1945年以来初めて、アウシュヴィッツでのガス殺害とされる出来事のユダヤ人証人が、自らの主張と数字について説明を求められたのである。その結果は、ヴルバにとってあまりにも壊滅的であったため、最終的には検察自身が、主要証人に対して事実上の止めを刺すことになった。この予期せぬ出来事や、他のいくつかの出来事(たとえばホロコースト研究の第一人者ラウル・ヒルバーグが虚偽を行っている現場を押さえられたこと)によって、「トロント裁判」はまさに「ニュルンベルク裁判の裁判」となった。

1983年のルパート・バトラーによる意図せぬ暴露と、1985年の「トロント裁判」における予想外の暴露は、1944年から1947年にかけて、より正確には1944年4月、ルドルフ・ヴルバとアルフレート・ヴェツラーがアウシュヴィッツから脱走して世界に物語を伝えたとされる時点から、1947年4月、ルドルフ・ヘスが同じ世界に向けてアウシュヴィッツについて語ったとされる後に絞首刑に処された時点に至るまで、アウシュヴィッツ神話がどのように作り上げられたかを、最終的に全面的かつ明確に示すことに成功した。

この物語が最初から最後まで、本質的に、あるいはほぼ排他的にユダヤ系の情報源から生じていることは注目に値する。スロヴァキアの二人のユダヤ人の虚言者、ヴルバとヴェツラーが、ハンガリー、スイス、アメリカ合衆国、イギリス、ポーランドの他のユダヤ人を説得した、あるいは説得したかのように見せかけたのである。これは陰謀や策謀ではない。宗教的信念の誕生の物語、すなわちホロコーストという宗教の中心であるアウシュヴィッツ神話の誕生の物語である。

この写真は、ロード・ラッセル・オブ・リヴァプールの『人類の災厄』ベルリン、フォルク・ウント・ヴェルト社、1960年の161頁の後に掲載されたものである。原書の英語題名は『卍の鞭』である。写真の説明文には「ルドルフ・ヘスの自白」とある。それはNO-1210でもPS-3868でもなく、1946年3月16日のわずか16行の短い文章にすぎない。自白文の筆跡とヘス自身の筆跡との差異に注目されたい。『アウシュヴィッツ所長』英語版の序文において、ロード・ラッセルはその書付に署名させられた状況について若干の情報を与えていると主張しているが、当該事項に関する出来事の年代順で誤りを犯しているため、その情報は留保付きで受け取られるべきである。

第二の写真は、トム・バウアー『殺人への盲目』1981年、ロンドン、トロント、シドニー、ニューヨーク刊の写真22として掲載されたものである。説明文には「アウシュヴィッツ所長ルドルフ・ヘスから300万人殺害の自白を最終的に得た際に撮影された、英国戦争犯罪班のジェラルド・ドレイパー大佐」とある。想起されるように、ヘスは「回想録」で「私は英国人の公訴官である少佐の手で、さらに手荒な扱いを受けた」と述べている。この少佐は大佐になり、名はドレイパーであったのだろうか。

ジャーナル・オブ・ヒストリカル・レビュー1986-87年冬号(第7巻第4号)380-403頁より

▲翻訳終了▲

以上、内容がわかったでしょうか? 読解は読者の方々にお任せしますが、最初にも述べた通り、フォーリソンの憶測に過ぎない箇所だらけ(及びその憶測に基づく曲解・歪曲だらけ)ですので、くれぐれもそうした箇所を事実と思い込まないようご注意願います。なお、ルドルフ・ヘスに関しては、他の記事もご参照ください。

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