ホロコーストの600万人の犠牲者数についての文献紹介(15):チェコスロバキア
前回:
今回のチェコスロバキアは、ユーゴスラビア同様現在は存在しない国(原著の当時(1991年)には存在した)ですが、ユーゴとは違い、1993年に紛争なく平和裡にチェコとスロバキアの二つの国として分離独立を果たしています。

歴史については私も全然知らないと言っていいほどの知識しかないのであまり語ることはありませんが、ナチスドイツが併合した地域になるベーメン・メーレン保護領(ボヘミア・モラヴィア保護領)にはテレージエンシュタット・ゲットー(及び強制収容所)があります。略称で「テレジン」と呼ばれるこのゲットーは比較的に優遇されたユダヤ人のための収容施設だったようですが、多くのユダヤ人にとっては滞在期間が長い「通過収容所」でしかありませんでした。当然、その後の強制送還先はアウシュヴィッツなどの絶滅収容所です。また、ユダヤ人を残忍に扱っているわけではなく、まともな暮らしをさせていたと外部向けに騙すための機能も果たしたので、偽装ゲットーと呼ばれることもあります。もちろん、テレジンに収容されたユダヤ人たちは実際にはまともな暮らしなどしておらず、必要な場合だけそう演じるようにナチスドイツに命令・指導されていただけでした。例えば以下のような映像は、あくまでもプロパガンダのためにナチスドイツが撮影していたのでした。
しかし、こうした演劇などの、ナチスドイツの指示によってプロパガンダ目的の「演技」参加していたユダヤ人たちの多くは、真剣にやることを命じられていたためか、その間だけは希望を感じたそうです。
▼翻訳開始▼
353
エヴァ・シュミット=ハルトマン
チェコスロバキア
1918年にボヘミア王冠の歴史的な領邦(ボヘミア、モラヴィア、そしてオーストリア領シュレージエンの一部)、スロバキア、カルパティア・ロシアから建国されたチェコスロバキア共和国は、多民族国家であった。ユダヤ人は、社会生活の様々な領域でそれぞれ異なる役割を担っていたが、新国家の国民の重要な部分を形成していた。その数は多くはなかったものの、重要な存在だった。
プラハが中欧で最も古いユダヤ人コミュニティの一つを擁するボヘミア地方では、中世以来、ユダヤの人々はチェコ人とドイツ人の間で、同化はしなかったものの、19世紀半ばからは次第に社会的に統合され、特に近代の経済的・文化的発展において高い割合を占めていた。「強制的に商業に従事する教養社会」[1]と評される19世紀のボヘミアのユダヤ人は、世紀末の反ユダヤ主義的な暴動にもかかわらず、チェコスロバキア共和国でもその影響力ある地位を維持することができた。これは、ボヘミア地方の総人口に占める彼らの割合がわずか1%強と、数が少なかったにもかかわらずである[2]。
一方、この国の東部地域では、ユダヤ人人口の密度がスロバキアでは4%、カルパティア・ロシアでは14%に達していたが[3]、ほとんどのユダヤ人コミュニティは近代に入ってから形成された。その成員は、後期中世以来、特にガリツィアに居住地を見つけた、イディッシュ語を話す正統派の貧しいユダヤ人に属していた。しかし、彼らは、恵まれないスロバキア人よりも、むしろ国を支えるハンガリーの要素に近いと感じていた[4]。
第二次世界大戦中におけるチェコスロバキアのユダヤ人人口の生活状況、運命、
1 . Christopher Stölzl, Zur Geschichte der böhmischen Juden in der Epoche des modernen Nationalismus, in: Bohemia. Jahrbuch des Collegium Carolinum 14 (1973), S. 189.
2 . Für umfangreiche Darstellungen und Bibliographien zur Geschichte der böhmischen Juden vgl. Ruth Ke-stenberg-Gladstein, Neuere Geschichte der Juden in den böhmischen Ländern. Teil 1: Das Zeitalter der Auf-klārung 1780-1830, Tübingen 1969; Ferdinand Seibt (Hrsg.), Die Juden in den böhmischen Ländern, Mün-chen 1983; The Jews of Czechoslovakia. Historical Studies and Surveys, 3 Bde., Philadelphia 1968-1984; Hillel J. Kieval, The Making of Czech Jewry. National Conflict and Jewish Society in Bohemia, 1870-1918, New York 1987; Rudolf M. Wlaschek, Juden in Böhmen. Beiträge zur Geschichte des europäischen Juden-tums im 19. und 20. Jahrhundert, München 1990.
3 . Religionsbekenntnis der Bevölkerung im Jahre 1930. Československá statistika, Bd. 98, Reihe 6. Sčítání lidu v republice Československé ze dne 1. prosince 1930. Teil 1, Praha 1934, S. 82-108.
4 . Peter Meyer, Czechoslovakia, in: Peter Meyer u. a. (Hrsg.), The Jews in the Soviet Satellites, Syracuse USA 1953, S. 52.
354
そして最終的なナチスによる絶滅政策の実現については、驚くほど文献が少ない。このことは特に驚くべきことだ。なぜなら、チェコスロバキアの歴史学は、共産主義政権下でも、自国におけるナチスの支配と戦争の影響についてかなり熱心に取り組んでいたからだ。しかし、そこでは国民的な側面と共産主義的な視点が優勢であったため、ユダヤ人特有の問題に関する研究は、ユダヤ人の悲劇の規模が意図的に矮小化されたという非難を避けるにしても、なお不十分であった。さらに、これまでの研究は、チェコスロバキアのユダヤ人のわずか約59%しか住んでいなかったにもかかわらず、比較的把握しやすいボヘミア・モラヴィア保護領とスロバキア国の出来事に集中していた。チェコスロバキアのユダヤ人犠牲者に関するこれまでの最も包括的な概観は、アメリカで出版された論文集が提供している[6]。本稿は、すでに個別の詳細な研究から知られている情報に基づいており、そのため一部の空白を埋めることはできない。しかし、本稿は1938年から1945年までのチェコスロバキアのユダヤ人の苦難の道を全体として描写し、散在する情報をまとめるものだ。
1938年の第一次チェコスロバキア共和国の複雑な民族的・領土的多様性の中で、第二次世界大戦勃発時のユダヤ人人口の数は概算でしか把握できない。最後のチェコスロバキアの国勢調査は1930年に行われたが、これもユダヤ教という信仰に関する情報しか提供しておらず、ナチスにとって関連する「ユダヤ人種」については何も述べていない。さらに、チェコスロバキアは、ドイツ帝国とオーストリアから迫害されたユダヤ人にとって最も重要な避難先の一つとなった。そして、1938年/39年の広範囲にわたる領土変更が大規模な人口移動を引き起こし、ユダヤ人人口の統計的把握はさらに困難になった。
1930年には、チェコスロバキアにユダヤ教信者として35万6,830人が住んでいた[7]。この数字には、ユダヤ教ではないが、ユダヤ系の血を引いているために後に「ユダヤ人」と分類された人々は含まれていない。したがって、1930年の数字は最小限の出発点であり、当時、チェコスロバキア共和国には、後にナチスによるユダヤ人迫害の犠牲者となった人々がさらに数千人いたと確実に想定できる。ナチスの迫害に対するユダヤ人の状況は、チェコスロバキアの各地域で非常に異なっていたため、地域別の信仰によるチェコスロバキアのユダ人全体の数も提示する必要がある[8]。
5 . Als ein Beispiel könnte auf die Unterschlagung des Beitrages der jüdischen Soldaten zu den Leistungen der tschechoslowakischen Armee-Einheiten in der Sowjetunion hingewiesen werden. Vgl.: Erich Kulka, Židé v Československé Svobodově armádě, Toronto 1979.
6 . The Jews of Czechoslovakia, Bd. 3, Philadelphia 1984.
7 . Československá statistika 98/6, S. 107; die Volkszählung ergab auch Angaben über die Zahl der Personen „jüdischer Nationalität", die jedoch mit knapp über 200 000 nur einen Teil der jüdischen Bevölkerung wider-spiegelten und als solche für unsere Zwecke bedeutungslos sind.
8 . Vgl. Anm. 7.
355

1930年から38年にかけて、チェコスロバキアのユダヤ人の人口動態に著しい変化はなかったとみられる。わずかな出生超過は、おそらく恒常的な少数の国外移住によって相殺され、1930年から38年までの間に、ユダヤ人人口が約2,500人増加した1921年から30年までの期間と比べても、その数はほとんど変化しなかった[9]。
チェコスロバキアにおける亡命生活に関する文献は比較的多いにもかかわらず、ドイツ占領時にそこにいたドイツとオーストリアからのユダヤ人難民の数については、かなり不正確な情報に甘んじなければならない[10]。チェコスロバキア当局が亡命希望者に寛大な対応をしたため、移住者の数を正確に把握することができなかったのだ。チェコスロバキア共和国で最後の統計年鑑が1937年に発行された際、1935年のドイツ人移住者数は2,074人と記されている[11]。しかし、当時そこにはより多くの移住者が滞在していたと推測される。それは、一時的な滞在で亡命希望者として登録されなかったか、あるいは全く当局に登録されていなかった人々だ。多くの移住者は、まずそこに滞在したが、この小さく、決して長期的な安全を約束するものではなかった国を、遅かれ早かれ去った。この傾向は、政治的難民よりもユダヤ人の間ではより顕著だっただろう。というのも、後者にはプラハが他のどこよりも政治活動に適した環境を提供していたからだ。この点で、チェコスロバキア共和国にいたドイツとオーストリアからのユダヤ人約3,000人という推定値は、当時チェコスロバキアに8万から10万人ものドイツ系ユダヤ人難民がいると喧伝したナチスのプロパガンダよりも信憑性が高い[12]。この低い数字は、
9 . Ebenda, S. 82. Die jüdische Auswanderung aus der Ersten Tschechoslowakischen Republik dürfte nicht hoch genug gewesen sein, um die Zahlen für 1938-39 wesentlich zu verändern. 1931-36 sind insgesamt nur 37419 Personen aus der ČSR ausgewandert. Vergleicht man diese Zahl mit den hohen Zahlen für die 20er Jahre, dann besteht kein Grund für die Annahme, daß eine nennenswerte Zahl dieser Auswanderer einen Schutz vor der nationalsozialistischen Bedrohung gesucht hätte. Vgl. Statistisches Jahrbuch der Čechoslova-kischen Republik 1937, S. 33. Für die jüdische Auswanderung nach Palāstina zwischen 1934-1937 ist die Zahl 3200 angegeben worden. Vgl. Peter Heumos, Flüchtlingslager, Hilfsorganisationen, Juden im Nie-mandsland. Zur Flüchtlings- und Emigrationsproblematik in der Tschechoslowakei im Herbst 1938, Bohe-mia 25 (1984), S. 245-276.
10 . Für die grundlegenden Studien zur Tschechoslowakei als Asylland während der dreißiger Jahre vgl. Peter Heumos/Peter Becher (Hrsg.), Drehscheibe Prag. Ein Sammelband (im Druck); Drehscheibe Prag. Deut-sche Emigranten 1933-39. Ein Ausstellungskatalog, München 1989; Peter Heumos, Die Emigration aus der Tschechoslowakei nach Westeuropa und dem Nahen Osten 1938-1945, München 1989, insb. das Kapitel Das Münchener Abkommen und die Anfänge der Emigration aus der Tschechoslowakei, S. 15-55; Kurt R. Grossman, Refugees to and from Czechoslovakia, in: The Jews from Czechoslovakia, Bd. 2, S. 565-581; ders., Emigration. Geschichte der Hitler-Flüchtlinge 1933-1945, Frankfurt a. M. 1969; Bohumil Černý, Most k novému životu; německá emigrace v Čechách v letech 1933-1939, Praha 1967.
11 . Statistisches Jahrbuch der ČSR 1937, Tabelle III/25.
12 . Die niedrige Schätzung findet sich in: Biographisches Handbuch der deutschsprachigen Emigration nach 1933. Bd. 1, Munchen 1980, S. XXXIX; die hohe Schatzung in: Volk und Reich 14 (1938), S. 180.
356
チェコスロバキアにおけるドイツ系とオーストリア系の難民の総数を5,000人と記した、1939年の難民問題に関する報告書とも一致する[13]。
ドイツ語を話す移民が国内に流入し、遅くとも1938年夏までにはズデーテン地方のドイツ人も加わった。これと時を同じくして、ナチス・ドイツの拡張主義が国家に対する脅威をますます強めていく中で、チェコスロバキア国民の間には、ドイツ語を話すユダヤ人市民に対する嫌悪感が次第に広がっていった。国家当局の態度は概ね正しかったにもかかわらず、彼らの状況は1938年夏からますます危機的になった。ミュンヘン協定の締結と、それに続く深刻かつ多岐にわたる国家法上の影響は、彼らに計り知れない規模の危機をもたらした[14]。
1938年9月20日にミュンヘンで署名された条約に基づき、1938年10月上旬に、総人口365万8,640人のチェコスロバキアの領土がドイツ帝国に編入された。その一部はドイツ帝国の隣接する行政区に直接併合され、一部は新しい行政単位「ズデーテンラント帝国大管区」となった。その後、さらに他の領土がポーランドとハンガリーに割譲された。その結果、総人口約1,450万人のうち、合計500万人以上(1930年の国勢調査による)が直接的に領土変更の影響を受けることとなった[15]。
この領土変更は、1939年夏までに20万人以上を巻き込む避難民の動きを引き起こした[16]。特にドイツに併合された地域から、ナチスの迫害を逃れて残りのチェコスロバキアに避難した人々の多くはユダヤ人だった。たとえば、1939年5月17日の時点で、ズデーテンラント帝国大管区には、1930年にそこに住んでいたユダヤ教信者27,073人ではなく、わずか2,363人の「ユダヤ人」しか数えられなかった[17]。イギリス、フランス、そして残存チェコスロバキアの各政府は、チェコスロバキア自体が彼らに生活の場を提供できる能力がまったくないことが明らかになった後、ズデーテン地方のドイツ人難民がさらに別の国へ移住できるよう尽力した。しかし、長引く組織的・行政的な手続きの結果、1939年3月15日にも、なお約1万4,500人のズデーテン地方のユダヤ人が、
13 . Memorandum „Die Tragödie der Emigration in der Tschechoslowakei", Ms. The British Library 9100. d. 36; die von H. G. Adler aufgeführte Zahl von 15000 dürfte dementsprechend zu hoch geschätzt sein. Vgl. H. G. Adler, Theresienstadt 1941-1945. Das Antlitz einer Zwangsgemeinschaft. Geschichte, Soziologie, Psychologie, Tübingen 19602, S. 3.
14 . Über die rechtlichen Folgen der Zerschlagung der Tschechoslowakei vgl.: Karin Schmid, Staatsangehörig-keitsprobleme der Tschechoslowakei. Eine Untersuchung sowie Dokumente zur Staatsangehörigkeit der deutschen Volkszugehörigen, Berlin 1979.
15 . Diese Berechnungen gehen zurück auf: Alfred Bohmann, Bevölkerung und Nationalitäten in der Tschecho-slowakei, Köln 1975, S. 212-266 und Jaroslav Šíma, Českoslovenští přestěhovalci v letech 1938-1945. Pří-spěvek k sociologii migrace a theorie sociální péče, Praha 1945.
16 . Heumos, Die Emigration, S. 15 und 289-292; für eine ausführliche Analyse vgl. Šíma, Českoslovenští pře-stěhovalci.
17 . Bohmann, Bevölkerung, S. 218.
357
当時設立された保護領の領土に留まっていた[18]。モラヴィアとシュレージエン、スロバキア、そしてカルパティア・ロシアにおける避難民の動きについては、今日ではほとんど再構築することができない。
1938年に始まり、1939年に国家の完全な解体で終わったチェコスロバキア共和国の領土的崩壊は、当然ながらユダヤ人の惨禍を統計的に把握することを困難にした。1938年12月時点で、残存チェコスロバキア領内のユダヤ教信者数は25万2千人とされていた[19]。
しかし、戦後にチェコスロバキアで登録されたユダヤ人犠牲者の生存者数と比較するための出発点として、この数字は、元々チェコスロバキア国境内に住んでいたユダヤ人が様々な国家連合に分割され、それに伴う避難民の移動があったという理由だけでなく、1945年以降にチェコスロバキアが戦前の国境に戻らなかったという理由からも、限定的にしか使用できない。たとえば、挙げられたチェコスロバキアのユダヤ人グループの中で最大の集団は、ハンガリーに割譲された地域に住んでいた。彼らは、以前にカルパティア・ロシア州に居住していた人々(当時の集計で10万2,542人)と、旧スロバキアの住民に分かれていた。ハンガリーでは、これらの居住地は再びフェルヴィデークとカールパートアッリャという二つの異なる行政区に属していた。しかし、1945年以降、カルパティア・ロシア地域はソ連に編入され、スロバキア地域のみがチェコスロバキア共和国に返還された。これらの地域のユダヤ人人口はハンガリーのユダヤ人と同じ運命をたどり、その経緯は非常に大まかにしか追跡できず、1945年以降に彼らの生存者がソ連で特別な統計調査に記録されることはなかった。これは、1930年にチェコスロバキア共和国に住んでいたユダヤ教信者の約41%について、戦前と戦後の統計的比較を行うことも、戦争中の彼らの苦難の道を個別に追跡することもできないことを意味する。
今後、これらの記述は戦時中の国の行政区分に基づいて進められる。したがって、ボヘミア・モラヴィア保護領、スロバキア国、そしてハンガリーに編入された地域のユダヤ人人口の運命は、個別に調査されるべきだ。ドイツに編入された地域のユダヤ人の圧倒的多数は、戦争が始まる前に国外に脱出したか、あるいは残存チェコスロバキアに避難し、後に保護領のユダヤ人と同じ運命をたどった。この中で確認された死者数と生存者数は、その後に国家全体の戦前と比較されるが、この方法は、ナチスの支配の第一段階、すなわち国家の分割と、それに直接関連するユダヤ人人口への影響を最初から捉えていないという条件付きとなる。
18 . Memorandum „Die Tragödie der Emigration in der Tschechoslowakei". Eine andere Schätzung gibt die Zahl der aus den abgetretenen Gebieten geflüchteten Juden, die sich im Protektorat befanden, mit 25000 an; vgl. Karel Lagus/Josef Polák, Město za mřížemi, Praha 1964, S. 31.
19 . Vgl. Bohmann, Bevölkerung, S. 271.
358
ボヘミア・モラヴィア保護領
ミュンヘン協定の締結により、チェコスロバキアのユダヤ人の大部分が移住による救済を試みたが、本格的な難民の流れが始まったのは1939年春になってからだ。移住を意図した人々に比べて、実際にチェコスロバキアから脱出できたユダヤ人が大幅に少なかった主な理由は、組織的な困難、ドイツ帝国やオーストリアからの難民が大量に流入した後、チェコスロバキアからの難民を受け入れることを他の国々がためらったこと、そして最後に、残存チェコスロバキアの当局と国民に対するイギリスとフランスの支援が非常にゆっくりとしか進まなかったことだった。保護領が樹立された後の数週間は、主にポーランドを経由する非合法な逃亡ルートが利用された。そして、1939年7月から1941年9月までの間にのみ、ユダヤ人の保護領からの合法的な移住の可能性が存在したが、これもゲシュタポによる時間のかかる許可手続きや、受け入れ国の入国制限によって制約されていた。このような状況で、プラハのユダヤ人機関の報告によると、1943年7月15日までに保護領から移住できたユダヤ人はわずか26,111人だった[20]。
全体として、そして関連するすべての研究がこの数字を出発点としているが、保護領が樹立された日には、ニュルンベルク法によってユダヤ人と見なされる11万8,310人がその領域にいたとされている。この数字が、一般的に全く、あるいは不十分な出典しか示されずに引用されているのは驚くべきことだ。プラハのユダヤ人文化共同体の週報によれば、この数字は1930年の調査に基づいた推定値と見なされていた[21]。そのため、統計的に正確な情報とは決して言えない。とはいえ、この数字は数千人の誤差の範囲内でおおむね正しいだろう。なぜなら、一方ではドイツとオーストリアからチェコスロバキア共和国への、他方ではチェコスロバキアからポーランドへの非合法な国境越えがあったため、これをこれ以上正確に特定することはできないからだ。
漸進的に、この10万人をはるかに超える人々は、ドイツ帝国での規制に準拠した保護領当局の措置によって、
20 . Diese Zahl geht auf die Berichte der Prager jüdischen Stellen zurück, die im Institut für Zeitgeschichte vor-liegen (Eichmannprozeß, Beweisdokument Nr. 1192); sie entspricht auch der in Prag 1942 vervielfältigten Broschüre: Die Juden im Protektorat Böhmen und Mähren zum 31.3.1942 (vgl. Eichmannprozeß, Dok. 1195), und es sind bisher in der Literatur nie Zweifel an der Richtigkeit dieser Zahlen geäußert worden. Für die neueste Aufarbeitung vgl. Heumos, Die Emigration, S. 56 und 273-276. Unberücksichtigt bleiben dabei natürlich die Zahlen der illegal emigrierten Juden sowie derjenigen, die vor dem 15.3.1939 das Land verlas-sen haben. All dieses zusammenfassend, wurde die Zahl von insgesamt rund 50000 aus den böhmischen Ländern emigrierten Juden angegeben, die jedoch, ohne Quellen, als zu hoch gelten darf. Vgl. Meyer, Cze-choslovakia, S. 62. Die Zahlen dagegen, die Reitlinger für die Emigration aus dem Protektorat angab, waren auf jeden Fall zu niedrig. Vgl. Gerald Reitlinger, The Final Solution. The Attempt to Exterminate the Jews of Europe 1939-1945, London 1953, S. 492 f.
21 . Wochenbericht der JKG Prag über die Zeit 8. - 15. September 1939, Eichmannprozeß, Dok. 1327; dieselbe Zahl wurde auch von den deutschen Behörden verwendet, etwa von Richard Korherr in seinem statisti-schen Bericht zur „Endlösung der europäischen Judenfrage" vom 23.3.1943. Nach der Fertigstellung mei-ner Darstellung wurde diese Zahl jedoch auch tatsächlich schon einer Kritik unterzogen; dazu vgl. Miroslav Kárný, Zur Statistik der jüdischen Bevölkerung im sogenannten Protektorat, in: Judaica Bohemiae 22 (1986), S. 9-19.
359
法的権利を奪われ、生活条件を制限され、人間の尊厳を奪われた[22]。ユダヤ人に対する個別の差別的規定について詳細に立ち入る必要はない。というのも、それらはドイツに占領された他のすべての国々と同様の、原則的に同じ規制であったからだ。総括すると、ユダヤ人は徐々にすべての公職やあらゆる自由業の業務から排除され、全財産と所有物を没収され、移動の自由を奪われ、文化的活動や教育への参加を一切禁じられた。さらに、ユダヤ人向けの食料配給は特に制限され、あらゆる交通機関の利用を禁じられた。そして最終的には、1941年9月1日以降、黄色い星による識別という象徴的な形で彼らの屈辱と辱めが頂点に達した。
このような状況下で、ユダヤ人が宗教の実践と共同体生活の組織における自治権をも失ったことは驚くことではない。かつてボヘミアとモラヴィアにあった136の独立したユダヤ人コミュニティは、中央集権化され、1942年3月27日以降は排他的に、プラハのユダヤ人文化共同体中央局の管轄下に置かれた。この組織は後に「ユダヤ人長老評議会」と呼ばれ、保護領のユダヤ人住民全体の事柄を統制することになっていた。具体的には、登録、移住、仕事の斡旋、住居や社会問題の管理、そして最終的には移送の組織化であった。この局は名目上はユダヤ人の自治機関であったが、実態は1939年7月26日にプラハで開設され、1942年8月12日に「ボヘミア・モラヴィアにおけるユダヤ人問題統制中央局」と改名された「ユダヤ人移住中央局」の執行機関であった。
プラハの「中央局」は、国家弁務官コンスタンティン・フォン・ノイラートの命令によって設立された。SS上級指導者フランツ・シュターレッカー博士がSD指導者および保護領における保安警察司令官として、そしてSS突撃隊大佐ハンス・ギュンターが局長として指導にあたった[23]。「ユダヤ人移住帝国中央局」と同様の機関として、プラハの「中央局」は、一方では保護領当局、他方では帝国保安当局の指揮下に置かれたが、事実上は同一のSS組織の管理下にあった。その権限からして、プラハの「中央局」は、たとえその管轄範囲が当初はプラハとその周辺に限られ、1940年になってようやく保護領全体に拡大されたとしても、保護領のユダヤ人住民の生活に関わるすべての問題に対する決定機関となった。しかし、ナチスのユダヤ人に対する政策は、
22 . Für zeitgenössische Dokumentensammlungen vgl. Erlässe betreffend Juden (Vervielfältigtes Ms. 1939-1944; dies ist eine Sammlung sämtlicher behördlicher Bestimmungen für Juden im Protektorat, wie sie aus dem internen Gebrauch der JKG hervorging; für nähere Angaben zu dieser Sammlung vgl. Adler, Theresienstadt, S. 797, Anm. 218) und Franz Friedmann, Rechtsstellung der Juden im Protektorat Böhmen und Mähren, Prag 1943; eine chronologische Übersicht der getroffenen und eingeleiteten Maßnahmen liegt vor in: The Jews of Czechoslovakia, Bd. 3, S. XXVIII-XLI; für ausführliche Darstellungen vgl. Wlaschek, Die Juden in Böhmen, S. 91-107 und John G. Lexa, Anti-Jewish Laws and Regulations in the Protectorat Bohemia and Moravia, in: The Jews of Czechoslovakia, Bd. 3, S. 75-193.
23 . Über die Gründung und Organisation der „Zentralstelle" vgl. Ich, Adolf Eichmann. Ein historischer Zeu-genbericht, Leoni am Starnberger See 1980, S. 99-108; vgl. auch Adler, Theresienstadt, S. 5 ff., Anm. 12.
360
彼らの生活可能性を制限し、社会から完全に追放するだけでは満足しなかった。保護領の歴史には反ユダヤ主義政策の異なる段階があるとはいえ、それらはすべて、一つの、そして同一の意図をはっきりと示している。ユダヤ人は、保護領社会の周縁に追放された者として生きるだけでなく、そこから完全に排除されるべきだというものだ。
ボヘミア地方が占領された直後、影響力のあるユダヤ人たちが逮捕され、ドイツの強制収容所に移送された[24]が、当初は個別の事例にとどまった。ポーランドが敗北して間もなく、ユダヤ人を大規模に「ゲットー」に集中させるという考えが固まった。これに従い、1939年10月には、ユダヤ人役員たちが「予備的な協議」のためにプラハからサン川沿いのニスコへ送られただけでなく、モラヴィアのオストラウとフリーデク=ミステク地区から1,291人の男性がそこに移送された[25]。
しかし、この段階では、ユダヤ人を遠隔地に大量に集中させることは、決して「簡単な」組織的課題ではないことが明らかになった。ニスコ収容所は1940年4月に解体され、生き残った収容者たち(モラヴィアの出身者は約460人)は故郷に戻ることができた。彼らは2年後にテレージエンシュタットに移送された。ユダヤ人を東部で「ゲットー化」する最初の試みは、ひとまず失敗に終わった。そこに移送された人々のほとんどは、耐え難いほど困難な生活条件下で命を落とした。故郷に再移送された460人を除けば、ソ連からチェコスロバキア亡命軍とともに帰還した123人だけが命を救うことができた[26]。
モラヴィアのユダヤ人の最初の移送後、保護領のユダヤ人住民の生活条件はますます悪化したが、1940年と1941年前半は、彼らにとって比較的安全な時期であった。少なくとも、その後の出来事の視点からはそう思えるかもしれない。ナチスの迫害から逃れるという希望は、ボヘミアとモラヴィアでも依然としてある程度現実的な根拠を持っていた。移住に成功したのはごく少数だったが、「中央局」と並ぶ公式の移住主要機関であるパレスチナ事務局が解体されたのは1941年5月になってからであり、移住が完全に公式に停止されたのは1941年10月になってからであった。この頃、ドイツにおけるナチス指導部の反ユダヤ主義政策も、保護領の政治状況も変化した。
24 . Vorwiegend wurden diese Personen nach Buchenwald gebracht und von dort später nach Auschwitz depor-tiert.
25 . Zur Geschichte des Lagers Nisko vgl. Miroslav Kárný, Nisko in der Geschichte der „Endlōsung", in: Judaica Bohemiae 23 (1987), S. 67-84; Erich Kulka, The Annihilation of Czechoslovak Jewry, in: The Jews of Cze-choslovakia, Bd. 3, S. 265-268; Věstník židovské náboženské obce v Praze 1 (1947); zahlreiche Zeugenbe-richte liegen im Yad Vashem Archiv in Jerusalem vor. Vgl. Collection of Documents and Testimonies on the Participation of Czechoslovak Jews in the War against Nazi-Germany. Record Group 0-59, published by Yad Vashem, Jerusalem 1976.
26 . Věstník bringt einen umfassenden Zeugenbericht, in dem über die Vertreibung der jüdischen Insassen von Nisko durch die SS über die sowjetische Grenze hin berichtet wird. Unter diesen Vertriebenen sollen sich rund 900 mährische Juden befunden haben, von denen nur ein kleiner Teil die Strapazen der russischen Gefangenenlager bis zu ihrem Eintritt in die tschechoslowakische Armee 1942 überleben konnte. Ihre Schicksale beschreibt auch Kulka (Židé v Ceskoslovenské Armádě), während Lagus/Polák (Město za mří-žemi, S. 300 ff.) über die Prager Funktionäre der Jüdischen Gemeinde in Nisko berichten.
361
1941年10月10日、プラハでラインハルト・ハイドリヒとカール=ヘルマン・フランクが主導する保護領の全SS幹部が出席する会議が開かれ、保護領における「ユダヤ人問題の解決」のための将来の措置が議論された[27]。ここでは、この会議の決定と進行が、保護領におけるナチスの絶滅政策の文脈で持つ意味を評価することは試みない。我々の文脈において重要なのは、ここで1941年秋に5,000人のユダヤ人を移送するという具体的な措置が決定され、保護領のユダヤ人全体を集結させるという考えが初めて議論されたことだ[28]。これは、ドイツ支配下の地域からのユダヤ人移送に関する最初の一般的な命令が出される一か月強前、そしてヴァンゼー会議の約三か月前のことであった。
しかし、保護領におけるユダヤ人移送のための実際的な準備は、すでに1941年夏から進行していた。夏には、プラハのユダヤ人文化共同体に「G課」が設置され、「ゲットー化」の準備にあたっていた。そして1941年10月1日には、この目的のために全ユダヤ人の登録が開始されると同時に、彼らが自身の財産を処分することが禁じられた[29]。最初の移送につながる道筋や、その際に個々の当局が果たした役割は、今日まで文献で詳細に解明されてはいない[30]。しかし、この問題は、ここで始まったユダヤ人に対する絶滅措置の結果という我々の文脈では重要ではない。決定的に重要だったのは、ここで下された決定が現実のものとなったという事実である。
1941年10月16日、21日、26日、31日、および11月3日に、それぞれ1,000人のユダヤ人がプラハからウッチ(リッツマンシュタット)へ、また1941年11月16日にはブルノから1,000人がミンスクに移送された[31]。彼らの運命は様々だった。一部は移送先の最初の目的地で劣悪な生活環境のために
27 . Protokolle dieser Besprechung befinden sich im Prager Zentralarchiv (Státní ústřední archiv), der Text von „Notizen" aus dieser Besprechung wurde veröffentlicht in: Adler, Theresienstadt, S. 720 ff.; eine zwar stark ideologisierte, jedoch wertvolle Faktendarstellung zur ersten Stufe der antijüdischen Maßnahmen im Pro-tektorat bietet Miroslav Kárný, Die „Judenfrage" in der nazistischen Okkupationspolitik, in: Historica (Prag), 21 (1982), S. 137-192.
28 . In der Presseerklärung Heydrichs anlaßlich der Besprechung hieß es u. a.: „Ziel des Reiches wird und muß daher sein, das Judentum nicht nur aus dem Einfluß der Völker Europas auszuschalten, sondern nach Mög-lichkeit sie außerhalb Europas zur Ansiedlung zu bringen. Alle anderen Maßnahmen sind - abgesehen von der grundsätzlichen Gesetzgebung, die für alle Ewigkeit eine Schranke zur Sicherung des eigenen Volks-tums bedeutet - Etappen zu diesem Endziel. Ich habe mich entschlossen, diese Etappen auch im Protekto-rat folgerichtig und möglichst schnell zu gehen. Das Erste wird in nächster Zukunft die Zusammenfassung des Judentums sein, in einer Stadt oder einem Stadtteil (getrennt für Böhmen und Mähren) als Sammel-stelle und Übergangslösung für die eingeleitete Aussiedlung. Die ersten 5000 Juden werden voraussichtlich bereits im Laufe der nächsten Woche das Protektorat verlassen." Zit. nach Dokumenty z historie českoslo-venské politiky 1939-1943, Bd. 2, Praha 1966, S. 634.
29 . Bei der Registrierung zum 1. Oktober 1941 wurden 88 105 erfaßt. Vgl. Livia Rothkirchen, The Jews of Bo-hemia and Moravia: 1938-1945, in: The Jews of Czechoslovakia, Bd. 3, S. 29 und Kárný, Zur Statistik, S. 11, Anm. 10.
30 . Vgl. Miroslav Kárný, Terezínský koncentrační tábor v plánech nacistů, in: Československý časopis histo-rický 22 (1974), S. 673-702; ders., Die „Judenfrage" in der nazistischen Okkupationspolitik, in: Historica 22 (1982), S. 137-192.
31 . Die Transportlisten mit genauen Namen und Personaldaten für diese Deportationen sind in Prag im Archiv des Staatlichen Jüdischen Museums (Státní židovské museum) erhalten.
362
命を落とし[32]、ポズナンでの強制労働で死亡した者もいれば、ポーランド西部の労働収容所で亡くなった者もいた。また、さらに段階的に移送されたヘウムノ、マイダネク、アウシュヴィッツの絶滅収容所で犠牲になった者もいた。赤軍がウッチを解放した時、1941年にプラハから来たユダヤ人のうち、そこに残っていたのはわずか9人だった。全体として、プラハから移送された5千人のうち、終戦時に名乗り出た生存者は約250人だった[33]。ミンスクでは、ブルノから移送された人々は、現地のゲットーに閉じ込められた。彼らの大多数、推定750人は、1942年7月27日から29日にかけての銃殺の犠牲となった。他の人々は、1943年秋に収容所が解体された際、ベルゲン・ベルゼンに移送された人々のなかにいた。終戦後、このブルノからの移送者の中で、唯一の生存者として名乗り出たのは12人だけであった[34]。
チェコスロバキアのユダヤ人がポーランドに直接移送されたのは、この後、1942年6月10日にハイドリヒ暗殺事件の報復として、1,000人のユダヤ人がプラハからマイダネクに移送された一度きりだった。彼らの一部はそこで命を落とし、一部はソビボルで、また一部はサヴィノ近郊のウヤズドフで死亡した。この移送の生存者として、終戦後に名乗り出た証人はただ一人であった[35]。しかし、終戦直前、1944年10月27日にプラハからポーランドに直接送られたプラハ文化共同体と長老評議会のメンバー18人がさらに加わったが、彼らの中で生き残った者はいなかった[36]。全体として、プラハとブルノからは7,018人が東部の主要な強制収容所や絶滅収容所に直接送られたが、そのうち生き残ったのは約274人だった。保護領の他のすべてのユダヤ人は、1941年以降、大規模な集団移送によってまずテレージエンシュタットへと苦難の道をたどった。
テレージエンシュタットにゲットーを建設するという提案を最初に誰がしたのかは不明だ。しかし、プラハのユダヤ人文化共同体のメンバーがこの提案を熱心に推進したことは知られている。その理由は明らかに、保護領からのユダヤ人のポーランドへの移送を阻止、あるいは少なくとも遅らせようとする彼らの努力にあった。ユダヤ人専用の強制収容所であるテレージエンシュタットの建設準備は、SSとプラハのユダヤ人自治機関との緊密な協力のもとで行われた。プラハの「ユダヤ人長老」ヤーコプ・エーデルシュタインは、このゲットーの歴史的背景と初期段階において、
32 . Lagus/Polák (Město za mřížemi, S. 302) nennen 1200 der in den ersten sechs Monaten in Lodz Verstorbe-nen; dagegen gibt Věstník 13 (1948) die Zahl von 983 dort vor dem 7. August 1944 verstorbenen „tschechi-schen Juden" an. Diese Differenz wird voraussichtlich auf die Bezeichnung „tschechische Juden" zurückzu-führen sein, da man mit ihr sowohl die tschechisch-assimilierten als auch die aus Böhmen und Mähren stammenden Menschen zu bezeichnen pflegt; detaillierte Berichte über die Lebensumstände in Lodz wur-den von Erich Kulka anhand der umfassenden Sammlung von Zeugenberichten im Yad Vashem Archiv zusammengestellt (vgl. Kulka, The Annihilation, S. 268-276); literarisch wurden Erlebnisse eines Betroffe-nen im folgenden Buch verarbeitet: František Kafka, Krutá léta, Praha 1963 (der Autor wurde nach Kriegs-ende Vertrauensmann und 1972-78 Präsident der Prager Jüdischen Kultusgemeinde).
33 . Lagus/Polák (Město za mřížemi, S. 303) geben die Zahl der Überlebenden mit 261 an, während Adler (The-resienstadt, S. 21) von 253 gemeldeten Überlebenden spricht. Die Differenz ist unbedeutend und dürfte auf den Zeitpunkt der jeweiligen Feststellung zurückgeführt werden können.
34 . Lagus/Polák, Město za mřížemi, S. 304; Kulka (The Annihilation, S. 274) gibt die Zahl der Überlebenden mit zwölf an.
35 . Lagus/Polák, Město za mřížemi, S. 310f.
36 . Ebenda, S. 331.
363
ユダヤ人関係者の中で最も重要な役割を担った[37]。しかし、両者は最初から異なる目的を追求していた。
一般に、テレージエンシュタットのゲットーは、ナチス政権の「プロパガンダ収容所」と見なされている。これは、ドイツのユダヤ人絶滅政策に対する国外からの批判をかわすための手段であり、実際に国外を沈静化させる効果があったとされている。しかし、最近の研究では、ナチス側にはこの収容所に対する明確で一貫した構想はなかったことが示されている。チェコスロバキアの歴史家ミロスラフ・カールニーは、ゲットー建設の当初の計画を、1941年秋に明らかになったポーランドでの大量絶滅を遂行する際の技術的困難と関連付けている[38]。したがって、ナチス側から見て、この収容所はまず第一に、保護領のユダヤ人のための集結・通過収容所として構想されたものであったはずだ。しかし、同時にテレージエンシュタットは、ヴァンゼー会議の議事録が示唆しているように[39]、ドイツからの高齢者や「特権を持つ者」のためのゲットーとしても早期に構想されていた。これは、1941年の大規模な集団移送がドイツ国民の間で引き起こした騒動に対抗するためであった。
この収容所が国外向けプロパガンダの手段としての機能を獲得したのは、スターリングラードでの戦闘中の戦局転換以降、徐々に形成されたものだった。興味深いことに、知られているどの文書にも、テレージエンシュタットのゲットーを創設したナチス[40]が、その経済的利用を考慮していたという証拠は一切ない。しかし、この経済的利用こそが、準備段階におけるユダヤ人自治機関の主な目的であった。彼らにとって、経済的に必要とされるゲットーは、ポーランドへの移送から身を守る最善の手段であるように思えたのだ。それは、ゲットーのSS司令部による時折の安心させるような言動から生まれたというよりは、むしろ犠牲者自身の絶望的な状況から生まれた、欺瞞的な希望であった。しかし、この希望は長く続き、ゲットーの建設、そして後の運営に参加した多くのユダヤ人役員の動機となった。そして彼らは、SSの手先以外の何者でもなくなった。
1941年11月24日、北ボヘミアの小さな町テレージエンシュタットに、ユダヤ人を示す印をつけた若い男性340人が到着した。彼らの目的は、1930年時点で人口7,181人のこの町に、1945年春までにテレージエンシュタットを通過したおよそ14万人もの犠牲者のための宿泊施設を準備することだった。一時期は、
37 . Adler, Theresienstadt, S. 33; vgl. auch Zdeněk Lederer, Terezín, in: The Jews of Czechoslovakia, Bd. 3, S. 106.
38 . Kárný, Terezínský koncentrační tábor.
39 . Im Protokoll der Konferenz am 20. Januar 1942 am Großen Wannsee hieß es: „Es ist beabsichtigt, Juden im Alter von über 65 Jahren nicht zu evakuieren, sondern sie einem Altenghetto - vorgesehen ist There-sienstadt zu überstellen. Neben diesen Altersklassen - von den am 31.10.1941 sich im Altreich und in der Ostmark befindlichen 280000 Juden sind etwa 30% über 65 Jahre alt finden in dem jüdischen Alters-ghetto weiterhin die schwerkriegsbeschädigten Juden und Juden mit Kriegsauszeichnungen (EK I) Auf-nahme." Zitiert nach: Léon Poliakov/Josef Wulf, Das Dritte Reich und die Juden, München 1978, S. 123.
40 . Für die neueste umfassende und kommentierte Bibliographie der historischen Literatur zur Geschichte des Theresienstädter Ghettos vgl. Lederer, Terezín, S. 152-164; für neuere Studien vgl. insbesondere die Zeit-schriften Judaica Bohemiae und Terezínské listy.
363
5万人以上の人々が同時にそこに収容されていた。公法上、テレージエンシュタットにゲットー(1943年5月1日からは「ユダヤ人居住地域」)が設立されたことは、1942年2月16日付の国家弁務官の命令によってその表現を見出している[41]。そして、ユダヤ人の自治機関ではなく、国家弁務官下の保安警察司令官に、ゲットー建設に必要な措置を講じる法的権限を与えたのも、この命令であった。実際には、最初の強制収容者が移送される前に、最低限必要な準備作業さえ行われていなかった。これが、テレージエンシュタットの生活環境が耐え難いものになった一因でもあった。新しく来たゲットーの住民に最低限の寝る場所を確保するため、ヨーゼフ2世時代に建てられた兵舎は徐々に空けられ始めた。町のもともとの住民が全員避難し、町全体がユダヤ人自治機関に引き渡されたのは、1942年6月末になってからであった。しかし、この時点で、すでに2万人以上の囚人がゲットーにおり、7月の間にさらに2万5千人が加わった。
テレージエンシュタット収容所のすべての記録は、ゲシュタポの命令で終戦前に破棄されたが、1941年から1945年までの収容所の発展に関する統計的データはかなりよく記録されている。多数の非合法的に作成された写しが残されており、これらは後に詳細な研究で厳密に検証され、すべての相違点が慎重に比較検討、調査、評価された。さらに、証言録も豊富に存在し、著者の収容所内での立場に応じて様々な視点から描かれた、テレージエンシュタットでの生活の一貫した像を、重大な矛盾なく補足している。これらの情報源と、現存する当時のプラハ当局の文書との比較では、わずかな相違しか見られなかったため、全体的な集計を立てる我々の文脈において、細部でのみ異なる情報を掘り下げて議論する必要はない[42]。
テレジン(テレージエンシュタット)に到着した、そしてそこから出発した移送に関する記録と統計は、
41 . Verordnungsblatt des Reichsprotektors in Böhmen und Mähren, 28.2.1942.
42 . Über die Zerstörung des Lagerarchivs und über die Wege, auf denen statistisches Material illegal erhalten werden konnte vgl. Josef Polák, Tatsachen und Zahlen, in: Theresienstadt, Wien 1968, S. 53-56. Auf den il-legal erhaltenen Materialien der Selbstverwaltung basiert die erste umfassende Darstellung des Ghettos von Zdeněk Lederer, Ghetto Theresienstadt, London 1953. Hier wurden die Aufzeichnungen des Zentral-evidenz-Beamten Josef Polák benützt, der später zusammen mit Karel Lagus die bisher einzige tschechi-sche Studie verfaßte: Lagus/Polák, Město za mřížemi. In der Londoner „Wiener Library" wurde ein Manu-skript eines anderen Beamten der Theresienstadter Selbstverwaltung erhalten: R. Prochnik, Juden in There-sienstadt. Ein statistischer Bericht, Theresienstadt 14.7.1945. Alle diese Studien und statistischen Angaben wurden zusammen mit der gesamten bis 1960 erschienenen Literatur zu Theresienstadt ausführlich vergli-chen und in ihren Abweichungen diskutiert in: Adler, Theresienstadt. Eine weitere unentbehrliche Quelle zum Studium der Geschichte des Ghettos stellen die Publikationen der „Prager Jüdischen Gemeinde" in den Jahren nach Kriegsende dar: Věstník židovských náboženských obcí, Praha 1945 ff.; Judaica Bohemiae, hrsg. vom „Staatlichen Jüdischen Museum" in Prag 1964 ff. In der letzteren vgl. insbesondere 8 (1972), S. 36 - 55 zu Fragen der jüdischen Selbstverwaltung in Theresienstadt und 17 (1981), S. 15-47 und 18 (192828), S. 6588 zu den sich im Theresienstadter Archiv befindlichen Dokumenten. Weitere Archivmaterialien befinden sich im Staatlichen Jüdischen Museum und im Staatlichen Zentralarchiv in Prag.
365
非常に綿密に作成されていた。収容所の「中央身元調査部門」とその分所は、毎日正確な収容者数を確定し、日曜日と祝日には「収容所長老による現状報告」という形で収容所幹部に提出しなければならなかった[43]。これらの資料は、破壊を免れた限りにおいて、囚人たちの運命についていくつかの情報を提供している。しかし、この惨劇の全貌が明らかになるのは、保護領からテリジンに移送された人々の氏名簿(生年月日と最終住所付き)を記録した移送リストと、終戦時に生存者として名乗り出た人々の氏名簿とを比較して初めてである。どちらの文書も、本物はプラハで閲覧することができる。
1941年から1945年にかけて、ヨーロッパのドイツ占領地域からテレージエンシュタットに強制連行された人々は、合計でおよそ14万1千人にのぼる。そのうち、約7万4千人が保護領から、さらに約2千人が旧チェコスロバキアの残りの地域からであった[44]。これらの数字は、この収容所が特にボヘミアとモラヴィアのユダヤ人、あるいはユダヤ人と見なされた人々にとって、いかに重要な意味を持っていたかを示している。彼らの圧倒的多数がテレージエンシュタットに送られ、そこで収容者全体の約半分を占めていた。プラハのユダヤ人人口、合計3万9,395人は、主に1941年11月から1943年7月にかけてテレージエンシュタットへ送られ、ブルノからは1941年12月から1942年4月にかけて約9千人が移送された。これと並行して、ボヘミアとモラヴィアの個々の小都市からも移送が行われ、1943年7月には保護領のユダヤ人人口がほぼ全て移送された。それ以降、いわゆる「混血婚」のユダヤ人が多数移送された1945年1月まで、保護領から継続して新しい囚人が到着したが、その数は一度に100人以下の小グループにすぎなかった。全体で約900人であったが、1945年1月から3月にかけては、さらに約4千人が加わった。
「ゲットー」として、テレージエンシュタット収容所は強制収容所の中でも特別な地位を持っていた。SSによる処刑や恣意的な殺害は比較的まれであったものの[46]、生活条件、食料供給、そして衛生状態は非常に貧弱であり、死亡率は中欧における戦前の通常の率をはるかに上回り、時には30倍にもなることがあった。テレージエンシュタットの人々は、人間らしい生活を送るための最低限の要求さえ満たされない条件下で
43 . Adler, Theresienstadt, S. 313 ff.
44 . Die Transportübersicht bis 12.10.1944 und das Verzeichnis aller zwischen dem 1.1.1945 und 10.4.1945 in Theresienstadt eingetroffenen Transporte befinden sich in den Sammlungen des Archivs in Theresienstadt. Gedruckt liegt ein 1945 vom Repatriationsamt des Ministeriums für soziale Fürsorge angefertigtes Namens-verzeichnis der überlebenden Theresienstädter Häftlinge vor: Terezín Ghetto, Praha 1945. Die in der Lite-ratur zitierten Zahlen variieren zwischen 136444 und 141 162, während einmal die Zahl von 149 168 aufge-führt wird; die Unterschiede wurden eingehend geprüft und diskutiert in Adler, Theresienstadt, Anmer-kungapparat mit insbesondere den folgenden Seiten: 747, 765 ff., 797, 829, 831 ff. Im ganzen kann man feststellen, daß die unterschiedlichen Zahlenangaben oft allein auf unterschiedliche zeitliche Abgrenzungen zurückgeführt werden können.
45 . Im Juli 1943 wurden bei der Jüdischen Evidenzstelle in Prag 8606 Personen als Juden registriert, von denen jedoch nur bei knapp 7500 der Aufenthaltsort bekannt war. Vgl. Lagus/Polák, Město za mřížemi, S. 37.
46 . Vgl. Miroslav Kamý, Zur Typologie des Theresienstadter Konzentrationslagers, in: Judaica Bohemiae 17 (1981), S. 3-15; Adler, Theresienstadt, S. 47; Lederer, Ghetto, S. 21.
366
生きることを強いられた。1人あたりの居住スペースはわずか1.62平方メートルにすぎず、暖房は朝9時の外気温がマイナス5度に達して初めて入るという状況の中、囚人たちは過度な労働を強いられ、常に苦痛に満ちた生活上の不安に耐えなければならなかった。同時に、飢餓、害虫、手当てされない病気が彼らの存在を脅かしていた[47]。現存する文書によると、1941年11月から1944年1月までにテレージエンシュタットでは2万9,113人が死亡し、1945年6月までには合計でおよそ3万5千人が死亡した。そのうち、6,100人は保護領からの人々であった[48]。
テレージエンシュタットに強制移送された人々の中で、さらに多くの人々が、ここからさらに移送された後に命を落とした。その大部分は、占領下のポーランドにある絶滅収容所へ送られた。テレジンから出発する「移送」がどこへ向かい、そこで犠牲者たちが最終的に何を待っているのかは決して正確には知られていなかったが、それらは収容所の生活の中で最も恐れられた出来事の一つだった。移送は1942年1月9日から1944年10月28日の間に行われ、公式に示された目的地はほとんどの場合「東方」だった。わずか2回の移送のみが「リガ」を目的地とし、他のいくつかの移送は「労働奉仕のため」とされたが、その実際の目的地はアウシュヴィッツ=ビルケナウの「家族収容所」だった。1944年秋には、「帝国領内へ」の移送という言葉が使われた。これらの移送の実際の目的地は、テレジン自体では知られていなかったが、広がる噂は囚人たちの間にパニック的な恐怖を引き起こした。そして、収容所幹部が命じた割り当てに従って、ユダヤ人の自治機関が自ら行わなければならなかった移送のための名簿作成は、ナチスの人間性蹂躙の中でも最も恐ろしい章の一つであった[49]。
今日、私たちは、ごくわずかな例外を除いて、個々の移送の目的地とその運命を知っている。生存できた囚人はごくわずかだった。個々の関係者たちの運命が再構築され、その悲劇が認識され、共感されることはおそらく決してないだろう。私たちに残されているのは、失われた人々の命がその背後にある、恐ろしい数字のクロスワードパズルだけだ。合計で、およそ8万8千人がこの2年弱の間にテレジンから移送され、そのうち生き残ったのは約3,500人だった。移送された人々のうち、およそ6万人は元保護領の住民であった。これらの移送の本当の目的地は、その大部分がマールイ・トロスチネツ、トレブリンカ、ベルゲン=ベルゼン、ベウジェツ、ソビボル、マイダネク、そしてアウシュヴィッツといった強制・絶滅収容所であった[50]。
最後の「正規の」テレジンへの移送は、1945年4月前半にも行われた。そのため、1945年4月20日の時点で、収容所にはなお17,239人が収容されていた。
47 . Vgl. Adler, Theresienstadt, S. 343-376, 493-534; ders, Die verheimlichte Wahrheit. Theresienstadter Do-kumente, Tübingen 1958, S. 145, 149, 163, 197, 216, 313; Lederer, Ghetto, S. 45 ff. Außer den hier genann-ten Hinweisen gibt es umfangreiches Material, das vor allem von H. G. Adler eingehend zusammengetra-gen und vorstellend dokumentiert wurde.
48 . Adler, Theresienstadt, S. 526 ff.
49 . Über die Prozedur und Umstände um die Zusammenstellung dieser Transportlisten vgl. ebenda, S. 286-295 und Anita Franková, Deportationen aus dem Theresienstädter Ghetto. Methoden der Abfertigung von Transporten und deren Rückwirkung auf das Leben der Häftlinge im Licht einiger Quellen, in: Judaica Bo-hemiae 22 (1987), S. 3-29.
50 . Vgl. die Übersicht der einzelnen Transporte bei Lederer, Ghetto, S. 247-263; Adler, Theresienstadt, S. 45-59; Lagus/Polák, Město za mřížemi, S. 346-351.
367
その中のかなりの部分、36.6%はユダヤ教徒ではなく、ナチスの人種法に基づいて「洗礼を受けたユダヤ人」または「混血」として「ユダヤ人居住地域」に収容されていた。したがって、テレジンには、それぞれ約2,000人のカトリック教徒、プロテスタント教徒、無宗教者が、少数の様々な宗派の人々と共にいた[51]。
1945年4月20日以降、他の強制収容所から避難してきた囚人たちが大量にテレジンに到着し始めた。最初の2日間だけで8,500人以上がやって来た。このような状況下で、もはや登録は行われなくなり、ゲットーの収容者数については大まかな推定しか知られていない。しかし、その推定値はわずかに異なるだけで、12,000人から14,000人の間にある[52]。この戦争最終局面の混乱の中で、テレジンの囚人たちの状況は統計的に把握するのが困難になっただけでなく、とりわけ重度の発疹チフスが流行したこともあり、以前にも増して耐え難いものとなった。1945年5月5日、SSが収容所を去り、その後は赤十字と収容所自治組織が管理した。そして、近隣での短時間の戦闘の後、1945年5月8日夜に最終的に解放された。2週間の隔離期間を経た後、8月中旬までに生き残った囚人全員が本国に送還された[53]。
1945年夏、プラハでは、ニュルンベルク法によりユダヤ人とみなされ、移送されずに保護領で「自由に」生活していた2,803人が登録された。このうち、ユダヤ教信者は820人だった[54]。テレジンでは、解放時に保護領出身の囚人6,875人が登録された。一方で、その少し前にテレジンからの移送によってスイスとスウェーデンで解放された人々が104人いた。同時に、プラハでは、テレジンから「東方」への移送を生き延びた3,097人と、保護領から直接東方へ移送されて生き延びた274人が登録された[56]。ニスコへの最初の移送からは、ソ連からチェコスロバキア軍とともに123人が帰還し、
51 . Der Anteil der nichtjüdischen Juden" erhöhte sich besonders gegen Kriegsende. Ab Oktober 1943 sind die Zahlen der Angehörigen anderer Religionen bekannt, für die Zeit zuvor wird ihr Anteil auf rund 9% geschätzt. Ab Dezember 1944 betrug er schon jeweils über ein Viertel der Gefangenen. Vgl. Adler, There-sienstadt, S. 308; Polák, Tatsachen und Zahlen, S. 55 f.
52 . Vgl. die Gegenüberstellung einzelner Schätzungen bei Adler, Theresienstadt, S. 44 f.
53 . Davon wurden während der Existenz des Lagers fünf Gefangene entlassen; in den Jahren 1941-44 entka-men 37 durch Flucht, von denen jedoch zwölf wieder verhaftet wurden; im Mai 1945 flüchteten rund 700 Menschen noch vor der endgültigen Befreiung des Lagers. Die größte Anzahl der vor Kriegsende Befreiten bildeten die 1623 Gefangenen, die im Frühjahr 1945 durch die Lagerleitung in die Schweiz und nach Schweden transportiert wurden. Vgl. Adler, Theresienstadt, S. 199-206.
54 . Ebenda, S. 59.
55 . Der Bericht der tschechoslowakischen Repatriierungskommission weist die Zahl von 3883 befreiten Tsche-choslowaken auf. Hier blieben jedoch jene etwa 3000 Menschen unberücksichtigt, die das Lager schon Mitte Mai 1945 verlassen hatten. Vgl. ebenda, S. 218.
56 . Die Zahlen dieser Überlebenden stützen sich auf den Bericht der tschechoslowakischen Repatriierungs-kommission, wie sie im Sommer 1945 erfaßt wurden. Sie sind auch von Lagus/Polák (Město za mřížemi, S. 352) übernommen worden, während Adler (Theresienstadt, S. 53) die Zahl zurückgekehrter tschechischer Juden mit 2971 angibt; er setzt jedoch die Zahl der Rückkehrer anderer Nationalitäten etwas höher an, so daß er insgesamt auf die Zahl von 3500 Überlebenden der „Osttransporte" aus Theresienstadt kommt.
368
さらに848人が刑務所や隠れ家から解放された[57]。テレジンのゲットーに収容されていた約700人の保護領出身者が、解放の直前にそこを離れた。これらの情報全体が意味するのは、ユダヤ人と見なされた保護領出身者のうち、約1万4千人がナチスの迫害を生き延びることができたということだ。この数がこれ以上多かったとは考えにくい。この生存者数に、すでに引用した2万6,111人のユダヤ人移住者を加えると、ボヘミアとモラヴィア保護領からナチスの「最終解決」を逃れた人々はおよそ4万人と見なさなければならない[58]。
同時に、ナチスのユダヤ人迫害の犠牲者7万7,297人については、終戦時に生存していなかった人々の逮捕日を含む正確な個人情報を特定できた[59]。この数に、ここで挙げられた登録済みの生存者約1万4千人、そして登録済みの移住者約2万6千人を加えると、保護領が始まった当初にユダヤ人としてそこに住んでいた人々のうち、わずか約1千人の運命だけが不明なままであることが分かる。したがって、文献で引用され、わずかにしか異ならず、何度も批判的に比較・検証されてきた保護領のユダヤ人住民の運命に関する統計的記述に従えば、これらの情報の正確性に疑いの余地はない[60]。
スロバキア国
1938年11月22日、スロバキアは、ミュンヘン協定によって縮小されたチェコ=スロバキアの中で、自治領となった。1939年3月14日には、独立した国家、すなわちスロバキア共和国として宣言された。この国は、1939年3月23日にドイツ国との「保護条約」によって初めて国際的な承認を得て、終戦まで存続した。しかし、国内で非合法な抵抗運動が活発化し、武力蜂起が聖職者ファシズム政権であるスロバキア共和国を転覆させる恐れが出てきたため、1944年8月29日にスロバキア政府の同意を得てドイツ軍が侵攻した。ドイツ軍は蜂起したパルチザンとの戦闘を繰り広げ、この国を支配下に置いた。1945年の年初に赤軍がスロバキアの大部分を占領し、同年4月4日に首都を陥落させると、
57 . Diese Zahlen wurden übernommen aus: Lagus/Polák, Město za mřížemi, S. 352; die Zahl der im Protekto-rat im Untergrund" Überlebenden gibt Adler (Theresienstadt, S. 15) mit 424 an, und diese Zahl wird nach-wievor in der Literatur unkritisch übernommen (z.B. Rothkirchen, The Jews of Bohemia and Moravia, S. 52). Kárný (Zur Statistik, S. 17 ff.) stellt diese Angabe mit überzeugenden Argumenten in Frage, ohne je-doch selbst eine genauere anbieten zu können. Er weist dabei auf unsere Unkenntnis jener Personen hin, die von den deutschen Behörden nicht einmal als „Juden" erfaßt wurden, obwohl sich die geltenden Krite-rien auf sie bezogen hätten, und sie zu den „im Untergrund" Überlebenden gezählt werden müßten.
58 . Über die weiteren kleineren Konzentrationslager entweder nur für jüdische oder ua. für jüdische Gefan-gene, vgl. die detaillierte Studie: R. Bubeníčková/L. Kubátová/J. Malá, Tábory utrpení a smrti, Praha 1969, insbes. S. 135-168. Es handelte sich jedoch in der Mehrzahl um kleinere Sammellager, deren Insassen letzt-lich nach Theresienstadt transportiert wurden.
59 . Jeder dieser Namen wurde im Ehrenmal der Prager Pinkas-Synagoge erfaßt.
60 . Für Informationen über die schwierigen Lebensumstände der Überlebenden in der Tschechoslowakei nach dem Kriegsende vgl. Kurt Wehle, The Jews in Bohemia and Moravia: 1945-1948, in: The Jews of Czecho-slovakia, Bd. 3, S. 499-530.
369
スロバキア政府はドイツ軍の保護を求めてオーストリアへ逃れ、アメリカ軍の捕虜となった1945年5月8日に降伏文書に署名した[61]。スロバキア国は、その国家としての独立性がナチスドイツに依存していたとはいえ、1944年夏のドイツ軍事占領までは、特に反ユダヤ主義政策において広範な自治権を保持していた[62]。
ナチスによる絶滅政策のユダヤ人犠牲者数を確定するためには、スロバキア独自の反ユダヤ主義政策にも言及する必要があるが、保護領の場合と同様に、ここでもユダヤ人人口の出発点に関する不正確な統計データから始めなければならない。しかし、スロバキア共和国のユダヤ人メンバーに対する実際の大量絶滅に関する情報は、保護領と同様に「うまく組織化されて」いたため、ここでも比較的よく裏付けられている[63]。
1930年、スロバキアにはユダヤ教信者13万6,737人が住んでおり[64]、無宗教のユダヤ人の数はボヘミア地方よりもはるかに少なかったとみられる。ここでユダヤ人人口に最も大きな影響を与えたのは、1938年に南スロバキアと東スロバキアの領土がハンガリーに割譲されたことで、これにより4万から4万6千人のユダヤ教信者がハンガリー国民となった[65]。ユダヤ人住民のさらなる減少は、国外移住によってもたらされたと思われるが、これはドイツやオーストリアからのユダヤ人難民、そして後には保護領からの移民によって、ほぼ相殺されただろう[66]。この推測は、1939年1月にプラハ統計局が発表した、スロバキアに約8万7千人のユダヤ人がいるという報告[67]、そして、スロバキア国の反ユダヤ主義法の下で後に行われた国勢調査が、1940年12月15日時点でスロバキアに8万8,951人のユダヤ人がいたと示していることによって裏付けられている[68]。
スロバキア共和国の樹立とほぼ同時に、新政権の反ユダヤ主義政策が始まった。しかし、少なくとも1942年春までは、いくつかの点でナチスドイツのそれとは異なっていた。
61 . Jörg K.Hoensch, Geschichte der Tschechoslowakischen Republik, Stuttgart 19782, S. 105.
62 . Zur Diskussion der slowakischen bzw. deutschen Anteile an der Verfolgung der Juden im slowakischen Staat vgl. Ladislav Lipscher, Die Juden im Slowakischen Staat 1939-1945, München 1980; Gutachten des Instituts für Zeitgeschichte, Stuttgart 1958 und 1966, Bd. 1, S. 221-229 und Bd. 2, S. 61-73.
63 . Für die umfassende Übersicht der Judenverfolgung im slowakischen Staat vgl. Ladislav Lipscher, The Jews of Slovakia: 1939-1945, in: The Jews of Czechoslovakia, Bd. 3, S. 165-261 (auf S. 256-261 liegt auch eine umfangreiche Bibliographie vor); ders, Die Juden im Slowakischen Staat; Livia Rothkirchen, The Destruc-tion of Slowak Jewry. A documentary history, Jerusalem 1961; D. Ebert, Statistische Angaben über das Schicksal der Juden in der Slowakei, in: Gutachten des Instituts für Zeitgeschichte, Bd. 2, Stuttgart 1966, S. 73-79; Rapport du Dr. Frederic Steiner, in: Les Juifs en Europe (1939-1945), Paris 1949.
64 . Československá statistika 98/6, S. 105 f.
65 . Vgl. den nächsten Abschnitt dieser Arbeit über Tschechoslowakische Juden in Ungarn.
66 . Die Bemühungen um Auswanderung führten bei den slowakischen Juden zu keinen bedeutenden Erfolgen, nicht zuletzt wegen der finanziellen Schwierigkeiten. Für die Zeit zwischen März 1939 und dem Jahresende 1941 gab die slowakische Judenzentrale an, daß 6194 slowakische Juden und 922 Flüchtlinge aus anderen Ländern das Land legal verlassen hätten. Vgl. Lipscher, Die Juden im Slowakischen Staat, S. 49 und 77 f.
67 . Keesings Archiv der Gegenwart, 2.1.1939.
68 . Statistické zprávy 1941, Nr. 6, Serie A.
370
スロバキアの急進的な反ユダヤ主義政治サークルは政府に大きな影響力を持っていたものの、国内の政治的な対立なしには自らの主張を貫くことはできなかった。スロバキアのユダヤ人政策には、常にその批判者や反対派が活動できる大小の余地があり、また、限定的ながらも、ユダヤ人犠牲者の一部に一時的な安堵や、時には逃亡の機会が繰り返し与えられた。もし、当時のスロバキアに住んでいたユダヤ人全体の約4分の3が犠牲にならなかったとすれば、1942年の大規模な移送の悲劇的な効率性は、より詳しく見ると、スロバキアにおけるユダヤ人迫害全体の枠組みから逸脱していると言うことも、十分な理由をもって可能だろう。
スロバキア共和国の広範な反ユダヤ主義法制は、その効果において、ナチス・ドイツのそれと似ており、「ユダヤ人であること」からの解放という、より広範な可能性を除けば、二つの法律が主要な柱となっていた。一つは、1941年9月9日の「ユダヤ人の法的地位に関する政令」、いわゆるユダヤ人法典[69]であり、もう一つは、1942年3月15日の「ユダヤ人の移住に関する憲法」[70]である。前者は、それまでに制定された反ユダヤ主義の法律や政令を270の条項にまとめて分類し、さらに拡大したものであり、後者は、スロバキアのユダヤ人の大規模な移送が進行している最中に、スロバキア共和国からユダヤ人を「合法的に」移住させるための可能性を作り出すことを目的としていた。ここでは、他のすべてのナチス支配下の国々と同様に、スロバキアのユダヤ人がいかにしてすべての市民権を剥奪され、社会生活や経済生活から追放されていったかという詳細な説明の代わりに、この分野におけるいくつかのスロバキア特有の事柄について言及する。
いわゆるユダヤ人法典が制定されるまで、スロバキア政府の反ユダヤ主義法は、ユダヤ人を宗教共同体のメンバーとして扱っていた。1941年9月のこの法律になって初めて、人種主義の原則が導入されたが、ユダヤ教徒以外のユダヤ人が少なかったことを考えると、実際的な意味はほとんどなかった。スロバキア政府の政策は、主に教会・宗教的な反ユダヤ主義からではなく、むしろ「スロバキアをスロバキア人の手に」というようなナショナリズム・経済的な考えから動機付けられていたが、洗礼を受けたユダヤ人には常に特別な配慮が払われた[71]。最終的に改宗は彼らを完全に守ることはなかったが、時として命を救うことができた。
スロバキアでは、ユダヤ人迫害から少なくとも一時的に身を守るための他の方法もあった。いわゆるユダヤ人法典の第255条には、「共和国大統領は本政令の規定から免除することができる。この免除は完全または部分的なものであり、条件を付すことができる」と記されていた。この規定はヨゼフ・ティソ大統領によって秘密裏に適用され、
69 . Slovenský zákonník 1941, S. 643.
70 . Slovenský zákonník 1942, S. 507.
71 . Am 31.12.1942 lebten in der Slowakischen Republik 3214 getaufte Juden. Vgl. Lipscher, Die Juden im Slo-wakischen Staat, S. 34, 120 u. a. Demgegenüber erscheinen die Angaben Reitlingers (The Final Solution, S. 386) viel zu hoch, wenn er die Zahl der getauften Juden mit 10000-15000 angibt.
371
1943年には1,111人の保護につながった。これは約300件のケースに相当する[72]。さらに広範なのが、いわゆるHZ人物(hospodarský Zid、すなわち経済的に必要なユダヤ人)に対する保護規定だった。1943年末時点で、その数は9,687人とされている[73]。これらの人々は、自分のアパートを所有したり、少額の収入を得たり、さらに細かく言えば、少し小さめのユダヤの星を身につけることが許されるなど、数多くの「特権」を持っていた。
スロバキアのユダヤ人の比較的少数は、一時的にスロバキア国内の労働収容所で生活していた。1939年9月末には、特定の地区のユダヤ人向けの強制収容所として、最初の労働収容所が建設された。それらはそれぞれ数百人しか収容者がいない小規模な収容所で、短期間の滞在後にポーランドの大規模な絶滅収容所に移送されたり、あるいはスロバキア蜂起の勃発後にパルチザンに逃げ込んで非合法的に生き延びることができた者もいた。スロバキアの労働・強制収容所の中で最も重要だったのは、1941年にノヴァーキ、セレッド、ヴィフネに建設されたものだった[74]。
これらの収容所は、明らかにスロバキア政府が「彼らのユダヤ人」を自国内に集中させ、外界から隔離し、囚人たちが自活して国民経済に役立つ機会を創出する目的で運営されていた。これらの収容所の前身として、スロバキア国が樹立された当初に設けられた軍事労働中隊が挙げられる。ここでは、若いユダヤ人労働者がまとめられていた[75]。約1,000人が1942年の移送から救われたが、1943年末にはこれらの労働中隊は解散され、そのメンバーの大部分は民間の強制収容所に送られた。これらの安価で明らかに有能な労働力から得られた経験は、後に建設された上記のより大きな労働収容所でも、囚人となったユダヤ人の潜在能力から証明された利益を最大限に引き出そうとするスロバキア当局の努力を確かに後押しした。これらの3つの収容所は、1942年から1943年にかけて、非常に需要の高い商品を生産する、高生産性の手工業の拠点へと発展し、
72 . Die Angaben über die Zahl der Präsidenten-Schutzbriefe differieren stark. Die hier aufgeführte Zahl geht zurück auf die bestdokumentierte Arbeit von Lipscher, Die Juden im Slowakischen Staat, S. 138; demge-genüber stehen die Zahl von 9000, zitiert in Kulturný život 7.6.1968, und die Zahl von 35000, zitiert in: Bohmann, Bevölkerung, S. 325. Diese letztgenannte Zahl wurde offensichtlich aus slowakischen Exilpubli-kationen übernommen, die den ehemaligen Präsidenten Tiso von seiner Verantwortung für die Vernich-tung der slowakischen Juden freizusprechen bemüht sind, wie etwa: Milan S. Ďurica, Dr. Josep Tiso and the Jewish Problem in Slovakia, Padova 19642.
73 . Lipscher, Die Juden im Slowakischen Staat, S. 138; nahezu gleiche Zahlen gehen aus dem Bericht der deut-schen Gesandtschaft in Preſburg vom 11.8.1944 hervor. Vgl. Eichmannprozeß, Dok. 903. Die Angabe von „einigen Zehntausenden" befreiter Juden aus dem Gutachten des Instituts für Zeitgeschichte erscheint zu hoch ebenso wie die an einer anderen Stelle genannte Zahl von 35000. Vgl. Gutachten des Instituts für Zeitgeschichte, Bd. 2, S. 63, 66. Diese Angaben widersprechen übrigens denen aus einem anderen Gutach-ten, in dem es heißt: „Etwa 4000 der in der Slowakei verbliebenen 30000 Juden fielen unter die Ausnah-mebestimmungen dieses [des Aussiedlungs-Gesetzes)." Ebenda, S. 77.
74 . Für ein detailliertes Verzeichnis aller jüdischen Konzentrationslager in der Slowakei vgl.: Bubeníčková/Ku-bátová/Malá, Tábory utrpení a smrti, S. 157-167; vgl. auch Ivan Kamenec, Koncentračné a pracovné tábory pre rasovo pronásledo vaných obcanov na Slovensku v rokoch 1938-1945, in: Terezínské listy 5 (1979), S. 12-25.
75 . Lipscher, Die Juden im Slowakischen Staat, S. 89 f.
372
高い収益を上げることができた[76]。しかし、比較的安全な生活条件であったここでも、最終的には死への移送の可能性は存在した。1944年、多くの労働収容所の囚人がポーランド、ドイツ、そしてテレジンに移送された。3つの収容所を通過した人々は合計で4万人近くにのぼり、そのうち約120人が収容所内で死亡した[77]。
最終的に、スロバキア蜂起は、スロバキアのユダヤ人がナチスによる絶滅から逃れるための重要な機会を提供した。1944年8月28日、ノヴァーキ収容所のユダヤ人地下運動は、収容所の解体と全被収容者の解放を決定し、実際に暴力を用いることなくその管理権を引き継いだ。2日後にはセレッド収容所の収容者も蜂起に参加し、同時にヴィフネ収容所も解放された。戦闘能力のある解放された囚人たちは、蜂起軍に加わった。これら最大の、そして後に戦闘への参加が最も注目されたユダヤ人グループ以外にも、主要なパルチザン部隊42のうち32でユダヤ人参加者が特定された。全体でユダヤ系の出身者は1,566人にのぼり、これは戦闘に参加したパルチザン全体の約10%に相当する[78]。これらのうち、269人が戦闘中に命を落とした。多くの人々にとって、蜂起は一時的な救済に過ぎなかった。ドイツ軍がスロバキアを支配下に置いた後、以前の政権よりもユダヤ人に対して厳格に行動したからだ。しかし、スロバキアのユダヤ人は、ナチス政権に対する戦争遂行に重要な貢献ができたと主張できる人々であった[79]。
スロバキアのユダヤ人の状況の特殊性は、最終的にはスロバキアのユダヤ人人口のごく一部にしか影響しなかった。彼らのほとんどは、保護領の仲間たちと同様の運命、すなわち、法的権利の剥奪、尊厳の侵害、そして最終的には死への移送に耐えなければならなかった。スロバキア共和国での移送は、1942年と1944年の比較的短い期間に、しかしながら深刻な結果をもたらす二つの波に分かれて行われた。1942年3月3日、スロバキア政府のヴォイチェフ・トゥカ首相は、ドイツ国の代表がすべてのスロバキア系ユダヤ人を受け入れる用意があると発表した。これを受けてアレクサンデル・マッハ内務大臣は、計画された移送の実行に関する詳細な報告書を提出した[80]。驚くべき効率性をもって、既に2月には開始されていたユダヤ人人口の登録と集中のための措置が短期間で実施され、当時他で非常に必要とされていた列車を含む必要な輸送手段が手配された。こうして、1942年3月26日夜には、
76 . Ebenda, S. 140-143.
77 . Die Angaben über Schicksale der Gefangenen sind in der Literatur bisher nur ungenau rekonstruiert wor-den, die Zahlenangaben differieren. Als zuverlässig dürften die hier zitierten und allein aus Primarquellen geschöpften Angaben von Bubeníčková/Kubátová/Malá, Tábory utrpení a smrti, gelten, die die älteren Zah-lenangaben korrigieren, vor allem die in: Catalogue of Camps and Prisons in Germany and German-occu-pied Territories 1.9.1939-8.5.1945. Hrsg. von International Tracing Service. 3 Bde., Arolsen 1949-51.
78 . Lipscher, Die Juden im Slowakischen Staat, S. 168-176.
79 . Vgl. Livia Rothkirchen, Activities of the Jewish Underground in Slovakia, in: Yad Vashem Bulletin 8-9 (1961).
80 . Lipscher, Die Juden im Slowakischen Staat, S. 101.
373
スロバキア系ユダヤ人の最初の大規模移送がこの国を出発することができた。移送に応じないことは脱走と見なされ、該当者は犯罪者として追及された。原則として、1941年9月10日以前に洗礼を受けたユダヤ人、非ユダヤ人と結婚したユダヤ人、または「保護証明書」を所持するユダヤ人は除外された。1942年6月までに、その数は合計2万4,435人にのぼった[81]。
1942年の移送は、3月から7月、9月、そして10月20日にかけて、それぞれ行われた[82]。その犠牲者数を正確に統計的に把握するための最も重要な情報源、すなわち完全な移送リストは、これまでチェコスロバキアでもその国外でも見つかっていない。したがって、様々な情報源からの統計データを比較することしかできない。しかし、そのような比較から、ユダヤ人の著者による数字と、ナチスの文書から得られた数字がほぼ一致することが判明した。そのため、概算の57,000人(あるいは、より正確に特定された異なる数字である57,837人および56,691人)には、根本的な疑問の余地はない[83]。
スロバキアの鉄道管理機関に残された記録からは、この期間に57本の列車がスロバキアから出発したことがさらに明らかになった。そのうち19本はアウシュヴィッツへ、38本はルブリンへ向かった。囚人たちはその後、様々な強制・絶滅収容所に送られた[84]。終戦時に生存者として名乗り出たのは、わずか300人弱だった[85]。これは、1930年にスロバキアに住んでいたユダヤ教信者全体の約半分、あるいは1940年にユダヤ人とされた人々の約3分の2が、1942年の移送によって命を落としたことを意味する。
国内に残ったユダヤ人幹部が国外からの支援を動員しようとしたこと、またカトリックの聖職者の一部やスロバキアの政治家や国民の一部からの圧力により、政府はスロバキア系ユダヤ人の大規模移送を停止せざるを得なくなっていった。1942年夏以降、移送の頻度は少なくなり、10月には完全に停止した[86]。1944年の蜂起が勃発するまで、ユダヤ人の大規模移送はスロバキアから行われなかった。公式のデータによると、この時期にスロバキアに住んでいたユダヤ人は1万8,648人であり、そのうち1万6千人近くが様々な種類の保護証明書を所持し、
81 . Auf Grund leider nicht aufgeführter Daten wurde diese Zahl von Lipscher errechnet. Ebenda, S. 115.
82 . Nach diesem Tag bis zum Jahresende wurden noch 697 bzw. 854 Menschen deportiert. Vgl. Rothkirchen, The Destruction of Slovak Jewry, S. XXV.
83 . Gutachten des Instituts für Zeitgeschichte, Bd. 2, S. 76 und Lipscher, Die Juden im Slowakischen Staat, S. 121 vergleichen alle bekannten Zahlen; Kulka, The Annihilation, S. 327 zitiert aus einem Bericht des slo-wakischen Verkehrsministeriums vom 14.1.1943 die Zahl 57752 Personen, die bis zum Ende 1942 trans-portiert wurden.
84 . Im einzelnen sind die Literaturhinweise zur Information über die weiteren Schicksale der nach Polen de-portierten slowakischen Juden den hier zitierten Studien zu entnehmen, insbesondere Lipscher, Die Juden im Slowakischen Staat, S. 121; Rothkirchen, The Destruction of Slovak Jewry, S. XXVI; Gutachten des In-stituts für Zeitgeschichte, Bd. 2, S. 79.
85 . Die einzige bekannte Zahlenangabe über die Überlebenden stammt von F. Steiner (Les Juifs en Europe, S. 219). Dort wird die Zahl von 284 Überlebenden der bis Juni 1942 52000 Deportierten zitiert.
86 . Für die Zusammenfassung der Gründe vgl. Lipscher, Die Juden im Slowakischen Staat, S. 129-136.
374
残りは強制収容所や労働収容所にいた[87]。相対的な安全と安堵の期間は、1943年に国内に残ったユダヤ人にとって長くは続かなかった。1944年夏のドイツ軍占領の直接的な結果として、ドイツの治安機関は、いかなる種類の「保護証明書」も顧みることなく、スロバキアのユダヤ人を集め始めた。同時に、外交レベルでは、ドイツは大規模移送の再開を試みた。実際、1944年9月30日から1945年3月にかけて、11本の列車が仕立てられ、約8,000人がアウシュヴィッツへ、約2,700人がザクセンハウゼンへ、そして約1,600人がテレジンへ移送された[88]。これらの犠牲者の大多数は移送を生き延びたと考えられる[89]。
全体として、スロバキア共和国の反ユダヤ主義政策の犠牲者として記録されているスロバキア系ユダヤ人は約6万人にのぼる。1942年の大規模移送の犠牲者に加えて、1944年の移送の正確な数は不明だが、スロバキア国内で処刑されたり命を落としたりした人々、そしてスロバキア蜂起の戦闘の犠牲者が含まれる。したがって、文献でしばしば引用される、スロバキア国からの殺害されたユダヤ人6万から7万人という推定値はおおむね妥当だろう[90]。この割合は、スロバキアのユダヤ人住民の生存者数約2万人という数字にも合致している[91]。これらの数字は妥当ではあるものの、満足のいく正確さからは程遠い。今後、より正確な情報を得ることができるかどうかという問いは、チェコスロバキアの公文書館での調査なしには答えられない。
87 . Ebenda, S. 137. Die hier zitierte Zahl bezieht sich auf die Quelle: Výkaz početného stavu Židov na Slo-
vensku k 1. junu 1943. Sie entspricht etwa der von Steiner angegebenen Zahl von rund 20000 verbliebenen Juden, vgl. Steiner, Les Juifs en Europe, S. 220 ebenso wie der Angabe, daß rund 7000 Juden sich im Jahre 1942 durch eine Flucht nach Ungarn retteten. Dagegen geben die Autoren und Zeugen voneinander unter-schiedliche, aber insgesamt höhere Schätzungen an, die in D. Eberts Gutachten und in Hilbergs Studie auf-geführt wurden: Gutachten des Instituts für Zeitgeschichte, Bd. 2, S. 76, Anm. 76; Raul Hilberg, The De-struction of the European Jews, Chicago 1961, S. 468. Die höheren Schätzungen der in der Slowakei verbliebenen Juden würden im Durchschnitt jenen rund 7000 Menschen Rechnung tragen, die weder in den Zahlen der Deportierten noch der Geflüchteten noch in der bei Lipscher aufgeführten niedrigen Zahl von rund 18000 der in der Slowakei Verbliebenen inbegriffen zu sein scheinen.
88 . In diesem Punkt differieren die Angaben in der Literatur voneinander. Sie stützen sich auf unterschiedliche Zeugenaussagen aus den Prozessen gegen die maßgebend verantwortlichen Beamten und geben Zahlen zwischen 9000 und 20000 Deportierten an. Vgl. Reitlinger, The Final Solution, S. 493; Hilberg, Destruc-tion, S. 473; Gutachten des Instituts für Zeitgeschichte, Bd. 2, S. 78; Rothkirchen, The Destruction of Slo-vak Jewry, S. XLVII; Lipscher, Die Juden im Slowakischen Staat, S. 179. Die meisten Schätzungen bewegen sich jedoch zwischen den Zahlen von 13000-14000 Deportierten, genaue Angaben mit Quellen bietet je-doch allein Lipscher mit seiner Zahl von 12306 Personen.
89 . Steiner, Les Juifs en Europe, S. 220.
90 . Die hier verwendete Literatur gibt folgende Zahlen an: Gutachten des Instituts für Zeitgeschichte, Bd. 2, S. 78:66000-68000; Rothkirchen, The Destruction of Slovak Jewry: 68000-71000; Hilberg, Destruction, S. 767: 60000; Meyer, Czechoslovakia, S. 64 rechnet, daß von rund 70000 Deportierten etwa 11000 zu-rückgekehrt sind; Bohmann, Bevölkerung, S. 326: 67000; Kulturmý život, 7.6.1968: 70000.
91 . Bohmann, Bevölkerung, S. 326; Meyer, Czechoslovakia, gibt die Zahl 21000 an; Yeshayahu Jelinek geht von 28000 im Juni 1946 in der Slowakei lebenden Opfern des Holocaust aus. Vgl. Yeshayahu Jelinek, The Jews in Slovakia: 1945-1949, in: The Jews of Czechoslovakia, Bd. 3, S. 531.
375
ハンガリーにおけるチェコスロバキアのユダヤ人
ハンガリーに割譲されたチェコスロバキアの地域に住むユダヤ人の運命について、何の記録も知られていないというのは全く正しくない[92]。同様に、カルパティア・ルテニアのユダヤ人に関する痕跡がないというのも不当な主張だ[93]。しかし、チェコスロバキアのユダヤ人コミュニティの中で最も大きなこの部分の最期について、私たちはごくわずかなことしか知らない。これまでの文献では、彼らの人生の道筋はごく大まかにしかたどることができない。
ハンガリーに割譲された地域におけるユダヤ教信者の数だけでも、データにばらつきがある。旧スロバキア出身者については4万[94]から4万6千人[95]の間であり、旧スロバキアとカルパティア・ルテニアを含む1938年にハンガリーに編入されたチェコスロバキアの全地域については6万7,876人[96]から7万8,123人[97]の間だ。1939年3月に残りのカルパティア・ルテニアもハンガリーに編入されたため、影響を受けた人口の把握は単純になる。これにより、カルパティア・ルテニアのユダヤ人全体がハンガリーに属することになった。したがって、ハンガリーには合計で14万2,000人[98]から14万8,000人[99]の元チェコスロバキア系ユダヤ人が住んでいたことになる。これは、この本の別の箇所で引用されている、1941年のハンガリーの国勢調査による南スロバキアとカルパティア・ルテニア出身のユダヤ教信者14万6,000人というデータとも一致している[100]。この数字に、1942年に難民としてハンガリーにやって来たとされる7,000人のスロバキア系ユダヤ人を加えると[101]、ハンガリーでナチスの迫害に直面したチェコスロバキア系ユダヤ人の最低人数として15万人が得られる[102]。
ハンガリーへの編入後、スロバキアとカルパティア・ルテニアのユダヤ人は、ハンガリーの一般的な反ユダヤ主義政策と法律の対象となった。しかし、彼らの状況が他のハンガリーのユダヤ人よりもさらに困難になることは、すぐに予想された。ハンガリー政府は、領土が拡大したことでこれほど多くの新しいユダヤ人人口を受け入れなければならなかったことを、特に苦々しく思っていたのだ。例えば、1850年以前にハンガリーに家族の住居があったことを証明できないすべてのカルパティア・ルテニアのユダヤ人から、ハンガリー国籍が剥奪された[103]。
92 . Reitlinger, The Final Solution, S. 562; Gutachten des Instituts für Zeitgeschichte, Bd. 2, S. 78.
93 . Rheinischer Merkur, 22.6.1979.
94 . Gutachten des Instituts für Zeitgeschichte, Bd. 2, S. 752, gestützt auf Reitlinger, The Final Solution, S. 562.
95 . Lipscher, Die Juden im Slowakischen Staat, S. 17.
96 . Emő László, Hungarian Jewry: A Demographic Review 1818-1945, in: Hungarian Jewish Studies, New York 1969, S. 137-182.
97 . Meyer, Czechoslovakia, S. 60.
98 . Die Zahl der Glaubensjuden in Karpathorußland vom Jahre 1930 und die niedrigere Schätzung von 40000 slowakischen Juden zusammengenommen.
99 . Die vorherige Zahl wurde hier um die 6000 aus der höher geschätzten Zahl der slowakischen Juden erwei-tert. Diese Zahl entspricht auch der Angabe von László (Hungarian Jewry, S. 163) mit 145963.
100 . L. Varga, S. 338 in diesem Band.
101 . Lipscher, Die Juden im Slowakischen Staat, S. 152.
102 . Die Zahl derjenigen, die sich durch Flucht und Auswanderung retten konnten, war sehr klein und wird hier vernachlässigt. Vgl. Livia Rothkirchen, Deep-Rooted yet Alien: Some Aspects of the History of the Jews in Subcarpathian Ruthenia, in: Yad Vashem Studies 12 (1977), S. 172 ff.
103 . Ebenda, S. 167 f.
376
この一見単なる行政措置に見える動きは、すぐに深刻な結果を招いた。1941年7月から8月にかけて、ハンガリー当局は約1万8千人の無国籍ユダヤ人[104]をガリツィアに強制移送し、彼らはカメネツ・ポドルスクでドイツのSS部隊によって虐殺された[105]。この犠牲者の中にはトランシルヴァニア、ポーランド、その他ドイツ占領地出身のユダヤ人も含まれていたが、大半はカルパティア・ルテニア出身者だった。
これはハンガリーに住む元チェコスロバキア系ユダヤ人に対する最初の大規模な打撃であり、当初はこれで終わるかに見えた。1942年から1944年にかけて、元チェコスロバキア国民はハンガリーのユダヤ人と同じような状況下で生活していた。この間、ハンガリー政府は、自国が迫害されたヨーロッパのユダヤ人にとって平和なオアシスであるかのような印象を国外に与えようと努めた。ちょうどこの時期に、前述の7,000人のスロバキア系ユダヤ人がハンガリーに避難し、とりあえず大量移送による死を免れた[106]。しかし、その裏では、ハンガリー政府は、カルパティア・ルテニアやトランシルヴァニアで「新たに獲得した」ユダヤ人を、交渉を通じて移送によって再び手放そうと引き続き努力していた[107]。
ハンガリーがドイツに占領されるまで、このような移住作戦は行われなかったものの、1944年夏にハンガリーからユダヤ人の大規模移送が始まると、その最初の犠牲者となったのはカルパティア・ルテニアのユダヤ人だった。1944年4月前半、フェルヴィデークとカールパートアッリャの二つの州に住むユダヤ人約13万人が、非常に厳しい条件下で大都市に集められ、いわゆるゲットーに収容された。続く数週間のうちに、彼らはアウシュヴィッツに移送された[108]。これらの犠牲者のほとんどはチェコスロバキア系ユダヤ人だった。そして、彼らのうち何人が偶然や逃亡、あるいは他の強制収容所で生き残ることができたのかは、満足のいく正確さでは決して特定できないだろう。
これまでに発表された推定では、カルパティア・ルテニアのユダヤ人の死亡率は少なくとも80%に達するとされている[109]。さらに、カルパティア・ルテニアのユダヤ人の生存者はわずか1万5千人から2万人であったという推定も知られている[110]。
104 . Vgl. L. Varga, S. 340 in diesem Band.
105 . Rothkirchen, The Destruction of Slovak Jewry, Doc. No. 8.
106 . Livia Rothkirchen, Hungary 127-146. an Asylum for European Refugees, in: Yad Vashem Studies 7 (1968), S.
107 . Randolph L. Braham, The Destruction of Hungarian Jewry. A Documentary Account, New York 1963, Dok. 74.
108 . Auch in offiziellen Angaben einer Untersuchungskommission für die Feststellung der Kriegsschäden in Karpathorußland vom Dezember 1945 wurde die Zahl von 112500 deportierten Juden genannt. Vgl. Shliakom Zhovtnia: zbirnyk dokumentiv. 6 Bde., Uzhorod 1957-67; die Zahl von 130000 setzt sich aus diesen sowie den slowakischen Juden zusammen und ergibt sich aus der detaillierten Darstellung in Ran-dolph L. Braham, The Destruction of the Jews of Carpatho-Ruthenia, in: Hungarian-Jewish Studies, New York 1966, S. 223-235. Vgl. auch umfangreiche neuere Werke von Braham über die Schicksale der Juden in Ungarn.
109 . Reitlinger, The Final Solution, S. 493 gestützt auf: Eugene Lévai, Black Book on the Martyrdom of Hunga-rian Jewry, Wien 1948; Lászlo führt dagegen eine Reihe von Argumenten dafür auf, daß „undoubtedly, it was higher than 80 percent". Vgl. László, Hungarian Jewry, S. 181.
110 . Meyer, Czechoslovakia, S. 64 nimmt an, daß nur rund 15000 der karpatho-ruthenischen Juden überlebten. Eine ähnliche Zahl wurde auch vom „Anglo-American Committee of Enquiry" angenommen, während diese Schätzungen später von Reitlinger als zu niedrig bezeichnet wurden. Reitlinger, The Final Solution, S. 493; Kulka (The Annihilation, S. 319) gibt die Zahl der Überlebenden mit 12000 an.
377
1945年にカルパティア・ルテニアがソ連に編入された後、そこに住んでいたユダヤ人の生存者約5,000人が、チェコスロバキア国籍を選択したことも知られている[111]。カルパティア・ルテニアの犠牲者数に関する、これまで特定された統計データがどれほど不正確であったとしても、一つ確かなのは、ナチスの絶滅政策の結果として、かつてヨーロッパで最も伝統あるユダヤ人地域のひとつであったカルパティア・ルテニアが、そのユダヤ人住民を失ったということだ。ヨーロッパ最大のユダヤ人コミュニティのひとつが完全に破壊されたのだ。
すでに述べた、ハンガリーに住んでいた約4万5千人の元スロバキア系ユダヤ人の痕跡を再構築することは、カルパティア・ルテニアのユダヤ人の場合と比べて決して容易ではない。本質的に、彼らも同様の運命をたどった。なぜなら、彼らも前述の二つの行政区に属していたからだ。しかし、文献には、少なくともスロバキア系ユダヤ人の一部は、平均してやや裕福で教育水準が高く、ハンガリーの社会・経済状況に精通していたため、移送を逃れるチャンスがより多かったかもしれないという示唆が見られる。ハンガリーの文献はスロバキア系ユダヤ人とカルパティア・ルテニア系ユダヤ人を区別しておらず、挙げられている推定死亡率80%以上が両グループに適用されるとしている一方で、フレデリック・シュタイナーは1947年の今日まで引用されている報告書で、ハンガリーに住む4万6千人のスロバキア系ユダヤ人のうち、移送されたのは3万人以下であり、より多くの生存者がいたと推測している[112]。しかし、これまでの全ての記述から明らかなのは、1938年以降にハンガリー領内に住んでいた約15万人のチェコスロバキア系ユダヤ人のうち、推定11万4千人から12万人が命を落としたということだ。
総括
1937年時点のチェコスロバキアの領土全体で、ナチスによるユダヤ人迫害の犠牲となったユダヤ人は約26万人にのぼる。そのうち数万人は行方不明となり、その運命を個人の生死として特定することはできず、統計的な概算値でしか把握できない。この数字の不確実性は、主にスロバキアにおける5万7千人の犠牲者数と、1945年以降にソ連で暮らしたカルパティア・ルテニアのユダヤ人の数に関する推定に起因する。さらに、1930年のユダヤ教信者数と1945年のユダヤ人住民の推定数との間に生じる不明確さは、戦時中の国境変更や、
111 . Kulka, The Annihilation, S. 319.
112 . Steiner, Les Juifs en Europe, S. 220.
378
ナチスの支配前または支配中に非合法的に移住したユダヤ人の数が不明であることに起因している。我々の論考では、スロバキアとカルパティア・ルテニアから亡命したユダヤ人の数は一切言及されていない。一方、ここで引用された保護領から亡命した約2万6千人のユダヤ人という数字は、1939年3月15日以降に合法的に国外へ移住した人数のみを示している。この無知の状態では、1930年と1945年の数字の比較から導き出され、その期間の生活状況について一切情報がない約3万人のユダヤ人が、国外へ亡命したと見なすべきか否かを判断することはほとんどできない。確実に、彼らの中には自由な世界で救いを見出した者もいる。しかし、彼らの多くは開戦前にポーランドに避難し、そこで戦争とナチスのユダヤ人政策の犠牲になったと考えることもまた確実である。彼ら、そして確実に多数がソ連に逃れたチェコスロバキアのユダヤ人の多くは、しかしながら、外国人亡命者に対するソ連の相反する政策の犠牲者ともなっている。しかし、ソ連の労働収容所で命を落としたチェコスロバキアのユダヤ人が何人いるかという推定については、一切の資料がない。ごくわずかな生存者である証人の証言があるのみである。それによれば、明らかに彼らの大多数は、これらの避難場所の状況下で生き残ることができなかった。
113 . Die Vermutung der Emigration stützt sich lediglich auf eine Angabe von 1944. Doch findet man dort keine weitere Präzisierung, etwa durch die Auskunft über die Aufenthaltsorte der aufgeführten 20684 jü-dischen Emigranten, die zwischen Oktober 1938 und Juli 1939 Böhmen und Mähren verlassen haben sol-len. Vgl. Arieh Tartakower/Kurt R. Grossmann, The Jewish Refugees, New York 1944, S. 37.
114 . Die ausführlichen Auskünfte über die Schicksale der jüdischen Flüchtlinge in der Sowjetunion gibt Kulka, Židé v Ceskoslovenské Svobodově armádě.
379

▲翻訳終了▲
次:
