ブーヘンヴァルト収容所のコッホ司令官はユダヤ人を虐待したから死刑になったのか? あるいはヒルバーグはそのように記述していたのか?
今回は引用部分が長いので、全体で2万字超えます🙇
はじめに
明確な嘘をついて私からサヨナラ(^^)/~~~された(笑)西岡昌紀のことはどうでも良いのですが、西岡は散々デタラメを広めた張本人であるため、西岡が起源の様々なデマを時々ネットで見かけることがあります。たとえばその起源の一つとして、『アウシュヴィッツ「ガス室」の真実』で彼はこう書きました。(その本からの引用ですが、Kindle版からの引用なのでページ数はありません)
さらには、次の事実に注目して頂きたいと思います。戦争中、収容所でユダヤ人に対する虐待が少なからずあったことは事実です(39)。しかし、それと同時に、そうした虐待を理由に、多くのドイツ人が、ドイツ当局によって処制されているのです(40)。ユダヤ人を虐待した、という理由によってです。しかも、その中には何と、死刑に処せられたドイツ人すらいたことが、報告されているのです(41)。例えば、ブーヒェンウァルト収容所の司令官だったコッホというドイツ人は、そうしたユダヤ人への虐待を理由に、当時のドイツ当局によって死刑に処せられています。ドイツのユダヤ人政策の目標が「ユダヤ人絶減」であったとしたら、一体なぜ、「ユダヤ人虐待」を理由に、ドイツ人が、それも収容所の司令官が、死刑に処せられなければならなかったというのでしょうか? これは、不条理としかいいようのないことです。
ニュルンベルク裁判の議事録からわかること
これがデタラメであることは、ニュルンベルク裁判の議事録を読めばわかります。資料的な価値もあるのでちょっと長く引用しますが、重要箇所は以下の翻訳中の強調部分です。
ペルクマン博士:証人、あなたはすでに、1943年に法務当局が強制収容所での犯罪の訴追を開始したと述べました。1943年のいつのことですか?
ライネッケ:1943年の後半に、法務当局は元収容所長コッホが関与していた汚職事件を捜査する過程で、他の収容所につながる犯罪の手がかりを発見した。それ以降、法務当局は活動を開始した。
(翻訳者註:ライネッケとは、親衛隊裁判所本部オフィス(The SS Court Main Office)のAmt1(法務部門)の長を務めていた、親衛隊上級大佐のライネッケのことですが、フルネームやそれ以上についてはわかりませんでした。)
ペルクマン博士:なぜ法務当局がこれほど遅くなってから活動を開始したのですか?
ライネッケ:いわゆる法務官が監督のために強制収容所に配属されていた。これらの法務官は、所轄の任命権者の指示を受ける者であり、何らかの犯罪が発生した場合にはいわゆる証拠報告書を作成し、裁判所に提出して、裁判所がその犯罪の訴追を引き継ぐようにする義務を負っていた。
ペルクマン博士:一つ中間的な質問を……。
裁判長:ペルクマン博士、彼はあなたの質問に全く答えていないと思います。あなたの質問は、「なぜ1943年の後半になってようやくこれらの捜査委員会が活動を始めたのか」というものでしたが、彼はその質問に全く答えていません。
ペルクマン博士:裁判長、証人はまだ答え終わっておりません。私はちょうど中間的な質問をしようとしておりましたが、彼のその後の説明でこの点は明確になるはずです。
(証人に向かって)中間的な質問をしたいのですが、証人。これらの法務官は、あなた、すなわち「SS裁判所本部」あるいはSSの法務当局の指揮下にあったのですか?それとも、他の誰の指揮下にあったのですか?名前を挙げてもらえますか?
ライネッケ:これらの法務官は法務当局の指揮下にはなく、捜査を行っていた所轄の司法官の部下であった。
ペルクマン博士:強制収容所においては、その司法官とは誰だったのですか?
ライネッケ:強制収容所においては、それは昨日すでに言及されたオズヴァルト・ポールであった。
ペルクマン博士:それでは、なぜ法務当局がこれらの残虐行為を非常に遅い段階で初めて知ることになったのか、その答えを続けてください。
ライネッケ:その理由は、法務当局がそれ以前には何の疑いも持っていなかったためである。というのも、これらの法務官は1943年までの間、継続的に証拠報告書を裁判所に提出しており、その報告書は非常に詳細であった。被収容者の不自然な死に関する報告書には、犯行現場の写真、医療報告書、被収容者および看守の証言が含まれていた。これらの報告書はあまりにも詳細であったため、法務官の目を盗んで他の犯罪が行われているとは疑われなかったのである。
提出されたこれらの証拠報告書に基づき、すべてのケースで犯罪者に対して裁判が行われ、判決が下された。そしてそのような判決は、年を通じて常に下されていた。
ペルクマン博士:その証拠報告書自体が偽造されており、実際の事実がそれによって隠蔽されていたということはなかったのですか?
ライネッケ:部分的にはそのようなことがあった。私はちょうど、1943年後半にブーヘンヴァルト収容所で捜査を開始したと述べた。実は、1941年にもブーヘンヴァルトで同様の捜査を行ったが、そのときは結果が出なかった。
その後の1943年の捜査において、実際に1941年に収容所長コッホが報告書を偽造し、証人に口裏合わせをさせ、医療報告書を偽造することで、捜査官を欺いていたことが明らかとなった。我々はその後、他の収容所でも捜査を行い、そこでは証拠報告書に問題がないことが確認された。
ペルクマン博士:では、強制収容所でのこれらの犯罪に関して、SS法務当局が取ったさらなる措置について、簡潔に述べてください。
ライネッケ:ブーヘンヴァルト収容所で得られた手がかりは多岐にわたり、他の多くの収容所へとつながっていた。事態は月を追うごとに複雑さを増していった。この種の純粋な刑事事件の捜査を遂行するには、法務当局の捜査機関はまったく不適格であることが明らかとなった。というのも、法務当局は軍事法務機関としての性格上、刑事訴追を遂行するための基本的な前提、すなわちそのための権限を有する機関を欠いていたからである。
このため、判事たちに対して短期の刑事訴訟手続に関する訓練が施されることとなり、同時に国家保安本部と協力して、国家刑事警察局から犯罪捜査のための専門家が提供された。
このような調査委員会が多数の収容所に派遣され、崩壊まで継続して活動を行った。「SS裁判所本部」は、強制収容所での犯罪に関する案件をほぼ専属で扱う特別法廷を創設した。「SS裁判所本部」では、強制収容所における捜査の全体的な指揮を執り、通常であれば検察官が担うべき任務を引き受ける特別部門が新設された。
ペルクマン博士:では、簡潔にまとめてください。強制収容所における犯罪に対するSS法務制度の闘いの成果はどういうものでしたか?
ライネッケ:全体でおよそ800件の事件が捜査され、そのうち400件が裁判にかけられ、そのうち200件で判決が下された。捜査対象には、5人の収容所長に対する訴追も含まれており、そのうち2人に対する訴訟は終了し、銃殺による死刑判決が下された。
ペルクマン博士:これらの捜査委員会の活動に対して、何らかの妨害が加えられることはありましたか?
ライネッケ:非常に重大な妨害があった。その妨害はポールによるものであり、彼はあらゆる手段を用いて、捜査委員会がこれらの犯罪の真の根源に到達するのを妨げようとした。このため、法務当局は迅速な進展ができず、断片的にしか証拠の秘密を解明できず、被収容者と協力せざるを得なかった。調査委員会が派遣されたほぼすべての収容所で、被収容者の中から密告者が採用され、彼らが捜査判事に資料を提供した。しかし、これらの被収容者を協力させるのは非常に困難であった。なぜなら、彼らはその活動が発覚すれば殺されると恐れていたからである。
ペルクマン博士:しかし、たとえばヒムラーに報告すれば、こうした妨害は容易に排除できたのではありませんか?私の知る限り、ポールはヒムラーの直属の部下だったのですから、ヒムラーは彼に必要な命令を下せたはずです。
ライネッケ:いや、ポールはそんなに間抜けなやり方はしなかった。表向きには、「SS裁判所本部」の捜査活動をあらゆる手段で歓迎し、支援しているかのように装っていた。そして、私たちがヒムラーにポールの疑わしい行動を報告した際にも、彼はそのようにヒムラーに取り繕っていた。だが実際には、ポールは自らの巨大な権力を駆使して我々の捜査を妨害し、被収容者や犯罪的な収容所長らと結託していたことを、我々は証拠に基づいて立証した。
一例として1941年のことを挙げると、私が先に述べたように、ブーヘンヴァルト収容所での最初の捜査が失敗に終わったとき、ポールは収容所長コッホに手紙を書いた。私はその手紙を自ら読んだが、そこにはこう書かれていた。
「もしまたどこかの暇を持て余した法学者が、その貪欲な死刑執行人の手を君の清廉で穢れなき人格に差し伸べようとするならば、私は自らの地位の全権限を用いて君を守るつもりだ」
これがポールの常套手段であった。彼は単に強制収容所の死の機構に巻き込まれただけでなく、同時に国家全体でもっとも腐敗した人物となっていた。我々は戦争末期になって、彼が私的に率いていた複数の組織に対する数々の訴訟を通じて、その証拠を得た。その犯罪集団の首領として、彼は自らの身に危険が及ぶかもしれないと恐れて、被収容者の間に設けられていた信託制度をも破壊しようとした。彼はザクセンハウゼン収容所にいた我々の密告者の一人、ローテという人物を投獄し、虚偽の名目で国家保安本部、あるいは国家刑事警察局から命令を引き出そうとした。それは、その者を全被収容者の面前で公開処刑するというものであり、彼らを威嚇し、同時に法務当局の捜査を不可能にしようとする意図があった。我々の捜査官の一人がこれを事前に察知し、土壇場で阻止することができた。
ペルクマン博士:もっとゆっくりお願いします、証人。ずっとゆっくり。これは重要な証言であり、翻訳も容易ではありません。
ライネッケ:それがこの犯罪者ポールのやり方だった。彼が法務当局との闘いで最も重要な武器としていたのは、秘密保持に関する「総統命令第1号」であり、これはすべてのSSおよび警察の事務所に掲示されていた。この命令によれば、秘密とされる事項は、直接関係のある人物のみに伝達され、その人物にも必要最小限の範囲で、しかもその事柄に実際に関わっている期間内に限って伝えられることになっていた。
強制収容所内のすべてが秘密とされていた。そこに入るには特別な通行証と身分証が必要であった。被収容者によって行われる労働も秘密とされており、それは表向き「V兵器」が製造されているためという理由であった。他の行動も秘密とされ、表向きは防諜上の理由とされた。強制収容所に関する文書のやりとりも「秘密」とされ、それゆえまったく検閲の対象とはならなかった。ポールはこの厳格な秘密のベールの背後に長年巧妙に身を隠し、法務当局の捜査が個々の事実に基づいて彼を包囲し、逃げ場がなくなった時にのみ、少しずつ明かしていった。
ペルクマン博士:では証人、あなたがいま述べられたような成果を得たことで、現在われわれがこの法廷の訴訟から知ったような、真の犯罪の規模に迫ることができたと思いますか?
ライネッケ:私が今日知っている限りにおいて言えば、まったくそうではない。その理由は、SSおよび警察の法務当局がこれらすべての犯罪を個別の犯罪として取り扱い、今日では明らかとなったような組織的な犯罪体系を長年にわたって見抜くことができなかったからである。
1944年末になってようやく、法務当局が個別の事実に基づいてポールおよびグラヴィッツ、さらに多くの犯罪を隠蔽していたゲシュタポのミュラーを追い詰めることに成功したとき、初めてこれらの者たちは「上層部からの命令」を持ち出した。そのとき法務当局が新たな方針で始めた捜査は、ドイツ戦争機構の崩壊とともに潰えてしまった。
ペルクマン博士:ではあなたは、1944年末には、実際の犯罪の規模、つまり大量絶滅という実態に迫っていたということですか?
ライネッケ:1944年末の時点で、上層部からの命令が存在することは明らかであった。しかし、それがこのような甚大な規模の大量絶滅に関するものであることは、その時点でもまだ認識されていなかった。
ペルクマン博士:では、あなたが今述べた捜査の結果によって明らかになった犯罪について、誰がその責任を負っていたと判断されますか?
ライネッケ:最高責任者としてはポール、その次にSSおよび警察の元衛生総監であったグラヴィッツ、そして次にゲシュタポ長官のミュラーである。それ以外では、各強制収容所の所長、その幕僚の構成員、収容所内の軍医、さらにかなりの範囲で収容所内の犯罪的な被収容者たちが責任を負っている。
ペルクマン博士:では、いま名前を挙げられたこれらの人物群に属する者は、すべて例外なく犯罪に関与していたと理解してよいですか?
ライネッケ:いや、それは正しくない。我々が行った捜査によって明確に示されたのは、ある収容所では完全に秩序が保たれていたこと、すべての所長が犯罪者であったわけではないこと、また、幕僚の多くの構成員や多くの軍医が犯罪について何も知らなかったということである。特に、収容所の警備兵たちは犯罪とはまったく無関係であった。なぜなら、彼ら自身が収容所内の真の出来事を知ることができなかったからである。
ペルクマン博士:あなたはいまブーヘンヴァルト強制収容所の所長コッホについて語っておられました。この件はすでに本訴訟の中で取り上げられており、その際に検察側は、被収容者ブラハの証言に基づいて、コッホが横領と、自身にとって都合の悪い三名の人物を殺害した罪で有罪判決を受けたと主張しました。検察の説明の仕方は、当時のSS裁判所がその他多数の殺人事件を無視したかのような印象を与えるものでした。これは、あなたの知る限り正しいのですか?
ライネッケ:いいえ、それは正しくない。コッホに対する訴追は汚職の罪にもとづいており、その罪によって彼は死刑判決を受けた。しかし、実際に死刑の根拠となった判決理由の内容は、「殺人の体系」であった。これはコッホが考案し、幾度となく適用した方法である。過去にコッホが行った多くの犯罪については、それらの痕跡がすでに消されてしまっていたため、個別に解明するには何ヶ月、何年もの時間を要する状態であった。したがって、コッホの活動を直ちに止めるため、最短の立証手段として、典型例としての三件の事例を取り上げたにすぎない。実際には、ブーヘンヴァルト強制収容所における「殺人の体系」に対して死刑が宣告されたのである。
ペルクマン博士:この件に関する証人の証言は、宣誓供述書 SS-65、64、66、67、69によって裏づけられている。いや、68は誤りで、64から67、および69である。これらの宣誓供述書は、証人として出廷する予定であった捜査判事モルゲン博士によって作成された。残念なことに、彼は7月初めにようやく到着し、委員会での審問が終わる直前であったため、私も彼の尋問の準備ができなかった。ただし、彼の宣誓供述書は提出してあるので、高等法廷において、モルゲン博士の本人尋問が必要かどうかを判断していただけるはずである。なぜなら彼の証言は最も重要な事柄に関するものだからである。
(証人に向き直って)ヒムラーはこの捜査に対してどのような態度をとりましたか?
ライネッケ:1943年末にブーヘンヴァルトで犯罪が発覚したとき、ヒムラーにはただちに報告がなされ、その後の捜査の進展についても一貫して報告が行われていた。ヒムラーは非常に積極的に行動し、捜査の徹底を自ら命じた。強制収容所の門を通過することができたのも、すべてヒムラーの許可によるものであった。ところが、1944年半ばになって彼は突然、それとは反対の命令を出した。すなわち、最高法務権限者として、コッホに対する訴訟をもって、強制収容所におけるすべての司法的捜査を終了させるよう命じた。コッホは死刑判決を受け、被収容者を集めた上で公開処刑されることになっていた。ポールが処刑を直接指揮し、警備兵たちに適切な訓話を与えることになっていた。他の犯罪者たちは自ら進んで犯行を申し出ることが求められ、そうした自首があれば、場合によってはヒムラーが恩赦または減刑を行うとされた。自ら名乗り出なかった者には、裁判所による死刑判決が待っているだけであった。SS裁判所本部の長官はこの命令に抗議した。しかし、ヒムラーから最終的な決定を得ることはできず、それでもヒムラーは以後の手続きが続けられるのを黙認した。
当時、SS裁判所本部は、他の収容所への捜査活動を拡大する機会を得るため、コッホの件に関する訴訟の完結を意図的に遅らせた。そしてそれは実際に成功した。ヒムラーの命令によってすでに撤収されていた国家刑事警察局の捜査委員会が活動を再開し、1944年秋以降、広範な捜査が継続された。ポールの持続的な抵抗に対応するために必要な権限は、国家指導者の特別判事によって付与され、ポールであってもそれを無視することはできなかった。
以上の通り、コッホはユダヤ人の虐待で死刑に処されたのではなく、「横領と、自身にとって都合の悪い三名の人物を殺害した罪で有罪判決を受けた」のです。したがって、西岡の述べたことはデタラメです。
山崎カヲル氏が明らかにしていたこと
実はこのことは、1999年には既に対抗言論のサイトが関与していたらしいメーリングリストに参加していた山崎カヲル氏(翻訳家、経済学者)が明らかにしていました。
コッホの処刑の典拠として挙げられているのは、ホロコースト研究者のラウル・ヒルバーグの『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅』です。幸い翻訳があります(上下二巻、柏書房、1997年)。そこにはコッホによる「ユダヤ人虐待」のことなど、ひとことも書かれていません。
コッホの死刑はかなり有名な話です。彼はブーヒェンヴァルト収容所長として汚職にかかわり、親衛隊の贈収賄監察官によって告発され、さらにコッホに不利な証言をした親衛隊員の毒殺に関与した疑いで、死刑を宣告されたのです。ヒルバーグの記述から、中心的なところだけを抜き出します。
「ヒムラーは、親衛隊を数百年間にわたってドイツ国民の未来を守っていく使命によって聖化された組織とみなしていたので、親衛隊員によるこうした『不正』[汚職]を許すことができなかった。それゆえに、贈収賄監察官はきわめて堅固な後盾をもっていたが、彼らは多大な権力をもっている者が恥をさらさないように注意しなければならなかった。
・・・国家保安本部の二人の贈収賄監察官(SS大尉モルゲン博士と刑事委員ヴィートSS大尉)が総督府に彼を連行し、一九四二年八月二十日、彼は職を解かれた。・・・コッホ自身はもはや網から逃れることはできず、死刑を宣告され執行された。」(下巻、p.179.)
どこに「ユダヤ人虐待」のことが登場するというのでしょうか。ヒルバーグの本には、西岡さんがいっているようなことは、なにひとつ載っていません。書いていないことを書いているかのようにいうことは、私が住んでいる世界では、ごまかしとか詐欺といいます。
西岡さんは医者だそうですが、文献のなかみを決定的にねじ曲げて紹介することは、医学の世界では常識なのでしょうか。
西岡の言い訳
ところが、これを読んだらしい西岡は、
西岡さんからメールが届き、そこでコッホが虐待を理由に処刑されたという話は、ラウル・ヒルバーグの『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅』の初版で読んだといい、私が参照した同書の第二版はいろいろ書き換えがあるので、
初版に依拠した自分の記述には間違いはない、と述べておられます。
と言って、山崎氏にその初版の当該部分を送ると言ったのに、西岡は結局色々言い訳して送付しませんでした。いちおう、そのメーリングリスト上で西岡は次のように述べています。改行等の編集調整はこちらで行なっています。
山崎カヲル先生
謹啓 ラウル・ヒルバーグ(Raul Hilberg)の[The De-struction of the European Jews](1961)のコピーを家の奥から発見(笑)しましたので,このメールをお送り致します。
先ず,同書1961年版の578ページの前の辺から引用します。
As a last resort, there was the possibility of getting ridof personnel who were overdoing things, but that remedy seemsto have been applied only very rarely.
(最後の手段として,事をやり過ぎる担当者を解任する可能性は有った。しかし,その方法は,極めて稀にしか適用されなかった様である。)
---R.Hilberg:The Destrucruion of the European Jews---(1961) p.578
つまり,稀ではあるが,虐待行為などに行き過ぎが有った場合,その担当者が解任されたりする事例が有った事は,ヒルバーグも(しぶしぶ)認めて居る訳です。この点は,上の記述から御分かり頂けると思います。(改訂版,或は日本語版はどう成って居ますか?)そしてこの少し後で,ヒルバーグはこう書きます。
Sadism, then, was regarded--insofar as it was conceived of at all----as a menace to the health of the 50,000 guards who circulated through the camps. The other problem, corruption, was seen as a threat to the entire Nazi system. Here was a practice which was taken much more seriously and which called for much stronger and concerted ciuntermeasures. As early as 1941 Nebe's corruption specialists(RSHA-V) and an SS and Police Court began to pay attention to this vital issue.
The corruption investigation were an extremely touchy matterbecause they came to the core of a dilemma which was very acute,particularly among the old Nazis. .....(中略).....The corruptionofficers therefore had a very firm basis upon which to proceed, but they had to be careful lest someone be implivated who had too much power.
In 1941 SS and Police Court XXII in Kassel started an investigation directed against Koch, the Buchenwald commander. The proceedings failed, and Pohl congratulated Koch in writing.
..............(中略)................While Koch was beibg held for trial, the investigation staerted in earnest.......(中略)..............Koch himself could not escape from the net--he was tried, sentenced to desth, and executed.(21)
---同書(1961年版)578-579ペ-ジより---
(訳は省略します。御分かりと思いますので。又,中略によって文意はそこなわれて居ないと考えますが,御疑いでしたら,国会図書館で御確認下さい。それから,先生のお手元の「日本語版」は,1981年度の「改訂版」の訳と拝察しますが,比較はお任せ致します。)
この様に,ヒルバーグは,収容所での虐待(sadism)の問題と汚職(corruption)の問題を区別せずに,連続した記述の中で述べて居ます。実際,コッホの事例は,コッホが被収容者を殺害してその財産を奪うと言う事例だった訳ですから,「虐待」と「汚職」の両方に該当する事例だった訳で,この記述の流れの中でコッホの処刑が言及されて居るのは,文脈にかなって居ると言えるのではないでしょうか?
そして,この最後のKoch himself....,he was....executed(コッホ彼自身も....,彼は....処刑された。)と言う個所の引用資料は同書579ページの脚注では,(21)とされ,Paulmannの自白と成って居ます。(Affidavit by Paulmann, July 11,1946,SS-64)これは,モーゲン関連文書の一つで,コンラート・モーゲンに近い立場に有ったドイツの法務官ポールマンがコッホ事件について戦後述べた証言書ですが,この中で,ポールマンは,コッホは被収容者を殺害してその金品を奪ったと言うモーゲンの証言を支持して居ます。重要な事はヒルバーグがこの証言を自分の記述の根拠として引用した事です。つまり,このヒルバーグは,このポールマンの戦後の証言を信用出来る物と見なして居る訳で,それを私は,「アウシュヴィッツ・ガス室の真実」(日新報道)の86ページで,[注41 SS-64 cited in [R.Hilberg前掲書]]と略記ですが提示した訳です。今読み返して見て,これが不親切な書き方だった事は認めます。その点で,先生の指摘に一理有る事も認めます。しかし,これが,一体,先生がおっしゃる様な「歪曲」であるかどうか,このメールを公開し,私の本の当該個所とともに読む事で,aml他の皆さんに公平な判断を仰ぐ事を提案申し上げます。そして,先生が,今後も冷静に議論を続ける事を提案致します。(私の回答は時間を頂くと思いますが)
なんとも意味の読み難いグダグダした文章ですが、要は「ヒルバーグは当該箇所で汚職と囚人に対する虐待を区別して書いてないのだから、コッホはユダヤ人虐待で死刑になったと読めるだろ」と西岡は言いたいようです。
ヒルバーグ本初版(1961)の該当箇所
しかし、西岡はホロコースト否定に与する修正主義者であり、嘘をつくことも厭わない悪質さは証明されていますから、そんなの信じて良いはずがありません。多分、いや間違いなく、西岡はヒルバーグの本のその当該ページにはまずいことが書いてあるのを知っていたので、山崎氏に送付しなかったに違いありません。ていうか絶対そうだと睨んで、国会図書館に当該箇所を複写してもらって送ってもらいました✌️


国会図書館はpdfファイル送付サービスを始めていたためか、本登録申請が殺到していたようで通常なら一週間で本登録できたはずなのに、一ヶ月も待たされました。私もpdfファイルの方を利用したかったのですが、これが複写サービスよりもずっと高額なので躊躇してしまい、複写サービスの方にしました。でも同時に別で申請した件の方について、ページを誤ってこちらが指定していたことを国会図書館の係の方は親切に教えて下さり、国会図書館の係の方には非常に感謝しております。
ともかく、上の部分について、当該範囲の全文と日本語訳(文が切れている先頭と末尾を除く)を以下に示します。脚注番号は[]に変えてあります。
the camp administration never intersfered with Grese's doings.
Another Auschwitz personality, Oberscharführer Moll, who was in charge of the crematoriums there, is mentioned quite often in survivors literature. Among other things, Moll is said to have selected from a newly arrived transport twenty of the most beautiful women. He stood them up in a row, stark naked, and practiced shooting at them, some of the women were hit in several places before they died.[14]
Although Auschwitz was to become the subject of a special Nazi investigation, these particular incidents appear to have been overlooked. There was no concerted effort to curb sadism. Such an effort would have been difficult in any case. The only prescribed remedy would have rendered the of fending guards into "asocials" (sex criminals). However, the problem was recognized. For one thing, the camp administration established a number of brothels.[15] Another measure was to charge inmates instead of guards with the performance of disciplinary action, including the beating of prisoners. That substitution (to be discussed in connection with the inmate hierarchy) had far-reaching effects on the inmates. As a last resort, there was the possibility of getting rid of personnel who were overdoing things, but that remedy seems to have been applied only very rarely. On one occasion when SS men and German political prisoners tossed ninety Jewish women from a third floor window into a courtyard below, the SS men were transferred to another post.[16]
Sadism, then, was regarded - insofar as it was conceived of at all - as a menace to the health of the 50,000 guards who circulated through the camps. The other problem, corruption, was seen as a threat to the entire Nazi system. Here was a practice which was taken much more seriously and which called for much stronger and concerted countermeasures. As early as 1941 Nebe's corruption specialists (RSHA-V) and an SS and Police Court began to pay attention to this vital issue.
The corruption investigations were an extremely touchy matter because they came to the core of a dilemma which was very acute, particularly among the old Nazis. A man could not be an idealist and at the same time stuff his pockets, make love to Jewish women, or engage in drunken orgies. That was why Himmler, who regarded the SS as an organization sanctified by its mission to safeguard the future of the German nation for hundreds of years, could not tolerate such "lapses" by his SS men. The corruption officers therefore had a very firm basis upon which to proceed, but they had to be careful lest someone be implicated who had too much power.
In 1941 SS and Police Court XXII in Kassel started an investigation directed against Koch, the Buchenwald commander. The proceedings failed, and Pohl congratulated Koch in writ ing. In this letter, which was to be-come notorious in SS circles, Pohl said in effect that he would step in shieldingly "whenever an unemployed lawyer should stretch out his hangman's hands again to grasp the white body of Koch" (wenn wieder einmal ein arbeitsloser Jurist seine Henkershände nach dem weissen Körper Koch's ausstrecken wolle.)[17] But the court did not let loose. After Koch had taken over the killing center of Lublin, two corruption officers from the RSHA (Hauptsturmführer Dr. Morgen and Kriminalkommissar Hauptsturmführer Wied) trailed him to the Generalgouvernement. [18] On August 20, 1942, he toppled from his post. [19]
While Koch was being held for trial, the investigation started in earnest. In Buchenwald a Hauptscharführer Koch ler was arrested as a material witness. A few days after his arrest he was found dead in his cell, apparently poisoned. The investigating official, Dr. Morgen, was furious. Suspecting the camp doctor (Dr. Hoven) of the murder, Morgen ordered that samples of the chemical found in the dead man's stomach be administered to four Soviet prisoners of war. The four men died in the presence of several witnesses, including Morgen, corruption officer Wehner, and Hoven's colleague Dr. Schuler (alias Ding). Armed with this proof, Morgen arrested Hoven.[20] Koch himself could not escape from the net he was tried, sentenced to death, and executed.[21]
The vise also closed upon Koch's immediate subordinate, the Lublin Schutzhaftlagerführer Hackmann. Con-demned to death, Hackmann was later put into a punishment unit.[22]
Having bitten into the Lublin camp, the corruption officers suffered a re-verse: they discovered that all potential Jewish witnesses there had been killed. Deciding to investigate this matter also, the SS and Police court was confronted with the mass murder of all the remaining Jewish inmates at Lublin.[23]
Resistance increased in other camps, too, as the old guard fought for its life. Thus in Sachsenhausen the corruption commission was "thrown out bodily" (gewaltsam herausgesetzt).[24]
SS and Police Court XXII in Kassel now constituted itself into the "SS and Police Court for Special Purposes." Preparations were made to capture the greatest prize of all: Obersturmbannführer Höss of Auschwitz. A special commission (chief, Hauptsturmführer Drescher) was installed in the camp, and an informer in the person of Haupt-scharführer Gerhard Palitsch gave in-formation about Höss. The commander, he said, was responsible for the pregnancy of an inmate, Eleonore Hodys, born in 1903 in Vienna. After considerable difficulties, corruption officers interrogated Hodys. [25] But the Auschwitz campaign was doomed to failure. The suction mechanism of thecamp began to work. Open threats
[13] Gisela Perl, I Was a Doctor in Auschwitz (New York, 1948), pp. 61-62.
[14]Philip Friedman, This Was Oswiecim (London, 1946), p. 69.
[15]Ukrainian guards could secure the services of Polish women for two reichsmark (one mark to be paid to the prostitute, the other to be deposited into a special account). Glücks to camp commanders, December 15, 1943, NO-1545. The brothel did not, of course, close off the outlets for sadistic behavior. But in competition with these outlets. it could possibly arrest and prevent the growth of the abnormal impulse into a dominant and lasting pattern in the individual's life.
[16]Ella Lingens-Reiner, Prisoners of Fear (London, 1948), p. 40. The author was a German woman prisoner in Auschwitz.
[17]Affidavit by Dr. Werner Paulmann, July 11, 1946, SS-64. Paulmann was Second Judge and later chief of the SS and Police court in Kassel.
[18]Affidavit by Paulmann, July 11, 1946, SS-64. Interrogation of Wied, July 21, 1945, C-215.
[19]Pohl to chief of SS Personnel Main Office (OGruf. Schmitt), July 28, 1942, NO-1994. OStubaf. Brandt to Pohl, August 23, 1942, NO-1994. Transfer order by Fanslau, sending Koegel to take Koch's place as commander of Lublin, August 24, 1942, NO-4334. At the same time the commander of Flossenbürg, OStubaf. Künstler, was removed from his post because of "feasts and drunken-ness, and the commander of Dachau, OStubaf. Piorkowski, was removed for more serious offenses to stand trial. Brandt to Pohl, August, 23, 1942, NO-1994.
[20]Testimony by Eugen Kogon, Case No. 1, tr. pp. 1183-84.
[21]Affidavit by Paulmann, July 11, 1946, SS-64.
[22]Affidavit by Dr. Erwin Schuler, July 20, 1945, NO-258.
[23]Affidavit by Paulmann, July 11, 1946, SS-64. 24. Ibid.
[24]Affidavit by Gerhard Wiebeck, Febru-ary 28, 1947, NO-2330. Wiebeck, a sub ordinate of Morgen, questioned the woman in October, 1944.
<日本語訳>
アウシュヴィッツのもうひとつの「著名人物」として、収容所の火葬場を担当していた親衛隊上級曹長モルがいる。生存者の証言では、彼の名が頻繁に言及されている。特に、モルは新たに到着した輸送列車から20人の最も美しい女性を選び出し、全裸で一列に並ばせた上で、彼女らを銃の的として練習し、複数箇所を撃たれた末に絶命した者もいたという[14]。
アウシュヴィッツは後にナチスによる特別調査の対象となったが、こうした個別の残虐行為は見過ごされたようだ。サディズムを抑制するための組織的な取り組みは存在しなかった。仮にそうした試みがあったとしても、そもそも困難であっただろう。唯一規定されていた「対策」は、問題のある看守を「反社会的分子」(性的犯罪者)として扱うことだけだった。しかし、問題が認識されていなかったわけではない。例えば、収容所当局は複数の売春施設を設置している[15]。また、囚人への懲罰(殴打を含む)の執行を看守ではなく、囚人自身に委ねる措置も取られた。この代替措置(囚人階層の問題に関連して後述する)は、被収容者に深刻な影響を及ぼした。最終手段として、行き過ぎた行為を行う要員を排除する可能性はあったが、その措置が適用された例は極めて稀だった。例えば、親衛隊員とドイツ人政治犯が90人のユダヤ人女性を3階の窓から中庭に投げ落とした事件では、関与した親衛隊員は別の任務へ異動させられただけだった[16]。
サディズムは、ある程度認識されていたとしても、主に収容所を巡回した5万人の看守たちの健康に対する脅威として捉えられていた。一方、腐敗はナチス体制全体への脅威と見なされ、より深刻な問題として扱われた。こちらははるかに強力で組織的な対策が求められた。早くも1941年、ネーベの腐敗対策専門班(RSHA-V)および親衛隊・警察裁判所がこの重大な問題に着手している。
腐敗の調査は非常に微妙な問題だった。というのも、それは古参ナチス党員の間で特に顕著だったジレンマの核心に触れるものだったからだ。「理想主義者」であると同時に、私腹を肥やし、ユダヤ人女性と関係を持ち、酒宴にふけることは不可能だった。ヒムラーは、親衛隊を「ドイツ民族の未来を数百年にわたって守る神聖な使命を帯びた組織」と見なしていたため、隊員のこうした「堕落」を許容できなかった。そのため、腐敗取締官らは確固たる根拠に基づいて行動できたが、権力を持ちすぎた人物を巻き込まないよう注意を払う必要があった。
1941年、カッセルの親衛隊・警察裁判所第XXII廷は、ブーヘンヴァルト強制収容所所長コッホに対する調査を開始した。この手続きは失敗に終わり、ポールは書簡でコッホを祝福している。この書簡は後に親衛隊内部で悪名高いものとなるが、その中でポールは「また失業中の法曹がその死刑執行人の手をコッホの潔白な身体に向けて伸ばそうとする時は、いつでも私は庇護の手を差し伸べよう」(wenn wieder einmal ein arbeitsloser Jurist seine Henkershände nach dem weissen Körper Koch's ausstrecken wolle)と実質的に宣言していた[17]。
しかし裁判所は諦めなかった。コッホがルブリン絶滅収容所の指揮を引き継いだ後、国家保安本部(RSHA)の二人の腐敗取締官(親衛隊大尉モルゲン博士と刑事委員・親衛隊大尉ヴィート)が彼を追って総督府管轄地域に潜入した[18]。1942年8月20日、ついにコッホは失脚した[19]。
コッホが裁判にかけられている間、本格的な調査が開始された。ブーヘンヴァルトでは、親衛隊上級曹長ケーラーが重要参考人として逮捕された。逮捕数日後、彼は独房内で死亡しているのが発見され、毒殺されたと見られた。調査官のモルゲン博士は激怒した。収容所医師(ホーフェン博士)の犯行を疑ったモルゲンは、死亡した男の胃から検出された化学物質のサンプルを4人のソ連軍捕虜に投与するよう命じた。4人は全員死亡し、モルゲン、腐敗取締官ヴェーナー、ホーフェンの同僚シューラー博士(別名ディング)ら複数の立会人の前で息を引き取った。この証拠を手に、モルゲンはホーフェンを逮捕した[20]。
コッホ自身も逃れることはできなかった。裁判にかけられ、死刑判決を受け、処刑された[21]。
捜査の網はコッホの直属の部下であるルブリン強制収容所所長ハックマンにも及んだ。死刑判決を受けたハックマンは、後に懲罰部隊へ送られた[22]。
ルブリン収容所の調査に取り組んでいた腐敗取締官たちは逆転現象に遭遇した:ユダヤ人証人となり得る者は全員殺害されていたのである。この問題も調査対象と決めた親衛隊・警察裁判所は、ルブリンに残っていたユダヤ人収容者全員の大量殺戮という事実に直面することになった[23]。
他の収容所でも抵抗が強まった。古参の看守たちが生き残りをかけて戦ったのである。例えばザクセンハウゼンでは、腐敗調査委員会が「物理的に追い出された」(gewaltsam herausgesetzt)[24]。
カッセルの親衛隊・警察裁判所第XXII廷はこの時、「特別目的のための親衛隊・警察裁判所」として改編された。最大のターゲットであるアウシュヴィッツの親衛隊中佐ヘスを捕らえるための準備が進められた。収容所内には特別委員会(委員長:親衛隊大尉ドレッシャー)が設置され、密告者として親衛隊上級曹長ゲルハルト・パリッチがヘスに関する情報を提供した。パリッチは、指揮官(ヘス)が1903年ウィーン生まれの収容者エレオノーレ・ホディスの妊娠に関与したと証言した。腐敗取締官はかなりの困難を乗り越えてホディスを取り調べた[25]。
しかし、アウシュヴィッツでの作戦は失敗に終わる運命にあった。収容所という「吸い込み装置」が作動し始めたのである。
(脚注省略)
結論
解説するのも嫌になりますが、まず西岡は、
モルは新たに到着した輸送列車から20人の最も美しい女性を選び出し、全裸で一列に並ばせた上で、彼女らを銃の的として練習し、複数箇所を撃たれた末に絶命した者もいたという
例えば、親衛隊員とドイツ人政治犯が90人のユダヤ人女性を3階の窓から中庭に投げ落とした事件では、関与した親衛隊員は別の任務へ異動させられただけだった
のような残虐事例が書かれていたことを全く無視しました。もちろんヒルバーグは絶滅論者ですから、西岡のような修正主義者がそれらを何かの間違いとして認めないのは当然としても、一切語らないというのはどうなのでしょうか?
また西岡は「稀ではあるが,虐待行為などに行き過ぎが有った場合,その担当者が解任されたりする事例が有った事は,ヒルバーグも(しぶしぶ)認めて居る」などと述べていますが、ヒルバーグは
アウシュヴィッツは後にナチスによる特別調査の対象となったが、こうした個別の残虐行為は見過ごされたようだ。サディズムを抑制するための組織的な取り組みは存在しなかった。仮にそうした試みがあったとしても、そもそも困難であっただろう。唯一規定されていた「対策」は、問題のある看守を「反社会的分子」(性的犯罪者)として扱うことだけだった。しかし、問題が認識されていなかったわけではない。例えば、収容所当局は複数の売春施設を設置している[15]。また、囚人への懲罰(殴打を含む)の執行を看守ではなく、囚人自身に委ねる措置も取られた。この代替措置(囚人階層の問題に関連して後述する)は、被収容者に深刻な影響を及ぼした。最終手段として、行き過ぎた行為を行う要員を排除する可能性はあったが、その措置が適用された例は極めて稀だった。例えば、親衛隊員とドイツ人政治犯が90人のユダヤ人女性を3階の窓から中庭に投げ落とした事件では、関与した親衛隊員は別の任務へ異動させられただけだった[16]。
つまり、虐待・残虐行為は親衛隊中では、ほとんど「最終手段」は取られなかった、と言っているのです。しかし西岡は本の中でこう書いています。
そうした虐待を理由に、多くのドイツ人が、ドイツ当局によって処刑されているのです(40)。ユダヤ人を虐待した、という理由によってです。
この脚注40は、ヒルバーグの前掲書の当該引用箇所です。そんなことどこにも書いていません。これ、西岡による全くの嘘・デタラメなのです。
しかも山崎先生おっしゃる通り、どこにも「ユダヤ人を虐待したという理由によって処刑された」だなんてヒルバーグは書いてません。むしろ、ユダヤ人を虐殺・虐待しても無罪放免、あったとしても異動程度だったのです。
私自身は、気になったことはとことん、可能な範囲である限り自分で調べる癖がついてしまったので、自分なりの宿題としてやってみただけであり、いまさら西岡に呆れることもありませんが、これほどのデタラメ・嘘を信じている人が大勢いることにはなんだか絶望するものもあります。
Amazonの西岡本のレビューでも見てきて下さい、何度もため息つきながらがっくり肩を落としますよ。
なお、私はヒルバーグ本は図書館で読むことにしており所有していないので、これを書いている現時点では比較確認できませんが、山崎氏が示した内容と初版の内容はほぼそっくりなので、日本語版となっている第2版に書かれた当該箇所の内容もほぼ同じでしょう。
以上。
追記:コッホ事件の内容
コッホの件をもっと詳しく調べようと、ニュルンベルク裁判の他の箇所などを調べたりもしましたが、翻訳引用が長くなりすぎるのでそれは断念し、最もわかりやすく詳細な解説と思えたドイツ語版のWikipediaから翻訳引用します。
1941年11月、軍管区IXと強制収容所ブーヘンヴァルトを管轄する上級親衛隊・警察指導者ヨージアス・ツー・ヴァルデック・ウント・ピュルモントは、コッホを呼び出した。そこで彼はコッホに汚職の疑いを突きつけた。コッホがブーヘンヴァルト強制収容所に収容されたユダヤ人囚人の財産から不正に利益を得ていたとされたためである。その後、コッホは武装解除され逮捕された。カッセルのSS・警察裁判所XXIIで予備調査が開始された。しかし、親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーはオスヴァルト・ポールとリヒャルト・グリュックスの介入により、コッホを即時釈放するよう命じ、今後は彼の命令なしに高級親衛隊指導者が逮捕されないよう定めた(「レックス・ヴァルデック」)。事件が却下された後、コッホはポールから祝賀状を受け取った。そこには「また無職の法律家があなたの白い体に刑執行人の手を伸ばそうとするときは、私が守る」と保証されていた。
1941年末、コッホはヒムラーの介入によりブーヘンヴァルト強制収容所からマイダネク強制収容所に異動され、再び収容所長となった。1942年7月14日にマイダネクからソビエト人囚人86人が脱走した後、彼は1942年8月に過失による囚人解放の罪で一時休職となった。その後、コッホはSSと郵便保護部隊の連絡将校としてエーゲルに懲罰転任された。過失による囚人解放に関するコッホへの訴訟手続きは1943年2月17日に中止されたが、武装親衛隊から一般親衛隊への懲罰転任は維持された。
その間、ヨージアス・ツー・ヴァルデック・ウント・ピュルモントはコッホを巡る汚職事件について、収容所管理文書(残っていた限りで)を調査・評価させることで、さらなる調査を行っていた。彼はブーヘンヴァルト強制収容所の死亡者リストを調査する中で、ヴァルター・クレーマーとカール・パイクスの名前に気づいた。両者は囚人看護師で、1941年11月6日にゴスラー外部収容所で逃亡中に射殺されたとされていた。クレーマーはヨージアス・ツー・ヴァルデック・ウント・ピュルモントに知られていた。というのも、クレーマーが彼の癰(せつ)を成功裏に治療していたからである。後の調査で判明したように、コッホも梅毒をクレーマーに治療してもらっていた。多くの他のSS指導者と同様、彼もSS医師よりも囚人看護師による治療を好んでいたのである。そのため、クレーマーとパイクスは不都合な証人だった。さらに、クレーマーはコッホの横領についても知っていた。コッホが命じたこれらの殺人は後に証明され、最終的に殺人罪の起訴の主な理由となった。
ヨージアス・ツー・ヴァルデック・ウント・ピュルモントはさらに警備隊のメンバーや囚人たちも尋問した。彼は調査結果をハインリヒ・ヒムラーに送り、ヒムラーは彼に調査の継続を許可したが、最初はコッホとその妻の個人的な不正蓄財に関連するものに限られていた。最終的に、ハインリヒ・ヒムラーの同意を得て、調査はカッセルのSS・警察裁判所からSS判事コンラート・モルゲンに委託された。モルゲンはすでにコッホ夫妻の口座の動きと通信を監視していた。ブーヘンヴァルト強制収容所での広範な調査の後、モルゲンはコッホの事例をはるかに超える巨大な汚職事件を明らかにした。コッホの元部下の宿舎を刑事警察の助けを借りて捜索した際、モルゲンは多額の現金、宝飾品、殺害された囚人の歯の金から作られた塊を発見した。さらに、囚人たちへの他の殺人や殺人未遂も明らかになり、それらは囚人たちの共犯関係や証言の意思によって、おそらくコッホの命令によって行われたものだった。
1943年8月24日、コッホは最終的に汚職と三人の囚人の殺害により、妻とともにブーヘンヴァルト強制収容所の公務宿舎でゲシュタポによって再び逮捕された。夫婦はヴァイマールの厩舎に収監された。逮捕はコンラート・モルゲンの立会いのもとで執行された。激しい尋問の後、コッホはコンラート・モルゲンに対して彼に対する告発を認めた。さらに、コッホの副官ヘルマン・ハックマン、拘留棟の責任者マルティン・ゾンマー、収容所医師ヴァルデマル・ホーヴェン、SS上等軍曹ヨハン・ブランク、そしてヘルマン・フロルシュテットなど、司令部職員と警備隊の他のメンバーも共犯として逮捕された。1943年の晩夏、急性中毒症状のため、ハックマンの妻や、この犯罪複合体の中で逮捕されたSS下士官の父親など、潜在的な不利な証人たちが病院で治療された。もう一人の不利な証人である上等軍曹ケーラーは、中毒症状を示してブーヘンヴァルトの拘留棟からヴァイマールの軍病院に移送され、その直後に死亡した。死亡者の検死や更なる調査にもかかわらず、当初は中毒を特定の犯人に結びつけることができず、またそれがコッホの指示によるものであるという証明もできなかった。オイゲン・コゴンの後の証言によれば、ケーラーの死に関連するヴァルデマル・ホーヴェンへの調査の過程で、モルゲンの命令によって、ケーラーの胃から発見された物質が四人のソビエト捕虜に投与された。この犯罪学的実験は、モルゲン、他の二人の調査官、そして他の証人たちの立会いのもと、捕虜たちの死で終わった。捕虜たちの死はモルゲンにケーラーの死におけるホーヴェンの罪を確信させ、それによってホーヴェンを逮捕させた。ホーヴェンは結局18ヶ月間ブーヘンヴァルトに拘束されたままだった。ゾンマーは後に、ホーヴェンの指示により少なくとも40人の囚人をエヴィパンと空気注射によって殺害したことを認めた。
1944年4月11日にブーヘンヴァルト汚職事件の調査結果が提出された後、1944年8月17日に被告人に対する起訴命令が発せられた。1944年9月、カッセルの「SS・警察裁判所」で被告人に対する裁判が始まった。この裁判所は今や「特別処分」のために、「認可されていない」強制収容所犯罪の調査と裁決を行う機関として機能していた。裁判は非公開で行われ、合計22人の証人(SS隊員と囚人の両方)が聴取された。コッホ夫妻に対する訴訟は後に別々に審理された。
「私の行動を説明できる理由は見つかりません。ただ、私が上官に甘やかされていたということかもしれません。私が提案し実行したことはすべて承認されました。私は称賛と栄誉だけを得ていました。これが私の頭に上りました。当時、私は誇大妄想に陥っていたのです。」 – カール・オットー・コッホ:1944年末の裁判中の証言
罪状は汚職、殺人、致命的な結果を伴う暴行だった。コッホ夫妻に対する判決は1944年12月に言い渡された。コッホは殺人、盗品の売買、詐欺、横領、および扇動により二度死刑を宣告された。他の関係者であるヘルマン・ハックマンとヘルマン・フロルシュテットも死刑を宣告された;おそらくホーヴェンも同様だった。ヨハン・ブランクは1944年2月の逮捕後、ブーヘンヴァルト強制収容所の収容所で首を吊ったとされている。ヴァルデマル・ホーヴェンとマルティン・ゾンマーは終戦間際に拘留から解放された。ゾンマーは試用期間として前線に派遣され、そこで重傷を負った。イルゼ・コッホはこの裁判で無罪となり、拘留から解放された。終戦直前の1945年4月5日、カール・オットー・コッホはブーヘンヴァルト強制収容所でSSの銃殺部隊によって処刑された。処刑に立ち会った医師アウグスト・ベンダーの書面による回想によれば、コッホの最後の言葉は「みんな、うまく撃ってくれ!」だった。しかし、ハックマンへの死刑判決は執行されなかった。ヘルマン・フロルシュテットの処刑は証明されていない。
コッホが死刑になったのは、「ユダヤ人の虐待」などでは全然なかったことがわかると思います。そもそもそんなの、どこを探しても西岡以外の情報源は見当たりません。
