修正主義者が一時期喜んだという、アウシュヴィッツ主収容所第一火葬場の「捏造」について書いたエリック・コナンの記事全訳紹介。
2025年2月9日追記:記事を悪用したフォーリソンに関する内容を「翻訳者註」として追加しました。
西岡昌紀氏とツイッターで議論(?)をしていたのです。あの第一ガス室の捏造疑惑について。捏造疑惑については、
あるいは、
または、
で解説があるのでこれらを参照ください。この話、1980〜1990年代にかけて、ホロコースト否定論が欧米でそこそこ世間を賑わせていた頃に、散々欧米でも取り上げられていたようなのですが、いろんな人がいろんなことを言うので、ある意味収拾がつかない感じの部分もあったようです。私もこの話、細かい当時の議論の部分までは到底追いきれていません。ただし。上の参照記事中にあるHolocaust Controversiesブログサイトの記事が、事実関係についてはかなり正確だとは思います。特にTwitter否定論集の解説記事はわかりやすい図まで入っていて素晴らしいと思います。
ところが、今もなお生息する西岡氏や西岡氏を慕う連中のような否定派は、このガス室を戦後に捏造したものであるとの疑惑説を捨てようとはせず、延々言い続けているのです。実質的には、とっくの昔に決着はついているのです。それが、プレサックの本です。以下を読んでみてください(特に133ページ)。これ1989年の本ですよ。
で、その時に持ち出したのがエリック・コナンの話です。「どっかで聞いたような…」と思いつつ、すっかり忘れていたので、西岡氏にその記事とやらを紹介してもらおうかなと思っていたんですが、Google先生は素晴らしくて、自力で簡単に見つけましたw
ていうか、実は以前にヴァンペルトレポートの翻訳記事中にあったんですよ(笑)。部分的ですけどね。でもせっかくなので、いつもの如し、フランス語記事から全訳です。フランス語はさっぱりわけわかんないので、DeepLやその他の機械翻訳に頼りっきりですが、まぁまぁそこそこ意味の通じるように訳せている感じはします。
しかしこれ……、マジで記事の趣旨を思いっきり捻じ曲げてたんだな。ったく悪質な連中だ、否定派は。これのどこが「第一火葬場・ガス室の捏造説」の決定版だ、バカ。この記事を読めば分かる通り、色々と古くなったりしているので、どうやってアウシュヴィッツ博物館が「収容所」を歴史的遺産として保存していくか? の記事だ。例えば変な改修工事とかをしてしまうと、極端な話が「歴史改竄」にも繋がってしまう。例えば、今の大阪城を太閤秀吉さん当時のものだと説明したら明らかに「ウソ」だ(笑)。この記事に書いてある内容は、そんな内容なのである。
その中で、一つの象徴として、「第一火葬場が推定される状態で再建」された時に、上の参照記事中にある通り、色々と間違った「再建」をしていたのである。その話が書いてあるだけ(修正主義者の第一火葬場の再建についての悪用にも触れている)なのだ。
それをタイトルにしてしまったエリック・コナンも悪い。さらにこの記事を修正主義者が悪用したのだ。とーにかく、修正主義者はいわゆる「揚げ足取り」の連中なのだから、もっと気を付けてほしかったとは思う。フランスって、ある意味修正主義の本場じゃないか、と。
ともあれ、これのどこが第一ガス室捏造の根拠になるねん?って話です。そう思いますか? これ。西岡氏、あなた本当にどうかしてると思うよ、うん(笑)
註:その後、西岡氏は、フォーリソンの主張を単に鵜呑みにしているだけだとわかってます。
追記:上記ページがうまく表示されないときは、インターネット・アーカイブで確認できます。例えば以下。
▼翻訳開始▼
L'Express
1995年1月19日、パリ
エリック・コナン:アウシュビッツ:悪の記憶
「すべてが偽りである。ガス室の寸法、扉の位置、ツィクロンB投入口、数名の生存者の記憶に基づいて再建された炉、煙突の高さまでもが——。」
50年前の1945年1月27日土曜日、ソ連第60軍の部隊がポーランド・上シレジアのアウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所複合施設に突入した。そこはクラクフから50キロ以内の地点にあった。
解放された3つの収容所では、赤軍の兵士たちはわずか7,000人の囚人しか発見しなかった。そのほとんどは死にかけているか重病であった。
スターリンの軍隊の進撃を前にドイツ軍は撤退し、「労働可能」とされた囚人の大多数を連れ去った。この避難は1945年1月半ばに突如として加速した。赤軍が予想より早くヴィスワ川で攻勢を開始したためである。
ナチスは急遽、3つの収容所の最終的な清算を決定した。1945年1月17日から21日の間に、さらに56,000人の囚人が収容所を出発し、雪と氷の中を徒歩で移動した。
この「死の行進」により、わずか数日間で何千人もの犠牲者が出た。彼らは疲労や寒さで倒れたか、敗走に怯えた看守の銃弾によって命を落とした。
ソ連軍が到着したとき、彼らは人類史上前例のない建造物の残骸を発見した。すなわち、ガス室を備えた火葬場である。これらは1月20日にドイツ軍の爆破工作員によって爆破されていた。
生存者の証言を聞きながら、軍人たちはこの機械装置が集団殺害のために設計されたものであることを知った。
アウシュビッツはナチスの絶滅収容所の中で唯一のものではなかった。しかし、最も規模が大きく、最も多くの犠牲者を出し、そして今日最もよく知られている。
他の人間破壊を目的とした収容所(トレブリンカ、ヘウムノ、マイダネク、ソビボル、ベウジェツ)は、生存者がほとんど残らなかったのに対し、アウシュビッツは強制収容所および労働収容所でもあったため、より多くの生存者を生んだ。結果として、より多くの証言が残された。
約100万人がそこで殺害され、その90%近くがユダヤ人であった。
戦後、この出来事の持つ唯一無二の重要性は、西側では長く過小評価され、東側では歪められてきたが、次第にその認識は高まり続けている。
今や普遍的な象徴となった、ヨーロッパ各地から延びる鉄路がビルケナウの門の先で突然途切れるという光景は、20世紀を永遠に刻むものである。
これが冬の作業である。
かつての洗濯場を作業場に改装し、寒さと雪を避けながら、7人の大工が黒ずんだ大きな木製の扉を台の上に置き、作業に取り組んでいる。一人ずつ、彼らは慎重にすべての釘を取り外す。
分解されたそれぞれの板には、番号が刻まれた小さなブリキのプレートが取り付けられる。そして、それらは部屋の奥にある他の何百もの部材──板材、梁、くさび──の隣に並べて置かれる。すべてがバラックB153に属するものである。
バラックB153は、かつて「検疫収容所」の跡地に残る最後の20棟の松材バラックの一つであった。1941年以降、ビルケナウに仮設として設置された、全長40メートルのヴェアマハトの組み立て式馬小屋の一つである。
彼らは秋にバラックB153を解体した。非常にゆっくりと進められた。すべてのパネル、扉、梁に番号を振り、あらゆる角度から写真を撮影した上での作業だった。
1冊のファイルには数百枚の写真が収められている。別のファイルには、解体の各工程を示す数十枚の図面が収められており、その作業はビデオにも記録された。
さらに3冊目のファイルには、修復の過程が木片ごとに記録されている。スケッチには異なる色で、保存されたオリジナルの板と、損傷や腐敗によって部分的または完全に新しい松材に置き換えられた板が示されている。
4冊目のファイルには、春に予定されている再組立時に撮影される写真が収められる予定である。
これらの分厚い台帳は、完璧に整理されている。
ヴィトルト・スメレクが自ら目を光らせている。「今では、我々の作業はすべて記録されている!」アウシュヴィッツ=ビルケナウ博物館の総合保存管理者であるこの40歳の技師は、アウシュヴィッツI(20ヘクタール)およびビルケナウ(171ヘクタール)の全域にわたる維持・修復作業を監督している。彼の部下たちは、バラックB153の保存のために6か月を費やす予定である。
すでに4棟のバラック、いくつかの見張り塔、そして数十の寝台が、新たな規則に則って修復された。これまで松材の遺構が四方から徐々に腐食していくのを防ぐため、修復した板材を防虫剤の浴槽に浸していた。しかし、スメレクは最近、デンマーク製の巨大な装置を20万マルクで購入した。この資金はドイツ政府が提供したものである。
「これは、加圧処理による木材保存のための高度な大型乾燥機だ。これを使えば、一度に数十枚の板を処理でき、保存期間は30年保証される。」
保存管理者であるスメレクは、彼の孤独な職務について強調する。「私は、もともと非常に仮設的に建てられた粗悪な施設を維持しなければならない。50年前に湿地帯に建てられたもので、地盤が常に動いている!しかし、低品質のコンクリートや崩れやすいレンガの専門家など存在しない。時には、どうすればよいのかわからなくなる!」
彼は日々付きまとう葛藤について、絶え間なく語る──どのようにすれば、しばしば不可能ともいえる仕事を誠実に果たせるのか?遥か彼方まで並ぶバラックの最後の痕跡であるレンガ製の煙突が崩れそうになれば、彼はそれを鉄筋コンクリートで満たし、地面に固定する。その半数は、すでに1960年代に再建されたものである。
錆びた鉄条網が切れれば、彼はためらうことなく新品と交換する。戦後、145キロメートルにも及ぶフェンスは、すでに3回完全に取り替えられている。しかし、それを支える湾曲したコンクリート製の支柱が割れ、危険になった場合はどうするべきか?屋根の重さに耐えきれず崩壊しつつあるビルケナウのブロック群の厚さ12センチのレンガ壁をどう補修するのか?
そして、ナチスが1945年1月20日に爆破した第II・III焼却炉のガス室跡の鉄筋コンクリートの遺構は、年々劣化し続けている。これらをどうすればよいのか?
かつての管理者たちがしていたように再建することは、今や選択肢にない以上、スメレクは明確な指示を求めている。その間、彼は過去5年間、助言に従い、15人の職員や監督者が行ったすべての修復作業を詳細に記録している。それがどんな建物であろうとも。
すでに大きく損なわれている真正性――例えば、ビルケナウに残る最後のバラック群のように。
ナチスは、もともと200棟以上のバラックを設置していた。1944年の撤退前に数十棟を解体し、多くを焼却した。その後、戦後になると、ポーランド当局が100棟以上を回収し、ワルシャワの避難民のために再利用した。さらに、アウシュヴィッツ周辺の住民たちが、1945年から1947年にかけて、放置されていたこの地から薪を調達した。
1952年までに、わずか38棟が残されていたが、すでに荒廃しており、修復可能な部分を用いても、ほぼ完全な形で再建できたのは20棟にすぎなかった。これらのバラックはその後、繰り返し修復され、現在では当初存在しなかったコンクリートの基礎の上に再建されている。かつて、数百人、多い時には千人近くの囚人が詰め込まれたこれらのバラックでは、三段式の木製寝台がむき出しの地面に直接置かれていたのだ。
「では、現在残る遺構のうち、どれだけが1945年当時のものなのか?」この問いに対し、ヴィトルト・スメレクは「少なくとも60%だ」と答える。アウシュヴィッツの保存・再建に関する40年間の取り組みに対する批判に、彼は苛立ちを隠さない。彼自身は、当時そこにいなかった。責任もない。だからこそ、彼は職人たちの作業をすべて細かく記録し、慎重に保管している。彼が何かを歪めたと非難されることはない。証拠はすべて、アウシュヴィッツIの元囚人棟に設けられた彼の広い事務所に積み上げられた数十冊のファイルの中にある。
彼の徹底した記録管理は、「遺物」についても同様だ。博物館の職員の間では「オブジェ」と呼ばれるそれら――スーツケース、靴、飯盒、眼鏡、義肢、櫛など――は、1945年、収容所の倉庫で何万点も発見された。これらは、殺害された最後のユダヤ人たちの個人所有品であり、ナチスが組織的に回収し、ドイツ本国へ「再利用」目的で送ろうとしていたものである。
その一部は博物館で展示されているが、元囚人棟の暖房のない部屋の大きなガラスケースの中で、50年間劣化し続けてきた。しかし、ドイツ政府の援助(750万マルク)により、現在、ドレスデンの企業が設計した暖房・空調システムが導入されつつある。また、スメレクの監督のもと、博物館職員たちは「遺物の維持管理」にこれまで以上に注意を払うようになった。
例えば、8万7千足の靴。かつては定期的に、大きなドラム缶の中で、ラノリンを含ませたおがくずと一緒に撹拌することで、埃を取り除き、油分を補給していた。しかし、その結果、靴は均一な色になり、多くがこの方法に耐えられず損傷してしまった。現在、この手法は廃止されている。
さらに、博物館は「記憶の活動家」であるドイツの若いボランティアたちの協力を受けている。「Aktion Suhnezeichen」(贖罪の行動)のメンバーである彼らは、アウシュヴィッツに定期的に滞在し、善行を求めて活動している。
ヴィトルト・スメレクは、悲劇を物語る靴を、一足ずつ手作業で清掃させている。
ケルンの修復学校の学生たちは、スーツケースの清掃を担当した。
このような細心の注意――不正を働いていると非難されぬよう配慮し、誠実に作業を進めようとする姿勢――は、ポーランド当局が近年取り組んできた努力を示している。かつて共産主義の記憶によって形作られ、意味すら歪められてきた旧絶滅収容所を、その影響から解放しようという試みである。
鉄のカーテンが崩壊した後、アウシュヴィッツの管理者たちは、突如として急増した外国人訪問者に直面することとなった。彼らの多くは、目の当たりにしたものに衝撃を受け、それを率直に表明した。その結果、提案や批判、抗議が次々と寄せられるようになった。
アウシュヴィッツのカルメル会修道院問題は、新たなポーランド政府に迅速な対応を迫ることとなった。この外交的調整の中心人物となったのが、カトリック系雑誌『Znak』の編集長であり、かつてのカトリック反体制派の有力者であったステファン・ヴィルカノヴィッチである。
首相タデウシュ・マゾヴィエツキは、この側近をカルメル会問題の調停役に任命した。一見穏やかに見えるが、実際には強かな人物であるこの60代の男性は、フランスのテオ・クラインとともに、国際的な注目を集めたこの対立の解決において重要な役割を果たした。そして、これをきっかけに、アウシュヴィッツの管理体制の問題点が広く認識されるようになったのである。
その後、マゾヴィエツキはヴィルカノヴィッチにアウシュヴィッツ全体の問題に取り組むよう求め、旧収容者団体をも巻き込む形で新たな組織が発足した。
こうして1990年に設立されたのが、「アウシュヴィッツ国立博物館国際委員会」である。委員は26名で、国籍も様々だった。イスラエル・グットマン(エルサレムのヤド・ヴァシェム記念館)、テオ・クライン(フランスのユダヤ人機関代表評議会〈Crif〉元会長)などが名を連ねた。
この委員会の議長には、ワディスワフ・バルトシェフスキが就任した。彼は、広く尊敬を集める人物であり、ユダヤ史の研究者であり、かつてのレジスタンス活動家であり、アウシュヴィッツの生存者であり、そして現在はポーランドの駐オーストリア大使を務めていた。副議長には、ヴィルカノヴィッチが就き、特に注意深く動向を見守る立場となった。
この委員会の公式な役割は、アウシュヴィッツ博物館の館長および所管する文化相への助言であった。しかし、実際には戦後初めて、アウシュヴィッツをどうするべきかという根本的な議論が展開される場となったのである。
「ナショナル・コミュニズム的な言説を終わらせ、アウシュヴィッツの記憶の中でユダヤ人虐殺がようやく中心的な位置を占めるべきだという点では、全員が一致した。しかし、それをどのような形で実現するかについては、激しい対立があった」と、ヴィルカノヴィッチは振り返る。
そして5年後の現在も、状況は変わっていない。「最大の誤りはいくつか修正された。しかし、主要な議論はまだ続いており、決着には程遠い。むしろ、本当に重要な、時に痛みを伴う、あるいは予期せぬ議論が、いま始まったばかりなのだ」と彼は語る。
それでも、国際委員会はわずか数週間前、5年間続いた論争に終止符を打たざるを得なかった。
次回の50周年記念式典に向け、1990年に即座に撤去したビルケナウの記念碑(20か国語表記)の新しい銘板を設置することになったのである。
旧銘板は、共産主義がこの地に及ぼした影響を示す最も目立つ、かつ厄介な象徴であった。そこには、次のように記されていた。「ここで、1940年から1945年の間に、400万人の男、女、子どもがヒトラーの殺人者たちによって拷問され、殺害された。」
この数字は、明らかに誤りであったばかりか、犠牲者の90%を占めるユダヤ人の存在に一切言及していなかった。
この「ファシズムの犠牲者を追悼する国際記念碑」が除幕されたのは、1967年4月16日である。3時間に及ぶ演説の中で、ポーランド首相やソ連軍の解放者を含む演者たちは、一度たりとも「ユダヤ人」という言葉を口にしなかった。
スターリン主義の歴史観において、ユダヤ人虐殺の否定は長らく一貫していた。アウシュヴィッツは、まず第一にポーランド人の苦難の地であり、反ファシズム戦士の殉難の場であるとされた。
そのため、当時の博物館の展示方針は、ポーランド人のレジスタンス戦士や人質7万5千人が主に収容・処刑されたアウシュヴィッツIを中心に据え、大量虐殺の中心地であったビルケナウの巨大施設を軽視するものとなった。唯一の例外は、1万5千人のソ連兵捕虜を追悼する記念碑であった。
アウシュヴィッツIの博物館の大部分は「国別パビリオン」で構成され、その中にユダヤ人パビリオンも単なる一つの展示として含まれていた。それらの多くは、共産主義の偉業を称える内容となっていた。特に、アウシュヴィッツに囚人を送らなかったにもかかわらず存在していたブルガリア館は、その典型的な例であり、博物館は最近「安全上の理由」という名目でこれを閉鎖した。そして、現在は放置されている旧ソ連館も、かつては赤軍の功績を喧伝する展示であった。
この歴史的歪曲は、一刻も早く正されなければならなかった。しかし、旧銘板を撤去した時点で、委員会のメンバーは、新しい銘板に記すべき犠牲者の数について合意していないことに気付いた。
最も信頼できる研究――ラウル・ヒルバーグ、フランチシェク・ピーパー、ジャン=クロード・プレサックによるもの――によれば、アウシュヴィッツで殺害された人数は80万~120万人であり、そのうちユダヤ人は65万~100万人とされる。
この数値の幅は、主にポーランド人およびハンガリー人犠牲者の数を正確に特定する困難さによる。一方、西ヨーロッパからのユダヤ人移送数については、セルジュ・クラーズフェルトの研究により、比較的正確に把握されている。
彼はアウシュヴィッツ国際委員会に正式な委任を求めた。
委員会はこれを快く承認した。博物館は原則として外国からの支援を受け入れない方針を貫いてきたが、自ら直接関与しない形で行われるのであれば、反対する理由はなかった。
「ローダー効果」は劇的であった。
これまでアウシュヴィッツの保存に何ら関与してこなかったドイツが、突如として資金を提供し始めたのである。それも熱心に。しかし、彼らは博物館との直接交渉を望んだ。
「彼らが工事を決定するわけではありません。我々が具体的な計画と見積もりを提示し、彼らがそれを選択するのです」と、クシュティナ・オレクシー副館長は説明する。
こうした協議は、主にクラコフのドイツ総領事を通じて行われた。
1994年11月に締結された協定に基づき、ドイツ連邦政府は1000万マルクの拠出を約束した。
また、ニーダーザクセン州の主導により、他の州政府もこの動きに呼応し、同額の資金を共同で拠出することになった。彼らはすでに「中央サウナ」の修復工事に着手している。
さらに、ドイツ北部放送(Norddeutscher Rundfunk)は「忘却に抗う」テレソン(募金番組)を開催し、一般市民から200万マルクを集めた。
他国はローダー財団を通じて寄付を行った。
ギリシャは50万ドルを拠出し、オランダ、ベルギーもこれに続いた。また、要請を受けていなかったスペイン、日本、イギリスも支援を申し出た。
1994年10月、エドゥアール・バラデュール首相は、フランスが1000万フランを拠出すると決定した。
オーストリアは未だ回答を寄せていない。
記憶の保存か、風化か?
これまでにない規模の資金――その半分以上がドイツからの拠出――がアウシュヴィッツの保存に充てられることになった。
しかし、突如として資金の問題が最優先事項ではなくなった。
共産主義の支配下で長らく凍結されていたこの呪われた遺構について自由に議論できるようになったことで、予想もしなかった多くの提案が持ち上がったのである。それらは互いに矛盾し、すでに進行中の計画すら見直しを迫られる事態となった。
困惑した国際委員会と博物館は、1993年8月、歴史家、宗教者、哲学者、技術者を招き、「アウシュヴィッツの未来――遺構を保存すべきか?」というシンポジウムを開催した。
しかし、議論はかえって混迷を深めた。
「最も驚くべきだったのは、元囚人、学者、宗教者といった同じ立場の人々が、全く正反対の意見を表明したことです」と、ステファン・ヴィルカノヴィッツは述懐する。
オックスフォード大学のヘブライ学教授ジョナサン・ウェバーは、参加前に知人の英国人ラビに意見を求めたところ、「こんな呪われた場所は放置すればよい」と言われたという。
マサチューセッツ大学の歴史学者ジェームズ・ヤングは、「遺構の一部を保存し、他は自然に朽ちるままにすれば、かつてここに何があったのか、そしてどれほどの時間が経過したのかを同時に理解できる」と提案した。
エッセン文化科学研究所の美術史教授デトレフ・ホフマンは、まったく異なる立場をとった。「通常、時間の経過は傷を癒やすものです。しかし、アウシュヴィッツではそれは許されません。ナチスの犯罪は唯一無二のものだからです。遺構は保存すべきであり、ドイツはその費用を負担する責任があります。」
具体的な保存策としては、遺構の劣化を防ぐため、火葬場の廃墟をプレキシガラス製の温室で覆う案が出た。
さらに踏み込んだ意見として、「再建」すべきだという主張もあった。
例えば、現在修復中の「中央サウナ」――到着後すぐにガス室へ送られなかった囚人が剃髪・消毒・入浴・入れ墨を施された施設――を追悼施設とし、館内で犠牲者の名前を朗読し続けるという提案がある。
また、ここに囚人たちから奪われた私物を展示する案と、逆に完全に空のまま残すべきだという意見が対立した。
ある者は、1944年5月~6月にハンガリー系ユダヤ人の大量虐殺が行われた際、焼却炉が不足し、遺体が焼却された「遺体焼却用の穴」を掘り返し、その中にガラス張りの通路を設け、積もった灰の層を見せるべきだと提案した。
ブルックリンのユダヤ学教授ヤッファ・エリアクは、当時の貨車をビルケナウの線路上に配置すべきだと主張した。
また、セルジュ・クラーズフェルトは、1944年5月までビルケナウ外にあった「旧到着プラットフォーム」を象徴的に再現しつつ、収容所内の施設は時間の経過とともに風化させるべきだと述べた。
ジャン=クロード・プレサックは、火葬場IIIを完全に復元することを提案した。「現在の廃墟では、大量殺戮機構の具体的かつ合理的な構造を来訪者に示すことができないからです。」
セルジュ・クラーズフェルトは、この再建自体には反対しないが、収容所外で行うべきだと考えている。
一方、テオ・クラインは再建自体を否定する。「それはユダヤの伝統に反します。死者の記憶は、生者のためにこそあるのです。」
ロンドンのヴィーナー・ライブラリー(ホロコースト研究機関)所長デイヴィッド・セザリーニは、多くの参加者が感じた困惑を次のように表現した。
「歴史改竄の新たな批判を招くリスクは取れません。しかし、時間の経過による遺構の消滅を許すこともできません。アウシュヴィッツ=ビルケナウの未来については、広範な国際的議論が必要です。我々は皆、この場所に対する責任を負っているのです。」
特に一つの疑問が増大し、執着するほどになっている。それは、被害者の髪の毛をどうすべきかという問題である。
収容所解放時、ソ連軍はドイツの毛織工場へ送られる前の7トンの髪の毛を発見した。そして、それらはその後姿を消した。
収容所創設時、ポーランド人はキーツの毛織工場でアウシュヴィッツ由来の2.5トンの髪の毛を発見し、その大部分を巨大なショーケースの背後に積み上げ、博物館に展示した。これは野蛮の証拠としての意味合いがあった。
しかし、近年になり、いくつかの声がこの「冒涜」を非難するために上がった。以前は、このような異議を唱える者は誰もいなかった。その主張は直ちに真剣に受け止められた。毎年50万人の来訪者に対してこれらの髪の毛を展示し続けるべきか、保存はするが展示は中止すべきか、あるいは埋葬すべきか。以来、この議論は激しさを増している。
「これらの髪の毛は誰のものなのか?」と、ヴワディスワフ・バルトシェフスキは問いかける。明らかに、それらはポーランド国家の所有物ではない。
ジョナサン・ウェバーは、「それらは死者の遺留品の一部であり、埋葬されるべきだ」と述べる。
テオ・クラインは意見が分かれる。「私は恐怖の博物館が好ましいとは思わない。しかし、何が起こったのかを理解するために、こうした展示が必要な人もいるかもしれない。私は、象徴的な意味合いを込めてこれらの髪の毛の一部は保存し、残りは現地で、見世物にならない儀式を通じて埋葬すべきだと思う。」
今日、これらの髪の毛はアウシュヴィッツに付き纏っている。
「海外展示のために物品を貸し出す際、いつも少量の髪の毛が含まれていた。しかし今はそうではない」とテレサ・スヴィエボツカは明言する。
そしてヴィトルト・スメレクは、もはやそれらに手を触れることをためらっている。「保存のために、髪の毛は定期的に化学処理され、蛾に対抗する薬剤が施され、埃を払い、洗浄され、大きな袋に封入されていた。しかし、この処理は髪の毛を保護する一方で傷め、灰色がかり、もろくなってしまった。今、我々は今後どうすべきかが決定されるまで、すべての処理を中止している。」
また、もう一つの難題がある。共産主義体制下で管理されていた際に生み出された改ざん品をどう扱うかである。1950年代と1960年代に、消失または用途が変更された複数の建物が大きな誤りを伴って再建され、本物であるかのように提示された。あまりにも「新しすぎる」ものは一般公開が中止され、さらには、本来はシラミ駆除用であったガス室が、時として殺人用ガス室として展示される場合もあった。
これらの誤りは、否定論者に大いに利用され、彼らの虚構の大部分を生み出すこととなった。
アウシュヴィッツIの唯一の火葬炉であるクレマトリウム1の例は象徴的である。
その死体安置所に最初のガス室が設置された。これは1942年初頭に短期間機能した。ガス室による隔離がキャンプの活動に支障をきたすため、長期間は使用されなかった。
したがって、1942年4月末に、これらの致死的なガス処刑をビルケナウへ移すことが決定された。そこでは、主にユダヤ人の犠牲者に対して、産業的規模で実施された。
翻訳者註:エリック・コナンのこの主張の論拠は不明です。1942年4月末に処刑用ガス室をビルケナウに移す決定など、何の論拠も確認できません。こうした、「(収容所の活動に支障があるなどの理由で)アウシュビッツ主収容所の処刑用ガス室をビルケナウに移す」という説は時折見かけるのですが、ルドルフ・ヘスの自伝を読めば明らかなように、最初からユダヤ人絶滅は基本的にはビルケナウのブンカーで行うことが提案・決定されていたようであり、主収容所の火葬場1をユダヤ人絶滅の主たる場所にする考えはなかったと思えます(但し、複数人の証言を読むと、アウシュヴィッツ主収容所の火葬場1で「全く」ユダヤ人絶滅をしなかったわけではないようです)。問題は火葬場1の火葬処理能力にあったと考えられ、これが時間がかかることから、最初はユダヤ人の遺体を火葬する考えはなかった、とヘスは自伝で語っています。
その後、クレマトリウムIは防空壕に改造され、手術室が設置された。
1948年、博物館の設立に際し、クレマトリウムIは元の状態とされる形で再構築された。
すべてが誤っている。ガス室の寸法、扉の位置、ツィクロンB投入口の開口部、数名の生存者の記憶をもとに再建された炉、煙突の高さに至るまで。
1970年代末、ロベール・フォーリソンはこれらの誤りを巧みに利用した。当時、博物館の責任者たちはそれを認めることに消極的であった。最近、あるアメリカの否定論者がガス室(依然として本物として紹介されている)でビデオを撮影し、訪問者に「暴露」と称して呼びかける場面が映し出されている。
ジャン=クロード・プレサックは、このガス室の歴史と戦中・戦後の改変を正確に明らかにした最初の人物の一人であり、彼は1942年当時の状態に復元することを提案している。その根拠として、彼がソ連の公文書館で発見したドイツの設計図を挙げている。一方、テオ・クラインのように、現状のまま残しつつも、訪問者に誤りを説明すべきだと考える者もいる。「歴史はあるがままのものだ。それが単純でない場合でも、装飾を重ねるのではなく、そのまま語るべきである」と彼は述べている。
クリスティーナ・オレクシーは、SSの旧病院を使用する彼女の事務所の窓から直接クレマトリウムIを見渡せる立場にあるが、決断を避けている。「現状のままにしておき、訪問者には何も説明しない。あまりに複雑すぎる。後で考えよう」と言う。
翻訳者註:修正主義者のフォーリソンはこの記事のこのオレクシーの発言部分とその前の記述部分を悪用しました。
1995年1月、フランスの歴史家エリック・コナン(Henry Roussoとの共著『Vichy, un passé qui ne passe pas』(パリ、ガリマール社、2001年[1994年、1996年];英語版『Vichy: an ever-present past』、ハノーバー、ニューハンプシャー、ロンドン、University Press of New England、1998年)の共著者)は、私が1970年代後半に、何百万人もの観光客が訪れたアウシュヴィッツのガス室が完全に偽物であると証明したことは結局正しかったと書いた。
そんなこと書いてないことは記事全体をちゃんと読めば明らかだと思います。エリック・コナンははっきり以下のように書いています。
「その死体安置所に最初のガス室が設置された。これは1942年初頭に短期間機能した。ガス室による隔離がキャンプの活動に支障をきたすため、長期間は使用されなかった。」「1948年、博物館の設立に際し、クレマトリウムIは元の状態とされる形で再構築された。」
フォーリソンのいう意味で「偽物である」とはコナンは書いていません。フォーリソンの文章の以下にある続きを読めばわかるように、フォーリソンは悪質にも「[…]」つまり日本では「中略」とする表示で、上に私が「」で引用した部分を全てトリミングしています。フォーリソンの悪質な、酷い歪曲と明らかに意図的な省略が際立っていると言えるでしょう。
冒頭で示した私のブログ記事にある通り、火葬場1は戦時中に防空壕に改修されており、それをポーランド当局は戦後にガス室があった当時のように再現工事を行ったが、杜撰な再現工事であり色々と間違っていた――そのことを「全てが誤っている」とエリック・コナンは表現したにすぎません。ところがフォーリソンは、あたかも火葬場1(及びガス室)を戦後に「捏造した」かのように言っているのです。
エリック・コナンは、フランスの主要週刊誌で次のように述べている。「その中にあるものはすべて偽物だ[…]。1970年代後半、ロベール・フォリソンは、[アウシュヴィッツ]博物館当局がこれらの改ざんを認めることを拒んだため、これらの偽造を巧みに利用した」。コナンはさらに次のように続けた。「[一部の人々]、例えばテオ・クライン(フランスユダヤ人団体代表評議会(CRIF)の元会長)は、現在の状態のままにしておくことを好みつつ、その誤った表示を公衆に説明することを選んだ。『歴史は歴史のままである。単純でない場合でも、それを語るだけで十分であり、虚偽に虚偽を重ねる必要はない』」。コナンはその後、アウシュヴィッツ国立博物館の副館長であるクリスティナ・オレクシーの驚くべき発言を紹介した。彼女は、その誤った表示を公衆に説明する決断ができなかった。コナンは次のように書いている。「クリスティナ・オレクシー[…]はそれを行うことができない。『現時点では、[ガス室として指定された部屋]は“そのまま”にされ、訪問者に何も説明されない。それはあまりにも複雑だ。後で対応するだろう』」(「アウシュヴィッツ:悪の記憶」、『レクスプレス』、1995年1月19-25日、p. 68)。
注記: このポーランド当局者の発言は、平たく言えば次のことを意味する。私たちは嘘をついてきた、今も嘘をついている、そして今後の通知があるまで嘘をつき続ける。2005年、私はエリック・コナンに、アウシュヴィッツ博物館当局が1995年に彼がクリスティナ・オレクシーに帰した発言に対して否定や抗議を行ったかどうかを尋ねた。彼の答えは、否定も抗議もなかったというものだった。1996年、この詐欺行為やアウシュヴィッツ第一収容所に関する他の問題は、二人のユダヤ人著者、ロバート・ヤン・ヴァン・ペルトとデボラ・ドワークによって共著『Auschwitz, 1270 to the Present』(イェール大学出版、443ページ)で告発された。<以降は省略。何故なら、その著書を確認していないからです。Web archive図書館にはあるにはあるのですが、全ページは読めないようになっているので…しかし、またしてもフォーリソンが悪質な歪曲やトリミングなどを行っていることは容易に推測できる話だと思います>
オレクシーの発言はその後、例えば以下のようなわかりやすいアウシュビッツの火葬場にある看板表示(や、おそらくは案内係の人たちによる説明)で実現しているのだと思われます。

この看板では、現在の状態(右)と、当時の実際の状態(左)が色々と異なっていることが簡単にわかるようになっています。この看板一つで「嘘をつき続ける」とは言っていないことがわかるはずです。確かに1990年頃、アウシュビッツの火葬場1が、当時のままでなかったという事実は、アウシュヴィッツ博物館はきちんと説明してこなかった(後述)のです。実はフォーリソンは、とっくの昔に、フォーリソンを案内した案内係から、この火葬場が戦後の再現工事を受けたものであることを聞いているのです。
「私はアウシュヴィッツ博物館の職員の一人、ヤン・マッケル氏を[クレマトリウムⅠの]その場所に連れて行った。私は彼に炉を示し、『これらは本物ですか?』と尋ねた。彼は『もちろんです!』と答えた。それから、私は指を炉の口に通してみせた。そこに煤(すす)が全くないことを彼に見せた。彼は困惑した様子で、これらの炉は『再現されたもの』だと語った」
この話がいつのものかは書いていないのですが、プレサックの前後の記述から、1979年頃のことと推測されます。あと、今回は動画を見つけられなかったのですが(確かニコニコにあった筈なのですが)、フォーリソンがアウシュヴィッツのことを語っている動画で、彼自身が第一火葬場が戦時中に防空壕に改修されていたことを示す図面やそれ以前の図面も持って喋っていた映像があります。フォーリソンはそれを知っていて、上のようなことを言っているのです。図面を持っているのですから、戦後の復元後の状態が、防空壕の前の状態と比べて色々間違っていることはすぐわかった筈なのです。要するに、フォーリソンは現在の状態が戦後に復元工事を受けたもので再現状態が間違っていることを十分知っていて、上のようなことを言っているに違いありません。これは私が勝手に言っていることではなく、以前に翻訳したPHDNの記事の著者も同じことを言っています。
フォーリソンが「ガラス戸」の問題を持ち出したのは、最大限の悪意がある。彼は嘘をついており、自分が嘘をついていることを知っている。フォーリソンの悪意は、アウシュヴィッツ第一収容所でのガス処刑を皮肉るために、この「議論」を長年にわたって繰り返し使っていることからも確認できる。
フォーリソンはここからもわかるように、本当に悪質なペテン師なのです。
ついでに、では何故「確かに1990年頃、アウシュビッツの火葬場1が、当時のままでなかったという事実は、アウシュヴィッツ博物館はきちんと説明してこなかった」のでしょうか? 隠していたわけではなかったことは、冒頭に示したブログ記事の中にある、昔のヤン・ゼーンの著書に防空壕だったことが記載されていたことなどから朧げにわかります。フォーリソンにもその場で案内係が説明していますし、デヴィッド・コールのビデオ撮影時にも、案内係が説明できなくて上司を呼んだ時に、上司がすぐに戦後の復元であることを説明しています。隠す気だったらそんなすぐにその場で説明するわけがありません。
どこにも書かれていない話なので、推測する以外にありませんが、これはかつてポーランドは民主化される以前は、共産圏国家だったことが大きいのではないかと考えられます。共産圏国家とは、基本的には共産党政権の国家であり、党の指導のもとにあらゆることが決定されます。また、党の指示や命令に逆らうことは基本的にはできません。何をするにも党の指示を仰がねばならない側面が強いのです。現在の中国を見ていればわかる話だと思います。一時が万事、何でも上の指示を仰がなければならず、勝手に現場で自由に振る舞うことは難しい国だったのです。ですから、アウシュヴィッツの火葬場が戦後に復元工事を行ったものであることを説明しろとは指示されていないので、したくてもできなかったと考えられます。そこにややこしい修正主義者であるフォーリソンがやってきた――それで、その時の案内係は、戦後の復元であることを知っていたのでその場で「実は…」とこそっと教えた。それだけの話なのです。
だから、アウシュヴィッツ博物館のフランチシェク・ピーパー博士の犠牲者数110万人説は、1980年代半ばにはすでに結論が出ていたにもかかわらず、アウシュヴィッツ博物館の記念石碑に書かれた400万人をなかなか変更できなかったのです。当時の館長であるカジミエシュ・スモレンもなかなかOKを出せなかったと聞きます。しかし、ポーランドが民主化され、東西冷戦が崩壊し、やっと150万人の石碑が設置されるに至ったのです。
[なお、否定派からは「それならデヴィッド・コールは冷戦崩壊後にアウシュヴィッツでビデオ撮影しているじゃないか!なぜその時の案内係は「当時のまま」だと説明しているんだ?話がおかしいじゃないか」と反論したくなるかもしれません。しかしそれは、このエリック・コナンの記事、いやここで問題にしたオレクシーがすでに言ってます。単純に、その当時には「戦後に復元されたものだ」ということをどう案内するかはまだ何も決まってなかったからです。]
しかし、それでは否定派はガス室捏造ストーリーを維持できなくなるので、そんなことは絶対に言わないのです。ガス室を捏造したのはポーランド人であり、捏造がバレると困るから、言わなかった。そして、修正主義者の追求に負けて、「ついに偽物だと認めた!」というストーリにしておきたいのです。ホロコースト否定派って、何と卑しい連中だと思いませんか?
「提案が極端に対立し、どれも誠実かつ正当な場合、どのように決定すべきか?こうした問題では、準コンセンサスが必要であり、それが得られない限り、決定を下すべきではない。議論を続けるべきだ」と、長年の反体制活動を通じて忍耐を学んだステファン・ヴィルカノヴィッチは考えている。
そのため、具体的な方針決定はほとんどない。ビルケナウの記念碑の銘板の変更と、修復作業における厳格な姿勢を除けば、唯一明確な方向性は、ビルケナウに重点を置くことであり、そこは次第に聖なる墓地としての地位を確立しつつある。
数週間前から、重要な場所には当時の写真が掲示され、訪問者がそこで何が起こったのかを理解できるようになった。この取り組みはドイツ政府が40万マルクを拠出している。唯一の現存する写真がSSによって撮影されたものであるという道徳的な問題を克服した後、それぞれの写真を黒い花崗岩のブロックに取り付けることが決定された。
これらの石碑が地面に次々と設置されることで、ビルケナウは墓地のような趣を強めている。この印象は、かつての焼却用の穴の跡を示す花崗岩のブロックや、さらに第三区域――「メキシコ」と呼ばれた場所――に立てられた別の石碑によっても補強されている。「メキシコ」には今では何も残っていないが、そこでは多くのハンガリー系ユダヤ人女性が放置され、野外で命を落とした。
デトレフ・ホフマンは「ビルケナウが墓地としての権利を持ち、沈黙と祈りの場となることこそが優先されるべきだ」と述べる。テレサ・シュビボツカもこの方針を支持し、「我々は今やこの場所の性質に従って行動している。ビルケナウは世界最大の墓地である。何十ヘクタールにもわたる土地が、何十万人もの人々の遺灰と不可分に結びついている」と語る。
博物館はこの広大な墓所をより適切に保護するための措置を講じている。特別警備班が設置され、監視体制が強化されたほか、ビルケナウの端、中央サウナの近くの白樺林や旧焼却用の穴のそばに警備所が設置された。これは、時折出没する金塊目当ての者たちを防ぐためである。彼らの中には金属探知機を持ち込む者までおり、1994年には実際にそうした事件が発生した。こうした者たちは、戦後に惨劇の跡を掘り返して金品を探したポーランド人たちの恥ずべき後継者である。また、この警備強化により、最近まで散見されたキノコ採取者の姿も見られなくなるだろう。
しかし、この聖なる沈黙への移行は、新たな問題を引き起こしている。博物館の管理部門には、かつてなかったような要望が寄せられるようになった。ユダヤ人たちがビルケナウに埋葬されることを求めているのだ。彼らは、ここが自分の家族の墓所であると主張する。
新たな問題には、新たな意見の対立が伴う。テレサ・シュビボツカは「我々は『それは不可能だ』と答えているが、アウシュヴィッツの町にはユダヤ人墓地がある」と述べる。しかし彼女は、国際委員会の合意が得られれば、かつて解放時に発見された数百体の遺体が埋葬された共同墓地の近くに、小規模な墓地を設けることも可能かもしれないと考えている。
個人的に、ステファン・ヴィルカノヴィッチはこの案に賛成している。ただし、それは元収容者に限るべきだと主張する。「収容所の境界付近の土地を購入し、この問題について議論を進めるべきだ」と述べる。
しかし、テオ・クラインはこれに反対する。「それでは際限がなくなる。子や孫たちもまた、ここに埋葬されることを望むようになるだろう。歴史は終わった。この場所の存在をこのような形で延ばすべきではない。ここは完結した場所なのだ」と語る。
エリック・コナン
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