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イェーガー報告書の件(1):イェーガー報告書とは?

アインザッツグルッペンのことを少し知った当時、イェーガー報告書というものがあると耳にしていたのですが、Google検索すると、以下のようなページが日本では現在でもその当時と変わらずトップに表示されるようです。noteではリンクをそのまま貼り付けても名称未設定サムネになるだけなので、一部スクショします。

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横浜市立大学商学部の、ながみねweb研究室というタイトルがついているようですが、この結構古いいわゆる「ホームページ」形式のWebページがヒットする程度で、後はホロコーストエンサイクロペディアのアインザッツグルッペンのページでほんのわずかに触れられている程度、他にはおそらく何かの書物で紹介されていた(多分、陰謀論的なことを紹介した本だと思う)と思われるのですが、「ホロコーストの証拠にはイェーガー報告というのがあるぞ」的紹介をAmazonのレビューで示している人がいるくらいです。

ちなみに、このAmazonのレビューとは、ティル・バスティアンの『アウシュヴィッツと<アウシュヴィッツの嘘>』です。数名ですけど、わかりやすいリビジョニストシンパな方がレビューしておられますが、多分「アウシュヴィッツの嘘」という言葉が本のタイトルにあるので、それに吸い寄せられたのでしょう。この本はマルコポーロ事件のあった年に出版されており、どうも、手っ取り早くこの事件への反論の意味で翻訳出版された気配が濃厚です。四人も後書きされており、しかも日本のドイツ史・ナチス関係・ホロコースト関係では著名な方々です。ともかく、このレビュー欄一つとっても日本にはいかに潜在的なホロコースト否認に同調的な人が多いかを示しています。

おそらくですけど、私の知る限り、アインザッツグルッペンの虐殺記録文書としてはイェーガー報告書は最も有名なものの筈で、日本語で検索してもこれだけしかないというのは意外です。日本ではホロコーストはほとんど話題にならないことをよく示している例だという気もします。

そこで! Google検索でながみねweb研究室を検索ランクで抜いてしまおうと、ディーゼルエンジン問題特集に続き(あれはまだ終わってないんだが)、イェーガー報告シリーズです(「アインザッツグルッペン」でまとめるかもしれませんが)。

このイェーガー報告書、よく見るとかなり異様です。もっとも異様なのは、殺されている約99%くらいまではユダヤ人のようだということです。ディーゼル問題で取り上げたアインザッツグルッペンBの記録の例だと88%でした。ユダヤ人処理はアインザッツグルッペンにとって当然でしたしその大半がユダヤ人であってもおかしいとは思いませんが、しかし99%程度までユダヤ人というのは一体どういうことなのでしょう? その理由がわかるのかそれとも不明なままになるのかはわかりませんが、ともかく、イェーガー報告書の内容を詳しく見ていきたいと思います。ていうかそれが書いてある記事の翻訳をしていきます。今回はイェーガー報告それ自体を紹介します。この記事の翻訳は、イェーガー報告にある集計表の入力をこっちでしないといけないのかなと思って、最初は躊躇ったのですが、意外な方法があり、めっちゃ楽でした(笑)

追記:以下翻訳は、2025年7月に全面的に新たに作成し直しました。翻訳は生成AI+手修正にて行っています。

▼翻訳開始▼

イェーガー報告書:ナチスの大量虐殺の記録:
1つの部隊、1つの地域、5か月間、そして13万7000人の犠牲者

作成:ダニエル・ケレン
序文エール・エデイケン
文字起こし:アルブレヒト・コルトホフ
翻訳:ゴード・マクフィー

THHP(The Holocaust History Project)は、イェーガー報告書のスキャン画像とドイツ語の転写、そして英語訳を提供している。

PHDN注:2018年現在、私たちはモスクワのロシア国立軍事公文書館に保管されているオリジナル文書から、イェーガー報告書のオリジナルページの高解像度カラースキャン画像をPHDNウェブサイトに公開しました。これは1963年にソ連がドイツに提供した白黒コピーのスキャンよりもはるかに高品質です。こちらからご覧いただけます。)

報告書そのものは、以下のページで閲覧できる。まず、その背景と歴史的導入について説明する。

ドイツ警察に逮捕された後、元SS連隊指導者カール・イェーガーは、次のように述べて自己を弁護した。

「私は常に義務感が人一倍強い人間であった」

(『古き良き時代』、E. クレー、W. ドレッセン、V. リース、The Free Press、NY、1988年、57頁。完全な英語版報告書は46-58頁を参照のこと。)

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ナチスの残虐な大量殺戮やその他の残虐行為を詳述するあらゆる文書の中でも、「イェーガー報告書」は最も恐ろしいものの一つだ。

親衛隊大佐カール・イェーガー(「アインザッツコマンド」EK3の指揮官)によって書かれたこの報告書は、ナチス占領下のソ連におけるこの「特別部隊」の殺人的な暴走について、非常に詳細な記述を提供している。通常、EK3によって殺害されたユダヤ人の数は、「ユダヤ人男性」、「ユダヤ人女性」、「ユダヤ人の子供」に分類されている。

報告書は以下で始まる。

「国家機密!5部
1941年12月1日までにEK3地域で実行された処刑の全リスト。」

そして犠牲者の日ごとの数を列挙している。いくつかの典型的な記述は以下の通りだ(6ページ目を参照)。

1941年9月20日 ネメンチン
ユダヤ人男性128人、ユダヤ人女性176人、ユダヤ人の子供99人

1941年9月22日 ノヴォ・ヴィレイカ
ユダヤ人男性468人、ユダヤ人女性495人、ユダヤ人の子供196人

1941年9月24日 リース
ユダヤ人男性512人、ユダヤ人女性744人、ユダヤ人の子供511人

1941年9月25日 ヤヒウナイ
ユダヤ人男性215人、ユダヤ人女性229人、ユダヤ人の子供131人

1941年9月27日 エイシシュキー
ユダヤ人男性989人、ユダヤ人女性1,636人、ユダヤ人の子供821人

報告書が網羅する5ヶ月間で、EK3は13万人以上の人々を殺害した(6ページ目の合計を参照)。その約3分の1は、イェーガーによって「ユダヤ人の子供」として記載されている。ナチスが「生きるに値しない」と見なした他のカテゴリーの人々も記載されている。例えば、9月1日、マリヤンポレでは、イェーガーの部隊は、ユダヤ人男性1,763人、ユダヤ人女性1,812人、ユダヤ人の子供1,404人、ユダヤ人と結婚したドイツ人女性1人、ロシア人女性1人に加えて、精神病患者109人を殺害している(3ページ目の下部を参照)。

この報告書は、ナチスが「パルチザンと戦っていた」という様々なナチス擁護派の主張が誤りであることを明確に示している。イェーガーは、犠牲者たちがどのように集められ、隔離された場所に連行され、男性、女性、子供たちが射殺されたかを淡々と記述している。

「ユダヤ人の数に応じて、墓地を探し、その後墓穴を掘らねばならなかった。集合場所から墓地までの距離は平均4~5キロであった。ユダヤ人は500人ずつの分遣隊で処刑場まで運ばれ、各分遣隊の間には少なくとも2キロの距離が保たれた。」(7ページ、下から2段落目参照)

奴隷労働のために生かされた者たちも、結局は生き残ることは許されなかった。イェーガーは次のように記している(8ページ、下から2段落目、「liquidieren」で終わる部分を参照)。

「現在利用可能なこれらの労働ユダヤ人およびユダヤ人女性は緊急に必要とされており、冬の後にはこの労働力がさらに緊急に必要となるだろうと私は考えている。男性労働ユダヤ人の断種プログラムを直ちに開始し、生殖を防止すべきであると私は考えている。もし断種にもかかわらずユダヤ人女性が妊娠した場合は、彼女は清算されるだろう。」

全文の英語訳については、素晴らしい書籍『The Good Old Days』、E. クレー、W. ドレッセン、V. リース、The Free Press、NY、1988年、46-58頁を参照されたい。


イェーガー報告書に関する歴史的注記

執筆者:エール・F・エデイケン
An Introduction to the Einsatzgruppenアインザッツグルッペン 入門)』著者

ロナルド・ヘッドランドは、アインザッツグルッペン(特別行動部隊)の報告書を研究した『殺戮のメッセージ』の中で、次のように記している。「イェーガーの報告書はわずか数ページだが、その冷酷な恐怖、そしてそのような残虐行為が淡々と記録されていることに、人は呆然とし、信じがたいほどの堕落を感じる。この報告書は、アインザッツグルッペン全ての報告書の中で類を見ない」[1]。この報告書は、アインザッツグルッペAの指揮官ヴァルター・シュターレッカーの依頼により、アインザッツグルッペAの下部組織の一つであるアインザッツコマンド3の指揮官、カール・イェーガーによって作成されたものだ。

国防軍のソ連侵攻に際し、戦線の後方で活動した4つのアインザッツグルッペンの中で、アインザッツグルッペAの構成については最もよく知られている。ソ連侵攻当時、アインザッツグルッペAは990人の兵員で構成されており、本部隊と4つの分隊(ゾンダーコマンド1Aと1B、アインザッツコマンド2と3)に組織されていた。イェーガーが指揮したアインザッツコマンド3は、ドイツ陸軍やナチス組織のいくつかの部隊から141人の兵員を補充していた。その名簿には以下が含まれている[2]。

武装親衛隊:32名
運転手:34名
行政:1名
SD(親衛隊情報部):10名
刑事警察:10名
国家警察:29名
補助警察:15名
女性補助員:1名
翻訳者:8名
無線通信士:1名

1941年7月、アインザッツコマンド3は、リトアニアのヴィルナ=カウナス地域における殺害作戦を、アインザッツコマンド2(アインザッツグルッペA)とアインザッツコマンド9(アインザッツグルッペB)から引き継ぐよう命じられた。この地域にはバルト海地域で最大かつ最も影響力のあるユダヤ人共同体が存在した。その共同体は学問と学識で有名で、19世紀の最も影響力のあるユダヤ思想家の一人である「ヴィルナのガオン」を輩出していた。占領者との協調を常に模索していたヴィルナのユダヤ人ゲットーの指導者ヤコブ・ゲンスの尽力により、この地域ではユダヤ人パルチザンの活動はなかった[3]。アインザッツコマンド3の任務は、この共同体を破壊することであった。イェーガー報告書が詳述するように、彼らは報告書が対象とする5ヶ月間の作戦で13万5千人以上を殺害した。

アインザッツコマンドは単独で行動したわけではないことに留意すべきである。ゾンダーコマンド1B(アインザッツグルッペA)からの分遣隊もこの地域に配属されていた。さらに憂慮すべきはリトアニア人の反応である。イェーガー報告書が指摘するように、アインザッツコマンド3が作戦を開始する前から、殺害の一部はリトアニアの「民兵」や「パルチザン」によって行われていた。リトアニア軍は、イェーガー報告書が対象とする期間中もアインザッツコマンド3を支援し続けた。この協力は、ユダヤ人を集め、ゲットーを警備すること、そして実際の殺害への参加から成っていた。リトアニア人はカウナスで特に活発に活動し、この都市は殺害の多くが行われた一連の要塞に囲まれていた。これらの要塞には第三帝国軍に協力するリトアニア兵が配置され、兵士たちは作戦に積極的に参加した[4]。

司令官の要請に応じ、イェーガーは自身の部隊が犯した殺害を簡潔に詳述した報告書を作成した。この報告書はわずか5部しか作成されず、そのうち現存するのは第4部のみである。それはヴィリニュスのリトアニア中央公文書館で発見された[5]。国際軍事法廷(IMT)でのニュルンベルク裁判や、その後のアインザッツグルッペン司令官たちの裁判には間に合わなかったものの[6]、イェーガー報告書はドイツ、カナダ、米国を含むいくつかの国での複数の法的手続きで用いられてきた。イェーガー報告書が最も最近使用されたのは、「米国対ステルモカス事件」100 F.3rd 302 (第3巡回控訴裁; 1996年) であった。ペンシルベニア州東部地区連邦地方裁判所での審理中[7]、被告側の異議申し立てにもかかわらず、イェーガー報告書は真正かつ信頼できるものとして認められた。その影響は、この文書を審査した控訴裁判所の裁判官の一人の声明からも測り知れる。「イェーガー大佐は、何千ものユダヤ人および数百人もの他の人々の処刑を、まるで他人事のように、淡々と、そして誇らしげに報告しており、その記述は読む者を恐怖に駆られた衝撃状態に陥らせる」(100 F.3rd 302, 325)。この事件の裁判所が指摘したように、この報告書が真正かつ信頼できるものであることに疑いの余地はない。

イェーガーもシュターレッカーも、その罪で裁かれることはなかった。シュターレッカーは1942年3月にソ連パルチザンによって致命傷を負った。イェーガーは戦争を生き延び、報告書が発見されるまでドイツで暮らした。逮捕され、罪に問われたカール・イェーガーは、裁判を待つ間に刑務所で自殺した。

イェーガー報告書は真正であるだけでなく、ホロコーストに関する最も重要な文書の一つとして存在している。これは歴史家にとって、アインザッツグルッペンが実際に用いた手順と、彼らがいかに自分たちの仕事に誇りを持っていたかを間近で知る機会を提供する[8]。ホロコーストが進行するにつれて、犠牲者の数が着実に増加していく様子をこれほど詳細に記した既知の文書は他にない。一般の人々にとって、イェーガー報告書は、その正確で冷静な大量殺戮の記述によって、アインザッツグルッペンによる100万人以上の人間に対する冷血で計画的な殺害を、恐ろしい現実として認識させる助けとなる。

  1. ローランド・ヘッドランド著『殺戮のメッセージ』ファーレイ・ディキンソン大学出版局(1992年);155頁。

  2. フレンチ・L・マクリーン著『ザ・フィールド・メン』シファー軍事史出版(1999年);13頁。

  3. ユダヤ人による抵抗活動は、実際には1942年の大晦日にアバ・コヴナーによって発表された宣言から始まった。これはイェーガー報告書が対象とする期間の後である。ゲンスの占領に対する対応と、最終的にパルチザン運動を開始する決定に関する詳細な記述は、ラウル・ヒルバーグ著『加害者、犠牲者、傍観者』ハーパーコリンズ、ニューヨーク(1992年)に記載されている。

  4. リトアニア軍がユダヤ人住民の大量殺害をどのように支援したかに関する記述は、米国対ステルモカス事件 100 F.3rd 302 (第3巡回控訴裁; 1996年) に記載されている。ステルモカスはカウナスを囲む要塞の一つに配属されたリトアニア軍の将校であった。ステルモカスは戦後米国に移住し、米国市民として帰化した。この訴訟で米国は彼の市民権を剥奪することに成功した。この決定は、主にイェーガー報告書に記載されている情報に基づいている。その後、ステルモカスを裁判のためにリトアニアに強制送還する2度目の訴訟が提起された。米国は再び勝訴したが、控訴された。ヨナス・ステルモカスは1999年に控訴が決定される前に死亡した。

  5. ヘッドランド、155頁。

  6. 1946年の「米国対オットー・オーレンドルフ他事件」において、22人のアインザッツグルッペン将校がその罪で裁判にかけられた。全員が有罪となり、指導者たちは死刑を宣告された。ペンシルベニア州最高裁判所のマイケル・ムスマンノ判事が裁判を主宰した。彼の最終判決は、「ジ・アインザッツグルッペン・ページ」(http://www.pgonline.com/electriczen/)で閲覧できる。アドルフ・アイヒマンの裁判でアインザッツグルッペンに関する専門家証人として証言したムスマンノ判事は、この裁判に関する優れた記述も執筆している。『アイヒマン・コマンドー』(1962年)。

  7. 地方裁判所の決定は公表されていない。※2025年現在、当該裁判の判決文はネットで公開されているようです。例えば、https://www.casemine.com/judgement/us/5914bc99add7b0493479d69d
    など。

  8. ヘッドランド、187-190頁。


註:以下のイェーガー報告書の日本語訳された表の部分は、ChatGPTに報告書画像を元にして作成してもらいましたが、一応確認・修正はしてありますが、誤りのチェック漏れがあるかもしれませんのでご注意ください。また、表以外の部分も全て、英訳文ではなく画像の方から翻訳文を作成しています(英訳文も参考にはしています)。

(1ページ目)

画像3

** Einsatzkommando 3 **
機密文書(Geheime Reichssache!)

5部作成
4部配布済み

1941年12月1日までにEinsatzkommando 3の管轄区域で行われた処刑の概要報告

1941年7月2日より、Einsatzkommando 3は治安警察任務を引き継いだ。
(ヴィリニュス地域は1941年8月9日に、シャウレイ地域は10月2日にEK3が引き継いだ。ヴィリニュスはその日までEK9が、シャウレイはEK2が担当していた。)

私の命令と指示により国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP)の指導部が実行した処刑:

SS中尉ハーマン指揮の特別部隊と、8~10人の熟練兵士、さらにリトアニア人パルチザンの協力による以下の作戦が実行された:


(2ページ目)

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(3ページ目)


(4ページ目)

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(5ページ目)

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(6ページ目)

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(7ページ目)

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私は今日、リトアニアのユダヤ人問題を解決するという目標が、EK.3によって達成されたことを確認することができる。リトアニアには、労働ユダヤ人およびその家族を除いて、もはやユダヤ人はいない。

その人数は、

シャウレン:約4,500人
カウエン:約15,000人
ヴィルナ:約15,000人

である。

私はこれらの労働ユダヤ人とその家族も同様に殺害したいと考えていたが、そのために民政当局(国家委員会〔Reichskommissar〕)および国防軍から激しい抵抗を受け、次の禁止命令が出された。

「これらのユダヤ人とその家族を射殺してはならない!」

リトアニアをユダヤ人のいない状態にするという目標は、SS上級突撃隊指導者ハマンの指揮下に、選抜した隊員による**機動部隊(Rollkommando)**を編成することによってのみ達成することができた。ハマンは私の目標を全面的に自分のものとし、リトアニア人パルチザンおよび所管の民政機関との協力を確保することに成功した。

このような行動の実施は、第一に組織の問題である。各地区を組織的にユダヤ人のいない状態にするという決定には、一つ一つの行動についての綿密な準備と、当該地区の状況を調査することが必要であった。

ユダヤ人は一か所または複数の場所に集めなければならなかった。人数に基づいて、必要な穴〔埋葬用の穴〕を掘る場所を選定し、掘削しなければならなかった。集合場所から穴までの移動距離は平均4~5kmであった。

ユダヤ人は500人ずつの集団に分け、少なくとも2kmの間隔を置いて、処刑場所へ輸送した。そこでどれほどの困難と神経をすり減らす作業が必要であったかは、任意に取り上げた一例が示している。

ロキシュキスでは、3,208人を4.5km移送してから、彼らを殺害する必要があった。この作業を24時間以内に処理するためには、利用可能な80人のリトアニア人パルチザンのうち、60人以上を輸送、あるいは――


(8ページ目)

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――警戒線の設定に配置しなければならなかった。何度も交代させられた残りの者たちは、私の部下とともに作業を行った。

輸送用の自動車は、利用できることが非常に少なかった。

時折発生した逃亡の試みは、もっぱら私の部下が、自らの生命を危険にさらして阻止した。例えばマリアンポレでは、隊員3人が逃走した38人のユダヤ人および共産主義者の幹部を森の道で射殺し、誰一人逃げることはできなかった。

各行動への往復の移動距離は、通常160~200kmに達した。

時間を巧みに利用することによってのみ、一週間に最大5回の行動を実施しながら、それでもカウエンで発生する業務を処理し、勤務業務に停滞を生じさせないことができた。

カウエンそのものにおける行動は、そこには十分な数の、ある程度訓練されたパルチザンが利用できるため、国外で対処しなければならなかったしばしば途方もない困難と比較すれば、**模範的な射撃訓練(Paradeschiessen)**とみなすことができる。

カウエンにおける私の部隊のすべての指揮官および隊員は、カウエンでの大規模な行動に積極的に参加した。ただ一人、身分確認部門の職員だけが、病気のため参加を免除された。

私は、EK.3にとってのユダヤ人に対する行動は、大部分において完了したと考えている。

現在なお残っている労働ユダヤ人および女性の労働ユダヤ人は緊急に必要とされており、冬が過ぎた後もこれらの労働力がぜひとも必要とされるだろうと私は考えている。

私は、労働ユダヤ人の男性については、繁殖を防止するため、直ちに不妊化を開始すべきだと考えている。それでもユダヤ人女性が妊娠した場合には、殺害されるべきである。

EK.3は、ユダヤ人に対する行動のほかに、各地域および都市にある、たいていは過密状態の刑務所の調査を重要な任務の一つと考えていた。

平均すると、各郡庁所在地の刑務所には、リトアニア人である約600人が収監されていたが、実際には拘禁する理由が存在しない者もいた。彼らはパルチザンによって、単純な密告などを理由として逮捕されていた。その中では、多くの私怨も晴らされていた。誰も彼らのことを気にかけていなかった。

刑務所に入り、過密状態の独房にしばらくでも身を置いてみなければ――

(9ページ目)

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――衛生状態について、しばしば筆舌に尽くしがたい状態にある独房を理解することはできない。

ヨナヴァでは――これは多くの例の一つにすぎないが――長さ3m、幅3m、高さ1.65mの暗い地下室に、16人の男性が5週間にわたって収監されていた。彼ら全員については、何ら追及すべき事由がなかったため、釈放することができた。

13歳から16歳の少女たちも、仕事を得るために共産主義青年組織への加入を申し込んだという理由で、監禁されていた。

ここでは、断固とした措置によって、担当するリトアニアの各機関の頭の中に明確な方向性を叩き込まなければならなかった。

刑務所の収監者たちは刑務所の中庭に並べられ、名簿および資料に基づいて審査された。

軽微な犯罪を理由として、根拠なく投獄されていた者は、別の一群に分けられた。

その犯罪を理由として私たちが1か月、3か月、6か月の刑を言い渡した者も、別々に分けられた。

同様に、犯罪者、共産主義者の幹部、政治委員、その他のろくでもない者など、殺害されることになった者も別に分けられた。

さらに、言い渡された刑罰に加えて、犯罪の内容に応じ、一部の者、とりわけ共産主義者の幹部には、10回から40回の鞭打ちが科され、その都度直ちに実施された。

審査が終了すると、収監者たちは独房へ戻された。

釈放される者たちは一団となって市場へ連れて行かれ、そこで短い演説の後、多くの住民の面前で釈放された。

その演説は次のような内容であった(通訳によって一文ずつ、直ちにリトアニア語およびロシア語に翻訳された)。

「もし我々がボリシェヴィキだったなら、あなた方を射殺していただろう。しかし我々はドイツ人なので、あなた方に自由を与える。」

その後、政治活動を一切行わないこと、反政府的な動きについて知ったことはすべて直ちにドイツ側当局へ報告すること、そしてとりわけ農業において、再建のための労働に直ちに精力的に参加することを、厳しく戒めた。

再び何らかの犯罪を犯した者は、射殺されることになる、とされた。

そして彼らは釈放された。

この措置が、その都度、釈放された者たちや住民にどれほどの喜び、感謝、熱狂を引き起こしたかは、想像することもできない。

女性、子供、男性たちが涙を流しながら我々の手や足に口づけしようとした際には、その熱狂を退けるため、しばしば厳しい言葉を使わなければならなかった。

署名:イェーガー
SS連隊指導者

▲翻訳終了▲

以上がイェーガー報告書と呼ばれる文書の翻訳全文です。ホロコースト否認派以外の人で、この報告書に疑問を持つ人はいるのでしょうか? もちろん、重大な歴史文書であり、また翻訳の最初の方にあった裁判などの法的現場でも使われる文書なので、しっかりと精査されており、疑問の余地はないと考えるべきでしょう。イェーガー大佐率いるアインザッツコマンド3の部隊は、担当したリトアニアのユダヤ人及び少数の非ユダヤ人を1941年7月4日から1941年11月25日までの間に、137,346人殺し(ベラルーシの約3,000人含む)、「リトアニアでは、労働ユダヤ人以外のユダヤ人は、その家族を含めてもういない」状態にしたというわけです。145日間ですから、1日につき平均で約千人を殺害して回ったことになります。

ユダヤ人労働者を約3万5,000人残してはいますが、それにしてもカール・イェーガーの思想はきっちりユダヤ人の字義通りの「絶滅」に向いていて、男性の不妊治療まで求めており、妊娠したら殺すという考えまで持っていて、絶対にユダヤ人を残さないという決意です。私は個人的には、この13万人以上という数字ではなくって、このイェーガーが明確に示したユダヤ人絶滅の意思に驚きつつも、納得してしまう。これが冒頭で述べた、イェーガー報告書に記された虐殺の中身がユダヤ人ばかりの理由なのかもしれません。

ともかく、これでGoogle検索「イェーガー報告書」で一位になれるかな?💦 次回は……もう少し勉強的な方向に進むか、それともマットーニョ先生に登場いただくか悩み中です。以上。


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