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冥王星の日、普通ときらり

「水金地火木土天海冥」と唱えると、口の中に小さな太陽系が回り出す気がした。理科の暗記とは、宇宙をポケットにしまう術である。

今日、2月18日は「冥王星の日」だ。1930年のこの日、アメリカのローウェル天文台で若き天文学者クライド・トンボーが冥王星を発見した。太陽系の「九番目の惑星」として76年間親しまれてきたその星は、いま「惑星」ではなく「準惑星」という名札を付けている。

降格から20年――正確には今年2026年の8月24日、国際天文学連合(IAU)がチェコのプラハでその決議を採択した日からちょうど20年の節目を迎える。半年ほど先の記念日が、すでに胸の奥で予告編のように鳴っている。

定義が変わるのは冷たい。だが、冷たさには秩序の顔がある。IAUが2006年に定めた惑星の条件は三つ、太陽を周回すること、自己重力でほぼ球形になること、そして自らの軌道周辺の天体を支配していること。冥王星はそのうちの三つ目を満たせなかった。

国際社会においても、何を「普通」と呼ぶかはしばしば外側のルールが決める。合意に従い、責任を引き受け、共通の物差しで測られる。安全保障における「普通」とは、感情ではなく手続きによって成立する姿勢だ。(※)

冥王星が教えるのは、宇宙が変わったのではなく、辞書の見出しが更新されたという事実である。一方で、名札が替わっても星の輝きは減らない。

ホルストの組曲『惑星』に冥王星の楽章はない。1914年から1916年にかけて書かれたこの作品は、当然ながら発見前の冥王星を知らなかった。最初から欠番なのである。それでも聴き手は、最後の「海王星」が霧の中へと溶けていく余韻に、まだ続きがある気配を感じ取る。

生活の「きらり」とは、肩書より中身を見よという美徳だ。大きさや格付けでは測れない価値を、教育や環境や日々の手触りの中に探す。星の名前を覚えた子どもの頃の自分が、いまも胸の奥で小さく頷いている。

「普通」は世界と歩調を合わせよと言う。「きらり」は自分の尺度を手放すなと言う。冥王星は、その両方を遠い縁から静かに照らしている。九番目の惑星を失ったのではない。私たちは、定義と愛着のあいだにある細い軌道を、今日も慎重に回り続けているだけなのである。

(※)1990年代の国家論では、小沢一郎『日本改造計画』(1993)が掲げた「ふつうの国」論と、武村正義『小さくともキラリと光る国・日本』(1994)が説いた「小さくともキラリと光る国」論が対照的であり、いずれも「日本が国際社会でどう立つか」を論じながら、前者は国際秩序への適合と責任、後者は生活の質や独自性の磨き上げに重心を置いたとされる。

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