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ひむか神話街道 〜 総集編

「ひむか神話街道」は、宮崎県にある広域観光ルートです。

西臼杵郡高千穂町の天岩戸神社を起点に、宮崎県内各地をS字型に通過し、西諸県郡高原町の皇子原公園で終点となります。

「ひむか神話街道」のルートマップ
総延長は、およそ300km

神話街道とその周辺には、高千穂をはじめ、高原、日向、日南、鵜戸、都城、皇子原、美々津(御津)など、日本創世期の故事を想起させる地名が多く、それにまつわる伝承も数多く残されています。

これまでにも、いくつかのスポットをご紹介しましたが、

今回は総集編として、国造りから神武東征に至るストーリーの中で、関連する地物を紹介(注1) していきたいと思います。

(注1) 本編は、これまでの宮崎県を舞台にしたルポの集大成となります。一部、過去の記事を再利用していますが、予めご了承ください。

【参考】神々の系図
(Created by ISSA)

日本の始まり
昔々、空の上に高天原という神々が住む世界がありました。神々は下界に新しい国を造るため、伊邪那岐命伊邪那美命に国作りを命じました。
 
二神は天浮橋に立ち、天沼矛を海に下ろして海水を掻き回すと、先ず、於能凝呂島ができました。

そのあと、二神は於能凝呂島に降り立ち、目合ひによって他の島々を生み、それらは大八島と呼ばれました。

これが日本の国土の始まりです。

右:天瓊を以て滄海を探るの図《小林永濯》

天照大御神の生誕
こうして国生みを終えた二神は、今度はこの国に住む神生みに取りかかり、多くの神々を生みました。

最後に火の神を生んだとき、伊邪那美命は大火傷を負って亡くなってしまいます。

悲しんだ伊邪那岐命は、死者の国である黄泉国へ伊邪那美命を連れ戻しに行ったのですが、伊邪那美命は既に黄泉国の住人になったことを知り、逃げ帰ってしまいます。

そして黄泉国で被った穢れを祓うため禊ぎをしている時に、皇祖神である天照大御神が生まれたのです。

伊邪那岐命が禊を行ったみそぎ池
《宮崎県宮崎市阿波岐原町》
(Photo by ISSA)

天岩戸隠れ
その後、乱暴な弟・須佐之男命の素行に手を焼いた天照大御神は、天の岩戸という岩屋にお隠れになり、地上は暗闇に包まれてしまいました。

裏手から天岩戸を遥拝できる天岩戸神社
《宮崎県西臼杵郡高千穂町》
(Photo by ISSA)

食べ物が育たなくなったり、病気になったりと、色々と大変なことが起こり、困り果てた八百万の神々は、天安河原に集まって相談を交わされます。

八百万の神々が集まった天安河原
《宮崎県西臼杵郡高千穂町》
(Photo by ISSA)

そのとき、思兼神という賢い神様が一計を案じ、天鈿女命招霊の木の枝を手に舞われ、その周りで他の神々が騒ぎ立てます。

天照大御神は、外が賑やかなので、不思議に思われて天岩戸の扉を少し開けてみました。

そのとき、手力男命が岩の扉を開け放ち、天照大御神に天岩戸から出て頂くことが出来ました。

天鈿女命(左)と手力男命(右)
《宮崎県西臼杵郡高千穂町》
(Photo by ISSA)

そして、地上には再び明るく平和な時代に戻りました。

国譲り
一方、高天原を追放された須佐之男命は、出雲国で八俣の大蛇を退治し、尻尾から草薙剣(三種の神器のひとつ)を手に入れて、櫛名田比売と結ばれました。

そのあと、須佐之男命の六代目の子孫となる大国主命葦原中国(高天原と黄泉国の間にある地上界)の国造りを始めたのですが、

高天原の神々は、葦原中国を領(うしは)ける者は、須佐之男命の子孫ではなく、天照大御神の子孫であるべきだと考えていました。

天照大御神は、使いの建御雷神を通じて大国主命に「この国を譲って欲しい」と持ちかけたところ、

大国主命は、自分が移り住む宮殿(後の出雲大社)を造ることを条件に、国を譲ることを承諾したのでした。

天孫降臨
やがて、天照大御神から葦原中国を高天原のように素晴らしい国にするため、天降るように命じられた天孫(天照大御神の孫)・瓊瓊杵尊は、三種の神器と、

三種の神器
(Created by ISSA)

他の神々を伴って、天狗のように鼻が高くて奇怪な顔つきをした猿田彦神の道案内で「日向の高千穂のくじふる嶽」に降臨したのです。

「天孫降臨」狩野探道・作
《神宮徴古館》
降臨した神々が高天原を遥拝した
槵觸(くじふる)神社の遙拝所
《宮崎県西臼杵郡高千穂町》
(Photo by ISSA)

そして、葦原中国の平定に使った鉾が二度と使われることがないようにとの願いを込めて、瓊瓊杵尊がその鉾を高千穂峰に突き立てたとされています。

この鉾は、天の逆鉾 (注2) と呼ばれていますが、神々が於能凝呂島を作るときに使った天沼矛と同じものといわれています。

山頂に突き立てられた天の逆鉾
ここは、霧島東神社の飛地境内である
《高千穂峰山頂(標高1,574m)》
(Photo by ISSA)

(注2) 逆鉾は、過去の噴火で刃の部分が折れてしまい、折れた刃は、一時期、荒武神社に祀られていたものの、戦後の混乱で紛失している(つまり、地中に埋まっている柄の部分は原物だが、突き出た刃の部分は模造品だということ)。

天の逆鉾を御神体とする霧島東神社
《宮崎県西諸県郡高原町蒲牟田》
(Photo by ISSA)

なお、瓊瓊杵尊は降臨する際、葦原中国の人々の食物とするようにと、天照大御神から、高天原の稲穂 (注3) を授かっていました。

(注3) 「高千穂」という言葉は、「暗闇に包まれた大地に、高天原の籾を撒き明るく照らす」ことを意味する。

稲穂は、日本建国の原点である

後述しますが、稲穂は天皇の勢力拡大とともに日本中に広まり、やがて日本人の主食となっていったのです。

木花佐久夜毘売との出会い
地上界に降臨した天孫・瓊瓊杵尊は、笠沙御崎で美しい娘に会いました。

尊が「あなたは誰ですか?」と尋ねると、娘は「大山津見神の娘、木花佐久夜毘売です」と答えました。

出会いの聖地・愛宕山
《宮崎県延岡市》
(Photo by ISSA)

大山津見神は「天孫の命が石のごとく永遠で、木の花が咲き誇るように栄えて欲しい」との願いを込めて、磐長姫木花佐久夜姫の二人の娘を送り出していたのですが、

瓊瓊杵尊は、あまり美しくなかった姉の磐長姫 (注4) を親元に返してしまいました。

(注4) 長寿の象徴であった磐長姫を娶らなかったため、瓊瓊杵尊以降の神々や人々に「寿命」が与えられた

一方、木花佐久夜毘売はその名のとおり、「咲き誇る桜のように美しい姫君」だったのですが、優雅な名前とは裏腹に、その出産は壮絶なものでした。

姫君が御子らを出産したとされる木花神社
《宮崎県宮崎市熊野》
(Photo by ISSA)

瓊瓊杵尊は、一夜で身篭った姫君に「国津神 (注5) の子ではないのか」と疑いました。

姫君は、疑いを晴らすため「天津神 (注5) である瓊瓊杵尊の御子なら、何があっても無事に産めるはず」と言って、産屋に籠って火を放ち、その中で火照命(海幸彦)、火須勢理命、火遠理命(山幸彦)の三人の御子を産んだのでした。

(注5) 高天原にいる神々や高天原から天降った神々を天津神、葦原中国に現れた神々を国津神と呼ぶ

瓊瓊杵尊の家族団らん像
《宮崎県宮崎市青島》
(Photo by ISSA)
尊と姫君の陵墓参考地、男狭穂塚と女狭穂塚
《宮崎県西都市 西都原考古博物館》
(Photo by ISSA)

海幸山幸の神話
やがて、御子達も大きくなり、狩猟が得意な弟・山幸彦は、漁猟が得意な兄・海幸彦に、互いの道具を取り替えてみないかと持ち掛け、1日だけ道具を交換して貰えることになりました。

海幸山幸物語の舞台といわれる青島神社
《宮崎県宮崎市青島》
(Photo by ISSA)

釣り具を手に入れた山幸彦は、早速、海で釣り糸を垂らしてみますが、魚は釣れず、仕舞には釣り針を海の中に落としてしまいます。 

山幸彦は、海幸彦に釣り針を無くしたことを正直に打ち明けて何度も謝りましたが、海幸彦は自分の釣り針を返せの一点張りで、許して貰えませんでした。

途方に暮れた山幸彦が海辺にたたずんでいると、潮の神様である塩土老翁が現れました。

話を聞いた塩土老翁は「海の神・大綿津見神が力になってくれるだろう」と言って、山幸彦を大綿津見神の海中宮殿へと案内しました。

宮殿に着いた山幸彦は、そこで大綿津見神の娘である豊玉姫と恋に落ちて結婚します。

3年の月日が流れたある日、自分がこの宮殿に来た本当の理由を思い出しました(この話は、浦島太郎伝説の原型ともいわれている)。

浦島太郎をお祀りする野島神社
《宮崎県宮崎市内海》
(Photo by ISSA)

話を聞いた大綿津見神が、海の魚たちを呼び集めて聞いてみたところ、3年ほど前から赤い鯛が、何かが喉に刺さって物が食べられないと苦しんでいることが分かりました。

大綿津見神は、早速その赤い鯛を呼んで喉に詰まった針を取って、山幸彦に渡します。

そして、大綿津見神は、塩満珠塩乾珠という二つの珠を山幸彦に持たせて、地上へと帰しました。

塩満珠と塩乾珠を御神宝とする鵜戸神宮
《宮崎県日南市宮浦》
(Photo by ISSA)

地上に戻った山幸彦は、海幸彦に釣り針を返すことが出来たのですが、海幸彦の暮らしは次第に貧しくなり、その心はすっかり荒んでしまいます。
 
その時、山幸彦は大綿津見神から渡された塩満珠と塩乾珠を使って海幸彦に荒療治を施しました。

すると、すっかり改心した海幸彦は、以後、守護人として山幸彦に仕える(注6) ようになりました。

(注6) 山幸彦の子孫が歴代天皇で、海幸彦の子孫が南九州に興ったで隼人と言われている

倭伊波礼毘古命の誕生
山幸彦はその後、妻の豊玉姫との間に鵜草葺不合尊を授かります。

ところが、豊玉姫は出産の時、本当の姿(鮫の姿)を見られてしまったため、乳房だけを御神窟に残して、海中の宮殿に帰ってしまいました。

豊玉姫の出産
《宮崎県延岡市愛宕山》
(Photo by ISSA)

代わりに、乳母として妹の玉依姫が地上に遣わされ、御神窟にある乳水で作ったお乳飴を乳代わりとして、御子は育てられました。

裏手にお乳岩がある鵜戸神宮
《宮崎県日南市宮浦》
(Photo by ISSA)

後に、鵜草葺不合尊は乳母だった玉依姫と結婚し、4人の御子に恵まれますが、そのうちのひとりが、倭伊波礼毘古命、後の初代・神武天皇です。

倭伊波礼毘古命は、現在の高原町にある皇子原に降誕され、少年期を狭野で過ごされました。

「神武の里」といわれる高原町の皇子原神社
《宮崎県西諸県郡高原町蒲牟田》
(Photo by ISSA)

齢15にして吾平津媛を妃に迎え、その後、御子・手研耳命を授かりました。

若い頃に住まわれた少宮趾とされる
駒宮神社(写真右は「御鉾の窟」
《宮崎県日南市平山》
(Photo by ISSA)

神武東征 
やがて神倭伊波礼毘古命は、葦原中国を治めるにはどこへ行くのが適当か、と案ずるようになり、

兄の五瀬命に「瓊瓊杵尊が日向国に降臨して久しいが、我々は未だ国の西の端に居る。美しい土地 (注7) があるという東の方に移住してはどうか」と持ち掛けました。

(注7) 神倭伊波礼毘古命は、塩土老翁から「東に美地(うましつち)有り、青山(あおやま)四周(よもにめぐ)れり」と聞かされていた

いわゆる「神武東征」の始まりです。

都嶋に居を置いたあと、

東征前の皇居とされる都嶋御旧跡
《宮崎県都城市都島町》
(Photo by ISSA)

皇宮屋にて東征の準備を整え、

皇軍発祥之地とされる皇宮神社
《宮崎県宮崎市下北方町》
(Photo by ISSA)

そして、いよいよ御舟出の朝、日向灘に面した美々津では、出港準備を促すために人々を起こしてまわる「起きよ、起きよ」の掛け声が響き渡った。

神武天皇御舟出の地
《宮崎県日向市美々津町》
(Photo by ISSA)

その後、初めて皇軍が舟出した故事にちなんで、美々津は日本海軍発祥之地とされました。

上:日本海軍発祥之地碑
下:古代舟「おきよ丸」
《宮崎県日向市美々津町》
(Photo by ISSA)

日向を後にした一行は、16年(日本書紀では6年)という歳月をかけて筑紫、安芸、吉備を経由して河内に向かい、

神武東征のルート

天照大御神が遣わした八咫烏に導かれて、塩土老翁が美地と語っていた橿原にたどり着きます。

そして、皇紀元年(紀元前660年)2月11日(紀元節、建国記念の日)、ハツクニ(初めて国を)シラス(治めた)スメラミコト(天皇)の位に就いたのでした。

上:神武天皇を祀る橿原神宮
左下:神武天皇即位の地、神武天皇社
右下:神武天皇陵
《奈良県橿原市・御所市》
(Photo by ISSA)

「八紘一宇」の原点
この時の神武天皇の(みことのり)の一部が、日本書紀にある「掩八紘而為宇」、すなわち「八紘(あめのした)を掩(おお)いて宇(いえ)と為(なさ)ん」でした。

この精神は、後に「八紘一宇」の大御心として歴代天皇に受け継がれることになります。

実際、東征には稲飯命三毛入野命など、稲作の神である2人の兄も同行していたことから、稲作伝承の目的もあったといわれており、

行く先々で伏わぬ者共を、いきなり武力討伐するのではなく、「言向(ことむ)け和(やわ)す」こと、つまり「言葉で説いて心を和らげること」を一義とし、稲作の技術を教え、

伏わぬ者共が祀る神々についても、一方的に弾圧するのではなく、八百万の神々の一部として取り込んでいったのです。

吾平津媛との今生の別れ
なお、倭伊波礼毘古命のお妃だった吾平津媛は当地に残り、先述の山幸彦が大綿津見神から貰ったという塩満珠塩乾珠をお守りとして、東征の成就を祈り続けたそうです。

吾平津媛をお祀りする吾平津神社
《宮崎県日南市材木町》
(Photo by ISSA)

大和で初代天皇に即位した倭伊波礼毘古命は、大義を果たすために、二度と生まれ育った故郷・南九州に戻ることはありませんでした。

そのため、神武天皇の御陵(みささぎ)(注8) は橿原の地にありますが、両親である鵜草葺不合尊玉依姫、祖父の山幸彦、曽祖父の瓊瓊杵尊の御陵は、いずれも南九州に点在しています。

(注8) 宮内庁によって公式に認められた皇室の墳墓のこと

おわりに
次の旅先に迷っておられる方には、是非、宮崎を訪れることをお勧め致します。

実際に「ひむか神話街道」と、その周辺に散在する日本創生にまつわる伝承の地を訪れ、古代日本の物語や悠久の時の流れに思いを馳せると、日本の美しい真心を肌で感じることができます。

青々とした木々に囲まれた境内、木漏れ日のさす石畳、遠くに見える霧島連山、神の使いとして立ち並ぶ狛犬、鳴り響く野鳥のさえずり、吹き抜けるそよ風、たなびく木々のざわめき・・・。

神武天皇のふるさと、皇子原神社
《宮崎県西諸県郡高原町蒲牟田》
(Photo by ISSA)

森を散策し、大いなる自然の息吹に抱かれたとき、私たちは全身で神々の存在を感じ取り、あるべき自分の姿がより一層、明確になる・・・。

万世一系の天皇は、この国を創生した神々の末裔であり、常に、八百万の神々や天皇とともに歩んできた日本人の暮らしや伝統・文化は、世界にも類を見ない奇跡の存在なのです。

神武天皇をお祀りする宮崎神宮
《宮崎県宮崎市神宮》
(Photo by ISSA)

そうした神々や天皇の存在は、国民の公徳心を繋ぎ留めるこの国の宝でもあり、心から「守るに値するもの」だと思います。

私は、こうした日本の宝ともいうべき真心の総称を「日本の心髄」(注9) と呼んできましたが、その日本の心髄が今、内外からの様々な脅威によって損なわれようとしています。

(注9) 詳細は、『【自己紹介】「心の守り」を問い続けて』を参照 

日本の心髄を守る手立てのひとつとして、歴史教育が見直される必要があります。私たちは、一刻も早くGHQによって仕掛けられた戦後レジームから脱却しなければなりません。

石器時代からはじまる無機質な歴史教育ばかりではなく、古代日本人の豊かな感性や美しい真心、独創性、多様性を知るためにも、日本創生の神話から始まる歴史を、是非、学校やご家庭での教育に取り入れて欲しいと思います。

霧島東神社から御池を望む
《宮崎県西諸県郡高原町》
(Photo by ISSA)

宮崎も鹿児島も、素晴らしい所です。南九州に赴任してやがて1年半となりますが、物事の本質が理解るこの歳になって、再び南九州に「導かれた」ことに、今は心から感謝しています。

だから本年も、より一層、邪な心を無くして、真心を持って他に尽くしていきたいと思っています。

いつも、ありがとうございます🍀