厚木基地とマッカーサー ~ 本当の「トモダチ」とは
厚木基地は、1938年に旧海軍の飛行場として発祥し、戦後のマッカーサー降立、米軍による接収、そして現在の日米共同使用に至るまで、激動の近代史を象徴する場所でありました。
1 厚木基地の歴史
(1) 創設経緯
1938年、旧海軍は神奈川県央(注1) に、帝都防衛の要となる飛行場の建設を決定します。
(注1) 厚木基地は、実のところ厚木市には所在していない。この辺りは、江戸時代から宿場町として栄えていたことから、全国的に名の通った「厚木」という地名が使われたという(諸説あり)
(2) 海軍航空隊の創設
1943年に基地が完成し、翌年3月、この地に第302海軍航空隊(302空)が設置され、

《神奈川県綾瀬市厚木基地内・広報資料館》
(Photo by ISSA)
司令に小園安名・海軍大佐が任命されました。

302空は、当時の海軍としては珍しく、多様な機体(注2) を運用していました。
(注2) 当時の航空隊が運用する飛行機は、多くても3機種程度だったが、302空は、任務の多様性から、少なくとも下記の6機種を運用していた
● 局地戦闘機「雷電」:B-29迎撃
● 夜間戦闘機「月光」:B-29夜間迎撃
● 艦上戦闘機「零戦」:昼間迎撃
● 艦上爆撃機「彗星」:夜間戦闘
● 陸上爆撃機「銀河」:夜間爆撃
● 艦上偵察機「彩雲」:偵察

《神奈川県綾瀬市厚木基地内・広報資料館》
(Photo by ISSA)
局地戦闘機「雷電」は、

《神奈川県綾瀬市厚木基地内・広報資料館》
(Photo by ISSA)
B-29を撃墜するために開発された高高度・高速戦闘機で、白昼の迎撃戦で重用されました。
夜間戦闘機「月光」は、小園大佐が考案した斜め銃を装備する戦闘機で、

《神奈川県綾瀬市厚木基地内・広報資料館》
(Photo by ISSA)
302空のエースだった遠藤幸男・海軍大尉は、B-29の下方から奇襲を仕掛け、「B-29の撃墜王」として名を馳せました。

《神奈川県綾瀬市厚木基地内・広報資料館》
(Photo by ISSA)
「彗星」や「銀河」も、夜間戦闘に従事した機体ですが、

《東京都千代田区靖国神社内・遊就館》
(Photo by ISSA)
302空の「彗星」搭乗員の一部は、鹿屋方面で、同じ「彗星」による夜間爆撃を追求していた芙蓉部隊に転属され、そこで新たな戦術開発に貢献。
また、「銀河」についても、同じ鹿屋方面で運用(注3) されました。

《鹿児島県鹿屋市・鹿屋航空基地史料館》
(Photo by ISSA)
(注3) 1945年3月、鹿屋からの最初の特攻機に使われた。この特攻隊は「銀河」24機で編成され、楠木正行の辞世の句「帰らじと兼ねて思へば梓弓 なき数に入る名をぞとどむる」に因んで「梓隊」と名付けられた
1945年4月、B-29による南九州への空襲激化に伴い、更に「雷電」も鹿屋に進出。他部隊と合同で竜巻部隊を結成し、米軍機を迎え撃ちました。
厚木の302空は、このように、戦況の変化に伴い、徐々に鹿屋等の南方に戦力を割かれましたが、
終戦まで帝都を守る盾としての士気は高く、終戦日の8月15日には、降伏を拒絶した小園大佐のもとで徹底抗戦を叫ぶ厚木航空隊事件を起こしました(数日で収束)。
【参考】 「彩雲」については、山梨県の河口湖自動車博物館・飛行館で、唯一現存する機体を見ることが出来る
(3) マッカーサーが降り立つ
同年8月30日、連合国軍最高司令官のダグラス・マッカーサーを乗せた「バターン号」が厚木飛行場に到着。

タラップを降りるマッカーサー☆
米軍は、帝都防空の要であった厚木に降り立つことで、日本側に連合国の戦勝を印象付けたかったのでしょう。
パイプをくわえて降り立つ姿は、日本の戦後占領期の象徴となりました。

同年9月2日、厚木飛行場を米軍が接収。キャンプ座間への輸送拠点として使われました。
(4) 「NAF Atsugi」の開設
1950年、朝鮮戦争の勃発に伴い、極東地域における航空基地の必要性が高まったことで、同年12月、米海軍厚木航空施設(Naval Air Facility, Atsugi)が発足し、

(Google ストリートビュー)
やがて、米第7艦隊所属航空機に対する支援拠点となりました。

《神奈川県綾瀬市厚木基地内》
(Photo by ISSA)
1950〜60年代、ジェット機の運用が本格化したことに伴い、滑走路の延長やかさ上げ等の工事が施され、現在の厚木基地の原型が完成。

《神奈川県綾瀬市厚木基地内・広報資料館》
(Photo by ISSA)
1960年代初頭、基地近傍で米軍機の墜落事故が相次ぎ、当時、始まったばかりの東名高速自動車道の建設計画(注4) にも影響しました。
(注4) 政府は、米軍機の高速道路上への墜落という最悪の事態を想定し、厚木基地の滑走路の延長線上と交差する部分を、凹状地にしてトンネル化する策を講じた。この凹状の道路とトンネルが、現在、大和トンネルで渋滞を発生させる原因となっている

(5) 日米共同管理へ
1971年7月、米軍の再編に伴い、飛行場管理権を含む大部分が日本側に返還され、一部を海上自衛隊に移管。これ以降、厚木基地は日米共同管理体制へと移行します。
1973年10月、空母「ミッドウェイ」の横須賀母港化に伴い、厚木に第5空母航空団(CVW-5)を設立。

(Photo by ISSA)
以降、「インディペンデンス」、「キティホーク」、「ジョージ・ワシントン」、「ロナルド・レーガン」等、歴代空母の艦載機部隊における一大拠点として機能しました。

《神奈川県横須賀市・米海軍横須賀基地内》
(Photo by ISSA)

《神奈川県横須賀市・米海軍横須賀基地内》
(Photo by ISSA)
(6) NLPに伴う騒音問題が顕在化
1982年から、米軍は厚木基地で空母艦載機による夜間離着陸訓練(NLP:Night Landing Practice)を開始。
夜間から深夜まで、基地の滑走路を空母の甲板に見立て、着地後すぐに最大出力で急上昇する「タッチ・アンド・ゴー」が繰り返されたことから、爆音が社会問題となりました。

周辺住民・自治体による強い中止要請を受け、1993年に政府が訓練施設を硫黄島に建設。以後、NLP(注5) は硫黄島で行われるようになりました。
(注5) この頃から、「NLP」は、正式名称である「FCLP」(Field Carrier Landing Practice:陸上空母離着陸訓練)と呼ばれるようになる
(7) 航空ショーの取り止め
厚木基地では、1993年から、毎年、大々的な航空ショー「WINGS」が開催され、多くの来場者で賑わっていました。

《神奈川県綾瀬市厚木基地内》
(Photo by ISSA)
映画「トップガン」でも有名な F-14トムキャットは、日本国内では、厚木基地でしか見られなかった機体です。
私も、高校の頃、この洗練されたフォルムには随分と憧れました🚀

(Amazon.co.jp)

《神奈川県綾瀬市厚木基地内》
(Photo by ISSA)

《神奈川県綾瀬市厚木基地内》
(Photo by ISSA)
しかし、航空ショーも騒音問題が顕在化したため、2000年を最後に取り止めとなりました。
(8) 主力部隊の岩国移転
その後も、周辺住民のジェット機に対するアレルギー反応は収まらず、抗議や訴訟が続いたことから、最終的に「日米同盟の安定維持のためにも、厚木基地の現状維持は困難」と判断されました。
2000年代から、米軍は世界規模で兵力構成を見直す再編を進めていたことこともあり、日米両政府は、2006年のロードマップで、空母艦載機の岩国移駐に合意し、
2018年3月末までに岩国への移駐が完了しました。

米軍機の発着が間近に見られた
(Photo by ISSA)
現在、厚木基地では、海上自衛隊のP-1哨戒機や、残留した米海軍のヘリ部隊が共同運用を続けています。
2 マッカーサーの功罪
終戦後の10月2日、皇居近くに連合国総司令部(GHQ)が設置されます。
マッカーサーは、GHQ最高司令官として決定的な役割を果たしましたが、その内容は、「功」「罪」の両面に大きく分かれます。
(1) 「功」の側面
最大の功績は、昭和天皇を極東軍事裁判から除外し、天皇を存続させたことです(背景には、秘書官・フェラーズ准将の働きもあった)。
連合国は当初、昭和天皇を戦犯にして処刑するつもりでしたが、昭和天皇自らが、マッカーサーに次のように請願され、
この戦争の責任は全て自分にある
自分の命はどうなっても構わないので
一億の民を飢えさせないで欲しい
将兵たちは自分の命令に従っただけ
なので、私一人を処刑してほしい
自身の安全を一切顧みることなく、国民と将兵の安全を思う気持ちに感銘を受けたマッカーサーは、連合国の意に反し、天皇を擁護する方向に動きました。
もう一つの功績は、ソ連による北海道の分割占領要求を拒否し、日本が共産主義陣営によって分断される危機を防いだことです。
そして、朝鮮戦争の勃発を機に、陸上自衛隊の前身となる「警察予備隊」を創設し、早期に日本が自衛できる道すじをつけたことでしょうか。
(2) 「罪」の側面
一方で、事実上の最高権力者として君臨し、報道の検閲や思想統制を行うなど、非民主的で独裁的な統治は、多くの混乱や課題を生み、
特に、「神道指令」は、靖国神社の真価を地に貶めるものとなりました。
学校で神道を教えることを禁じた結果、日本人の美しくて高邁な真心は、次第に衰退することになったのです。
そして、もう一つは、悪名高き極東軍事裁判でしょうか。
この裁判は、公正な国際機関によるものではなく、マッカーサーが下した条例によって設置された、いわば「連合国による一方的な裁きの場」となりました。
マッカーサーは、「誰を裁き、誰を裁かないか」という大枠を決め、「判決文の承認権者だった」という意味では、この茶番劇を操っていた張本人(注6)と言えます。
(注6) 1945年12月、マッカーサーは、GHQの首席検事、ジョセフ・キーナンに対し、「事後法という批判を避け、早期に開廷し、東条内閣の閣僚らを起訴せよ」と指示している
更に、日本国憲法については、1946年2月3日に草案作成を命じ、僅か10日後の2月13日には日本側に受け入れを迫る(注7) など、
自衛権や安全保障に関する十分な議論がないまま作成されたことで、多くの問題を抱えたまま、現在に至っています。
(注7) マッカーサーが憲法制定を急いだ背景には、各国から「天皇は戦争犯罪人だ」とする厳しい声が強まる中、新憲法に「天皇は象徴である」ことを定めることで、天皇を擁護するねらいもあった
3 マッカーサーゆかりの地
(1) ホテル・ニューグランド
マッカーサーは、来日後、最初の3日間を、横浜にあるホテル・ニューグランド(1927年に創業)で過ごしています。


《神奈川県横浜市中区山下町》
(Photo by ISSA)
マッカーサーが宿泊した部屋(現・本館315号室)は、マッカーサーズ・スイートと呼ばれています。


《神奈川県横浜市中区山下町》
(Photo by ISSA)
【参考】 このホテルで、初代料理長を務めたサリー・ワイルが完成させたカレーが、日本の欧風カレーの礎となった
(2) マッカーサー・ギャレッジ
本厚木駅近くのこちらのお店には、マッカーサーが乗っていた本物のキャデラックが店内に展示されています。

《神奈川県厚木市泉町》
(Photo by ISSA)
古き良きアメリカン・ジャズバーの雰囲気だそうです。

《神奈川県厚木市泉町》
(Photo by ISSA)
(3) 厚木基地
正門から入ってすぐのところに、マッカーサーの銅像が立つ、マッカーサー・ガーデンがあります。

《神奈川県綾瀬市厚木基地内》
(Photo by ISSA)
厚木基地は、今もなお日米親善の場として機能し続けています。

《神奈川県綾瀬市厚木基地内》
(Photo by ISSA)

《神奈川県綾瀬市厚木基地内》
(Photo by ISSA)

コーヒーが異常にデカい😅
《神奈川県綾瀬市厚木基地内》
(Photo by ISSA)
おわりに
この厚木基地内にそびえ立つマッカーサー像を、私共は複雑な思いで見ています。

《神奈川県綾瀬市厚木基地内》
(Photo by ISSA)
この銅像は、一見、公的な記念碑のように見えますが、実際はそうではなく、マッカーサーの功績を後世に伝えたいと考えた日本の一般人が、私費を投じて建立し、在日米軍・厚木基地に寄贈したものです。
百歩譲って、マッカーサーが降り立った厚木基地に銅像があることは許容できたとしても、銅像の銘板に日本語でこう書かれると、はなはだ疑問を感じるのです。

《神奈川県綾瀬市厚木基地内》
(Photo by ISSA)
日米双方が互いに気を遣って、マッカーサーのことは話題に上がりにくいのが実情で、先述の「罪」の側面も考えると、
「日米友好永遠に」を謳うのであれば、マッカーサーの銅像ではなく、もっと別の材料を選ぶべきだと思うのです。
例えば、東日本大震災から15年目となった本年3月11日、在日米国大使館が、厚木基地に所在する対潜ヘリ飛行隊(通称、WARLORDS)で、当時、パイロットとして勤務していた退役・海軍中佐の回顧録を掲載しました。
「日本人との出会いは、かけがえのない経験だった」と語るダンさん。実直で美しい真心や隣人愛を備えたお人柄がうかがわれます。
厚木基地は、いつまでもマッカーサーの銅像を使って「日米友好」を謳い続けるのではなく、
例えば、東日本大震災対応や復興支援に関する記念碑を新たに設けるなどして、マッカーサーとは違うシンボルを新たに創設すべきではないでしょうか。

デザイナーが、米軍による大規模な支援への
「感謝の印」として作製し無償配布したもの
やがて日米の絆を象徴するシンボルとなった
(Owned by ISSA)
【参考】東日本大震災とトモダチ作戦
東日本大震災では、米軍は発災翌日から「トモダチ作戦」(Operation Tomodachi)を発動し、4月30日まで、被災地の捜索救難、物資輸送、インフラ復旧などに貢献した
この間、約24,000名の米軍将兵が動員され、空母「ロナルド・レーガン」など海軍艦艇24隻、 輸送機やヘリコプターなど189機が使われるとともに、厚木基地が空輸・集積の拠点として機能し、駐留する航空部隊が、空からの捜索救難や輸送等に当たった
大震災という国難で、自衛隊の大半が災害派遣に戦力を割かれる(注8) 中、これ幸いと不穏な動きを強めた周辺国に対し、
(注8) 自衛隊は、最大約10万人体制で災害派遣や復興支援に従事。その後、復興財源確保のため、全ての隊員が2年間にわたり給与の一部を返上し、一人当たり、およそ100万円前後を拠出している
米軍が日本周辺での警戒監視をカバーし、周辺国の野心をけん制し続けてくれていたことも忘れてはなりません。
危機に際して、手を差し伸べる者が「真の友」なのであり、あの時、国内・国外の両面で、誰が日本国民の友で、誰が友でないのかが、明白になったはずです。
太平洋を挟んで、西と東に位置する日米という海洋大国が、大東亜戦争という苦難に満ちた総力戦を乗り越え、
高いモラルや人間性、至誠、叡智、勇敢さを切磋琢磨しながら、互いに尊敬し合える存在であり続けること。
これからも、日米はそのような「トモダチ」関係であって欲しいと、そう思います🍀

