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書けない日は、どこで止まっているかを知ればいい

書けない日がある。

ネタがないわけじゃない。
時間がないわけでもない。
やる気が出ないというのとも、少し違う。

書こうと思えば、材料はある。
頭の中では、なんとなく筋道も見えている。

それなのに、手が止まる。
少し書いてみても、なんか違う。
結局、そのまま画面を閉じてしまう。

この「なんか違う」の正体を、しばらく考えていた。

最近になって、それは文章力や根気の問題ではなく、文章を書くために必要な「温度」の問題なのかもしれないと思うようになった。


書くには、5つの段階がある

自分の体験を振り返ると、書くというプロセスには、だいたい5つの段階があるように思う。

違和感
何かに「?」と思う。

② 類推
「これ、何かに似ている」と思う。

③ 接続
自分の知識・経験・専門性とつなげる。

④ 温度
今、それを書きたいかを感じる。

⑤ 構造化
読者に伝わる形に並べる。

このうち、①から③までは、わりと自然に動く。

日常の中で何かが引っかかる。
「あれ?」と思う。
それが、以前考えていたことや、自分の専門とどこかでつながる。

ここまでは、むしろ楽しい。問題は、その次である。

④の「温度」だけが、意志では動かない。


④温度だけが、意志で動かない

ここでいう温度とは、「今、これを書きたい」という感覚のことだ。

高い日は、言葉が勝手に出てくる。
書き始めると、むしろ止まらない。
細かい構成を決めていなくても、書きながら道ができていく。

一方で、温度が低い日は、構造は見えているのに手が動かない。

書くべきことはわかっている。
論点もある。
見出しも作れそう。
それなのに、どうにも文章にならない。

これは、単純なやる気の問題ではないと思う。

やる気がまったくないなら、そもそも①から③まで行かない。
違和感もある。類推もある。接続もある。
それなのに、④で止まることがある。

そして、この④だけは、意志や効率ではなかなか動かない。

環境が変わる。
誰かと話す。
移動する。
ぼんやりする。
散歩する。
別のことをしているうちに、ふと「あ、これは書けるかもしれない」と思う。

そういう形で、ようやく温度が上がってくる。

逆にいえば、温度が上がっていないものを無理に書こうとしても、どこかで自分の手が止まる。


AIと対話すると、④を飛ばせてしまう

最近、AIと対話しながら記事を書くことが増えた。

AIとの対話は、とても便利だ。
こちらが問いを投げると、論点を整理してくれる。
見出しを出してくれる。
自分では気づかなかった角度を示してくれることもある。

つまり、AIは③から⑤への速度をかなり上げてくれる。

自分の中にある違和感や経験を投げると、それを構造化してくれる。
ばらばらだったメモが、文章の骨格になる。
一人で考えていたら数時間かかったかもしれない整理が、かなり短い時間で進む。

これは本当にありがたい。

ただ、気をつけないといけないこともある。

AIとの対話の勢いで、④の「温度」を飛ばしたまま、⑤の「構造化」まで進めてしまうことがある。

構造はできている。
論理も通っている。
見出しもきれいに並んでいる。
文章としても、それなりに読める。

なのに、読み返すと、完全に筆が止まる。

「なんか違う」と思う。

以前は、この「なんか違う」を、文章の問題だと思っていた。
言い回しが悪いのか。
構成が甘いのか。
導入が弱いのか。

もちろん、そういう場合もある。

でも、最近は少し違う見方をしている。

それは文章の問題ではなく、温度が入っていないからではないか。

つまり、構造はある。
でも、自分がまだそれを引き受けていない

AIは構造をくれる。
論点も並べてくれる。
言葉の形も整えてくれる。

けれども、「今、これを自分の言葉として書きたい」という温度までは、代わりに持ってくれない。

そこだけは、やはり自分の側に残る。


④で止まるとき、①に戻ってみる

では、④で止まるとき、どうすればよいのか。

無理に書き進める方法もある。
仕事であれば、それも必要だ。
締め切りがある。報酬がある。役割がある。
そういう文章は、温度が多少低くても、意志と技術で書かなければならない。

ただ、noteのような書き物は、少し違う。
別に書かなくてもいいのだ。

誰かに頼まれたわけでもない。
締め切りがあるわけでもない。
何かしらの「報酬」が約束されているわけでもない。

だからこそ、④で止まったときには、無理に⑤へ進めるのではなく、①に戻ってみてもよいのだと思う。

本当に、自分はそれに「?」と思ったのか。

その違和感は、自分の内側から出てきたものだったのか。
それとも、単に「これは記事になりそうだ」と思っただけだったのか。

この違いは、けっこう大きい。

「記事になりそう」と思うことと、「自分が今これを書きたい」と思うことは、似ているようで違う。

前者は、企画である。
後者は、温度である。

もちろん、企画として優れているものにも価値はある。
ただ、自分の内側の違和感とつながっていない企画は、途中で止まりやすい。

④の温度で止まるということは、もしかすると、①の違和感がまだ浅かったということなのかもしれない。


書かなくていいものを手放せた、ということ

そう考えると、書けない日は、少し違って見えてくる。

書けないのは、怠けているからではない。
能力が足りないからでもない。
ネタが悪いからでもない。

ただ、温度がまだ上がっていなかった。

あるいは、自分はそれを、そこまで書きたくなかった。

そういうことなのだと思う。

そして、それは必ずしも悪いことではない。

むしろ、書かなくていいものを手放せた、ということでもある。

何でも記事にしようとすると、だんだん苦しくなる。
日常のすべてをネタとして見始めると、面白い反面、少し疲れる。
本当はまだ自分の中で熟していないものまで、文章にしようとしてしまう。

でも、書けないという感覚は、その手前で止めてくれる。

これはまだ違う。
これはまだ自分の言葉になっていない。
これは、今ではない。

そう教えてくれる。

AIを使うようになってから、この感覚はむしろ大事になった気がする。

AIがあれば、文章の形にはできてしまう。
見出しも作れる。
それらしい構成にもできる。
でも、それを自分が本当に書きたいのかどうかは、別の問題である。

だから、書けない日は、どこで止まっているかを見ればいい。

①の違和感がないのか。
②の類推がまだ弱いのか。
③の接続ができていないのか。
④の温度が上がっていないのか。
⑤の構造化で迷っているのか。

止まっている場所がわかると、自分を責めなくて済む。

特に④で止まっているなら、無理に書かなくてもいい。
いったん寝かせればいい。
散歩してもいい。
誰かと話してもいい。
まったく別のことをしてもいい。

本当に自分ごとの違和感であれば、いずれまた戻ってくる。

そのときには、以前よりも少し温度を持っているかもしれない。

書けない日は、どこで止まっているかを知ればいい。
それだけで、少し楽になる。



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