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【エッセイ】【映画】【文学】マーマレードのような男 黒澤明「醜聞」を観てドストエフスキー「罪と罰」を思う

 黒澤明に「創造力とは記憶である」という有名な言葉がある。その根拠となるような、やはりよく知られたエピソードが「醜聞(スキャンダル)」(1950年)について残っている。
 「醜聞」は今でいう写真週刊誌やパパラッチの問題を取り上げている。随分昔からこの手の問題はあったようだ。三船敏郎演じる画家と山口淑子演じる声楽家がたまたま一緒にいるところを雑誌に隠し撮りされ、熱愛をでっち上げられる。怒り心頭の三船は雑誌社に乗り込んで大立ち回りを演じ、裁判沙汰となる。そこで自ら売り込んできたのが志村喬演じる調子のよい弁護士。画家はこの弁護士を雇うが、彼には病気の娘がおり、一家は貧窮していた。そして何と相手方の雑誌社に小切手で買収されてしまう……という筋立て。軽いタッチのヒューマンドラマだが、「生きる」(1952年)の主人公渡辺勘治に直結するような、志村喬の熱演が見どころである。

『醜聞』の山口淑子、志村喬、三船敏郎

 黒澤が「醜聞」の脚本を執筆していた時のこと。この根は善人の悪徳弁護士、蛭田乙吉のセリフや行動が、何故だか鉛筆が滑るようにすらすらと書けてしまう。考えもしないのに、異常なまでに鉛筆が走る。そんなことは初めてで、気味が悪いほどだった。
 「醜聞」の完成から半年ほどしたある日のこと。渋谷へ映画を観に行った帰りの井の頭線の車中、渋谷の次の神泉の踏切を電車が通過するまさにその時、黒澤は思わず大きな声を出しそうになった。「私は思い出した。私は蛭田というあの人物に会った事があるのだ」。
 助監督時代、神泉駅の近く、駒形屋という飲み屋で一人で飲んでいた時のこと。泥酔した50歳近い男が、黒澤に話し掛けてきた。話す内容は、肺病で寝たきりの娘のことで、その娘は天使のようであり、星のようであり、とても素晴らしい娘である、それに比べて自分はどんなに下らない人間であるか、「まるで暗記した科白のように」、何度も何度も同じことを繰り返し話し続ける。胸の痛くなるような男の話しぶりに、酔っぱらいのお喋りと突き放すことも出来ず、身につまされながら耳を傾けていた。その男こそが、蛭田の原型だったのだ。

人間の脳は、何ということをするのだろう。あの蛭田という人物は、私の脳の襞の何処にかくれていたのだろう。そして、今頃、何故急にその襞から出て来たのだろう。

黒澤明『蝦蟇の油:自伝のようなもの』

 無意識のほんのちょっと手前、前意識の奥の奥といったあたりのどこかに踏み止まっていた蛭田。私はこの記憶と創造力との不可思議な連関を語るエピソードを読むと、黒澤の脳の襞のどこかにもう一人、別の人間がこっそりと隠れていて、その男の記憶が、飲み屋で遭遇した酔っぱらいに微かにリンクしたことによって、忘却の淵に沈むことなく、蛭田として蘇ったのではないかと、勝手に想像したくなる。
 その人物とは、ドストエフスキー「罪と罰」(1866年)の愛すべき万年九等官マルメラードフである。自分の娘ソーニャがどんなに素晴らしいか、自分がいかに卑劣でろくでもない人間であるか、異様な情熱をもって、これでもかと語り続ける酔いどれ官吏マルメラードフと、その話に耳を傾けるラスコーリニコフ——私には、どこか飲み屋での蛭田と黒澤の姿に重なってしまうのだ。黒澤明のドストエフスキーへの深い傾倒を考えると、決して単なる思いつき、当てずっぽうでもないように思える。

『罪と罰』のラスコーリニコフとマルメラードフ

 ラスコーリニコフとマルメラードフの酒場での邂逅の場面は小説の冒頭近くに出てくる。
 良家の出身の妻カチェリーナ、自分には不釣合いな立派な妻の「靴下までも飲んでしまった」という赤貧の生活、リストラで失職しペテルブルクに流れ着いて来て、娘ソーニャが体を売って家計を支えなければならないほど零落した経緯、やっとのことで再就職が決まったはよいが、妻に渡した給料を自分で盗み出し、酒場を渡り歩いて仕事を放棄、ソーニャに酒代をせびって飲んだ暮れる体たらく。マルメラードフが長々と話す身の上話だが、よく指摘されるように、無駄に長いのではなく、いたるところに聖書の言葉が引用されている。例えば娼婦となり、黄色い鑑札を持たされるようになったソーニャの身の上を語ったすぐ後の、「見よ、この人なり!」など。
 マルメラードフの長広舌は一つのファンタジーとしての救済論に結実する。最後の審判ではまず、ソーニャが赦されなければならない。「多く愛したそのために」。悪人も善人も、万人が裁かれ、万人が赦される。そして最後に「酔っぱらい、意気地なし、恥知らず」までもが神の前に召し出され、やはり赦される。彼らには自分たちがとても憐れみに価するような人間ではなく、赦される資格など全くない落伍者だという痛切な自覚があるというただそれだけの理由で。そこで述べられる“負の救済論”は、「高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」というルカ伝の言葉を逆手にとったかのような特異な願望である。
 そんなマルメラードフも、馬車に轢かれて死んでしまいやがて物語から退場、かわってソーニャが登場することになるのだが、マルメラードフの長談義は、単なる酔っ払いの世迷言では済まない広がりを持っているように思う。作品内に限っても、この長編の中盤のクライマックス、有名なソーニャのヨハネ伝の「ラザロの復活」朗読の場面の伏線になっていよう。すなわちマルメラードフからソーニャ、ラスコーリニコフへとバトンリレーされる大いなる復活のドラマ、書かれざる「もう一つの新しい物語」へのはるかな先触れとして。話を広げれば、誰もが救われるという思想は、ドストエフスキーと親鸞がクロスオーバーするところのように思える。“ダメ人間正機説”とでも言おうか。
 肥大した自負心と底なしの劣等感の相克に苦しむ敗残者、どこか他人事とは思えない身につまされるような感じが、登場場面が少ない割に強烈な印象を残すこのサブキャラクターの人気の所以であろう。

 ちなみにラスコーリニコフ同様、マルメラードフもそのようなおかしな姓はロシアに実在しないらしい。「罪と罰」の登場人物の名前にはそれぞれ意味が担わされており、ロシア正教分離派を強く示唆するラスコーリニコフに対し、マルメラードフの名はマーマレードに由来しているという。ドストエフスキーは創作ノートに「お砂糖のような姓」と書き込んでいるそうで、優者と劣者の弁証法とでもいう、その“甘ったるい”救済論を揶揄して命名したのだろう。「マーマレード男」ほどの意味だが、ロシア文学者の江川卓の手にかかると「甘井聞太アマイモンダ」となってしまう。

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 以下、余談をぐたぐたと。この“甘ったるさ”がやはり私にどこか「醜聞」を連想させます。特にこの映画のテーマとも言える弱き人間の実存的な回心(conversion)に対する、ラストの三船敏郎の説明的な台詞など。「僕たちは今、お星様が生まれるのを見たんだ」。観ている方がむずかゆくなるような感覚とでも言いましょうか。黒澤明における「甘さ」とは「過剰なまでのヒューマニズム」とでも換言できそうで、最晩年まで一貫しているように思いますが、特に終戦から5年間の作品にこの感覚は濃厚です。監督作品でいえば「わが青春に悔なし」(1946年)、「素晴らしき日曜日」(1947年)、脚本作品でいえば「肖像」(木下恵介監督、1948年)など。ところが「醜聞」の次回作「羅生門」(1950年)からある期間、その甘さ、濃厚な感傷性は希薄化、あるいは後景化されているように思います。なぜか?黒澤明が「世界のクロサワ」となるエポック「羅生門」、すなわち「出会わなければよかった男」脚本家橋本忍、その苛烈な精神との出会いと化学反応——ここまで言っては、さすがに我田引水でしょう。詳しくはこちら👇 

 いずれにせよ、黒澤明理解の鍵は資質の近さから言ってもドストエフスキーにあるように思います。そしてそれは必然的に、病跡学(癲癇)を援用した「白痴」論に収束されるでしょう。そんな見通しで、「ドストエフスキーと黒澤明」なる大論をいつか書けたらと、文献なども集めてはいるのですが……。この小論は「ドストエフスキーと黒澤明」序論のような位置づけなのかもしれません。本論が書かれる保証はまったくありませんが。



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橋本 健史 公開中の「林檎の味」を含む「カオルとカオリ」という連作小説をセルフ出版(ペーパーバック、電子書籍)しました。心に適うようでしたら、購入をご検討いただけますと幸いです。