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『四国お遍路物語⑨』|歩くことでしか見えないもの 

四国を歩いていると、時々わからなくなる。

これは旅なのか。
それとも、何か別のものなのか。

景色は美しい。空気も澄んでいる。
だが、足は痛み、体は思うように動かない。
気持ちもまた、日によって大きく揺れる。

元気かと聞かれれば、正直よくわからない。

歩けてはいる。
だが、万全ではない。


四国遍路の始まりは、
空海がこの地で修行したことにあるとされている。

当時の遍路は、今のような「旅」ではなかった。
山に入り、己を削り、何かを得ようとする
厳しい修行の道だった。

命を落とす者もいたと言われるほど、
それは過酷なものだった。


やがて時代が進み、
遍路は少しずつ形を変えていく。

鎌倉から室町の時代にかけて、
弘法大師への信仰が広まり、
「同行二人」という考えが生まれた。

一人で歩いているようで、
常に空海と共にあるという感覚。

それは、孤独を支える思想でもあったのだと思う。


そして江戸時代。

遍路は、特別な修行者のものではなく、
庶民の中へと広がっていった。

街道が整備され、
人が移動しやすくなり、
「人生の再出発」として歩く者が増えていく。

この頃に生まれたのが「お接待」という文化だ。

見知らぬ遍路に、
食べ物や宿を無償で差し出す。

見返りを求めないその行為は、
この道を歩く者と支える者が
同じ物語の中にいることを示しているように感じる。

6日目の宿『虚空』から
ロープウェイで移動

しかし、時代はさらに移り変わる。

明治の神仏分離によって、
信仰の形は揺らぎ、遍路は一時衰退する。

それでも完全には消えなかった。

戦後になると、再び人々がこの道を歩き始める。

ただしその意味は、
かつてとは少し違っていた。


現代の遍路は、ひとつではない。

信仰として歩く人もいれば、
観光として巡る人もいる。
自分探しの旅として来る人もいる。

歩き遍路、車遍路、区切り打ち。

やり方も、理由も、人それぞれだ。


そして今、自分もその一人として歩いている。

だが正直なところ、
はっきりとした理由は言葉にできない。

回復のためなのか、
逃げているのか、
それとも何かを探しているのか。

わからないまま歩いている。

遍路道①
遍路道②
遍路道③

ただ一つ、感じていることがある。

それは、この道は
昔と同じでありながら、まったく違うということだ。

かつては命を削る修行の場だった。
今は、それぞれが意味を持ち寄る場所になっている。

変わったのは、道ではなく、
そこに立つ人間の方なのかもしれない。


遍路には「同行二人」という言葉がある。
常に、空海と共に歩いている、という意味だ。

だが今は、その言葉を少し違う形で感じている。

誰かと一緒にいる、というよりも、
自分自身と離れずにいる、という感覚に近い。

逃げずに、
誤魔化さずに、
今の自分と並んで歩く。

舎心ヶ嶽①
舎心ヶ嶽②

この旅が何になるのかは、まだわからない。

回復なのか、逃避なのか、
それとも、ただの遠回りなのか。

何でもいいと思っている。

今はただ、
崩れないために歩いている。

整えるために、少しずつ。


遍路とは、目的地にたどり着くことではなく、
歩いているあいだに、何を手放し、何を残すか。

その連続なのかもしれない。

今日もまた、一歩だけ進む。
それで十分だと思っている。

遍路道①
(いわや道)
遍路道②
(いわや道)
遍路道③
(いわや道)

ひとつだけ言葉にしておきたい。この旅の目的は何かと問われれば、

それは「実験」なのだと思う。

実験とは、失敗を恐れないこと。
挑戦し、思考し、そしてまた実行し続けること。

うまくいくかどうかではなく、
やり続けることそのものに意味がある。

遍路道①
(平等寺道)
遍路道②
(平等寺道)
遍路道③
(平等寺道)

振り返れば、
自分の人生は決して順風満帆ではなかった。

だが、不思議と「豊かさ」は失われていない。

それはなぜかと考えたとき、
人間である以上、避けられない「欲」というものが
関係しているのかもしれないと思った。

---

人の欲には、終わりがない。
求め、迷い、また求める。

だがその繰り返しの中に、
生きるエネルギーのようなものが宿っている気がする。

---

だからこそ思う。

この自分が感じている豊かさを、
ほんの少しでもいい、世界に届けてみたいと。

それは、ただ満たされたいという欲ではなく、
この世界に対する、自分なりの「愛」の形なのだと思う。

道の駅わじき
昼食
釜揚げうどん 

『認識』は、世界を変える。

何を見るかではなく、
どう捉えるかで、世界の輪郭は変わっていく。

あなたの世界は、
あなたの認識でできている。

だからこそ、 
どう見るかを選び続けたい。

この旅と同じように、
一歩ずつ。

お遍路さん休憩小屋にて

私の前に現れるのは、なぜかこんな“大人”ばかりだ。

感情を持て余し、勝手に怒りを爆発させる。
それでいて、自分を大人だと信じて疑わない。

挙げ句の果てには、
「それが目上に対する態度か」と威嚇してくる。

年齢という数字で、優位に立とうとしているのだろうか。

——思わず、笑ってしまう。

またある者は、
私を貶めようと、周到に噂をばらまく。

すべて気づいていながら、 
あえて反応せずにいると、
今度は直接、刃を向けてくる。

そして、こちらが静かに指摘すれば、
目も合わせずに「ごめんなさい」と口にする。

——やはり、笑ってしまう。

二人とも、六十を越えた大人だ。

それなのに、見せてくる姿は、まるで子供のようだった。

年齢だけを重ねた“未熟さ”が、
これからの子供たちに、どれだけの重荷を背負わせるのか。

一人は母であり、
もう一人は、ただの他人だ。

では、私にできる“愛”とは何か。
それはきっと——距離を置くことだ。

彼らは、自分の言葉や行いを、
忘れることはできないだろう。

この世でも、いずれ後悔し、
そしてまた、どこかで悔いに苛まれる。

本当は伝えたい。
行いは巡り、必ず自分へ返ってくるのだと。

けれど、その言葉すら、
もう届かない場所にいるのだろう。

遍路道④
遍路道⑤
遍路道⑥

この世界には、確かに法則がある。

奪う者は、奪われることに怯え、
傷つける者は、傷つけられる未来を恐れる。

そうして恐怖は増幅し、
負の循環は、静かに続いていく。

その流れを止めてあげたいと思う気持ちはある。

だが、もはやそれは、
私にも、誰にもできないことなのかもしれない。

気づくのは、いつだって本人だけだ。

22番札所 平等寺

なぜ世界が不安と恐怖に満ちて見えるのか。

その正体が、自らの認識に過ぎないと、
理解できるその日まで。

恥も、プライドも、羞恥心も——

すべてを手放せたときにしか、
人は本当の意味で自由にはなれないのだろう。

それでも私は願っている。

こんな人たちでさえ、
どうか、幸せに生きてほしいと。

世界は、思っているよりずっと広いのだから。

7日目
宿到着




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