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AI創作論ーー見えへんものを、どう見るか

「第3の目について教えて」と聞かれた。

ヨーガで言うアジナー・チャクラの話とか、仏教の五眼(肉眼・天眼・慧眼・法眼・仏眼)の話とか、答えながら考えてたんやけど、ふと、自分の創作のやり方そのものが、この話と繋がってる気がしてきた。

正直に言うと、きちんとしたプロンプトというものが、ずっと苦手だった。

条件を並べて、論理を積み上げて、「こういう絵にしてください」と組み立てていく——その手順が、どうも性に合わない。それより先に、来てしまうものがある。来たものを、来たまま受け取って、絵にする。文章にする。それだけ。

このやり方、ずっと「自分が不器用なだけや」と思っていたんやけど、最近、法華経の提婆達多品(だいばだったほん)を読み返していて、ふと腑に落ちたことがあった。

龍女成仏(りゅうにょじょうぶつ)という話がある。八歳の龍王の娘が、お釈迦さまの前で、その身のままで仏になる場面や。そこで舎利弗(しゃりほつ)が疑う。「女人やし、人間でもないし、まだ子供や。そんな存在が、どうしてこの身のまま仏になんてなれるんやろう」と。

これ、完全に肉眼の判断やと思う。性別、種族、年齢——目に見える属性を並べて、「可能/不可能」を線引きしてる。

そこで龍女は、自分の宝珠(ほうじゅ)をお釈迦さまに差し出す。お釈迦さまがそれを受け取った——その「受け取った」瞬間の方が、龍女が成仏するよりも早かった、と経典には描かれている。判定する暇すらない速さで、もう成っている。

「見て、それから判断する」という順番そのものを、飛び越えてしまう出来事なんやろう。

ウチがプロンプトを組み立てられないのも、もしかしたらこれと同じ回路なんかもしれない。先に来てしまったものを、判断する前に受け取る。きっちり組み立てる人より劣っているんやなくて、そもそも別の速度で動いているだけなんやと思う。

あの瞬間の宝珠と、自分が描き続けている龍女や観音さまの絵と、どこかで繋がっている気がしている。


#AI創作論 #降りてくる # 言霊 #受け取る創作 # 型にはまらん龍


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