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菖蒲の節句は、梅雨の闇にあった――旧暦で読む「食わず女房」の余韻

「食わず女房」を書いたあと、わたしの中で気になり続けたのは、物語そのものよりも、その背後にある季節の匂いだった。

飯を食べない女房を望んだ男のもとへ、美しい女がやってくる。

女は飯を食べない。
けれど、家の米は減っていく。

男がこっそりのぞいてみると、女房は髪をほどき、頭のてっぺんに開いた大きな口で、おにぎりを食べていた。

いくつかの形では、正体を見られた女房は山姥や鬼女となり、男を桶や背負い籠に入れて山へ連れ去ろうとする。

男は逃げる。
そして、菖蒲と蓬の茂みに身を隠す。

すると、女房は近づけない。

菖蒲と蓬の香りが、異界のものを退けるのである。

この話は、五月五日の菖蒲の節句と関係している。

けれど、ここでいう五月五日は、今の暦の五月五日ではない。

昔の五月五日は、旧暦五月五日である。

二〇二六年でいえば、旧暦五月五日は六月十九日にあたる。

つまり、「食わず女房」の菖蒲の節句は、現代の五月五日のような、明るく爽やかな季節ではない。

梅雨の湿気が濃くなりはじめるころである。

空気は重い。
草は濃く茂る。
水の匂いが立つ。
虫も、病も、湿り気も、もののけの気配も、どこか近くなる。

そう考えると、菖蒲と蓬の意味が変わってくる。

あれは、ただの季節の飾りではない。

香りの草である。
家を守る草である。
身体を守る草である。
湿った季節に近づいてくる邪気や病を祓うための草である。

現代の五月五日で読むと、「食わず女房」は少し昔話の由来譚のように見える。

けれど、旧暦五月五日、つまり六月の湿った空気に戻して読むと、物語の怖さが生々しくなる。

女房の頭に開いた口。
減っていく米。
山へ連れ去ろうとする異界の力。
それを退ける菖蒲と蓬。

すべてが、梅雨の草いきれの中で立ち上がってくる。

昔話は、旧暦に戻すと匂いを取り戻す。

これは、わたしにとって小さな発見だった。

昔話を読むとき、わたしたちはつい筋だけを追ってしまう。

誰が出てきたか。
何が起きたか。
どんな教訓があるか。

けれど本当は、そこには季節がある。
湿度がある。
草の匂いがある。
人々の身体感覚がある。

なぜ、その時期に菖蒲と蓬が必要だったのか。

それは、人々が目に見えないものを恐れていたからだと思う。

梅雨どきの湿気。
病。
虫。
水の匂い。
身体の重さ。
異界の気配。

そうしたものが近づいてくる季節に、人は香りの強い草で家を守り、身体を守った。

菖蒲と蓬は、祓いの草だった。

そして今年の暦を見ると、もうひとつ面白い重なりがある。

二〇二六年の旧暦五月五日は六月十九日。
旧暦五月十五日は六月二十九日。

その翌日、六月三十日は、現代の暦で行われる夏越の大祓である。

もちろん、厳密にいえば、古い形の夏越の大祓は旧暦六月晦日の祓いであり、現代の六月三十日とはずれがある。

けれど、現代の六月三十日に行われる夏越の大祓を、今年の旧暦感覚に置き直してみると、それは旧暦五月の半ば過ぎにあたる。

つまり、今年は菖蒲の節句から十日あまり後、まだ旧暦五月の湿った草いきれの中で、茅の輪をくぐることになる。

菖蒲。
蓬。
茅。

どれも草である。
どれも、祓いの草である。

菖蒲と蓬は、家と身体を守る。
茅の輪は、半年の穢れを祓い、夏を越えるためにくぐる。

そこからさらに旧暦六月へ入れば、京都では祇園祭の季節が近づいていく。

祇園祭は、華やかな山鉾巡行の祭として知られている。
けれど、その奥には疫病退散の祈りがある。

都に広がる疫を鎮めるための祈り。
見えないものを祓い、都そのものを守るための祈り。

こうして見ると、旧暦五月から六月にかけて、ひとつの流れが見えてくる。

旧暦五月五日、菖蒲と蓬で身体と家を祓う。
旧暦五月の半ば過ぎ、茅の輪をくぐって穢れを越える。
旧暦六月、祇園祭で都の疫を祓う。

現代のカレンダーでは、五月五日、六月三十日、七月の祇園祭は、別々の行事に見える。

けれど旧暦の身体感覚に戻すと、それらは梅雨から盛夏へ向かう、ひと続きの祓いに見えてくる。

菖蒲、蓬、茅、そして祇園の鉾。

京都の夏は、草の香りから始まっていたのかもしれない。

そう考えると、「食わず女房」の菖蒲と蓬も、単なる昔話の小道具ではなくなる。

それは、梅雨どきの闇に立てられた結界である。

女房の怪異を退ける草であり、病や湿気やもののけから人の身体を守る草であり、同時に、人間の暮らしと異界の境目に立つ青い祈りである。

わたしは、「食わず女房」をジェンダーや観測の物語として読んだ。

男は「食べない女房」を望んだ。
つまり、女をひとりの人間としてではなく、自分に都合のよい存在として見た。

その歪んだまなざしが、食わず女房という異形を引き寄せたのではないか。

そう読んだ。

けれど、旧暦の季節感を戻してみると、そこにもう一つの層が見えてくる。

これは、女の怪異だけの話ではない。

梅雨の身体の話でもある。
草の祓いの話でもある。
湿気と病と異界を、香りによって遠ざけようとした人々の暮らしの話でもある。

昔話は、暦を戻すと、身体を取り戻す。

五月五日という日付だけでは見えなかったものが、旧暦五月五日に戻した瞬間、ふっと立ち上がる。

重たい空気。
濃く茂る草。
水の匂い。
もののけの近さ。
菖蒲と蓬の青い香り。

それらが戻ってきたとき、物語はただの筋書きではなくなる。

生きた季節の中に置かれる。

そして、そこではじめて、昔話は本来の怖さと美しさを取り戻すのだと思う。

今年、旧暦五月五日は六月十九日。

その日、「食わず女房」の菖蒲と蓬を思い出してみるのもいいかもしれない。

梅雨の湿気の中で、草の香りが立つ。
女房の頭の口が開く。
男は逃げる。
菖蒲が揺れる。
蓬が匂う。

その十日あまり後には、茅の輪をくぐる季節が来る。
そしてその先には、祇園祭の鉾と囃子が待っている。

旧暦で見ると、京都の夏は、ただ暑さに向かっていく季節ではない。

祓いながら、夏へ入っていく季節である。

草の香りで身体を守り、輪をくぐって穢れを越え、祭によって都の疫を鎮める。

「食わず女房」は、その入口に立っている。

怖い昔話の顔をしながら、旧暦五月の闇の中で、菖蒲と蓬の香りを放っている。

昔話は、旧暦に戻すと匂いを取り戻す。

そしてその匂いは、今を生きるわたしたちの身体にも、そっと触れてくる。


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