鬼女とは、かつての巫女の影だったのか――『東アジアのシャーマニズム』から読む、仮面・追儺・昔話
「食わず女房」から始まった考察が、思いがけず、東アジアのシャーマニズムへつながってきた。
食べる女は怪物にされ、尽くす女は美談にされる。
「食わず女房」と「鶴の恩返し」を並べて読んだとき、昔話の奥に、女の身体に向けられた社会のまなざしが見えてきた。
女は食べてはいけない。
女は尽くすべき。
女は美しくあるべき。
老いた女は恐ろしい。
強すぎる女、有能すぎる女、正体のわからない女は、怪異として語られる。
けれど、そこでふと思った。
鬼女とは、本当にただの恐ろしい女だったのだろうか。
山姥とは、本当にただの異界の老女だったのだろうか。
食わず女房の頭に開いた口は、ただの怪異だったのだろうか。
もしかすると、その奥には、もっと古い「巫女」の記憶があるのではないか。
そんなことを考えながら、『東アジアのシャーマニズム』という本を開いていた。
そこには、東アジアに広がる仮面、追儺、鬼、巫、疫病除けの儀礼について書かれていた。
中国では、疫鬼を追い払うための追儺の儀礼があった。
宮廷や村落で、異形の姿をした者が鬼を追う。
その中心には、方相氏という存在がいた。
大きな目を持ち、異様な仮面をつけ、見えない鬼を探し出す者。
人々に代わって闇を見つめる者。
疫や死や穢れを、共同体の外へ送り出す者。
朝鮮半島にも、仮面をつけて踊る芸能や巫俗がある。
仮面は、ただ顔を隠す道具ではない。
人間の顔をいったん消し、人間の奥にあるものを表に出すための顔である。
怒り。
笑い。
老い。
欲。
死。
祈り。
神。
鬼。
仮面をつけることで、人は人でなくなる。
けれど、それは化け物になるということではない。
共同体が見たくないもの、恐れているもの、処理しきれないものを、一時的に引き受ける器になるということなのだと思う。
日本にも、その流れは渡ってきた。
鬼やらい。
節分。
追儺。
祇園の御霊会。
菖蒲と蓬の祓い。
茅の輪。
山姥。
鬼女。
そして、食わず女房。
これらは、ばらばらのようでいて、どこかでつながっている。
東アジアの湿った季節には、見えないものが近づいてくると考えられていた。
疫。
飢え。
戦の死者。
行き場を失った魂。
水の気配。
草の匂い。
そして、人の心の奥にたまった恐れ。
人々は、それらに姿を与えた。
鬼。
山姥。
妖狐。
虎女。
幽鬼。
食わず女房。
怪異とは、ただ外から来るものではない。
人間の社会が抱えきれなくなった恐れに、形を与えたものでもある。
ここで、女の怪異に目を向ける。
昔話や怪談には、恐ろしい女がたくさん出てくる。
山姥。
鬼婆。
狐女房。
蛇女房。
食わず女房。
彼女たちは、人間の暮らしの外からやってくる。
あるいは、人間の女房として家の中に入り込む。
最初は美しい。
よく働く。
よく尽くす。
けれど、どこかおかしい。
男が隠れてのぞくと、正体があらわれる。
頭の上の口で飯を食べていた。
狐だった。
蛇だった。
虎だった。
死者だった。
鬼だった。
この構造は、とても興味深い。
男は、女が何者であるかを知りたがる。
女は、見てはならないものを隠している。
男がそれを見た瞬間、関係は壊れる。
これは単なる怪談ではない。
そこには、「女の身体の奥にあるもの」への恐れがある。
食欲。
性。
老い。
霊力。
異族性。
知恵。
統治力。
共同体を動かす力。
そうしたものが、男や社会にとって扱いきれなくなったとき、女は怪異になる。
けれど、ここで問いたい。
その女たちは、最初から怪物だったのだろうか。
それとも、かつては共同体の恐れを引き受ける巫女だったのではないか。
巫女とは、見えないものと人間のあいだに立つ存在である。
神の声を聞く。
死者の声を聞く。
疫を祓う。
穢れを受け止める。
歌う。
踊る。
草をまとう。
仮面をつける。
その身体は、ただの個人の身体ではない。
共同体の不安を受け止める身体であり、見えないものを通す身体であり、祓いの場に立つ身体である。
だからこそ、巫女は強い。
人間でありながら、人間の外側に触れている。
女でありながら、家の内側だけに収まらない。
共同体の中心に立ちながら、異界にもつながっている。
この力は、ある時代には尊ばれたのかもしれない。
卑弥呼のような巫女王。
祭祀を担う女性。
葵や菖蒲や蓬や茅をまとう祓いの女。
共同体の穢れを受け止め、神と人のあいだに立つ女。
けれど、後の時代に、儒教的な家制度や性別役割が強まっていくと、そのような女の力は、だんだん扱いにくいものになったのではないか。
女は家の内側にいるべき。
女は従うべき。
女は慎ましくあるべき。
女は欲を持たないべき。
女は老いてもなお、静かに退くべき。
そうした規範の中では、巫女のように強い女、異界とつながる女、共同体の恐れを引き受ける女は、あまりに危険に見える。
すると、巫女は鬼女に変えられる。
祈る女は、怖い女にされる。
見えないものを扱う女は、得体の知れない女にされる。
共同体を守っていた女は、共同体から追われる女になる。
祓いを担っていた女は、祓われる側になる。
ここに、昔話の痛みがある。
食わず女房の頭の上の口は、ただの化け物のしるしではない。
それは、食べることを許されなかった身体の叫びである。
見られてはいけない欲望の出口である。
「わたしも生きている」と告げる、もうひとつの口である。
山姥の恐ろしい顔も、ただの醜さではない。
それは、共同体の外へ追いやられた老女の顔である。
山に置かれ、村から切り離され、それでも知恵と力を持ち続けた女の顔である。
鬼女の角も、ただの悪の印ではない。
それは、恐れられた力の印である。
扱いきれない女性の力に、社会がつけた仮面である。
『東アジアのシャーマニズム』を読んでいると、仮面というものが、とても大切に思えてくる。
仮面は、ただ正体を隠すものではない。
むしろ、正体をあらわすものである。
ふだんの顔では出せないものを、仮面は出す。
社会が抑え込んでいるものを、仮面は表に出す。
恐れ、怒り、悲しみ、欲望、死者の声、神の気配。
鬼の仮面をつける者は、本当に鬼になるのではない。
鬼という形を借りて、人々の恐れを引き受けている。
そう考えると、昔話に出てくる鬼女や山姥も、ひとつの仮面なのかもしれない。
社会が女にかぶせた仮面。
あるいは、女が社会の恐れを引き受けるために、かぶらされた仮面。
「お前は怖い」
「お前は欲深い」
「お前は食べすぎる」
「お前は老いている」
「お前は正体がわからない」
「お前は人間ではない」
そう言われ続けた女たちの顔が、鬼女や山姥として物語に残った。
けれど、法華経のまなざしで見るなら、そこで終わらせることはできない。
法華経は、固定された評価をほどく経典である。
女だから成仏できない。
悪人だから救われない。
異形だから仏ではない。
鬼だから外へ追うべき。
そうした線引きを、法華経は揺さぶる。
龍女は成仏する。
提婆達多にも未来の成仏が説かれる。
見下され、恐れられ、排除された者の中にも、仏性がある。
ならば、鬼女にも仏性はある。
山姥にも仏性はある。
食わず女房にも仏性はある。
追儺で追われる鬼の中にも、疫として恐れられたものの中にも、ほんとうは共同体が抱えきれなかった苦しみがあるのではないか。
もちろん、疫や災いをそのまま肯定するという意味ではない。
人は生きるために祓う。
病を避ける。
穢れを清める。
怖いものから身を守る。
それは大切な知恵である。
けれど、祓うという行為の奥には、いつも問いが残る。
何を祓っているのか。
誰を祓っているのか。
なぜ、その者は鬼と呼ばれたのか。
この問いを持たないまま昔話を読むと、鬼女はただ退治される。
山姥はただ怖がられる。
食わず女房はただ追い払われる。
けれど、その奥に巫女の記憶を見るなら、物語は変わる。
鬼女は、かつて祓いを担っていた女かもしれない。
山姥は、村の外へ追われた知恵の女かもしれない。
食わず女房は、食べることを禁じられた命の声かもしれない。
そして仮面は、恐怖の道具ではなく、忘れられた神事の顔になる。
東アジアのシャーマニズムは、鬼を退治する話だけではない。
鬼とされたものを、誰が引き受けてきたのか。
共同体の恐れを、誰の身体が受け止めてきたのか。
見えないものと人間のあいだに、誰が立っていたのか。
その問いを、わたしに差し出してくれる。
「食わず女房」を読み直してから、わたしの中で昔話の見え方が変わってきた。
怪物にされた女。
美談にされた女。
隠された女。
老いた女。
祓われた女。
去っていった女。
その奥には、かつて祈り、踊り、歌い、草をまとい、仮面をつけた女たちの記憶が眠っているのかもしれない。
鬼女とは、かつての巫女の影だったのか。
もしそうなら、昔話を読み直すことは、ただ古い物語を解釈することではない。
祓われた女たちの声を、もう一度聞くことである。
仮面の下にある命を見ることである。
怪物とされたものの中に、仏性を見出すことである。
昔話は、東アジアの祓いの記憶を抱えている。
そしてその記憶の奥には、巫女たちの身体がある。
わたしは、そこに耳を澄ませたい。
鬼の面の奥に。
山姥のしわの奥に。
食わず女房の隠された口の奥に。
まだ、語られていない女たちの声がある。
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