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最終回 救うとは、苦しみを全部なくすことなのか――『魔法少女まどか☆マギカ』から考える

※この記事は、『魔法少女まどか☆マギカ』テレビシリーズの内容に触れる部分があります。

『魔法少女まどか☆マギカ』の最後で、鹿目まどかは、世界そのものを変えます。

それまで、魔法少女たちは、願いを叶え、戦い、やがて絶望し、最後には魔女になる。

そんな仕組みの中にいました。

誰かを助けたい。

失ったものを、取り戻したい。

大切な人を、救いたい。

そんな願いから始まったものが、最後には、絶望へ変わる。

そして、自分自身が、誰かを傷つける魔女になる。

ずいぶん残酷な仕組みです。

まどかは、それを変えます。

過去も。

現在も。

未来も。

あらゆる時間。

あらゆる世界にいる魔法少女を、魔女になる前に、自分の手で救いたい。

その願いによって、世界の法則が変わります。

魔法少女は、もう、魔女にはならない。

ここだけ聞くと、世界は、救われたように見えます。

でも。

新しい世界にも、苦しみは残っています。

魔女はいなくなった。

でも、悲しみがなくなったわけではない。

憎しみも。

争いも。

死も。

別れも。

なくなってはいません。

魔獣が現れ、魔法少女たちは、やはり戦います。

傷つく。

疲れる。

力を使い果たす。

そして最後には、この世界から、姿を消していく。

さやかも、そうでした。

魔女にはなりません。

でも、ずっと生き続けられるわけでもない。

恭介への思い。

仁美への複雑な気持ち。

自分の願い。

いろいろなものを抱えながら、最後には、まどかに導かれていきます。

つまり。

まどかは、世界から、苦しみを全部なくしたわけではありません。

死をなくしたわけでもない。

悲しみも。

喪失も。

思い通りにならない人生も。

そのまま残っています。

それでも。

私たちは、まどかが、何も救えなかったとは思いません。

ここが、ずっと気になります。

救うというのは、いったい、何なのでしょう。

苦しみを、全部なくすことでしょうか。

もし、そうだとしたら。

私たちは、ほとんど誰も、救えないことになります。

病気の人に、寄り添うことはできる。

でも、必ず治せるわけではない。

大切な人を亡くした人の、話を聞くことはできる。

でも、亡くなった人を、戻すことはできない。

老いていく人を、支えることはできる。

でも、老いを止めることはできない。

死にゆく人のそばには、いられる。

でも、死そのものを、なくすことはできない。

そう考えると。

人間にできることは、ずいぶん少ない。

では。

治せなければ、寄り添う意味はないのでしょうか。

問題を解決できなければ、話を聞く意味もないのでしょうか。

苦しみを消せなければ、そばにいることなど、何の役にも立たないのでしょうか。

たぶん。

そうではありません。

まどかが変えたのは、苦しみのない世界ではありませんでした。

もっと限られたことです。

でも、その限られたことが、決定的でした。

希望を持ったことが、最後には、その人自身を怪物へ変えてしまう。

善いことを願った少女が、願ったがゆえに、最後には、その願いごと否定されていく。

その仕組みを、終わらせた。

苦しみは、残る。

悲しいことも、起きる。

それでも。

「願ったことそのものが、全部間違いだった」

というところまでは、落ちていかない。

ここに、私は、大きな違いを感じます。

さやかは、新しい世界でも、消えていきます。

でも、最後に、恭介のヴァイオリンを聞きます。

自分が願ったことで、恭介は、もう一度、音楽を奏でられるようになった。

その願いを、すべて否定して終わるわけではありません。

以前の世界では、その願いが、絶望に飲み込まれ、魔女という形にまでなりました。

でも。

新しい世界では、苦しみはあっても、

「私の願いは、全部間違いだった」

だけでは終わらない。

私は、ここに、救いというものを考える手がかりがあるように思います。

私たちは、

「救われる」

と聞くと、つい、問題がなくなることを想像します。

病気が治る。

悩みが消える。

家族が仲良くなる。

仕事がうまくいく。

不安がなくなる。

死ぬのが怖くなくなる。

もちろん、そうなれば嬉しい。

苦しみは、少ない方がいい。

避けられる苦しみなら、避けた方がいい。

変えられるものなら、変えた方がいい。

でも。

仏法を聞いたら、人生から、苦しみがなくなるのでしょうか。

そんなことはありません。

仏法を聞いていても、病気になります。

老います。

大切な人と、別れます。

腹も立ちます。

寂しくもなる。

不安にもなる。

思い通りにならない。

私自身も、たぶん、これからいろいろあります。

では。

苦しみがなくならないのなら、仏法には、何の意味があるのでしょう。

いやぁ〜。

これ、かなり大きな問いです。

念仏を称えたら、困りごとが消える。

信心を得たら、悲しいことが起きなくなる。

そんな話なら、分かりやすい。

でも、現実は、そうではありません。

ここで、まどかが変えた世界を、思い出します。

苦しみは、残っている。

でも。

苦しんでいるその人が、最後には、絶望そのものとして、捨てられてしまう世界ではなくなった。

私は、浄土真宗の救いも、どこか、そこに重なるように思います。

阿弥陀仏の本願は、私の人生から、病気をなくす約束ではありません。

老いをなくすわけでもない。

別れをなくすわけでもない。

死をなくすわけでもない。

私を、怒らない人間にしてくれるわけでもない。

迷わない人間に、変えてくれるわけでもない。

それでも。

この私を、見捨てない。

ここに、救いがあります。

私は、苦しむ。

迷う。

間違う。

腹も立つ。

大切な人を失う。

そして、いつか、自分も死ぬ。

それは、なくならない。

でも。

その私が、

「だから、もう駄目だ」

と、切り捨てられてはいない。

苦しんでいる私。

迷っている私。

何をしていいか分からない私。

死んでいく私。

その私にまで、すでに本願が届いている。

そう聞く。

救いとは、苦しみが全部消えることではなく。

苦しみの中で、一人にされないこと。

そんなふうにも、言えるのかもしれません。

もちろん。

苦しんでいる人を前にして、

「まあ、苦しみはなくならないから」

で済ませていいわけではありません。

そんなことを言われたら、私なら、たぶん腹が立ちます。

病気なら、治療する。

暴力を受けているなら、離れる。

生活に困っているなら、助けを求める。

変えられる苦しみは、変えた方がいい。

「苦しみも人生です」

なんて言って、我慢を押しつけるのは、仏法ではないでしょう。

でも。

どれだけ力を尽くしても、どうしても、なくせない苦しみがあります。

老い。

死。

別れ。

取り返せないこと。

もう会えない人。

過ぎてしまった時間。

そこでは、人間の力に、限界があります。

そんな時。

「解決できないなら、何もできない」

ではない。

そばにいる。

話を聞く。

名前を呼ぶ。

忘れない。

手を握る。

一緒に黙る。

それも、人にできることです。

私は、ここを、忘れやすい。

誰かから、つらい話を聞く。

すると、何か答えを出したくなります。

解決してあげたい。

元気にしてあげたい。

少しでも、楽にしてあげたい。

でも。

どうにもならないことがあります。

そんな時、役に立てない自分が、情けなくなる。

「何もできなかったな」

と思う。

でも。

本当に、何もできなかったのでしょうか。

答えは出せなかった。

苦しみも、消せなかった。

それでも、その人が話している間、そこにいた。

それだけだった。

でも、それだけが、大事な時もあるのかもしれません。

まどかは、魔法少女たちが、苦しまないように、人生のすべてを先回りして変えたわけではありません。

それぞれの少女は、それぞれの人生を生きる。

戦う。

傷つく。

そして、力尽きる時が来る。

でも。

その最後に、まどかは現れます。

一人で、絶望の中へ落ちていかなくていい。

その姿が、とても印象に残ります。

苦しみを、全部なくす。

それができなくても。

最後まで、見失わない。

ここには、何か、仏法と響くものがあります。

阿弥陀仏の本願には、

「摂取不捨」

という言葉があります。

摂め取って、捨てない。

私は、この言葉を聞くたび、救いというものを、少し考え直します。

苦しみがなくなったから、見捨てられていないのではない。

立派になったから、見捨てられていないのでもない。

苦しんでいる、その私が。

迷っている、その私が。

煩悩だらけの、その私が。

摂め取られて、捨てられない。

ここが、大事なのでしょう。

このシリーズでは、いろいろな人間の姿を見てきました。

マミは、強くいようとして、孤独になりました。

さやかは、善くありたいと思いながら、善くなれない自分を、追い詰めました。

杏子は、もう誰のためにも生きないと決めながら、最後まで、誰かを捨て切れませんでした。

少女たちは、十分に知らされないまま、

「自分で選んだ」

ことにされました。

キュゥべえは、悪意がないまま、人を傷つけました。

ほむらは、まどかを救いたいあまり、救うということに、自分自身まで縛られていきました。

そして、まどかは、多くの魔法少女を救うために、自分自身を差し出しました。

誰も、きれいではありません。

善意の中に、自分が混じる。

愛の中に、執着が混じる。

正しさの中に、思い込みが混じる。

弱さもある。

欲もある。

怖さもある。

それが、人間です。

そして。

この物語の最後にできた世界も、完璧ではありません。

苦しみのない世界ではない。

誰も死なない世界でもない。

すべてが、きれいに解決した世界でもない。

それでも。

絶望した人が、最後まで、一人で捨てられる世界ではなくなった。

私は、そこに、この物語の救いを見るような気がします。

仏法もまた、私を、完璧な人生へ連れていく教えではないのでしょう。

むしろ。

完璧になれない私。

いつまでたっても、迷う私。

同じことで、何度もつまずく私。

その私が、見捨てられてはいないと聞く。

南無阿弥陀仏。

それは、苦しみが全部消えた人の言葉ではありません。

苦しみの中で。

迷いの中で。

それでも、私は一人ではなかったと、聞いていく言葉なのだと思います。

夜。

どうにもならないことを、考えることがあります。

もう戻せないこと。

助けられなかった人。

今も苦しんでいる人。

自分では、どうにもできないこと。

考えていると、部屋だけが、静かになります。

そんな時。

全部解決しなくてもいい。

いや。

本当は、解決できないのかもしれない。

それでも。

見捨てないことはできる。

忘れないことはできる。

そばにいることはできる。

そして。

私自身もまた、どうにもならない私のまま、見捨てられてはいない。

救うとは、苦しみを全部なくすことなのか。

たぶん、それだけではありません。

苦しみを消せなくても。

悲しみをなくせなくても。

その人を、一人にしない。

そして。

苦しんでいるその人を、最後まで、見失わない。

そんな救いも、あるのでしょう。

苦しみがあるから、救われていないのではない。

苦しんでいる、その私にこそ、すでに呼びかけは届いている。

南無阿弥陀仏。

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