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私が凡人だからこそ気付いた音楽の真実(第二章)~想定外だらけの人生~

まず、初めに重要なお知らせです。

記事<音楽は果たして「エンタメ」として考えて良いのか?>のタイトルを変更させて頂きます。
新しい記事タイトルは<「音楽」は果たして「エンタメ」なのか?~「アート」がなぜ「まなび」に?>と致します。
タイトル変更の理由は、この問題を継続して提起したいからです。ご了承頂きます様お願い申し上げます。

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【記事本文】

Uターンして最初に就いた仕事は派遣会社の仕事でした。
それは日本ビクター(株)のビデオヘッド製造工場でした。しかし、派遣社員ですから有期雇用の半年間で解雇されてしまったのです。

そこで新たに見つけた仕事が業務用BGMを手掛ける「東洋ビージーエム株式会社(現・東洋メディア・リンクス株式会社)」のフランチャイズ会社だったのです。

この会社ではBGMソフトのレンタルを中心に、ハードウェアも含めて施工から販売まで幅広く手掛ける会社でした。

そこで入社後1年が過ぎたある日、私から会社にある提案をしたのです。コンサート企画の制作・販売はどうかと。
すると、意外にも簡単にOKが出たのです。

そこで私はこの「コンサート企画」中心に営業をする事になったのです。
ここで、旧知の一村音楽企画(株)に協力をお願いしたのです。快く引き受けてくれたお陰でスムーズに準備が出来たのです。

内容は、学校の音楽鑑賞会からイベント・コンサートまで規模も大・中・小様々です。これで県内をくまなく営業して回ったのです。中にはもちろん自分自身で企画したコンサートもあります。同時に、そのための販促用ビデオの編集・制作やビデオCDの制作も行いました。

しかし、その後僅か数年で平成不況の影響からか会社そのものの存続危機に陥り、解雇となってしまったのです。

万事休す。途方に暮れた私は、一村さんに「これこれしかじかで、もうこちらでは続けられなくなりました」と事の顛末を伝えました。すると、一村さんから「じゃぁ、また東京に来ない?」と誘われたのです。

簡単に言えば、私はその言葉に甘える事にしたのです。

そして、ビクターアークス(株)に出向という形で、再び新たな職に就く事になったのです。一度は去ったはずの東京で、再び回り始めた運命の歯車。

しかし、わずか1年後に体調を崩してしまい、またもや故郷へのUターンとなってしまった次第なのです。一村さんには本当に申し訳なく思っています。

原因は「胆石」でした。そして入院、手術をして回復、新たな仕事を探し求めた次第です。

そこで何とか探して見つけた仕事が、畑違いの強電の仕事だったのです。だから強電の仕事で現場はコロコロ変わったのです。一つだけ従事して良かった事があります。それはAutoCADというPC用CADソフトを使い回せた事です。そんな仕事にも、季節労働者同様に空白期間がありました。

そこで、中・高時代からの旧知の親友に相談してみたのです。そこで彼が経営するレジャーホテルで働く事となったのです。

しかし、音楽関連の仕事もこれが最後のチャンスと思って、新たに仕事を探す事を決めたのです。

ところがそこで東日本大震災が起こってしまったのです。

東日本大震災で、世間は「音楽」どころではありません。
しかし、私は次の仕事も見通せないまま、既に仕事を辞める事を告げていたので戻る事は出来ません。

退路は完全に断たれ、世の中は未曾有の大災害の混沌のなか。仕事も, 行き場も、そして世間から音楽の居場所さえ消えかけたようなあの極限の孤立無援のなかでしたが、そこからの1年間は、県の「絆事業」に就くことができ、何とか生計を凌ぐ事が出来たのです。

そうした苦しい間にも、彼(中・高時代の親友)は私のことを心配して、時々連絡をくれるのでした。その後も彼が紹介してくれる仕事で凌ぐ事が出来たのです。

震災の混沌のなかで私を支え続けてくれた、県の仕事、環境、そして変わらぬ親友の温かい絆。何とか生計を凌ぎながら、激動の日々がようやく落ち着きを見せ始めた、2018年の事です。突然、彼からの連絡が途絶えたのです。私は彼から音沙汰がないという事は元気なのだろうと勝手に思い込んでいたのです。

翌2019年、運送会社に職を見つけて働き出したのですが、10月、大型台風によって自宅は水没被災し、避難所で緊迫した生活を余儀なくされている最中の事でした。旧知の知人に電話でそれとなく最近彼から連絡無いんだけどどうしているか知っている?と尋ねてみたのです。直後の返事が「え?マジ?知らないの?…」

――突然の事故死だったのです。

今でも時々彼が夢に出てくるほどです。避難所という極限の場所で突きつけられた、最愛の親友のあまりにも突然すぎる永遠の別れ。大震災、度重なる体調不良と天災の荒波、そして親友の命の終わり。

年が明け、仮設住宅での新たな生活が始まりました。約3か月で自宅を修繕して戻る事となりました。

あまりにも過酷な運命の底で、しかし、私はただ絶望に暮れるのではなく、「生まれ育ったこの郡山市の現状に対して、今の自分にできることは何かないだろうか」と、改めて立ち上がる決意をしたのです。

新しい仕事を捜しながらの模索です。

そこで考えたのが、「楽都郡山」に対する私なりの具体的計画の立案でした。その一つの答えが、クラウドファンディングで計画した「コミュニティ音楽カフェ」だったという事です。

実はこの計画中にも、私は様々なことを考えていました。華やかな「音楽フェス」というのは、結局のところ、出演者とその関係者が自らの欲求を満たすために求めているものに過ぎないのではないか、という強い疑問を感じたのです。

当時はまだ、明確な隠された真実の存在にまで気づいていませんでしたが、私たちが日常の中で、手軽で身近に触れられる音楽環境が圧倒的に足りていないんじゃないか?と本気で思ったのです。

つまり、お祭的な「音楽フェス」ではなく、「もっと大切な空間」が必要だと思ったのです。そして出した答えが「コミュニティ音楽カフェ」だったという事です。

しかし、世間の価値観は「コミュニティ音楽カフェ」と言う身近な存在ではなく、一時的なお祭騒ぎの「音楽フェス」でした。つまり、足元を固める重要性よりも、瞬間だけでも目立つ存在への期待の方が大きいという現実だったのです。

そこで、本当に必要で大切なものは何かという事を、本気で考え続けたのです。

音楽を愛する街のために魂を懸けて作った計画と、一過性の熱狂を求める世間との冷酷なギャップ。この大きな違和感の中で、しかし、私の人生の全て
のピースが一本の線に繋がり、ついにあの『究極の(音楽の)真実』へと覚醒する瞬間が訪れます。

舞台は激震を乗り越え、ついに私の内面の最深部へ。天才すら気付かない『人が音楽を好きになるプロセス』の正体とは一体何なのか。驚濤の第三章は、次回のマガジンでじっくりと紐解いていきたいと思います。

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なお、マガジン『音楽の本質』内の記事を併せてお読み頂けると幸いです。



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