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【バッハ「マタイ受難曲」】復活させたのは、二十歳のメンデルスゾーン

ご存じでしたか?
マタイ受難曲は、百年ほど人前で鳴っていなかった
ということを‥

バッハは今、音楽の父と呼ばれます。
けれど亡くなったあとしばらくの間、その呼ばれ方はずいぶん違っていました。

オルガンの腕がすごかった人。
少し古い書き方をする人。

そして意外なことに
作曲家としては、時代に置いていかれた側の人だったのです。

名前が消えていたわけではありません。

ハイドンは平均律クラヴィーア曲集の写しを持っていましたし、ベートーヴェンは11歳までにそれを全曲弾いています。
バッハのことを「和声の始祖」と呼んだのも、そのベートーヴェンでした。

知られてはいました。
ただ、聴けなかったのです。

鍵盤の曲は弟子や息子たちの手で伝わっていきましたが、合唱と管弦楽を使う大きな曲は、人前で鳴らされることがなくなっていました。

楽譜も出版されていません。
マタイ受難曲もそのひとつで、バッハ自身が指揮していた時代を最後に、百年ほど誰も聴いていない曲になっていました


楽譜を受け取ってから、上演まで5年かかった


その楽譜を持っていたのが、フェリックス・メンデルスゾーンでした。
祖母から贈られたもので、受け取ったのは彼が15歳のとき。

すぐに演奏したわけではありません。
5年が経っています。

20歳になったころ、歌い手で俳優でもあったエドゥアルト・デヴリエントが、これを人前でやろうと持ちかけました。
今生きている人間で、これを指揮できるのはあなたしかいない。
そんなふうに言ったと伝えられています。

二人が掛け合いに行った相手は、カール・フリードリヒ・ツェルターでした。
ベルリンの合唱団を率いる重鎮で、バッハの自筆譜の写しを持っていた人です。

そして実は、その14年ほど前から、団員たちとこの曲をさらっていました。誰よりも先にこの曲に手をつけていたのは、ツェルターのほうだったのです。

それでも、人前に出すことには首を縦に振りませんでした

君たちのような若造にできると思うのか。
最初はそう言って断ったと伝えられています。
100年鳴っていない曲を、しかも3時間の宗教曲を、20歳の若者が振るのです。

何が決め手になったのかは、伝わっていません。
ただ、ツェルターは合唱団とホールを貸しました。
1829年3月11日、メンデルスゾーンは指揮台に立ちました。


メンデルスゾーンは、この曲を半分に切った


ただし、その日に鳴ったのはバッハが書いたままの曲ではありません。
メンデルスゾーンは楽譜に手を入れて、半分ほどに切りつめたと言われています。アリアがいくつも落とされました。

そのなかに
「愛ゆえに、わたしの救い主は死のうとしている」
という歌があったと言われています。

ソプラノがひとりで歌う短いアリアで、伴奏はフルートとオーボエだけ。
低い音を出す楽器がひとつも入りません。
歌もフルートもオーボエも、同じくらいの高さに並びます。
足元がないまま音楽が進んでいく、不思議な作りの曲です。

当時のベルリンで、バッハは乾いた数学者のように見られていました。
理屈っぽくて、大勢に聴かせるものではない、と。
3時間そのまま鳴らしていたら、客席は最後まで持たなかったかもしれません。

まるで、誰かに本を薦めるとき、全部読んでほしいとは言わずに、まずこの一章だけ、と渡す。あの時のように。

渡さなかったページが消えるわけではありません。
気に入った人が、あとから自分で戻ってきます。


その晩、鳴らなかった曲を聴いてみる


会場は満席になりました。
入れなかった人が大勢いて、10日後に再演が組まれています。
その日はちょうど、バッハの誕生日にあたる日だったそうです。

そして翌年、マタイ受難曲の楽譜が出版されました。
100年のあいだ、聴きたくても手立てのなかった曲が、そこでようやく人の手に渡るものになります。
今わたしたちが録音でも配信でもこの曲を選べるのは、この順番があったからです。

もし今日、バッハを一曲だけ選ぶなら‥
あの晩には演奏されなかった「愛ゆえに、わたしの救い主は死のうとしている」をぜひ聴いてみてください。

きっと、あなたの心に響く何かがあるはずです。


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