見出し画像

ベートーヴェンの「運命」。この名前の由来をたどると一人の怪しげな人物に行き着きます

「運命」という名前の由来

ジャジャジャジャーン。
あの有名な四つの音を、一度も聞いたことがないという人は、たぶんいないのではないでしょうか。

ベートーヴェンの交響曲第5番、通称「運命」

この名前の由来としてよく語られるのが、「運命はこのように扉を叩く」という言葉です。ベートーヴェン自身がそう語った、という逸話として知られています。

けれど、この名前の由来をたどっていくと、根拠は思いのほか細く、ある一人の人物に行き着きます。

彼の名は、アントン・シンドラー。

ベートーヴェンの晩年に助手として働き、その死後に伝記を書いた人物です。
「運命が扉を叩く」という言葉は、シンドラーが自著のなかで、自分がその場に居合わせて聞いたものだ、として紹介したものでした。


その証言は、少し心もとないのです


同時代の他の記録には、この言葉は出てきません。
1809年に出版された交響曲第5番の楽譜にも、「運命」に相当する副題は付けられていなかったとされています。
この曲はもともと、ただの「交響曲第5番ハ短調」として世に出たようです。

おまけに、このシンドラーという人、後世の研究者たちからは「あまり評判のよくない証人」として知られています。

ベートーヴェンとの筆談記録である「会話帳」に、死後、いくつもの偽の書き込みを加えたのではないかと、複数の音楽学者から指摘されているのです。
ある音楽学者は、彼の書き残したことについて「他の証拠で裏づけられない限り、そのまま事実として受け取れない」と苦笑い混じりに評価しているほど。

そう、証人はたった一人。
しかも、ちょっと困った嘘つきだったかもしれないのです。

もちろん、シンドラーが嘘をついていたと決めつけることもできません。
この点は研究者の間でも見方が分かれています。

ただ、あの有名な逸話が、たった一人の、しかもあまり信用のおけない証言だけに支えられているというのは、名前の由来としてはいささか心もとない話です。

そしてこの逸話だけでは、もうひとつの謎が説明できません。
なぜ、日本でだけこんなに「運命」という名前が定着しているのか、という謎です。


「運命」という名前が日本に根づいた理由


実はドイツ語圏でも英語圏でも、「運命」にあたる呼び方はそこまで一般的ではないようです。
楽譜やCDの表記で見かけることも滅多にないのです。

ところが日本だけは、まるで正式なタイトルであるかのように「運命」という言葉が定着しています。

言われているのは、昭和のはじめごろ、国産レコードが普及していく時期に、この呼び名が広まっていったということです。

専門誌の記事などを通じて紹介され、レコードの宣伝文句として使われるうちに、いつのまにか誰もが知っている名前になっていきました。

作曲家自身がつけた名前でも、初演のときから呼ばれていた名前でもなく、レコードという新しいメディアの普及とともに、後から根づいていった名前だったようです。

あだ名やキャッチコピーが、本人の知らないところで独り歩きしていくのと、どこか似ています。
学生のころ、誰かがふと付けたあだ名。
由来はとうに忘れられているのに、呼び名だけは今も残っている。

「運命」という名前も、そんなふうにして今の私たちのもとに届いているのかもしれません。


この名前を知ってから、もう一度聴いてみると


「運命」という名前は、ベートーヴェンがつけたものでも、初演のときからあったものでもなく、たった一人の心もとない証言をきっかけに語り継がれ、昭和の日本でレコードとともに定着していった名前だったようです。

今度、あの「ジャジャジャジャーン」が聞こえてきたら。

この名前がたどってきた、少しお茶目で愛おしい道のりを思い出してみてください。
いつもの激しい四つの音が、ほんの少しだけ違った響きで、あなたの心に届くかもしれません。


【無料メールマガジン配信中】

あなたの日常に寄り添う『シーン別クラシック選曲プレイリスト』も配布しています
(※現在準備中。9月中旬より配信予定)


いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集