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大西洋を渡ったアフリカとカリブ海の音楽文化: 断絶、再編、往来

大西洋奴隷貿易によって、アフリカの人々は何世紀にもわたり南北アメリカへ強制的に運ばれた。大西洋奴隷貿易の研究データベースSlaveVoyagesの推計では、1501年から1866年までに船に乗せられた人は約1,252万人、そのうち到着した人は約1,070万人にのぼる。航海中に亡くなった人も多く、到着後にはさらに売買と移送が続いた。

奴隷船ブルックス号の船内収容を示した1787年の図
大西洋奴隷貿易廃止運動の印刷物として広く複製された
Printed by James Phillips / British Library Asia, Pacific and Africa Collections /
Wikimedia Commons / Public Domain

連れ去られた人々は、家族、言語、仕事の技能、信仰だけでなく、歌い方、踊り方、楽器を作る知識も持っていた。ただし、それらが「アフリカ音楽」という一つの形で運ばれたわけではない。出身地によって言葉も音楽も異なり、同じ共同体の人々が同じ場所へ着ける保証もなかった。

大多数の人々が到着したのは、後に米国となる北米本土ではなく、ブラジルとカリブ海を含む地域だった。そこで生まれた音楽文化も、人々の移動とともに海を渡り、北米へ伝わっていった。後の黒人音楽へつながる歴史は、アフリカの音楽がそのまま米国へ伝わったのではなく、各地に移された人々が新しい環境の中で音楽を組み直し、それがカリブ海や北米のあいだを行き来する中で形づくられていった。



異なる言葉と音楽を持つ人々が連れ去られた

SlaveVoyagesでは、アフリカ側の出航地をセネガンビア、ベニン湾、ビアフラ湾、西中央アフリカなどの地域に分けている。セネガンビアは現在のセネガル川とガンビア川の周辺、ベニン湾とビアフラ湾は現在のガーナ東部からナイジェリア、カメルーン方面に連なる沿岸部である。これらは船が人々を乗せた地域の区分であって、一つの民族名ではない。

沿岸へ連行された人々の故郷はさらに内陸まで広がり、多数の言語と社会があった。歴史や家系を歌で伝える人、儀礼で太鼓を受け持つ人、踊りを導く人、弦楽器を作る人もいた。声を掛け合う歌や複数のリズムを重ねる演奏は、多くの地域で見られたが、その使い方や意味は社会ごとに違った。

1820年代初頭、現在のシエラレオネ周辺で記録された音楽家。左はソリマナ、右はクランコの音楽家で、それぞれ弦楽器を演奏している。
アレクサンダー・ゴードン・レイング『Travels in the Timannee, Kooranko, and Soolima countries, in Western Africa』(1825)より
Wellcome Collection / Public Domain

売買の途中で家族が分けられ、同じ言葉を話す人々も別々の船や農園へ送られた。歌を先導する人がいても、それに応える仲間がいない。楽器の作り方を覚えていても、同じ材料が手に入らない。儀礼の日取りも、集まる時間も、所有者や植民地の規則に左右された。

それまでと同じ歌を同じ場で続けることはできなくても、声の出し方、拍の取り方、楽器を作る手順は、人の記憶と身体に残った。後に各地で見られる共通した特徴の中には、故郷から受け継がれたものだけでなく、異なる出身の人々がともに音楽を作るなかで生まれたものもあった。


カリブ海を含む新大陸で、音楽が組み直される

ブラジルやカリブ海では、砂糖を中心に、地域によってコーヒーやタバコ、綿花などの商品作物を生産する農園が広がり、大勢の労働力が求められた。ポルトガル、スペイン、英国、フランス、オランダなどの植民地経済は、奴隷化されたアフリカ人の売買と強制移送を拡大させた。

島や沿岸部ごとに、支配する国、使われる言語、宗教、奴隷化された人々と自由人の人口比は異なった。日曜の市場や祝祭で演奏や踊りが行われる場所もあれば、太鼓や夜間の集会を取り締まる場所もあった。カトリックの聖人崇敬や祭礼と結びつきながらアフリカ系の信仰が姿を変えた地域もあれば、プロテスタント教会による改宗や宗教教育のもとで礼拝が管理された地域もあった。置かれた環境によって、受け継ぐことのできた歌や儀礼の形も異なった。

1836年のジャマイカで見たジョン・カヌー祭の楽隊を、アイザック・メンデス・ベリサリオが描いた図。バスドラム、グンベイと呼ばれる箱型の太鼓、馬の下顎骨を使った楽器が演奏されている。
Wikimedia Commons / Public Domain

そのため、カリブ海にはアフリカ音楽の保存版が一つできたのではない。アフリカ生まれの人、島で生まれた子孫、先住民社会の生存者、ヨーロッパ出身者が、同じ植民地の不平等な関係のなかで暮らし、言葉、舞曲、楽器、宗教を組み替えた。そこから島ごとに異なる音楽文化が育った。

港には、奴隷化された人々のほか、奴隷身分ではない黒人や混血の自由有色人、船員、兵士、商人も出入りした。人々の移動とともに、歌や踊り、楽器の習慣もカリブ海と北米のあいだを行き来した。ただし、その往来がすべて自由な交流によるものだったわけではない。商人や船員のように自ら移動する人々がいる一方、奴隷化された人々は売買や所有者の移動によって強制的に運ばれた。音楽文化の往来には、こうした異なる形の人の移動が重なっていた。


北米で、歌う場そのものが作り直される

17〜18世紀、現在の米国東部では、チェサピーク湾岸のタバコ農園、サウスカロライナとジョージアの米作地帯、都市の港や家庭などで、奴隷化されたアフリカ人とその子孫が働かされた。白人の舞踏会でフィドルを弾かされた人もいれば、黒人共同体の祝い、葬送、礼拝で歌や踊りを担う人もいた。

同じ人が複数の場を行き来するなかで、英語の歌詞、プロテスタントの賛美歌、ヨーロッパのフィドルや舞曲に触れながら、自分たちの声の掛け合い、反復、即興、手拍子や足音を加えた。植民地によっては太鼓や黒人の集会が制限され、身体を手で打ってリズムを作るパッティング・ジューバや床を踏む音が、打楽器の役目を担った。

『The Sabbath among slaves』(1849)
踊る人々やバンジョーを演奏する姿を描いた、奴隷制期の米国の挿絵
Wikimedia Commons / Public Domain

一人が歌いかけ、周囲が短い言葉で応える形なら、全員が長い歌詞を覚えていなくても歌に加わることができる。同じ型を繰り返すことで、労働や踊りの動きに合わせて歌を長く続けることもできた。そこに手拍子や足踏みが重なれば、太鼓がなくても複雑なリズムが生まれる。

コール&レスポンスや反復は、ヨーロッパの歌にも見られ、似た技法があるだけで、その起源を一つに決めることはできない。北米の黒人音楽を特徴づけたのは、そうした技法だけではなく、監視された労働や礼拝のなかで、それらをどう組み合わせたかだった。後の音楽に受け継がれたのも、特定の一曲というより、その場の人数や状況に合わせて歌やリズムを作り変えていく方法だった。


バンジョーがカリブ海と北米で形になる

1680年代のカリブ海には、奴隷化されたアフリカ人が、ひょうたんの胴に皮を張った撥弦楽器(はつげんがっき:弦をはじいて演奏する楽器)を弾いたという記録がある。西アフリカには、同じように皮を張った胴と棹を持つリュート型の楽器が多数あるが、現代のバンジョーと同じ完成品が船で運ばれたわけではない。

新しい土地で手に入るひょうたん、木、動物の皮を使い、西アフリカ系の楽器作りの知識をもとに、北米やカリブ海で接したほかの弦楽器文化の影響も受けながら、新しい楽器が形になっていった。当時の記録に残る初期型には、胴まで伸びる三本の長い弦と、棹の途中から張る短い親指弦を持つものがある。呼び名も banza、banjar、banjo などさまざまだった。

1785〜1790年頃のサウスカロライナを描いた《The Old Plantation》には、ひょうたん胴の弦楽器を弾く黒人奏者がいる。

1780年代のサウスカロライナを描いた《The Old Plantation》
踊る黒人たちと、ひょうたん胴の弦楽器を演奏する姿が描かれている
作者はジョン・ローズとされる
Wikimedia Commons / Public Domain

17世紀の最初期の記録から1830年代まで、バンジョーは黒人の楽器として知られていた。

一方、ヨーロッパから北米へ渡っていたフィドルも、白人だけが演奏する楽器ではなかった。奴隷制下の黒人奏者は、白人の舞踏会でフィドルを演奏させられることがあり、同時に黒人共同体の踊りでも弾いていた。

19世紀には、ヨーロッパ由来のフィドルと、アフリカ系の楽器文化を背景にカリブ海と北米で形になったバンジョーが、ともに黒人の踊りの場で鳴っていた。

やがて白人演者はバンジョーをブラックフェイスのミンストレル・ショーへ取り込み、黒人の姿や言葉を誇張して演じる舞台の中で商品化していった。

その過程でバンジョーは白人の聴衆へ急速に広まる一方、黒人の手によって作られ、演奏されてきた背景は次第に見えにくくなっていった。後には、白人農村の古い伝統を象徴する楽器として語られることさえ多くなる。

黒人と白人の奏者は地域の踊りや仕事の場で互いの曲を耳にし、同じ曲を異なる奏法で弾くこともあった。こうした接触は、後のレコード会社が音楽を人種別の市場へ分けるよりずっと前から、北米の音楽文化が複数の人々の接触の中で作られていたことを示している。


ハイチとキューバからニューオーリンズへ

ニューオーリンズは1718年にフランス植民地の都市として築かれ、スペイン統治を経て1803年に米国へ組み込まれた。フランス語圏のカトリック文化、奴隷化された人々、自由有色人、後から来た英語話者が、同じ都市の中で暮らした。

18世紀半ばには、黒人が日曜日に市街地の外へ集まり、市場や踊りを行っていた記録がある。1791年にフランス植民地サン=ドマングでハイチ革命が始まると、植民者、自由有色人、奴隷化された人々が戦乱のなかで各地へ移動した。その一部はキューバへ渡り、1809年にスペイン当局から追放されると、1809〜1810年に約9,000〜10,000人がニューオーリンズへ流入した。移動を自分で決めた人と、所有者に伴われた人が同じ船に乗っていた。

1817年、市は奴隷化された人々の踊りや集まりを日曜日に限り、場所も市長が指定する公共の場所へ制限した。その中心となったのが、後にコンゴ・スクウェアと呼ばれる広場だった。

1819年、建築家ベンジャミン・ラトローブはここを訪れ、太鼓や弦楽器、踊りの様子を日誌とスケッチに残している。

1819年、ベンジャミン・ラトローブがニューオーリンズで記録した太鼓
コンゴ・スクウェアを実際に訪れた際のスケッチである。
Wikimedia Commons / Public Domain

広場には奴隷化された人々と自由有色人が集まり、品物を売買し、人と交流し、音楽や踊りを楽しんだ。ただし、そこは自由を認められた場所だったわけではない。集まる場所や時間は市によって制限され、次第に警察の監視や規制も強まっていった。

19世紀前半のコンゴ・スクウェアを描いたE・W・ケンブルの挿絵(1886年)
現場を直接描いたものではなく、数十年後に制作された再構成図
Wikimedia Commons / Public Domain

1840〜50年代になると、都市の変化や規制の強化によって日曜日の集まりは次第に縮小し、1850年代末には公の踊りの場としてほぼ姿を消した。

その音楽がそのまま19世紀末から20世紀初頭のニューオーリンズ・ジャズへ受け継がれたと確認することはできない。それでも、アフリカやカリブ海にルーツを持つ音楽と踊りが公の場で続けられた歴史は、後にこの都市からさまざまな音楽が生まれる背景の一つになった。


ジョージア沿岸で輪になって歌う

米国南東部の海岸と島々には、西・中央アフリカから奴隷化された人々の子孫が暮らし、英語とアフリカ系の言語が交わって生まれたクレオール言語と、独自の文化を育てた。こうした人々は現在、ガラ・ギーチーと総称され、伝統的にはサウスカロライナではガラ、ジョージアやフロリダではギーチーと呼ばれることが多い。

ガラ・ギーチーの宗教文化で受け継がれてきた音楽のひとつに、リング・シャウトがある。1845年には、その様子を見た人による記録が残されている。先導する人が短く歌いかけると周囲が応え、参加者は輪になって、反時計回りにすり足で進んでいく。そこに手拍子や足音が重なり、棒で木の床を打つ音がリズムを支える。

聖書の物語やキリスト教の賛美を歌いながら、そこにはアフリカ系の踊りや集団で歌う文化も取り入れられていた。ただし、それは異なる二つの文化が自由に交わって生まれたものではなく、奴隷制の監視のもとで形づくられたものだった。一方で、白人教会から与えられた歌を、ただ受け身で繰り返していたわけでもない。参加者は声を掛け合い、身体を動かしながら礼拝に加わり、そのなかで互いの結びつきを確かめていた。

参考音源:The McIntosh County Shouters『Spirituals and Shout Songs from the Georgia Coast』(2017)

ジョージア沿岸で受け継がれてきたリング・シャウトを現在に伝えるマッキントッシュ・カウンティ・シャウターズの録音。19世紀の演奏をそのまま再現したものではなく、世代を越えて継承されてきた現在の演奏。


奴隷制下の歌が大きな歌集になる

南北戦争が終わり、米国で奴隷制が廃止されてから二年後の1867年、『Slave Songs of the United States』が刊行された。
サウスカロライナのシー諸島をはじめ、米国南部の黒人住民から聞き取った歌を五線譜に書き起こしてまとめた、初期の重要な歌集である。

歌は農園や仕事の場、家庭、礼拝、共同体の集まりの中で長く歌われていた。しかし、実用的な録音・再生技術はまだなく、その歌声を音として残すことはできなかった。

採譜者たちは、耳で聞いた歌を西洋式の記譜法で書き留めた。

『Slave Songs of the United States』(1867)に収録された「Nobody Knows the Trouble I've Had」の楽譜
Wikimedia Commons / Public Domain

声のざらつきや音程の揺れ、手拍子や足音との細かなずれ、同じ言葉やフレーズを繰り返しながら少しずつ変えていく歌い方、その場に応じて歌の長さや形を変えていく即興性。
一回ごとの演奏の中で生まれるこうした要素は、楽譜だけから完全に読み取ることはできない。

同じ頃から20世紀にかけて録音技術が広がり、ようやく声の響きやリズムそのものも記録されるようになった。しかしその頃には、奴隷解放後の社会、黒人と白人を分ける人種隔離制度、教会や学校の変化、人口移動などによって、黒人社会そのものも大きく変化していた。そうした録音から、それ以前の音をそのまま逆算することはできない。

20世紀の録音などには、広い土地で一人の声を響かせるフィールドハラー、労働の動きをそろえながら歌われるワークソング、礼拝や共同体の中で育ったスピリチュアルなど、異なる場で育った歌唱文化が残されている。

これらは、アフリカから運ばれた一つの音楽が、そのまま別々のジャンルへ枝分かれしたものではない。

大西洋を越えた強制移住によって文化が断ち切られ、異なる出身地の人々が出会い、カリブ海や北米で新しい社会に置かれ、ヨーロッパ系の宗教や楽器とも接触する。その何世代にもわたる再編の中から、それぞれ異なる場所と目的を持つ音楽が生まれていった。

同じ歴史の中から、キューバ、ジャマイカ、ブラジルをはじめとする地域にも、それぞれ異なる音楽文化が育っている。それらは、後になって米国音楽へ影響を与えた脇役ではなく、それぞれ独自の音楽文化を育ててきた地域である。カリブ海と南北アメリカにはそれぞれの音楽の中心があり、人の移動や港町での交流、興行、そして後にはレコードを通じて、互いの音楽が行き交っていくことになる。

こうして記録に残されるようになった北米の黒人の歌声も、そうした長い大西洋世界の歴史の中から生まれてきた。



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