ルイ・アームストロング前史
※ 見出し画像は、ニューオーリンズ(1900年代初頭)の街並みを描いた鳥瞰ポストカードからトリミングしたもの
コルネット少年が、まだ世界を知らなかった頃
1901年、ニューオーリンズ。
のちにバック・オブ・タウンあるいはバトルフィールドと呼ばれることになる、街の外れの貧しい黒人街の一角に、ひとりの男の子が生まれた。
のちに世界中から「サッチモ(Satchmo)」と呼ばれることになるルイ・アームストロングである。
その愛称は、彼の特徴的な口元に由来するとされる “Satchelmouth(サッチェルマウス)” の略だと言われている。
彼の物語は、幼い頃から天才としてもてはやされたサクセスストーリーではない。
むしろ、貧困と差別と雑踏に満ちたこの街そのものが、長い時間をかけて彼を外へと押し出していった。その方が実情に近い。
貧困と雑踏の中で見た、最初の音の世界
アームストロングの家は、文字どおりの極貧だった。
父は幼い頃に家を出てしまい、母メイアンは低賃金の仕事を転々とし、後年の記録から売春に関わっていたとも考えられている。まともに学校へ通う余裕もなく、ルイは小学校五年生のうちに退学し、働きに出ざるを得なかった。
少年ルイができる仕事は限られていた。
石炭運びやジャンク回収
新聞売り
同年代の少年たちと組んだストリート・カルテットでの歌唱

わずかな稼ぎを求めて、彼はニューオーリンズの街をくまなく歩き回ることになる。
その過程で、彼は否応なく耳に入ってくるほど濃密な音の洪水にさらされる。
葬列のブラスバンドが奏でる賛美歌と行進曲
酒場や売春宿の窓から漏れるラグタイムのピアノ
黒人教会から響くスピリチュアルと説教のシャウト
路上や街角にあふれていた多様なリズム
ダンスホールで鳴らされるヨーロッパ系の社交音楽
パレードや軍楽隊のマーチングバンドが鳴らす金管の響き
彼にとってニューオーリンズの街全体が、貧者向けの、しかし限りなく豊かな音の図書館だった。
そんな中で、彼を大きく支えたのがユダヤ系移民のカーノフスキー一家である。
彼らのジャンク・石炭運びの仕事を手伝ったルイは、そこでわずかながら安定した収入を得ることができた。やがて彼は、その賃金を少しずつ貯め、質屋のショーウィンドウで見つけた1本の中古コルネットを分割払いで手に入れる。5ドルの安物だが、彼にとっては人生を賭けるに値する本物の楽器だった。

アームストロングが使用した実物ではない
錆びついたコルネットは磨かれ、少年はおそるおそる息を吹き込む。
のちの回想によれば、この時期から《Home Sweet Home》のような曲を繰り返し練習しはじめたという。後年の自伝では、その曲を感化院で教わったと語る箇所もあり、細部の記憶には揺れがあるが、少なくともこの頃から街の雑音として聴いてきた音楽が、少しずつ自分が鳴らす音へと変わりはじめていたことだけは確かだった。
コルネットが人生の中心になることを決定づけた感化院
とはいえ、少年期の暮らしは相変わらず不安定で、貧困と犯罪は常に隣り合わせだった。
1912年の大晦日。
ルイは義父の拳銃を借り、祝砲代わりに空へ向けて発砲してしまう。ニューオーリンズでは珍しくないお祭り騒ぎの一つだったが、運悪く警官に見つかり、その場で逮捕される。

裁判所の判断によって、彼は少年用の感化院「Colored Waif’s Home for Boys」に送られることになる。
ここが、彼の人生を決定的に変える場所になった。
この施設は粗末な寝具と単調な食事、軍隊式の厳しい規律で知られていたが、一方で音楽プログラムを持っていた。そこを率いていたのがピーター・デイヴィスという音楽教師である。
当初、デイヴィスはバック・オブ・タウン育ちの少年を信用していなかったとされる。ルイ自身も、小さな規律違反をした際に厳しい罰を受けたことを回想している。それでもやがてデイヴィスは、彼の中にある集中力と音楽への執着を見抜き、声楽、打楽器、バグル(ラッパ)、そしてコルネットへと段階を追って訓練を与えていく。
ルイは感化院のブラスバンドに参加し、基礎的な呼吸法やアンブシュア(口の形)、音程と音色のコントロール、簡単な譜面の読み方を徹底的に叩き込まれる。練習を重ねるうちに、彼はバンドのリーダーを任されるまでになる。

記事中でルイ・アームストロングはリーダーとして記されている。
後年アームストロングは、この場所で過ごした時間を振り返り、
「ここで自分は音楽と結ばれたのだ」と語っている。
カーノフスキー家から買った最初のコルネット。
そして、デイヴィスのもとで受けた初めての正式な音楽教育。
この二つが重なったことで、これまでバラバラに身体に蓄積されてきた街の音たちが、ひとつの自分の言葉として形を取り始める。
耳で盗む文化と、現場で鍛えられた音楽教育
1914年、感化院を出たアームストロングは、再びニューオーリンズの下町の音楽経済に飛び込んでいく。
ある夜は、酒場やホンキートンクのバンドで、ラグタイムやブルースの匂いを帯びたダンス曲を吹く。別の夜は、ダンスホールで夜通し踊る客相手に、ワルツからポルカまで、求められる曲を次々と演奏する。昼間には、葬列やパレードのブラスバンドで賛美歌と行進曲を吹く。

奥の扉の向こうにダンス・ホールが見えている。
そのどれもが、譜面より耳を頼りにする現場だった。
誰かが突然演奏を始めると、ほかの奏者は耳で聴き取り、その場で和声とリズムを組み立てていく。ニューオーリンズの音楽家たちは、こうして耳で盗むことを当たり前の技能として身につけていった。
ここでは確かに、譜面よりも耳が尊重されていた。
しかしそれは、誰も理論や基礎を教えなかったという意味ではない。
ルイはやがて、トロンボーン奏者キッド・オリーのバンドに招かれ、さらにミシシッピ川を行き来する蒸気船バンド、フェイト・マラブル楽団にも参加するようになる。マラブルは厳格なバンドリーダーで、メンバーに正確な譜面読解とアンサンブルを強く要求した。

(1918年または1919年)
こうしてルイは、
感化院でデイヴィスから学んだ音楽の基礎
ニューオーリンズの耳で盗む文化
リバーボートで鍛えられた徹底した譜面読解とアンサンブル
これらすべてを通じて、耳と目の両方で音楽をつかむミュージシャンへと育っていく。
誰かが体系的なカリキュラムを用意してくれたわけではない。
街そのものと、その現場で出会った人々こそが、彼にとっての学校だった。
キング・オリヴァー ── 若き日の父のような存在
ニューオーリンズには、「キング」の異名をとる伝説的コルネット奏者、
ジョー・ "キング" ・オリヴァーがいた。
アームストロングは若い頃から、オリヴァーの演奏に魅了され、その後ろ姿を追いかけた。

オリヴァーは、さまざまな種類の弱音器(ミュート)を駆使して、人の声のようにしゃべるコルネットの音色をつくり出した。フレーズの語尾を小さく揺らす歌うような節回し、ブルースの泣きとユーモアが同居するニュアンス。 ルイは、そのすべてを耳で盗もうとした。
オリヴァーは単なる憧れのスターではなく、実際に若きルイに目をかけた現場の師匠でもある。シカゴへ旅立つ際には、自らがかつて在籍していたキッド・オリーのバンドの席をルイに譲ったと伝えられている。
1922年、オリヴァーはシカゴから電報を送り、ルイを自分のクレオール・ジャズ・バンドに呼び寄せる。
それは、後に都市ジャズの歴史を大きく動かすことになる瞬間だった。
アームストロングにとってオリヴァーは、音楽的にも人生的にも、実の父に代わるもうひとりの父のような存在だった。彼は後年、オリヴァーを「パパ・ジョー」と呼びながら、「もしジョー・オリヴァーがいなかったら、ジャズは今のような姿にはならなかっただろう」とまで書き残している。
まだ世界を変える男だとは誰も思っていなかった
この段階のアームストロングは、決して特別扱いされた天才ではなかった。
ニューオーリンズの現場から見れば、彼は「腕のいい若手コルネット奏者」の一人にすぎない。
粗削りで、夜ごと先輩たちの背中を必死で追いかけている段階だった。
だが、その胸の内には、確実に何かが蓄積されつつあった。
ニューオーリンズという街に渦巻いていた多様な音楽の層が、彼の中で少しずつ結びつきはじめていた。
黒人の声の文化(フィールドハラーやスピリチュアル)
カリブやクレオールに由来するリズムの感覚
ヨーロッパの行進曲や軍楽隊に由来する金管アンサンブルの構造
ストーリーヴィルや売春宿、酒場の雑多な夜の音
感化院とリバーボートで鍛えた基礎技術と譜面読解
そして、キング・オリヴァーが吹く歌うようなフレーズ
こうした要素は彼の中で渦を巻き、そこに、カーノフスキー家との出会いや、ピーター・デイヴィス、フェイト・マラブルといった具体的な師たちから受け取った教えが折り重なっていく。
それらが絡まり合い、やがてルイ・アームストロングにしか出せない音へと凝縮される寸前だった。
アームストロングの革命は、ある夜突然に訪れたひらめきの結果ではない。
ニューオーリンズという街、そこで出会った家族や仲間、感化院、川船、バンドの先輩たち。それらすべてが、長い時間をかけて彼の内部に火種を置き、静かに燃え広がる瞬間を待っていたのである。
