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リトル・リチャード:シャウトと熱狂がロックンロールを変えた

(見出し画像は、1950年代ロックンロールの熱狂をイメージして生成したもので、実際の本人画像ではありません)

1950年代半ば、白人中産階級向けの主流ポップとは異なる種類の熱が、アメリカの大衆音楽の表舞台へ流れ込んでくる。
その中心にいたのが、リトル・リチャード(Little Richard)だった。

彼の音楽には、黒人教会の熱狂、南部ショービズの猥雑さ、ブギウギの推進力、R&Bの肉体性、そして性的な逸脱の気配が、すべて同時に存在していた。

後のロックンロールにとって重要だったのは、単にテンポが速かったことではない。
リトル・リチャードは、音楽そのものに、身体性、衝動、解放感、そして制御しきれない興奮を持ち込んだ。



メイコンの少年
⸻ リチャード・ペニマンの原点

リトル・リチャード、本名リチャード・ウェイン・ペニマン(Richard Wayne Penniman)は、1932年、ジョージア州メイコンに生まれた。

1936年3月のジョージア州メイコン中心部
Photo: Walker Evans / Farm Security Administration / Wikimedia Commons / Public Domain

彼が育ったのは、黒人教会の文化が生活の中心にあった家庭だった。父バドは煉瓦職人として働く一方、酒場を経営しており、家庭の中には宗教的な世界と、南部の世俗的な文化が同時に存在していた。

音楽との出会いは、幼い頃から身近にあった。家族は教会と深く結びついており、リチャード自身も幼少期から礼拝で歌い、ゴスペルの熱気の中で育った。また、少年時代にはピアノも習っていた。

黒人教会の音楽は、ただ正確に歌うためのものではなかった。
叫び声、繰り返されるフレーズ、歌い手と聴衆の応答。その場にいる人々の感情を高め、身体ごと巻き込んでいく力を持っていた。

後にリトル・リチャードの代名詞となるシャウトや、観客を熱狂させるパフォーマンスの原点には、この教会文化があった。

しかし、少年時代のリチャードは、教会の中だけに収まる人物ではなかった。

彼は幼い頃から派手な振る舞いや表現を好み、当時の社会が求める「男らしさ」からはみ出して見られることもあった。高い声や独特の身振りは周囲から奇異の目で見られることもあったが、後にステージ上で人々を惹きつける個性へと変わっていく。

リチャードは、歌だけでなく、人を驚かせ、楽しませることそのものに強く惹かれていた。

少年時代に彼が触れたのは、教会の音楽だけではない。メイコンの街には、ゴスペル、ブルース、R&B、そして巡業ショーの文化が流れ込んでいた。

宗教的な高揚と、舞台上の華やかな演出。
神聖なものと世俗的なもの。
後にリトル・リチャードの中で一つになる二つの世界は、すでに少年時代から彼の周囲に存在していた。


巡業ショーが育てたリトル・リチャード

10代半ばになると、リチャード・ペニマンは教会の外へと活動の場を広げていく。

1947年頃、14歳だったリチャードは、メイコンを訪れていたゴスペル歌手シスター・ロゼッタ・サープ(Sister Rosetta Tharpe)の公演で歌う機会を得た。

サープは、ゴスペルを歌いながらエレクトリック・ギターを弾き、教会音楽の熱狂を大衆的なステージへ持ち込んだ先駆的な存在だった。
彼女は若いリチャードの歌を気に入り、自分の公演の前座としてステージに立たせた。

ギターを手にしたシスター・ロゼッタ・サープ(1938年)
Photo: James J. Kriegsmann / Wikimedia Commons / Public Domain

やがてリチャードは故郷を離れ、南部を巡る巡業ショーの世界へ入っていく。

当時の黒人芸能者にとって、こうした巡業は重要な活動の場だった。
歌手、ダンサー、コメディアン、ミュージシャンなどが一座となり、各地を回って観客を楽しませる。

そこでは、ただ歌がうまいだけでは足りない。
大きな声、派手な衣装、誇張された身振り、笑い、驚き。短い時間で観客の注意を奪い、その場を盛り上げる力が求められた。

リチャードはそうした環境の中で、歌だけではなく、ステージ上で人を惹きつける方法を身につけていった。

この頃には「リトル・リチャード」という名前で活動するようになり、南部のさまざまなショーを渡り歩いている。

さらに大きな影響を与えたのが、R&B歌手ビリー・ライト(Billy Wright)だった。

ライトは大きく整えた髪型、濃いメイク、派手な衣装、ゴスペル仕込みの激しい歌唱で知られるショーマンだった。
後のリトル・リチャードを特徴づける髪型や化粧、誇張されたステージングにも、その影響を見ることができる。

R&B歌手ビリー・ライト
Wikimedia Commons / Public Domain

1951年、リチャードはRCAと契約し、初めてレコードを録音する。

しかし、すぐに成功したわけではない。
「Every Hour」などを発表し、地元では反応を得たものの、全国的なヒットにはつながらず、RCAとの契約も長くは続かなかった。

1952年には父親が殺害され、家族を支える必要にも迫られた。
それでも、音楽をやめたわけではなかった。
1953年にはPeacock Recordsと契約し、再びレコーディングを行う。しかし、ここでも大きなヒットには恵まれなかった。
その後メイコンへ戻ったリチャードは、バス・ステーションで皿洗いをしながら働いていた時期もある。

この頃、リチャードのピアノに大きな影響を与える人物と出会っている。ピアニストのエスケリータ(Esquerita)だった。
エスケリータは、鍵盤を打楽器のように激しく叩くピアノと、派手な髪型や衣装で知られるショーマンだった。
リチャードは彼の演奏に強く惹かれ、その奏法を学んだ。後のリトル・リチャードを特徴づける、強烈な反復と叩きつけるようなピアノには、エスケリータから受けた影響が大きく流れ込んでいる。
歌だけではなく、ピアノそのものをリズムと熱狂を生み出す楽器として鳴らす。その演奏は、リトル・リチャードのロックンロールを支える重要な要素になっていった。

レコードでの成功を掴めない一方で、リチャードは南部のクラブや巡業のステージで活動を続けていた。
1954年頃にはバンド、The Upsetters(ジ・アップセッターズ)を率いるようになり、激しいピアノ、突き抜けるような声、派手な衣装と動きを組み合わせたパフォーマンスをさらに磨いていった。

レコードではまだ大きな成功を掴めていなかったが、ステージではすでに強烈な個性を持つショーマンになっていた。

そして1955年、リチャードはSpecialty Recordsと契約する。
RCAで最初のレコードを吹き込んでから、すでに4年が経っていた。


教会とショービズ、その両方から生まれた

リトル・リチャードを形作ったのは、教会とショービズという二つの世界だった。

黒人教会では、歌はただ美しく歌うためのものではなかった。
声を張り上げ、言葉を繰り返し、周囲の人々と応答しながら、その場全体の感情を高めていく。

後のリトル・リチャードのシャウトには、そうしたゴスペルの感覚が強く残っている。

一方、南部の巡業ショーやナイトクラブでは、観客の注意を一瞬で奪うことが求められた。
派手な衣装、誇張された身振り、笑い、煽り、性的な挑発。歌だけではなく、ステージ上のすべてが表現の一部だった。

彼はその両方を吸収した。

教会からは、声によって人々の感情を高揚させる力を。
ショービズからは、観客を驚かせ、巻き込み、熱狂させるための過剰さを。

さらにそこへ、ジャンプブルースやR&Bの強いリズム、ブギウギのピアノ、南部の黒人音楽に流れていた肉体的なグルーヴが重なっていった。

ただ、リトル・リチャードが特別だったのは、それらを単に受け継いだことではない。

教会のシャウト、R&Bのグルーヴ、ショーマン的な誇張、性的な挑発性を、あれほど極端な熱量で一つにしたところに、彼の特異性があった。

宗教的な高揚と、世俗的な快楽。
神聖なものと、猥雑なもの。

本来なら引き離されそうな二つの感覚が、リトル・リチャードの音楽の中では激しくぶつかりながら、同時に鳴っていた。

その危うい混合こそが、彼の音楽の強烈なエネルギーを生んでいた。


「Tutti Frutti」が何を変えたのか

1955年に発表された「Tutti Frutti」(トゥッティ・フルッティ)は、リトル・リチャードを一躍全国的なスターへ押し上げた、ロックンロール史を代表する一曲である。

冒頭の「Wop-bop-a-loo-mop a-lop-bom-bom!」
というフレーズは、意味のある言葉というより、衝動がそのまま音になったような叫びだった。

重要なのは、この曲が単に騒がしかったから衝撃だったのではない、ということだ。

少なくとも白人中産階級向けの主流ポップ音楽では、まだ整った歌唱や穏当な表現が中心だった。
しかしリトル・リチャードは、叫び、笑い、転げ回るようにピアノを叩き、聴き手の身体を直接揺さぶった。
そこには、黒人教会のコール&レスポンス文化にも通じる、観客を巻き込みながら熱狂を増幅させていく感覚があった。

また彼の歌唱には、叫びだけではなく、笑い、煽り、祝祭の感覚が同時に混ざっている。
それは後のハードロック的な威圧感とは異なる、祝祭としてのロックンロールだった。

きれいに歌うことより、興奮そのものが優先される。整ったメロディより、身体が先に反応する。理性よりも、衝動が前に出る。

リトル・リチャードは、ロックンロールを、単なるダンス音楽ではなく、身体そのものを激しく揺さぶる音楽として広げていった。


録音現場とピアノの推進力

リトル・リチャードのピアノは、ジャズ的な洗練とはかなり違っていた。

左手はブギウギ由来の強烈なシャッフルを刻み、右手は高音域で8分音符のオクターブや和音を打楽器のように叩きつける。そこへ、ゴスペル仕込みの突き抜けるようなシャウトが重なる。
彼の演奏は、メロディを聴かせるというより、リズムと熱量で観客を巻き込むものだった。また、その演奏にはニューオーリンズR&B特有の跳ねるグルーヴ感も強く流れ込んでいた。

「Tutti Frutti」をはじめとする、Specialty Records時代初期のヒット曲はニューオーリンズで録音され、プロデューサーのロバート “バンプス” ブラックウェル(Robert “Bumps” Blackwell)や現地ミュージシャンたちも、そのサウンド形成に大きく貢献している。

後のロックではギターが中心楽器として前面に出ていくが、1950年代半ばのロックンロールでは、ピアノやサックスもまだ重要な推進力だった。
その中でもリトル・リチャードのピアノは、ロックンロールの荒々しさと推進力を象徴する音だった。


歌詞の書き換えと白人市場

実は「Tutti Frutti」の元の歌詞には、かなり露骨な性的スラングが含まれていた。しかしレコード会社は、それをそのまま発売することを避け、作詞家 ドロシー・ラボストリー(Dorothy LaBostrie)によって歌詞を書き換えさせている。

これは単なる検閲の話ではない。

1950年代の音楽産業は、黒人音楽の持つ熱狂や新しさを求めながらも、その危険性を同時にコントロールしようとしていた。
つまりロックンロールは最初から、黒人文化、性的表現、商業主義、白人市場の間で揺れ動く存在だった。

実際、「Tutti Frutti」は白人歌手パット・ブーン(Pat Boone)によって、より穏当な形に再解釈され、大ヒットした。
当時の音楽産業は、黒人音楽の熱狂を利用しながら、同時にその危険性を薄めようとしていた。

しかし、どれだけ整えられても、リトル・リチャード本人が持つ圧倒的な熱量までは再現できなかった。
1950年代のアメリカ社会にとって、黒人ミュージシャンがあれほど露骨な熱狂を生み出し、白人の若者たちを惹きつけているという事実そのものが、すでに衝撃的だった。そこに、若者たちがリトル・リチャードのロックンロールに惹かれた理由の一端があった。

1957年の Topps トレーディングカードに描かれたリトル・リチャード 
ロックンロールはこの頃すでに、若者向け大衆文化として急速に拡大していた
出典:Wikimedia Commons

性別の境界を揺さぶったスター

リトル・リチャードの衝撃は、音楽だけではない。

厚化粧、巨大なリーゼント、宝石のような衣装、甲高い叫び声。
1950年代アメリカの価値観から見れば、彼は極めて異質な存在だった。
しかも彼は、単に男性的なスターとして振る舞うのではなく、派手な化粧や高い声、誇張された仕草によって、当時の性別観そのものを揺さぶるような存在だった。
それは当時の保守的な価値観に対して、極めて挑発的に映った。

しかし若者たちは、その自由さに熱狂した。
既存の価値観からはみ出してもよい。身体を抑え込まなくてもよい。声を張り上げ、踊り、笑い、叫んでもよい。
リトル・リチャードのステージには、そうした解放感があった。

後のデヴィッド・ボウイ(David Bowie)、プリンス(Prince)、グラムロック、さらには現代ポップスター文化にまで繋がる感覚の源流のひとつが、ここにある。

リトル・リチャードは、後にロックスターと呼ばれる存在の、重要な原型の一人だった。


その衝撃はイギリスで受け継がれた

リトル・リチャードの影響は、アメリカ国内にとどまらなかった。
特に大きかったのが、イギリスの若者たちへの影響である。

The Beatles(ビートルズ)、The Rolling Stones(ローリング・ストーンズ)、デヴィッド・ボウイをはじめ、多くのミュージシャンがリトル・リチャードから強い影響を受けた。

なかでもポール・マッカートニー(Paul McCartney)は、若い頃からリトル・リチャードに強く影響を受けており、あの激しいシャウト唱法を意識しながら歌っていたことで知られている。

実際、The Beatles がカバーした「Long Tall Sally」には、リトル・リチャードから受け継いだ熱狂や疾走感が色濃く表れている。

これは単なる歌唱法の影響ではない。リトル・リチャードが示したのは、ロックンロールとは、きれいに整えられた歌ではなく、身体ごと飛び込む音楽なのだという感覚だった。
その感覚は、1960年代の英国ロックを通じて、さらに大きな形で世界へ広がっていく。

1950年代の巡業ポスター
出典: Wikimedia Commons1950年代の巡業ポスター
出典: Wikimedia Commons

宗教と欲望の間で引き裂かれ続けた

しかし、リトル・リチャード本人は、その生き方を完全に受け入れていたわけではない。彼はキャリアの途中で何度もロックンロールから離れ、宗教へ戻ろうとした。人気絶頂期にツアーを離れて神学校へ向かったこともあり、説教師として活動し、世俗音楽を罪として拒絶した時期もある。

そこには、性的な葛藤、宗教的救済への欲求、名声への渇望、そして自己否定が複雑に絡み合っていた。華やかなステージの上で解放を体現する一方で、彼自身は、その生き方と宗教的な信念との間で揺れ続けていた。

彼のシャウトが強烈に聴こえるのは、単に声量の問題ではない。宗教と世俗、欲望と罪の意識の間で揺れ続けた彼の人生を重ねて聴くと、その叫びには、抑え込まれていたものを解き放つような感覚と、それを恐れる感覚が同時に響いているようにも感じられる。

そうした彼の人生を知ったうえで聴くと、リトル・リチャードの音楽は、ただ自由で祝祭的なだけのものとは少し違って聴こえてくる。その熱狂の奥に、相反するものがせめぎ合うような危うさを感じ取ることもできる。


リトル・リチャードは、ロックの温度を決定した

チャック・ベリー(Chuck Berry)は、ロックンロールの構造を作った。
エルヴィス・プレスリー(Elvis Presley)は、それを巨大な大衆文化へ広げた。
では、リトル・リチャードは何をしたのか。

彼はロックンロールに、危険な熱気と制御しきれないエネルギーを持ち込んだ。
彼がロックンロールに刻み込んだのは、身体性、衝動、解放感、過剰さ、そして理性だけでは処理できない危うい興奮だった。

後のThe Beatles、The Rolling Stones、プリンスをはじめ、グラムロックやハードロックに至るまで、ロックは少し危険で、少し過剰で、理性だけでは制御できない音楽である、という感覚が受け継がれていく。

その感覚を、きわめて早い時期に、きわめて激しい形で体現していた存在の一人が、リトル・リチャードだった。


代表的楽曲

Lucille(1957)

重くうねるような反復フレーズと、緊張感の強いボーカルが印象的な代表曲。
「Tutti Frutti」の祝祭感とは少し違い、より荒々しく、張りつめた熱気を帯びている。
後のロックバンドが好んで取り上げた曲でもあり、リトル・リチャードの影響がバンド形式のロックへ広がっていく過程も感じられる。

Rip It Up(1956)

タイトル通り「全部ぶち壊せ」と言わんばかりの勢いで突き進むロックンロール。
転がるようなピアノ、煽るような歌唱、疾走するリズムが一体となり、リトル・リチャードの祝祭的なエネルギーがストレートに表れている。
1956年の代表的ヒットのひとつであり、彼のロックンロールが持っていた速度感と解放感をよく伝える一曲。

Good Golly, Miss Molly(1958)

冒頭から炸裂するピアノが強烈な代表曲。
1956年に録音され、1958年にシングルとして発売されたこの曲には、リトル・リチャードらしい推進力と性的な熱気が凝縮されている。
身体ごと前へ押し出されるような勢いがあり、彼のロックンロールが持つ荒々しい祝祭感をよく伝えている。

Keep A-Knockin’(1957)

冒頭のドラムイントロが強烈なロックンロール。
シンプルな構成ながら、ドラム、ピアノ、シャウトが一体となって、理性より衝動が前に出る感覚を生み出している。
このドラムイントロは後のロックにも大きな影響を与え、後にLed Zeppelin(レッド・ツェッペリン)のドラマー、ジョン・ボーナム(John Bonham)が「Rock and Roll」の制作時にこのイントロを下敷きにしたことでも知られている。


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