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インドでのエピソード#1(改訂)

飛行機から、地上の家の灯りの淡いともしびが見えてきた。「無事この地に踏み出すことができるだろうか?」不安が心によぎったが、これからの好奇心の方が強く、ワクワクした気持ちは、若いあの時だからこそだったのかと思う。

空から見る地上の光は、とても大きなキャンバスにちりばめられた輝きのようで、どんな国でどんな生活があるのかはわからない。それは成田上空であっても、タイ、インド、アメリカであっても変わらない。でも、地上に降り立てば、その世界での生活が始まる。車がないかもしれない、道路は舗装されていないかもしれない。家の屋根もトタンかもしれないし、鉄筋かもしれない。ただ、この光は、人々がここで生業を立て、生活しているとても温かい光なのだ。

飛行機は高度を下げ、地上に近づいている。

40年前の自分は、タイのバンコクに降り立とうとしていた。

地上に降りると、これまで見たことのない街並み、喧騒、そして独特の街の匂いのようなものがあり、異国に来たのだと実感する。当時の自分には、何も怖いものなどなく、好奇心のかたまりだった。大学2年の時、アメリカ大陸をグレイハウンドというバスで1か月ほどバックパックの旅をした。かつて栄えた国、今栄えている国。そう考えると、当時の日本も「栄えている」と言えるかもしれない。

そして、古に一度栄え、これから再度成長するであろう国、インドへの旅行を計画した。三部旅行の第3弾が、インド旅行だった。

お金に余裕があるわけでもなく、貧しい中でやりくりしてアルバイトで旅行資金を捻出し、貯まったお金で当時から広まり始めた格安航空券を利用してタイへ行き、タイでインド行きの格安航空券を購入するという計画だった。

英会話はもちろん、タイやインドの言葉での会話もできないにもかかわらず。

数日タイに滞在し、インド国営航空でカルカッタに向かった。今でもその光景が焼きついて忘れられない。国際空港なのに、飛行機のタラップから降りて、ターミナルというか、駅舎のような建物まで歩いて行った。木箱のようなX線装置で形式的な検査を受けて入国した。泥だらけの舗装されていない道路に、牛が我が物顔で歩いていたのには驚いた。牛は神の使いとして神格化されているため、あちこちでのそのそと歩いていた。そのため、カレーはチキンかマトンで、ビーフはありえないのだ。

かなり回りくどくなったが、移動はリキシャーをよく使った。「人力車」が訛った言葉らしく、形状も日本のそれとそっくりで、人が歩いたり走ったりして引くものだった。当時インドでは数百円で生活できた。旅行前にボールペンや使い捨てライターなどを持って行くと現地で高く売れると聞き、万が一のことを考えて多めに持って行った記憶がある。(この時代は、ライターの持ち込みができたのです、確か。)

リキシャーは1キロほどで20円くらいだったような気がする(現地通貨はルピーとパイサ)。それを値切って10円ほどにすることもあったが、今思うと、なんともさもしい行為だった。20円は、当時フーセンガムが買える程度の金額で、子供が駄菓子を買うような価格。それを値切るのは、相手の労働に報いることができず、恥ずかしい行為だったと反省している。しかも、リキシャーマンはガリガリで、骨と皮みたいな風貌で、上半身裸に近かった。厳しい直射日光で日焼けし、真っ黒だった。

驕りもあったのだろう。「日本は金持ちだ」と思っていたから、円高を利用して当時貧しかった国に行き、優越感に浸っていたのかもしれない。

カルカッタの中心部で安宿を借り、街をぶらぶらした。道路は舗装されておらず、いたるところに半裸の人々が横たわっていた。

歩いていると、多くのインド人から声をかけられる。「ナマステー、日本人ですか? ソニーのウォークマンやリーバイスのジーンズを持っていませんか? 高く買い取りますよ」と。

当時インドでは、至る所に「TATA」という文字があり、聞いたところによると、インドの大手財閥・コングロマリットで、ほとんどの事業を独占しているという。だから海外から輸入する物品には規制がかかり、あるいは高い関税をかけて自国の商売を保護していた。そのため、海外で人気のある商品は高い値段で買い取ってくれたのだ。

旅行前から、お金がなくなっても持ち物を売ればなんとか生活ができると思っていたし、使い捨てライターも換金できると聞いていたので、いくつか持ち込んだ記憶がある。当時は飛行機にライターの持ち込みができたのだ、確か。

また、自称の名前「イングリッシュボーイ」という、ビートルズみたいな感じの長髪のインド人から声をかけられた。

経緯はよく覚えていないが、彼の自宅に招待され、のこのこついていったのだ。家に入るなり、注射針を用意して打ち始めた。そう、何かの薬物を打っているのだ。顔がゆるくなり、だらしのないムンクの叫びのような顔になり、イケメンが台無しになった。しばらくするとよだれを垂らし始め、椅子から転げ落ちそうになると、お漏らしし、ズボンの股間に地図ができ始め、部屋の中にアンモニアの臭いが漂い始めた。

いわゆるジャンキーがどうなるか、目の前で観察することになるが、20歳の多感な時期に、反面教師を見て、薬は良くないと強く教えられることになった。

現代の日本では、主婦や学生でも薬の虜になる人が増えているようだが、タバコや酒以上に習慣性があり、薬そのものが生きる目的になってしまうと、人としての尊厳を失ってしまう。言っては悪いが、廃人になってしまうのだ。

夜、コルカタの街を散歩した。まるで田舎の夜店のような雰囲気があり、雑踏の中に裸電球がほわっと灯り、軽い砂埃と、半裸の人々がおしあいへしあい、ひしめき合っていた。

とても、幻想的で夢の中を漂っているみたいだった、お仕着せの旅行だっら危険なので、夜間のダウンタウンの外出はもってのほかなのだ、バックパッカーだからこそできた冒険だったと思う。

この国は、最初から最後までカルチャーショックだった。好きになる人と嫌いになる人と完全に二択に分かれるようだが、私は前者だった。

時間にはルーズで、約束もあるようでないようで、要はいい加減なのだが、とても優しく、親切な人々がおおく大好きな国だった。

現在は、世界一の人口と、高度な教育制度から生まれる優秀な人材が世界のいたるところで活躍している。

あの時の日本と比べるとどうだろう?

隔世の感を身をもって感じます。



(本文と写真の関連性はまったくありません)

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