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日記|夏を置いてゆく

8.21
私は何をどうやってどうしてきたから今を生きられているのだろう。とたまに思う。大病(精神疾患というのは大病かどうかの分類でいうとどこに属するのか正直分からないが)は有難いことにせずに済んでおり小さく病んだり転んで擦ったりしても、通年で飲んでいる複数の薬はあれど大病で入院したことはなく、骨にヒビが入っても骨を折ったことはないためギプスは付けたことはない。恵まれていると言うべきなのだろう。恵まれていると思うべきなのだろう。分かっている。自覚的である。でもなかなか自分の処遇を良いものとして自らが認めてあげられていない。小さな幸せやささやかでもたいせつで本当はおおきい恵まれ方に対しては視線が流れて素通りしてしまう。大きく悲しんだり苦しんだりしてしまいやすい私は小さな涙の粒を大きな海に至るまで集めてしまう。よくない。分かっている。捉え方の問題でもあるのだろう。幸せであろう己は。なんて知っている。けれどそれをそのまま受け止めてあげられないでいるのが現状であり現在の自分の精神なのだ。酷く疲れている。どうにも泣きたい。一度の暴飲暴食でこの世のすべてが良くなったらよいのに。他の人を見て嗚呼素敵だと思い、嗚呼それに比べて私はと思う。自己理解を深めようと過去の自分を思い返そうとする度に、嗚呼あの時の私はあんなにも頑張っていられたのにと今の私は思ってしまう。人と比べるな、自分の過去と比べろ、なんてよく言うけれど、その方法の方がむしろ私にとっては毒で、私は少しずつ自らを嫌いになり続けてしまい、少しずつ自信を失い続けてしまう。

8.27
二ヶ月弱休んでいた職場に復帰した。なおフルタイムでの雇用ではなく学生として通う日もあることを踏まえた業務委託のような契約社員のような形だ。フルタイムの方の休職や復職はどれ程勇気が要るのだろうと尊敬の心を抱いている。非正規雇用とはいえ休職させていただきたい旨を連絡する際には本当に緊張したのだから。休職間に職場の立地自体の移転もあり己が勝手に負荷に感じてしまうことだらけの初日を恐れる気持ちで起床した。一度とは言わず休んでしまったことに対する罪悪感を形状のあるもので示す為に手土産を持っていくべきだろうかと悩みながら昼食を食べそれらの検討をする為に普段よりも三十分早く家を出た。外は雨。外界への扉を開いて始めて本日の天気を知ったのだが最初は小雨であったのが少しずつ大降りになってきた。最終的には向かいくる風に耐えながら土砂降りの中を歩く己を他観しているもうひとりの自分を斜め上に見つけ「可哀想だね貴方」と声をかけられたような想像をする始末だった。着いてからは何もお咎めもなく久しぶりに会う人も喜んでくれて有り難くて更にキャラメリゼされたお菓子を包んだ白い包装をシフト調整等でご迷惑をかけたであろうスタッフの方に渡すたびに相手の対応が解れてくる感覚がありそれも有り難かった。そしてその光景を見ながら無許可欠勤ではないものの「ここまで自分は罪悪感を感じていたのか」とまたもやもうひとりの自分が見下ろしていた。

自分の感覚を手放してしまうことはよくある。それは他者のように己が己を斜め上から見下ろしているような手触りだ。他者と関わる自分を外から見てもし誰かから嫌なことをされたとしても怒りよりも悲しみが湧いてしまう。酷いことをされたと怒っても良いところなのになぜ貴方が絶望の淵に居るのかと近しい人に問われ答えがうまく見つからなかったこともある。精神科の先生には「貴方は時に冷静すぎるかもしれませんからね」と言われ成程そういう捉え方も出来るのかと知った時すこしだけ楽になった。そして自分は自分なのにどこか他人事で自分の言動も自分に降り掛かる他者の言葉などもどこか自分のこととして受け取れないという節もある。思考回路までもが自分に対して他人事。もしかしたらそのお陰で苦難があっても少し緩和させて受け取ることが出来たり今の精神状態の類だと診られた時に受け入れる労力が要らなかったりしたのかもしれない。しかしもしかしたら。そのせいで冷酷な部分があるのかもしれない。

丁度昨日家族でその話になった。自分にはやはり外部からは予測できないほどのつめたい部分、いわば冷凍庫ような場所がありその部分があることが自分にとっては当たり前すぎてそれが一般的でないと気付いていないだけで本当はそこは人間が生きる温度ではないのかもしれない。もしその冷凍庫が私の中にあるとしたらそれは自分の痛みに鈍感にさせている。そして「果たして己は他者の痛みにも鈍感になってはいないだろうか」という膨大で重大で答えのない問いで頭をいっっぱいにしながら人と接することは疲弊も供にするがそれを辞めることはしたくないのだ。傷つくことの少なくはない人生を送って来たとは自負しているので人を傷つけることに鈍感でいたくない。人が皆違う以上思わぬところで傷つけてしまうことはきっとあったであろうしこれからもあるかもしれないと思う。全く無いよう工夫することはもはや無理なのかもしれない。けれどそこに鈍感で痛くない。「自分鈍臭いから貴方のやわいところを思いっきり踏んでもうたわごめんなー」のようなことは絶対したくない。絶対。己の痛みに気付くことが出来る人はきっと他者の痛みにも気付いてくれるのだろう。でも自分もそうなりたい。痛みに鈍感でありたくないのである。

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