料金箱
第一章 九十円
無人の販売所は、県道から一本入った農道の脇にある。
トタンの片流れの屋根に、単管パイプの脚が四本。屋根は西へ傾けてある。雨が県道の側へ落ちないようにしたので、そうなった。台は木で、幅が百八十センチ。厚みは三センチあり、これは家を建て替えたときの梁の余りだ。台の上に袋詰めした野菜を並べ、右の端に料金箱を置く。
料金箱は木の箱で、上の面に細長い穴が開いている。穴の幅は一センチで、長さが十二センチ。硬貨は落ちるが、指は入らない。
木は杉で、外に置いてあるので、三十七年で表が灰色になった。角のところだけ、手が触れるので色が濃い。清吉は年に一度、五月に油を塗る。塗ると二か月は黒くなり、そこから抜けていく。
穴の下に、いちど鉄の板を斜めに入れてある。斜めにしておくと、箱を傾けても、中身が戻ってこない。板は畑の道具を作った残りで、厚みが二ミリある。切るのに金鋸を使い、切り口をやすりで落とした。これを作ったのは芳賀清吉で、三十七年前になる。
清吉はいま八十一歳になる。
*
十月の第一週の土曜、清吉は六時に台を開けた。
袋は十七ある。里芋が六、大根が四、白菜が三、青菜が四で、値段は書いた札を袋に挟む。差すのは袋の口の結び目のところで、風で抜けないように、二つ折りにして差す。里芋が百五十円、大根が百円、白菜が二百円、青菜が九十円だ。
札は厚紙で、字は油性のペンで書く。雨に濡れて滲むと書き直すが、値段そのものは、ほとんど動かさない。
台に並べ終えて、清吉は料金箱の位置を直した。台の右端から五センチ内側に置く。端に寄せると、風の日に落ちる。
それから軽トラに戻って、家へ帰った。
回収は夕方になる。残った袋は、その日のうちに家で使うか、鶏にやる。鶏は五羽いて、小屋は畑の東の端にある。
五時に来て、残った袋を回収し、料金箱の中身を出す。箱の底板は蝶番で開く。開けると、硬貨と、ときどき紙幣が出てくる。
この日の中身は千四百八十円だった。
売れた袋は十一。里芋が四、大根が三、白菜が二、青菜が二。合わせて千四百八十円になる。
合った。合わないことのほうが多い。
合わない日は、たいてい足りない。
足りない額は九十円が多い。青菜の値段だ。次が百円で、大根。二百円の白菜が足りないことは、この十年で三度しかなかった。
清吉はこれを、二十年つけている。使うのは学習帳で、県道沿いの文具屋の三冊三百三十円のものだ。表紙に日付の範囲を書いてある。一冊で二年ほどもつので、全部で十冊ある。
書くのは三行だ。日付、売れた袋の数と内訳、箱の中身。合わないときは、末尾に差額を書く。
*
家に戻って、清吉は台所の卓で帳をつけた。
十月四日。里芋四、大根三、白菜二、青菜二。千四百八十円。
差額の欄は空けた。
書き終えて、清吉は前のページを繰った。九月のところに、差額が七日ある。九十円が四日、百円が二日、二百九十円が一日。
二百九十円の日は、青菜と白菜だった。この日はたぶん、二人来ている。
九十円の日を、清吉は前から気にしている。
気にしているのは額ではない。九十円が足りない日は、青菜がなくなっている。青菜は九十円で、いちばん安い。
安いものを持っていく人がいる。
高いものを持っていく人なら、話は簡単だ。売る側が困るのは同じでも、理屈は分かる。安いものを選んで、金を入れずに持っていく人のことは、清吉には分からない。
分からないまま、二十年たった。
途中で防犯のカメラを勧められたことがある。県道の入口に電気屋があって、そこの息子が来た。無人販売所の被害が増えているという話だった。
清吉は断った。
断った理由を、そのときは説明しなかった。説明する言葉を持っていなかった。台に錠をつければ、来る人が減る。減ってもいいとは思えなかった。
*
十月の第二週の土曜、清吉は青菜を六袋出した。いつもは四袋だ。二袋増やしたのは、思いつきではない。
九十円が足りる日と足りない日を、清吉は帳から拾ってみた。足りない日は土曜に寄っている。九月の四日のうち三日が土曜だった。八月も似た並びになっていた。
土曜に来る人がいる。
*
その日の夕方、料金箱の中身は八百五十円だった。売れた袋は、青菜が六、大根が二、里芋が一。合わせて八百九十円になる。
差額は四十円だ。
清吉は台の上で計算をやり直した。やり直しても四十円だった。
四十円という値段の袋は、置いていない。九十円の袋を六つ取れば五百四十円で、五百円だけ入れれば四十円足りる。
清吉は箱の中身を、軽トラの助手席で数え直した。五百円が一枚、百円が三枚、五十円が一枚。合わせて八百五十円。
五百円玉が一枚だけ入っている。
四十円足りないという形は、二十年で一度もなかった。足りない額は、いつも袋の値段だった。九十円か、百円か、それを足したものだ。
袋の値段で割り切れない不足が出るのは、初めてだ。
清吉は台の下を覗いた。台の下には木箱を二つ置いてある。袋を入れる予備の箱と、割れた大根を捨てるための箱だ。
割れた大根の箱に、紙が入っていた。新聞の折り込みの裏で、鉛筆で書いてある。字は小さく、線が細い。
四十円たりません。あと五十円は来週入れます。
第二章 あと五十円
その紙を、軽トラの助手席で三度読んだ。四十円たりません。あと五十円は来週入れます。
四十円足りないと書いてあって、次に五十円を入れると書いてある。数が合わない。
合わないことを、清吉は帳の上で追った。
青菜六袋で五百四十円。箱に入っていたのは、その人の分がいくらか分からない。ほかの客もいる。
ただ、紙の言い方から逆に辿ると出てくる。
五百円入れて、四十円足りない。次に五十円入れる。五十円入れれば十円多くなる。
十円多く入れるつもりの人だ。
清吉は帳の九月のページを繰った。ページの右下が黒くなっている。繰るときに親指が当たる場所で、二十年で十冊ぶんが同じように黒い。
九十円の差額が四日ある。四日とも、青菜がなくなっている。
一つ思い当たった。
これまでの九十円は、一袋ぶんだけ入れずに持っていった形だ。
今週は六袋あったので、六つ取って五百円を入れた。だから四十円になった。この人は、五百円玉一枚しか持っていない。
*
清吉は台所の卓で、紙を電灯の下に置いた。電灯は蛍光灯の丸いもので、片方の輪が切れている。切れてから二年、替えていない。
鉛筆の線が細い。芯が硬いか、力の弱い手だ。字の形は整っていて、崩していない。数字の四が、上を閉じて書いてある。
学校で習ったとおりの書き方だ。清吉は自分の帳の字をあらためた。自分の四は上が開いている。
*
十月の第三週の土曜、清吉は青菜を六袋出した。出して、いつもと違うことを一つした。
料金箱の横に、厚紙を置いた。台の上に置いても飛ばないように、石で押さえた。厚紙に油性のペンで書いた。
五十円はけっこうです。書いてから、清吉は自分の書いたものを読み返した。見て、石を外して、厚紙を裏返した。
裏に書き直した。青菜、五袋までは四百五十円です。六袋以上は五百円で結構です。
*
夕方に回収に行くと、青菜は六袋なくなっていた。
料金箱の中身は千三百五十円。売れた袋は青菜六、大根三、里芋二、白菜一。合わせて千三百四十円になる。
十円多い。多い日を、清吉は数えたことがない。清吉は台の下の箱を覗いた。
紙が入っていた。
同じ字だった。
前の分と、五十円入れました。今日は五百円入れました。安くしなくていいです。
清吉は数を合わせた。
前回の不足が四十円。今回入れたのは五百円と五十円で、五百五十円。六袋なら五百四十円だから、十円多い。
十円では、四十円の埋め合わせにならない。合っていない。
合っていないが、この人は合わせようとしている。
清吉は厚紙を持ち帰った。持ち帰って、台所の壁に立てかけた。安くしなくていいです、と書かれている。
清吉はそれを、しばらく見ていた。
二十年、金が足りない日を数えてきた。数えていたのは、盗られた額ではない。合わないという、そのことだった。
合わないままにしておくと、来る人が減る。減らさないために、清吉は何もしなかった。
*
十月の第四週の土曜、清吉は台に袋を並べながら、時間のことを考えた。
台を開けるのは六時だ。回収は五時。
そのあいだの十一時間に、誰が来るかを清吉は知らない。二十年知らないままで来た。
土曜に青菜を取っていく人が、何時に来るか。
清吉はその日、七時半に軽トラで戻ってきた。
戻って、農道から五十メートル離れた栗の木の下に停めた。木の下からは台が見える。台のほうからは、軽トラの前だけが見える。
八時までに三人来た。
一人目は近所の中川という女で、白菜を買っていった。二人目は車で来た男で、袋を見て何も取らずに行った。三人目は自転車の若い男で、大根を二つ取った。
一人目と三人目は、料金箱に入れた。入れる音が、五十メートル先まで届く。
九時を過ぎて、清吉は一度家へ帰った。尿意のせいだ。戻ってきたのが九時四十分だった。
十時十五分に、四人目が来た。
自転車だった。前かごに黒い鞄が入っている。降りて、台の前に立って、しばらく袋を見ていた。
制服だった。
清吉は栗の木の下から動かなかった。
高校の制服だ。紺のブレザーで、スカート。この地区の高校は三つあり、どこの制服かは遠くて分からない。
その子は青菜の袋を、一つずつ持ち上げていた。
持ち上げて、重さを比べているように見えた。六袋を全部持ち上げて、それから四つを前かごに入れた。
料金箱の前に立って、その子はポケットから何かを出した。出して、穴に入れた。入れる音が、二回した。
二回の音は、硬貨二枚だ。清吉はその音を聞いた。二枚で四袋分の三百六十円になる組み合わせは、ない。
*
その子は自転車にまたがって、県道のほうへ走っていった。清吉は栗の木の下で、しばらく座っていた。
軽トラの中は暑かった。十月でも、日が当たれば車内は上がる。清吉は窓を開けて、農道の先を見ていた。
見ていて、何を確かめたのかが分からなくなった。盗る子を見つけるつもりだったのか。それとも、盗らない子であることを確かめるつもりだったのか。
第三章 重さ
その日の夕方、料金箱の中身は千百三十円だった。
売れた袋は、青菜が四、大根が二、白菜が一。合わせて七百六十円になる。三百七十円多い。
これだけ多い日は、二十年で一度もなかった。
清吉は箱の中身を卓に広げた。十円が三枚、五十円が四枚、百円が四枚、五百円が一枚。合わせて千百三十円。
五十円が四枚ある。
清吉は帳を出して、その日の欄に書いた。書いてから、鉛筆を置いた。
最初の紙に、五十円は来週入れますと書いてあった。書いた人は、次に五百円と五十円を入れた。今度は五十円が四枚ある。
四枚のうち何枚がその子の分かは分からない。ただ、あの子が入れた硬貨は二枚だ。清吉は音を数えている。
二枚で三百六十円にはならない。仮に五百円と五十円なら五百五十円で、四袋分より百九十円多い。仮に百円が二枚なら、百六十円足りない。
どちらなのかは、箱の中では分からない。
清吉は台の下の箱のことを思い出して、軽トラに戻った。
農道は暗くなっていた。ライトをつけて走って、台の前で停めた。台の上には売れ残りの袋が並んでいる。回収し忘れた。
台の下の箱を覗いた。紙が入っていた。
前の分の四十円と、今日の分を入れました。まだ足りていません。
紙を、車のライトの光で読んだ。まだ足りていません、と書いてある。
多く入っているのに、足りないと書く。清吉には、この子の計算が追えなかった。追えないまま、袋を回収して家へ帰った。
*
家に着いて、清吉は十冊の帳を全部出した。
台所の卓に積むと、高さが十センチほどになる。表紙の紙が茶色く変わっていて、いちばん古いものは角が丸い。
清吉が探したのは、差額の記録だ。足りない日を、二十年ぶん数えたことはない。数えたのは月ごとの回数だけになる。
清吉は一冊目を開いた。二十年前の四月から始まっている。最初の三ページだけ、字が大きい。書き慣れていないので、罫線の幅を使いきっている。四ページ目から小さくなって、そのあと二十年変わらない。
ただ、差額の欄が空いていた。日付と、内訳と、箱の中身だけが並んでいる。
清吉は二冊目を開いた。空いている。三冊目も空いている。
差額が書かれはじめるのは、四冊目の途中からになる。十四年前の一月からだ。
清吉は鉛筆で、別の紙に日付を写した。写しはじめて、これに何時間かかるかを考えて、途中で手を止めた。
止めて、また写しはじめた。
四冊目の途中で、清吉は妻の名前が書いてあるページに当たった。十五年前の九月。
差額の欄の下に、清吉の字でこう書いてある。とし江、入院。台は休む。
そこから二か月、日付だけが並んで、内訳が空いている。休んだ二か月にあたる。
再開したのはその年の十一月で、再開した日の内訳は三行に増えていた。
二か月休んで、そのあとは土曜だけ開けた。開けていたことを、とし江には言っていない。
胃だった。見つかったときには手遅れで、四か月で死んだ。十四年前の一月だ。清吉は六十七歳の一人暮らしを、そこから始めた。
台を続けたのは、とし江が続けろと言ったからではない。何も言われていないので、やめる理由もなかった。
十一時を過ぎて、清吉は写すのをやめた。指の付け根が固まって、鉛筆が置きにくい。鍬なら一日握れるのに、鉛筆は握れない。
写せたのは、十四年前から五年ぶんだ。差額のあった日は、五年で百六十七日あった。年に三十日あまりになる。
そのうち、九十円と八十円の日が九十四日。青菜の値段だ。
その数を見て、しばらく動かなかった。九十四日ぶん、青菜を持っていって金を入れなかった人がいる。五年で九十四日なら、月に一度か二度になる。
*
翌日の日曜、清吉は続きを写した。写しながら、日付の並びを見ていた。
九年前から六年前までの三年間に、差額の日が集まっている。三年で百二十一日。そのあと五年は、年に十日前後まで落ちる。
集まっている三年に、何かあった。
三年の日付を、曜日で分けてみた。
曜日を出すには暦が要る。清吉は仏壇の引き出しから、古い日めくりの束を出した。とし江が捨てなかったものだ。
分けてみると、土曜と水曜に寄っていた。土曜が四十四日、水曜が三十八日。残る三十九日が他の曜日に散っている。
水曜という曜日を、清吉は考えた。
平日だ。学校がある日だ。学校がある日に来るなら、朝か夕方になる。
清吉が台を開けるのは六時。回収は五時。
朝の六時から七時のあいだなら、学校に行く前に通れる。夕方の四時から五時なら、帰りに通れる。
*
十一月の第一週の土曜も、清吉は栗の木の下に軽トラを停めた。十時だった。前の週にあの子が来たのが十時十五分だった。
十時十分に、自転車が来た。
同じ子だった。前かごに黒い鞄。制服。
*
その子は台の前に立って、青菜の袋を一つずつ持ち上げた。持ち上げて、重さを比べている。前の週と同じ動きをしている。
六袋のうち、四つを取った。取って、かごに入れて、料金箱の前に立った。
ポケットから出したものを、穴に入れた。
音は一回だった。一枚だ。五百円か、百円か。
清吉は栗の木の下から、その子が自転車に乗るのを見ていた。乗って、県道のほうへ走っていく。
走り出す前に、その子は台の下を覗いた。覗いて、何かを入れた。
紙だ。
第四章 三年
その日の紙には、こう書いてあった。
今日は五百円入れました。前の分の残りが十円あります。次に入れます。
清吉は帳を開いて、前の週の分を確かめた。四袋で三百六十円。箱の全体では三百七十円多かった。あの子が入れた二枚がいくらだったかは、分からない。
今日は五百円だと書いてある。四袋なら三百六十円だから、百四十円多い。
多いほうにばかり寄っている。それなのに、この子は残りが十円あると書く。
清吉は紙を三枚並べた。
四十円たりません。あと五十円は来週入れます。
前の分と、五十円入れました。今日は五百円入れました。安くしなくていいです。
前の分の四十円と、今日の分を入れました。まだ足りていません。
今日は五百円入れました。前の分の残りが十円あります。次に入れます。
四つだ。並べて数え直した。
四つを日付順に置いて、清吉は自分の帳と突き合わせた。
一枚目の日、差額は四十円足りない。
二枚目の日、十円多い。
三枚目の日、三百七十円多い。
四枚目の日は、これから数える。
この子の紙と、清吉の帳が合っていない。それでも、この子は自分の側で帳をつけている。
つけている帳が、清吉のものと違う。
*
清吉は台所の卓で、鉛筆を握ったまま考えた。握っていると、指の付け根が固まってくる。この子は、自分が過去にいくら足りなかったかを覚えている。覚えていて、返している。
返す額が、清吉の数える不足と合わない。とすれば、この子が返そうとしているのは、清吉が数えた不足ではない。
清吉は十冊の帳を、また卓に積んだ。写す作業を、九年前まで進めた。進めて、差額の集まっている三年を確かめた。
九年前から六年前まで。その三年に、水曜の差額が三十八日ある。
三十八日を、日付順に紙へ写した。写しながら、一つ気づいた。
三年の途中で、水曜が減っている。前の一年あまりは月に二度か三度あって、そこから年に一度か二度になる。
土曜の差額は、そのあとも続いている。
八年前の六月に、水曜が減った。清吉はその月のページを開いた。
六月の水曜は四日ある。差額があるのは、最初の二日だけだ。三日目からは合っている。
三日目の日付の欄に、清吉の字で一行あった。台の脚、直す。
八年前の六月に、台の脚を直したことを、清吉は覚えていた。
覚えているのは、あのとき腰を痛めたからだ。単管の脚が一本、地面にめり込んで傾いていた。直すのに一日かかって、二週間、腰が曲がらなかった。
直したときに、台の高さを五センチ上げた。水がはねるからだ。雨の日に地面の泥が袋にかかる。
*
清吉は台所から出て、外の物置に行った。物置はトタンで、扉の下の隅が錆で抜けている。抜けたところから猫が入る。入っても盗るものがないので、そのままにしている。
物置に、その年に外した古い脚が立てかけてある。捨てていない。清吉は物を捨てない。
古い脚を出して、地面に置いた。新しい脚は、家の裏に予備が二本ある。並べると、五センチの差が目で見えた。
*
清吉は軽トラで台まで行った。夜の八時を過ぎていて、農道に街灯はない。三十七年、ここに灯はついていない。市に頼んだことが一度あるが、通る車の数が足りないと言われた。ライトをつけて、台の前に立った。
台の高さを、腰の骨のあたりで測った。清吉は百六十二センチある。台の面が、腰骨の少し下に来る。
五センチ低かったころは、腰骨のもっと下になる。
清吉は台の前で、しゃがんでみた。膝が痛いので、片方だけついてしゃがむ形になる。しゃがんで、台の面を見上げた。
見上げると、料金箱の穴が見えない。箱は台の上にあって、穴は上の面に開いている。下から見上げれば、穴は見えない。
清吉は立ち上がって、また座った。その高さから見えるのは、台の面の縁と、袋の底になる。
*
家に戻って、清吉は帳を開いた。八年前の六月まで、水曜の差額は月に二度か三度あった。そのあとは年に一度か二度に落ちている。
台を五センチ上げた週から、水曜がほとんど合うようになった。五センチで何かが変わる人は、小さい人になる。
清吉は九年前の帳を繰り直した。水曜の差額は、九十円と八十円が多い。青菜だ。
三年で三十八日。前の十五か月に三十五日が入り、残りの二十一か月に三日しかない。
その差額が、台を上げた週から急に減っている。
清吉は鉛筆を置いて、電灯を見上げた。
順番が逆だ。台が上がって料金箱に届かなくなったのなら、青菜は減って、差額は残り続ける。減るはずがない。
減ったのは、金が入るようになったからではないか。
五センチ低かったころ、その人は袋には手が届いていた。届かなかったのは、料金箱の穴のほうだ。台の面の上に箱があって、穴は箱の上にある。袋より高い。
袋は取れて、金は入れられない。
台を上げたときに、清吉は箱の位置も変えている。奥に置くと腕を伸ばさないと届かないので、台の手前の縁から五センチのところへ移した。手前へ寄った分、低い背でも穴に届く。
清吉はそこまで組んで、鉛筆を置いた。組んだものが当たっているかどうかは、聞かなければ分からない。
清吉は自分の書いた帳の、差額の欄に目を落とした。十四年、この欄に数字を書いてきた。書いた数字は、盗られた額として書いた。
書かないでいた年もある。最初の六年近く、差額の欄は空いている。
書きはじめたのは十四年前だ。とし江が死んだ年になる。
第五章 声
十一月の第二週の土曜、清吉は台の前で待った。
栗の木の下ではない。台の脇に軽トラを停めて、荷台に腰かけた。荷台の縁は座りやすい高さで、清吉は畑仕事の合間にいつもここに座る。
十時を過ぎて、自転車が来た。その子は農道の入口で速度を落として、清吉のほうを見た。見て、そのまま来た。
台の前で自転車を降りて、その子はスタンドを立てた。
近くで見ると、思ったより背が高い。清吉と同じくらいだ。髪を後ろで一つに結んで、鞄を前かごに入れたままにしている。
「おはようございます」
「おはようさん」
その子は台の袋に目をやった。青菜が六袋ある。
「あの、紙を入れていたのは私です」
清吉は荷台から降りた、降りて、台の右端の料金箱に手をかけた。
「読んだよ」
「足りていません。すみません」
「足りとる」清吉は言った。「多いくらいだ」
その子は首を振った。振り方が、はっきりしていた。
「私が返しているのは、今年の分じゃありません」
清吉は料金箱から手を離した。
「今年でないなら」
「小学生のときの分です」
風が農道を抜けて、台の上の袋が少し動いた。清吉は袋の位置を直そうとして、手を出さなかった。
「名前を、聞いていいか」
「立岩といいます。立岩まりです」
まりは十八歳で、県立の高校の三年生だという。部活は吹奏楽で、担当はクラリネットだ。楽器は学校のもので、自分のものは持っていない。
家は県道を東へ二キロ行った先の団地で、そこから自転車で十五分かかる。土曜は部活が午後からで、午前が空く。
小学生のときは、その団地に住んでいなかった。
「もっと山のほうです。ここから自転車で三十分の」
「三十分かかるんですか」
「大村です。いまは家がありません。取り壊しました」
清吉は大村という地名を知っていた。
山あいの集落で、十軒あるかないかだ。県道から林道に入って、二キロ上がる。子供がいた家があったかどうかは、知らない。
「そこから、ここまで来たのか」
「下りは楽です。上りが辛いです」
「小学校は」
「県道の下の小学校です。ここを通ります」
まりは台の上の青菜の袋を、一つ持ち上げた。持ち上げて、手のなかで少し上下させた。前に見たときと同じ動きをしている。
「重さを見とるのか」
「見ています。同じ値段でも、重さが違うので」
清吉は自分の袋詰めを思った。手で掴んで詰めるので、目分量だ。同じ九十円でも二割は違う。
「そんなことを、気にする子はおらん」
「気にします。うちは、そこを気にしました」
清吉は台の脇の荷台に、また腰かけた。縁は塗装が剥げて、鉄が出ている。座るところだけが、そうなっている。雨に当たると錆が浮くので、年に一度、上から塗る。塗っても一年で剥げる。
まりは立っていた。座る場所がないので、そうなった。清吉は荷台の空いたところを手で示した。まりは首を振って、そのまま立っていた。
「小学生のときの分というのは、いくらだ」
「分かりません」
「分からんのに、返しとるのか」
「返せる額から返しています」
まりは、九年前からの三年間のことを話した。
小学三年から六年まで。大村から県道の下の小学校まで、歩いて四十分かかる。バスは朝と夕方に一本ずつある。
「バス代が、片道二百二十円です」
「片道で、それだけか」
「往復で四百四十円。二十日で八千八百円になります」
その数字を、頭の中に並べた。
「歩いていたのか」
「歩いていました。行きは下りなので四十分、帰りは上りで一時間です」
「毎日か」
「雨の日はバスに乗りました。母がそう決めました」
まりは前かごの鞄に手をかけて、離した。
「帰りに、ここを通ります」
清吉は料金箱に目を落とした。八年前まで、台は五センチ低かった。そのころ、水曜に差額が出ていた。
「水曜だな」
まりの動きが止まった。
「なぜ、水曜と分かるんですか」
「帳をつけとる。二十年つけとる」
まりはしばらく黙って、それから聞いた。
「水曜だけですか」
「土曜もあった。土曜のほうが多い」
「土曜は、母が来ていました」
清吉は荷台の縁を握った。握って、握ったまま何も言わなかった。
まりの母は、立岩あきという。
いま四十六歳で、県道沿いの弁当屋で働いている。九年前は、大村の家で祖母の介護をしていた。祖母は七年前に死んだ。
「父はいません。私が二歳のときに」
「亡くなったのか」
「出ていきました。それだけです」
まりの言い方は、そこで区切れていた。清吉は先を聞かずに、台の上の袋の並びを直した。直す必要はなかったが、手を動かしておきたかった。
「水曜に、なぜお前が来た」
「水曜は、母がパートに出る日でした」
「出る日は、来られんな」
「来られません。だから私が来ました」
まりは台の上の袋を、六つとも見ていた。
「うちは、青菜を食べる家でした」
清吉は青菜のことを考えた。
青菜は、清吉の畑でいちばん手間のかからない作物だ。種を撒いて、間引いて、切る。四十日でできる。
だから九十円にしている。八十円だった時期もある。
「安いからか」
「安いからです」まりは言った。「それと、母が青菜しか炊けなかったからです」
清吉は少し待った。
「炊けんというのは、料理のことですか」
「そうです。料理のことです」
「ほかのものは」
「炊けませんでした」まりは言った。「炊けないというより、覚える暇がなかったんだと思います」
清吉は台の上の青菜をながめた。切って、洗って、詰めるだけのものだ。炊くほうも、そのくらいで済む。
「あんたは、炊けますか」
「炊けます。小学五年から作っています」
「五年生か」
「母が遅い日は、私が作りました」まりは言った。「青菜と、卵と、豆腐です」
三つを、頭の中で並べた。三つで、何年もつだろうと考えて、考えるのをやめた。
第六章 炊けなかった
まりの祖母は、七年前に死ぬまで六年寝ていた。部屋は八畳で、家でいちばん日の入る部屋だったという。
寝ていたのは脳の病気で、右半分が動かなかった。喋ることはでき、食べることもできた。ただ、飲み込む力が弱かった。
「柔らかいものしか食べられません。青菜を細かく切って、汁で炊いて、それをかけます」
「刻むのは細かくか」
「五ミリより細かくします。太いと、喉に引っかかります」
まりの話し方は、そこだけ手順の説明になった。何度もやった手つきが、言い方に残っている。
清吉は自分の畑の青菜を思った。切って、水で洗って、袋に詰める。そのときに、葉の根元の硬いところを落とす。
落とした分は、畑の隅に捨てる。
「母は、料理をする人ではありませんでした」
まりは台の脇に立って、農道の先を見ていた。
「祖母が寝てから、炊くしかなくなりました。炊けるものが、青菜の汁しかなかったんです」
「習わんかったのか」
「習う相手が、寝ていました」
清吉は荷台の上で、少し姿勢を変えた。
まりの家に金がなかったことを、まりは数字で説明した。
祖母の年金が月に六万五千円。母のパートが月に八万から九万。合わせて十五万前後になる。
家の借金が月に四万二千円あった。祖父が生きているときに建て替えたもので、祖父は十二年前に死んでいる。
「介護のお金が、月に三万かかりました。九年前に、通いを週二回に増やしたんです。それまでは一回でした」
「施設か」
「通いです。週に二回、車が迎えに来ます」
内訳を、頭の中で足した。足して、残る額を出した。
「食う分は、いくらになる」
「二万くらいです」
「三人で二万か」
「三人で二万です」
清吉は自分の家の食費を思った。八十一歳の一人暮らしで、月に二万五千円かかる。野菜は畑から出るので、買うのは魚と豆腐と油だけだ。
それで二万五千円になる。
清吉は台の上の袋を、目で数えた。青菜が六袋ある。九十円で五百四十円になる。
袋はポリの薄いもので、五百枚で千二百円だった。一枚二円四十銭になる。清吉は袋の代金を、値段に乗せていない。乗せると九十円で割り切れなくなる。
三人で月に二万なら、一日に六百六十円になる。
「毎日、青菜だけか」
「米はあります。祖母の妹が送ってくれました」まりは言った。「あとは、青菜と、卵と、豆腐です」
まりは、母が土曜に来ていたことを話した。話す前に、一度だけ農道の入口のほうを見た。誰も来ていない。土曜は母が休みだった。祖母をデイに出す日ではないので、家にいる。
「母は、朝の五時に起きて、山を下りてきました」
「歩いてか」
「自転車です。下りは十五分です」
清吉は台を開ける時間を思った。六時だ。
「五時に出て、ここに何時に着く」
「五時二十分だと言っていました」
清吉は荷台から降りた、降りて、台の前に立った。
「五時二十分なら、袋が並んでおらん」
まりはうなずいた。
「並んでいないので、待っていたそうです」
「待っとった」
「農道の入口の、栗の木のところで待っていたと聞きました」
清吉はその木に目を向けた。五十メートル離れた栗の木だ。清吉が軽トラを停めた場所でもある。
「そこで、四十分待つのか」
「待ちます。私が起きる前に帰らないといけないので」
清吉は台の面に手をついた。
「わしが来るのを、見とったわけか」
「見ていたと思います。母は、あなたを知っていました」
その言葉を、聞き返さなかった。聞き返さずに、台の上の袋の位置を直した。直す必要はなかった。
「知っとるというのは、顔か」
「軽トラの色だと言っていました。白い軽トラが来て、袋を並べて、帰る」
「そのあとに来るのか」
「そのあとです。母は、あなたが県道に出るまで待って、それから来ました」
清吉は台の前で、しばらく動かなかった。二十年、台を開けて帰るあいだ。清吉は誰も見ていないと思っていた。
見ていた人がいる。四十分、栗の木の下で待って、軽トラが行くのを見て、それから台に来る人がいた。
「土曜に、お前の母親はいくら入れた」
まりは首を振った。
「入れていません」
「一度も」
「一度もです」
清吉は帳の数字を思い出した。差額のあった日は、二十年で数百日ある。
「なぜ入れん」
まりは初めて、清吉のほうを正面から見た。
「入れられるお金がなかったからです」
「九十円が、ないか」
「ありません。あの三年は、本当にありませんでした」
清吉はそれを聞いて、返す言葉を持たなかった。
持たないまま、一つ確かめた。
「八年前の六月に、台の脚を直した。高さが五センチ上がった」
「覚えています」
「あのころから、水曜の差額が急に減っとる」
まりは少し考えて、それから答えた。
「箱に手が届くようになった、と思われましたか」
「思った」
「届いていました。前から届いていました」まりは言った。「台が高くなっても、行くのはやめていません」
清吉は台の面に手をついた。
「やめとらんか」
「やめていません。ただ、選べなくなりました」
「選べん」
「重さを比べるのに、袋の底を見ていました。台が上がって、底が見えなくなったんです」まりは言った。「選べないので、いちばん手前の袋を取るようになりました」
「そのころから、帳の水曜が合いはじめとる」
「台を上げたことと、関係はないと思います」まりは言った。「私は、そのあとも同じように来ていました。同じように、入れていません」
清吉は台の面に手をついた。
一袋の値段は九十円だ。重い袋を選んでも、手前の袋を取っても、入れない額は同じになる。台の高さは、不足の額を一円も動かさない。
五センチと差額を結びつけたのは、清吉が数字の並びから因果を作っただけだった。
減ったのは、帳の上の差額だ。まりの不足は毎週出ていて、そのほとんどが誰かの多い金に消えていた。消える週が増えた時期が、たまたま六月に重なった。
「母は、三年で三百回くらいと言っています。土曜が母で、水曜が私です」
「三百回も来たのか」
「土曜と、雨の日以外の水曜です。水曜は私が来ました」
まりは台の上の袋に、手を伸ばして戻した。
「二人あわせて三百回です。母が数えました」
「その計算を、お前がしたのか」
「母がしました。紙に書いてあります」
清吉は台の脇の軽トラに手をついた。
「その紙は」
「家にあります。母が、去年から書いています」
「去年から書いとるんですか」
「去年、母が病気をしました」まりは言った。「そのときに、返さないと死ねないと言いました」
清吉は手をついたまま、その言葉を聞いた。
第七章 二十年前
まりが帰ったあと、清吉は台の前に残った。
袋は二袋なくなっていた。まりが青菜を二つ持っていって、料金箱に百円玉二枚を入れた。入れるところを、清吉は目の前で見た。
二袋で百八十円だから、二十円多い。清吉は何も言わなかった。そのことを、あとで考えた。
*
家に戻って、清吉は帳の一冊目を開いた。二十年前の四月からのものだ。表紙の裏に、清吉の字で一行ある。
つけはじめる。とし江に言われた。
この一行を、清吉は二十年見ていない。
二十年前、とし江が帳をつけろと言った。理由は、金が合わないからではなかった。
とし江は、清吉が数を覚えていられなくなったことを気にしていた。当時清吉は六十一歳で、袋の数を間違えるようになっていた。並べた数と、帰ってきて言う数が合わない。
「書きなさい」と、とし江は言った。
清吉は書きはじめた。書いたのは、袋の数と箱の中身だ。差額の欄は、最初の六年近く、空けていた。
空けていたのは、書かなかったからだ。合わない日があっても、書かなかった。
書かなかった理由を、清吉はいま思い出せる。とし江が、書くなと言ったからだ。
清吉は一冊目の、ある日のページを開いた。十九年前の七月。
内訳の下に、とし江の字で一行ある。清吉の字より丸い。
足りん分は書かんこと。清吉はその字を、指で押さえた。
なぜ書くなと言ったのかを、清吉はそのとき聞かなかった。聞かずに、六年近く書かなかった。とし江が死んだ年から、書きはじめた。
書きはじめたのは、数えたかったからではない。とし江が家にいなくなって、卓の上でやることがなくなったからだ。
清吉は帳を閉じて、仏壇の前に座った。
とし江の写真は、六十代のころのものだ。もっと後のものもあったが、痩せてからの写真をとし江が嫌がった。
清吉は線香を一本立てた、立てて、しばらく座っていた。
とし江は、この土地の人ではなかった。
隣の県から来た。二十四歳のときに、親の決めた話で嫁いできた。清吉は当時二十七歳で、農家の三男だった。
家は貧しかった。清吉は中学を出て働き、そのあと十年、土地を借りて畑をやった。
自分の土地になったのは、四十を過ぎてからだ。
無人の販売所を作ったのは、三十七年前だ。清吉が四十四歳のとき。とし江が四十一歳だった。
作った日のことを、清吉は覚えている。四月の日曜で、単管を四本切るのに午前がかかった。切ったのは近所から借りた金鋸で、刃を二本折った。その代金を払うと言ったら、いらんと言われた。
いらんと言った人は、二十年前に死んでいる。
作った理由は、市場に出せない野菜が余ったからだ。形の悪いもの、小さすぎるもの、傷のあるもの。捨てるより置いたほうがいいと、とし江が言った。
料金箱は清吉が作った。木を切って、穴を開けて、鉄の板を斜めに入れた。
鉄の板を斜めに入れたのは、とし江の考えだ。
「傾けても、出てこんようにしとき」
清吉はその通りに作った。そのときは、盗られないためだと思っていた。
盗られないためではなかったことに、清吉は三十七年目に気づいた。
出てこないようにすると、入れたほうも取り返せない。入れて、間違えたと思っても、手が入らない。
とし江が言ったのは、入れる側のことだったのだろう。多く入れてしまった人が、取り戻そうとして手を突っ込む。突っ込めば、そのことを人に見られる。
見られないようにしておけ、と。
清吉は仏壇の前から立って、台所へ戻った。立つときに膝が鳴った。仏壇の前で正座をすると、いつもそうなる。とし江が生きていたころは、椅子を持ってこいと言われた。持ってこなかった。戻って、差額を書きはじめた最初のページを開いた。
差額を書きはじめた最初のページに、清吉の字で一行ある。とし江が言ったことを、まだ守っとる。
守っていない。書いている。
一行の下に目を移した。日付と、内訳と、差額の数字が並んでいる。差額は九十円が多い。
書いてはいるが、清吉はその金を追ったことがない。追わなかった。
カメラを断ったのも、錠をつけなかったのも、追わないためだ。
清吉は帳を閉じた。閉じて、卓の上に十冊積んだ。積んで、上から手のひらをのせた。
書いてきたのは、盗られた額ではない。来た人の数だった。
*
十一月の第三週の土曜、清吉は青菜を八袋出した。いつもは四袋で、まりが来る日に六袋にしていた。八袋にしたのは、この日が初めてになる。
台の上に厚紙を置いた。石で押さえた。
書いたのは、一行だけだ、お母さんに、来てもらえませんか。
第八章 立岩あき
その日、まりは来なかった。
青菜は八袋のまま残っていた。料金箱の中身は八百三十円で、売れた袋は大根三、里芋二、白菜一。合わせて八百円になる。
三十円多い。厚紙は、石の下にそのまま挟まっていた。
*
十一月の第四週の土曜、清吉は同じ厚紙を立てた。置いて、栗の木の下ではなく荷台に腰かけて待った。
十時十分に、自転車が二台来た。
一台はまりだ。もう一台に、四十代の女が乗っていた。
まりより背が低い。清吉と並ぶと、頭が肩のあたりに来る。髪を短く切って、灰色の上着を着ている。
自転車を降りて、その人は台の前で立ち止まった。止まって、清吉のほうを見なかった。台の上の袋を見ていた。
「立岩あきです」
「芳賀清吉です」
「娘から聞きました」
あきの声は低く、語尾が下がった。清吉はその声を、聞いたことがある気がした。それだけで、思い出せない。
「上がってもらう家がないので、ここで結構ですか」
「かまいません」
あきは上着のポケットから、封筒を出した。茶封筒で、口を折って留めてある。セロテープは、変色していない。近いうちに留めたものらしい。
「二万七千円あります」
清吉は封筒を受け取らなかった。受け取らずに、荷台の縁を握った。
「数えたんですか」
「去年から数えました」
あきは封筒を台の上に置いた。置いて、両手を上着のポケットに戻した。
「三年で、三百回です。土曜が私で、水曜がまりです。青菜が九十円のときと八十円のときがあったので、平均を八十五円で出しました」
「一度に、何袋持っていきましたか」
「一袋です。私も、まりも、一度に一袋でした」
「三年、ずっとか」
「ずっとです。あの三年で、二袋取ったことはありません」
「三百回で二万五千五百円だな」
「はい。少し多めにして、二万七千円にしました」
清吉は封筒に目を落とした。台の上に置かれた茶封筒は、思ったより薄い。年金は口座に入るので、金を紙で受け取ることが、清吉には久しくなかった。
「札ですか」
「千円札です」
「二十七枚」
「はい」
清吉は封筒に触らなかった。触らずに、台の上の青菜をながめた。八袋ある。
「立岩さん。この金は、どこから出ましたか」
あきの手が、ポケットの中で動いた。
「弁当屋の給料からです」
「月に、いくら取り分けましたか」
「二千円です。出せない月は千円でした」
「一年と二か月ですか」
「はい」あきは言った。「三千円にしようとしましたが、続きませんでした」
清吉は封筒の厚みを、もう一度たしかめた。千円札が二十七枚で、三ミリほどだ。一年二か月かけて、その厚みになる。
「一年と二か月で二万七千円は、大きい額でしょう」
「大きいです」
清吉は荷台から降りて、台の反対側に回った。あきと台をはさんで向かい合う位置になった。
「立岩さん、わしは受け取れません」
あきの顔が上がった。
「なぜですか」
「受け取ると、あんたが三年、青菜を持っていったことになる」
あきは台に手をついた。
「持っていきました」
「持っていったのは知っとる。帳につけとる」
「では」
「金を受け取ると、あれが盗みになる」清吉は言った。「わしは二十年、あれを盗みとして書いておらん」
あきは手をついたまま、動かなかった。まりが横から口を出しかけて、やめた。
「芳賀さん」あきが言った。「私は、盗みだと思っています」
「あんたがどう思うかは、あんたのことだ」
「盗みでないとすると、何ですか」
清吉は台の上の袋の位置を、指で少しずらした。
「売れたんです」
あきの顔が動いた。
「売れていません。お金を入れていません」
「わしの帳には、売れた数を書く欄がある」清吉は言った。「あれは、なくなった袋の数を書く欄です。金の欄は別だ」
「別々に書いていたんですか」
「二十年、別々に書いとる」
*
清吉は軽トラの助手席から、帳の一冊を持ってきた。台の上に開いて、あきに見せた。
「ここが袋の数。ここが箱の中身。合わんときだけ、いちばん下に差額を書く」
あきはその三行をたどった。見て、指を差額の欄にあてた。
「この数字は、私です」
「あんたのだけとは限らん」
清吉は帳のページを繰った。繰って、九年前のところで止めた。
「ここに、九十円と書いてある日が、月に一度か二度ある。ここからここまでの三年だ」
あきはその並びを、上から下まで目で追った。追って、一つのところで指を止めた。
「この日は、私ではありません」
日付をあらためた。九年前の十一月の水曜にあたる。
「なぜ分かりますか」
「祖母が入院していました。十一月は、ずっと病院にいました」あきは言った。「その月は、家で炊いていません」
清吉は帳の十一月を、上から見た。差額のある水曜が、三日ある。
「三日ある」
「私ではありません」
「娘さんは」
まりが横から答えた。
「私も行っていません。母が病院にいるあいだは、私も泊まっていました」
清吉は帳を閉じかけて、閉じなかった。
三日ぶんの水曜が、誰の分かが分からなくなった。清吉はその三日の日付を、指で押さえた。
九年前の十一月の二日、九日、十六日。三日とも水曜で、九十円足りない。
「立岩さん、あんたのほかに、いたわけだ」
あきは台の上の封筒を、少し自分のほうへ引いた。
第九章 十一月の三日
あきとまりが帰ったあと、封筒は台の上に残った。清吉はそれを軽トラの助手席に置いて、家へ持ち帰った。
持ち帰って、台所の卓に置いた。開けなかった。開けずに、その横に帳の九年前の一冊を並べた。
九年前の十一月。
差額のある水曜が三日ある。二日、九日、十六日。三日とも九十円足りない。
あきは、その月は家で炊いていないと言った。まりも来ていない。
清吉は同じ月の土曜をあらためた。土曜の差額はない。四回とも合っている。
土曜が合っているのは、あきが来ていないからだ。来ていないのに、水曜だけ三日足りない。
三日を紙に写した。使ったのは新聞の折り込みの裏で、この家では計算はいつもそれでやる。写して、紙を電灯の下に置いた。
九十円が三回。青菜だ。
清吉は帳の九年前を、十一月の前後まで広げてたどった。
十月は水曜の差額が二日ある。まりの分だ。
十二月は一日ある。
一月は二日。
十一月の三日が、その並びに混ざっている。だから清吉は、これまで区別できなかった。
清吉は九年前の十一月の三日を、別の角度から当たることにした。当たる先は、袋の数にした。
帳には売れた袋の数と内訳が書いてある。十一月二日の内訳は、青菜が三、大根が二、里芋が一。
青菜が三だ。
清吉は同じ月の、差額のない水曜を探した。
十一月に水曜は五日ある。二日、九日、十六日、二十三日、三十日。差額があるのは最初の三日になる。
二十三日の内訳を見た。青菜が二、大根が一、白菜が一。
青菜が二で、金は合っている。
清吉は立岩親子の三年ぶんを、袋の数で追い直した。追うのに、帳の三冊を並べて開いた。卓が狭いので、一冊は膝に載せることになった。
あきは、一度に一袋だったと言っていた。まりも同じだという。
親子は、一度に一つしか持っていっていない。
清吉の帳のほうで、青菜が二つ以上減って金が合わない日があれば、親子だけではない。
九年前の十一月の三日は、青菜が三、二、三だった。一つではない。
清吉は紙に、二つの列を書いた。一つずつ持っていく人と、二つ以上減っている日。
二つ以上の日には、親子のほかに誰かがいる。
清吉は帳の十年分を、青菜の数で見直した。見直すのに、二日かかった。
九年前から六年前までの三年に、青菜が二つ以上減って金が合わない日が、四十七日ある。
そのうち四十一日が土曜だ。
土曜だ。あきは土曜に来ていた。青菜を一つ持っていった。
清吉は数が合わなくなった。あきの分が一つなら、土曜に二つ以上減っている日は、あきのほかにもう一人いる。
清吉は栗の木のことを思い出した。あきは栗の木の下で四十分待った。待って、軽トラが県道に出るのを見て、それから台に来た。
四十分のあいだに、ほかに来る人がいたら。
清吉は帳の九年前の、いちばん最初の差額の日を開いた。
九年前の四月の土曜。青菜が三、大根が一。差額が百六十円。
青菜三つで二百四十円。大根が百円。合わせて三百四十円。
箱に入っていたのは百八十円だ。
組み合わせを、紙の上で分けた。青菜一つと大根一つを買って百八十円入れた人と、青菜二つを入れずに持っていった人。
これで合う。あきが百八十円入れていたことになる。あきは入れていないと言った。
清吉はもう一つの分け方を書いた。
青菜二つと大根一つを買って二百六十円入れる人。差額は八十円。合わない。
三つ目を書いた。
青菜一つと大根一つを百八十円で買った人。青菜を一つずつ、金を入れずに持っていった人が二人。
清吉は鉛筆を置いた。鉛筆は卓の上を転がって、端で止まった。卓が傾いている。傾きは前からで、直していない。
紙の上の分け方は、いくつも作れる。だから決まらない。
決まらないことを、清吉は二十年やってきた。決まらないままにしておくのが、この台のやり方だった。
*
十一月の第五週の土曜、清吉は台に厚紙を立てた。書いたのは二行になった。
九年前の十一月に、水曜に青菜を持っていった方。
どなたか、お心当たりはありませんか。
置いてから、清吉は栗の木の下に軽トラを停めた。
*
その日、まりが来た。一人だった。台の前で厚紙を読んで、それからこちらを振り返った。
清吉は軽トラから降りて、農道を歩いた。
「立岩さん」
「これは、どういうことですか」
清吉は厚紙の横に立った。
「あんたの母親の分と、別の日がある」
「三日の水曜ですか」
「あれだけではない。土曜にも、あんたの母親のほかにおる」
まりは厚紙を見たまま、しばらく黙った。
「芳賀さん」
「はい」
「母は、その人を知っているかもしれません」
清吉はまりの顔を見た。
「なぜだ」
「栗の木の下で、母は一人ではなかったと言っていました」
第十章 栗の木の下
あきは、その日の夕方に来た。
弁当屋の仕事が四時に終わる、終わって、自転車でここまで来た。清吉は回収を遅らせて、台の脇で待った。
日が落ちていた。十一月の五時は暗い。
清吉は軽トラのライトをつけて、台のほうへ向けた。
「栗の木の下に、ほかに誰がいましたか」
あきは自転車のスタンドを立てて、ハンドルに手をかけたままにした。自転車は古いもので、前かごの網が一か所折れている。折れたところを、針金で留めてあった。
「二人いました」
「二人というのは、誰です」
「一人は、いつもいました。もう一人は、途中から来なくなりました」
あきが話したのは、名前ではなかった。名前を知らないという。男とは三年顔を合わせ、女とも何度も会った。それでも名前を聞かなかった。
「何を話すんですか」
「話しません」あきは言った。「立っているだけです」
「三年、立っとるだけか」
「天気のことは言いました。それだけです」
「聞かない場所です」
「聞かんか」
「あそこで会う人は、聞かれたくない人です」
清吉は台の上の袋に目を落とした。
いつもいたのは、六十くらいの男だった。自転車ではなく、歩いてきた。県道の反対側から農道に入って、栗の木の下に立つ。
「立ったまま待つんですか」
「立っています。あの人は座りません」
「四十分か」
「四十分です。私が自転車に座っているのを、あの人は一度も見ませんでした」
あきはそこで言い直した。
「私が座らなかったんです。あの人が立っているので」
「その人は、青菜を二つ持っていきました」
「二つも持っていくんですか」
「一つは自分の分で、もう一つは誰かの分だと言っていました」
男の姿を、頭の中に置こうとした。置けなかった。二十年、台に来る人を見ていない。
「歩きなら、どこから来る」
「県道の向こうです。あの先に、市営の住宅があります」
その住宅は知っていた。県道を西へ一キロ行った先に、二階建てが四棟ある。
もう一人は、女だった。年は分からない。あきより上で、清吉より下。
「その人は、栗の木に来なくなりました。一年目の途中です」
「来なくなった理由は」
「言いませんでした。ただ、最後に来た日に、一つ言われました」
あきはハンドルから手を離した。
「ここに来るのをやめたら、あの人が困ると言われました」
「あの人というのは、誰です」
「芳賀さんのことです」
清吉は台の面に手をついた。
「わしが困る」
「そう言われました。意味が分からなかったので、聞き返しました」
「なんと」
「袋が残ると困るだろう、と」
清吉は手を台から離した。
袋が残ると困る。清吉はそれを、二十年考えたことがない。
残った袋は持ち帰って、畑の隅に捨てる。それを、清吉はいつも夕方にやる。人が通らない時間だからだ。
なぜ夕方にやるのかを、清吉は自分に説明していなかった。
「その人は、それだけ言って来なくなりました」
「一年目の途中というのは、いつごろだ」
「秋です。九年前の秋だと思います」
清吉は帳の年を数えた。九年前の秋なら、十一月の三日の水曜と重なる。
「十一月か」
「その前です。十月の終わりだったと思います」
清吉は十一月の三日が、その女の分ではないことを確かめた。女は十月の終わりに来なくなっている。
「では、十一月の三日は、六十の男か」
「あの人は、水曜には来ません」あきは言った。「歩きだから、時間がかかります。土曜だけです」
清吉は台の脇に立ったまま、農道の暗いほうへ目を向けた。
「立岩さん、あんたは水曜に来なかったな」
「来ていません。パートの日です」
「娘さんは、十一月は病院にいた」
「いました」
「では、十一月の三日は、四人目だ」
あきは自転車のサドルに手をかけた。
「芳賀さん、その三日を、なぜそんなに調べるんですか」
その問いには、すぐ答えなかった。答えられなかったのではない。答えを言うと、この二十年の言い方が変わる。
清吉は台の上の青菜を、一袋持ち上げた。
「あんたの分は、分かった。あの六十の男の分も、これで分かる。来なくなった女の分も分かる」
「はい」
「分かると、帳の数字が減る」
あきの手が、サドルの上で止まった。
「減ると、どうなりますか」
「わしが二十年書いてきた数が、人の数でなくなる」
清吉は袋を台に戻した。
「差額の数字は、来た人の数だと思って書いとった。あんたの分と、男の分と、女の分を引くと、残る数が少ない」
「少ないと」
「来とったのは三人だったことになる」
あきは自転車から手を離した。
「三人では、少ないですか」
「少ない」清吉は言った。「二十年、わしはもっと来とると思っとった」
「なぜですか」
「そう思っておらんと、続けられんからです」
農道の先で、車のライトが通った。県道を走る車で、この時間は一分に一台くらいだ。昼は三十秒に一台になる。清吉はその差を、台の前に立つ時間で覚えている。
あきはそのライトを見て、それからこちらへ戻った。
「芳賀さん。三人でも、何年ぶんもあります」
清吉は返事をしなかった。
「私が三年、あの男の人も三年。来なくなった人は、もっと短いです」あきは言った。「三人ぶんを足しても、二十年には遠いです。それでも、その何年かは二十年のどこかに入っています」
清吉は台の右端の料金箱に、手をのせた。木の面が冷たかった。十一月の夕方は、木が先に冷える。
「立岩さん、あの封筒は返します」
「受け取ってください」
「受け取ると、あんたの三年が消える」
あきは何も言わなかった。
清吉は箱の底板を開けて、中身を出した。その日の中身は千六十円だった。
出して、掌に載せた。硬貨が冷えている。
「立岩さん、これを見てください」
あきは軽トラのライトの中で、清吉の掌を見た。十円が六枚、五十円が二枚、百円が四枚、五百円が一枚。
「千六十円です」
「はい」
「今日売れた袋は、六百八十円です」
あきの顔が動いた。
「多いです」
「三百八十円多い」清吉は言った。「今日は誰かが、多く入れとる」
第十一章 多く入れる人
十二月の第一週の土曜、清吉は台に厚紙を置かなかった。置くのをやめたのは、書くことがなくなったからだ。
代わりに、青菜の袋を十詰めた。十は多すぎる。四十日の畑から、その日に切れる限りの量になる。
十詰めて、台に並べた。
*
夕方に回収に行くと、青菜は四袋残っていた。
料金箱の中身は千四百二十円。売れた袋は青菜六、大根二、里芋一。合わせて八百九十円になる。
五百三十円多い。清吉は箱を家まで持ち帰って、卓の上で数え直した。
十円が二枚、五十円が四枚、百円が七枚、五百円が一枚。合わせて千四百二十円。
五十円が四枚ある。清吉は十一月の帳を繰った。五十円が三枚以上入っていた日を数えると、十一月に五日ある。
そのうち四日が、多く入っていた日だ。
清吉は五十円という硬貨のことを考えた。財布から出すとき、五十円は選ばないと出てこない。百円と間違えることがあるので、指で穴を探して確かめる。
穴を探して出す人は、出すつもりで出している。
里芋は百五十円だから、百円と五十円で払える。五十円が入っていること自体は、おかしくない。
おかしいのは枚数だ。里芋は日に一つか二つしか売れない。それなのに、五十円が四枚も入る日がある。
四枚のうち二枚か三枚は、釣りの合わない金だ。
清吉は帳を十年ぶん繰り直した。繰ったのは、多かった日のほうだ。
差額の欄には、足りない額だけを書いてきた。多い日は書いていない。書いていないから、あとで追えない。
追えるのは、内訳と箱の中身の差だ。清吉はそれを計算し直した。
三日かかった。一日目に四年ぶん、二日目に四年、三日目に二年を数えた。三日目がいちばん速かったのは、やり方が決まったからだ。
十年で、多かった日が二百三十一日あった。
足りなかった日は、十年で三百八十四日ある。清吉はその二つの数を、紙に並べて書いた。
並べて書いて、清吉はしばらく動かなかった。十四年、清吉は足りない側だけを書いてきた。
多い側は書かなかった。だから、数えたことがない。
数えてみると、足りない日の六割にあたる。
清吉は多かった日の額を足した。足すのに、また一日かかった。十年で、七万二千円ほどになる。
足りなかった日の額を足すと、五万八千円ほどだ。多いほうが上回っていた。
清吉は鉛筆から手を離して、天井のほうを仰いだ。二十年、金が足りないと思って書いてきた。
少なくとも、この十年は足りていた。そのことを、清吉は自分で書き落としていた。
*
十二月の第二週の土曜、清吉は栗の木の下に軽トラを停めた。五時二十分だ。台を開ける前の時間になる。
暗い。十二月の五時二十分は、まだ夜になる。
栗の木の下に、人がいた。
歩いてきた男だった。
六十代の後半か、七十くらいだ。作業着の上に綿入れを着ている。手袋をしていない。
清吉が軽トラから降りると、男は栗の木から離れかけて、止まった。
「芳賀さんか」
「そうです」
男は西島と名乗った。県道の向こうの市営住宅にいる。歩いて二十五分かかる。
「なんで、こんな時間に」
「あんたが袋を並べる前に来て、待っとる」西島は言った。「並べたあとに来ると、人と会う」
「会うと困りますか」
「困る」
清吉は栗の木の幹に手をついた。
「西島さん、青菜を二つ持っていっとったな」
「持っていっとった。二つだ」
「金は」
「入れとらん年もある。入れとる年もある」
清吉は幹から手を離した。
「入れとらん年は、いつです」
「九年前から三年ほどだ」
「そのあとは」
「入れとる。多めに入れとる」西島は言った。「五十円を足しとるのは、わしだ」
答えを、聞くまでに待たなかった。待たずに聞いていた。
西島は、九年前に妻を亡くしている。そのあとの三年、金がなかった。年金の手続きが遅れて、一年半、入らなかった時期がある。
「食うものは、どうしとりましたか」
「青菜と、米だ。米は前の年に買った袋が残っとった」
「一年半ですか」
「一年半だ。痩せた」西島は言った。「痩せたことは、誰にも言っとらん」
「役所に行ったが、書類が揃わんかった」
「揃わんと」
「戸籍が要ると言われた。妻の分だ。取り寄せに二か月かかった」
清吉は栗の木の下で、その話を聞いた。聞きながら、西島がなぜ二つ持っていったのかを聞かなかった。
聞かなくても分かった。もう一つは、同じ住宅の誰かの分だろう。
「西島さん、もう一つは誰の分です」
「隣の人だ。もう死んだ」
清吉は台のほうを見た、暗くて、台は見えない。単管の脚が四本、影として立っている。
「西島さん、いま多めに入れとるのは」
「あの三年の分だ」
「いくらになりますか」
「知らん。数えとらん」西島は言った。「数えたら、返せる額でなくなる」
清吉は自分の帳のことを言わなかった。言えば、西島の三年が数字になる。
「西島さん、多めに入れんでいいです」
「そう言われても、入れる」
「わしの帳では、足りとります」
西島は綿入れの襟を、片手で寄せた。
「芳賀さん、帳をつけとるのか」
「二十年つけとります」
「じゃあ、わしの分は書いてあるな」
「書いてあります」
西島はしばらく黙って、それから言った。
「見せてくれるか」
*
清吉は軽トラの助手席から、九年前の一冊を持ってきた。ライトの下で開いて、差額の欄を見せた。
西島は指で、日付を上から下へたどった。たどって、途中で止めた。
「この日は、わしじゃない」
清吉は日付をあらためた。九年前の十一月九日。水曜だ。
「なぜ分かりますか」
「わしは水曜に来ん。歩きだから、朝が間に合わん」
その答えを、あきから聞いたものと重ねた。
「西島さん、九年前の十一月の水曜に、三日ぶん足りとらん」
「三日というのは、いつだ」
「二日、九日、十六日です」
西島は帳の上に指を置いたまま、その三つの日付をたどった。見て、顔を上げた。
「その年の十一月なら、心当たりがある」
第十二章 もう一人
西島は、住宅の隣の部屋のことを話した。九年前の秋、隣に若い夫婦が入った。二十代で、子供が一人いた。
「一歳か二歳だ。抱いとった」
「その人が」
「奥さんのほうだ。うちの前を通って、県道を渡っていった」
清吉は栗の木の下で、その話を聞いた。幹に手を当てていると、朝の冷えが手のひらに入ってくる。若い母親が、子供を抱いて県道を渡る。渡って農道に入る。
「歩きですか」
「歩きだ。抱いとるから、自転車は無理だろう」
「二十五分ですね」
「片道二十五分。往復で五十分だ」
清吉は五十分という時間を、頭の中に並べた。八十一歳のいまは、県道まで歩くと十五分かかる。若いころは八分だった。子供を抱いて二十五分歩く足が、どれくらいの速さかは分からない。子供を抱いて五十分歩いて、青菜を持って帰る。
抱いて歩けば、片手しか空かない。青菜の袋は片手で持てるが、二つは持てない。だから三つ減った日は、二つ買って一つを持っていったのではなく、袋を提げ直しながら歩いたことになる。
清吉はそこまで考えて、考えたことに意味がないと気づいた。歩き方を当てても、その人には届かない。
「西島さん、その人は水曜に行ったんですか」
「わしが見たのは、二度だ。両方とも昼だった」
「昼というのは、何時ごろです」
「昼の二時ごろだ。わしが洗濯物を取り込む時間だ」
昼の二時なら、台に袋が並んでいる。清吉が並べるのは六時で、回収は五時だ。昼の二時なら、その真ん中になる。
「その人は、何日ぐらい来とりましたか」
「一か月ほどだ。十一月だと思う」
清吉は帳の三日を思った。
「二日、九日、十六日です」
西島は綿入れの袖に手を入れた。
「そのくらいだろう。月の終わりには、もういなかった」
「いなかったというのは」
「引っ越した。十一月の終わりだ」
清吉は帳の十一月二十三日を思い出した。差額のない水曜にあたる。
「どこへ行かれましたか」
「知らん。挨拶もなかった」
「一か月で出ていったんですか」
「入ったのは十月だ。二か月おらんかった」西島は言った。「あの部屋は、そういう部屋だ」
その言い方を、聞き返した。
「そういう部屋というのは」
「短く出ていく人が入る」西島は言った。「うちの棟は、家賃が安い。一時的に入る人がおる」
「一時的というのは、何か月です」
「二か月か、三か月だ。長い人で半年」
「そのあとは」
「知らん。挨拶をせんで出ていく」西島は言った。「挨拶をせんのは、次に行く先を言えんからだろう」
清吉は市営住宅の棟の形を思い浮かべた。二階建てが四棟で、各棟に八戸ある。三十二戸になる。
三十二戸のうち、そういう部屋がいくつあるかを、清吉は知らない。
「一時的に」
「事情のある人だ。それ以上は知らん」
清吉は栗の木の幹に、また手をついた。
「西島さん、その人の名前は」
「聞いとらん」
「顔は」
「見とる。若い人だ」
「もう一度見たら、分かりますか」
西島は少し考えて、首を振った。
「九年たっとる。分からんだろう」
清吉はその晩、家で帳を開いた。九年前の十一月のところだ。
三日ぶんの水曜。青菜が三、二、三。九十円足りない。
三つの数を、いま初めて別のものとして読んだ。
青菜が三つ減って、九十円しか足りない。三つで二百七十円だから、百八十円は入っている。ただ、その百八十円が青菜を買った人の金だとは限らない。大根と里芋の客の分も、同じ箱に入っている。
いちばん単純に読めば、二つ買って一つを入れなかった形になる。清吉はその形を、紙に書いた。
書いて、二日目を見た。青菜が二つ減って、不足は九十円。三日目は三つで、不足はやはり九十円だった。
三日とも、帳の上では青菜一袋ぶんが足りていない。いちばん単純な形なら、一袋だけ入れなかったことになる。
清吉は鉛筆を置いた。金を持っていた人だとすれば、持っていて一つ分だけ入れなかったことになる。
その一つが、子供の分だったのか。清吉はそれを確かめる手立てを持っていない。
*
十二月の第三週の土曜、清吉は台に厚紙を立てた。書いたのは三行になった。
九年前の十一月に、こちらで青菜を買われた方。
足りていた分がありますので、お知らせください。
芳賀
置いてから、清吉はそれを読み返した。読み返して、石を外した。
足りていた分がある。というのは嘘だ。足りていない。清吉の帳には九十円足りないと書いてある。
清吉は厚紙を裏返して、書き直した。
九年前の十一月に、こちらへ来られた方。
どうされているか、知りたいだけです。
芳賀
書いて、石で押さえた。押さえて、軽トラに戻った。
戻る途中で、清吉は台を振り返った。厚紙が、袋のあいだに立っている。
二十年、清吉は台に文字を置いたことがなかった。置いていたのは値段の札だけだった。
今年に入って、四つ書いた。
四つを、順に思い出した。
五十円はけっこうです。
青菜、五袋までは四百五十円です。六袋以上は五百円で結構です。
お母さんに、来てもらえませんか。
九年前の十一月に、水曜に青菜を持っていった方。
四つとも、金のことを書いていない。
いや、一つ目と二つ目は金のことだ。清吉はそこを直した。三つ目と四つ目が、金のことでない。
十月から十二月までの二か月半で、清吉は金のことを書くのをやめている。
やめたことに、清吉は気づいていなかった。
第十三章 とし江の欄
十二月の第四週の土曜、清吉は台の下の箱に紙を見つけた。厚紙への返事ではない。まりの字だった。
母が話したいと言っています。家に来てもらえませんか。
立岩
住所が書いてあった。県道を東へ二キロ、団地の四号棟の一〇三。
清吉はその日の夕方に行った。
団地は二階建てが六棟あり、四号棟はいちばん奥になる。棟のあいだに物干しが並んでいて、夕方なので取り込まれていた。一〇三の玄関に、自転車が二台立てかけてある。
チャイムを鳴らすと、まりが出てきた。
「上がってください」
*
部屋は二間だった。台所と、六畳。そこに卓が一つあり、その上に紙が広げてある。
壁に何も掛かっていない。カレンダーも、写真もない。掛けるための釘の穴が、二か所だけ残っている。
あきは卓の向こうに座っていた。清吉が入ると、座ったまま頭を下げた。
「狭いところで、すみません」
「結構です」
卓の上の紙は、あきの帳だった。大学ノートで、罫線の上に日付と数字が並んでいる。
「日付は、どうやって出されましたか」
「祖母の介護記録が残っていました。通いの車が来た日に印があります」あきは言った。「雨でまりがバスに乗った日にも、印をつけていました。バス代を書いていたので」
「去年から書いたものです」
清吉はそれを見た。日付が三年分、上から下へ書かれている。青菜の値段と、その日の枚数。
八十五円で計算した合計が、いちばん下にある。
清吉は自分の帳を持ってきていた。持ってきたのは三冊で、あきの三年にかかる分だ。軽トラの助手席から出して、卓の上に並べた。
表紙が茶色く変わっている。持ち歩くものではないので、この家に出したのは初めてだった。
あきの帳と、清吉の帳。二人の帳が並んだ。
「立岩さん、突き合わせてみますか」
「はい」
突き合わせは二時間かかった。あきの帳の日付を読み、清吉が自分の帳の同じ日を開く。差額があるかを見る。
途中でまりが茶を出した。湯呑みが二つで、あきの分はなかった。あとで聞くと、この家に湯呑みが二つしかない。
三百の日付のうち、清吉の帳で足りない日は百七十六日だった。多い日が九十八日ある。ぴったり合っている日は、二十六日しかない。
あきは、その数字を見て動かなかった。
「多い日が、九十八日あります」
「そうなりますか」
「私は、入れていません」
「入れていないなら、ほかの誰かが多く入れとります」
清吉は多かった日の紙を出した。十年ぶんを数え直した紙で、多かった日が二百三十一日ある。
「あんたの三年の九十八日ぶん、額を足しますか」
あきはうなずいた。足すのに、また一時間かかった。
二万一千円ほどになった。あきが用意した封筒は二万七千円だ。
「立岩さん、六千円の差です」
あきは卓の上の自分の帳を、両手で押さえた。
「六千円なら、払えます」
「そういう話ではないです」
「では、どういう話ですか」
清吉は自分の帳を閉じた。
「あんたが持っていった三年に、誰かが多く入れとった」
「はい」
「その人は、あんたのことを知らん」
「知りません」
「わしも、知らんかった」清吉は言った。「書いておらんので、二十年知らんかった」
あきは帳から手を離した。
「芳賀さん、その多く入れた人は、何のために入れたんですか」
「西島さんという人は、自分の三年の分だと言っとりました」
「その人も三年ですか」
「九年前から三年、金がなかった。その分を、いま返しとる」
まりが台所から出てきて、卓の脇に座った。
「その人と、母は栗の木の下で会っていた人ですか」
「そうです」
「じゃあ、その人が返している分を、母が使ったことになりますか」
その問いに答えるのに、少し時間をかけた。
「順番が逆です」
まりは首を傾げた。
「逆というのは」
「西島さんが金を入れんかった三年に、多く入れとった人が、別におります」
清吉は多かった日の紙を、いちばん上まで指でたどった。
「十年前にも、多かった日があります。西島さんが入れんかった三年より前です」
「その人は」
「分かりません。紙はそこで切れとります。それより前は、数えておらん」
あきは卓の上で、両手を重ねた。
「芳賀さん、それは終わらない話ですか」
「終わりません」
「では、私はどうすればいいですか」
清吉は封筒のことを言おうとして、やめた。
やめて、別のことを言った。
「立岩さん、青菜を炊けるようになりましたか」
あきの顔が上がった。
「炊けます」
「ほかのものは」
「ほかのものも、炊けるようになりました。弁当屋で覚えました」
清吉は卓の上の帳を、自分のほうへ引いた。
「その青菜は、どこで買っとりますか」
あきは答えるまでに、間を置いた。
「スーパーです」
「うちの台には」
「行っていません。六年、行っていません」
清吉は帳を膝の上に載せた。
「なぜ行かんのです」
「行けません」
「行けんというのは」
「入れられなかった三年があるからです」あきは言った。「あそこに行くと、そのことを思い出します」
清吉は膝の上の帳の表紙を、指でなぞった。
「立岩さん、わしの話をしていいですか」
あきはうなずいた。清吉は、その話を六十年していない。だから、どこから話すかが決まらなかった。
「わしは十五のときに、米を盗みました」
あきとまりが、両方とも動かなくなった。
「隣の村の田の、干してあるやつです。夜に行って、束を二つ持ち帰りました」
「それは」
「戦争のあとです。うちに何もありませんでした」
清吉は帳の表紙から、指を離した。
「見つかりませんでした。誰にも言っておりません」
清吉はそこで、卓の上の湯呑みに手をかけた、かけて、持ち上げなかった。
「持って帰って、家に置きました。母が何も聞きませんでした」
「お母さんは」
「聞かんかったんです」清吉は言った。「聞かんということは、分かっとったということです」
「六十年ですか」
「六十六年です」清吉は言った。「言わんでいたのは、返せんからです」
あきは何も言わなかった。
「返す先が、分かりません」
清吉は続けた。
「その田の家は、もうありません。人が出ていって、家が壊れて、いまは山です」
「では」
「返せんものを、返せんまま持っとります」
あきは膝の上の手を、少し動かした。
「芳賀さん、それは重いですか」
「重いです。ずっと重いです」
「軽くなりませんか」
「六十六年、軽くなっとりません」清吉は言った。「軽くする方法を、わしは一つだけ知っとります」
「何ですか」
「置く場所を作ることです」
清吉は膝の帳を、卓の上に戻した。
「立岩さん、あの箱は、返せんものを入れる箱です」
あきは卓の上の封筒を、まだ出していなかった。出さずに、両手を膝に置いていた。
「私は、返したいんです」
「返せます。ただ、額では返りません」
終章 料金箱
一月の第二週の土曜、清吉は台に新しい札を挟んだ。青菜の値段を変えた。九十円から八十円に下げた。
下げた理由を、清吉は自分に説明していない。畑の出来は去年と変わらず、手間も同じだけかかっている。
値段を書き直すのは、二十年で三度目になる。
*
その日から、あきが台に来るようになった。封筒は、あきが持って帰った。持って帰る前に、あきは一つだけ聞いた。返さなくていいのかと。清吉は、返す形を変えてくれと答えた。来るのは土曜の朝の六時二十分だ。清吉が袋を並べ終えて、軽トラに乗る前の時間になる。
栗の木の下で待たない。農道の入口から歩いてくる。
「おはようございます」
「おはようさん」
あきは青菜を二袋買う。
八十円が二つで百六十円。料金箱に百円玉を二枚入れる。四十円多い。
清吉は最初の週にそれを言った。
「四十円多いです」
「知っています」
それ以上は、どちらも言わなかった。
*
二月に、清吉はもう一つ札を書いた。料金箱の横に立てる小さな板で、油性のペンで書いた。
こまかいお金がないときは、次でけっこうです。書いて、台に立てた、立てて、三日で外した。
外したのは、あきに言われたからだ。あきはその朝、台の前で板を読んで、しばらく黙っていた。
「芳賀さん、あれは書かないほうがいいです」
「なぜです」
「書いてあると、次に入れなかった人が、自分を数えます」
その言い方を、二日考えた。
考えて、板を物置に片づけた、片づけて、代わりに何も置かなかった。
台の上にあるのは、袋と、値段の札と、料金箱だけになった。三十七年前と同じ形になった。
*
三月に、西島が来なくなった。三週続けて来ないので、清吉は市営住宅へ行った。棟の入口の集合ポストで、名前を探した。
西島の名前が、テープで消してある。清吉は管理人の部屋に行って、聞いた。
「西島さんは、施設に入られました」
管理人は五十くらいの男で、名簿を見ながら答えた。
「いつです」
「二月の末です」
「どこの施設か、聞いていいですか」
「教えられません」管理人は言った。「ご家族の意向です」
清吉はそれ以上聞かなかった。聞かずに、県道を歩いて戻った。歩いたのは、軽トラを台のところに置いてきたからだ。
二十五分かかった。西島がこの道を三年歩いたことを、清吉は歩きながら考えた。往復で五十分になる。
*
台に戻って、清吉は料金箱を開けた。
中身は六百八十円だった。売れた袋は青菜三、大根二。合わせて四百四十円になる。
二百四十円多い。五十円が二枚入っていた。
二枚を、掌に載せた。五十円玉は穴が開いている。穴のところに、指の腹が当たる。
三十七年、清吉はこの箱から硬貨を出してきた。出すのは夕方で、そのあと軽トラの助手席で数える。家まで持って帰ると忘れるからだ。西島は二月の末に施設へ入っている。三月の五十円は、西島のものではない。
五十円を入れる人が、ほかにいる。清吉は帳を出して、その日の欄を埋めた。埋めてから、鉛筆を止めた。
差額の欄に、清吉は初めて多い額を書いた。二百四十円多い。と書いた。
書いて、その字をながめた。十四年、この欄には足りない額だけを書いてきた。
書き足すのに、二十年かかった。
*
四月に、清吉は帳を新しく始めた。十一冊目になる。
買ってきたのは県道沿いの文具屋で、学習帳が三冊で三百三十円だった。同じものを二十年買っている。店の人が変わっても、置き場所は変わらない。
一冊目の表紙の裏に、二十年前の一行がある。つけはじめる。とし江に言われた。
十一冊目の表紙の裏に、清吉は一行書いた。多い分も書く。
*
五月の第二週の土曜、清吉は台の下の箱に紙を見つけた。
見たことのない字だった。細くもなく、丸くもない。ボールペンだ。
九年前の十一月に、こちらへ来ました。清吉はその紙を、台の上で開いたまま見ていた。
紙には、それだけ書いてあった。名前も、住所も、額もない。
一行を、三度読んだ。読んで、字の形を見た、ボールペンで、線に迷いがない。書き慣れた手をしている。
九年前に抱かれていた子は、いま十歳か十一歳になる。書いたのが母親なら、三十代の後半になる。
清吉は台の上の袋を数えた。青菜が二袋なくなっている。八十円で百六十円になる。
料金箱を開けると、中身は九百二十円だった。売れた袋は、青菜二、大根三、里芋二。合わせて七百六十円になる。
百六十円多い。
清吉は台の脇に立って、農道の先を見た。五月の朝は明るく、県道を車が通る音が、続けて三度した。三度のうち二度は、同じ方向へ走っていった。この時間は、町へ出る側が多くなる。
栗の木は、そこに立っている。三十七年前より太くなって、下の枝が二本折れている。折れたのは去年の台風のときだ。
栗の木の下に四十分立っていた人たちのことを、清吉は考えた。あきと、西島と、来なくなった女。三人の名前を、清吉は二人しか知らない。
九年前の十一月に来た人が、今日また来た。そのことだけが、紙に書いてある。
清吉は紙を折って、上着の内側に入れた、折り目は二つで、四つ折りにはしなかった。四つに折ると、開いたときに字が折り目にかかる。
入れて、料金箱の位置を直した。台の右端から五センチ内側だ。左右の位置は、三十七年変えていない。
直して、軽トラに乗った。乗って、エンジンをかける前に、もう一度台をながめた。
台には、青菜が二袋残っている。八十円だ。三十七年前は五十円だった。
清吉は八十一歳で、この台をあと何年開けられるかを、数えたことがない。
数えないでいる。
*
家に戻って、清吉は帳の五月のページを開いた。
日付を書いた。売れた袋の内訳を書いた。箱の中身を書いた。
差額の欄に、百六十円多い、と書いた。書いて、その下に一行足した。
九年前の十一月の人が来た。書いて、鉛筆を置いた。
清吉は卓の上の帳を、閉じなかった。開いたまま、台所の電気を消した。
窓から、外の明るさが入ってきていた。五月の朝は、電気が要らない。
*
清吉は台所を出て、畑に行った。青菜の畝は四本あり、そのうち三本を切り終えている。四本目が、来週切れる。
畝の端に、切り落とした葉の根元を捨てる場所がある。三十七年、同じ場所に捨てているので、そこだけ土が黒い。
切って、袋に詰めて、台に並べる。土曜の朝の六時だ。
六時に来る人はいない。清吉が帰ったあとに、人が来る。それでいいと、三十七年やってきた。
畑の端から県道が見える。まだ車の少ない時間で、通ったのは一台だけだった。
清吉は畝の前にしゃがんで、青菜の葉を一枚、指で起こした。裏に虫の食った穴が二つある。この程度なら袋に入れる。入れて、値段は変えない。
穴の開いた葉を選んで持っていく人は、いない。持っていくのは、いつも上のほうの袋だ。だから清吉は、下のほうに穴のあるものを詰める。三十七年、そうしてきた。誰にも言っていない。
