【小説】あの山を見ていた
あらすじ
「この場所からじゃないと、あいつが見えないから。」
東京から田舎の高校へ転校してきた少女・水城紗季。
誰も寄せ付けない彼女は放課後、屋上のフェンスを越え、毎日決められた“8分間”だけ遠くの山を見つめていた。
危険な危険行動を止めようと見張り始めた控え野球部の「俺」は、彼女の不器用で真っ直ぐな秘密に踏み込んでいく——。
遠い日の約束、届けたい想い、動かない山。
青春の焦燥と痛みを透き通るような筆致で描く、甘酸っぱく切ない物語。
第一章 転校生
水城紗季が転校してきたのは、五月の連休が明けた翌日だった。
朝の教室で、担任の木村が「東京から来た」と言った。その一言で、教室の空気が動いた。動いたのが、後ろの席からでも分かった。
東京。
この町では、それだけで肩書きになる。うちの高校から東京の大学へ行くのは学年で数人。遊びに行くにも特急で二時間半かかる。行ったことのない人間のほうが多い。俺も修学旅行で三日いただけだ。
「水城紗季です。よろしくお願いします」
それだけだった。
趣味も、部活も、前の学校の話もなかった。木村が「もう少し何かないのか」と笑ったが、紗季は困った顔で首を少し傾げただけだった。笑いを取りにいったつもりの木村が、いちばん困っていた。
俺は窓際の後ろから二番目の席で、それを眺めていた。
美人だとは思った。感想はそれで終わりだ。東京から来ようが火星から来ようが、三日もすれば同じ制服の同級生になる。田舎の制服には、そういう力がある。
実際三日でそうなった。教室の空気から、東京が抜けた。
紗季は人気者にはならなかった。避けられもしなかった。話しかければ答えるし、たまに笑う。ただ自分から誰かに近づくところを、俺は一度も見なかった。昼は自分の席で食う。移動教室は一人で歩く。それで浮かないのだからたいしたものだ。浮かないように振る舞う技術と、近づかせない技術は、たぶん別のものだ。あいつは両方持っていた。
最初の週、女子のグループが順番にあいつを昼飯に誘って、順番に戻ってきた。悪口にはならなかった。「感じは悪くないんだけどね」で、全員の報告が終わる。感じは悪くないんだけどね、というのは、この町の女子が使う言葉の中で、いちばん処理に困る評価だ。俺は聞くともなしに聞いていた。
あいつの妙な習慣を俺が知ったのは、転校から一週間ほど経った日だった。
その日は野球部の練習が休みだった。顧問の都合だ。俺は帰りかけて、英語の教科書を机に忘れたことを思い出し、教室へ戻った。ついでに屋上へ寄った。
理由はない。田舎の高校生には、理由のない時間が多い。
うちの学校は町でいちばん高い建物だ。四階建てで、周りに遮るものがない。屋上に上がれば、田んぼも川も、遠くの山まで見える。眺めがいいというより、隠れるものがないと言ったほうが近い。
屋上の扉は、建て付けが悪いくせに鍵がかかっていない。開けると、五月の風が入ってきた。
そして俺は人生で初めて本気で心臓が止まりかけた。
女子が、フェンスの外にいた。
屋上のふちだ。四階建ての校舎の、いちばん端。転落防止の金網はフェンスというより檻に近い高さがあるのに、その向こう側に制服の背中が見えた。ふちに腰を下ろして、両足を宙に出している。黒いローファーが、ぶらぶら揺れていた。
「おい!」
叫んでいた。
背中が振り返った。紗季だった。
「何?」
「何じゃねえよ!」
俺は走った。走りながら、走って驚かせたらまずいと思い、途中から変な小走りになった。金網の手前で止まる。息が切れていた。十メートルかそこらで息が切れる距離ではない。
「動くな!」
「動いてないけど」
「絶対動くなよ!」
「だから動いてないって」
紗季は不思議そうに俺を見ていた。まったく緊張のない顔だ。緊張しているのは、こっちだけだった。
あとで思えば、あの時点で察するべきだった。あんな顔で振り返る人間は、飛ぶ気などない。だが俺は高校二年で、こういう現場に詳しい高校二年というのも嫌なものだから、詳しくないまま、慌て方だけ教科書どおりにやった。
「高瀬君、だっけ」
「そんなことは今どうでもいいだろ」
「じゃあ、何が大事なの」
「命だよ!」
紗季が瞬きをした。それから自分の座っている場所を見下ろした。四階の下は駐輪場の屋根で、その先はコンクリートだ。
「ああ」
「ああ、じゃねえ!」
「飛び降りないよ」
「信用できるか!」
「じゃあ、どうしたら信用するの」
紗季の足は、まだ宙で揺れていた。揺れるたびに、俺の胃のあたりも揺れた。
「こっちに来い!」
「嫌」
「なんでだよ!」
「ここからじゃないと、見えないから」
俺は黙った。
紗季はもう俺を見ていなかった。正面を向いている。校舎の西側だ。町の屋根が続いて、そのずっと先に、山がある。
城山だ。この距離でも、稜線の形で分かる。
町のどこからでも見える。地元では城山と呼ばれているが、城があったという話は聞かない。どうして城山なのか、知っている人間に会ったことがない。一度ばあちゃんに聞いたことがある。ばあちゃんは「城なんか、あったかねえ」と言った。それで終わりだった。
「山?」
紗季は答えない。視線の先だけが動かない。
「山、見てんの?」
「うん」
「東京に山ないの」
「あるよ」
「じゃあ、なんでわざわざ檻の外に座って見るんだよ」
紗季は少し考えた。
「山を見てるわけじゃないから」
「じゃあ何を見てんだよ」
「人」
俺は山を見た。城山までは、直線でも十キロ以上ある。緑のかたまりにしか見えない。人間など、見えるはずがない。うちの学校の運動場から見ても、あの山は絵に描いた背景みたいに動かない。中学の写生大会で、俺は三年続けてあの山を描いた。描きやすいからだ。輪郭が単純で、中に何もない。
もう一度紗季を見た。横顔は真面目だった。冗談を言っている顔ではない。それがいちばん困る。
東京から来た人間は、どこか作りが違うらしかった。
その日、紗季は五時二十分きっかりに立ち上がって、慣れた動きで金網を乗り越えて戻ってきた。乗り越え方に躊躇がなかった。何度もやっている動きだった。
「言っとくけど」
すれ違いざまに、あいつは言った。
「誰にも言わないで」
「言わない代わりに、条件がある」
「何」
「明日も俺が見てる」
我ながら意味の分からない条件だった。見ていたところで、四階の下に網を張れるわけでもない。紗季も同じことを考えたらしく、少しだけ笑って「勝手にすれば」と言った。
翌日。
午後五時十分、俺は屋上にいた。
自分でも馬鹿だと思った。来るわけがない。昨日はたまたまだ。転校して疲れて、変なことをしたくなる日は、誰にでもある。
時計を見た。五時十一分。
帰ろうとした。そのとき扉が開いた。
紗季が入ってきて、俺を見て「あ」と言った。
「あ」
「何してるの」
「別に」
「私も」
紗季は金網へ歩いていって、よじ登った。登り方に、迷いがなかった。
「いやいやいや」
「何」
「それ、毎日やるの」
「たぶん」
金網の向こうへ降りて、昨日と同じ場所に座る。足を出す。山を見る。
俺は時計を見た。五時十二分だった。
それから八分間、紗季はほとんど動かなかった。首の角度も変わらなかった。俺は金網のこっち側で、見るものがないので、あいつの背中と山を交互に見ていた。
五時二十分。
紗季は立ち上がり、戻ってきた。
「帰るの」
「うん」
「何か見えた?」
「今日は見えなかった」
紗季は携帯をポケットに落とした。
「何が」
「人」
やっぱり頭がどうかしてるんじゃないか。俺はそう思った。
思ったが、翌日も屋上へ行った。紗季も来た。五時十二分に座り、五時二十分に立った。その次の日も来た。五時十二分。五時二十分。時計で計ったように、というより、実際に時計で計っていた。あいつは座る前に必ず携帯の画面を見た。
雨の日も来た。
さすがにその日は金網を越えなかった。屋上の扉の前に立って雨で灰色になった空の、山があるはずの方向を見ていた。傘は差していなかった。庇の下だから濡れはしないが、風で霧みたいな細かいのが顔にかかる。
「今日は見えないだろ」
「うん」
「じゃあ帰れば」
「いるかもしれないから」
誰が。
そう聞こうとして、やめた。聞いても答えないことは、もう分かっていた。代わりに俺は購買で買った袋入りのドーナツを半分やった。紗季は「いらない」と言ってから受け取って食った。そういうところのある女だった。
風呂屋の脱衣所で、紗季の話を聞いた。電器屋の姪だという。この町では、転校生の素性が三日で行き渡って、四日目には話題が野球部の監督の交代に移る。
夕飯のとき、母親が「最近帰りが遅いね」と言った。部活だよ、と答えた。練習が休みの日ほど帰りが遅いことに、母親は気づいていない。
風呂で、俺は自分に説明を試みた。なんで毎日屋上へ行くのか。落ちないか見張るため。半分は本当だ。残りの半分は、あいつが金網の向こうで八分間まっすぐ西を向いているあいだ、こっちは何もしていないのに何かをしている気になれて、球拾いをしている時間よりそっちのほうが自分の一日らしく感じられる、という説明のしにくい理屈で、風呂の中でもうまく言葉にならなかった。ならないまま湯船で五時十二分のことを考えて、のぼせた。
梅雨入りのニュースが出たのは、その週の金曜だ。平年より四日早いと、天気予報の女の人が言っていた。
第二章 檻の外
野球部での俺は控えの外野手だった。
控えといっても、ベンチに入れるかどうかの控えだ。二年になって背番号をもらえず、球拾いと声出しが仕事の日が多い。声を出すのはうまくなった。うまくなってどうする、とは自分でも思う。
だから練習が終わって屋上へ行く日課は、生活の中で妙に大きな場所を占めるようになった。五時十二分に間に合う日は間に合うし、間に合わない日は、六時過ぎに行っても誰もいない。あいつの時間は五時十二分から五時二十分までで、前後がない。
六月の頭に練習試合があって、俺は九回の守備で一イニングだけ出た。飛んできた打球は一本、平凡なライトフライだった。捕った。捕って、投げ返して、それで終わりだ。ベンチに戻ると監督が「よし」と言った。よし、の中身は考えないことにしている。考えると、球拾いに戻ったときに手が止まる。その日は間に合わなかった。六時過ぎの屋上には誰もいなかった。
翌週、紗季が来る前に、金網のこっち側から西を見た。屋根、電線、神社の森、その先に城山。見える。見えるが、山の中腹から下が、手前の給水塔にちょうど隠れた。あいつが見ている中腹は、屋上の西の端、金網の外のあの位置からでないと見えない。
つまりあいつが檻の外に座るのには、一応の理屈があった。
理屈があるから安全だという話にはならないが、少なくとも、ふちに座ること自体が目的ではなかった。それが分かって、俺は自分でも意外なくらい安心した。安心した自分に、少し呆れもした。毎日フェンスの外に座る同級生を、理屈があるから大丈夫だと思い始めた人間は、たぶんもう、公平な目では見ていない。
金網ごしの会話は、少しずつ増えた。
増えたといっても、あいつは山を見ながら、俺は金網に指をかけて、ぽつぽつ喋るだけだ。八分しかない。八分というのは、話が乗ってきたところで終わる長さだった。
「東京って、何があるんだよ」
「何がって」
「いや、全部あるんだろうけど」
「全部あるよ」
「いいなあ」
紗季の足が、金網の向こうで一往復した。一往復して、止まった。
「全部あると、どれもいらなくなる」
「それは持ってるやつの台詞だ」
紗季は少し笑った。笑うと、置き物ではなくなる。
「野球、好きなの」
「どうかな。十年やってるけど」
「十年やってて、どうかな、なの」
「やめ方が分からないだけ、って説もある」
「ふうん」
聞き流すほうの、ふうん、だった。そのはずだったのに、次の日、あいつは金網の向こうから「昨日の、やめ方が分からないやつ」と、前置きもなく続きを振ってきた。あいつの中で話は八分ごとに切れて、切れたところから、平気で継がれる。
夜の話も出た。
「この町、夜が暗いね」
「悪かったな」
「悪いって言ってない。最初の晩、窓の外が暗すぎて、停電かと思った。でも慣れたら、暗いほうが星の数が合う」
「星の数が合うって何だよ」
「東京の空は、理科の資料集より星が少ないの。ここのは、ちゃんと資料集どおりある」
資料集どおり、という褒め方を、俺はそれまで聞いたことがなかった。
あいつが叔母の家に住んでいることは、そのころに聞いた。母親の妹で、駅前の通りで電器屋をやっている家だ。俺も店の場所は知っていた。乾電池と蛍光灯を買う店だ。
「親は東京?」
「母は死んだ。去年」
声の調子がまったく変わらなかったので、俺は相槌を打ちそこねた。
「父は、もともといない。それで、こっちに来た」
「……そうか」
「うん」
それだけだった。あいつは山を見ていて、俺は言葉を探して、見つかる前に五時二十分が来た。
紗季が金網を越えて戻ってくるとき、スカートの裾が金網の先に引っかかった。あいつは平然と外して、地面に降りた。何十回もやっている動きで、何十回もやっているから、危なさが目に見えなかった。俺はその日初めて手を出しかけて、出さなかった。借りる気のない手を出すのは、失礼な気がしたからだ。
五時十二分の意味を、俺は自分でも調べようとした。
図書室で日の入りの時刻表を見た。五月の日没は六時半を過ぎる。日没ではない。潮の時間でもない。海はここから遠い。列車の時刻表も見た。五時十二分に町を通る列車はなかった。チャイムでもない。うちの学校の下校放送は五時四十分だ。
二日かけて、俺は何も見つけられなかった。見つけられないまま、五時十二分が動かない数字であることだけが、はっきりした。動かない数字は、誰かが決めた数字だ。
あいつのほうから聞いてきたこともある。
「城山って、城あったの」
「ないらしい」
「ないのに城山なんだ」
「ばあちゃんも知らなかった。図書室で町史も見たけど、載ってなかった」
「調べたんだ」
「お前が毎日見てる山だからな」
言ってから、少し照れくさくなったが、紗季は笑わなかった。「ふうん」と言って、それきりだった。あいつの「ふうん」には二種類あって、聞き流すやつと、しまっておくやつがある。あのときのは、たぶん後のほうだった。
「なあ」
昇降口で別れる前に、俺は聞いた。
「五時十二分って、何の時間なんだよ」
紗季は立ち止まった。答えるかどうか、迷った顔をした。迷った顔を見たのは初めてだった。
「日没とか、そういうのじゃないよな。日没なら毎日ずれる」
「……よく気づいたね」
「そりゃ毎日見てれば」
「秘密」
結局それだった。あいつは下駄箱で靴を履き替えて、振り返らずに帰っていった。俺は自分の下駄箱の前でしばらく突っ立っていた。上履きのかかとを、踏んだまま。
見つかりかけたことも、ある。
五時十五分ごろ、屋上の扉が軋んだ。あの扉は建て付けが悪くて、開く三秒前に必ず軋む。紗季は金網のふちから振り向き、俺は振り向く前に手招きをして、二人で給水塔の裏に入った。教頭だった。屋上を一周して、空を見上げて、何をしに来たのか分からないまま帰っていった。足音が消えてから、紗季が小さい声で「軋んでくれる扉でよかったね」と言った。俺もそう思う。あの扉の建て付けだけは、直さないでほしい。
梅雨の晴れ間に、あいつが遅れて来た。
時計は五時十六分をさしていた。息を切らして扉を開けて、金網に手をかけて、それからやめた。四分遅れると八分は成立しない。あいつは金網の内側に座り込んで、膝を抱えて、山があるはずの方向を見た。
「明日があるだろ」
「うん」
「毎日やってりゃ、そのうち当たる」
「うん」
返事が二回とも同じだったので、俺はそれ以上言わなかった。四分の遅刻で崩れる程度のものを、あいつは十六年ぶんの何かの代わりにしていた。代わりになっていないことは、たぶん本人がいちばん分かっていた。
柴田に見つかったのは、その翌週だ。
柴田は中学からの友人で、帰宅部で、暇の使い方の天才だった。俺が放課後にどこかへ消えることに、こいつだけが気づいた。
「女だろ」
「違う」
「女だな」
「半分違う」
「半分は女ってことじゃねえか」
弁明の余地がなかった。俺は購買のパンをおごって、口止め料とした。柴田は焼きそばパンを噛みながら、「で、どこの誰」と聞いた。口止め料の意味を、こいつは根本から分かっていない。
第三章 双眼鏡
「山を見てる、じゃなくて、人を見てるって言うんだよ」
昼休みの中庭で、俺は柴田に説明した。名前は伏せた。伏せたところで、転校生の話をすれば一人しかいない。
「絶対男だろ」
柴田は即答した。パンより速かった。
「山に?」
「山に」
「猟師?」
「知らん」
柴田はパンの袋を裏返して、屑を口に流し込んだ。
「毎日五時十二分に山に現れる猟師と、東京の女子が付き合ってんの?」
「ロマンあるじゃん」
「どこにだよ」
「じゃあ宇宙人」
「猟師より悪くなってる」
柴田は焼きそばパンの最後の一口を放り込んだ。それからいいことを思いついた顔をした。こいつのいいことは、だいたいよくない。
「双眼鏡で見りゃいいじゃん」
「見てどうすんだよ」
「見りゃ分かる」
「分かんなかったら」
「分かんないって分かる」
柴田の理屈には、たまにこういう強度がある。
その日の放課後、柴田は天文部の部室から双眼鏡を持ってきた。借りた、と言っていたが、天文部には柴田の弟がいるだけで、部としての承諾があったのか怪しい。
双眼鏡は思ったより重くて、首から提げると存在感があった。倍率は八倍だと柴田が言った。八倍が何を意味するのか、二人とも分かっていなかった。分からないまま階段の窓から二回、校庭を覗いて遊んだ。野球部のノックが、嫌になるほどよく見えた。俺の代わりにライトを守っている一年の顔まで見えた。それで俺は少し真面目になった。
五時十二分、紗季はいつもの場所に座った。
俺は屋上の反対の隅で、給水塔の陰から双眼鏡を覗いた。柴田は階段で見張り役だ。見張るものなど何もないのだが、本人が「役割が欲しい」と言った。
城山。
木。木。木。岩。木。
「何もねえじゃん」
呟いて、焦点を中腹へ動かした。
そのときだった。
光った。
一瞬だ。白い光が、ちかっと。間を置いて、もう一度。
俺は双眼鏡を下ろした。裸眼で見ると、山は緑のかたまりに戻っていた。
「おい」
紗季は動かなかった。
「今、光ったぞ。中腹」
その瞬間、紗季が振り返った。
俺は初めて、あいつのそんな顔を見た。怒っているのではなかった。怯えていた。血の気の引き方が、金網ごしでも分かった。
「双眼鏡、貸して」
俺は金網の隙間から渡した。紗季は覗いた。長いあいだ動かなかった。八分が過ぎても、動かなかった。
「何があるんだよ、あそこ」
答えない。
「水城」
紗季は双眼鏡を下ろし、金網を越えて戻ってきて、双眼鏡を俺の胸に押しつけた。
「もう来ないで」
「え?」
「屋上」
「なんで」
「来ないで」
風が金網を鳴らした。あいつはもう、俺を見ていなかった。
「だから、なんでだよ」
「関係ないから」
その言い方が、妙に腹に来た。
「じゃあ、俺が毎日お前が落ちないか見てたのは何だったんだよ」
「頼んでない」
「そういう問題じゃ――」
「頼んでないよ!」
初めて聞く大きさの声だった。階段の陰で柴田が固まったのが、視界の端に見えた。
俺は黙った。紗季も黙った。
しばらくして、あいつは小さな声で「ごめん」と言い、扉の向こうに消えた。足音が階段を下りていって、聞こえなくなった。
柴田がのそのそ出てきた。
「振られたな」
「うるせえ」
「双眼鏡、俺が返しとくわ」
柴田は双眼鏡を受け取り、しかし結局返さなかった。夏になっても柴田の部屋に転がっているのを俺は見ている。天文部が困っていないのだからいいのだろう。
一人になった屋上で、俺は城山を見た。
どこにでもある山だ。生まれたときからそこにあって、あるのが当たり前で、だから考えたことがなかった。あの山に何があるのか。
夕飯のあいだじゅう、俺は上の空だった。母親に二回、同じことを聞き返した。関係ないから、と言ったあいつの顔と、その前の怯えた顔が、順番に出てきては消えた。関係がないのはその通りだ。その通りなのに、双眼鏡の中の白い光だけが、目の裏に残って消えなかった。
その夜、俺は部屋で検索した。
城山。町の名前。旧道。
観光の写真と、通行止めの告知と、山菜のブログが出た。役に立たない。俺は言葉を足した。
事故。
最初に出たのは、七年前の落石で旧道が通行止めになった、という役場の告知だった。次が、新道の工事の記録。どれも違う。俺は年代を遡る言葉を足しながら、画面を送り続けた。
古い記事が出てきた。地方紙の過去記事を転載したページで、写真はなかった。
十八年前の八月。東京都在住の一家四人が乗った乗用車が、城山の旧道のカーブでガードレールを突き破り、崖下へ転落した。母親の帰省中の事故だった。父親と、長男が死亡。長男は六歳だった。母親は重傷。
記事は短かった。短い記事の、最後の一文が長かった。
車にはもう一人、長男と双子の長女が同乗していたとみられるが、現場周辺を捜索するも発見されておらず、警察は引き続き行方を捜している。
長女の名前が書いてあった。
水城紗季。六歳。
俺はその三行を三度読んだ。
読んで椅子の背にもたれ、天井を見た。心臓が、ゆっくり速くなっていた。そんな鼓動の仕方があることを、俺はその夜に知った。速いのに、ゆっくりなのだ。廊下で母親が風呂に入れと言い、俺は返事だけして、もう一度画面を見た。水城紗季。六歳。画面の中の名前と、教室の窓際の名前が、頭の中でどうしても一つに重ならず、重ならないくせに、離れもしなかった。
第四章 十八年前
翌朝、教室に入って、まず紗季を見た。
窓際の席で文庫本を読んでいた。いつも通りだった。いつも通りに見えるのが、昨日までと違って見えた。
俺は自分の席で計算した。事故は十八年前。行方不明の少女は当時六歳。生きていれば二十四だ。目の前の紗季は十六。同一人物ではあり得ない。
だが、同じ名前で、同じ字だった。同じ町で、同じ山だ。そして毎日、五時十二分。
偶然と言い張るには、数が多すぎた。同じ名前の人間なら日本中にいるだろうし、同じ町に住んでいることだって親戚なら当たり前で、山を見るのが趣味の高校生が一人いたところで誰も困らないのだが、その全部が一人の人間の上に重なって、しかも毎日決まった八分間に西を向いているとなると、俺の頭の中でそれを偶然の側に押し戻す力が、もう足りなかった。
授業は頭に入らなかった。数学の小テストは白紙に近かった。返ってきたとき柴田が覗き込んで「俺より下がいた」と喜んだが、どうでもよかった。
その日の放課後、屋上へ行った。
五時十二分。紗季は来なかった。五時二十分。来ない。
翌日も来なかった。三日目も来なかった。教室では普通に本を読んでいて、目が合うと、合わなかったことになった。
練習では、ノックの打球を二つ続けて後ろに逸らした。飛んだ先も高さも普通の打球だった。柴田に言わせれば「顔が深刻」な日々の始まりは、たぶんこのあたりだ。夜になると記事の三行を読み返して、読み返したところで三行は増えなかった。
二日目の夜、俺はばあちゃんの部屋へ行った。
ばあちゃんは八十二で、耳が遠くて、記憶は年寄りの常で、遠いほうほどよく残っている。俺は世間話を三分してから聞いた。十八年前、城山の旧道で事故があったの、覚えてるか。
「ああ、あれかい」
ばあちゃんは即答した。
「東京へ出とった、電器屋の上の姉ちゃんの一家だがね。盆に帰ってくる言うて、山で。旦那さんと坊やが亡くなって。……女の子が、出んかった」
出んかった、という言い方を、ばあちゃんはした。見つからなかった、ではなく。
「駅にね、長いこと貼ってあったよ、写真の紙が。消防も青年団も何日も山へ入って、犬も入れて。うちのじいさんも行った。堰も浚ったし、ずっと下の川まで見た。出んかった」
「その子の母親は」
「気の毒にねえ。何年も、帰ってきては山へ行きよった。役場の前で一人、紙を配っとったこともある。しまいには町の者のほうが、顔を見るのがつらくなってね」
ばあちゃんはそこで湯呑みの茶を一口飲んだ。
「あんた、なんでまた、そんな古い話」
「学校の課題。郷土史の」
「ふうん。郷土史ねえ」
信じたかどうかは分からない。年寄りは、嘘を見抜いても指摘しない。指摘しない技術で長生きをしている。
三日目の夜、俺は駅前の電器屋へ乾電池を買いに行った。買いに行ったというのは建前で、様子が知りたかっただけだ。
店には叔母さんらしい人がレジにいて、奥の階段を、洗濯かごを抱えた紗季が上がっていくところだった。あいつはこっちに気づかなかった。棚には乾電池と蛍光灯と延長コードが並んでいて、どこの家の近くにもある店の匂いがした。俺は単三の四本入りを買った。叔母さんは「はい、三百八十円」と言って袋に入れてから、「学校、一緒?」と聞いた。
「はい」
「そう。……あの子、どう?」
どう、の中身を、俺は聞き返せなかった。「普通です」と答えた。叔母さんは「そう」ともう一度言って、レシートをくれた。普通です、と答える以外に、何ができたわけでもない。乾電池は、まだ机の引き出しに入っている。何に使うつもりで買ったのか、自分でも覚えていない。
四日目、俺は屋上へ行くのをやめた。やめて昇降口へ向かったところで、後ろから声がした。
「高瀬君」
紗季だった。
「今日、来る?」
「どこに」
「屋上」
昇降口には、部活に行く連中の靴音が響いていた。俺たちだけが止まっていた。
「来るなって言ったのはお前だろ」
「言った」
「じゃあ行かない」
「そう」
紗季は歩き出した。俺は三秒数えた。
「行く」
あいつが振り返った。
「どっちなの」
「行くよ。行くに決まってんだろ」
二人で屋上へ上がった。紗季は金網を越えなかった。フェンスの内側に並んで、給水塔で半分隠れた山を見た。中腹は見えない。見えなくても、あいつは今日、越える気がないらしかった。
先に口を開いたのは俺だった。
「調べた」
横顔が固くなった。
「十八年前の事故。水城紗季って子が、行方不明になってる」
紗季は山を見たまま言った。
「知ってる」
「誰なんだよ」
長い沈黙があった。梅雨の晴れ間で、湿った風が金網を鳴らした。
「姉」
俺は言葉に詰まった。用意していた質問が順番ごと崩れた。
「でも同じ名前……」
「母がつけたの」
紗季は笑った。口の端だけの笑いだった。
「変でしょ」
「……いや」
「変だよ。自分でも思う」
あいつは金網に指をかけた。指の先が白くなるくらい、強く。
「私は、事故の二年後に生まれた。母は再婚してたから、父親は違う。生まれた子に、母は、いなくなった子と同じ名前をつけた」
「なんて言うか」
「言わなくていいよ。叔母さんは今でもそのことを許してない。名前を呼ぶたびに、うちの叔母さんは一瞬詰まる。十六年ずっとそう」
風が吹いて、紗季の髪が顔にかかった。あいつは払わなかった。
「兄と姉は双子だった。兄のほうは、見つかった。父も。姉だけが、見つからなかった。海でも川でもない、ただの山なのに、どこにもいなかった」
「お母さんは」
「探してた。ずっと。年に何回もこっちに来てた。役所と警察と、あとは自分の足で。私はそのたびに叔母さんの家に預けられた。だからこの町のことは、前から少し知ってる」
「……覚えてるのか、そのころのこと」
「店番の横で、宿題やってた。夕方になると、母が山から帰ってくる。靴が汚れてて、顔だけ笑ってるの。子供って分かるんだよ、顔だけの笑い方。私は宿題のふりをして、母の靴だけ見てた」
「……去年」
「うん。病気で。最後のほうは病院から出られなかったのに、私に、こっちの地図を持ってこさせた」
紗季はポケットから、折り畳んだ紙を出した。四つ折りで、折り目が毛羽立っていた。何十回も開かれた紙の毛羽立ち方だった。
「遺品を整理してたら、手紙が出てきた。書いたのは母。宛名は書きかけで、破れてて、読めない。切手も貼ってない。出さなかった手紙。日付は、事故の三日前」
「読んでいいのか」
「コピーだから」
俺は受け取って、開いた。女の人の字で、便箋一枚分だった。今度の盆にそちらへ帰ること、子供たちが海より山を楽しみにしていること、長いあいだ顔を見せなかった詫び。字は細くて、少し右に倒れていた。倒れた字で、詫びの行だけ行間が詰まっていた。手紙の用件はそれだけで、ただ最後に一行、こうあった。
――五時十二分になったら、あの場所から、学校が光って見えます。子供たちに見せてやりたい。
読み終えて、俺はもう一度最初から読んだ。二度目のほうが、字がよく見えた。海より山を楽しみにしている、というところで、六歳の双子が車の後ろの席で騒いでいる絵が勝手に浮かんで、浮かんだ絵の三日後を、俺は知っていた。
俺は顔を上げた。
「学校が、光る?」
「西日だと思う。夕方、学校の窓に日が当たる時刻があるでしょ。あれが、山の上のどこかから見えるんだと思う。母はこの町で育ったから」
「あの場所って」
「分からない。でも、母が子供のころから知ってる場所で、学校が見える場所。それが山のどこかにある」
そこまで言って、紗季は息を吸った。
「学校が見えるってことは、逆も見えるってこと」
一瞬遅れて、意味が分かった。あの場所に誰かがいて、ガラスなり何なりが西日を受ければ、学校からは、光って見える。
「だから五時十二分に、あそこに座ってたのか」
「うん」
「光ったら、誰かがいる」
「うん」
「その誰かが――」
言いかけて、俺はやめた。続きは、口に出していい種類のことではなかった。姉は六歳で山に消えた。十八年前だ。その誰かが姉だという理屈は、どこにもない。
紗季も分かっていた。分かっている顔で、言った。
「変なのは分かってる。十八年だよ。生きてるわけがない。警察もそう言った。母にも、たぶん誰かがそう言った。でも母は死ぬまで探してた。理屈じゃなくて、見つかってないから。いないことが、確かめられてないから」
「……それで、光ったこと、あるのか」
「三回。転校してきてから、三回」
「昨日ので四回目か」
「四回目」
紗季は初めてこっちを向いた。
「怖かったの」
「何が」
「高瀬君にも見えたのが。私だけが見てるあいだは、見間違いで済むから。誰かに見えたら、本物になる」
俺はうまく返せなかった。本物になったら困るのか、なってほしいのか、たぶんあいつの中でも割れていた。割れているものを、こっちが縫える道理がない。
五時十二分になった。
給水塔の陰で、中腹は見えなかった。見えない山を、二人で見た。
「土曜」
やがて紗季が言った。
「山、行く。旧道のほう」
「一人でか」
「うん」
「バスで登山口まで四十分、旧道は通行止めで、そこから先は電波も入らない」
「詳しいね」
「地元だからな。――で、九時に駅前でいいのか」
紗季が二度瞬きをした。
「誘ってないけど」
「聞いてない」
第五章 旧道
土曜は晴れた。
九時の駅前に、紗季はリュックで来た。制服以外のあいつを見るのは初めてで、俺は挨拶の代わりに「山なめてない服だな」と言った。紗季は「なめてるのはどっち」と俺のスニーカーを見た。他に持っていないのだから、仕方がない。
バスは俺たちを入れて五人だった。爺さんが三人、途中の停留所で全員降りて、終点の登山口には二人だけが残った。
バスの中で、紗季は窓の外を見ていた。田んぼが続いて、途切れて、家が数えるほどになって、山が近くなる。あいつは途中で一度だけ、「母も、このバスに乗ったんだね」と言った。俺は「だな」としか返せなかった。十八年前も、この路線はたぶん同じ道を走っていた。同じカーブで同じように減速して、同じ場所で客を降ろして。
登山口から二十分ほどで、道が二つに割れる。右の新道は舗装されていて、左の旧道には錆びた柵と、「通行禁止」の看板が傾いて立っていた。字が半分消えている。禁、の字だけが妙にはっきり残っていた。
「戻るなら今だけど」
俺が言った。
「高瀬君が戻れば」
「なんで俺だけ」
「関係ないんでしょ」
「それを言ったのはお前だからな」
紗季が少し笑い、先に柵をまたいだ。
柵の向こうは、空気が少し変わった。道が死ぬと、音の種類が変わる。エンジンの記憶が抜けて、水と鳥と、俺たちの靴だけになる。紗季のリュックの中で、水筒が一定のリズムで鳴っていた。
柵のところに、缶コーヒーの空き缶が二本、並べて置いてあった。潰していない、立てたままの二本だ。誰かが座って飲んで、そのまま置いていったのだろう。錆び方が違うので、置かれた時期も違う。旧道は通行禁止で、それでも入る人間が、少なくとも二回はいた。
旧道は、道の形だけが残っていた。アスファルトのひび割れから草が伸びて、落石が転がり、山側の斜面から木の枝が張り出している。車はもう通れない。人が歩く分には、歩ける。
三十分ほどで、一度休んだ。倒木に並んで座り、水筒の麦茶を回した。木の間から、町の端が少しだけ見えた。
「高瀬君は、なんで来たの」
紗季が前を向いたまま言った。
「バスで言っただろ。地元だからだ」
「地元の人、全員は来ないよ」
「……ドーナツ半分の貸しがある」
「あれ、もらったんじゃなくて借りたんだ」
「利子で山までついてくる」
紗季は麦茶を一口飲んで「変なの」と言った。変なのはお互いさまだと思ったが、言わなかった。
歩きながら、紗季はあまり喋らなかった。俺も喋らなかった。かわりに山が喋った。鶯が鳴いて、一羽だけ下手なのが混ざっていた。紗季が「あれ、下手だね」と言い、俺が「若いんだよ」と言った。知ったかぶりだ。鶯の若さなんて、俺に分かるはずがない。それでも紗季は「そうなんだ」と受け取って、しばらくしてまたどこかで下手なのが鳴くと、少しだけ笑った。
一時間ほど登ったところで、ガードレールが現れた。
続いていたガードレールの、一箇所だけが色違いだった。周りは錆びて茶色いのに、そこだけ白い。白いといっても十八年分は汚れていて、それでも取り替えられた区間だとひと目で分かった。
紗季が止まった。止まり方で分かった。
ガードレールの支柱の根元に、色の褪せた造花が挿してあった。プラスチックの菊で、風雨で白くなっている。誰が挿したのかは分からない。町の誰かかもしれないし、紗季の母親かもしれない。挿した人間が今も生きているかどうかも、分からない。
ガードレールの向こうは崖だった。下まで、二十メートルはある。木が生えて、底は見えない。蝉がまだ鳴いていない季節で、山は静かだった。どこかで沢の音がしていた。
紗季は長いあいだそこに立っていた。
泣かなかった。手も合わせなかった。ただ見ていた。ガードレールの白い区間と、その向こうの崖と、たぶん、写真でしか知らない人たちのことを。
俺は少し離れ、山側の斜面に座って待った。待つ以外に、俺の仕事はなかった。
待ちながら妙な計算をしていた。十八年前、紗季はまだ生まれていない。つまりあいつは、自分が生まれる前に死んだ兄と、姉の父親の、その現場に立っている。会ったことのない家族というものがどういうものか、俺には想像の入り口すらなかった。うちは四人揃っていて、揃っていることを、俺は一度もありがたいと数えたことがない。
三十分近く経って、紗季が言った。
「行こう」
「どこへ」
「上。母の場所を探す。学校が見える場所」
「あてはあるのか」
「ない。でも、道からそう離れてないはず。六歳の子供を連れていける場所だから」
理屈は通っていた。俺たちはさらに登った。旧道は途中で山の反対側へ回り込み、学校のある東側が見えなくなる。見えなくなる手前に、脇へ入る細い道があった。獣道と呼ぶには踏まれていて、道と呼ぶには細い。
「これ、人が歩いてるぞ」
「うん」
「最近も」
草の倒れ方で分かる。倒れて、起きかけて、また倒されている。
十分ほどで、開けた。
家があった。
一軒ではなかった。三軒。ただし二軒は屋根が落ちて、壁が残っているだけだった。廃集落だ。こんなところに集落があったことを、俺は知らなかった。石垣に囲まれた平地があって、畑だったらしい草地があって、その奥に、一軒だけ形を保った平屋があった。
三軒とも、電線が来ていなかった。来ていた形跡もなかった。ここの暮らしは、最初から灯油とガスと乾電池でできていたのだろう。石垣の間にホーローの洗面器が伏せてあって、縁に錆の輪ができていた。俺は洗面器ひとつで、急に足が重くなった。
雨戸が閉まっていた。全部ではない。一枚だけ、開いていた。
「おい、これ」
「うん」
「誰か使ってる」
玄関の引き戸は、鍵がかかっていなかった。開けると、埃と黴の匂いがした。ただ廃屋の匂いとは少し違った。うちのばあちゃんの納戸に近い。人が出ていって数年の家の匂いだ。
土間、台所、六畳が二間。家具は残っていた。卓袱台、箪笥、茶碗が伏せてある。台所の棚には、缶詰の空き缶が洗って重ねてあった。ラベルは日に焼けて白い。湯呑みが二つ、伏せてあった。二つ、というところを、俺は見なかったことにできなかった。奥の六畳の畳だけ、色が違った。日に焼けていないところに、長いあいだ布団が敷かれていた形が残っていた。
俺は台所の窓から外を見た。裏手に小さい畑があって、畝が三本、草に埋もれかけていた。まだ埋もれきっていない。去年か一昨年までは、誰かが手を入れていた畝だった。
紗季が、柱の前で止まった。
鴨居の下の柱に、鉛筆の線が引いてあった。線の横に、字がある。
さき 七さい
その上に、もう一本。
さき 八さい
その上。
さき 九さい
線はさらに上へ続いていた。四本、五本。上のほうの線には、字がなかった。年齢を書かなくなってからも、線だけは増え続けていた。いちばん上の線は、俺の肩より高かった。
紗季が動かなくなった。
俺も声が出なかった。柱の線を見た。さき、を見た。七さい、を見た。もう一度、さき、を見た。鉛筆の字だ。大人の字と、子供の字が混ざっていた。七さい、は大人の字で、九さい、は子供の字だった。子供が自分で書いたのだ。自分で、書いて。書いて、この柱の前に立って、この家で。この家で、歳を重ねて、線だけになって、この柱の、この家の、この山の中で。
「生きてた」
紗季の声がした。ずいぶん小さかった。
「お姉ちゃん、生きてた」
そのとき、背後で床が鳴った。
「――何をしとる」
俺たちは振り返った。
土間に、老人が立っていた。作業着で、片手に鎌を提げていた。鎌よりも、顔に見覚えがあることのほうが、俺には恐ろしかった。
学校の用務員だった。
村瀬という名前は、あとで知った。ずっと「用務員のじいさん」で、名前を知る必要がなかった。壊れた蛇口を直し、体育館の電球を替え、朝、正門の落ち葉を掃いている。入学してから一年と少し、毎日見てきた背中だった。
第六章 葉書
村瀬は逃げなかった。言い訳もしなかった。鎌を土間の隅に置くと、縁側まで歩いて腰を下ろした。座り方で、この家の住人だと分かった。
「十八年前」
老人はそこから話し始めた。誰に聞かれたわけでもないのに、順番まで決めてあったような話し方だった。あとで思えば、十八年間、頭の中で何千回も話してきたのだろう。聞く人間が、いなかっただけで。
十八年前の八月、村瀬は酒を飲んで、軽トラックで旧道を下っていた。夕方だった。カーブで対向車が来た。よけたのは向こうだった。軽トラは無傷で、乗用車はガードレールを突き破った。
村瀬は、車を降りなかった。そのまま下った。
「なんで」
聞いたのは俺だった。聞かずにいられなかった。
「怖かったからだ」
老人は、それ以上飾らなかった。
翌朝、夜が明ける前に、村瀬は歩いて現場へ戻った。通報するつもりだった、と本人は言った。本当かどうかは、本人にももう分からないだろう。崖の上から覗くと、下で車が潰れていて、そして道の山側の斜面に、女の子が座っていた。
頭から血を流して、膝を抱えて、座っていた。
「名前は、と聞いた」
「さき、と言った。それしか言わんかった。自分の名字も、親の名前も、どこから来たかも、何も。頭を打っとった」
病院へ連れていくべきだった。警察でもいい。どちらでもよかった。どちらかでありさえすれば。
だが村瀬は、この家へ連れてきた。ここは村瀬の生まれた家で、集落の他の家はとうに空で、村瀬自身も普段は町のアパートにいて、週末だけ畑を見に来ていた。誰も来ない場所だった。
「最初は、一晩だけと思った。傷の手当てをして、飯を食わせて、寝かせて、朝になったら連れていくと」
一晩が三日になった。三日が一週間になった。捜索の車が旧道を上がっていくのを、村瀬は雨戸の隙間から見ていた。日が経つほど、連れていけば全部が知れる。事故も、逃げたことも、黙って匿っていたことも。
少女は村瀬を「おじちゃん」と呼んだ。
町のアパートと山を、村瀬は十四年往復した。学校の用務員の仕事は、その往復に都合がよかった。朝が早くて、夕方に終わって、土日が空く。米と灯油と本と乾電池を軽トラに積んで、旧道を上がる。旧道が通行止めになってからは、分かれ道の手前に停めて、担いで歩いた。六十を越えた男が、月に何度も、二十キロの米を担いで山を上がっていた。
村瀬には娘がいた。七つで病気で死んだ。三十年以上前の話だ。女房はそのあと出ていった。娘の使っていたひらがなの練習帳が、この家の箪笥に残っていた。少女はそれで字を覚え直した。柱の「七さい」は村瀬の字で、「九さい」は少女の字だ。
「二度行きかけた」
と、村瀬は言った。
「一度目は、最初の年の暮れだ。駐在所の前まで行った。中で駐在さんが、ストーブで餅を焼いとった。それを見て帰った。餅のせいじゃない。戸を開けて、最初の一言を何と言えばいいのか、そこで詰まった。二度目は三年目の冬だ。あの子が熱を出して、三日下がらんかった。下がったら連れていくと決めた。……下がったんだ。下がったら、決めたことも下がった」
俺は何も言えなかった。駐在所の前まで来て餅を焼く駐在を見て帰った男と、熱が下がったから決めたことも下がった男と、それから十四年、米と灯油と本を積んで町と山を往復し続けた男が、全部同じ一人で、その一人が今この縁側に座って鎌の置き場所まで自然に知っているという事実を、俺はうまく一つにまとめられなかった。
人間の決心の話として聞けば、どこにでもある話だった。どこにでもある話の中に、人一人の十八年が入っていた。
「あの子は、昼間、何をしてたんですか」
聞いたのは俺だった。紗季が聞けないことを代わりに聞くのが、あの縁側での俺の役目になっていた。
「畑と、本と、ラジオだ」
村瀬は答えた。
「わしが町におるあいだ、あの子はここで一人だ。ラジオは一日中つけとった。人の声がせんと、山は保たん。本はわしが古本屋で買うてきた。月に十冊。読み終わると、あらすじを話してくれた。学のない年寄りに、子供が本の筋を話す。それが、この家の夕飯どきだった」
「友達の代わりが、ラジオと本だった」
紗季が言った。責める声とも違う、確かめる声だった。
「そうだ」
「姉は、逃げようと思えば」
「逃げられた。十を過ぎれば、道を下りるだけだ。……行かんかった。ここしか知らんかったからだ。わしがそう作った。外は怖いところだと、口で言わんでも暮らしの全部でそう教えとった。それが、いちばんの罪だと思っとる」
「学校は」
紗季が言った。低い声だった。
「行かせられなかった」
「病気したら」
「町の薬しかなかった。大きい病気は、しなかった。運がよかっただけだ」
老人の手が、膝の上で一度握られて、開いた。
「歯は。予防接種は。友達は」
「なかった」
「全部、なかったんだ」
紗季の声は、最後まで低いままだった。
「そうだ」
「それ、監禁って言うんだよ」
「そうだ」
村瀬は一度も言い返さなかった。言い返さないことが、余計に紗季を燃やした。
「家族は探してた」
「知っとる」
「母は、死ぬまで探してた。死ぬ半年前まで、この町に来てた。あんたの勤めてる学校の前も、何十回も通ってる。すれ違ってたかもしれない。あんた、それを知ってて、十八年、黙って――」
紗季の声が割れた。
「返してよ」
村瀬は下を向いた。
「私のお姉ちゃん、返してよ!」
山に声が響いた。響いて、消えて、沢の音だけが残った。紗季は立ったまま泣いていた。手の甲で乱暴に拭いて、拭いた分だけまた出る。俺は隣に突っ立っていることしかできなかった。
長い沈黙のあと、老人は立ち上がった。
「返すことは、できん」
奥の部屋へ入って、箪笥の上から古い菓子箱を持ってきた。蓋を開けると、葉書が入っていた。十数枚。全部同じ字だった。宛名は町のアパートの村瀬で、差出人の名前はどこにもない。文面は、どれも一行だった。
――私は元気です。
筆圧の強い字だった。一行だけの葉書というのは、書くほうも受け取るほうも、一行ぶんの体力しかない者同士の通信だ。老人は箱の蓋の裏に、届いた日付を鉛筆で書き並べていた。
「あの子が二十歳のとき、全部話した」
村瀬が言った。
「事故のことも。わしが原因だということも。あんたには家族がいて、母親が探し続けとるということも。……もっと早く話すべきだった。それも分かっとった。話せば、あの子が出ていくのが分かっとったから、話せんかった」
「……それで」
「出ていった。四年前だ。荷物も持たずに。それから年に何枚か、これが来る」
紗季は箱から一枚取って裏返し、表を見た。消印のところで、息を呑んだのが分かった。
「東京……」
「いちばん新しいのを見ろ」
箱の底に、他より新しい葉書があった。文面は同じ一行だった。ただその下に、小さい字で住所が書いてあった。東京の、区の名前から始まる住所だった。
「去年の暮れに届いた。住所が書いてあったのは、それが初めてだ。……わしに来いという意味ではないだろう。わしは書けんかった。書く資格の話じゃない。怖かっただけだ。十八年前と、同じにな」
「母が、町で紙を配ってたの、見たことある?」
紗季が聞いた。声から、感情の成分が抜いてあった。
「ある」
「……見て、どうしたの」
「家に帰って、あの子の飯を作った」
紗季は目を閉じた。長いこと開けなかった。俺は縁側の板の木目を数えていた。数える以外に、あの数十秒をやり過ごす方法がなかった。
「五月に、職員室の名簿で名前を見た」
村瀬はそこで初めて、紗季の顔をまっすぐ見た。
「水城紗季。字まで同じだ。腰が抜けるかと思った。転校の初日、廊下ですれ違って、顔を見て、もっと抜けた。お母さんの若い頃に、よう似とる」
「……それで」
「それからここへ来る回数が増えた。来て何をするわけでもない。柱を見て帰る。雨戸を開けたり、閉めたりな。屋上から見えとった光は、たぶんわしだ。西日の時間に戸のガラスを動かせば、光る」
紗季は何も言わなかった。四回の光のうち何回が老人で、何回がただのガラスだったのか、確かめる方法はもうない。
老人は箱ごと、紗季に差し出した。
「お前さんの姉さんは、生きとる」
紗季は箱を受け取らなかった。十数枚の葉書は全部、この老人に宛てて書かれたもので、この老人の名前と住所が表に並んでいて、姉が四年かけてこの箱に足していったものであり、つまりそれは紗季のために書かれた紙が一枚もない箱だった。いちばん新しい一枚だけを抜いて、両手で持った。持ったまま、長いこと住所の字を見ていた。
それから上がり框にすとんと腰を下ろした。座ったというより、立っている理由が切れた座り方だった。生きとる、という一言が、あいつの中のどこへ落ちていったのか、外からは見えなかった。老人は縁側から動かず、俺は土間の隅で、誰のものか分からない古い長靴を見ていた。三人とも長いこと黙っていた。山の夕方は黙っている人間に優しい。誰も喋らなくても、沢と鳥が間を持たせてくれる。
家を出るとき、紗季は一度だけ振り返って、柱を見た。
「消さないで」
それだけ言った。老人は「消さん」と答えた。あの二人のあいだで成立した唯一の約束が、鉛筆の線を消さないことだった。俺は土間で靴を履きながら、そのやり取りを聞いていた。
村瀬は登山口まで送ると言い、紗季は断った。断られた老人はそれ以上何も言わずに、縁側に座り直した。細い道を下りながら一度だけ振り返ると、開いた雨戸の奥で、老人はまだ同じ姿勢のまま座っていた。
帰り道は、ほとんど喋らなかった。
旧道を下りて、分かれ道の少し手前で、紗季が急に立ち止まった。道の脇の木が二本倒れていて、そこだけ視界が抜けていた。抜けた先に、張り出した岩があった。行きには気づかなかったが、岩の上が平らで、東側が開けていた。町が見えた。田んぼと、屋根と、川と、そのなかに、うちの学校。
紗季が岩に登った。俺も登った。
ちょうど五時十二分だった。狙ったのではない。バスの時間から逆算して下りてきたら、そうなっただけだ。
学校が、光った。
西日が校舎の窓に当たって、豆粒みたいな四角が、まとめて金色になった。数秒で終わった。雲が流れたのだと思う。それだけのことだった。それだけのことを、あの人は手紙に書いて、子供たちに見せたくて、この道を上ってきた。
紗季は何も言わなかった。俺も言わなかった。
「バス、六時五分」
それだけ言って、俺たちは岩を下りた。
第七章 月曜日
日曜は、何も起きなかった。
あれだけのことを見て帰ってきたのに、日曜の朝は普通に来た。母親は洗濯機を回し、親父は畑に出て、俺は昼まで寝た。世界というのは、こっちの都合で立ち止まってはくれないらしい。
昼過ぎに柴田から、ゲームの誘いが来た。断った。断ってから、断る理由がないことに気がついた。俺は結局夕方まで自分の部屋で天井を見ていた。柱の線のことを考えると、順番にいろいろなものが芋づるで出てきて、最後はいつも、雨戸の隙間から捜索の車を見ていた、という一枚の場面で止まった。あの雨戸の隙間は、こちら側からも見た。細い、ただの隙間だった。
月曜の朝、正門で村瀬が落ち葉を掃いていた。
いつも通りの作業着で、いつも通りの箒の動きだった。俺は挨拶ができなかった。目も合わせられずに通り過ぎ、通り過ぎてから、自分が何に腹を立てているのか分からなくなった。いつも通りでいることにか。いつも通りでいられることにか。それとも、土曜のあの縁側の老人と、この箒の老人が、同じ人間だということそのものにか。
昼休み、中庭の隅で、紗季と話した。
「警察、行くのか」
「分からない」
紗季は即答した。分からない、という答えを、あいつは即答した。
「行くべきなんだと思う。でも、行ったらどうなるか、考えた。姉のことが全部、表に出る。十八年間どこで何をしてたか、新聞に載って、ニュースになって、名前は伏せられても、この町の人は全員分かる。姉はやっと、東京で普通に暮らしてるのに」
「……ああ」
「決めるのは、私じゃない」
「じゃあ誰だよ」
「姉」
紗季はスカートのポケットから、あの葉書を出した。東京の住所が書いてある、いちばん新しい一枚だ。
「手紙を書く。会ってくれるかどうかは、向こうが決める。警察のことも、向こうが決める。私が決めていいのは、手紙を出すかどうかだけ」
理屈としては、それがいちばん正しかった。正しいことと楽なことは別で、あいつは正しいほうを選んで、選んだ顔は楽ではなかった。
「一個だけ言っていいか」
「何」
「村瀬が先に警察へ行ったら、順番が狂うぞ。あの人、いつ行ってもおかしくない顔してた」
「……それも考えた。考えて、賭けた。あの人は、姉のことより先には動かない。十八年動かなかった人だから」
読みとしては冷たくて、正確だった。俺は頷くしかなかった。
「怖いか」
俺は聞いた。
「怖い」
即答だった。
「会って、話が合わなかったらどうしようとか、そういうのじゃないの。会ったら、姉が二十四歳の他人だって分かっちゃう。今はまだ、六歳のまま探せる」
「探すのは、もう終わりだろ」
「うん。終わり。……終わるのが、怖い」
それを言ってから、あいつは笑った。笑い方が、少しだけ叔母さんに似ていた。血の繋がりというのは、笑い方みたいなところに出るものらしい。
「叔母さんには」
「まだ言わない」
「なんで」
「うちの店、町内の情報が全部通るの。乾電池買いに来て、世間話して帰る人が一日二十人いる。言ったら、明日には町中が知ってる。叔母さんが悪いんじゃなくて、店がそういう場所なの」
想像がついた。ばあちゃんもあの店で、よその家の話を仕入れてくる。
「言うよ、ちゃんと。順番が来たら」
放課後の屋上で、紗季は金網を越えなかった。
フェンスの内側に立って、給水塔で半分隠れた山を見た。五時十二分になっても、越えなかった。
「もう、計らなくていいから」
あいつはそう言った。光の正体は、たぶん老人の戸のガラスだった。見張る意味は、もうない。ないのに、五時十二分に屋上へ来ることだけは、やめなかった。俺が横に立っているのも、たぶん同じ理屈だった。
八分間の中身は、少し変わった。前は、あいつが山を見て、俺があいつを見ていた。今は二人でただ町を見る。八分は、何かを見張るには短くて、何も見張らずに立っているには、ちょうどいい長さだった。
柴田には、山のことは言わなかった。
「最近、顔が深刻なんだよなあ」
購買の横で、柴田がパンをかじりながら言った。
「受験の話でもされたか」
「まあ、そんなとこ」
「二年の六月から受験の話するやつ、性格悪いぞ」
「だな」
適当に合わせておいた。こいつに話せる日が来るのかどうかは、分からなかった。話せない話を一人で持つのは、思っていたより重くて、紗季はこれを十六年分持っているのだと、遅れて気がついた。
第八章 七行
そのころ、あいつは屋上で妙なことを始めた。
山の写真を撮るのだ。携帯で、五時十二分の城山を一枚。毎日撮って、見返しもしない。
「何に使うんだよ」
「使わない」
「じゃあ何で撮るんだ」
「終わったあとに、撮っておけばよかったって思うのが嫌だから」
母親の遺品を整理した人間の言い方だった。俺は何も言わずに、自分でも一枚撮った。今も残っている。緑の塊が写っているだけの、何の変哲もない写真だ。
手紙を書くのに、紗季は四日かけた。
四日目の昼、中庭で「書けた」と言った。
「何枚になった」
「一枚。七行」
「七行?」
「十二枚捨てて、七行になった」
内容は聞かなかった。聞かなかったが、あいつのほうから、指を折って言った。自分の名前のこと。母が去年死んだこと。母は最後まで探していたこと。一度会いたいこと。返事がなくても、恨まないこと。
「五本しかないぞ、それ」
「あと二行は、挨拶と天気の話」
捨てた十二枚の中には、責める文だけで埋まった一枚もあったという。
「書いたら、気が済んだ。出す用と、済ませる用は、別」
「天気」
「最初の一行が『はじめまして』で、二行目が『こちらは梅雨に入りました』。変?」
宛名は、俺も横から確かめた。葉書の住所を書き写した字は、途中から定規で計ったみたいに揃っていた。緊張すると字が揃う癖を、俺はこのとき知った。
「いや」
俺は首を振った。知らない姉に宛てた手紙の一行目としては、はじめまして以外に、たぶん何もない。
放課後、二人で郵便局へ行った。
学校から一本裏の通りにある、小さい局だ。紗季はポストの前で封筒を持ったまま、しばらく動かなかった。投函口の高さで、手が止まっていた。
「重さ、足りてるか。切手」
「窓口で量ってもらった」
「じゃあ大丈夫だ」
「うん」
封筒の角が、指の中で少したわんでいた。
「入れないなら、俺が入れようか」
「入れる」
封筒が落ちる音は、あっけないほど軽かった。紗季はポストの口を三秒くらい見てから「帰ろ」と言った。帰り道、あいつは自販機でいちごオレを買い、俺には聞かずにコーヒーを買ってよこした。微糖だった。文句は言わなかった。
返事は、十日かかった。十日というのは、待つ側に回ると長い。
その十日のあいだに期末試験の範囲が発表されて、梅雨の中休みが二回あって、屋上には毎日行った。紗季は毎日、五時十二分にフェンスの内側から山を見て、五時二十分に帰った。山は一度も光らなかった。老人が上がらなくなったからだと思うが、口には出さなかった。
試験期間中も、あいつは屋上に来た。単語帳を持ってきて、金網にもたれて開いて、一ページも進んでいなかった。俺は俺で、数学の公式を三つ持って上がって、三つとも持って帰った。屋上は勉強に向かない。向かないことを二人とも知っていて、それでも教材を持って上がるのは、口実の要る年頃だからだ。
十一日目の朝、紗季は教室に入ってくるなり、俺の机の横で立ち止まった。
「来た」
それだけで分かった。
返事は三行だったという。会う場所と、日にちと、最後に一行。その一行を、紗季は昼休みに、暗記で言った。
――私もずっと気になっていました。
「気になってた、って」
「うん」
「妹がいること、知ってたんだな」
「村瀬さんが、二十歳のときに全部話したって言ってた。家族のことも。だから、知ってたんだと思う。知ってて、四年間、来なかった」
「……責めてんのか」
「ううん」
紗季は首を振った。
「私だって、知ってから会うまで、三週間かかってる。向こうは十八年ぶんの何かを越えなきゃいけない。四年で葉書に住所を書けたのは、たぶんすごく頑張ったほう」
会いに行く前に、紗季は一度だけ、村瀬と話した。
放課後の用務員室で、俺は廊下で待つつもりだったが、紗季が「いて」と言うので、戸口の内側に立った。狭い部屋だった。工具の棚と、石鹸の匂いと、湯呑みが一つ。
「姉のことを、教えてください」
紗季は立ったまま言った。
「十八年ぶん、私が知らなくて、あなたが知ってること。会う前に、少しでも知っておきたい」
老人は湯呑みを置いた。
「……本は、推理小説が好きだった。犯人を当てると、腹を立てた。当たったのに、だ。当たるように書くのは作者の手抜きだと言うてな」
紗季が瞬きをした。
「足が速い。山道を鹿みたいに下りる。雨の匂いが分かる。降る半日前に、洗濯物を入れろと言う。……料理は、味噌汁だけ苦手だった。何度教えても煮立たせる」
「……それ」
「うん?」
「母も。味噌汁だけ、下手だった」
老人は少し黙って「そうか」と言った。そうか、の言い方が、初めて聞く柔らかさだった。
紗季は礼を言わなかった。頭も下げなかった。最後に一つだけ聞いた。
「姉は、笑うことも、あったんですか」
「あった」
老人は即答し、それから自分の即答に自分で傷ついた顔をした。
帰り道、紗季は「聞かなきゃよかった」と言った。
「どれを」
「全部。……ううん、嘘。聞いてよかった。聞いてよかったって思うことに、腹が立ってるだけ」
そういう腹の立ち方があることを、俺はこの数週間で覚えた。
会うのは日曜、東京駅の構内の喫茶店ということになった。
「ついてきてほしい、とは言わないよ」
「行かねえよ。行く理由がない」
「うん。でも駅までは」
「そっちは行く」
前の晩、あいつからメッセージが来た。短かった。
――明日、何時の電車か忘れた
――八時七分
――知ってるじゃん
――調べた
それで終わった。用件はどう考えても用件になっていない。俺は返事をしてから、しばらく画面を見ていた。
日曜の朝、俺は七時半の駅にいた。紗季は改札の前で切符を見せて、「往復で買った」と言った。聞く前に言うあたり、こっちの心配の中身は割れていた。
特急が出ていくのを、ホームの端で見送った。手なんか振らなかった。振る柄でもない。ただ最後尾が見えなくなるまで、そこに立っていた。
帰りに意味もなく駅の掲示板を見た。十八年前、ここに写真の紙が貼ってあったと、ばあちゃんは言っていた。今は英会話教室と、市民マラソンの募集が貼ってある。紙は入れ替わる。入れ替わった下に何が貼ってあったかを、覚えている掲示板はない。
第九章 同じ名前
日曜の夜、俺は何度も携帯を見た。連絡は来なかった。来ないほうがいい報告と、来ないほうがまずい報告の両方を、順番に想像した。十一時に諦めて寝た。
月曜の昼休み、中庭のいつもの場所で、紗季は先に座っていた。
「どうだった」
「普通」
「普通って」
「普通の人だった」
紗季は購買の袋からパンを出し、開けずに膝に置いた。
「先に来てた。隅の席で、こっちに気づいて、少し手を上げた。指が細かった。それが最初の感想。指、細いなって」
「似てた?」
「全然」
「全然か」
「顔は全然。でもアイスコーヒーの飲み方が、母だった。ガムシロップ入れないで、ミルクだけ二個」
俺は黙って聞いた。
「向こうが先に聞いた。『あなたが、紗季?』って。『うん』って答えた。それから私も聞いた。『あなたも、紗季?』って」
「何て」
「『うん』って」
それで、名前の話は終わったという。
母の写真を一枚、持っていった。姉は長いあいだ見て、「覚えてる」とだけ言った。声とか、匂いとか、そういう話は出なかった。村瀬のことは、姉のほうから一度だけ触れた。「おじちゃんは元気?」と。その呼び方に、怒りも懐かしさも聞き取れなくて、紗季は「元気だと思う」としか返せなかった。
姉は、東京で介護施設の調理場に勤めているという。夜勤のない部署を選んだ、と自分から言った。字が読めるようになったのは山の本のおかげで、計算は苦手で、免許は取れていない。そういう話を、姉のほうが淡々と並べた。
「自分の説明書を、先に渡された感じ」
紗季はそう言った。
「たぶん、そうしないと喋れなかったんだと思う。私も、名前と母のことしか話せなかった」
「一時間もいなかった。話すことが、まだ整理できてないの。お互いに」
「そうか」
「帰り際に、向こうが『また』って言った」
「また、か」
「うん。また、だって」
紗季はそこで膝のパンをやっと開けた。予鈴が鳴って、俺たちは校舎へ戻った。それだけの昼休みだった。
第十章 箒
村瀬が警察へ行ったのは、それから一週間後だ。
きっかけは、あとになって、姉から紗季に来た手紙で分かった。会った数日後、姉は村瀬に最後の葉書を出したのだという。文面は、いつもと一行だけ違った。
――妹に会いました。私は元気です。
それを受け取った二日後に、老人は町の警察署へ歩いて入った。十八年前の事故のことと、そのあとのすべてを話した。
学校には、月曜の朝礼で校長からぼかした説明があった。用務員の交代について、一身上の都合という言葉が使われた。生徒の大半は聞いてもいなかった。俺は列の中で、紗季の背中を探した。二列先にあった。背中は、まっすぐだった。
ホームルームで木村が一言だけ足した。妙な詮索をするな。それだけだった。普段は冗談で間を埋める男が、その日は埋めなかった。埋めない木村を、俺は少し見直した。
正門の掃除は、新しい用務員のおじさんの仕事になった。悪い人ではないのだろうが、掃き方が違った。隅の銀杏の葉が残る。
紗季が叔母さんに全部話したのは、出頭の前の晩だったという。どう切り出したのかは聞いていない。聞けなかった。その晩、叔母さんは店の帳簿を閉めてから、姉の使っていた子供茶碗を出してきたそうだ。十八年、捨てずに置いてあった。
翌日、電器屋は閉まっていた。定休日ではない曜日に、シャッターが半分だけ下りていた。半分なのは、閉め方を迷ったからだと思う。
その週の土曜、俺はばあちゃんに頼まれて電器屋へ電池を買いに行った。
店は普通に開いていた。客が三人いて、三人とも電池も蛍光灯も持っていなかった。奥の棚のあたりで、女の人が二人、声を落として喋っている。誘拐だと言う人がいて、保護だったと言う人がいて、どちらの人も、記事の三行くらいの知識で喋っていた。時効という言葉が一度出た。事故のほうはもう問えないらしい、と誰かが言った。そのあとの十四年間が何にあたるのかは、そこにいる誰も知らなかった。
俺だって同じだ。柱の線を見ていなければ、あの棚のあたりで一緒に喋っていた。
叔母さんはレジにいた。痩せたかね、とばあちゃんが言っていたが、俺には分からなかった。単三の四本入りを出して、袋に入れながら、「あんた、単三ばっかり減る家だね」と言った。前に買った四本は、まだ俺の引き出しにある。
「時計が多いんです」
嘘だった。叔母さんはお釣りを渡して、それから、俺の目を見て「ありがとうね」と言った。
何のありがとうかは、聞かなかった。聞かないまま店を出て、聞かなくてよかったと自転車を漕ぎながら思った。
家に帰ると、ばあちゃんが新聞を広げていた。数日前の紙面に、小さい記事が出ていた。十八年前の事故で行方不明になっていた女性の生存が確認されたこと、当時の経緯について元用務員の男から事情を聞いていること。名前は全部伏せてあった。三行だった。俺が最初に見つけた古い記事と、同じ長さだ。十八年が、行きも帰りも、三行で済まされていた。
ばあちゃんは眼鏡をずらして二度読んで、「出たかね」と言った。出た、が、見つかった、の意味だと分かるまで、俺は少しかかった。十八年前に「出んかった」と言った人が、同じ動詞で、同じ短さで言った。
それ以上、ばあちゃんは何も聞かなかった。郷土史の課題のことも、もう聞かれなかった。
教室では、誰も直接は聞かなかった。直接は聞かずに、聞こえる場所で話すという器用なことを、高校生はやる。紗季は文庫本のページを、普通のはやさでめくっていた。めくる速さが普通すぎることだけが、普通ではなかった。店の手伝いには出なくなって、そのぶん、屋上へ来る時間が少し早くなった。
「うちの叔母さん、姉と電話したの。まだ町には来られないって」
昼休みに、あいつはそう言った。
「来られない、で、来ない、じゃないから。叔母さん、何回もそこを念押ししてた。……電話のあと、店の奥で一時間出てこなかった」
それ以上は言わなかった。俺も聞かなかった。
柴田には、夏になる前に全部話した。あいつは焼きそばパンを持ったまま最後まで聞いて、一言だけ言った。「双眼鏡、役に立ったじゃん」。それから今日まで、誰にも漏らしていない。暇の使い方の天才は、黙り方も知っていた。双眼鏡は、まだあいつの部屋にある。
山の家がどうなるのかは、誰も知らない。村瀬に身寄りはなく、あの集落に他の住人はいない。夏が来て草が伸びれば、細い道は一年で消えるだろう。柱の線だけが、誰にも見られずに、あの高さのまま残る。
七月が近づいて、蝉が鳴き始めた。走り込みの外周コースの木で、今年最初の一匹が鳴いたとき、去年の俺なら夏が来たとしか思わなかった。今年は、あの家の雨戸を思った。あの家の夏は、蝉の声だけで満員になるだろう。聞く人間は、もういない。
期末試験が終わった日、屋上の掃除当番が回ってきた。俺は箒を持って金網の際まで掃いた。西の端に立つと、給水塔の横から、城山の中腹がわずかに見えた。あいつの言っていた角度と、少し違う角度で。
風が吹いて、集めた葉が半分崩れた。掃き直した。
最終章 景色
七月に入って、最初の晴れた日だった。
放課後の屋上へ上がると、紗季が金網の向こう側にいた。ふちに座って足を宙に出している。一か月ぶりに見る位置だった。
「おい」
「何」
「戻ったのかよ、そっち側」
「ここからのほうが、綺麗だから」
あいつは足を軽く揺らした。一か月前より揺れ方がのんきだ。
「墜ちたら綺麗も何もないだろ」
「高瀬君も来る?」
「死んでも嫌だ」
俺はいつもの場所で金網に指をかけた。夏の初めの西日で、町の屋根が全部あたたかい色をしていた。田んぼが光って、川が光って、遠くの山は濃い緑のかたまりで、そのどこにも、もう見張るべきものはなかった。
「姉ちゃんとは」
「手紙。月に一回くらい」
金網の網目に、西日が細かく引っかかっていた。
「会うのは」
「夏休みに、東京行く。今度は叔母さんと」
「そうか」
「うん」
紗季はローファーの先で、こつんと壁を蹴った。
「二学期は、普通に来るから。学校」
「分かってるよ。噂の話だろ」
「うん。夏休みを一回はさめば、みんな飽きるから、って。叔母さんの読み」
「当たると思う」
「私も」
この町の噂の寿命について、電器屋の読みより確かなものは、たぶんない。
五時十二分が、来た。
山の中腹で、光が瞬いた。一度。少し置いて、もう一度。
俺は金網を握った。
「……光ったぞ」
「うん」
紗季は山を見なかった。見ないで、町のほうを見ていた。
「いいのか」
「何が」
「ずっと、それを探してたんだろ」
風が吹いて、あいつの足がゆっくり揺れた。
「見つけたから」
そう言って、紗季は山ではなく、こっちを見た。
俺は何も言えなかった。言える言葉の持ち合わせが、十六年分の在庫のどこにもなかった。
誰があの光を出したのかは、分からない。老人はもう山にいない。雨戸のガラスが、風で動いただけかもしれない。あるいは、誰かがあの岩の上に立って、五時十二分の学校が光るのを見に来ていたのかもしれなかった。確かめる方法はないし、確かめる必要も、たぶんもうなかった。
夏休みの予定を、あいつは一度だけ口にした。八月に東京へ行って、姉の勤める施設の近くの喫茶店で、今度は二時間くらい話す予定だという。二時間、と決めているところが、あいつらしかった。
「二時間で足りるのか」
「足りない。足りないから、次があるでしょ」
次がある、という言い方を、あいつはこの数か月で覚えたのだと思う。
あとになって、紗季から一度だけ聞いた。姉の手紙に、いつか二人であの岩へ行ってみたい、と書いてあったそうだ。五時十二分の学校を、妹と見たいと。行ったのかどうかは、聞いていない。聞かないことにしているものが、俺にも少しずつ増えていく。
「戻る」
紗季が立ち上がり、金網をよじ登った。降りる側で、俺は初めて手を出した。
「手は借りない」
あいつはそう言って、借りた。
地面に降り、スカートを払って、紗季は時計を見た。五時十六分だった。八分の習慣は、四分あまった。
「部活は」
「今日は休み」
「嘘でしょ」
「嘘」
紗季が呆れた息を吐いた。吐いてから、少し笑った。
「行けば」
「五時二十分までいる」
「何それ」
「日課なんだよ、こっちの」
紗季は肩をすくめて、それからフェンスの内側から、俺と並んで町を見た。
四分のあいだ、たいした話はしなかった。駅の裏に新しくできたラーメン屋の話と、柴田が夏休みの計画を三つ持っている話と、二学期の席替えの話。どれも山と関係がなくて、関係のない話が普通にできることを、二人とも確かめるみたいに喋った。
四分後、二人で階段を下りた。
四階から一階まで、階段は五十六段ある。入学してから一度も数えたことがなかったのに、その日は、数えながら下りた。
