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祓屋探偵・御影夜一と憑かれた助手

【あらすじ】
少女の幽霊が視えるようになった朝霧灼あさぎりあらたは、神戸・南京町にある「御影探偵事務所」を訪れる。
所長である御影夜一みかげよるいちは、なんと幽霊と対話できるというのだ。
胡散臭いと思っていたが、夜一から「助手にならへん?」と持ち掛けられ……。
いわくありげな骨董品が並ぶ事務所には、今日も相談者が訪れる。
対話できるが視えない探偵(美形)と、憑かれやすくて視える助手(粗暴)による家系ホラー。怪奇×ブロマンスです。

序章 残夏

 最初は、ごく些細な変化だった。

 少しだけ体が重いような、だるい感覚があった。いつの間にかひどく肩が凝っていて、関節の可動域が狭まっていることに気づいた。

 目覚めも悪くなった。なかなか瞼が開かない。全身がズブズブとぬかるみに沈んでいくようで、起き上がるだけでも一苦労だ。

「……社畜が過ぎんのかもな」

 掛け布団を蹴るようにして、朝霧灼あさぎりあらたはベッドから起き上がった。

 働き過ぎな自覚はある。勤め先は完全にブラック体質な企業だった。しかし心身ともに頑丈にできているので、特に疲弊することなく今までやってきた。何も問題は無かったはずなのに。

 洗面台の前に行き、口に歯ブラシを突っ込む。肩の凝りがひどくて首まで痛い。少しでも解消したくて、頭を左右に倒していたらピキッと鋭い痛みが走った。イライラする。鏡の向こうの自分を思わず睨んだ。

 睨むと多少は凄みが出る。平常時は特徴のない顔で、端的に評するならいわゆるモブ顔だった。そのせいで気弱な青年だと勘違いされることが多い。

 けど、灼は普通に粗暴だ。平然と舌打ちはするし、喧嘩は買うし、というか売ることのほうが多い。好きなときに好きな場所で、好きなだけ煙草を吸う。マナーとか知らねぇ。

 身支度を整えながら、灼は手慣れた仕草で煙草に火を付けた。寝起きの一服は至福のときだ。今から出勤するのかと思うと、途端に億劫になるのだが。

 玄関を出ると、蒸し暑い空気が体にまとわりついてきた。一瞬で汗が噴き出してくる。うるさいくらいに蝉の鳴き声が聞こえる。

 今は、夏の盛りだ。共用廊下を歩くと、わたぼこりや落ち葉、虫の死骸など目についた。

「どうなってんだよ、ここの管理会社」

 イラッとして、軽く舌打ちをする。

 どうやら、管理が粗いらしい。比較的新しいマンションなのに、築年数が経過しているように見えるのは、たぶんそのせいだろう。

 灼は先々月、このマンションに引っ越してきた。それまで住んでいたボロアパートが取り壊されることになったのだ。仕方なく、勤め先からほど近いマンションに移った。1LDKで広さはそこそこ。家賃は高くもなく安くもなく。ほぼ立地で選んだ。通勤時間が短縮できるのはありがたい。

 勤め先は入れ替わりが激しいので、必然的に灼の立場は上がった。それに伴い自由が利くようになった。給与も上がった。微々たるものだけど。良いことしかない。もちろん責任は増えるけれども、それを負担に思うような脆弱なメンタルをしていない。

 ……だから、むしろブラック体質が合ってると思うんだよな。

 エレベーターで一階まで降りて、エントランスを歩いた。足取りが重い。やっぱり体がだるい。

年齢とし……、なわけねぇか」

 灼は、今年二十三歳だ。どう考えても若者の部類に入る。

 もしかしたら、自分が気づいていないだけで疲労が蓄積してるのかも。高卒で就職したので、ブラックな勤務を続けてそれなりに年月が経っている。高校時代もガテン系の肉体労働に精を出していたから、この若さで体にガタがきたとか……?

 エントランスの入口には、大量の蝉がいた。よく見ると全て死骸だった。薄気味悪い。なんとなく、マンション全体が陰気な感じがする。空気が淀んでいるような。

 そういえば、このマンションに越してきた先々月あたりからだ。体に不調が出始めたのは。

 引っ越し作業のせいかもしれない。普段の仕事に加え、荷造りやら各種手続きやらで、疲れが溜まったのかも。きっとそうだ。

 それ以上、特に深刻に考えることはなく、灼はエントランスを出て歩き出した。

 灼が倒れたのは、それから二週間後のことだった。

 職場で意識を失い、救急搬送された。気づいたときには病院のベッドで寝ていた。

 真っ白な天井が見える。ベッド脇のパイプ椅子には、後輩の青倉あおくらが腰かけていた。スマートフォンを眺めていたが、目を覚ました灼に気づいて立ち上がった。

「あ、起きました?」

 こちらをのぞき込んでくる。どうやら、病院まで付き添ってくれたらしい。

「最近、灼さんの顔色がマジで悪くて。やばいって皆で言ってたんですよ」

「……仕事、抜けて大丈夫なのか?」

 ギリギリの人数でまわしているから、自分と青倉が抜けると支障が出るはずだ。 

「灼さん、真面目っすねーー! 仕事の心配してる場合ですか?」

「社会人って、そんなもんじゃねぇの」

「いや、たぶんブラックな社風に染まり過ぎですよ」

 ケラケラと青倉が笑う。笑いながらもスマートフォンを手放さない。やはり仕事のほうが大丈夫ではないらしい。メッセージでやり取りをしていたが、それでは追い付かず、すぐに事務所に戻ることになった。

「もうちょっとサボれると思ったのにな」

 青倉は苦笑いしながら、やれやれと肩を竦めた。そして灼のいる病室から出ていった。

 しばらくすると、医者が部屋に入ってきた。

「夏の疲れが出たんでしょう」

 柔和な笑みを浮かべながら、男性医師が当たり障りのないことを言う。

 結局は、数日入院することになった。色々と検査したものの、異常はなかった。退院後は自宅待機となった。

 すぐに回復して出社できると思っていたが、日に日に灼の体調は悪化していった。

 鏡の中の自分は、病人そのものだ。顔色が悪い。目の下にはひどいクマができている。部屋の中を移動するだけでも息が切れる。そもそも動くことが億劫だ。深い呼吸ができない。思考が鈍っているような感じがする。

 なんとか気持ちを奮い立たせて、外へ出る。マンションとコンビニを往復するだけで、ひどく疲弊した。あり得ない。これが単なる「夏の疲れ」のはずがない。

 浅い呼吸を繰り返しながら、なんとか共用廊下を歩く。前方から来た男女とすれ違った。二人は明らかに異様だった。夏だというのに、女性は厚手のトレーナーを着用している。よく見ると、小さなシミが無数に付着していた。

 男性のほうは、襟がだらしなく伸びたTシャツ姿だった。古くなったスニーカーのかかとを踏み、体を左右に大きく振りながら、のそりのそりと歩いている。

 軽く会釈をしたが、相手からの反応はなかった。通り過ぎたあとで、隣の住人だと気づいた。

 ……ずいぶん様子が変わってるな。

 引っ越しの際、挨拶をした。三十代前半の夫婦と幼い少女。三人暮らしの家庭だった。

 少女は、四歳か五歳くらいだろう。母親の足にまとわりついて、恥ずかしそうにしていた。ちらりと灼を見上げて、目が合うと笑ってくれた。ぷっくりとした丸い頬が可愛い女の子だった。

 夫婦のほうはごく普通の勤め人という雰囲気で、きちんとした身なりをしていた。愛想も良かった。

 それなのに、ついさっき見た二人は、まるで別人だった。よれよれの服に、髪はボサボサ。視線が定まっていないような、虚ろな感じだった。

 それからも、ときどき隣の夫婦をマンション内で目撃したが、少女の姿はなかった。 

 部屋に篭って、灼はベッドの上で丸くなった。ひたすら、その体勢のまま過ごした。

 だるい。しんどい。何もしていないのに疲れている。やることがないから余計にしんどい。

 静まり返った部屋の中で、何かが聞こえた。気のせいかと思ったが、やはり聞こえる。か細く、途切れ途切れで、泣き声のようだとも思う。

 声は、断続的に続いている。

 灼は仕方なくベッドから抜け出し、音の正体を探した。

 この部屋にテレビはない。スマートフォンを確認したが、誤操作をしたわけではないようだった。部屋中を見回したが、他に音を発生させるようなものは見当たらない。

 ……もしかして、隣の部屋か?

 灼の部屋は角部屋だ。リビングの壁の向こうに、あの夫婦と少女が暮らす部屋がある。

 そっと耳を押し当てた。神経を集中させて気配を探ったけれど、声どころか何の音も聞こえなかった。

 しんと静まり返っている。

 怖いくらいに。

 急に、胸騒ぎがした。嫌な予感がする。

 あの夫婦は、明らかに様子がおかしかった。無反応で、虚ろな目をしていた。

 改めて思い出すと、ゾッとするくらいに異様だった。

 鉛のように重い自分の体。その体を引きずるようにして、灼は部屋を出た。隣の部屋のインターフォンを押す。応答はなかった。力を振り絞って、必死に玄関のドアを叩いた。扉は開かない。応答がない。

 管理人に連絡しようと思ったが、スマートフォンを持っていないことに気づいた。部屋に置いたままだ。

「くそっ……!」

 イライラして、自分に盛大な舌打ちをした。部屋に戻って、テーブルの上にあるスマートフォンを掴む。そして、登録しておいた番号をタップした。

 管理人が部屋に入って行く。

 玄関からは、廊下とリビングが見えた。リビングの中央に何かがある。

 目を凝らすと、それが人間の体であることが分かった。小さな体だった。ピクリとも動かない。

 硬いフローリングの上で、まるで捨て置かれたように横たわっている。

 その体に、管理人が手を伸ばした。

 管理人が崩れるように膝をつく。灼のほうを振り返って、小さく首を振る。そして顔を覆いながら唸った。

 間に合わなかったのだ。

 目の前が真っ暗になった。 

 どうして気づかなかったのか。すぐ隣にいたのに。

「……俺のせいだ」

 夫婦の様子が明らかに変わった。そのことに気づいていた。それなのに。

 幾人もの大人が部屋に入って行く。玄関に立ち尽くしたまま、灼は横たわる小さな子どもを見ていた。

 ふいに、少女と目が合ったときのことを思い出した。恥ずかしそうに上目遣いで灼を見ていた。くりっとした大きな目だった。頬がまん丸で、可愛らしい顔の造りよりも強く印象に残っている。

「ごめんな……」

 震える灼の声が、玄関の床にぽたりと落ちた。

 少女の瞼は閉じられている。もう二度と開くことはない。

 全身の力が抜けて、灼はその場にへたり込んだ。

「ごめん……」

 何度も詫びた。何度も。

 その声に混じって、蝉の声が耳に届いた。

 どこか儚げで、寂しくて、心許ない鳴き声。ヒグラシだ。

 マンションの中庭には、途方もなく背の高い巨木が立っている。ヒグラシの鳴き声はそこから聞こえる。幾重にも重なってマンション内に反響している。

 しばらくすると、巨木の梢が揺れた。風が吹いている。

 その風が、部屋に中に流れ込んでくる。熱気を帯びていない。生ぬるい風だった。

 いつの間にか、夏が終わろうとしていた。

第一章 忌み地のマンション 

 兵庫県神戸市に、南京町という中華街がある。

 日本三大チャイナタウンのひとつに数えられ、中国風の意匠を特徴とする建物が軒を連ねている。本格的な点心や中国茶、スイーツなどを売る店舗が並び、休日ともなれば大勢の観光客で賑わう。異国情緒たっぷりのエリアだ。

 南京町の中央通りは十字路になっており、広場には象徴的な「あずまや」という建築物がある。なんとも煌びやかな建物だった。

 東には「長安門」、西には「西安門」、南には「海栄門」という立派な門があり、北側は元町商店街と繋がる構造になっている。

 その北側から、灼は南京町に足を踏み入れた。 

 平日の夕方。さすがに観光客はまばらだった。

 スマートフォンの地図を頼りに、広場から周囲をぐるりと見回す。

御影みかげ探偵事務所って、どこだ……?」

 地図を拡大したが、よく分からない。どこを見ても、中華街特有の赤色が目立つ風景が連なっている。

 灼がこの場所を訪れるきっかけになったのは、二週間ほど前のことだった。

 自宅療養中の灼のもとに、青倉がやって来た。

 開口一番、彼は「だいぶ、やつれましたね」と驚いた様子で言った。自覚はある。生気のない顔をしているから、鏡を見るのも嫌だった。

 鏡を見たくない理由は、他にもあるのだが。

「メンタル強めの灼さんでも、そうなるんですねぇ」

 青倉が、しげしげと灼を見る。

 ちょっと楽しそうなのが忌々しい。深刻な態度をとられるよりは、マシなのだけれども。

「俺の親戚が、神戸に住んでるんですけどね。関西のほうでは有名らしいんです」

 ソファに座った青倉は、さっそく話し始めた。

「有名って?」

「幽霊が視えるらしいです」

「胡散臭せぇ」

 灼は肩を竦めた。

「でも、灼さんも視えるんですよね?」

 じいっと、青倉が灼を見る。

 煙草に火をつけながら、灼は頷いた。

「あぁ」

「だったら、お祓いしてもらわないと」

「……お前さ、俺の話を聞いて『胡散臭せぇ』とか思わないのか?」

 自分だったら、絶対にそう思う。

「昔、遠縁の親戚にそれ系の問題が発生して。今は解決してますけど。だから、俺は信じるタイプですね」

「それ系って?」

「幽霊ですよ。祓ってもらったみたいです。親戚が言うには、祓い師としての腕は確かだとか……。ちなみに、灼さん」

「なんだよ」

「どんな幽霊が視えてるんです?」

 青倉が、興味津々といった感じで聞いてくる。

 灼は、ふうーーっと大きく煙を吐き出してから答えた。

「……子ども」

「男の子ですか?」

「いや」

 女の子だ。 

 助けられなかった子ども。

 名前は、葉多寧々はたねね

 熱中症だった。締め切ったマンションの一室。エアコンは作動していなかった。

 日常的に暴力を受けていた痕跡があったらしい。ひどい栄養失調だったとも聞いている。

 両親は現在も行方不明だ。警察が捜索しているものの、未だ見つかってはいない。

「どんな感じですか?」

「……どんなって」

「ほら、いかにも『恨んでます』って感じで灼さんを睨んでるとか、ただそこに存在してるだけとか。幽霊の登場の仕方にも、いろいろあるじゃないですか」

 灼は、ちらりと青倉を見た。

「……後ろにいる」

「え、俺の!?」

 慌てて青倉が背後を振り返る。

「馬鹿、お前じゃない」

「あ、そっか。灼さんですよね」

 はは、と眉尻を下げて青倉が笑う。

「ずっと後ろにいる感じですか? 至近距離?」

「……密着してる。しがみついてる」

「おんぶしてるってことですか?」

 青倉が、じろじろと不躾な視線を送ってくる。俺の背後を確認しているのだろう。視えている様子はないけれど。

「背中というより、首だな」

「くび?」

「俺の首に、女の子がしがみついてる」

「え、こわっ!」

 さすがに恐怖を感じたらしい。青倉が身震いしている。

 灼が、鏡を見たくない理由はこれだ。

 気づいたのは少し前だった。

 朝、顔を洗おうとして鏡の前に立ったら自分の首に女の子の腕が絡みついていた。生きている人間のものではない。青白く変色している。

 その手が、灼の首にまるでしがみつくように巻き付いているのだ。

 ほんのわずか、爪が皮膚に食い込んでいる。決して離すまいという執念を感じた。

 絞め殺したいのだと、瞬時に理解した。

 灼は、なんとか悲鳴をあげずに済んだ。咄嗟に鏡から視線を外したが、それでも残像が瞼に焼き付いて離れない。

 ……あの子だ。

 少女の顔には、見覚えがあった。

 死んでしまった子。

 長い髪が目元を覆っているせいで、表情までは分からなかったが間違いない。

 灼が、助けられなかった女の子だ。

 恨んでいるのだろう。絞め殺したいと思うほどに。

「もう少し、俺が早く気づいていれば……」

 激しい後悔の念が、今も胸の中に渦巻く。

「……灼さんが悪いわけじゃないですよ」

 言葉を選びながら、青倉が言う。

「今の灼さんは、普通の状態じゃないですから」

「普通じゃない、か?」

「自分だって分かってるでしょ。それとも、分からないくらいに今の灼さんはヤバい状態なんですか?」

 青倉が真面目な顔になる。

「自覚はしてる」

 相変わらず、灼は原因不明の体調不良に悩まされている。

「よかった」

 そう言って、青倉が笑う。

「だったら、普通の状態に戻るために行動しましょう」

「行動?」

「南京町に行ってください」

「……幽霊が視えるとか言い張ってる奴に会うのか?」

「たぶん、本当に視えるんだと思いますよ。親戚もかなり世話になったらしいんで」

 青倉がスマートフォンを操作する。

 しばらくすると、灼のスマートフォンが震えた。『御影探偵事務所』とかいう、怪しげな事務所の所在地が届いている。

「マジで胡散臭いな」

 思わずつぶやいていた。

「何言ってるんですか。灼さんだって、幽霊が視えるって言い張ってるじゃないですか。同じようなもんですよ」

 けらけらと青倉が笑う。

 残念ながら、灼は言い返すことができなかった。

「ここか……」

 ようやく『御影探偵事務所』の看板を見つけて、灼はつぶやいた。 

 南京町の中央にある広場からは、少し離れた場所にあった。古びた雑居ビルのような建物だ。この二階に、事務所があるらしい。

 階段は細く、薄暗い。広場の喧噪が嘘みたいに静まり返っている。階段を上ると、レトロな木製の扉があった。

『御影探偵事務所』のプレートがかかっているのを確認して、灼は扉をノックする。

 しばらくすると、扉が開いた。派手な柄のチャイナシャツを纏った人物が姿を現す。

 ……男、だよな? 

 やたら美形だった。化粧をしていないはずなのに、妙につるりとした顔をしている。ひとつに束ねた長い髪は、色素が薄い。

 ぱちぱちと瞬きしながら、青年が灼を見上げる。大きな目だ。そして、睫毛が長い。

「青倉さんの紹介のひと?」

 関西特有のイントネーションだった。

「あぁ」

「朝霧灼さん?」

 頷くと、部屋の中に通された。

「どうぞ~~。そこ、座ってくださいね」

 おっとりした口調と、普段耳にしない独特のイントネーションに力が抜ける。

 それよりも。座るって、どこにだよ?

 確かに、ソファはある。テーブルと、それに向かい合う形で。

 しかし、腰を下ろす場所はない。埋もれているのだ。訳のわからない置き物やら、木材やら、布切れやら。そして棚には、骨董品らしいものが雑多に置かれている。

 ……胡散臭いな。

 実際に来てみて、灼は改めてジャッジを下す。

 こういう、いかにも「いわくありげです」的な小道具で雰囲気を作っているところがもう、最高に胡散臭い。

 灼は布切れを端に寄せて、ドカッとソファに座った。

「所長の御影夜一みかげよるいちです」

 向かいのソファに腰を下ろした青年から、名刺を手渡された。興味がないので、そのままテーブルの上に投げ捨てる。

「あんたさ、いくつなの」

 煙草に火を付けながら、目の前の男に訊く。

「え?」

「歳だよ」

「二十四ですけど」

「俺と変わらねぇじゃん」

「そうなんですね」

 青年がにこにこと笑う。

「胡散臭ぇ」

 とうとう本音が出た。

「若いと安心できませんか?」

 灼は、真正面から青年を見据えた。

 思いっきり睨んだが、相手は柔和な顔を崩さない。

「視えてるんだよな? 幽霊」

 足を組み替えながら、灼は訊いた。

 この男には、絶対に幽霊は視えていない。そう確信している。

 灼を見ても平然としているからだ。首に幼女の腕が巻き付いているというのに、反応しないなんておかしい。

 霊の存在に慣れているから驚きはないのかもしれないが、それでも灼の首元に一度たりとも視線を向けないのは変だ。

 絶対に視えていない。コイツは詐欺師。

「視えてませんよ?」

 そう、視えてない……。

「は?」

 思わず、煙草を落としそうになった。同時に怒りが湧く。視えないだと? だったら俺は一体、何のために東京から神戸まで来たんだ? 

「ふざけんな!」

 ガンッ! と思いっきりテーブルを蹴る。立ち上がって、相手に掴みかかろうとしたとき。急に苦しくなった。息ができない。

 首が、締まってる……!?

「うっ……、ぐはっ」

 灼は、その場に崩れ落ちた。

 苦しくてもがいていたが、しばらくすると少しだけ呼吸が楽になった。

「テメェ、俺に何をした……!」

 荒い呼吸を繰り返しながら、ギリギリと夜一を睨む。

「おれとちゃうよ?」

 床に這いつくばる灼を、夜一は見下ろしていた。イラつくほどに、柔らかな笑みを浮かべながら。

「お前が、こいつに命令したんじゃねぇのか」

 あまりにもタイミングが良すぎる。

 ぜぇぜぇと肩で息をしながら、なんとか身を起こした。そして、倒れ込むようにソファに腰を下ろす。

「おれが? そんなわけないやん。でも、分かったで」

「何がだよ」  

「女の子の幽霊がおる」

 夜一の言葉に、灼はビクリと反応した。

「暴力、嫌いみたいや」

「なんだと?」

「小さい女の子の声がするねん。その子がな、『やめて』って言うとる。『殴らんといて』って、悲しそうな声で言うとるよ」

 ……暴力。

 そういえば、あの子の体には。

「日常的に、暴力を受けていた痕跡が……」

 小さな体には、無数の殴られた跡があったらしい。

 胸の奥が苦しくなって、思わず唇を噛んだ。拳を握り締める。

「もう殴ったりせえへんよ? うん、大丈夫。灼くんは、ちょっと怒りやすいねん」

 急に、夜一が話し始めた。

「仲良しになるから、大丈夫やで」

 灼に言っているのではない。 

 やたら口調が優しい。

 まるで、小さい子に話すみたいな……。

「お前、まさか……」

 目の前にいる夜一を、灼は信じられない思いで眺めた。

「話せるのか?」

「うん」

「視えないのに?」

「そうやねん。視えへんけど、会話はできるねん。気配も察知できる。これで姿形を確認できたら、もっとええねんけどなぁ」

 腕を組みながら、おっとりした口調で「灼くんは、視えてええなぁ」と夜一が言う。

「その、灼くんっていうのやめろよ」

「名前で呼んだほうが仲良しやん?」

「仲良くなる必要ないだろ」

「寧々ちゃんは、そうしてほしいみたいやで?」

 いつの間にか、名前まで把握している。

「灼くんは、恥ずかしがり屋さんやねん。うん、そうそう」

 どうやら、また寧々と会話しているらしい。というか、誰が恥ずかしがり屋だよ。イライラする。

 腕を組みながら、灼は夜一を睨んだ。

 しばらくして、夜一は灼の手を取った。利き手の左とは逆。煙草を持っていないほうの手だ。

「なんだよ」

「指切り」

「はぁ?」

 夜一が小指を絡ませてくる。 

「ほら、寧々ちゃん。おれと灼くん、仲良しやろ~~! もう喧嘩したりせぇへんって、指切りもしてくれたで」

 随分と楽しそうだ。

 まったく馬鹿馬鹿しい。灼の苛立ちは、限界点に達しそうだった。

 夜一をボコボコにしてすっきりしたくなったが、寧々がいるのでそうもいかない。思いっきり煙草を吸って、なんとか気持ちを抑える。

「それで、灼くん」

 にこにこ顔の夜一が、こちらを見る。

「灼くんは、なんでうちに来たん?」

「青倉から聞いてないのかよ」

 青倉が、遠縁の親戚に話をしてくれたのだ。そのツテを頼って、灼はここに来ることができた。

「詳しいことは全然」

 夜一が、ゆるゆると首を横に振る。

「幽霊に憑かれた奴がして欲しいことなんて、ひとつしかないだろ」

「祓ってほしい?」

「……あぁ」

「それって、本心と違うやろ」

 何もかも見透かしたような、彼の表情が嫌いだ。

「……どうして、そう思うんだ?」

「幽霊は、すごい敏感やから。憑いた相手のこと、よく理解してるねん」

 夜一が、まっすぐに灼を見る。

 その視線に、思わず怯みそうになる。

「灼くんは、寧々ちゃんを祓いたいと思ってない。それを寧々ちゃんは分かってるねん。灼くんがここに来るとき、寧々ちゃんは抵抗せえへんかったやろ?」

 確かに、そうだ。

 東京から神戸に来るまでのあいだ、灼の身には何の異変も起きなかった。

「灼くんは、なんでここにおるん? おれに、どうしてほしい?」

 静かな声だ。凪のような。しんしんと降り積もる雪のような。

 なんだか、急に胸の内を明かしたくなった。

「俺に、罰を与えたいんだと思う……」

「寧々ちゃんが、灼くんに?」

「あぁ」

 きっと、殺したいほどに恨んでいる。

「声を、聞いて欲しかった……」

「こえ?」

「俺は聞こえないから。代わりに、聞いて欲しかったんだ。胡散臭いとは思ったけど、少しでも可能性があるなら行動しようと思った。……俺が、ここに来た理由だ」

 確かめたかったのだ。少女の気持ちを。そして、詫びたかった。

「灼くんは、視えるけど会話はできひんのか」

 なるほどぉ、と夜一が頷いている。

「恨んでないみたいやで?」

 夜一が明るい声で言う。

「罰を与えたいとか、そんなことぜんぜん考えてへん」

「……そんなはず、ないだろ」

 だったら、なんで首に手をかけてるんだよ。

「本人がそう言うてるもん」

 そうだとしたら、なぜ俺に憑いている? 恨んでるからじゃないのか? 首を絞めて、殺したいんだろ?

 寧々の意図が分からず、灼は困惑した。

「それより、灼くん」 

「なんだよ」

「他のは、どうする?」

「……どうするって?」

 何の話だ。

「他の幽霊」

「え?」

「寧々ちゃん以外にも、憑いてるで」

「はぁ!?」

 夜一の指摘に驚いて、思わず声を上げた。

「嘘だろ? 俺は視えないぞ」

「う~~ん。おれもな、会話はできひんねんけど。でも、絶対におるねん。感じる」

「感じる……?」

「良くないやつ」

「あ、悪霊ってことか?」

 ごくり、と唾を飲み込む。

「んーー、幽霊というよりは、怨念みたい……?」

 夜一の目が、スッと閉じられた。神経を尖らせているのが分かる。

 何かを察知しようとしているようだ。

「……いや、幽霊でもあるんかな。分裂した一部が灼くんの体に憑いてる感じや」

 予想外の事態だ。

 まさか、寧々の他にもいたなんて。おまけに良くないモノだという。

「元は人間やと思う。死んでから、かなり時間が経ってる」

 眉間に皺を寄せながら、夜一が言う。

 時間の経過と共に、分裂していくことがあるらしい。

「分裂すると、視えへんようになる。形を成してないから」

 会話することも不可能になるようだ。

「灼くん、うちの事務所に来たときから顔色が悪かったけど。ずっと、そんな感じなん?」

「……そうだな」

 ここ最近、絶不調だ。かなり体調が悪い。全身に鉛がついてるような感覚だった。そして、一向に回復しない。

「体調が悪くなったのは、いつ頃からやった?」

「……そういえば、引っ越してすぐだったかな」

 あのマンション。仕事場から近いという理由だけで選んだ部屋。

「どんなマンションなん?」

「築年数の割りに、妙に古びた印象だな」

 空気が淀んでいる気がする。蝉が大量死していたこともあった。

「住人は、どんな感じ?」

「正直、あまり他の住人と会った記憶はない。仕事のせいで早朝にマンションを出て、深夜に帰宅する生活だったから」

 体調が悪化してからは、ほとんど部屋に引きこもり状態だった。

「……印象に残ってるのは、この子の両親だな」

「寧々ちゃん?」

「俺の隣に住んでた。最初に挨拶したときは、ごく普通の夫婦だった。でも……」

「でも?」

「だんだん様子がおかしくなっていった」

 まさか。

「そのせいなのか……!?」

 分裂した悪霊に憑かれて、両親はおかしくなったのか。そのせいで、寧々は……。

「影響を受けた可能性は、かなり高いと思う。憑かれやすい性質やったんやろうな」

「クソッ!」

 思いっきり、ガンガンとテーブルを蹴った。

 何が悪霊だ。怨念だ。どうして、寧々が死ななければならなかったのか。

「……弱い子が、犠牲になることが多いねん」

 納得できない。できるわけがない。

「弱いっていうのは、小さい子はもちろんやけど。大人でも、自分を守る力が弱いと影響を受けやすいねん」

 寧々の両親は、そういう意味で「弱かった」のだろうか。

 だったら、灼も同じだ。

「俺も、弱いのか……」

「灼くんは強い」

 視線を上げると、夜一と目が合った。

「こんなに、影響を受けているのに?」

 なんとか神戸まで来たものの、本来ならベッドから一歩も出たくないほどに体が重い。全身がだるくて仕方がない。 

「そこまで体がしんどいのに、自我は失ってへんやん? だから、灼くんは強いねん」

 ……そういうものなのか。

「とにかく、現場に行かな分からんこともあるやろうし!」

 そう言って、夜一がソファから勢いよく立ち上がった。

 パタパタと動き回って、なにやら準備を始めている。

「おい」

「ん?」

「何してるんだよ」

「旅行の準備」

 大きめのバッグに、ぽいぽいと荷物を詰めながら夜一が言う。

「……もしかして、来るのか」

「うん、行くで! 灼くんのマンション!」

 高らかに宣言して、夜一は準備を進める。

 灼は、大きくため息を吐いた。

 ……まさか、こんな事態になるとは。

 新たな煙草に火を付けながら、夜一を見た。生活用品や小物をバッグに押し込んでいる。

「なぁ」

「ん?」

「その服で東京に行くのか?」

 派手なチャイナシャツ。よく見ると綺麗な柄だし、南京町では馴染んでいるから良いのだけれども。

「あかん?」

「……いや」

 中華街を出ると、かなり目立つ格好だ。正直なところやめてほしい。

 しかし、幽霊だ怨念だと意味不明な状況に陥った今、煌びやかなチャイナシャツなど些末な問題だ。

 そんなことを指摘している場合ではない。

 ド派手なチャイナシャツをバッグに押し込む瞬間を目撃したが、灼は思いっきり煙草を吸って、そっと視線を逸らした。

「うーーん、これは思ったよりも凄いなぁ」

 マンションを見上げながら、夜一が身震いする。

 よく見ると、彼の二の腕には鳥肌が立っていた。どうやら、状況は芳しくないらしい。

 灼が夜一を連れて東京に戻ったのは、すでに陽が落ちかけている時分だった。

 最寄り駅から徒歩でマンションに向かっていると、夜一が「灼くんのマンションって、あっちやろ」と指を差した。まさしくその通りだったので、なぜ分かったのか訊いてみた。

「気配を感じるから」

 そう言って、眉根をきゅっと寄せた。

 マンションが近づくにつれ、夜一は「うわっ」「うそやん」「あかん」という、芸人並みのリアクションを見せるようになった。

 黙っていれば夜一は、この世のものとは思えないほどに美しい。ゾッとするくらいに美形だ。

 しかし、コテコテのオーバーリアクションのおかげで彼が間違いなく現世の人間だと判別できる。

 ちょっと動きがコミカルなだけで、ごくごく一般的な人間だ。

 ……いや。幽霊が視えるし、おまけに会話もできるから、普通の人間とは少し違うかも。

 マンションの敷地内に入ると、すぐに部屋に向かうことなく、彼は周辺をうろうろと歩き回った。仕方がないので、灼も夜一のあとを付いて歩く。

 建物の周囲をぐるりと移動して、エントランス付近に戻ってきた。

「灼くん、これ見て」

 夜一が、しゃがみ込んでいる。

「なんだよ」

 背後からのぞき込むと、そこには花壇があった。

「……花か」

 どれもこれも萎れている。綺麗に咲いている花はひとつもない。

「このマンションは管理が杜撰なんだよ。どうせ、水やりをサボってるんだろ」

 灼が呆れたように言うと、夜一は首を横に振る。

「土は湿ってるねん」

 どうやら、手入れはされているらしい。夜一は熱心に土を触っている。

「……だったら、なんで枯れてるんだ?」 

「根腐れするみたいやなぁ。この場所では、ちゃんと育たへんみたいや」

 数か所、掘り起こしている。

 しばらくそうしていたが、気が済んだらしい。手に付いた土を払いながら夜一が立ち上がる。

「さて。じゃあ、灼くんの部屋を見に行こう」

「……あぁ」

 夜一に促されたが、気乗りしない。自分の住処だというのに、近づくのも嫌だ。拒否感というのか、何としても部屋に入るのを回避したい感情が渦巻く。

 今朝、神戸に行くまで、ごく普通にこの場所で生活していたのに。

 たぶん、このマンションにいわくがあると知ってしまったからだろう。

 鍵を開けて、玄関でのろのろと靴を脱いでいるあいだに夜一が先を行く。すたすたと部屋の奥に侵入した。

「おい! 他人の部屋に勝手に入るなよ」

「え? 鍵開けてくれたやん?」

 廊下の突き当り。リビングのほうから、夜一がひょっこりと顔を見せる。

「普通は、家主の後ろを付いてくるもんだろが」

「だって灼くんが、ぐずぐずしてるんやもん」

 のろま扱いされた。夜一に。ド派手チャイナシャツに。灼のこめかみが、ピキピキと反応した。

「灼くんは綺麗好きなんやな」

 あちこち見回しながら、夜一がつぶやく。

 彼の言う通り、殺風景な部屋だ。ミニマリストというわけではない。単純に、灼が物に興味を持てないだけだった。

「誰かさんの事務所は、物で溢れてたな」

 嫌味っぽく言ったが、夜一には届かなかったらしい。 

「なるほどなぁ」

 点検するように部屋の中を歩きながら、ひとりで納得したように頷いている。

「何が分かったんだよ」

 天井を見たり、壁に手を当てたり、床に顔を近づけたり。 

「おい、無視するなよ」

 全ての部屋を確認すると、まるで宣言するみたいに、夜一が「よし! 分かった!」と言った。

「だから、何がだよ」

「この部屋を出る!」

「はぁ?」

 本当に意味が分からない。

 釈然としないまま、夜一の後を追った。

 夜一は、颯爽と部屋を出てエレベータに向かう。

 どうなっているのか、まるで分からない。置いてけぼりを食らったようで苛立ちを覚える。

 最上階まで上って共用廊下を歩く。端から端まで。

 そうして、階段を使って下の階に行く。

 また、端から端まで歩く。階段を使って下りる。その繰り返し。

 一階まで下りたところで、とうとう灼は我慢の限界に達した。

「いい加減にしろよ。こっちは意味が分からねぇんだ。一体、何がどうなってんだよ? あぁ?」

 思いっきり夜一を睨む。彼の腕を掴み、捻り上げようとした。……のだが。

 夜一の腕があまりにも華奢で、怯んでしまった。力を入れたら、簡単に折れてしまいそうだ。

「ちょっと、分かったで」

 腕を掴まれている夜一は、特にそのことを気にした様子もなく灼を見上げた。

「分かった?」

「うん。でも、それより……」

「何だよ」

「この場所から離れるのが先やな。灼くん、そろそろあかんやろ?」

 あかんって、何がだよ。

 そう思った瞬間、ガクンと体の力が抜けた。立っていられない。平衡感覚を失っている。

 ぐらぐらと左右に傾ぐ体を、夜一に支えられた。掴んでいたはずが、いつの間にかその腕に縋りついている。

「……くそが」

 イラつく。何だよこれ。踏ん張ろうとして、灼は必死に足掻いた。

「おれに寄り掛かっていいから」

 そう言って、夜一は自分の肩に俺の腕を回した。

「何とか、歩けそう?」

「……あぁ」

「大丈夫?」

 癇に障っていた独特のイントネーションが、今はやたら優しく感じる。その事実にイラつく。

「……煙草」

 吸いたい。無性に。

「あかん。我慢して」

 優しく叱られた。「くそっ」と小さく舌打ちをする。

 仕方がないので、煙草は我慢することにした。

 悪いと思いながら、夜一に体重をかける。そうしないと歩けない。灼を支えられるのか、という懸念があったが、それは大丈夫らしい。

 ……まぁ、いくら細身といっても、一応はコイツも男だしな。

 そんなことを考えていたら、意識が朦朧としてきた。ちょっと、ヤバいかもしれない。

「……んだよ、コレ」

 唸るように言うと、夜一がまじまじと灼の顔を見た。

「灼くんって、ほんまに強いんやなぁ」

「あ?」

「この状況になっても、まだ自我があるし。なにより怒ってる」

「普通、怒るだろ」

 こんな状況だ。怒りしかない。もともと、頭に血が上りやすい性質ではあるけれども。

「怒りの感情があるうちは、まだ平気やな。喜怒哀楽のなかで『怒』が、一番強いから」

「……もし『怒』がなくなったら、どうなるんだ?」

「あっという間に『哀』だけになって、そのうち感情がなくなって。それでな、取り込まれるねん」

「取り込まれる……?」

 ふいに、寧々の両親の姿が頭に浮かんだ。

 別人のようになっていた。虚ろな目をして、感情をなくしたようだった。

 夜一に説明すると、深刻そうな顔つきになった。

「……その様子やと、かなり早い段階で自我を失ったんやと思う」

 夜一が慎重に話している。そうか、寧々に聞かせたくないのだ。

 マンションの敷地を出ると、少しだけ呼吸が楽になった。

「灼くんって、憑かれやすい体質なんやな」

「そうなのか?」

「え、もしかして自覚ないん? これまでも色々視えてたやろ?」

 夜一が、ちょっと驚いたように言う。

「幽霊を視たのは、寧々が初めてだ」

 それ以外にも、おかしな事象に遭遇したことはない。だから今でも、幽霊だとかその類のものを「胡散臭い」と思うのだ。

「なるほどーー! じゃあ、寧々ちゃんに憑かれたのがきっかけで、灼くんは視えるようになったんやな。能力が開花したんや!」

 夜一の表情が、ぱあっと輝く。まったく嬉しくはないのだが。不要すぎる能力だ。

「そんなことが、あるのか?」

「何度か、そういう事例を聞いたことがあるで」

 憑かれた影響を受けるらしい。体質が変わるようなものだという。

「さっき、マンションで分裂したやつが灼くんに吸い寄せられてたけど。それは視えてへんかった?」

「あぁ……。そんなに、いたのか? というか、お前だって視えないんだろ? 何で分かるんだよ」

「気配やで」

 またそれか。

「このマンションには、分裂したのがうじゃうじゃおるねん。その無数のやつがな、うれしそうに灼くんに纏わりついてた」

「……マジかよ」

 想像したらゾッとした。灼の体から血の気が引いていく。

「もうな、敷地に入った瞬間からすごいことになってたで」

 ちょっと興奮したように夜一が言う。

「そういうことは、早く言えよ!」

 知ってたら、一歩たりとも敷地内には立ち入らなかったのに! 本当に、コイツはムカつくな!

 夜一の肩に回した手で、思いっきり髪を引っ張る。

「いたっ! もう、やめてよぉ」

「うるせぇ」

 気にせず、ひとつに結った髪をぐいぐいと引っ張った。

「……寧々ちゃんも、やめてって言ってるで?」

 灼の手が、ピタリと止まる。

 途端に、夜一が「ふふん」と笑う。

「くそが!」

「とりあえず、ホテル行こっか」

「はぁ?」

 なぜ急にホテルなのだ。意味不明すぎて疲れる。

「駅前にあったやんな?」

「格安のビジネスホテルだったらな」

「高くても、おれは良いで? 払うんは灼くんやもん」

「なんでだよ」

「依頼人は、灼くんやもん」

 夜一のにこにこ顔を見て、灼は力が抜けた。そういえば、東京までの新幹線代も灼が支払った。

「このマンションには、もうおられへんやろ? とりあえず、住処は必要やん」

 ……それは、確かにそうだ。

 灼は、少しだけ歩く速度を速めた。

「ちょっとは、元気になったん?」

「まぁ」

 ひとりで歩行するのは困難だが、だいぶ楽になった。マンションから距離を取るにつれ、体が軽くなっていくのが分かる。

「灼くんは、憑かれやすいけど強い。変わったタイプやなぁ」

 しみじみと夜一が言う。まったく嬉しくはない。

「……ちなみに、今ってどれくらい憑いてるんだ?」

 自分では分からない。灼は、気配を感じることができないのだ。

「んーー、たぶんひとつ。神戸まで憑いて来てたやつ。もしかしたら、分裂した核の部分かもしれへん。一番、力を感じるから」

「ふぅん」

 灼とは違って、夜一は色々と感知できるようだ。

「もともとは一体やけど、それが細分化していって。それが今は、マンション中で浮遊してる」

「マジで、あのマンション何なんだよ」

「正確には、マンションというより土地のほうやな」

「土地?」

 ……そういえば、花壇の花はすべて枯れていた。

「あそこは、忌み地や」 

「いみち……?」

 何だそれは。

 灼には、聞き慣れない単語だった。

 駅前のホテル。ツインルームのベッドに、灼は倒れ込んだ。

「はぁ、重かったーー!」

 すぐ隣には、一緒にベッドにダイブした夜一の顔がある。

 彼に支えられて、なんとか部屋まで辿り着いた。

「……俺はデブじゃねぇよ」

 礼を言いたい気持ちはあったのだが、気づいたら減らず口になっていた。

 隣のベッドに移動した夜一が、腰を下ろしながら「忌み地」の説明をする。

「忌み地っていうのは、事故とか事件とかがあって、呪いや祟りがあるって言われてる場所のことやで」

 日本全国には、忌み地と呼ばれる場所が多数存在しているという。胡散臭ぇ……と言いたいところだが、おかしな事象を体験してしまったので、仕方なくそのワードを飲み込んだ。

「心霊スポットも忌み地のひとつやねん。だから、肝試しとかは安易にするもんとちゃうねんで。もしそこに地縛霊がおったら、家までついてくることもあるし」

「……家について行ったら、もうそれは地縛霊じゃないだろ」

 思わずツッコんでしまった。やはり、この界隈は胡散臭い。

「それだけ、憑かれやすい体質の人間やったんやと思う。レアタイプやで、灼くんみたいに。希少価値があるわぁ」

 キラキラした目で夜一が灼を見る。

 褒められているのだろうか。だとしても、まるで嬉しくはないのだが。

「花が枯れてたのも関係があるのか?」

 念入りに花壇の土を確認していた夜一の姿を思い出す。

「忌み地では、植物が生育不能になることが多いねん。花が枯れたり、作物が腐ったり」

「……だから、あそこが忌み地だと?」

「うん。それにな、あのマンションは上に行けば行くほど、嫌な気配がなくなるねん。地面に近いほど、悪い気配を感じる」

「なるほど」

 それを確かめるために、最上階まで上ったのか。

「疲れたなぁ」

 夜一が、目を擦っている。眠そうだ。ドサッと仰向けに倒れ込み、そのままグイグイと体を伸ばす。

 忌み地というのは分かったが、そうなった原因は何だ? 事故? 事件? 正常な土地に戻ることはあるのか?

 疑問は尽きない。

「おい」

 夜一に声を掛けたが、反応はない。

「……マジか」

 夜一は、すやすやと眠っていた。煌々と明かりのついた部屋で。

 風邪を引かれても困るので、布団を被せたい。

 気合を入れて、なんとか立ち上がる。夜一のベッドに近づき、体を揺すった。目を覚ます様子は皆無だ。

 仕方がないので、彼の体の下にある掛け布団をぺろりと乗せておいた。

 翌朝、夜一は体に布団を巻き付け、身動きがとれない状態で目を覚ました。芋虫のようだ。たぶん、ごろごろと寝返りをうったせいだろう。

「……動かれへん」

 寝起きの夜一の声は、ひどくかすれていた。寝癖がひどい。髪がボサボサになっている。

「風邪を引くよりはマシだろ」

 灼の声は、夜一よりも更にかすれている。声を出すのがやっとだった。

「全身が痛てぇ」

 筋肉痛のような症状が出ている。

 しかも、動けない。金縛りだろうか。

「昨日、分離したやつがうじゃうじゃ寄って来てたから。そのせいやと思うで」

 そう言って、夜一があくびをする。大きなあくびだった。

 まったく、呑気なもんだ。

 こっちは全身がバキバキで、ひとりでは起き上がれないのに。

「おい」

「どうしたん?」

「起こせ」

 命令口調で言うと、夜一は嫌そうな顔になった。

「灼くん、重いねんもん」

「デブじゃねぇ。昨日も言っただろ」

「ひとりで行くから、灼くんは休んでて良いで」

 夜一がベッドから立ち上がり、出かける準備を始める。

「待てよ! どこに行くんだ?」

「えっとぉ、知り合いの不動産屋さんとか、図書館とか」

 夜一は上機嫌で身支度を整えている。

 不動産屋は、まぁ分かるとして。図書館には、一体なにをしに行くんだ?

「おい、とにかく俺を起こせ……!」

 ベッドの上でジタバタと足掻く。実際には、指一本動かせていない状態なのだが。

「灼くん、良い子でおってな」

 夜一が笑顔で手を振る。

「ま、待て。せめて煙草を……!」

 灼が言い終わらないうちに、薄情者は部屋を出て行った。

「くそがッ!」

 ベッドを蹴りたい。暴れ回りたい。

 イライラが止まらず、それなのに煙草も吸えず。おまけに全身が痛い。

 身動きが取れないので、寝返りもうてない。

 ……寝るか。

 起きていても苛立ちを感じるだけなので目を閉じた。

 意地でも目を開けないでいると、いつの間にか寝入っていたらしい。次に目が覚めたとき、部屋には西日が差していた。

「……まだ、帰ってないのか」

 部屋の中を確認する。視線だけを移動させたつもりだったが、頭が動いた。首、腕も動く。

「治ってる、のか……」

 上半身に続いて、下半身も動かしてみる。問題ない。

 ベッドから体を起こして、灼は大きくため息を吐いた。筋肉痛のような症状は、綺麗さっぱり消えている。

 考えるよりも先に手が動く。煙草に火を付けて、思いっきり肺にニコチンを入れる。

 頭が冴えてきた。二本目を吸い始めたとき、部屋の扉が開いた。

「うわ、めっちゃ煙草の匂いするーー!」

 薄情者の帰還だ。

「そんなに吸うたら、体に悪いで?」

 そう言って、夜一が窓を開ける。

 心地よい秋の風が、すうっと部屋の中にすべり込んでくる。夜一の長い髪が、さらさらと風に揺れた。

「収穫はあったんだろうな?」

 怒気を孕んだ声で夜一に問う。

「うん。あったで」

 夜一に怯む様子はない。飄々としている。

「これ見て」

 灼は、夜一からスマートフォンを受け取った。

「何だよ」

「不動産屋さん」

 画面に視線を落とす。そこには、古びた一軒の平屋。看板には「八家不動産やかふどうさん」とある。

「それで?」

「ここのな、八家さんとは古い付き合いで。父親同士が仲良かってん」

「そうかよ」

「昔から、この辺りの不動産を取り扱ってるんやけど。八家さんが言うには、以前あのマンションの土地には心理的瑕疵物件しんりてきかしぶっけんがあったらしい」

 ……心理的瑕疵物件?

「不動産の取引をするとき、借主や買主に心理的な抵抗が生じる恐れがあること。それを心理的瑕疵物件って言うねん」

「事故物件とか言うやつか?」

「それも心理的瑕疵の一種やで。あとは近くに墓地があったり、暴力団の事務所とか」

「へぇ」

 それは知らなかった。どうやら、暴力団の事務所が近隣にある場合、重要事項(心理的瑕疵)としての説明が必要らしい。

「それでな、ほら」

 灼が持つスマートフォンを、ササッと夜一がスクロールする。

「誰だよ、コイツ」

 画面には、夜一と謎のジジイが写っていた。

「だから、八家さん」

「いちいち見せんなよ」

 夜一を睨むと、驚いたように目をパチパチさせた。

「えぇ、灼くんのためにわざわざ撮ったのに~~!」

「はぁ?」

 意味不明だ。そして語尾を伸ばすな。

「だって、灼くん。めっちゃ行きたそうにしとったやん? だから、どんな不動産屋さんに行って、どんなひとに話を聞いたんか、記録してきたんやで」

 全くありがたくない。

「古ぼけたジジイの写真を見て、俺が喜ぶとでも思ったのか? あぁ?」

 夜一の長い髪を鷲掴みにしてやりたいが、寧々の存在を思い出して堪える。

「せっかく撮ったのに~~!」

 夜一は、満面の笑みで写真におさまっている。スクロールするとピースしたり、やたらカメラ目線だったりした。笑顔の夜一を見ていたら苛立ちが限界を超えたので、とりあえず彼のスマートフォンはベッドに投げ捨てる。

「それで? 結局、あのマンションの土地には何があったんだよ」

「火事や」

 夜一の声が、若干低くなる。

「……死人が出たんだな」

「うん」

 夜一が静かにうなずく。

「マンションが建つ前。あの土地は長い間、空き地やったらしい。火事があって、更地にしたんやろうな。もともとは、木造モルタル2階建てのアパートがあったんやて」

 俺が投げ捨てたスマートフォンを拾って、夜一が操作する。

 画面をのぞき込むと、新聞記事らしいものが表示された。 

「何だ、これ?」

「新聞の縮刷版やで」

 これを確認するために、夜一は図書館に行っていたらしい。

 記事は、昭和四十年のものだった。

「……ずいぶん古いな」

 灼は目を凝らした。

『アパート火災 一人死亡 身元不明』

 見出しにはそう書かれている。

 記事を要約すると、火災が起きたのは未明。放火の疑いがあるという。

「放火……? 許せねぇな」

「うん」

 夜一がうなずきながら、画面をスクロールする。

 身元不明とされていた人物の素性は、翌日には特定されたようだった。新聞に氏名が記されている。

『死亡したのはアパートの部屋に住む、石生淑子いそうしゅくこさん、三十二歳』

 灼は、まじまじとそれを眺めた。

「女だったのか……」

 何の確証もなったが、勝手に男性だと思い込んでいた。

「火元から一番近い部屋に住んでたみたいや。それで、逃げ遅れたんやろうな……」

 哀しげな表情で、夜一がベッドに腰を下ろす。

 灼は、新聞記事の隅々にまで目を通した。

『母子家庭で、三歳になる息子と二人暮らし』

『息子(つよしちゃん)は助け出される』

『意識あり、軽傷で救出』

 どうやら、亡くなった女性の息子は無事だったらしい。

 良かった、と言いかけたが、灼はその言葉を飲み込んだ。何も良いことはない。放火で母親を失ったのだ。わずか三歳で。

 夜一は座ったまま、何も言葉を発さない。

 重苦しい沈黙が部屋に流れる。

 次の煙草に、火を付けようとしたときだった。ふいに、自分の首元に違和感を覚えた。

 息苦しい気がする。

 ……なんか首が、締まってないか?

 変な感じだ。首を搔きむしりたくなる。何かが首に巻き付いて、離れない……。

 そう思った瞬間、青白い手が脳裏をかすめた。

「……寧々」

 乾いた声が、灼の口から漏れた。

 夜一が顔を上げる。

「え、なに?」

「……首が」

「寧々ちゃん? どうしかたん?」

 夜一が立ち上がって、俺の首元をのぞき込む。そして、柔らかい声で話しかける。

「……うん、うん。そうなんや。え? そんなん気にしんでいいよ」

 夜一が、くしゃりと笑う。

 どんな会話をしているのか、灼には分からない。

「おい! 何だ? 何を気にするなって!?」

「寧々ちゃんな、灼くんに伝えたいことがあったみたい。でも、灼くん声は聞こえへんやろ? だから気づいて欲しくて、つい首をギュッとしてもてんて」

 にこにこしながら、夜一が物騒なことを言う。

 いや、物騒なのは寧々のほうか。

「灼くんが苦しそうにしてたから、寧々ちゃんが気にしとってん。だから、『そんなん気にしんでいいよ』って、おれが言ってあげてん」

 自慢げな夜一にむかつく。シンプルに苛立たしい。

「俺の意見を聞かずに、勝手に言ってんじゃねぇよ。あぁ?」

 イライラするので、つい凄んでしまった。

「いいか? 俺に話しかけたくなったら、夜一に言え。もし、夜一がいないときは……」

 ……どうしたものか。

「どうするん?」

「夜一が帰ってくるまで待て。……そう伝えろ」

 あごをしゃくりながら、夜一に命令する。

 ぽかん、とした顔の夜一が「わざわざ言わんでも、聞こえてるで?」とのたまう。

「なにがだよ」

「灼くんは、寧々ちゃんの声が聞こえへんみたいやけど。寧々ちゃんは灼くんの声、ちゃんと聞こえてるで」

「はぁ!?」

 驚きのあまり、素っ頓狂な声が出る。

「憑いてる人間のことやもん。言葉はもちろん、考えてる内容までお見通しやで」

「マジかよ……」

 なんだか力が抜けた。

 ふうっとため息を吐きながら、夜一の隣に座る。

「それで? 俺に伝えたいことってなんだよ」

 寧々に質問しているのだが、意思疎通できないため、結果的に夜一の目を見て話すことになる。

「……うん、ん? えぇ、それはどうやろ。いやーー、う~~ん」

 寧々の声を聞いた夜一が、なにやら唸っている。

「だから何?」

 夜一の肩を掴んで、揺り動かしながら急かす。

「……あのマンションに行きたいんやって」

 夜一が困惑顔で、寧々の意志を伝える。

「寧々ちゃんは『自分なら、あの分裂したやつと会話できるかも』って言うねん」

「わざわざ、あのマンションに行く必要があるのか? 今も核の部分は、俺に憑いてるんだろ?」 

 確か、夜一がそう言っていた。

「ある程度は、原型に戻らんとあかんのやと思う。今の核の状態は、だいぶ弱ってるみたいやから……」

 神経を集中させて、やっと気配を察知できるほどなのだという。

「……ダメだ」

 灼は、はっきりと言った。

「原型に戻って、そいつが力を取り戻したらどうなるか分からねぇだろ」

「でも、寧々ちゃんが……」

 駄々っ子のように、夜一が食い下がってくる。

「危険だ。却下」

「……寧々ちゃんは『探してる気がする』っていうねん」

「探してる?」

「うん。灼くんが目にした新聞記事の内容が分かったみたいで。それで、気づいたことがあるんやって」

 灼の発する言葉はもちろん、思考まで理解できるというのは、どうやら本当らしい。

「分離したやつが、初めて灼くんにくっついてきたとき。寧々ちゃんは、すぐに良くない存在やって分かったんやって。でも、どこか自分と近いものを感じ取ってたらしい」

 ……だから、寧々はずっと大人しくしていたのか。まるで共存するみたいに。

「寧々ちゃんも探してるから。お父さんとお母さんのこと」

 灼は、拳をぎゅっと握りしめた。

「アイツのせいで、寧々はひどい目にあったんだぞ」

 夜一にも、寧々自身にも、語りかけるように灼は言った。

 寧々の両親が、正常でいられなくなった原因。それは、あの分離したモノに影響を受けたからだ。

 幸せそうだった。両親と寧々。あのマンションに引っ越してこなければ、今もまだ幸福な日々が続いていたのに。

「寧々にとっては、憎いヤツだろ。そんな相手と会ってどうする? 会話して、どうするっていうんだよ」

 灼は、うめくように声を絞り出した。

「……それでも、寧々ちゃんは言ってあげたいんやって」

「言う? 何をだ?」

「息子が無事やったこと。助かって、ちゃんと生きてるってこと」

 分離したやつが探してるのは、間違いなく息子の剛だ。

 長い年月、分離して、粉々になって。それでも自分の子どもを探し続けているのだ。

 灼は、大きく息を吐いた。そして、立ち上がる。

「行くん?」

「あぁ」

 寧々が、そこまで言うなら仕方がない。自分にできることがあるなら、叶えてやりたい。それが、寧々に対する贖罪だと思うから。

「……危険なのは間違いないぞ。少しでもヤバいと思ったら、すぐに撤退するからな」

「もちろん!」

 お互いうなずき合って、灼と夜一は部屋を出た。

 夜の闇に、マンションの白い外壁がぼんやりと浮かび上がっている。灼は肩で息をしながら、それを見上げた。

「灼くん、大丈夫?」

 夜一が心配そうな顔でこちらを見ている。

 マンションが近づくにつれ、灼の体に負荷がかかった。何かに押しつぶされそうな感じだ。

「……なんとか、大丈夫だ」

 自分の声が、予想以上に疲弊していることに気づく。

 夜一の表情は、さらに不安げなものになった。首元を注視しているから、おそらく寧々の声を聞いているのだろう。

「おい」

 灼は、肘で彼の肩を小突いた。

「……今、寧々ちゃんが会話を試みてる」

 どうやら、分裂したやつに語りかけている最中らしい。

 事態が好転すれば良いが、その逆もあるわけで……。

 そんなことを考えていたら、ふいにマンションの一角が黒ずんで見えた。白い外壁の一部に、シミのようなものが付着している。

 そのシミが、どんどん大きくなっていく。黒い塊が不気味に蠢いている。いや、取り込んでいるのだ。分離したものが集まって、少しずつ人型を形成していた。

 寧々の声に、呼応したのだろうか。

「あそこに、いる……」
 
 灼は、マンションの三階付近を指さした。

「え、どこ? 灼くん、見えるん?」

「あぁ。少しずつ形になってる」

 視ることができない夜一は「大丈夫なん?」と、ひたすら心配そうにしている。

 少しでも彼の不安を和らげるために、灼は自分が見えるものを実況中継するみたいに、事細かに伝えた。余計に不安を煽るだけかもしれないが、何も分からないよりはマシだろう。

 しばらくすると、急に夜一が震え出した。

「おい、夜一? どうした?」

 ぶるぶると震えながら、「声が聞こえる」と夜一は言った。

「声? 奴の声か?」

「うん。『アツイ』って。何度も繰り返してる。呻き声みたいな、悲鳴みたいな声や。泣き叫んでる……」

 無意識に、夜一が自分の耳を塞いだ。

 それでも流れ込んでくるのだろう。まるで、分離したやつに体を乗っ取られたみたいに、夜一は『アツイ』と繰り返す。

「夜一! しっかりしろ!」

 灼は夜一の両肩を掴んで、強く揺さぶった。それでも、正気に戻る様子はない。

 いつの間にか、灼の身にも異変が生じていた。全身が焼けるように熱いのだ。

 ……なんだこれ。

『ア、ツイ……ア……ツ、イ……』

 夜一のものとは思えない甲高い声が、彼の口から漏れる。

 ……女の声だ。

 そう思った瞬間、目の前に炎が見えた。それから、古びたアパートも。新聞の縮刷版で目にしたのと同じアパートだ。

 炎は勢いを増していく。あっという間にアパートは火に包まれた。ゴォゴォと音を立てながら激しく燃えている。窓が割れ、その中から火がうねるようにして出ている。

 ……これは、当時の火事なのか。

 部屋の中に人影が見える。ダイニングから、キッチン、廊下、人影は移動している。

『コォ……ド、コォ……』

 炎に焼かれながら、細身の体が熱さにのた打ち回っている。

『ドコ……ドコ、ナノ……』

 いや、探しているのだ。

『ド、コ……ドコニ、イルノ……ドコ、ニ……』

 黒焦げになりながら、それでも探している。たったひとりの息子を。
 
「くそッ!」

 灼は、思いっきり舌打ちした。そして、力の限り叫んだ。

「おい、女! アンタの息子は無事だったぞ!」

 近所の住人に救出されて、一命を取り留めたのだ。

「安心しろ! 助かったんだ!」

 灼は炎に向かって叫んだ。近づけば近づくほど、全身が焼かれるように熱い。熱風を感じる。焦げた匂いが鼻をつく。

 飛んで来る火の粉を避けながら、灼はまた一歩、近づいた。

「後遺症もなくて、元気に育って! 大人になってる!」

 夜一が集めた資料の中に、平成元年のものがあった。例の新聞の縮刷版。

 防災に関する科学技術の研究を行う法人が紹介されていた。研究員の中に、見覚えのある名前があったのだ。

 石生剛。

「アンタの息子は、大学に行って! 立派な研究員になった!」

 夜一のスマートフォンの中にある、その記事を拡大した。青年の顔が、しっかりと写っている。

「おい! 見えるか? ここにいるぞ!」

 スマートフォンをかざすと、うねうねと蠢く塊のほうが反応した。

 黒い塊が、大きくなったり小さくなったりしている。歪な形のまま、収縮を繰り返す。灼は、自分の首元が気になった。寧々も一緒に、訴えてくれているような気がする。

「もう子どもじゃないけど、自分の息子の顔くらい分かるよな?」

 蠢くモノが、少しずつ近づいてくる。人型になれそうで、なれない。中途半端な形のまま、それはゆっくりと灼のところにやって来る。

「ずっと探してたんだから、分かるよな……?」

 黒い塊が、じいっと灼の手元をのぞき込んでいる。目も口も、輪郭さえも分からないけれど、彼女は見ている。息子の姿を、ちゃんと見ていると思った。

「ちゃんと、見えてるんやな……」

 夜一が、かすれた声でつぶやく。どうやら正気を取り戻したようだ。

 少しずつ、灼の身体から熱が引いていく。いつの間にか、炎に包まれたアパートは消えていた。

 ついさっきまで、火傷しそうなほど熱かったのに。今はもう、湿った空気が全身を包んでいる。

 黒い塊は、蠢きながらしばらくその場に留まっていた。名残惜しそうにしながら、最後には消滅するみたいに、灼の目の前からいなくなった。

 力が抜けて、灼はその場にへたり込んだ。ここに来てから、どれくらい時間が経ったのだろう。

「はぁ……」

 大きくため息を吐きながら、空を見上げた。マンションの最上階の向こう、少しずつ空が白みはじめている。

「……アイツ、消えたのか?」

「さぁ、どうやろう……?」

「気配を感じるか?」

 夜一が、ゆっくりと首を振る。

「感じひん」

「そうか」

「……あの幽霊は『思いを遂げた』んやと思う。だから、消滅したんや」

 彼女はずっと、一人息子の無事を願っていた。それがこの世に留まる理由だった。願いが叶った今、もう現世にいる必要はない。

「成仏したってことか……」

 思いを遂げた幽霊は、例外なくすべてこの世から存在を消すという。

「灼くん、立てる?」

「……あぁ、なんとか」

 夜一の手を借りて、灼は立ち上がった。彼の肩に腕を回す。ひとりで歩くのは、ちょっと無理そうだ。

「寄り掛かってええで?」

 既視感があり過ぎる。

「なぁ、やっぱ俺。弱くねぇか……?」

 一瞬のこととはいえ、夜一は意識を乗っ取られたのに。今はもう普通にしている。それどころか、灼を支えながら歩いている。

「灼くんは強いで」

 そう言って、夜一が微笑む。灼は、無意識に首元に触れた。足を引きずるようにして、歩を進める。

 しばらくして、振り返った。どこにでもある、至って普通のマンションが見えた。もう不気味さは消えている。白い外壁で、家賃は高くもなく安くもなく。立地は良し。

 そのマンションが、自分の肩越しに少しずつ遠ざかっていくのが見えた。

「……いや。やっぱ、俺は弱ぇわ」

 格安ホテルの一室。灼は、呻くような声でつぶやいた。

 体が動かないのだ。金縛りにあったみたいに。

 昨夜、というかほぼ今朝のことだが、部屋に戻ってから徐々に症状が悪化していった。今は指一本を動かすのも辛い。

 夜一は「筋肉痛みたいなもんや」と言っていた。慣れないことをすると、こうなるらしい。

 体が拒否反応を示しているのだと説明されたが、イライラしてあまり耳には入らなかった。

 筋トレは趣味でしている。けっこう鍛えていると自負しているが、幽霊と接するための筋肉はどうやって鍛えれば良いのだろう。

「慣れ、か……?」

 空になった隣のベッドをぼんやりと眺める。

 夜一は外出中だ。例の「八家不動産」に向かっている。どうやら、ただの不動産屋ではないようだ。オカルト的な事象を取り扱う情報屋らしい。

「胡散臭ぇ……」

 灼の声が、部屋の中にぽたりと落ちる。静かなのは落ち着かない。幽霊だなんだと騒ぎがあったし、それになにより、夜一の声が耳について離れない。あのイントネーションがいけない。耳慣れないものは、妙に残る。

 ……お前も、さみしいか?

 心の中で、灼は寧々に話しかけた。夜一が言うには、灼の声は聞こえているらしい。一方通行なので、会話にはならないが。

 ずいぶん時間が経って、陽が落ちかけた時分になり、ようやく夜一が部屋に戻ってきた。

「灼くんが、めずらしく煙草吸ってへん!」

 ベッドで仰向けになっている灼を見て、夜一が嬉しそうな顔をする。

「……そういうお前は、花の匂いがするな」

 夜一は、花の香りを纏っていた。

「えーー、すごい! 分かるん? 灼は鼻が利くんやなぁ」

「普通だろ」

「ワンちゃんみたい」

「誰が犬だよ!」

 激しく舌打ちをしながら、灼はベッドから体を起こした。休息をとったせいか、かなり楽になっている。

「花は、あの女のためか?」

「なんでそう思うん?」

「線香の匂いもするから」

 夜一は、少し寂し気な顔でうなずいた。そして「やっぱり、灼くんは犬や」と言った。

 昼間、マンションへ行って特別な儀式をしたらしい。一度分離してしまったモノの思念を祓うには、それなりの供養の仕方があるという。

「……八家不動産のジジイと、お前で?」

「うん」

「たった二人で、特別な供養とかできるのか?」

 ピースサインをする間が抜けた二人の写真を思い出し、灼は疑いの目で夜一を見た。

「もちろん! 八家さんには念のため一緒に来てもらったけど、実質おれひとりでやったようなもんやで!」

 満面の笑みで夜一が答える。

「なんといっても、おれは超実力派の祓い師やからな~~!」

 ……超実力派。自分で言うことだろうか。

「祓い師って、そもそもお前、ちゃんと祓えるのか?」

「当たり前やんか」

 夜一が、大きくうなずく。灼は、そんな夜一の顔をまじまじと見た。

「マジで?」

「今回は、土地のこともあったから難易度はけっこう高いで。完全に穢れがなくなるには時間が必要やけど、おれがちゃんとお祓いしといたから大丈夫や」

 時間と共に浄化されていくらしい。あの土地はいずれ、忌み地ではなくなるという。

「おれが祓い師やってこと、青倉さんから聞いてへんかった?」

「いや、聞いてた……気がする」

 そもそも、そのつもりで御影探偵事務所を訪れたのだ。

「でもさ。お前、視えないんだよな? 幽霊のこと」

「うん」

「視えないのに祓えるのか? それって詐欺じゃないか?」

 単純に疑問に思ったのだが、彼の逆鱗に触れたらしい。キッと大きな目を吊り上げて、夜一が怒った。

「ちょっと、灼くん! 自分が視えるからってそんな風に言わんでもいいやんか! おれの一体どこが詐欺師やねんな! うちの事務所は、安心安全の明瞭会計やで!」

 ぷんすか怒る夜一を見下ろしながら、ちょっと気になったので確認してみた。

「……俺は、明確な料金体系を聞いてないんだが?」

「へ?」

 途端に、夜一の勢いが止まる。

「いきなり東京までの交通費を払わされたし、このホテルだって俺持ちだし」

「そ、そうやった……?」

 夜一がしどろもどろになっている。

「自信満々で『明朗会計』を謳うんだから、俺からぼったくるなよ?」

「あ、当たり前やんか! うちの事務所は悪徳業者ちゃうねんで!」

 再び勢いを取り戻して、安心と安全をアピールしていた夜一だったが、突然、腹が「グウ~~~」と鳴った。

「おれ、めっちゃお腹すいてる……」

 自分の腹をさすりながら、たった今そのことに気づいたように言う。そういえば灼も、今朝からなにも口にしていない。

「確かに腹減ったな」

 意識すると、猛烈に空腹を感じる。

「ご飯食べに行こ! ええとこ見つけてん!」

 夜一が灼の腕を取った。ぐいぐいと腕を引かれて、部屋を出る。

 ……また、タカるつもりだな。

 前方を歩く夜一の形の良い後頭部を眺めながら、灼はそっとため息を吐いた。

 ホテルを出て、薄闇の中を夜一と歩く。目的の店は、八家不動産からの帰り道に見つけたらしい。

「駅のな、向こう側にあるねん」

 夜一が指をさす。そういえば、駅の反対側には一度も行ったことがなかった。踏切を渡り、しばらくすると細い路地があった。昔ながらの飲み屋街のようだ。

「ほら、ここ」
 
 夜一が足を止めた。藍色の暖簾と赤提灯には「お好み焼き」の白抜き文字が入っている。

 彼の言う「ええとこ」とは、どうやらこの古びた店のことらしい。

「……いかにも関西人って感じだな」

 灼が感想を述べると、夜一は「定期的にソースが欲しくなるねん!」とうなずく。

 暖簾をくぐると、明るい店員の声が聞こえた。

「いらっしゃいませ!」

 香ばしいソースの匂いが、店内に充満している。

「良い匂いやなぁ~~」

 鼻をくんくんさせながら、夜一が腹をさすっている。

 半個室に案内され、鉄板を挟んで夜一と向かい合って座る。

 さっそく、夜一はメニュー表を手に取った。昨今は、タッチパネルでオーダーする機会が増える一方だが、この店はそうではないようだ。

 店内を見回しても、いかにも昔ながらという雰囲気が漂っている。

「迷うなぁ」

 ペラペラとメニュー表をめくっては、夜一が思案している。

「食いもんくらい、さっと決めろよ」

「だってぇ」

「語尾を伸ばすな」

「灼くん、お好み焼きにせぇへん? ほら、このデラックスお好み焼きとかどう? 具がめっちゃ入って美味しそうやで」

 夜一が、メニュー表を見せてくる。

「なんでも良いよ、俺は」

 お好み焼きに興味も思い入れもない。ただ、かなり腹は減っているので早く食べたい。即刻、胃にぶち込みたい。

 店員を呼ぶと、夜一がオーダーを伝える。

「冷やしトマトとぉ、枝豆とぉ」

 イントネーションの語尾が気になって仕方ない。イライラする。些細なことに引っかかるのは、たぶん腹が減っているせいだ。

「あと、冷奴も!」

 ……酒を飲む気、満々かよ。

「それからデラックスお好み焼きとぉ、特製焼きそば。あと、おにぎりも! あ、おにぎりの具はなしで」

「塩むすびですか?」

「うん! 塩むすびの塩なしで!」

 謎のこだわりだ。店員が若干、困惑しながら「承知しました」と言って引き下がる。なんとも迷惑な客だった。

「で、どんな感じなんだ?」

 灼としては「特別な儀式」の詳細を知りたい。そこが分からないと、区切りにならない。

 寧々の両親が未だに発見されていないので、終わった話ではないのだが。

「どんなって言われても……」

 夜一が困った顔をする。

「写真は?」

「そんなん、ないで」 

「撮ってねぇのかよ。使えねーー!」

「だって、前に見せたときはいらんかったやん!」

「ジジイとのツーショットとかいらねぇだろ」

 消えて欲しいと思えば思うほど、二人のピース写真が色濃く記憶に刻まれていく。勘弁してほしい。

「撮るヒマもなかったし! あ、でも。おれと一緒におったら、またすぐに見れるで?」

 冷水の入ったグラスを灼に手渡しながら、夜一がそんなことを言う。

「一緒……?」

 灼は、グラスに口をつけた。

「うん。おれと組まへん?」

「ブフォッ!」

 思わずふき出した。

「灼くんに、助手になって欲しいねん」

 幽霊が視える人間というのは、この界隈でもめずらしいようだ。貴重な人材らしい。だからといって、簡単に「助手になる」とはいえない。

 というか、やりたくない。夜一が身を置く世界には、安易な気持ちで近づいてはいけない気がする。

 断ろうとしたけれど、ふいに寧々のことが気になった。灼の思考や言葉は理解できても、会話はできない。ひとりぼっちだ。

 もう、孤独にはさせたくない。硬いフローリングの上で、捨て置かれたように横たわっていた寧々の姿を思い出す。

「おまたせしましたーー!」

 テンション高めの店員が、料理を運んできた。大きめのヘラからスライドさせるようにして、目の前の鉄板に並べていく。

 まずは、お好み焼き。ジュワッという音と一緒に、香ばしいソースの匂いが漂ってくる。続いて、焼きそば。

 夜一は、さっそく焼きそばを自分好みにアレンジし始めた。

 テーブルには、ソースやマヨネーズといった調味料をはじめ、青のりや天かす、紅ショウガといったものまでもが常備されている。

 ソースを追加して、青のりをふりかけ、天かすも少々。そこまでは良かったのだが、何を思ったのか夜一は、塩むすび(塩抜き)まで投入し始めた。

 コテでぐしゃぐしゃにして、焼きそばと混ぜている。

「おい、やめろ」

 灼は、思わず眉をひそめた。

「え?」

「食いもんで遊ぶな」

「遊んでへんよ?」

 夜一が、不思議そうな顔で灼を見る。

「じゃあ、それは一体なんだよ」

「そばめし」

「はぁ?」

「知らん? 神戸発祥のB級グルメやねんけど」

 そう言って、小皿にそばめしを盛っている。

 焼きそばを細かく刻み、白米と一緒に鉄板で炒めたものをそう呼ぶらしい。

「一度も東京から出たことない俺が、そんなもん知るわけないだろ」

「これにな、甘辛く煮た牛すじとこんにゃくを入れたら、完全に神戸の味やねんけどな~~!」

 その「甘辛く煮た牛すじとこんにゃく」というのは、「ぼっかけ」というらしい。それは酒の肴に良さそうなので、興味がある。

「はい!」

「な、なんだよ」

 いきなり夜一から小皿を手渡されて、灼は戸惑う。こんもりと盛られた、そばめし。これを食えということか?

「寧々ちゃんの分」

 ……なるほど。

 小皿を自分の手元に置き、灼は自分が食べていたデラックスお好み焼きをコテで切り分けた。そばめしが盛られた小皿に、デンと乗せる。

「寧々ちゃん、良かったなぁ。灼くんにもお好み焼き、分けてもらって」

 俺の首元を見て微笑みつつ、そばめしを頬張っている。

「何か、言ってるか……?」

「ん? 寧々ちゃん? めっちゃ喜んでるよ」

「……そうか」

「冷やしトマトも美味しいって」

 どうやら、酒のツマミではなく寧々が食べる用だったらしい。

「……お前さ」

「んむ?」

 口の中をそばめしでいっぱいにした夜一が、顔を上げる。その間が抜けた顔に、思わず脱力する。麗しさと美貌が完全に行方不明だ。

「そういうことは、俺にも分かるようにしろよ」

 灼には、二人の会話は聞こえない。

「ほぉひうほとって?」

「俺も状況を把握できるように、お前が通訳しろ。常に説明しろ。どんなことでもだ。分かったな」

「……うん?」

「今日は俺が奢ってやる。でも、助手になったらお前が払えよ」

「う、うん!」

 夜一の目がきらきらと輝く。

 寧々のためだ。きっとそのほうが良い。夜一は、うるさいくらいに賑やかだから。寧々の言葉を聞いてあげられるから。

 きっと、夜一と一緒にいれば寧々はさみしくない。

「うちの事務所は、これでも関西のほうではかなり有名やねん!」

 なにやら、夜一が得意気な顔をしている。そういえば、青倉もそんなことを言っていたっけ。

「だから?」

「依頼人から『緊急事態!』『今すぐ来て!』って言われることも多いねん。だからな、休み無しが続くこともあって……」

 夜一が、上目遣いで灼をちらりと見る。

「ブラックな体質には慣れてる」

 肉体的にも、精神的にも。

「交渉成立や!」

 夜一は勢いよく立ち上がった。「これから、よろしくな!」と言って、ソースで汚れた口元を拭う。そうして、満面の笑みを見せたのだった。

第二章 不幸が続く家

 早朝、カーテンを開けると海が見えた。

 朝陽を浴びて、キラキラと波が輝いている。眺めの良い部屋だ。六甲山の中腹に建つこのアパートからは、神戸港を一望できる。

 全室オーシャンビューで、それなりに築年数は経っているものの、かなりの人気物件だという。

 部屋の借主は夜一だ。仕事関係で得たツテのおかげで借りることができたらしい。それも、かなりの格安で。

「おい、起きろ。朝だぞ」

 夜一の部屋へ行き、乱暴に体を揺さぶった。彼は朝が苦手だ。そのせいで最近は、夜一を起こすことも業務の一環となっている。

 朝食を作って(といっても食パンを焼くだけだが)寝ぼけ眼の夜一の口にぶち込む。そして車の助手席に彼を押し込み、職場のある南京町まで連行する。

 夜一が所有するSUV型のパイクカーの運転にもずいぶん慣れた。ど派手なチャイナシャツを纏う青年が、隣にいることも。

「チッ、邪魔だな」

 眉間に皺を寄せながら、灼は舌打ちをした。

 御影探偵事務所は相変わらず物で溢れている。儀礼用民族衣装やら、謎のお面やら、杖やら蝋燭やら。棚に放置された鉱物たちは、美しくもありグロテスクでもある。

 物が散乱しているせいで、とにかく掃除がやりにくい。灼は、慎重にハタキを振った。ここにある物はすべて、自分にとってはガラクタだ。

 棚をなぎ倒して、蹴り上げて、元の形が分からないほど粉々にしてゴミの日に出してしまいたいが、そうもいかない。

 おそらく価値がある品々なのだろう。たとえ無価値でも、自分が粗末に扱うことは許されない。灼は雇われの身であり、つまりそのような権限はない。

「灼くーーん!」

 ゴミ屋敷の主人……いや、この御影探偵事務所の所長である夜一が、灼を呼んでいる。

「なんだよ」

「洗濯終わったみたいやで。さっき『ピロピロリ~~ン』って鳴ってた!」

 タピオカティーを飲みながら、夜一が報告しに来る。呑気な顔だ。

「へぇ」

「灼くんが干してな?」

「はいはい」

「今日、めっちゃ良い天気やから」

「へいへい」

 いい加減な返事をしながら、横目で夜一を見る。彼は、なかなかに人使いが荒い。おっとり笑顔で容赦なく仕事を振ってくる。

 今、夜一が啜っているタピオカティーだって、ついさっき灼がテイクアウトしてきたものだ。南京町で人気のカフェらしく、かなりの行列ができていた。イライラしながら灼は列に並んだ。買ってくるよう言い付かったので仕方がない。社畜は従順な生き物なのだ。

 掃除を一旦切り上げて、灼は屋上に向かった。雑居ビルには屋上があって、洗濯物はいつもそこで干している。

 細い階段を上って、扉を開けると雲ひとつない空が広がっていた。夜一の言う通り、今日は晴天だ。秋晴れの日差しは心地よい。

「良い天気だな……」

 ひとりごとのように、寧々に話しかける。返事がないのは分かっている。いや、もしかしたら返事をしているのかもしれない。その声が、灼には聞こえないだけで。

「……ったく。何度も見ても、派手なシャツだ」

 煌びやかなチャイナシャツを広げながら、灼はため息を吐く。御影探偵事務所で働き始めて、かれこれ三週間が経過した。初日から洗濯物を干すよう命じられ、以来、毎日のようにこのクソ派手な代物を目にしている。

「似たような柄ばかり買い込みやがって……」

 ボヤキが止まらない。

 夜一の生活拠点は六甲山にあるアパートだが、業務が長引いて事務所に寝泊まりすることも多い。そのため、洗濯機を設置しているのだった。

 事務所は繁盛している。今日も予定はぎっしりだ。時間を確認すると、もうすぐ依頼人がくる時刻だった。

 洗濯を終えて事務所に戻ると、何やら声が聞こえてきた。どうやら、予定より幾分早めに依頼人が到着したらしい。茶の準備をしながら、漏れてくる声に耳を傾ける。

「……北、東、……南南西」

 方角の話でもしてるのだろうか。淹れたての中国茶を盆にのせて、茶請けと一緒に依頼人のもとに運ぶ。

「失礼します」

「なんや、見いひん子やな」

 依頼人は、五十代後半の男だった。名前は、仁川喜朗にがわよしろう。時折、相談に来るのだという。「子」と言われたことに対して、灼のこめかみがピクリと反応した。

 血の気が多いことは自覚しているので、表情に苛立ちを出さぬよう留意しながら軽く会釈をする。

 さっさと下がろうとしたのに、夜一が灼の腕を掴んだ。 

「新しく入った子です」

 夜一が、灼の紹介をする。朗らかな声だった。というか、お前も「子」って言うのかよ。ガキ扱いか? 一歳しか違わねぇだろうがよ。あぁ?

 奥歯をギリギリと噛み締める。表情に出ているかもしれない。感情を「無」にして、粛々と業務を遂行したいだけなのに。所長である夜一がそれを許さない。

「なるほど、助手を雇ったんか」

 ズズッと茶を啜りながら、仁川が灼を見る。

「繁盛してるもんなぁ。この事務所も」

「おかげ様で」

「もっと、かわい子ちゃんやったら良かったのになぁ」

 ニヤニヤと笑う仁川を見て、カッと頭に血が上る。反射的に手が出そうになったが、かろうじて耐えた。でも、殴りたい。タコ殴りにして、事務所の窓から放り投げたい。

「何を言うてるんですか、仁川さん! 灼くんは、めっちゃ可愛いんですよ?」

 夜一が真剣な顔で、ふざけたことを言う。

「どこがやねんな。こんなデカくて無愛想やのに!」

 灼を指さしながら、仁川が豪快に笑った。

「まぁ、でも所長が『かわい子ちゃん』やからええか。いつ見ても、べっぴんさんやもんなぁ。やっぱり若くて可愛い子に話を聞いてもらうと、元気が出るわ~~!」

 仁川の鼻の下が、だらしなく伸びている。夜一を見る目がシンプルにいやらしい。

 ……ここはキャバクラじゃねぇよ。

「もう、仁川さんは調子がええんやからぁ~~!」

 照れた様子で、夜一が長い髪をかき上げる。

 ……おい。まんざらでもないって、どういうことだよ。

「それで今日は、どういったご相談で?」

 とうとう我慢ができず、灼は口を開いた。夜一と仁川のやり取りがキモすぎて、これ以上は聞いていられない。

「今日は、家の方角についての相談に来たんや」

 仁川の答えに、灼は「そうでしたか」とうなずく。やはり、方角の話だったらしい。

「引っ越しを考えとってな、あちこち探して。気に入った土地を見つけたんやけど。懇意にしとる占星術の先生に反対されてしもたんや。どうやら、今住んでるところから見て、方角が最低最悪らしいんや」

 仁川が、がっくりと肩を落とす。

 ……胡散臭ぇ。

 灼はドン引きした。残念ながら、占星術なるものをまったく信用していないので、胡散臭い以外の言葉が見つからない。

「仁川さんはな、建設会社の社長さんで。業績もすっごい順調なんやって。それで、広い土地に豪邸を建てることに決めたらしいで」

 夜一が、にこにこ顔で仁川の紹介をする。

「そうなんですか」

 愛想を振りまくのが絶望的に苦手なので、灼は無表情でうなずいた。

 少し、分かった気がする。社長というのは孤独な一面もあるというし、だから占星術とか、幽霊が視える探偵とか、そういう科学的根拠のないものに縋るのではないだろうか。

「前に一度な、占星術の先生のアドバイスを無視して、会社の事務所を移転したことがあるんや。方角があかんって言われとったんやけど、賃料も安かったし。でも、そうしたら……」

 仁川が、深刻そうな顔をする。

「そうしたら?」

 夜一は前のめりだ。目がキラキラと光っている。まるで好奇心を隠せていない。

「幽霊が出たんや……!」

 そう言って、仁川が頭を抱えた。

「この目で見たから、間違いない。白装束を纏った女の幽霊やった。髪が長くて、ぼんやりと浮かんでたんや」

 ぶるぶると仁川が震えている。怖がっているところ申し訳ないのだが、そんな白装束の、いかにも「幽霊です」的な幽霊はいるのだろうか。見間違いの可能性を探りたい。

 幽霊なんてものは、そう簡単に現れるものではない。ほぼインチキだ。現在進行形で、幼い少女の幽霊に憑かれている灼が、断言することではないのだが。

「気味悪がって従業員は辞めていくし、業績は下がるし。今でも後悔しとるんや……」

「それは、お気の毒でしたね」

 夜一が、気遣わしげな顔で仁川に寄りそう。

 仮に、白装束の女が本物の幽霊だったとして、それは方角が云々の話ではない。物件に難があったのだろう。いわゆる事故物件だ。賃料が安かったと言っていたから、可能性は高いと思うのだが。

「それ以来、俺は方角を大事にするようになったんや!」

 はいはい、そうですか。

「でも、今回の土地を諦める踏ん切りが、なかなかつかんのや。なんとか、あそこに家を建てたい。ええ場所やねん。どうにか、ならんやろうか……?」

 しょんぼりする仁川を見下ろしながら、灼は「どうにもならねぇだろ」と心の中で冷たく突き放す。

「大丈夫ですよ!」

「えっ」

 夜一の明るい声に、思わず灼は反応してしまった。

 仁川も、驚いたように夜一の顔を凝視している。

「ほ、ほんまか……?」

「簡単なことですよ。回り道をすれば良いんです。方角が悪いっていうのは、今住んでるところから見て、ということなんですよね?」

「そうや」

 仁川が、信じられないという顔でうなずく。

「だったら、良い方角になるまで引っ越しを繰り返せば良いんです。転々としたら、いずれは良い方角になりますよ。手間もお金もかかりますけど、金銭のほうは心配はないでしょ? 仁川さん、今はすごい儲けてるんやから」

 夜一の解説を聞いて、思わず力が抜けた。馬鹿だろ。誰がそんなつまらない理由で、何度も引っ越しをするんだよ。完全に金の無駄ではないか。

 いくら仁川が馬鹿野郎で占星術マニアだとしても、そんな理由で金は使わない。金持ちというのは、金を使わないから金持ちなのだ。

「ええアイデアや……!」

 仁川が、ゆっくりと膝をついた。夜一を見上げながら、恍惚とした表情を浮かべている。

「ありがとう、ありがとうなぁ……!」

 涙目になって、仁川が夜一の手を握る。

「これで、理想の家が建てられる。嬉しいわ、ほんまにありがとう。所長さんは、女神様やぁ……!」

 大馬鹿者じゃねぇか。というか女神ってなんだよ。夜一は男なんだが?

 灼は思いっきり睨んだが、感激している仁川が気づくことはなかった。

「相談に来て良かったわ。また、何かあったら頼むで~~!」

 そう言って、ホクホク顔の仁川は事務所を後にした。

 事務所には、キッチンが備え付けてある。オフィス用のミニキッチンなので手狭だが、依頼人に茶を入れるくらいしか使用しないので問題はない。

 仁川に出した湯呑をキッチンで洗っていると、夜一が顔をのぞかせた。

「もうすぐ、次の依頼人が来るで」

「分かってる」

 今日は予定が詰まっているのだ。また、新しく茶の準備をしなければいけない。

「……今度はマシな相談なんだろうな?」

 湯呑をすすぎながら、灼は夜一を睨んだ。御影事務所で働き始めてから、碌な依頼人を見ていない。

 昨日の相談者は、妙齢の女性だった。幽霊に憑かれていると信じ込んでやって来たのだが、話をしているうちに錯乱状態に陥った。「恨まれている」と散々、事務所で喚き散らし、床に這いつくばって懺悔を始めた。

 宥めるのにかなり苦労した。あれはおそらく、何か恨まれるようなことをした自覚があるのだろう。

 そして今日は、金持ちで占星術マニアの社長だ。暇をつぶしに来たに違いない。非常に迷惑だ。

 ……いや、そのほうがいいのかもな。

 幽霊に出くわすのは危険だ。暇つぶしに付き合って儲かるなら、それが平和で良い。

「灼くんがいてくれて、めっちゃ助かってるよ」

「どこがだよ」

 掃除、洗濯、茶の準備。あとは夜一を起こしたり、車の運転をしたり。大した仕事はしていない。

「だって、視える能力があるから。昨日みたいな依頼人が来たとき、確実に幽霊が憑いてないって、すぐに分かるやん?」

「……夜一だって、声が聞こえるんだから。憑いてるかどうか、判別できるだろ」

「それがなぁ。ごくたま~~に、人見知りな幽霊がおるねん。そういう場合、話しかけても反応がないわけやん? おまけに気配も薄いとなったら、困るねんよなぁ」

「幽霊のくせに人見知りすんのかよ」

 灼は肩をすくめた。

「幽霊にだって、性格はあるよ。生きてた頃の人格を引き継いでる感じかな」

「へぇ」

「寧々ちゃんも、どっちかっていうと人見知りやもんな?」

 夜一の声が、急に優しくなった。灼の首元を見ながら微笑んでいる。

「……うん、うん。そっかぁ」

 どうやら、寧々と会話しているらしい。

「何て?」

 灼が急かすと、夜一がこちらを見た。

「緊張するって」

「誰が」

「寧々ちゃんが」

「……いつ? 誰に?」

「毎日、依頼人が来るやろ? 知らん人やから、緊張するんやって」

 そういえば、寧々がまだ生きているとき。母親の足にまとわりついていた。まるで、隠れるようにして。それでも、目が合うと笑ってくれた。ぷっくりとした丸い頬が可愛くて……。

「灼くん?」

 ぼんやりしていた灼の視界に、ずいっと夜一が入ってくる。

「……あぁ」

「たぶん、次の依頼人は長引くと思うで」

 夜一が、ちょっとだけ真剣な顔をする。

「相談内容、聞いてるのか?」

「一応は。詳しいことは、直接会ってからってことになってるんやけど。なんか、不思議な現象が起こってるらしいねん」

 物体が移動したり、発火したり。不気味な音が鳴り響く「ラップ現象」も生じているという。

「それって、ポルターガイスト現象とかいうやつか?」

「灼くん、よく知ってるなぁ。偉い偉い」

「常識だろ」

 褒められても、一ミリも嬉しくない。

 そうこうしていたら、事務所の入口の扉がノックされた。次の依頼人がやって来たのだ。

 夜一が、依頼人をソファに案内する。灼は茶の準備を始めた。

 依頼人は、若い男性だった。おそらく二十代後半だろう。気が弱そうで、いかにも軟弱そうに見えた。湯呑に茶をそそぎながら、灼は首を捻る。

 ……視えなかったな。

 一見した限りでは、彼に幽霊が憑いている様子はなかった。ずいぶん疲れているようではあったが。

 盆に茶をのせて、茶請けと一緒に依頼人の元へ運ぶ。夜一の隣に座って、灼は注意深く依頼人を観察した。

 黒髪、痩せ型、切れ長の目。特に、不審な点はない。

 ……やっぱり、何も視えねぇ。

 この案件、夜一は「長引きそうだ」と言っていたが、見立てを誤ったのだろうか。依頼人と名刺を交換したらしく、テーブルの上に置かれたそれを灼は手に取った。

 大手製薬メーカーに勤める会社員のようだ。名前は、的形良治まとがたりょうじ

「……工事が、できないんです」

 的形が視線を落とす。ため息交じりの声だ。

「工事というのは?」

 落ち着いた声色で、夜一が問う。

 灼に対しての口調とは、まるで違っている。寧々に対するものとも一致しない。ついさっき、仁川と話していたときの口ぶりとも違う。

 意外にも、依頼人を見て話しているのだなと気づく。

「解体工事です。家が古くなったので、解体して更地にしたいんですが。工事を始めようとすると、ことごとく妨害されてしまうんです」

 的形が、肩を落とす。

「その妨害というのは、『不思議な現象』のせいですか? 物体が移動するとか、発火するとか……?」

「そうです。具体的には、解体業者の車のタイヤがパンクしたり、持参した工具が壊れたり。なんでも、工具が宙に浮くんだそうです。浮いたと思ったら、地面に叩きつけるように落下したそうで……。それから、電動工具が発火したとも聞いています。火柱が出ていたとか」

「的形さんは、その現象を実際にご覧になられたことがあるんですか?」

「いえ」

 的形は、力なく首を振った。

「僕は、その家で暮らしているわけではないんです。家の所在地は丹波のほうなんですが、かなりの山奥でして。神戸の市街地にある営業所に勤務しているものですから、通勤となると厳しくて……」

「なるほど」

 京都との県境にあるらしい。そして、的形は一度もその家で生活したことはないという。

「家……というより、屋敷という感じなんですが。本家なんです。僕は、もともと分家ですから。子どもの頃、何度か親戚の集まりで行ったことはありますけど……。その親戚も次々に亡くなって、それで僕が継いだんです」

 的形の表情には、疲労が滲んでいる。

「……不可思議な現象というのが、解体業者の狂言という可能性はありませんか?」

 夜一が問うと、的形が顔を上げた。

「狂言? 嘘だと言うんですか? 一体、何のために……」

「たとえば、工期を伸ばして費用を余分に請求するためとか」

「……その可能性は、ないと思います」

「なぜですか?」

「そ、それは……」

 言葉が詰まった。視線を彷徨わせる。どうやら、後ろめたいことがあるらしい。しばらくして、的形は覚悟を決めたように、ゆっくりと口を開いた。

「いわくが、あるんです」

「……いわく?」

 的形が、震えるように頷く。

「あの家には、幽霊が棲みついているんです……!」

「その幽霊が、様々な現象を引き起こしていると?」

「はい」

 こくり、と的形が頷いた。灼は、夜一と顔を見合わせる。

「あの家にいわくがあることは、地元では有名な話なんです。だから近隣の解体業者には、すべて断られてしまって……。ようやく引き受けてくれるところが見つかって安心していたんですが。今度のことで、不気味がられてしまったので、また別の解体業者を探すことになると思います。でも、おかしな現象がなくならない限り同じことの繰り返しだと思うんです」

「……そうですね」
 
 夜一が、相槌をうつ。

「だから、僕はここに来たんです。あの家に憑いた幽霊を祓ってください。どうか、お願いします。老朽化が進んで、このままだと倒壊する可能性があって危険なんです」

 的形が、テーブルに頭を擦り付けるようにして懇願する。

「分かりました。では一度、そのお屋敷を調査させてください」

「ひ、引き受けていただけるんですか……?」

 ゆっくりと、的形が頭を上げる。

「えぇ。我々にお任せください」

 そう言って、夜一は優しく微笑んだ。

「不安になってるときに、あんな風に言われたら参っちまうよな……」

 的形が帰ったあと、灼はソファにだらしなく座り、煙草に火を付けた。

「まいる……? それって、どういうこと?」

 隣にいる夜一が、不思議そうな顔で灼を見る。

「惜しみなく、金を払いそうだなってこと」

 幽霊と会話したり、気配を察知したり。彼の能力は本物だけれども、たとえ力がなくても、相手をその気にさせることは可能だと思う。自分のペースに引き込むのが上手いというか。

「まぁ、詐欺師に向いてるってことだな」

「もう、灼くん! おれは詐欺師と違うって、何度も言うてるやんか~~!」

 眉間に皺を寄せながら、灼の肩をバシバシと叩く。

「はぁ。それにしても、疲れたなぁ……」

 ソファに身を沈めながら、夜一が目を瞑る。

 疲労が蓄積しているのだろう。依頼は後を絶たない。昨日も一昨日も相談者がやって来た。明日も明後日も、来る予定だ。

「……さっきの相談者の件。安請け合いして、本当に良かったのか?」

 的形の言う幽霊が実在するなら、ぜったいに悪霊だ。そうに決まっている。良い幽霊が解体業者の邪魔をするはずがない。

「だって、人間じゃなくて家に憑いてるって言うんやもん。現地に行かんことには、始まらへんやん? 丹波まで行くとなると、交通費もけっこうかかるし。引き受けたほうが話が早いねん」

「話しが早い?」

「請求がしやすいってこと。最近、ガソリン代が高騰しとるからなぁ」

 引き出しから電卓を取り出し、慣れた手つきでパチパチと数字を叩き出す。

「ちゃっかりしてるな……」

 おっとりしているくせに、なかなかに商売人だ。

「当たり前やんか! ここの事務所だって、タダで借りてるんとちゃうねんで! 家賃を払わなあかんねんから」

「でも、格安なんだろ?」

 この事務所も、六甲山のアパートも、相場よりもずいぶん安く借りているらしい。中古で購入したというパイクカーも、例のツテのおかげでお値打ち価格だったという。

「そうやけど!」

「前から思ってたけど、ツテって何だよ? どういう繋がりなんだ?」

「簡単に言うと、依頼人やで。仁川さんみたいなひとがいっぱいおるねん」

 ……タニマチみたいなもんか? 

「羨ましい限りだな」

「でもな、お値打ち価格にならへんのもあるんやで。電気代に水道代、ガス料金。これだけは正規の値段を納めなあかん」

 かなり口惜しそうだ。……こいつ、さてはドケチだな。

「あ、そうや! 助手の給料も払わんとあかん!」

 灼を指さしながら、夜一が天を仰ぐ。

「そこは、何があってもケチんなよ」

 ふーーっと煙を吐きながら、灼は夜一にクギをさした。

 夜一が、勢いよくソファから立ち上がる。そして「どしどし働くで!」「儲けるでぇ~~!」と言って、やる気を見せたのだった。

 数日先まで予定が埋まっていたが、なんとか調整して都合をつけた。そして、翌週には丹波に向かうことができた。

「助手がおるって、最高やな~~! 助手席でのんびりできるもん」

 ハンドルを握る灼の隣で、夜一はのほほんと座っている。

「寛ぐなよ」

 道案内くらいしろ、と肘で夜一を突く。

「だって、おれは運転が得意ちゃうし」

 そう言って、夜一は寝る体勢に入った。すぐに静かな寝息が聞こえてくる。

 今日は早朝から行動を開始している。寝不足なのだろう。灼だって同じことだが、夜一の表情に疲労が見えたので、彼を揺り起こすのを止めた。

 この車のハンドルも、ずいぶん手に馴染んでいる。毎日のように運転しているからだ。出勤時と退勤時、夜一の運転手をしている。

 彼が暮らす六甲山のアパートに、灼も厄介になっているのだ。ルームシェアというのだろうか。神戸に来てから慌ただしく、部屋を探す時間が持てていない。

 夜一は、このまま灼との同居生活を希望している。運転手として使えるし、何より「住宅手当を節約できる」とニヤニヤしていたので、ドケチな彼としては都合が良いのだろう。

 すやすやと眠る夜一を横目で見る。熟睡しているのを確認して、灼はアクセルを踏み込んだ。

 高速を飛ばしまくったおかげで、かなり時間を短縮できた。このままいけば、到着予定時刻よりも、ずいぶん前に目的地に着ける。迷わなければ、の話だが。

 灼は道路脇に車を停車させた。これから、いよいよ山道に入る。このままナビに従うと、行き止まりになると的形から言われている。少し前に崖崩れが発生し、道路が寸断されたままらしい。

 回り道をする必要があるのだが、分岐点が分かりにくいという。石造りの古い境界標があり、それが目印ということだった。

 マップを確認していると、夜一が目を覚ました。

「……もう、着いたん?」

 目を擦りながら、ゆっくりと身を起こす。

「これから山道に入るところだ。まだ、寝とけよ」

「分岐点を見つけなあかんねやろ?」

「あぁ」

「おれが助手席側を見るから。灼くんは、運転席側を見てな?」

 ぐいっと体を伸ばしながら、夜一が大きな欠伸をする。

 境界標は小さく、雑草に埋もれている可能性もある。

「寝惚けて、見落とすなよ?」

 肩を竦めながら少し笑って、灼は車を発進させた。

 山道は、かなりの悪路だった。舗装はされているが、砂利が多くガタガタと車体が揺れる。道幅は狭く、突然カーブが現れるのだ。木々が生い茂り、日中だというのに薄暗い。さらに視界を遮るように、折れて垂れ下がった枝がフロントガラスを叩く。

 いつ対向車が来るか分からず、灼は用心しながらアクセルを踏んだ。夜一は、車から顔を出して境界標を探している。

 必要以上にスピードを緩めていたことが功を奏したのだろう。二十分ほど車を走らせたところで、無事に境界標を見つけることができた。

「あ! 灼くん、あったで!」

 興奮した面持ちで、夜一が灼を見る。

「これが分岐点か……」

 的形から聞いていた通り、境界標のそばに細い道があった。目印が無ければ、発見することは不可能だっただろう。枯れ草に隠れるようにして、未舗装の道路が続いている。

 枯れ草をなぎ倒すようにして細い道に入った。大きく車体を揺らしながら進む。しばらくすると、夜一の顔色が悪いことに気づいた。

「どうした?」

「……嫌な感じがする」

 灼は一度、車を停めた。ちらりと夜一の腕を見る。ぷつぷつと鳥肌が立っていた。

「気配がするのか?」

 灼が問うと、こくり、と夜一は頷いた。

 ……これは、確実にいるな。

 夜一の様子から察するに、確実に悪いモノだろう。どんな悪霊を視ることになるのか、考えただけでも憂鬱だった。憂鬱というより、はっきり言って恐怖に近い。できれば視たくない。許されるならUターンして、神戸に帰りたい。 

 ……でも、ダメだ。

 これは仕事で、灼は雇われの身なのだ。青い顔をしながら、それでも夜一は引き返す気はないらしい。

「ここから近いで。たぶん、もうすぐや」

 夜一は、まっすぐ前を見据えている。

 もうとっくに、というより最初から覚悟を決めているのだろう夜一を前にして、灼は自分を情けなく思った。

「……分かった。行くぞ」

 煙草に火を付ける。思いっきり吸い込む。それから、ゆっくりと車を発進させた。

 しばらくすると集落が見えた。古い瓦屋根の家と田んぼが点在している。小さな村だった。

 村の入口で車を停車して、歩きながら周囲を確認する。人の気配はない。怖いくらいに静まり返っている。

「もしかしたら、廃村なんかもしれへんな……」

 顔色の悪い夜一が、きょろきょろと辺りを見回した。

「おい、あれじゃないか?」

 灼は、目の前に現れた大きな家を指さした。

 村の入口から、一番奥まったところに建っている。的形から聞いていた通り、家というよりは屋敷だった。周囲はぐるりと壁で囲われている。まるで城壁のようだが、どう考えてもこの集落には不釣り合いだ。

 的形から渡された鍵を使って解錠し、門扉をくぐる。敷地内には、母屋と離れ、それから蔵がある。

 母屋に入るため、曇りガラスの引き戸を開ける。途端にカビの匂いが鼻をついた。もう何年も、人の出入りがないのだろう。

 換気もされていないようだ。空気がひどく淀んでいる。

 カビの匂いに我慢できず、灼は窓に手をかけた。しかし、なかなか開かない。建て付けが悪いのだ。相当に古い家なので、仕方がないのだが。

 力を込めて、強引に窓を開けた。灼の呼吸は楽になったが、夜一は苦しそうだ。

「おい、へばるなよ」

「……分かってる」

 真っ青な顔をしながら、夜一がうなずく。

 それにしても広い屋敷だ。襖を開けると、また次の襖が現れる。

 屋敷の中をぐるぐると移動する。自分が今、どこにいるのか分からない。まるで迷路に迷い込んだようだった。勢いよくスパン! と襖を開けていた灼だったが、その部屋を見た瞬間、腰を抜かしそうになった。

「……なん、だ。これ」

「ここ、仏間やな……」

 隣にいる夜一も、どうやら怯んでいるらしい。灼の背後から、そっと部屋の中をうかがっている。

 仏間には違いないのだろうが、明らかに様子がおかしい。遺影の数が尋常ではないのだ。壁一面が、額縁に入った故人の写真で埋め尽くされている。

 当初は鴨居に吊るしていたのかもしれない。しかし、それでは追いつかなくなったのだろう。

「い、いくら歴史のある家だからって、多すぎないか……?」

 尻込みしながらも、灼は部屋に足を踏み入れた。

「若くして、亡くなった方もいるみたいや」 

 夜一が指摘した通り、若年者の遺影もいくつかある。ほとんどがモノクロだった。ぐるりと部屋を見回しているうちに、奇妙な感覚になった。遺影に写る人物たちに、じっと見られているような気がするのだ。まるで監視されているような。どの遺影を見ても、彼らと目が合っている錯覚に陥る。

 夜一の足元がふらつき、灼は慌てて体を支えた。

「とりあえず、出るぞ」

 夜一の体を引きずるようにして、部屋をあとにする。

「う、うん……」

 なるべく仏間からは離れたい。なんとか玄関付近までたどり着き、縁側で夜一を休ませる。

「大丈夫か?」

「うん、平気やで。……けど、びっくりしたな」

「あれ、全員が死んだってことだよな……?」

 遺影なのだから当然のことだ。けれど、信じられないくらいに、おびただしい遺影の数だった。

 縁側のガラス戸を開け、灼は大きく深呼吸をした。立派な踏石がある。ここから中庭に出られる構造らしい。

「それにしても、でけぇ家だな……」

 広い屋敷だ。造りもしっかりしている。築年数はかなり経過しているはずだ。それでも、的形から聞いていたほどではない。ざっと見ただけだが、倒壊の危険はなさそうだった。

 とりあえず落ち着こうと、煙草に手を伸ばしたとき。中庭のほうから、何かが聞こえた。

 ……タン、タンタン。

 気のせいかと思ったが、間違いない。かすかに音がする。どこからともなく、灼の耳に届く。

 ……タンタン。タン。

「何だよ、この音」

「え?」

 夜一が、首をかしげる。

「聞こえないか?」

 ……タンタン。タン、タン。

 夜一の表情が、ハッとしたものになる。そして、ゆっくりと頷いた。

「聞こえる。何の音なんやろ……」

 夜一が、辺りを見回している。

「そういえば『ラップ現象』が生じてるって話だったよな……?」

 この音が、そうなのだろうか。

 足音かと思ったが、違う気がする。もっと何か、弾むような音だ。灼は耳を澄ました。どこから音が聞こえるのか。神経を尖らせて探る。

 ……タン。タン、タンタン、タン。

 少しずつ、音が近づいてくる。

 聴覚に意識が向いていたせいで、一瞬、気づくのが遅れた。いつの間にか、目の前にいた。着物を纏った少女だ。

 踏石の近くで、小さな女の子が手毬で遊んでいる。
 
 灼は、思わず息をのむ。

 音の正体が分かった。手毬をつく音だったのだ。

 夜一は、少女の存在に気付いていない。すぐそばにいるのに。

 ……確定だな。

 今、灼の目の前にいる少女は生きてはいない。幽霊だ。

「夜一」

 そっと静かに夜一を呼ぶ。

「どうしたん?」
 
「いる。そこに」

 視線で場所を示した。

 何が、と言いかけたけれど、夜一はその言葉を飲み込んだ。

「……ひとり?」

「あぁ」

 さっき、大量の遺影を仏間で見た。それで数多の幽霊が出現したのではと考えたのだろう。

 少女の姿形、手毬のこと。自分が視えているものを夜一に、事細かに伝える。うなずきながら、灼の説明を真剣に聞いていた夜一だったが、急に体がピクリと反応した。

「こ、声が……」

「聞こえるのか?」

 あの少女と、対話できるのだろうか。少し期待を持ったけれど、夜一は「違うねん」と首を振る。

「歌っとる」

「うた……?」

「たぶん、手毬唄や」

 ずいぶん悲しいメロディーだという。

「一旦、この家を出るぞ」

 そう言って、灼は夜一の腕を掴んだ。一度、情報を整理したい。仏間の遺影のこと、そして少女の幽霊のこと。的形に尋問する必要がある。何となく、あの男はまだ、自分たちに隠していることがある気がする。

 集落の入口まで戻り、停車させていた車に乗り込む。

「はぁーー……」

 どちらともなく、ため息を吐いた。

「……とりあえず、麓の町まで行って宿を見つけるぞ」

「うん」

 灼はハンドルを握り、車を方向転換させた。慎重に来た道を引き返す。

「お前、平気か?」

 夜一は、ずいぶんやつれている。

「大丈夫やで。……それがな、不思議と嫌な感じはなくなってん」

 仏間から縁側に移動したあたりから、気配は感じるものの不快感はなくなったという。自分たちが来たことを喜んでいるような、歓迎されているような感覚だったらしい。

「あの幽霊が喜んでたって? そうは見えなかったけどな」

 ひとりで、手毬をついていただけだった。

 その割には、灼と夜一のすぐそばにいて、妙に距離が近いのことは気になったが。

「……それでな」

 もったいぶったように、夜一が上目遣いで灼を視る。

「なんだよ」

「寂しいねん」

「はぁ?」

 素っ頓狂な声を上げてしまった。一体、コイツは何を言い出したんだ。

「女の子の気配がな、妙に寂し気な感じがした」

 ……なんだよ。そっちかよ。

 とりあえず安堵する。片手でハンドルを操作しながら、髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜていると。

 ……あれ、なんか。変な感じだ。 

 首に違和感を覚えた。気のせいかと思ったが違う。苦しい。呼吸がしにくい。これは、完全に身に覚えのある感覚だ。

「どうした?」

 灼は、寧々に呼びかけた。

「え?」

 夜一が怪訝な顔をする。

「違う、お前じゃなくて。たぶん寧々が何か言おうとしてる」

「そうなん? 寧々ちゃん、どうかしたん?」

 夜一が、こちらに身を寄せてくる。

「……うん、うん。また、灼くんの首を絞めてもた? そんなん、寧々ちゃんが謝る必要ないで。寧々ちゃんの声が聞こえへん、灼くんが悪いねんから。もっと、ぎゅう~~ってしても平気やで」

 夜一が笑っている。微笑みながら物騒なことを言っている。

「いや、それはやめろ」

 呆れながら、灼が口にしたとき。

「えぇ!?」

 夜一が大きな声を出した。ビクッと灼の肩が上がる。

「いきなり、何だよ!」

 ハンドル操作を誤りそうになり、反射的に肘で夜一を突く。

 夜一は、表情を強張らせていた。無言でフロントガラスを見つめている。いや、茫然としているといったほうが良いのか。

「灼くん、後ろ……」

「は?」 

 正面を見据えたまま、夜一が静かに言う。

「後ろの席、見てくれる……?」

 まさか。

 灼は、ごくりと唾を飲む。

 そんなはずはない。そう思いながら、灼はルームミラーで後部座席を確認した。

「嘘だろ……」 

 それが視えた瞬間、灼は無意識にブレーキを踏んでいた。

 車が急停止する。おそるおそるといった感じで、夜一が尋ねてくる。

「……おるん?」

 灼は、両手で顔を覆った。

「寧々ちゃんが『女の子がついてきてる』って言うんやけど。ほ、ほんまなん……? ほんまに、後ろにおるん?」

 間違いなく、いる。

 手毬を抱えた少女が、後部座席に座っていた。

「あぁ……」

 灼は、ゆっくりと頷いた。

 うつむき加減だったが、口元だけは確認できた。わずかに笑みを浮かべていたことだけは分かった。

 集落があった山を下り、清流沿いの市道をしばらく走ったところに宿を見つけた。古い民宿だった。

 老夫婦が二人で、細々と営業しているようだ。和室に案内され、灼はすぐに畳の上に寝転がった。ひどく体力を消耗した気がする。

 手持無沙汰なのか、夜一はちまちまと茶を淹れはじめた。座卓には盆が置かれ、茶筒や急須、湯呑がセットになり用意されていた。

 ポットから急須に湯をそそぐ。湯の出が悪い。ちょろちょろという音が、なんとも緊張感を削いでいく。

「……ホテルのほうが良かったな」

「なんで?」

「思い出すだろ」

 この部屋には襖がある。畳特有の匂いもする。どうしても、あの屋敷の仏間を連想してしまうのだ。洋室を希望したのだが、残念ながらこの民宿には和室しかなかった。 

「でも、この子は和室のほうが慣れてるんちゃう?」

 にこにこ顔で、夜一が周囲を見回している。彼の表情が見慣れたものだったので、灼は密かに安堵した。悪い気配に、夜一の心身が浸食されていくのは、見ている灼だって辛い。

「……なかなか、しゃべらへんなぁ」

 部屋のあちこちを見ては、夜一がため息を吐く。どうやら少女は、言葉を発さないようだ。そのため部屋のどこにいるのか、夜一には判断がつかないらしい。

「そっち」

 ふいっと顎をしゃくって、灼は居場所を教えた。

 少女は部屋の隅で正座していた。やはりうつむき加減で、膝の上には手毬を置いている。

「どうぞ」

 灼の目の前に、コトリと湯呑が置かれた。それもふたつ。

 ……寧々の分か。

 そう思って、茶をすする。

 座卓の上には、さらにふたつの湯呑があった。ひとつは、夜一のもの。もうひとつは……。

「お前、律儀だな」

 少女の分を茶を淹れたらしい。

「ひとりだけ仲間外れにできひんやろ?」

 そう言って、夜一が湯呑を押し付けてくる。灼から渡せということだろうか。仕方なく、部屋の隅にいる少女の前に湯呑を置いた。

 夜一が、「飲んでる?」と目配せしてくる。

「いや」

 残念ながら、少女は湯呑に手を付けない。

「そっかぁ……」

 夜一が肩を落とす。

「それより。的形は? 電話したんだろ」

 的形には、問いただしたいことが山ほどある。

「したけど、出えへんかった。まだ昼間やから、仕事中なんちゃうかな」

 そう言いつつ、夜一は再度、的形にコールしている。

「……あかんわ」

 夜一が首を振る。

「チッ」

 舌打ちをしながら、灼は立ち上がった。

「どこ行くん?」

「フロント」

「用事でもあるん?」

「この民宿、あの集落からそう遠くないだろ」

 代々、同じ場所で民宿を経営していると言っていた。あの老夫婦から、何か話が聞けるのではと思ったのだ。

 灼が睨んだ通り、老夫婦は山中にある集落のことを知っていた。

 夜一が人当たりの良さを発揮して、話を聞き出していく。根掘り葉掘りといった感じなのに、不快感を感じさせないのが夜一のすごいところだ。

「そうなんですよ。おれたち、神戸のほうからドライブに来たんですけど。土砂崩れで通行止めになってて。回り道しようとしたら、ガタガタの道に入ってしまって……! 車は揺れるし大変やったんです」

「それは、難儀でしたねぇ」

 作務衣に前掛けという出で立ちの女将が、灼と夜一を労ってくれる。

「その道を進んで行ったら、小さな集落にたどり着いてたんです。やたら立派な壁に囲まれた屋敷がある村やったんですけど」

「あぁ、あの村か……」

 同じく作務衣姿の宿の主人が、白くなった髭をザリザリと撫でる。

「ご存知なんですか。道を尋ねようと思って、ちょっと村の中に入らせてもらったんですけどね。誰もおらんかったんです」

「今は、皆さん山を下りたんちゃうかしら。数年前、廃村になったらしいと聞いたわよ」

 やはり、現在は廃村のようだ。

「新しい住人が、次から次に来たけど。結局、あかんかったなぁ」

「……次から次に、ですか?」

 主人の言葉に、夜一が首をかしげる。

 灼も不思議に思った。あんな辺鄙なところにある集落だ。新たな住人が次々とやって来るなんてことが、あるのだろうか。

「村長さんのお宅のことや。壁に囲まれた家があったやろ。あの屋敷に住むとな、必ず不幸が訪れるんや」

 女将と主人が、互いの顔を見ながらうなずきあう。 

「呪われとるんやろねぇ……。次々と死んでいくんやもん」

 女将が、重々しい口調で言った。
 
 背筋がヒヤリと冷たくなる。灼は我慢できず、二人に訊ねた。

「し、死んでいく……? 不幸が訪れるっていうのは、一体どういうことなんですか」

 宿の主人が深く息を吐いた。それから、ゆっくりと語り始めた。

「……確か、的形という名前やったな。昔からあの村の長やった一族で、山の麓にも分家がようさんあったんや。集落にある大きな屋敷には代々、的形の当主が暮らしとった。でも、いつの頃からか、的形の当主は長生きできんようになってなぁ」

 民宿があるこの近辺や、さらに川を下った場所にも何軒か的形の家があったらしい。

「たいていが病で亡くなったと聞いとるけど。事故やったり、自分で首をくくったりという話もあった。それで、とうとう本家だけでは維持できんようになって。分家の人間が継いだりもしたんやけど、やっぱりあかんかった。皆、次々と死んでしまうんや」

 分家が的形を継ぐ。継いでは亡くなる。その繰り返しだったらしい。そして、少しずつ的形の分家はその数を減らしていったという。

「集落の人も怖がってしもてねぇ。当初は、疫病ちゃうかという噂があったみたいやけど。的形さんのところにだけ死人が出るもんやから。あれは疫病やなくて、呪いなんやろうって。それで、あのお城みたいな壁をつくったんよ」

 小さな集落には不釣り合いだった。まるで城壁のようだと、灼もあのとき思った。

「……村民からの、要望だったということですか? 屋敷の中に、呪いを閉じ込めるための?」

「ずいぶん昔の話やし、噂で聞いただけやけどね。なんやまじない師だか巫女さんだかを村に呼んで、あの壁をこしらえたそうやわ。ちょっと、胡散臭い気もするけどね」

 そう言って、女将が苦笑いする。

「でも、次々と的形の人間が死んでいったのは事実やからね。呪いやと噂されるのも仕方ないと思うわ。……もし、ほんまに呪いなんやったとしたら、的形さんはきっと、ずいぶんひどいことをしたんやろね」 

 話を聞き終え、灼は夜一と一緒に部屋へ向かった。

「不幸が続く家、か。……どう思う?」

「的形の人たちが、次々と亡くなったのは事実やし。実際にあの家には幽霊がおった。噂話は、だいたい合ってるんちゃうかな」

 夜一の言葉に、灼はうなずく。

「ただ、呪い師とか巫女とかのくだりは嘘っぽくねぇか?」

 いにしえの時代から、インチキな野郎がのさばっていたのだなと、灼は呆れた。

「なんで、嘘やと思うん?」

 夜一の疑問に答えるべく、灼は部屋の扉を開けた。

「証拠」

「え?」

「部屋の隅に、いる」

 少女の幽霊は正座したまま、同じ場所にいた。

「呪いの元凶が、屋敷から出ちまってるじゃねぇかよ」

 壁の役割を果たせていない。封じ込めるはずが、やすやすと突破されてしまっている。

「それは、たぶん灼くんのせいやと思うで」

「はぁ?」

 自分のせいにされ、灼は眉を寄せた。心外にもほどがある。

「なんで俺のせいなんだよ」

「灼くんはな、特異体質やねん。寧々ちゃんに憑かれたせいで変異したんやと思うけど。とにかく、幽霊に好かれやすいねん。波長が合うっていうんかな。だから、本来は出られへんかった壁をすり抜けることができた。灼くんに憑くことでな」

 一ミリもうれしくない。というか、それって。

「もしかして、あの子は俺に憑いてるのか……?」

「そうやで」

 何を今さら、という顔で夜一が灼を見る。

「首には寧々ちゃんが抱き着いたままやのに、また新しい子が憑くなんてなぁ。灼くんはすごいで! 幼女にモテモテやん!」

 誤解を招く言い方はやめて欲しい。

「じゃあ、この子は久しぶりに屋敷の外に出たってのか?」

 灼は、ちらりと少女のほうを見た。

「おれは、そう思うよ。だからずっと、じいっとしてるんちゃうかな。着物姿なんやろ? おまけに手毬を持ってる。時代を感じるもん。亡くなってから、相当な年月が経ってるはずや。世界が一変してると思う。この時代が未知の世界すぎて、気軽に動き回られへんのちゃうかなぁ」

 なるほど、と言いかけたところで、夜一のスマートフォンが震えた。画面には『的形良治』と表示されていた。

 夜一の手から、スマートフォンをふんだくった。そして、画面をタップする。

「てめぇ、ふざけんなよ!」

 いきなり灼が声を荒げたので、的形は「ヒッ!」と小さく悲鳴のような声を上げた。

 灼は構わず、怒鳴り続ける。あんな物騒な屋敷だとは聞いていない。仏間の遺影の数が尋常ではない。

「それにな、あの家は相当に古いが、住もうと思えば住めるじゃねぇか」

 建付けが悪い箇所はあったものの、倒壊の危険があるようには見えなかった。全体的なつくりがしっかりしているのだ。改築した形跡もあった。

「お前は『倒壊寸前で危険だから』と言っていた。そのための工事だと申告したが、それは嘘だ」

 電話の向こうで、的形が押し黙る。

『……すみません、あなたの言う通りです』

 小さくため息を吐いて、灼は夜一にも聞こえるよう、スマートフォンを操作した。

「騙されたようで、腹が立つんだがな」

『あの家を解体して、更地にしようとしているのは本当なんです。でも、その理由を正直に言うと、引き受けてもらえないのではと思ったので……』

 的形の声は弱々しく、そして震えている。

 ……小狡い野郎だな。

 灼は余計に苛立った。もし目の前にいたら、顔面に渾身の一発を入れているところだ。

「おい、俺にボコられたくなかったら、てめぇの知ってることを全て話せ。いいか? 全部だぞ。隠し事なんてしやがったら、ただじゃおかねぇからな」

 低い声で、脅すように言う。 

『わっ、分かりました……』

 的形は決意したように、あの家にまつわる「いわく」とやらを打ち明けた。

『的形の家は、庄屋だったんです』

 庄屋とは、簡単にいえば村の長だ。江戸時代に村役人の長として、村政全般を司っていた。関西特有の呼称でもある。

 だから的形の当主は、あんなに立派な屋敷に住むことができたのだ。

『現存する民家は数えるほどですが、昔はかなり大きな集落だったそうです。もともとは木地師きじしの集団だったとか』

「なんだ? その、木地師とかいうのは」

轆轤ろくろを使って、木工品の製造や加工をする職人のことです。轆轤師とも呼ばれていたとか。素材が豊富に取れる山中を集団で移動して、生活を営んでいたようです』

 時折、里に下りて交易をして、生計を立てていようだ。

『どういう経緯があったのかは不明ですが、いつの頃からか移動生活をやめて、集落を作ったようです。焼畑耕作と林業で、それなりに栄えていた時期もあったと聞いています。ただ、昔からその辺りは地盤が緩い土地だったそうで。何度か土砂災害に見舞われているんです』

 そういえば、つい最近も崖崩れが発生している。だからこそ境界標を探すハメになったのだ。

『今から、約二百年ほど前。江戸時代の終わり頃だったらしいのですが、土砂災害によって村の大半の家が押し流されてしまったようなんです。大勢が亡くなったとか……』

「それで?」

 灼は煙草に火を付けた。ゆっくりと煙を吐き出しながら、電話の向こうの的形に問う。

『当時、土砂災害というのは、土地の神様の怒りの現れだと考えられていたようで。その怒りを鎮めるために、生贄を捧げることになったんだそうです』

「生贄……?」

 灼が、そうつぶやいた瞬間「タン」と音がした。灼の背後で。

 ゆっくりと振り返る。

 少女が、手毬をついていた。

 ……タン。タン、タン。タンタタ、タン。

 その音は、夜一にも聞こえたようだ。

「まさか、そんな。嘘やんな……?」

 灼と夜一は、思わず顔を見合わせた。

「そ、その生贄っていうのは……。飼ってる牛とか鶏とか、村で採れた作物とか。そういう類のもんを捧げるんだよな……?」

 そうであって欲しいと思う。いくら江戸時代とはいえ、そんなことがあるのか?

『いえ、人間です』

 的形の言葉に、思わず息を飲んだ。

『幼い子を生贄に差し出したんです。「カヤ」という名前の少女でした。年は八つ。生まれて間もなく、両親が流行り病で命を落として、的形の本家が引き取ったんです。どうやら、縁者だったようで……』

「自分たちが育てた子を生贄にしたのか?」

『……所詮は、ただの縁者ですから。自分たちの家族ではない。それに的形の家は、一度も土砂災害の被害に遭っていなかったそうです。ぎりぎり被害を免れていたとか。誰も死なず、被害が及ばす、大きな屋敷で悠々と暮らしている。村人たちの不満を鎮めるためには、ちょうど良かったのかもしれません。的形の血を引いている者が、生贄になる。的形の家も犠牲を払った。村人のために尽くした。そう思わせたかったんだと思います』

「お前の先祖は、碌でもねぇ奴だな」

 灼は端的に言って、的形を突き放した。

『……僕も、そう思います』 

 自嘲するように、的形が言った。

『今、的形に財産といえるものはほとんどありません。屋敷はあの状態ですし、土地だって価値は無いに等しい。僕の両親は二人とも病気で亡くなりましたが、生前、相続は放棄するようにと言っていました。でも、僕はそうしなかった。生贄のことを聞いて、悪いことだと思いながら、心のどこかで「仕方がない」と思ったんです。そう思ってしまった。だから、僕は的形の家を継いだんです。間違いなく僕は、的形の血を引いた人間です』

「責任を取るつもりか?」

『僕が、的形の最後のひとりなんです。もう、分家もすべて滅んでしまった。人間がひとりもいなくなったのに、呪いだけ残ってるなんておかしいじゃないですか』

 不思議と、的形の声は力強かった。

「……それを、正直に言えば良かったじゃねぇか」

『失礼ながら、あまり信用していないんです。幽霊とか、呪いとか。あの屋敷には、確かに幽霊がいて。自分はそれを信じているんですけど。でも、他人がそれを口にすると、ひどく胡散臭く感じるというか。あまつさえ、商売にしているひとのことは……』

 気弱な男だと、初めて見たときに思った。でも今は、不思議と違う印象を受ける。

 夜一はムスッとしていたが、灼はどちらかというと的形の意見に近い。

 通話を終えたあとで「もしかしたら、的形とは気が合うかもしれねぇわ」と言ったら、夜一はますます膨れっ面になった。

「うちの事務所は、安心安全をモットーにしてるんやからな!」

「明朗会計?」

「そうや!」

 夜一が、ふんっ! と顔を背ける。ご機嫌を損ねたらしい。

 的形からコールがあったときは晴れていたのに、気づいたら雨が降り出していた。カーテンの隙間から漏れていた夕陽が、すうっと途切れていく。

 部屋の灯りをつけて、夜一が茶を淹れ始めた。またしても、湯呑が四つ。

 灼と夜一、寧々。それから……。

「お前も、懲りねぇな」

 そう言いながら、灼は少女の目の前に湯呑を置いた。どうせ手を付けないだろうと踏んで、しばらく様子をうかがっていたのだが。

「あ……」

 思わず、灼の声が漏れた。

 少女が、湯呑に手を伸ばしたのだ。夜一は目を輝かせている。ちょっと大げさなくらいに感激している。でも、なぜだ。

「お前、視えてないだろ」

「うん。でもな、聞こえるから」

「は?」

「寧々ちゃんがな、声をかけてあげたんやで!」

 興奮気味に、夜一が詳細を告げる。

 どうやら、寧々が茶をすすめたらしいのだ。

「寧々ちゃんが『いっしょに、飲もう?』って言ってな、誘ってあげてん!」

 キラキラの目をした夜一が、灼にガバッと抱き着いてくる。

「おい、何だよ……!」

 ぎゅうぎゅうと抱きしめられて、灼は硬直した。

「寧々ちゃん、人見知りやのに。えらいなぁ、がんばったなぁ」

 夜一が抱きしめているのは、灼ではなく寧々のようだ。ひたすら「ええ子や」と繰り返している。

 少女が、そっと湯呑に口をつける。

「……あの子が、『カヤ』で間違いないんだよな」

 生贄にされた、的形の縁者。

「うん」

 夜一の表情が翳る。

「間違いない。寧々ちゃんがな、『カヤちゃん』って名前を呼んだら、反応してん。小さい声やったけど、確かに『はい』って返事したんや」

「そうか……」

「あの子には、もう誰かを呪う力は残ってへん」

 気配で分かるのだと、夜一は言った。

「でも、的形の人間がことごとく不幸になったのは、あの子のせいなんだろ?」

「間違いなく、そうや。どうしても許せへんかったんやろうなぁ。自分だけが犠牲になって、恨んで。それがいつの間にか、呪いになった。……次々と的形の人間を呪うことで、簡単にいえば気が済んだんや」

 ……だったら、カヤが消滅しないのはなぜだ?

「思いを遂げたら、現世から消えるんだろ? でも、あの子はまだここにいる」

「他にも、なにか『思い』があるんとちゃうかな……」 

 その『思い』が何なのか。残念ながら、夜一では分からないという。

「さすがに気配で探ることは、できひん……。灼くんは、どう?」

「なんで俺なんだよ」

「だって、灼くんに憑いてるんやもん。『思い』らしきもの、感じ取れへんの?」

「無理いうなよ」

 灼は、首を振った。

 ふいに手毬をつく音が聞こえて、灼は自然とカヤのほうを見る。

「う、うそだろ……?」

 寧々が、そこにいた。カヤではなく、寧々が手毬をついていたのだ。慣れないてつきで、てちてちと手毬を叩いている。

 寧々は手毬で遊んだことがないのだろう。力の加減が分からないのだ。すぐに、思いもよらぬ方向へ飛んでいってしまう。その手毬を、カヤと一緒に追いかける。そしてまた、てちてちとつく。

「な、なんで」

 驚愕している灼とは反対に、夜一は満足そうな顔でうなずいている。

「人見知り同士、気が合うんやろうなぁ」

「……どういうことだ?」

 訳が分からず、灼は低い声で夜一に問う。

「一緒に遊んでるんやで。灼くんは視えてるんやから、分かるやろ?」

 目をぱちくりさせながら、夜一が「おれも視たいなぁ」言う。

「なんで二人は、ああいうことになってるんだ? その経緯を聞いてるんだよ」

 イライラする。思いっきり、夜一の腕を捻り上げたい。
 
「寧々ちゃんに声をかけてもらったんが、よっぽど嬉しかったんやろうなぁ。『手毬を貸してあげる』って、あの子が言うたんや。それでな、二人で仲良く遊んでるねん!」

 すぐ目の前にある、にこにこ顔の夜一を自分から引き剥がす。

「というか、寧々は俺から離れられたんだな……」

 常に灼の首まわりにへばりついていたので、なんだか変な感じだ。 

「もしかして、寧々ちゃんが離れていってショックなん? 孤独? 侘しい?」

 夜一が、茶化すように言う。

「そんなわけあるかよ」 

 灼はそう言って、夜一の肩を軽く小突いた。

 深夜になっても雨は止まず、シトシトという雨音が部屋の中に響く。

「雨、止まへんな……」

 横になった夜一が、ぽつりと言った。

「まだ、起きてたのか」

「うん。灼くんもやろ? 枕が変わったら、寝られへんもんな?」

 茶化すように夜一が言う。

「うるせぇ」

 普段は粗暴を絵に描いたような灼だが、繊細な部分もある。夜一が指摘した通り、枕が変わると寝付けないのだ。

「朝になったら、晴れとるかな?」

「そうだと良いけどな。雨の中、あの酷道を運転するのは面倒くせぇから」

 いい加減、眠りたい。灼は祈るように目を閉じた。

 目が覚めると、どういうわけか灼は、あの的形の屋敷にいた。

 一瞬、訳が分からなかった。間違いなく、自分は民宿にいたはずだ。

 それなのに、どうして……。

 ふいに、足音が聞こえた。振り返ると数人の男女がいた。皆、着物を纏っている。その中の一人、中年の女が灼を見て眉を潜める。

「カヤ、そんなところで何をしてるん!」

 甲高い声だった。

 女が睨みながら、こちらに向かってくる。

「母屋には来たらあかんって、いつも言うてますやろ。あんたの家はね、あの蔵なんよ。分かる?」

 女が、土蔵を指さす。

「嬉しいやろ? もともと住んでた家より、あの蔵のほうがよっぽど立派なんやから」

 女の口元は、ひどく歪んでいる。なんて醜い顔だろうと思う。

 仕方なく蔵に戻り、手毬をつく。

 手毬には、わずかに泥が付着している。何度も拭ったが、なかなか綺麗にはならない。泥を見る度に、耳の奥に轟音が響く。嫌な音だ。

 濁流が、全てを飲み込んでしまった。

 父と母の墓。それから生家。的形の屋敷と比べると、みすぼらしい家だったけれど、自分にとっては大切な家だった。

 唯一、手元に残ったのが手毬だった。

 母から教わった手毬唄を歌う。

 こんな歌だったろうか。あの頃よりも、ずいぶん物悲しいメロディーが耳に届く。

 ……寂しい。

 最近、毎日のように思う。

 ここには、自分を気遣ってくれる者はいない。優しい言葉をかけてもらうこともない。

 寂しい。心細い。

 自分はずっと、ひとりぼっちだ。

 ……誰も、おらへんの?

 ひとりで手毬をつくのは、飽きてしまった。誰か、誰か。一緒に遊びたい。名前を呼んで欲しい。寂しい。心細い。誰か……。

「灼くん」

 体を揺すられて、灼は目が覚めた。

「夜一、か……?」

「うん」

 暗闇の中に、ぼんやりと夜一の顔が浮かんでいる。心配そうに、灼をのぞき込んでいる。  

「大丈夫? うなされてたけど」

「平気だ」

 ……あれは、夢だったのか。

 それにしては、ずいぶんリアルだった。全身が気持ち悪い。汗でぐっしょりだ。

 目を閉じたが、それから眠ることはできなかった。朝になっても、雨は降り続いていた。

「雨の勢い、昨日より増してるなぁ」

 夜一が、窓の外の曇天を眺めて言った。民宿のすぐそばを流れる川も、昨夜より増水しているようだ。

「今日は、行動できひんな……。あの集落の辺りは地盤が緩いらしいから、また土砂崩れでも起こったら大変やし」

「ツイてねぇな」

 布団から体を起こし、灼は舌打ちをした。

 不機嫌な灼とは反対に、夜一は楽しそうだ。上機嫌で茶を淹れ始める。

「おれも一緒に遊べたらなぁ」

 昨日に引き続き、寧々とカヤは一緒に遊んでいる。なんでも、カヤに手毬唄を教えてもらい、寧々も一緒に歌っているというのだ。

「……お前、良い年して手毬なんかで遊びたいのか?」

 小馬鹿にしたように言うと、夜一が憐れんだような目で灼を見た。

「灼くん。寧々ちゃんの歌が聞かれへんからって、おれに嫉妬せんといてよ」

「はぁ!?」

 見当違いも良いところだ。なぜ、夜一なんぞに嫉妬しなければいけないのか。まぁ、多少は寧々の手毬唄が聞けたらいいかも、とは思うのだが……。

「はぁーーい、お茶ですよ~~!」

 声を聞いて、二人のいる場所を正確に掴んでいる。夜一は寧々とカヤの近くに湯呑を置いた。

 手毬で遊ぶのを中断して、二人は仲良く茶を飲み始めた。こうして並んでいるのを見ると、友だちのようであり、姉妹のようでもある。

「寂しくは、なさそうだな……」

「え? 灼くん、何か言うた?」

 ズズ~~! と茶をすすりながら、夜一が灼のほうを見る。

「いや。別に」

「灼くんの分もあるで?」

「あぁ」

 柔らかく湯気の立つ湯呑に、灼は手を伸ばした。
 
 翌日になっても、天気は回復しなかった。雨の勢いは衰えない。

 新たに土砂崩れが発生して、また山道の一部が通行止めになったらしいと宿の主人が教えてくれた。幸いにも集落へ行くルートとは被っておらず、ひとまず安堵したのだが……。

「暇だな」

 灼は、悶々としながら煙草を吸った。事態が進展しないことに苛立ちが募る。

 夜一は、電卓をバチバチと叩いて思案している。

「事務所に戻られへんから、相談料が入ってこない~~! あれは立派な収入源やから、困ったなぁ。おまけに宿賃もかかるし……」

 経営者は大変だ。こういうとき、労働者で良かったと心の底から思う。

 寧々とカヤは、相変わらず仲良く遊んでいる。ついさっき、民宿の中を探検するのだと言って、二人で部屋を出ていった。さすがに手毬をつくのにも飽きたのだろう。

「同じ歌やのに、最初に聞いたのとイメージが違うねんなぁ」

 ふいに、夜一が言った。

「手毬唄のことか?」

「うん。ずいぶん物悲しい歌やなって思ってんけど。気づいたら、ぜんぜん違う印象になっててん」

 不思議やなぁ、と夜一は微笑む。

 夢の中で、自分も同じことを思った。……いや、違う。あれは、カヤの記憶だったのではないか。

「……夜一」

「うん?」

「昨夜、夢を見た」

「そうなん?」

「夢だけど、たぶん夢じゃない」

 夜一が、怪訝な顔になる。

「どういう意味?」 
 
 自分が見たことを夜一に話した。的形の人間に、辛くあたられていたこと。母屋に足を踏み入れることすら許されていなかったこと。蔵の中で暮らしていたこと。ずっと、寂しかったこと。

 夜一は、手の甲で涙を拭った。

「……可哀相になぁ」

「あの屋敷には、良い思い出がなさそうだった。それなのに、カヤは解体工事を妨害していただろ? 俺には、それが謎なんだよな」 

 嫌な記憶ごと、粉々にしてしまえば良かったのに。考えても分からない。もしかしたら、的形の人間をおびきよせるためか? 

 あの屋敷は、的形の人間を集めるための「箱」だったのだろうか。

「……待ってたんちゃうかな」

「的形の人間に、恨みを晴らすために?」

「最初は、そうやったかもしれへんけど。今はもう、恨みの感情は消えてる。そういう気配がないねん。たぶんやけど、一緒に遊んでくれるひとが来るのを待ってたんちゃうかな」

 灼から夢の話を聞いて、夜一はそう感じたらしい。

 二人でしんみりしていると、寧々が慌てた様子で部屋に入ってきた。カヤの姿はない。

 寧々が、一生懸命に何か言っている。ぱくぱくと口を動かしているが、もちろん灼には聞こえない。

「おい、何て言ってる!?」

 灼は夜一に問う。

「カヤちゃんが……」

「どうした? カヤが何だって?」

「急に、いなくなったんやって……」

 いなくなった? どういうことだ? 迷子? いや、幽霊が迷子になるはずがない。 

 灼は、ハッとした。もしかしたら、カヤは……。

「消えてもたんやって。一緒に遊んでたら『ありがとう』って言って。何回も何回も、寧々ちゃんに『ありがとう』って言って、笑って。それから、消えたんやって」

 消滅したのだ。

 思いを、遂げた。だからカヤはいなくなったのだ。そのことを強く認識した。おそらく、夜一も。

 あのカヤはもう、現世のどこにもいない。そのことを寧々に、伝えなければいけない。

 不安そうに、寧々の瞳が揺れる。

「ね、寧々。あのな……」

 どう言えばいい? どう伝えたら……。
 
 灼が逡巡していると、夜一が話し始めた。

「おれは、寧々ちゃんやカヤちゃんの気配が分かるねん。感じ取ることができる。カヤちゃんの気配は、ずっと『寂しい』やった。でもな、少しずつその『寂しい』が小さくなっていってん」

 夜一の声は、ひどく優しい。誰に話すときよりも穏やかだった。

「カヤちゃんには、ずっと叶えたい『願い』があってな。それは『寂しい』っていう気持ちが、心の中から消えることやってん。その『願い』が、やっと叶ってん。寧々ちゃんのおかげやで。寧々ちゃんの優しい気持ちが、あの子の『願い』を叶えてあげたんや」

 寧々は、ぎゅうっとかたく口を結んでいた。うつむいて、必死に耐えているようだった。けれど堪えきれず、ごしごしと目元を擦る。

「寧々ちゃんには、おれと灼くんがおるよ。ずっとそばにおるから、な?」
 
 夜一が、優しく寧々を励ます。

 しばらくすると、寧々の小さな頭が、こくんと上下した。思わず、灼は息を吐いた。

「……助かった」

 そう言って、夜一の肩を軽く叩いた。慰めたり、励ましたり。そういうことは不得手だ。

「灼くんは、口下手やもんな」

 夜一が上手すぎるのだと、言ってやりたかったが我慢する。

「できひん部分を補うのが、パートナーやもん。気にせんで良いよ」

「ただの雇い主と助手の関係じゃなかったのか?」

「主従関係は苦手やねん。そもそも灼くん、おれのこと呼び捨てにしてるやんか。それでよく、雇い主なんて言えるなぁ」

 呆れた様子で、夜一は肩をすくめた。

 雨が止んだのは、それから三日後のことだった。民宿の玄関を出た灼は、思いっきり深呼吸した。それまでの長雨が嘘のように、雲ひとつない空が広がっている。

「何日も足止めくらって、体が鈍った気がするな……」

 晴天の下、ぐいぐいと体を伸ばす。それから煙草に火を付けて、灼は車に乗り込んだ。雨が止んだことで、ようやく集落に行くことができる。

 今日は的形の屋敷へ赴き、カヤの供養をするのだ。

「……はぁ」

 シートベルトを装着しながら、助手席の夜一が肩を落とす。かなりテンションが低めだ。理由は、宿賃がかさんだから。

「過ぎたことを言ってもしょうがねぇだろ。天候なんて、どうしようもないんだから」

「……そうやけど。ガソリンは値上がりするし、光熱費も高い。食品も値上げラッシュが止まらへん。もうあかん。破産や」

 オーバーな奴だ。そもそも光熱費や、食品の値上げラッシュと今回のことは、無関係だと思うのだが。

「また仁川とか、他の相談者とか、小金持ち連中から相談料をふんだくれば良いだろ」

 庶民から金を毟り取ることはしない。これでも灼は善人なのだ。粗暴だが。

「……うちは明朗会計やもん」

「料金設定を変えればいいだろ」

「え?」

 夜一が顔を上げる。目の下のクマがひどい。せっかくの美貌が台無しだ。唯一の取柄なのに。

「便乗するんだよ」

 灼は、口の端を上げてニヤリと笑った。たぶん今、悪役ちっくな表情をしているのだろうなと、自分でも思う。

「……便乗、値上げ?」

「そう。どこもやってるだろ? 原材料費がかさんだとか、人件費が高騰してるとか、それっぽいこと言って。うちもやれば良いんじゃないか?」

「そ、そうかな……?」

 険しかった夜一の表情が、幾分和らぐ。

「事務所が潰れたら、困るヤツがいるだろ」

 幽霊とか、呪いとか。そういった類のモノが、確かに存在すると身を持って知った。だから、御影探偵事務所は必要な存在だと思うのだ。未だに、胡散臭せぇ……と、ドン引きすることもあるけれど。

 灼の助言を聞き、夜一はすっかり気を取り直したようだ。ボディバッグから電卓を取り出し、意気揚々と叩いている。

「二割くらい値上げしようかな。いや、この際やから景気よく、ぷわぁ~~っと三割ほど上げて……。そうなったら売り上げ的に、うん、うん! ええ感じやーー!」

 満面の笑みで、電卓をひしっと抱きしめている。確かにあったはずの目の下のクマは、どういうわけか消えていた。謎に肌ツヤが良くなっている。なんという単純な男なのだろう。

 横目で夜一を見ながら、灼は呆れかえった。

 山道に入ってからは、慎重にハンドルを握る。晴れているが、道の両脇は濡れていた。雨水が地層からしみ出しているのだ。しかし、それ以上の影響はなかったようで、無事に集落の入口にたどり着いた。

 村に足を踏み入れた瞬間、灼は思わず息を飲んだ。

「う、うそや……」

 夜一も、愕然としている。

 的形の屋敷が、土砂に埋もれていたのだ。

 裏山が崩れたらしい。母屋も、蔵も、あの立派な壁も、全てが土砂にまみれている。

 しかし、他の民家は被害を受けていない。的形の屋敷だけが、跡形もなく流されていた。

 土砂に足を取られながら、屋敷があった場所まで行く。ひどく、土の匂いがした。

「……カヤが消滅したことと、因果関係があると思うか?」

「分からへん。でも、的形の最後には相応しいのかもしれへん。ここにはもう、呪いは残ってない。わずかに思念が漂ってるだけや」

「カヤの思念か?」

 灼の問いに、夜一は首を振る。

「……違う。今、分かった。初めてこの集落に来たとき、おれが感じた気配。すごくイヤな感じやった。あれは、カヤちゃんの気配と違うかったんや」

 ゾッとするような、絡めとられるような。暗い場所から、いくつもの手が伸びてくるような感覚だったという。

「遺影を見たとき、なんですぐに気づかへんかったんやろう」

 夜一が感じたモノ。その正体は、仏間で見た的形の人間たちだった。

 遺影の目に、じいっと見られている感覚は、確かにあのとき灼も感じていた。

「……まずは、残った思念を祓う」

 そう言って、夜一は道具を取り出した。

 左の手のひらに、薄水色の陶器をのせる。中には真っ白な砂が入っている。夜一が右手をかざすと、砂がサラサラと波打った。そして平らになる。

 その上に、香木から削り取った粒子の細かい香粉をまぶす。人差し指が、くるくると何かを描くように動いた。不思議なことに、香粉は指の動きに合わせて美しい模様を作る。複雑な図柄だ。

 図柄は、思念や祓う対象によってその形を変えるのだという。夜一から聞いてはいたものの、実際にこの目で見るのは初めてだった。

「灼くん」

「な、なんだよ……?」

 流れるような夜一の仕草に見惚れていた。それを見透かされたようで、灼の声は上擦った。

「火、ちょうだい」

「は?」

「ライター持ってるやろ」

 灼は、未だに紙煙草を吸っている。どれだけ電子煙草が主流になろうが、煙草税が増税されようが、頑なに同じ銘柄を購入し続けている。だから、ライターは必需品なのだ。

「持ってるけど」

「マッチを持ってくるの忘れてん」

「大事なもん、忘れるなよ……」

 そう言って、灼はライターに火を灯した。

 夜一が、その火を綫香に移す。ゆっくりと円を描くように綫香を動かした。円は、少しずつ大きくなっていく。夜一はそうしながら、静かに念を唱えた。そっと囁くようで、けれど威厳に満ちている。

 最後に、綫香の火を香粉へと渡す。

 なんともいえない香りが、じわりと広がっていく。灼は気配を感じることができない。けれど、わずかに残った思念が今、清められていることだけは分かった。

 夜一が懐から鈴を出し、リンと鳴らす。軽やかな、それでも胸にずしりと響く音だった。

 残留した思念を祓ったあとで、カヤの供養も済ませた。

 集落内には墓地があったけれど、カヤやその家族の墓標は見当たらなかった。そのため、的形の屋敷の跡地に花を手向けた。

 合掌していると、隣にいた夜一の体がピクリと動いた。

「これはな、カヤちゃんのことを思って手を合わせてるんやで」

 寧々と会話しているようだ。

「そうそう。そうやって、両手を合わせるねん」

 どうやら、寧々も合掌しているらしい。夜一が、灼の首元を見ながら微笑んでいる。まるで愛おしいものでも見るような、優しい顔だった。

 神戸に戻ってから数日後。依頼人である的形良治が、御影探偵事務所を訪ねてきた。

「昨日、現地に行って来ました。拍子抜けしたというか……。本当に、何もかも無くなっていたものですから」

 ソファに座った的形は、複雑そうな顔をしていた。

「解体する必要もなくなったんだから、良いんじゃねぇの」

 茶を出しながら、灼は的形に言った。

「そうですね、屋敷の残骸を撤去したり、後始末をする必要はあるんですが……。ひとまず、肩の荷は下りました」

「あの場所に、もう呪いはありません」

「はい」

 夜一の言葉に、的形はうなずく。

「幽霊もいません。一体も……。それに、思念も残っていませんから」

「は、はぁ……」

 的形は、不思議そうな顔でうなずいた。

 幽霊はカヤという認識で、それ以外のことは考えてもみなかったのだろう。自分の先祖たちが悪いモノになって彷徨っていたという事実は、知らないままのほうが良いのかもしれない。

 これで、彼も解放される。的形という家が、代々受け継いできた呪いから。

「あの、お支払いなんですが。振り込みさせていただきます。今日か、明日にでも」

 的形が口にした「振り込み」のワードで、夜一の目がギンギンになる。

「毎度ありがとうございますーー!」

「それで、これ。手土産といいますか……」

 的形が、テーブルの上に紙の包みを置いた。「豚饅頭」の文字がデカデカとある。

「こ、これは! 老祥記ろうしょうき……!」

 夜一の顔が、にんまりする。

 この老祥記は、豚まんが名物なのだ。創業は大正四年。南京町で、ひときわ長い行列をつくっている。

「匂いにつられまして。地元の方に、買っていくのはどうかと思ったんですが」

「とんでもない! 大好きなので嬉しいですよ」

 細身の体型だが、夜一は食い意地が張っている。早く包みを開けたいのだろう、ちらちらと「豚饅頭」の包みに視線を送っている。

「で、では。僕はこれで……」

 気を利かせたらしい的形が、ソファから立ち上がる。灼は見送りのために、事務所の出入口まで付き添った。

「また、何かあったら来いよ」

「……ないことを祈りたいです」

 的形が苦笑いする。

「そりゃ、そうだな」

 的形の痩せた背中を眺めながら、灼はぼそりとつぶやいた。呪い、いわく、幽霊騒ぎ。そんなものとは、一生縁がないにこしたことはない。

 的形に出した茶を片付けるために部屋に戻ると、夜一が豚まんを口に押し込んでいた。この老祥記の豚まんは、かなり小ぶりなのだ。とはいえ、さすがに入れ過ぎだ。もしや、一人で食べ切ろうとしたのではあるまいな……。

「勝手に食うなよ」

 夜一の食い意地に呆れていると。

「んぐっ! ふごぉ……!」

 灼に現場を押さえられたことで、焦ったのだろうか。夜一が豚まんを喉に詰まらせている。トントンと胸元を叩いているので、心優しい灼は手伝ってやった。バシッと強めの一撃を入れる。

「痛い……!」

 涙目になりながら、夜一が灼を睨む。

「灼くんの馬鹿力!」

「死ぬよりマシだろ? 祓い屋が幽霊になるとか、マジで笑えねぇ」

 鼻で笑いながら、灼も豚まんを口に放り込んだ。

 口に入れた瞬間、ジューシーな肉汁があふれる。まだ熱々だった。皮はモチモチだ。豚肉は少し荒めにミンチされており、歯応えがある。

 青ネギが良いアクセントになっている。味付けはシンプルなのだが、その分だけ肉の旨味を感じることができる。

 手が止まらない。ぽいぽいと豚まんを口に押し込みながら、これでは夜一と同じだなと思った。

 夜一が、キッチンから醤油と酢を持ってきた。そのままでも美味しいけれど、つけダレで味変をしても楽しめる。多めの油で揚げ焼きのようにしても絶品だった。

「やっぱり、老祥記やなーー! 美味しい~~!」

「……おい」

「ふぁに?」

 豚まんで頬をぱんぱんにした夜一が、灼を見る。なんと間が抜けた顔なのだろうとドン引きする。

「寧々にも」

 食べさせてやりたい。夜一にそう訴えると。

「ふぁ! ふぉうやな!」

 ひたすら咀嚼して、ごくっと飲み込んでから、夜一は寧々に語りかけた。

「ごめんな、つい夢中になって。寧々も一緒に食べよなーー! ほら、これな。豚まんっていうんやけど。美味しいねんで~~! 小さいから寧々ちゃんも食べやすいんちゃうかな」

 豚まんの包みを、ぐいっとこちらに押し付けてくる。

「あ、でも。気を付けて食べてな。じゅわって勢いよく肉汁が出てくるから。まだ熱々やし、火傷したらあかんで?」

 幽霊に火傷もないだろう。またしても、勢いよく豚まんを頬張る夜一に呆れつつ、こういうときに会話ができる彼を羨ましいと思った。

「……まぁ、でも食べるところを視れるしな」

 寧々は、いつの間にか灼の隣にいた。ソファにちんまりと座り、豚まんを食べている。もぐもぐしている頬が可愛い。決して口に詰め込むことはなく、ひとつ食べ終わってから、次の豚まんに手を伸ばす。行儀が良い。誰かとは大違いだな、と灼は密かに思った。

第三章 溺れる部屋
 
 麗らかな平日の午後。南京町のはずれにある御影探偵事務所では、灼と夜一がそれぞれ業務に励んでいた。

 リクライニングチェアに座った夜一は、パソコンの画面に向かって人の好さそうな笑みを浮かべている。相槌を打ったり、たまにアドバイスをしたり。

「それは、大変ですねぇ」

 親身になって相談を受けている。まるで、何かのカウンセラーのようだ。

『毎回、私が片づけてるんですよ! ぜったいに幽霊の仕業だと思うんです。ごみを荒らすなんて、悪霊に決まってますッ!』

 画面の向こうで、相談者の女性が真剣な顔で訴えている。ごみの集積所でなにやら問題があるようだ。いわゆるご近所トラブルだろう。

 正直なところ、探偵に相談するより監視カメラの購入を検討したほうが、よほど建設的なのではないかと灼は思う。

「それでは、ご自宅に御守りをお送りします。肌身離さず持ち歩いてください。そうすれば、きっと良い方向に物事が進むはずです。不可思議な現象から身を守ることができますよ」

 夜一が、にこりと微笑む。

 女性は「ありがとうございます……!」と、感激したように涙ぐんでいる。

 そのやり取りを横目で見ながら、灼は脱力した。

 最近、御影探偵事務所はリモート相談を始めたのだ。

 的形の一件を請け負った際、天候不良のため民宿で数日ほど足止めをくらった。事務所を留守にしたせいで売り上げが落ち込み、夜一は堪えたらしい。

 いつでもどこでも相談者を受け入れたい。常に金儲けがしたい。それで思いついたのが、リモート相談だった。さすがは金銭を得ることに貪欲な夜一だ。ピンチはチャンス。おかげで事務所の売り上げは右肩上がりだった。胡散臭さは、かなり増したけれども。

 そして灼のアドバイス通り、今月に入ってから御影探偵事務所は値上げを決行した。ドドンと、いきなりの三割増し。幸いといって良いのか、今のところ客足に影響はない。

「灼くん! 御守りひとつちょうだい」

 リクライニングチェアに座ったまま、灼に向かって手を伸ばす。

「……はいはい」

 夜一に御守りを手渡すと、御守りと手書きの御礼状を入れ封をした。さっそく相談者に送付するらしい。

 ちなみに、その御守りを作っているのが灼だ。

 最近の灼の業務は、もっぱら御守り製作だった。来訪する相談者が激減したので、茶を淹れる機会も減ってしまった。

「なんでもっと前から、思いつかんかったんやろーー! リモート相談、最高や~~!」

 夜一がリクライニングチェアを後ろに倒した。そのまま、グイ~~ッと上半身を伸ばす。

「……リモートで、幽霊の気配とか分かるのか?」

 甚だ疑問だ。リモートで相談をする側にも懐疑的な灼だった。

「もちろん、分かるで! さすがにその場合は直接、事務所に来てもらうことになると思うんやけど……」

「そのパターン、今まであったか?」

「ううん」

 夜一が首を振る。

「つまり、全部『気のせい』なんだろ……?」

 改めてその現実を目の当たりにすると、自分の業務がバカバカしくなってくる。

 鍛え抜かれた生粋の社畜体質ゆえ、ひとつひとつの御守りを丁寧に真心を込めて製作している灼だった。

「その『気のせい』が、相談をすることで気にならなくなるんやから。意味はあるやろ?」

 ……言われてみれば、そんな気がしないでもない。

 ということは、この御守りにも意味はある。気を取り直して、灼は御守り作りに没頭した。

 御守りの中には、長方形の小さな板が入っている。祓いの儀式で使用する香粉の匂いを纏わせ、それを和紙でくるむのだ。きちんと念を込めているらしい。

 ずらりと板を並べ、夜一が真面目に経を唱えていたのを灼も確認した。

 詐欺商品ではない。効き目はある。受け取る相談者が今のところ全員「気のせい」な人々なのが、残念で仕方がない。誠に遺憾だ。せっかくの、正真正銘の御守りなのに。

 御守りの表には「御影探偵社御守り」の文字が輝く。灼が刺繍を施しているのだ。金色の刺繍糸で、ちくちくと針を動かしていたのだが……。
 
「灼くんって、意外に器用やなぁ」

 感心したように、夜一が灼の手元をのぞき込む。

「……意外か?」

「細かい作業とか苦手そうやん。すぐイライラして『こんなこと、やってられるか!』って言うて。針を投げつけてきそうやで」

 酷い言われようだ。キレやすい体質なのは、認めるけれども。

「仕事ならやる」

「ふぅん。あ、そういえばさぁ」

「……なんだよ」

 さっそく灼は舌打ちをした。作業中に話しかけられると集中力を欠くのだ。刺繍が歪な形になってはいけない。見栄えが悪くなる。
 
「的形さんの屋敷に初めて行ったとき。おれは気配を感じて気分が悪くなったけど、灼くんは平気やったやん?」

「そうだな」

「納得がいかんねんなーー!」

「はぁ?」

 いきなり文句をつけられ、灼は憤慨した。喧嘩を売るつもりだろうか。だったら喜んで買う。受けて立つ。

「忌み地のマンションで体調が最悪になってたやん? 分裂したモノに影響を受けて、歩かれへんようになったり、筋肉痛になったり」

 そういえば、そうだった。つい三ヵ月前のことなのに、なんだか昔のことのようだ。 

「へろへろになってさ、おれに寄り掛かって……。あのときの灼くんは可愛げがあったのになぁ」

 夜一が、大げさにため息を吐く。

「うるせぇ」

 可愛げなんてあってたまるか。灼は、思いっきり夜一を睨んだ。

「あの集落に漂ってたモノは、相当に強かったと思うねん。なんたって、おれがしんどくなるくらいやし~~!」

「へぇ」

 適当に返事をしながら、灼は手を動かした。御守り制作を再開する。まだまだ話は続くらしいが、どうせつまらない内容だろう。聞く価値のない話に耳を傾けるより、仕事をしていたほうがマシだ。

 数分後。

「それやのにな、灼くんがぜんぜん影響を受けへんのはやっぱり強いからなんやと思って。すごいな~~って思ってん!」
 
 単純に、耐性がついたのだろう。

「それで?」

「だから、すごいな~~って思ってん!!」
 
 ……終わりか?

 しばらく何やら話していたが、特にオチもなかった。内容も薄い。やはり、聞く価値のない話だったな……と呆れていると。

「わわっ! 灼くん見て。これ、ほら! またリモート相談の予約が入ったで~~!」

 満面の笑みで、夜一がパソコンの画面を見せてくる。

「わぁ!」

 夜一が、大げさに仰け反る。

「うるせぇな!」

 思わず手が出そうになった。気が散って仕方がない。頼むから静かにしてくれ。針仕事は神経を使うのだ。

「相談者、青倉さんや……!」

「え?」

 聞き覚えのある名前が夜一の口から飛び出した。

 青倉利人あおくらりひと

 彼は、灼の元同僚だ。東京で働いていたころの後輩で、この御影探偵事務所を紹介してくれたのも彼だった。

「……俺のときみたいに、誰かを紹介するとかじゃないのか?」

「違うみたいやで。今、住んでるところの部屋に問題があるらしい。それで、話を聞いてもらいたいんやって」

 パソコンの画面に顔を近づけながら、夜一が言う。ぎゅっと眉を寄せている。真剣な顔つきだ。

 灼は刺繍針を針山に刺し、スマートフォンを手に取った。

「……灼くん、どうしたん?」

「俺に連絡して来ないとかありえねぇ。他人行儀なんだよ。リモート相談とか、ふざけんじゃねぇ」

 イライラしながら、青倉に電話をかけようとした。その手を、夜一が阻む。

「待って」

「触んなよ」

「音声だけやったら、気配が分からへんから。ビデオ通話にして」

「お前……」

 深刻な顔つきの夜一に、灼は気圧された。

「青倉さんが『気のせい』で相談してくるはず、ないやろ……?」

 間違いなく、その通りだ。灼はうなずき、青倉に電話をかけた。

 何度目かのコールで、応答があった。画面が切り替わり、青倉の顔が表示される。

 青倉は、明らかに顔色が悪かった。ひと目で「これはダメだな」と思うくらいに。いつだったか……忌み地のマンションで暮らしていたころの自分を見ているようで、灼は胸騒ぎを覚えた。

『新規で営業所を立ち上げることになって、メンバーに選ばれたんです。それで引っ越しをしたんですよ』

 さっそく、青倉に事情を聞いた。

『新しい勤務地は横浜なんです。都内からだと、通えない距離ではなかったんですけど。朝の通勤ラッシュとか、乗り換えのことを考えると、新しく部屋を借りたほうが良いと思って』

 目の下にクマを作った青倉が、疲れたように笑う。

『営業所の話は、急に決まったんです。抱えてる案件を引き継ぎしながら、慌てて部屋を探して……。今思えば、不動産屋の言いなりだったかもなって、少し反省しています』

「……相変わらずのブラックだな」

『そうですね』

 青倉が苦笑いする。

 その、新しく借りた部屋というのがマズかったらしい。

『シェアハウスなんです。特にこだわりがあって選んだわけではなくて。たまたま条件に合って、不動産屋の営業から、けっこう強めにすすめられて。まぁ、いいかなって思ったんです』

 引っ越しをしてすぐ、異常を感じたようだ。

『変な音がして……。水音のような感じです。あとは、床が不自然に濡れていたり、部屋の壁にシミが浮かんできたりとか』

 青倉の表情には、明らかな疲労が滲んでいる。

「……それで、お前は大丈夫なのか?」

 灼の知っている青倉は、いつも飄々としていた。ちょっと生意気で、可愛げのある後輩だった。その面影が、今の彼にはない。

『金縛りがひどくて、寝不足にもなったんですけど。今は落ち着いてますね……。本調子とまではいかないですけど。たぶん、部屋がダメなんだろうなって思って。すぐホテルに避難したんです』

 疲れた顔で、青倉が笑う。

「それは、良かったです!」

 灼と青倉しかいなかった画角に、夜一が無遠慮に侵入してくる。灼のスマートフォンに顔を近づけ、「素晴らしい判断でしたね」と言っている。

 おかげで、灼の顔が隠れてしまった。

「ずっとその部屋におったら、もっとひどいことになってたと思うで! 離れて良かったーー!」

『灼さんのおかげですよ』

「え、そうなん?」

『灼さんもヤバいときあったじゃないですか。なんか、症状が今の自分と似てるなって思って。だから、速攻でホテルに逃げたんです。悪いモノからは、距離をとるのが一番だと学んだので』

 灼が東京を離れる際、青倉には事情を説明した。

 幽霊、怨念、忌み地。

 青倉が信じるかどうかは微妙だったが、夜一を紹介してもらった恩義もあり、全て正直に話すと決めたのだ。

「役に立ってよかったな、灼くん! やっぱり、一度は幽霊に憑かれたり呪われたりしとくもんやな。経験になるもんなーー!」

 くるっと振り返り、夜一が灼を見上げる。

「……まぁな」

 そんな経験値はいらない。絶対に。しかし、青倉の心身の状態が悪化しなかったことは事実なので、とりあえず良かったのだと自分を納得させる。

「青倉」

 夜一の頭を押しのけながら、画面の向こうの青倉の顔を見る。

『なんです?』

「ちゃんと、休んでるんだろうな?」

『……休んでますよ?』

 少しだけ、彼の目が泳ぐ。

「本当だろうな?」

 間髪入れずに、青倉に問う。

『今日まで、休みをもらったので。ちゃんと休んでました。明日からは、出勤するんですけど……』

 言い訳みたいな青倉の返答に、思わず頭を抱えた。

 かつては灼を「ブラックな社風に染まり過ぎ」だと笑っていたくせに、今や青倉も立派な社畜だ。

「お前……」

 出勤している場合ではないだろう。仕事のことなんて気にするな。ブラック会社なんて、さっさと切り捨ててしまえ。そう言ってやりたいのだが、他人から言われたところで無理なのだ。かつての自分がそうだったので、灼にはよく分かる。

「できる限り、サボれよ」

『灼さん……』

 驚いたように、青倉が目を見張る。

「出勤してもいいけど、とにかく楽をしろ。自分以外でもやれそうな業務は、できる限り他人に振れ。そしてサボれ」

 今、灼に言えるのはこれくらいだ。

「お前が楽をしている間に、俺たちが解決してやる」

『はい……』

 青倉が大きく息を吐いた。そうして目を細めて、安心したように笑った。

「現地調査に行くで~~~!」

 通話を終えたあと、夜一が元気よく宣言した。さっそくバタバタと荷造りを始める。

「やっぱりリモートは最高やなぁ。こういうとき、すぐに行動を開始できるもん!」

「そうだな」

 いつでもどこでも金儲け……いや、相談者から話を聞くことができる。日程の調整もスムーズだ。

 夜一は、お気に入りのチャイナシャツをぎゅうぎゅうに詰め込んでいる。彼曰く、チャイナシャツには一軍から三軍までランクがあるらしい。

「気分を上げるためにも、遠出するときは一軍メンバーを多めに連れていくねん! お気に入りのやつを着たらな、気合が入って『がんばろう~~!』って思えるやん?」

「そういうもんか……?」

 灼はファッションに興味がない。衣服は毎回、ファストファッションで適当に選んでいる。唯一、好みといえるのは着心地くらいだ。

「灼くんには分からへんかもなーー! 毎日、黒とか白とか、そんなんばっかりやん。めっちゃ地味やで!」

 地味ではなく、シンプルといって欲しい。

「ま、灼くんが地味なおかげで、おれのチャイナシャツが映えるねんけど!」

 今日も派手なチャイナシャツを纏っている夜一が、にひひと笑う。

 引き立て役にされるのは御免だが、面倒なので「はいはい」と受け流しておいた。

 南京町の最寄り駅である元町駅から在来線で新神戸駅に向かい、その日のうちに新幹線で横浜に向かうことができた。

 車内で呑気にチーズかまぼこを食べる夜一を見て、思わずため息が漏れる。

「……旅行じゃないんだぞ」

「分かってるで?」

 きょとん、とした顔の夜一が、コンビニの袋をガサガサと漁る。取り出したのはビーフジャーキーだった。

 乗車前にスナック菓子やナッツ類も買い込んでいたのを灼は目撃した。どう見ても、遠足気分な気がする。

「はい、寧々ちゃんもどうぞ~~!」

 灼に向かって、ビーフジャーキーを差し出す。

「……チーズかまぼこのほうが良くないか?」

 ビーフジャーキーは硬い。噛み切れるか心配だ。幽霊といえども、寧々はまだ幼児なのだ。

「寧々ちゃんは、こっちのほうが良いって言うてるよ」

「なら良いけど……。それより、感じたか?」

「へ?」

 豪快にビーフジャーキーにかぶりついていた夜一が、首をかしげる。

「なにを?」

「気配だよ。青倉と話したとき」

「あぁ、気配な! うん、感じたで。強い念やったなぁ」

 思い出したように、夜一がうんうんとうなずく。

「強いって、それはヤバいんじゃ……!」

 灼は焦ったが、夜一は落ち着いている。それよりも今はビーフジャーキーに夢中らしい。美しい顔を歪ませながら、必死に咀嚼している。
 
「そこまで悪い気配じゃなかったから。大丈夫やと思うで?」

 その診断は、信じて良いのだろうか。

「それにしても、お前のところに来る相談者って……」

「うん?」

「家にまつわる問題を抱えてることが多いよな」

 少し前から、気になっていたことだ。

 全ての相談が、必ずしもそうというわけではない。しかし、圧倒的に多い。今度の青倉の件、それから的形のとき。

 毎回つまらない相談を持ち掛けてくる仁川だって、「家」関連の話ばかりだ。というか、そもそも灼だって……。

「俺のときはマンションだった。厳密にいえば、土地の問題ではあったけど」

「それは、おれが『家』関連の問題に強いからやで!」

「……はい?」

 初めて聞く話だ。得意不得意があるのか?

「ほら、弁護士だってそうやん? それぞれ得意分野があるやろ。医療訴訟に特化してるとか、離婚問題に強いとか」

「言われてみれば、たしかに……」

「医者もそうやん。内科、外科、耳鼻科。いろいろ分かれてるやろ?」

「……いや、やっぱり変じゃないか? 同じ扱いにしたら、たぶん弁護士も医者もキレると思うぞ」

 納得しかけたが、なんとか灼は正気を取り戻した。


 

 横浜に到着すると、灼と夜一はすぐに件のシェアハウスに向かった。新横浜駅から乗り換えなしで三十分ほど。たどり着いたのは閑静な住宅街だった。

 住環境はかなり良さそうだ。駅チカ物件で、築年数は八年。単身者向けのシェアハウスらしい。

 スタイリッシュな外観を眺めながら、夜一は「格好いいなーー!」と感嘆していたのだが……。

 玄関の扉に手をかけた瞬間、彼の表情が曇った。

「あ、あかんかも……」

 みるみるうちに、夜一の顔色が悪くなっていく。

 気配を感じているのだろう。察するに、決して良くないモノだ。

 そこまで悪い気配ではない、というようなことを夜一は言っていたが、やはりアテにならなかったらしい。

「とにかく、中に入るぞ」

 灼は、そっと扉を開けた。

 玄関と各部屋の鍵は、電子パネル式の電子錠が採用されている。あらかじめ青倉から番号を聞いていたので、難なく侵入することができた。

 現在、このシェアハウスに空室はないらしい。

 大きなリビングルームが共用部としてあり、休日には住人たちが集まってホームシアターを楽しんだり、ボードゲームに熱中したりするのが習慣だという。

 青倉は社交的なタイプなので、住人たちにも歓迎されていたようだ。

 共用部はどこも清潔で、しっかりと管理されているのが分かる。ほとんど新築のような綺麗さだった。

 青倉も含めて、住人は全員が社会人らしかった。学生が住むには家賃が高額だし、住環境や設備が贅沢すぎる。キッチンや浴槽つきバスルームが各部屋に設置されているのだ。ランドリールームは二十四時間使用OKで、防音設備も整っている。

「家賃が高額といっても、これだけの設備と綺麗さだったら安いくらいだよな」

「ほんまやな……」

 顔色の悪い夜一が、こくりとうなずく。

 青倉の部屋は一階の角部屋だった。

 電子錠をアンロックして、部屋に入る。灼は、ぐるりと室内を見回した。一見しただけでは、特に変わった様子はなかった。

 綺麗に片付いている。そういえば、会社のデスクも常に片付いていたな……と思い出した。

 青倉から「床が不自然に濡れている」と聞いていたが、そのような痕跡は見当たらなかった。「部屋の壁にシミが浮かんでくる」というような現象も確認できない。

「良い部屋だが……。そうなると、変だな」

 駅チカ物件。設備は申し分ない。管理はしっかりされており、家賃も見合っているどころかお得感さえある。

「不動産の営業が、ゴリ押しするような物件ちゃうねんよな」

「あぁ」

 そうなのだ。ほうっておいても入居希望者が殺到するような条件がそろっている。

「シャアハウス自体が、万人受けするもんじゃないけどな。それを差し引いても、営業がプッシュする必要はないと思うんだよな……」

 なにか、特別な理由でもあるのだろうか。不動産の営業が、推さなければいけない理由が。

 ふいに、部屋の中が薄暗くなった。陽が沈みかけている。カーテンを閉めて、灯りをつけようとしたとき。

 ……ポチャン。

 なにか、聞こえた。水音のような。

 振り返ると、夜一の表情がこわばっていた。どうやら、彼の耳にも届いたようだ。夜一と目が合う。緊張が走る。

 ごく、と息を飲んだ瞬間。

 ……ピチョン、ポチャン。

 またしても聞こえた。間違いない。水滴が、したたり落ちる音だ。

 夜一が、ピクリと反応した。

「寧々ちゃん、どうしたん……?」

 灼に近寄り、微笑みながらうなずく。どうやら、寧々が何か言っているようだ。

 しばらく相槌をうっていた夜一だったが、ふいに表情がこわばった。一点を見つめながら、ぶるりとその体が震える。

 夜一が見ているのは、灼が背を向けている壁だ。嫌な予感しかしない。

 灼は、覚悟を決めて振り返った。

「マジかよ……」

 壁にシミができていた。白い壁紙に、茶色いシミが滲んでいる。

 この部屋に入ったときには、なかったはずだ。シミは、じわじわと範囲を広げていく。

 灼は、その様子を信じられない思いで見つめた。次の瞬間、頬に冷たい感触があった。手の甲で拭う。水滴だった。

 反射的に上を見ると、天井にもシミがあった。その一部から、水滴が落ちてくる。

「あ、灼くん……」

「何だよ」

「聞こえる?」

 夜一の声が、震えている。

「水音だろ?」

「うん。そうやねんけど、また違う音がしてる……」

 違う音だと……?

 灼は耳を澄ませた。異常事態のせいで集中できない。それでも、なんとか神経を研ぎ澄ませて音を探った。

 滴る水の音の他に、たしかに聞こえた。

 ……コポ、コポポ。

 背中がぞくりとした。イヤな音だ。溢れてくるような。

 ……コポ、コポォ、コポポッ。

 これは、逆流する音だ。

 ……コポポ、コポ、ポポポポポポッ!

 灼は、慌ててトイレに向かった。

「ここじゃねぇ……!」

 舌打ちをしながら、今度は洗面所へ向かう。異常はない。でも、すぐ近くで音が聞こえる。

 浴室の扉を、灼が開けると……。

「わっ!」

 灼を追いかけてきた夜一が、小さく声を上げた。

 排水溝から、茶色い水が溢れていたのだ。コポコポと不気味な音を立てながら。

「な、なんやこれ……」

 夜一が、呆然としている。

 さっきまで異常がなかった洗面台の排水口からも、水が逆流し始めた。

 洗面所の壁紙からは、水が滲み出してくる。いつの間にか、床が水浸しだった。廊下から水が浸入しているのだ。

「ここを出るぞ」

 そう言って、灼は夜一の腕を引いた。

 部屋を出てエレベーターを探したが、階段のほうが早いだろうと判断して、非常階段で二階まで駆け上がった。

「ここが、青倉さんの部屋の真上……?」

「水漏れする可能性は、どう考えてもないな」

 上階の部屋で水のトラブルがあり、その影響を受けているのかもしれない。そう思って、念のため確認に来たのだ。

 しかし、青倉の部屋の真上は物置スペースだった。掃除用具が雑然と置かれているだけで、水が階下に漏れている様子はなかった。天井だけではなく壁から水が滲み出ている時点で、そもそも上階から影響を受けている可能性は低いのだが……。

「どう考えても、悪いモノじゃねぇか」

 物置スペースの扉を閉めながら、灼は夜一に文句を言った。

「うーーん……」

 夜一は、納得できないという顔だ。

「悪意しかないだろう。あれは完全に、俺たちを脅かしてるぞ。水を使って追い払ってる。部屋に入って欲しくないんじゃないか?」

「……話を聞かんと、まだ分からへん」

「話って? 幽霊にか?」

「うん」

 残念ながら、今のところ幽霊は出現していない。どこに隠れているのか。会いたくはないが、お目にかからないと問題が解決しない。少なくとも灼は、視ることしかできないのだ。

 夜一のように気配を感じ取ることができない。だから、出現してもらわないと役に立たない。

 重い足取りで、再び青倉の部屋の前に立った。

 部屋の外からは、水を確認できなかった。そっと中に入る。水浸しだったはずの洗面所の床は、不思議なことに乾いていた。

 茶色い水が逆流していた洗面台の排水口も、浴室の排水溝も、その痕跡は綺麗さっぱり消えている。リビングの壁にあったシミも消失していた。

 灼たちが初めてこの部屋に入ったとき、壁は綺麗だった。考えてみれば、おかしな話だ。

「青倉も『部屋の壁にシミが浮かんでくる』と、言ってたよな?」

「……うん」

「でも、俺たちが最初に見たときも、そして今だって、壁にはひとつもシミがない」

 これは、間違いなく怪奇現象だ。

「……逆のような、気がするねん」

 夜一が、ぽつりと言った。

「逆?」

「追い払いたいんじゃなくて。ここに、おって欲しいような感じがする。気づいて欲しいって、言ってるような気がする」

「でも、お前……。気配を感じて青くなってたじゃねぇか」

「それは『後悔』の念が強すぎて、気持ち悪くなっただけやねん」

「なんだよ、それ……」

 とにかく、この部屋に憑いているモノは悪くない。それが夜一の言い分らしい。

 その日はホテルに宿泊して、翌日は早朝から八家不動産を訪ねることになった。情報収集のためだ。不動産の看板を掲げてはいるものの、八家不動産はオカルト的な事象を取り扱う情報屋なのだ。

 灼がまだ東京に住んでいた時分に世話になった。今回の物件があるのは横浜だが、地域性については特に問題ないらしい。関東近郊のオカルト物件は、ほとんど網羅しているという。

 古い町並みが残る下町の一角に、八家不動産はあった。時代を感じるレトロな平屋建て。いかにも個人経営といった感じだった。モノクロの物件チラシが、入口に置かれたスタンド看板に貼り付けてある。

 扉を開けると、カラン、とドアベルが鳴った。

「いらっしゃい」

 店の奥から、グレイヘアの男性が姿を現した。写真では見たことがある。

 八家征太郎やかせいたろうだ。

「あ、八家さんーー!」 

「夜一くんか」

 八家が目を細めて笑う。

「朝早くからすみません。ちょっとお話を伺いたくて。お邪魔させてもらいました!」

「相変わらず、夜一くんのところは商売繁盛みたいだなぁ」

 八家は絶えず笑みを浮かべているのだが、なんとなく表情にアンバランスさを感じた。たぶん、眉間に皺が刻まれているからだろう。柔和な笑みと眉間の深い皺。それが不釣り合いというか、相容れないと思わせるのだ。

 実物のほうが胡散臭せぇ……と思ったが、それを悟られないように、灼はぺこりと頭を下げた。

「あぁ、君が『灼くん』か」

「はい」

 おそらく、灼のことは夜一から聞いているのだろう。

「ホテルで寝たきりだったみたいだね」

「……はい?」

「ちょっと幽霊と接触しただけで腰砕けになって、ベッドから起き上がれなくなったとか」

 忌み地の元凶になった怨念。分離したモノに影響を受けて、たしかにあのとき灼は、八家が指摘した通りの状態だった。

 灼は、隣にいる夜一を無言で睨んだ。視線で殺すくらいの念を込めて。コイツが八家に吹き込みやがったのだ。

 ぐぎぎぎ、と奥歯を噛み締めていたら、八家が「今は助手なんだってね」とにこやかに言った。笑っているのに笑っていない感じがする。さっきとは違う意味で。

 このジジイ、さては嫌なヤツだな……!

 灼は確信した。血管がブチ切れる寸前だ。「そんな奴に助手が務まるのか?」と疑いの目で見られている気がする。苛立ちがMAXで、体中の血が沸騰しそうだった。

「八家さん、それは違いますよぉ~~!」

 夜一が呑気に否定する。

「違うのかい?」

「助手は助手なんですけど。それは名目上というか、カタチだけっていうか。ほんまは、パートナーなんです~~!」

 のほほんとした夜一が、持論を展開する。

 八家は笑顔のまま、コーヒーミルを棚から取り出した。豆の袋を開け、計量を開始する。夜一の話が長くなることを察したのだろう。さすがは付き合いが古いだけのことはある。

「八家さんもご存知の通り、おれは気配を感じ取れるし、対話することもできる。でも、残念ながら視えへんのです。灼くんは、その逆で。気配は感じひんし、声も聞こえへんけど、視えるんです! もうバッチリ! めっちゃすごくないですか? お互いの足りない部分を補っているというか、凸凹コンビっていうか~~!」

「凸凹コンビねぇ……」

 満面の笑みで語る夜一に毒気を抜かれたのか、八家の表情が苦笑いにかわる。

 灼はそれを見て、多少は溜飲を下げた。

 ひと通り「パートナー論」を披露した後、夜一はシェアハウスの件にも言及した。青倉が住むことになった、例の部屋。このジジイが情報を持っているのか、灼はまるで期待していなかったのだけれども……。

「あぁ、あのシェアハウスねぇ」

 うなずきながら、八家が豆を挽き始めた。

「もしかして八家さん、なにか知ってるんですか?」

 夜一が、前のめりで八家に問う。

「その依頼人が住んでるというのは、一階の角部屋だろう」

 ピタリと言い当てられて、灼は思わず息を飲んだ。夜一も驚いたのだろう。大きく目を見開いている。

「そ、そうです……!」

「あそこは人気の物件でねぇ、募集開始と同時に、あっという間に借り手が見つかったんだよ」

「でも、依頼人は不動産の営業から、かなり強引にその部屋をすすめられたと言っていました」

 豆を挽く八家の手が、ピタリと止まった。

「……まぁ、その不動産屋も仕事だからねぇ。本来は、すすめてはいけない部屋なんだけど」 

 一階の角部屋。その部屋だけ、入れ替わりが激しいというのだ。入居しても、すぐに住人が退去してしまうらしい。

「部屋干しをしても服が乾かなかったり、朝カーテンを開けると水滴が窓にびっしりと付着していたり。初めは、そういう現象らしいよ。まぁ、それだけだと特におかしいとは思わないようだね。最近は、加湿器を可動している場合も多いから。それが原因だと考えるんだろう」

 再び、ガリガリと豆を挽く。

「次は、壁にシミが滲む。床が水で不自然に濡れている。異音もする。この辺りから、少しずつ住人は不気味に思うようになる。天井から水滴が落ちてきて、我慢できずに管理会社に苦情を訴える。しかし、上階は物置になっていて水漏れすることはあり得ない」

 昨日、灼と夜一が体験したのと同じ事象だ。

「管理会社からの返答に、納得がいくはずもないだろう。たいていの住人は、この時点で退去を決めるそうだ。それでも『仕事が忙しい』とか『引っ越し費用が足りない』とか、他にも諸々ね。とにかく、なんらかの理由でその部屋に居続けると……」

「ど、どうなるんですか……?」

 ごくりと息を飲みながら、夜一が問う。

「部屋中のあちこちから、一気に水が噴出して。溺れるんだそうだよ」

 八家の言葉を聞いた瞬間、灼は後輩の顔が頭に浮かんだ。本当に、青倉が無事で良かったと胸を撫でおろす。

「お、溺れたひとは、どうなったんですか……?」

 夜一が、遠慮がちに訊いた。

「幸いにも、まだ死人は出てないみたいだけどね」

 八家の「まだ」という言葉に身震いがした。

「水が噴き出して、溺れる。息ができない。いつの間にか意識を失っている。そして、次に目が覚めたとき。どこにも水の痕跡は残っていないそうだ」

 そう言って、八家がマグカップをふたつテーブルに置いた。「どうぞ」とすすめられ、灼と夜一はそれを手に取る。

「そういえば、行方不明になっている住人がひとりだけいるそうだよ」

「行方不明……。何年くらい前ですか?」

 マグカップを両手で持ちながら、夜一が八家に質問する。

「たしか六年、いや七年くらい前だったかなぁ。最初の住人だよ」

 大手商社に勤務する女性だったらしい。年齢は二十代後半。ある日、忽然と部屋から姿を消したというのだ。

 なんとなく、灼はその人物のことが気になった。行方不明。あの部屋の、最初の住人。

 手の中のマグカップから、ゆらりと湯気が揺れる。そっと口を付けた。淹れたてのコーヒーには、深い苦みがあった。

「おれはな~~、最初の住人が怪しいと思うねんなぁ」

 八家不動産を後にして、駅に向かう途中。夜一は「怪しい」と繰り返した。

「まぁ、俺もそう思うけどな」

 灼も同意見だ。

「もしかしたら『呪詛師じゅそし』かもな……!?」

 夜一は、ハッとしたような顔になった。

「なんだよそれ」

「自分の欲望の赴くままに《呪い》の力を使う奴らのことやで」

「……へぇ」

「その《呪い》でな、商売をしとる不届き者もおるんや……! 許せん奴らやで!!」

 夜一が語気を強める。

「……ふぅん」

 現実味がなさ過ぎて、相槌が適当になってしまった。本当にそんなことが有り得るのだろうか。

「誰かに頼まれて《呪い》をかけたんとちゃうかな? すぐに住人が出ていくように仕向けて。あのシェアハウスの運営を妨害しようとしてる……? ということは、ライバル会社が怪しいな!」

 夜一は、完全に「閃いた!」という顔をしている。

 謎推理を聞かされた灼は、ガクッと力が抜けた。

「妨害したいなら、全室に《呪い》を仕掛けるんじゃないか? なんで、一階の角部屋だけなんだよ」

「そ、それは……。えっとぉ、その……」

 閃き顔から一転して、夜一はしどろもどろになった。

 横浜に戻ると、ホテルではなくシェアハウスのほうに直行した。もう一度、状況を確認しようということになったのだ。なにか見落としている点があるかもしれない。

 最寄り駅に着き、改札を出ようとしたところで灼は足を止めた。構内の掲示板に、行方不明者の情報提供を募るチラシがあった。

 顔写真付きで、氏名、性別、身体的特徴も細かく記載されている。

「灼くん? なに見てるん……?」

 掲示物を凝視する灼の背後から、夜一が覗き込んでくる。

「この行方不明者、女だな」

「え? あ、ほんまや!」

 夜一は驚いたように声を上げ、チラシを確認する。

 失踪したのは、今から六年ほど前のようだ。行方不明当時の年齢は、二十八歳。シェアハウスで暮らしていたことが書かれていた。

 おそらく、間違いないだろう。

「このひとが、最初の住人や……!」

 夜一がチラシを指さす。

 灼は、顔写真をじっと眺めた。色白で、長い黒い髪。前髪は綺麗に切り揃えられている。顔立ちは、これといって特徴はなかった。それぞれのパーツが小さく、印象に残らない。地味といえば地味だが、粗がないので美人とも捉えられる。そんな顔だった。

濡れた幽霊
 チラシに記載されている連絡先を控えてから、灼は夜一と共にシェアハウスに向かった。

 物件に到着して、改めて外観を眺める。綺麗だし、おしゃれだ。この中に、いわくつきの部屋があるなんて誰も考えないだろう。

 玄関を開けると、しんと静まり返っていた。平日の午前。住人たちは皆、出勤した後のようだった。

 部屋に入った途端、夜一の顔色が悪くなったのが分かった。気配を感じたのだろう。また、不可思議な現象に遭遇するのかと気が重くなる。八家から聞いた「溺れる」というワードが頭をよぎった。

 慎重に部屋の中に足を踏み入れたが、水が噴出するどころか、水滴のひとつも見当たらない。

 良かった、と胸を撫でおろしたとき。

 ふいに首元に違和感を覚えた。馴染みのある感覚だ。寧々がなにか、伝えようとしている。

「……どうした?」

 灼の口調で、夜一も勘付いたらしい。

「寧々ちゃん?」

 真っ青な顔をしながら、灼のそばに寄ってくる。

「え……」

 ビクッと夜一の体が硬直した。しばらくして、小刻みに震えだす。

「部屋の中に、おるんやって」

 幽霊が、いる。

「……マジかよ」

 灼は、周囲をぐるりと見回した。リビング、寝室、トイレ。洗面所と浴室も確認したが、見当たらない。玄関にもいなかった。寝室のクローゼット、カーテンの後ろ、バルコニー。部屋中を探したが、どこにもいなかった。

 そういえば、まだキッチンを確認していない。

 このシェアハウスは、キッチンに垂れ壁を採用している。煙が室内に広がらないよう、防煙壁として設けているのだ。デザインも凝っており、丸みのあるアーチ型はナチュラルで柔らかい印象を与えている。

 垂れ壁があるため、キッチンとリビングは空間が区切られたようになっていた。

 そのキッチンを特に期待せず、灼は覗いたのだが……。

「……うわっ」

 思わず、灼は後ずさった。

 区切られたような空間の中、まるで隠れるようにして立っていた。女の幽霊だった。

 青白い顔の女が、たしかにそこに存在していた。

「灼くん、どうしたん?」

 灼の声を聞いた夜一が、慌てて駆け寄ってくる。

「お、おるん……?」

 夜一の問いに、灼は静かにうなずいた。

「どんな顔か、分かる……?」

「あぁ」

 これといって特徴のない顔だ。

 それぞれのパーツが小さく、印象に残らない。地味といえば地味で、けれど粗もない。間違いなく、さっき駅で見たチラシの顔と同じだった。

「じゃあ、やっぱり。このひとが……」

「間違いねぇな」

 このシェアハウスの最初の住人。行方不明だと思われていた人物。

 谷上結花たにがみゆいかだ。

 チラシに記載されていた連絡先に、連絡したほうが良いのだろうか。でも、なんと言えば良い? 

 お宅のお嬢さんはすでに死亡しています。幽霊になって、シェアハウスのキッチンにいます。

 そんなことを伝えたって、いたずらだと判断されるに決まっている。無駄に家族を傷つけるだけだ。

 灼は、改めて女を見た。

 そうして、違和感に気づいた。

「濡れてる……」

 白いワンピースを着用しているのだが、その裾から水が滴っていた。髪もぐっしょりだった。

 視えない夜一のために詳細を伝えると、納得したようにうなずいた。

「やっぱり、水に関係してるんやな……。もしかして部屋の中で、溺れて亡くなったんやろうか」

「そうだとしたら、発見されてるはずだろ? 行方不明扱いにされる理由がない」

「理由ならあるよ。たとえば、事故物件にしたくなかったとか。価値が下がるやん? それで管理会社か、この物件の持ち主が遺体を隠したとか……」

「まぁ、価値を下げたくない気持ちは分かるけどな。でも、死体遺棄になるんだぞ。犯罪をおかしてまですることか?」 

 夜一と議論していたら、再び灼の首元に違和感があった。無意識に首に手をやる。

「寧々ちゃん……?」

 夜一も反応した。

「なんて言ってるんだ?」

 灼が問うと、夜一は「それがなぁ」と言いながら、首をかしげた。

「手を見て欲しいんやって」

「……手?」

「ある方向を指さしてるって、寧々ちゃんが言うねん」

 なにかを伝えようとしているらしい。

 灼は、ぼんやりと立っている幽霊を見た。その、指先。

 たしかに、右手で指さしていた。ほとんど真下を示している。そこにあるのは、床下収納だった。

「ここを開けろってことか……」

 灼は、おそるおそる床下収納の蓋を外した。中にはプラスチック製のカゴがはめ込まれていた。何かを収納していたような形跡はなく、カゴの底の部分にはホコリが溜まっている。

「特に、おかしいところはないなぁ」

 夜一がフローリングの床に這いつくばり、腕を伸ばして確認している。重い物を入れるのには適していないらしい。

「安物って感じがするねん。人間が入ったら底が抜けそうやで……」

「……ということは、ここに遺体が隠されていた可能性は低いのか」

 床下収納と濡れた幽霊のイメージが重ならない。

「あ、なんか。これ簡単に外れそうかも」

 夜一がそう言ったのと同時に、かぽっと音を立ててカゴが外れた。

「そういえば、シロアリ駆除するときって、ここから床下に入ることが多いねんよな……」

 外したカゴを灼に渡してから、夜一は引き続き床下の点検を試みる。

 スマートフォンの灯りでは限度があるのだろう。「よく見えへんなぁ」と夜一がぼやく。

「中に入ってみようか!」

「うぇ……」

 マジで無理すぎる。暗いところは苦手だ。明るい声で提案する夜一に首を振って抵抗したものの、灼に拒否権はない。それどころか、率先して床下に入ることになってしまった。雇われの身は辛い。

「いや、本当に普通の床下だから。怪しいところは無し。以上」

 一刻も早く部屋に戻りたくて、灼は適当に報告をした。灼に続いて床下に降りてきた夜一は「え? 異常あり?」と焦った様子で言っている。

「いや、そっちの『イジョウ』じゃないから」

 脱力しながら、スマートフォンの灯りをある方向に向けた瞬間。

 思わず息を飲んだ。

「……やっぱ、そっちだったわ」

 呆然としながら、灼はつぶやいた。

「え、なんて?」

「異常ありだ」

 目の前に、井戸があった。

 その存在に気づいた夜一は、思わず頭を抱えた。

「うわーー、井戸か。これは難儀やなぁ」

 井戸というのは、扱いが難しいようだ。解体する際は、特に。

「適切に処理をしないとあかんねん。埋め立てによる土壌汚染が発生して、それが地下水に浸透する可能性もあるねんで」

 地下水の水質が悪化すると、飲み水としての利用が困難になる恐れがあるという。

「一度、井戸が作られた場所は地盤沈下が発生しやすいねん。それを予防する目的として、やり方があるねんけど……。あ、これは何にも処理をしてなさそうやな」

「ずいぶん詳しいな」

 夜一の説明を聞きながら、灼は感心した。

「だって、井戸を埋めるときはお祓いするやん?」

「そうなのか?」

「もう、灼くん! そんなん常識やでーー!」

 神社の神主に依頼するなどして、対象となる井戸がある敷地で行うことが慣例らしい。

「もともと井戸は信仰の対象というか、神様が宿る場所と考えられてきたんやで。水は人間が生きていくうえで欠かせないものやから。だから、井戸を解体するときは慎重にせなあかんねん」

 まれに、夜一が呼ばれることもあるというのだ。

「ちょっといわくがあるときとか、神主さんの手には負えへんときとか。おれが呼ばれるねん」

「……でも、ここは井戸がそのままだよな」

 どういう儀式を行うのか、灼は知らない。けれど目の前にある井戸は、どう見てもそのまま放置されているとしか思えない状態だった。

「だから、あかんねん……!」

 再び、夜一が頭を抱える。

 井戸をそのまま放置するのは、よほどマズいことなのだな、と灼は夜一を見て思った。

「その、お祓いするやつ。金がかかるんだろ? ケチったんじゃねぇ?」

 灼のように、事の重大さをよく理解していない人間が、適切に処理をしなかった可能性がある。

 そんなことを考えながら、灼は井戸の中を覗いた。スマートフォンの灯りで照らしながら。

「……ん?」

 井戸の奥……というか底に、なにかがあった。

 目を凝らして、覗き込む。

「おい、うそだろ……」

 スマートフォンの灯りだけでは、全貌は確認できない。でも、たしかに白いものが見える。見覚えがあるのだ。あれは……。

「あの女が着ていた、ワンピースだ」

「そ、そんな……」

 隣にいる夜一の声が、震えている。

 濡れていた幽霊。彼女が指さしていた場所。それは、この井戸だった。おそらく、自分の居場所を誰かに伝えたかったのだろう。自分はここにいる、そう訴えていたのだ。

 あの不可思議な現象の数々は、「気づいて欲しい」という彼女の願いに違いなかった。

「……ということは不慮の事故か、殺人か」

 灼のつぶやきに、夜一も同意した。

「残念やけど、そのどちらかやろうな……」

 自殺であれば、遺書を残す可能性が高い。しかし、行方不明扱いされていることから、遺書はなかったと推察できる。

 わざわざ、こんな井戸を死に場所に選ぶ理由も考えられない。その一方で、遺体を隠すには、うってつけの場所だ。その点から考えれば、殺人の可能性が高いのではないか……。

 いずれにしても、無念だったろう。そんな風に考えていたとき。

 ふいに、目の前に女が現れた。

 じっと灼を見つめている。少しずつ、距離が近くなる。

 息苦しい、と思った。同時に体が冷えていくのが分かる。全身が濡れているような、奇妙な錯覚に陥った。水中にいるような感覚だ。あがいても、苦しくなるばかりだった。

 ……自分は、溺れているのだろうか。

 かすかに、夜一の声がする。「灼くん」と呼ばれている気がする。いや、勘違いかもしれない。耳を澄ましても、夜一の声はもう聞こえない。

 気が付くと、ベッドの上にいた。いつもの部屋の、見慣れた天井だった。このシェアハウスに住んで、どれくらい経っただろう。

 ここに住み始めた頃、毎日が夢のようだった。やっと自由になれたと思った。新築のおしゃれな外観が気に入って、自分は入居を決めた。実家を出るのが夢だった。

 子供の頃から、両親の過干渉に悩んでいた。息苦しくて、煩わしくて。ずっと不自由な日々を送っていた。

 就職してしばらく経った頃、ほとんど家出に近い形でこのシェアハウスに入居した。それからは毎日が充実していた。夜更かしをしたり、お酒を飲んで深夜に帰宅したり。楽しかった。やっと自分の人生が始まったと思った。

 けれど、少しずつ体調が悪化していった。

 病院で検査したときには、もう手遅れだった。若い分、進行が早いのだと説明された。そのとき、頭に浮かんだのは両親のことだった。

 あれだけ逃げたいと思っていたのに。家を出て、後悔なんてしていなかったのに。最後に考えるのは、両親のことだけだった。

 自分は、両親が高齢になってやっとできた子どもだった。

 たぶん、愛されすぎたのだ。自分だって、決して愛していなかったわけじゃない。ただ、重すぎて受け止めることができなかった。

 ……どうすれば、悲しませずに済むだろう。

 最近、そのことばかり考える。

 仕事のことはひと段落がついた。退職の意思を伝え、引継ぎはほぼ終わっている。このシェアハウスは退去するつもりだ。片づけも済んで、隅々まで綺麗にしているところだった。

 ある考えが浮かんだのは、掃除をしている最中のこと。思いがけず、床下収納のカゴが外れたときだった。床下で、古い井戸を見つけたのだ。

 ここだ、と思った。ここなら誰にも発見されずに済む。

 どこかで生きている、と思えたら。そのほうがきっと、両親は救われる。

 両親の愛し方は、尋常ではなかった。常軌を逸しているとさえ思った。それなのに。

 自分だって、両親のことはいえない。

 普通なら、こんな死に方は選ばない。

 ……私、やっぱり。お父さんとお母さんの子どもだったね。

 今になって、そんな当たり前のことが嬉しかった。ワンピースを着用したのは、白い服がそれしかなかったから。確実に逝けるように、頭から井戸に落下した。すべてが、自分の計画通り。そう思っていた。

目覚める
 予想通り、成人女性の失踪が事件化されることはなかった。

 部屋を片付けていたこと、退社の意向を伝えていたこと。その事実から、自分の意志で姿を消したのだろうと判断されたのだ。

 自分の計画通りに事が運んで、良い気分だった。胸を撫でおろした。これが、安寧というのだろうか。そんなことを考えていた。

 しかし、両親は違った。

 毎日のように娘である自分を探していた。勤務先の社屋の近く、シェアハウスの近辺、最寄り駅付近。チラシを作って配り、SNSでも情報提供を求めていた。

 ……ちゃんと、送ったのに。

 覚悟を決めて、白いワンピースに袖を通したとき。メッセージを送信した。

 父親には『わたしは大丈夫です』と。そして母親には『どこかで生きています』と送った。

 言いたいことはたくさんあったのに、それしか送れなかった。自分らしいと思った。いつも伝えるのが下手なのだ。

 げっそりと痩せ、疲弊し、それでも両親は自分を探すことを止めなかった。

 雨が降っても。何も手がかりが見つからなくても。SNS上で心無い声をぶつけられても。決してやめなかった。

 自分の判断は、間違っていたのだろうか。

 お父さん、お母さん。わたし、ここにいるよ……。

 目が覚めると、白い部屋にいた。白い天井、白いカーテン。どうやら、ベッドの上に寝かされているらしい。知らない場所なのに、妙な既視感があった。あの、夏の日に戻ったのかと思った。職場で意識を失って、病院に運ばれた。気が付くと、傍らに青倉がいて……。

「あ、起きました?」

 ベッド脇のパイプ椅子に腰かけていた青倉が、立ち上がった。「大丈夫ですか?」と言いながら、心配そうにこちらをのぞき込んでくる。

「お前、青倉か……?」

「ちょっと。なに言ってるんですか、灼さん」

 青倉が、呆れたように灼を見る。だって本当に、あのときと状況が一致すぎているのだ。軽くパニックになりながら、灼はベッドから身を起こした。

「もしかして、頭でも打ったんですか? 検査してもらえますよ。ここ、病院だし」

「病院……」

 どうりで既視感があるわけだ。そう、思っていると。

 遠くのほうから、パタパタと足音が聞こえた。そして、シャッと勢いよくカーテンが開かれる。

「灼くん……!」

 チャイナシャツを着た美貌の青年が、涙目で駆け寄ってくる。着衣も派手だが、顔面も派手。今や、すっかり見慣れた相棒の顔だ。

「心配したんやで! 灼くん、急に倒れるんやもん……!」

 ベッドにすがりつきながら、「無事で良かったぁ」と半泣きになる。大袈裟なヤツだな、と思ったが、どうやら灼は丸一日ほど意識が戻らなかったらしい。

 ぐずぐずと洟をすすりながら、夜一が事のあらましを説明する。あのシェアハウスの床下で、灼は意識を失ったようだ。いくら呼び掛けても反応はなく、救急車で搬送されたらしい。

 結果的に、井戸の存在も露見することになった。

 救急車や警察車両が到着して、シェアハウスは大騒ぎになったという。

「いきなり警察から連絡が来て。俺、マジでびっくりしましたよ。『あなたが契約している部屋の床下から遺体が見つかりました』とか言われて。そのすぐあとに、夜一さんから『灼くんが倒れて反応がない』って聞かされるし。かなり焦った様子だったから、もしかして灼さんが死んだのかと思いましたもん」

 けろっとしながら、青倉が言う。簡単に殺さないで欲しい。

「夜一」

「うん?」

「……彼女の、遺体は?」

「収容されたよ……」

 赤くなった目元をこすりながら、夜一が答える。

「そうか……」

「とりあえず、灼さんと夜一さんは、友人……俺ですけど。その友人の部屋で、行き過ぎた探検をしていたという設定になっています。それで井戸を見つけて、覗いたら遺体らしきものがあって。灼さんは、ビビッて気を失った設定です」

 警察で、青倉はそう証言したらしい。

「ダセぇ……」

 あまりにダサすぎて、それこそ気を失うかと思った。

「いや、そもそも探検って……。大人だぞ、俺たち。そんな話を警察が信じたのか?」

 幽霊調査のために部屋にいた、というよりは、よほどマシな弁明だけれども。

「たぶん、大丈夫ですよ。ちょっと変わったひとたちなんですって説明したら、警察官も納得していました。おそらく夜一さんの、そのチャイナシャツが良かったんじゃないですかね。なかなか普段着にはしないですから」

「おれ……?」

 きょとん、とした顔で、夜一が青倉の顔を見ている。

 ロングヘアで、ド派手なチャイナシャツを纏った男。たしかに、考えてみれば『ちょっと変わったひと』だ。同じ括りにされたことは、不満だが。

「寧々ちゃんも、心配してたんやで……!」

 洟をズルズルとかみながら、夜一が訴える。

「……悪い」

 灼は小声で、寧々に謝罪した。

「仲良くなれて良かったですね、灼さん。東京にいた頃は、女の子の幽霊にビビりまくってましたよね。マジで泣きそうだったじゃないですかーー!」 

 へらへらと青倉が笑う。

「いや、泣きそうになってねぇし……」

「そう、今やすっかり打ち解けて。灼くんは、幼女に好かれやすい体質みたいやねん。な、灼くん?」

「……変な風に言うなよ」

 夜一を見ながら、灼は思わず脱力した。

「俺が意識を失ったのは……。たぶん、憑かれてたからだ」

 ずいぶんリアルな夢だった。彼女の意識が、流れ込んできたのだろう。

 夜一と青倉は、神妙な顔つきで灼の話に耳を傾けている。

「白いワンピースは、死装束のつもりやったんか……」

 夜一が、うなずきながら静かに言った。

「部屋の住人に、自分を発見してもらいたかったんですね」

「そうだ。でも、見つかりにくい場所を選んだものだから、仇になったんだ」

「彼女がしたことって、どうだったんですかね。良かったのか、悪かったのか。まぁ、余命宣告なんてされたこと、俺はありませんから。安易には言えませんけど……」

 言葉を選びながら、青倉が話す。

「少なくとも、あのシェアハウスを事故物件にしたことは確かだからな。価値が下がったわけで……。損害を被った側は、嘆いているんじゃないか?」

「いや! ある意味、自業自得やで!」

 灼と青倉の会話に、夜一が割って入る。

「土地の持ち主が、あのシェアハウスのオーナーやねんけど。井戸の存在は知ってたらしいねん! そのオーナーが、工事のときに『井戸はそのままで』って、業者に指示したらしいねんで!」

 当時の工事関係者から、八家不動産が情報を仕入れたらしい。さすがは情報屋だ。仕事が早い。

「解体にかかる費用を抑えたかったみたいやで。儀式やらお祓いやら、そういうことにお金を使いたくなかったらしい。軽く考えとったんかもしれへんな。当時、オーナーは土地を相続したばっかりの若年者やったらしいから」

「……もしかしたら、解体費用を抑えた分、建築費に回したのかもな。やたら上物は立派だったから」

「まったく! お祓いを軽く考えすぎやで!」 

 夜一がぷりぷりと憤慨している。

「そういえば、あの幽霊……」

 灼は、辺りをきょろきょろと見回した。

 どこにもいない。夜一に確認したが、気配を感じることができないという。

「……おれも、そのことが気になっててん」

「まさか、もう現世にはいないのか!?」

「ずっと『見つけてほしい』って、思ってたんやとしたら……」

 彼女は、思いを遂げたことになる。

 体中の力が抜けて、灼はベッドに突っ伏した。自分の居場所を指さしていた、彼女の姿が頭をよぎる。

 感情が強く揺さぶられる。今になって、気づいた。

 受け止めきれなかった愛情。余命宣告。自死に至るまでの心情。流れ込んできた彼女の意識が、灼の中にはまだ熾火のように残っていた。

 数日が経ち、シェアハウスは少しずつ落ち着きを取り戻しつつあった。それでも、青倉はホテル暮らしを継続している。さすがにあの部屋には、戻る気になれないようだ。夜一から八家不動産を紹介してもらい、安全な部屋への引っ越しを検討している。

 意識を取り戻してから間もなく、灼は退院した。現在は夜一と共にビジネスホテル暮らしだ。神戸に戻っていないのは、夜一の祓い師としての業務が残っているからだった。

 今日、その儀式を行う予定になっている。

「はぁーー、ソースが恋しい。そばめしが食べたいなぁ。老祥記の豚まんを口いっぱいに詰め込んで……」

 ホテルからシェアハウスへ向かう道中、夜一が独り言を繰り返す。さすがに、神戸が恋しいのだろう。正しくは、神戸の「味」のほうかもしれないけれど。

「神戸ビーフにかぶりついて、天福茗茶てんふくめいちゃのタピオカミルクティーをがぶ飲みして~~!」

 早朝だというのに、凄まじい食欲だ。というか、ついさっきホテルの朝食バイキングでたらふく食べていた気がするのだが……。

 ちなみに天福茗茶というのは、南京町にある中国茶専門店だ。一階では中国茶や茶器が販売されており、二階はカフェになっている。様々な種類の中国茶をはじめ、杏仁豆腐などの自家製スイーツがいただける。

 店先にはタピオカミルクティーやデザートを販売するテイクアウトコーナーがあり、夜一はタピオカミルクティーがお気に入りなのだ。灼はこれまで、何度も買いに行かされている。

「……もう少しの我慢だろ。祓いの儀式が終わったら、神戸に帰れるんだから」

 そばめしでも、豚まんでも、神戸ビーフでも、好きなだけ食べれば良い。

「そうやな! ごちそうが待ってると思ったら、なんかやる気が出てきたで……!」

 トボトボ歩いていた夜一が、急に歩くスピードを上げた。なんという単純なヤツだろう。灼は思わず苦笑いした。

 青倉の部屋に到着すると、夜一はさっそく儀式を始めた。

 陶器に入った砂が、複雑な紋様を作る。綫香の火が香粉に移ると、なんともいえない匂いが辺りに立ち込めた。夜一が静かに念を唱える。

 やはり、儀式を行うときの夜一は特別だと思う。魅入ってしまうというか。ついさっき、驚異的な食欲を見せていた人物と同じなんて、到底思えない。

 結局、彼女……谷上結花は、自殺だと断定されたようだ。遺体は無事、両親の元に戻されたと聞いている。
 
 彼女の願いは叶った。だから幽世へ旅立ったのだ。それなのに、灼の気持ちは晴れない。なぜなのか、自分でもよく分からない。若くして亡くなったからだろうか。彼女の意識に触れたせいだろうか。どちらにせよ、もうどうすることもできない。

 ただ「安らかに」と、祈ることしか灼にはできないのだ。

 一通りの儀式を終えてから、灼は夜一と共に部屋を後にした。

 シェアハウスの敷地から出たところで、老夫婦とすれ違った。反射的に「あ」と声が漏れた。彼女の両親だと、すぐに分かった。間違えようがない。彼女の意識と重なり合ったとき、たしかに視えていたから。

 老夫婦は、一階の角部屋に向かって手を合わせている。

 気づいたら、灼は声を掛けていた。

 自分たちが第一発見者だと名乗ると、二人は肩を震わせた。

 堪えきれなくなったのだろう。彼女……谷上結花の母親は、両手で顔を覆った。隣にいる父親が、寄り添うように体を支える。

「娘のことを見つけてくださって、ありがとうございます……」

 母親が、嗚咽まじりの声で言った。

「僕も妻も、まだ……受け止めきれていないんです」

 父親の声も震えている。

「……あの子が、病気だったことも知らなくて。不甲斐ない親です、僕たちは」 

「余命宣告までされて、怖かったと思うんです。不安だったろうに。それでも、私たちには言ってくれなかった。とても大事で、慈しんで、愛してきたつもりだったけれど。でも、きっと間違っていたんでしょうね。苦しめていたんだと思います。家を出てから、連絡もほとんどなくて。最後まで、私たちには何も言ってくれなかった」

 涙に暮れる両親を見て、灼は「届いていないんですか」と訊いた。

「彼女からの最後のメッセージ。たった一言だけど、貴方たちに送信したはずです」

 父親には『わたしは大丈夫です』、母親には『どこかで生きています』。自分の気持ちを伝えるのが下手な彼女なりの、精一杯の言葉だった。

「愛し方とか、伝え方は、ひとそれぞれなんやと思いますよ」

 隣にいる夜一が、穏やかな声で言った。 

「愛しとったから、悲しませたくなかったから、お嬢さんはそうしたんやと思います。そうでないと、あんな真っ暗で……。さみしいところで、死んだりなんかしません」

 静かに、けれど強く夜一は言い切った。彼の言葉通りだ。愛していたこと。視えた者として、灼はそのことを二人に伝えたかったのだ。

 彼女の両親が、少しでも救われたら良いと思う。いつか、穏やかな気持ちで手を合わせることができたら……。

 彼女もきっと、そう願っているに違いない。

 灼の中に、かすかに残っていたはずの谷上結花の意識は、もうどこにも存在しなかった。ようやく、灼は自分の気持ちに折り合いをつけることができた。

 神戸へ帰る日。青倉は、駅まで見送りにやって来た。

「午前休を取ってやりましたよ」

 青倉は、ちょっと誇らしげだ。

 週末なので、たとえ半休でも取得は難しかっただろうと推測する。なにしろブラックな社風なので。脱社畜への第一歩かもしれないと、灼は安堵した。

「ところで、夜一さんは……?」

 青倉が、きょろきょろと周囲を見回す。

「コンビニに行ってる」

 菓子類や酒のつまみを大量に仕入れているのだ。

「夜一の持論だと、新幹線の車内で食うと美味さが倍増するらしい」

 どこで食べても同じだと灼は思うのだが。

「なんか、遠足みたいっすね」

 青倉が苦笑いしている。

 しばらくすると、両手にレジ袋を提げた夜一が駆けてきた。

「いっぱい買ったで~~!」

 満面の笑みだった。

 青倉を見つけた夜一は、「ちょうど良かった!」と声を弾ませる。

「渡したいものがあってん」

 そう言って、レジ袋を灼に押し付ける。

「これ!」

 ボディバックから夜一が取り出したのは、御守りだった。灼が真心を込めて制作したものだ。

「青倉さんは、家系的に引き寄せやすいねん」

「え、そうなんですか? もしかして、あのシェアハウスに住むことになったのも……?」

 青倉が心配そうな顔で、夜一と御守りを交互に見る。

 そういえば、青倉の親戚が夜一の世話になり、そこからの付き合いだったことを思い出した。

「次に住むところは、八家不動産の紹介やから問題はないけど。それでも職場とか、外出先とか、色々と心配やから。この御守りを肌身離さず持ってて欲しいねん」

「分かりました」

 青倉が、神妙な顔でうなずく。

「灼くんのお手製やで」

 にひひ、と夜一が笑う。

「これが? へぇーー! 灼さんって、器用なんですね」

 青倉が感心したように、裏と表を何度もひっくり返して見ている。

「うるせぇ」

 バカにされている気がしないでもない。押し付けられたレジ袋を夜一に渡しながら、灼は舌打ちをした。

 しかし冷静に考えてみると、御守りが初めてしかるべき人間の手に渡ったことになる。これまでは「気のせい」な人々の気休め程度にしかなっていなかった。まぁ、気休めになるなら、それはそれで良いのかもしれないが。

 改札で青倉と別れ、灼は夜一と共に帰路についた。

 新幹線の車内で、夜一はスナック菓子を爆食いしている。ほとんど下戸で酒は飲まないのに、つまみ類が好物なのだ。窓側の席に座り、ご機嫌でスルメイカをしゃぶっていた。

「早く神戸に帰って、南京町で食べ歩きしたいな~~!」

 食べながら食べ物の話をするのは、さすがに食い意地が張りすぎていると灼は思う。

「いや、それよりも神戸ビーフかな! 仕事を頑張って、カロリーを消費したから。その分を肉で補給せなあかんなーー!」

 にこにこしながら、夜一はスマートフォンを取り出した。スケジュールを開いて、さっそく予定に組み込んでいる。神戸に着いたら、その足でお気に入りの洋食店へ赴き、特製カツサンドをテイクアウトする段取りらしい。

「それは、わざわざ予定に入れることなのか……?」

 どう考えても、忘れる可能性はないだろう。

「もう、灼くんは分かってへんな~~! たとえ数時間でも、予定を見ながら『楽しみやなぁ』っていう気分に浸るのが最高やねんで!」

 スルメをしゃぶりつつ、夜一はスマートフォンを眺めてうっとりしている。

「そうかよ」

 呑気な相棒で助かる。夜一の底抜けに明るい性格に、救われていると思う。

 今、気を抜くと少しだけセンシティブな気分に陥る。谷上結花の意識が残っているときにも抱えていた感情だが、彼女の存在が完全に抜けてからのほうが、より顕著になった。

 おそらく、幼少期の出来事が一因だろう。

 灼は物心ついた頃から、親戚の家で暮らしていた。

 両親が離婚して、しばらくは母親と一緒に暮らしていたのだが、いつの間にか引き離されていた。後で聞いた話だが、母親はアルコール依存症だったという。かなり状態が悪く、施設に入居することが決まったのだ。

 父親とは連絡がとれず、仕方なく親戚たちが交代で灼の面倒を見ることになったらしい。当時の灼はまだ幼かったので、その辺りの事情は一切聞かされていなかった。

 そのため「自分は親に捨てられたのだ」という思いが強烈に残った。

 親戚の家を転々とする生活は肩身が狭かった。邪険に扱われたとか、嫌がらせをされたとか、そういうことはなかった。

 けれど、申し訳なさを感じながら暮らすということは、ひどく息が詰まるのだ。家にいるより外にいるほうが気が休まる。

 いつの間にか、繁華街をうろつくようになった。中学生の頃だった。喧嘩に巻き込まれたり、もちろん補導されたりすることもあった。周囲の大人たちに、さらなる迷惑をかける事態になってしまった。

 その結果、灼はおかしな方向に吹っ切れた。心身ともに「図太くあろう」と決意したのだ。自分以外の人間のことなんて知らない。何を思われようと構わない。申し訳なさも感じない。

 誰に似たのか気が短いので、気づいたら喧嘩を買うことより売ることのほうが多くなっていた。

 高校生になると、繁華街をうろつくだけの自分が、ひどく子どもじみていてダサいと思った。まぁ、正真正銘の子どもなのだが。

 家にいる時間を作りたくない。遊ぶのはダサい。考えを巡らせた結果、アルバイトに精を出すのが最善だと気づいた。

 肉体労働をしていると気が晴れるので、自分には合っていると思った。稼いだ分を「家賃」「食費」と称して、世話になっている親戚に渡した。普通に突き返された。将来のために貯めておけと叱られた。

 夜、灼が帰宅すると必ず玄関の灯りがついている。どんなに遅い時間でも、誰かが起きていて、灼に「おかえり」と言う。そのためだけに起きているのだ。

 当時は、煩わしいと思っていた。紛れもなく子どもだ。

 今思えば、愛されていたと思う。谷上結花と同じだ。愛情を注いでくれたのが、灼の場合は、両親ではなかったけれども……。

呪いの設計図
 予定通り、神戸に戻るとすぐ「欧風料理 もん」に向かった。ここは、一九三六年に創業した老舗の洋食店だ。各線の三宮駅から徒歩すぐのところにある。

 生田神社と三宮中央通りを結ぶ参道は「いくたロード」と呼ばれており、この道沿いに店を構えている。歴史を感じる外観なので、目立つ存在だ。

 レトロな雰囲気が漂う店内には、骨董品が多く飾られている。

 メニューはかなり豊富で、目を引くのは「スパゲッチ」や「サンドウイッチ」という表記。なんとも懐かしい響きの商品名に、創業当時からの歴史を感じる。

 ほとんどのメニューがテイクアウト可能だ。夜一は張り切って、サンドウイッチ(ビーフカツ)を注文していた。数は三つ。灼と、夜一と、それから寧々の分も。

 南京町の事務所に戻ると、夜一はソファに倒れ込んだ。うつ伏せの状態で、テイクアウトしたものを頬張っている。

「おいひ~~!」

 感激したように、足をジタバタさせている。

「靴くらい脱げよ」

 眉を顰めながら、灼は茶を淹れる準備をする。

 キッチンから戻ると、夜一は仰向けになっていた。口の周りがソースで汚れている。

「美味しいものは、落ち着く場所で食べるに限るなぁ」

 食欲が満たされたのか、落ち着いた口調で夜一が言った。

「どこで食っても、美味いもんは美味いだろ」

 いつでもどこでも、何を食べても美味そうにしているのが夜一だった。なので、説得力は皆無だ。

 灼もサンドウイッチを手に取った。ふわふわのパンにソースと肉汁がしみているのを見て、思わず唾を飲み込んだ。かぶりつくと、柔らかな肉質に感動する。もちろん、ソースも絶品だった。

 ぺろりと完食した灼を見て、夜一が目を細めた。

「灼くんって、けっこう大食いやな」

「これくらいの量で大食いとか言われてもな」

 ヒレ肉を使用しているせいか、「もん」のビーフカツサンドは重くならない。余裕で食べきれるのだ。

「子どもの頃は、ちゃんとご飯たべてた?」

「……子どもの頃?」

 なんだか、意味深な言い方だった。灼が顔を上げると、夜一と視線が合った。 

「中学とか、高校のとき」

 ……夜一は、何を言っているのだろう?

 意味が分からず、思考が停止したような感覚になった。しばらく考えた結果、もしかしたらと思った。

「……寧々から、聞いたのか?」

 新幹線の中で考えていた、過去のこと。寧々には、灼の考えていることが分かる。

「内緒~~!」 

 明るく言って、夜一が湯呑に手を伸ばす。

 端的にいうと、灼はグレていた。かなりの黒歴史だ。隠したい過去を知られて、かなりの気恥ずかしさを感じた。

「……お前も、何か話せよ」

 一方的に知られているのは落ち着かない。夜一の恥ずかしい過去話が聞きたい。失敗談等があれば大歓迎だ。

「え~~、おれの話!?」

 茶をすすりながら、夜一が目をパチパチさせる。

「何にも、面白いことはないねんけど……」

 どうせ、明るい両親にのびのびと育てられたのだろう。そうでなければ、こんなに能天気な人間にはならない。そう、高を括っていたのだが。 

「両親は、二人とも亡くなってるねん。おれが高校生のときやった。……殺されたんや」

「……え?」

 理解が追い付かず、灼は瞬きを繰り返した。

 衝撃的な言葉だった。聞き間違いかと思ったが、そうではないらしい。
 
「おれは、『家』に家族を殺されてん」

 ……家に殺された? どういう意味だ?

「いつやったか、灼くん言ってたやろ? 相談者は『家にまつわる問題を抱えてることが多い』って」

「……あぁ」

 灼も、そうだった。今回の青倉や、少し前の的形も。頻繁にやって来る仁川だって、相談内容はいつも「家」にまつわることだ。

「おれには、もともと特殊な力があったけど。祓屋になるつもりはなかった。でも、目的を達成するためには、今の仕事をするのが一番手っ取り早いことに気づいて。だから、事務所を立ち上げてん」

 目的って、何だ?

「情報収集のために、おれが頑なに『家』関係の事案しか引き受けへんかったから。自然と、それ系の依頼が集まるようになってん」

「そ、その目的とか、情報収集って……?」

 おそるおそる、灼は訊いた。夜一は湯呑に視線を落としながら、話を続けた。

「青倉さんが借りた部屋の床下に、井戸があったやろ?」

 灼は、静かにうなずいた。

「おれの住んでた家にもな、あったんやで。もちろん、家族の誰も井戸の存在には気づいてなかった」

 灼は、ごくりと息を飲んだ。

 儀式をせずに放置された井戸は、それだけで悪いものを引き寄せやすいのだ。

「他にも、いわくがあるものが家のあちこちに存在しとった。その全てが隠されとってん。方角が悪くて、間取りも最悪やった」

「な、なんでそんな家に……」

 夜一が、ふうっと息を吐いた。

「新築の家やってん。父親の知り合いに設計してもらって、建てた家やった」

 呪われた家であることは間違いない。ただ、問題なのは偶然だったのかということだ。放置された古井戸、方角、間取り……。

 夜一の口ぶりから察するに、その可能性は低いように思われた。設計の段階で、意図的に仕組まれたということだ。

「両親は、恨みを買うようなひとたちではなかったと聞いてるけど……。でも、呪いが集まるように設計されとった。そういう設計図で、家を建てられたことは間違いないねん。だから、俺はそのときの建築士を探してる」

 それが、彼の目的なのだ。目的を遂行するために祓い師になって、情報を集めている。

「……ひとつ、気になったんだが」

「うん」

「家を建てるとき、お前はどうしてたんだ?」

 夜一の能力があれば、建設の途中で何らかの気配を察知できたはずだ。

「日本には、おらへんかってん。留学中やった。もともと海外の大学に進学することを考えとったから、そのための語学留学で……。一年ほど、おれはアメリカに住んでたんや」

 その最中、両親と連絡が取れなくなったらしい。

「心配になって一時帰国したら、家が新しくなっててん。めちゃくちゃ驚いたよ。そんな話、ぜんぜん聞いてなかった。それに、建て替えが必要なほど古い家でもなかったし……」

 真新しい家を見たとき、夜一はすぐに異変を感じたという。 

「呪いが集まってた。まるで『家』に吸い寄せられるみたいに」

 禍々しい気配だったと、夜一は言った。

「それで、ご両親は……?」

 夜一の表情が、苦しそうに歪んだ。

「家の中で死んどった。無理心中やということに、なってる……」

 彼が、第一発見者だったという。

「けど、絶対に違うねん。無理心中なんかじゃない。両親の遺体には、気配が残ってた。禍々しいモノが……」

 その瞬間、首元に違和感を感じた。たぶん、寧々は泣いている。

 灼は、夜一に触れた。細い肩を抱く。そうしろと、寧々に言われた気がした。

「おれが、留学せずに日本におったら……」

 静かに、夜一が後悔を口にした。

「お前のせいじゃねぇ」

 灼は力強く言った。

 こんな、ありきたりな言葉しか浮かばない自分に苛立つ。夜一にとっては、なんの慰めにもならないだろう。 

 夜一の責任なんて、あるはずもない。けれど、もしかしたら夜一が不在の間を狙われた可能性は、あるのかもしれない……。

「その、設計士の情報は?」

 灼の問いに、夜一は首を振る。

「分からへん。でも、たぶん呪詛師が関わってると思う」

 呪詛師たちは、金銭と引き換えに《呪い》を施すのだという。

「おれがこの仕事をしてる理由、灼くんに言ってへんかったな……」

 夜一が、灼を見上げる。

「まぁ、なかなかヘビーな理由だしな」 

 軽々しく、言えることではないだろう。

「……灼くんには、これからも助手でおって欲しい」

 お願いやから、と涙声で訴えてくる。

「危険を伴う仕事やけど……。おれには、灼くんの力が必要やから」

 灼は、抱いていた夜一の肩をバシッと叩いた。他人行儀な物言いが気に入らない。

「助手じゃなくて、パートナーなんだろ?」

 八家不動産で、夜一がそう宣言していた。

 互いの足りない部分を補っている、と。

「……凸凹コンビ」

「その言い方はやめろ。というか、俺って強いんだよな?」

「え?」

 きょとん、とした顔で夜一が首をかしげる。

「そう言ったよな、お前」

「……う、うん。灼くんは、耐性があるというか、適応力があるというか。とにかく、呪いとか幽霊とか、そういう類のものにめちゃくちゃ強いタイプのひとやで」

「だったら、問題ねぇよ」

 呪詛師だろうが何だろうが、畏れる必要はない。いざとなったら、黒歴史時代に鍛えた拳の力で、ボコボコにしてやれば良いのだ。

「絶対に見つけて、叩きのめしてやろうぜ」

 そう言って、灼は拳を握った。

 夜一は、わずかに目を見張った。それから「ありがとう」と言って、そっと涙を拭った。

終章 春節

 横浜から神戸に戻って、一か月が経過した。今は一月の下旬。年末年始の慌ただしさも、すっかり落ち着いた。

 平和な日々が続いている。大きな仕事の依頼はない。といっても、暇な時間があるわけでもなく。細々とした相談事が持ち込まれ、御影探偵事務所の経営は順風満帆だった。

「やっぱり、ここに来ると癒されるなぁ。『かわい子ちゃん』がおるからかな~~!」

 建設会社社長の仁川が、にやにやと品のない笑みを浮かべる。

 性懲りもなく、またやって来たのだ。今日は新たに購入する別荘についての相談らしい。

「マンションがええかなと思っとるんや」

「なるほど、別荘ですか」

 商売熱心な夜一は、真剣に相槌をうっている。

「見晴らしが良い部屋が希望なんや。神戸の海を見下ろしたい言うてな。ほんまに、ワガママな奴やで」

「……どちら様のご要望で?」

 夜一が問うと、急に仁川が慌てだした。

「そ、それはやな……!」

「もしかして、愛人ですか?」

 灼の言葉に、仁川は大げさに反応する。

「そ、そ、それは……!」

 嘘がつけない性質らしい。

 会社の経営は順調だというし、次は愛人を……と考えたのだろう。短絡的な男だ。

「なるほどーー! 愛人さんを住まわせる家ですかぁ。お聞きした条件からすると、六甲山に建つマンションということになりますね?」

「そ、そのつもりなんやけどな……」

 仁川が、身を縮こまらせながら言葉を続ける。

 真冬だというのに、仁川は汗を拭き始めた。どうやら冷汗らしい。実は恐妻家なのだと、夜一に耳打ちされて知る。

 全部バレてしまえば良いのにと、灼は内心呆れた。

「それで、相談なんやけどな。この辺りの物件で考えとるんやけど、いわくつきの部屋があったりせぇへんよな……?」

 仁川は地図を取り出し、夜一に意見を求める。

「ありますよ!」

 夜一が、あっさりと首を縦に振る。

「え!?」

 仁川が驚いたように仰け反る。

「いくつかありますね。そもそも六甲山は、県内でも有数の心霊スポットですから」

「……そうなのか?」

 東京出身なので、灼は知らなかった。

「夜景が綺麗やから、カップルや観光客が多いんやけどな。実は心霊スポットでもあるねんで。六甲山には、峠がたくさんあって。中でも『裏六甲』って呼ばれるエリアには、走り屋が集まるねん。その走り屋の中に、首のないライダーが混ざってるらしい!」 

「首無しライダー?」

「そうやで」

 なんでも、その首無しライダーが乗っているバイクの車種まで特定されているとか……。

「胡散臭せぇ」

 あまりにも白々しくて、背筋が凍る。

「それだけと違うで! 峠を走ってたらな、急に女性が車の前に飛び出して来るねん。ブレーキをかけたけど間に合わなくて、轢いてしまうねんけど。車を降りて、どこを探してもその女性は見つからへんねん! 怖いやろ~~! あとは、スカイフィッシュの目撃情報も多いしなーー!」

「なんだよ、その、スカイ? とかいうのは」

「もう、灼くん! スカイフィッシュやで! 簡単にいうと、UMA(未確認動物)やな。見た目は、長い棒状をしてるねんけど。なんと、空中を高速で移動するねんでーー!!」

 夜一が興奮気味に語る。反対に、灼のテンションは急降下していく。

「六甲に住んでるけど、そんなもん一度だって見たことないぞ」

「目撃情報が多い場所と、おれたちが住んでるエリアは離れてるもん」

「スカイフィッシュなんて、いないと思うけどな」

 おそらく、高速で飛んでいる虫か何かだろう。

「おるもん!」

 灼と夜一が口論をしていると、仁川がため息を吐いた。意気消沈している。

「別の場所で、探すことにするわ……」

 愛人宅なので、顔見知りのいない場所が良いらしい。灼と夜一が「ご近所さん」なのは、どうやら歓迎されないようだ。

 仁川を見送るために、灼が玄関の扉を開けると。

 遠くで、何かが爆ぜるような音が聞こえた。訳が分からず、眉を寄せる灼を見て仁川は豪快に笑った。

「爆竹の音やで」

「……爆竹?」

「春節祭の幕開けの音や」

「そうなんですか」

 今日から春節祭が始まるのは、灼も知っていた。南京町のいたるところで祭りの準備が行われていたからだ。

 夜一も楽しみにしているようで、今日の相談者は仁川のみ。早々に仕事を終わらせて、祭りの見物に行くことになっている。

 旧暦で節句を祝う中国では、旧暦の正月を「春節」として盛大に祝う習慣がある。

 南京町では、そんな中華圏の「春節」を参考にして、一九八七年から「春節祭」が開催されるようになった。

 現在では、神戸市の地域無形民俗文化財に指定されており、伝統のあるイベントになっている。南京町が最も華やぐ季節なのだ。

 灼は、夜一と共に広場へ向かった。

 普段よりも一層、赤色が目立つ。春節のメインカラーなのだという。あちこちで赤い提灯が揺れている。

 祝い事にはかかせない龍や獅子も舞い踊り、見物客から歓声があがる。

 夜一は食い意地が張っているので、龍や獅子よりも長城飯店チョウジョウハンテンのトンポーローに夢中だった。一心不乱にかぶりついている。 

 ちなみにトンポーローとは、ふわふわのパン生地で豚の角煮を挟んだもの。

 この長城飯店のトンポーローは、豚の角煮がとにかく大きくてボリューミーなのだ。肉が柔らかくて、噛むと口の中でとろける。濃いタレがしみ込んで、脂身の部分まで最高に美味しい。

 夜一は、さっそく二個目に手を伸ばしている。

 ひときわ大きな歓声が聞こえて、灼は視線をあげた。「変臉へんれん」が始まったのだ。中国・四川地方の伝統芸能で、一瞬にして顔の面が変わる。変面とも呼ばれているらしい。

 思わず見惚れていると、トンポーローで口の中をいっぱいにした夜一が、「ふごひなぁ」と目を輝かせていた。

 おそらく「すごいなぁ」と言っているのだろうが、ほぼ聞き取り不可能だ。

 二個目のトンポーローを食べ終え、ようやく落ち着いたらしい。しばらくの間、夜一は「変臉」の舞台を眺めていた。しかし、数分も経たないうちに、そわそわと動き始める。

「……なんだよ」

「喉が渇いたなーー! と思って」 

「……タピオカミルクティーか?」

 例の、夜一がお気に入りのカフェ。

「そう!」

 勢いよく返事をして、夜一が灼の腕を引く。

「買いに行こ!」

「分かったよ」

 夜一と一緒にいると、落ち着いて見物できない。

 灼は初めての春節祭なので、じっくりと見て回りたいのだが。

「寧々ちゃんもな、ここのタピオカミルクティー好きなんやってーー!」

「……そうかよ」

「トンポーローも好き! な?」

 ご機嫌で、夜一が寧々に話しかけている。

 自分にも、寧々の声が聞こえたら良いのにと、灼は思った。

 最近ようやく、そう思えるようになった。どんな恨み言でも、今の自分ならば受け止めることができる気がした。

「なんか、家族みたいやなぁ」

 カフェの行列に並んでいると、夜一がしみじみと言った。

「どこをどう見たら、俺たちが家族なんだよ?」

「今は、色んな家族のカタチがあるやん?」

 ……そりゃ、まぁ。

 男同士なのは、別に良いとして。

「でも、さすがに男二人と幽霊じゃな……」

 特異すぎる組み合わせだ。

「ぜんぜん普通やで」

「どこがだよ!」

 思わず、灼はツッコミを入れた。

「……それに、家族なんて。寧々が認めないだろ」

 寧々の本当の家族は、未だ行方不明だ。

 灼のせいでもある。あの家族の異変に、気づいていたのに……。

「え、なんで?」

 夜一が、不思議そうに首をかしげる。

「俺は、贖罪をしないといけない」

「贖罪……?」

 夜一は、しばらく黙り込んだ後、大きくうなずいた。

「灼くんは、あほやなぁ。寧々ちゃんは、初めから灼くんのこと憎んでなんかないで」

 小さな子どもに諭すような口調で、夜一が言った。

「むしろ、好ましく思っとる」

 そんなこと、あるはずがない。灼は小さく首を振った。

「寧々ちゃんは、両親から暴力を受けるようになって、それがお父さんとお母さんの意思じゃないことには、なんとなく気づいてたんや。でも、どうすることもできひんかった」

 去年の夏のことだ。忌み地のマンションで、寧々はひどい目にあっていた。

「とうとう見捨てられてしまって、部屋にひとり残されて。孤独で、空腹で、ひとりぼっちやった。うだるような暑さのなか、苦しい、助けて。そう思ったとき、自分のこと思い出してくれたひとが、たったひとりだけおった」

 夜一が、灼の首元を見て微笑む。

「それが、灼くんやった。そのときにはもう、寧々ちゃんは手遅れで……。でもな、寧々ちゃんは嬉しかったんや。間に合わへんかったけど、自分を助けるために、必死に玄関のドアを叩いてる灼くんのこと、見てたんや。大きな木のところから」

 ……大きな木?

 そういえば、あのマンションの中庭には、途方もなく背の高い巨木が立っていた。

 ヒグラシの鳴き声が、その巨木から聞こえていた。幾重にも重なって、マンション内に反響していたのを今でも覚えている。

「灼くんは、自分を助けに来てくれた。自分のことを悼んでくれた。そんなひとのことを、寧々ちゃんが恨んだりするわけないやんか」

 灼は、思わず自分の首元に触れた。

「寧々ちゃんは、ありがとうって伝えたかったんやで。灼くんのことが、すごくすごく好きで。だから今も灼くんに、ぎゅうってひっついてるんやで」

 夜一の言葉を聞いて、灼は思わず俯いた。堪えきれずに涙がこぼれる。

 恨まれていると思っていた。殺したいほど憎まれているのだと。だからこそ、寧々は首に手をかけているのだと思い込んでいた。
 
 でも、そうではなかった。

 こんな、陽気な音が鳴り響いている祭りの最中、泣いているのは自分だけだろうと灼は思った。

 夜一に肩を抱かれる。身長差があるので、きっと夜一は背伸びしているだろう。号泣しながら、なぜかそんなことを考えた。

「灼くんは強いのに。泣き虫なんやなぁ」

 そう言って微笑みながら、灼の肩をさすった。

 いつかのお返しだと言わんばかりに夜一は、いつまでもそうしていた。 

 男二人と、幼女の幽霊。

 特異すぎる組み合わせだ。けれど「家族」という響きは、悪くない。あふれる涙を拭いながら、灼はそう思った。

〈了〉

#創作大賞2026 #ホラー小説部門


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