【映画感想文】青春もバカンスもいつか終わるとわかっているから、楽しいけど切なくて、結局は無駄な時間なのに、それこそが人生のすべてなので美しい - 『また会えるよね』『リンダとイリナ』監督:ギョーム・ブラック
旅行中、帰りのことを考えて憂鬱になることがある。恋人と素敵な時間を過ごしながら、別れた後を思って寂しくなったり、友だちと遊びながら一人で眠る夜とのギャップで不安を覚えてしまったり、頭を空っぽにして「いま」を楽しむって難しい。意外と。
青春もそうだった。中学生で部活に打ち込みながら、受験勉強をちゃんとしないとヤバいと理解し、クラス内で浮かない程度にくだらない自分を演じてもいる。高校生になるとアオハルが期間限定とわかっているから、損をしないように振る舞いつつ、将来のために必要な努力も欠かさない。が、そんな欲張りがいつでもうまくいくはずなくて、バランスを崩し、ただでさえ不安定な心と身体はぐちゃぐちゃに。
未来を先取りながら現在を生きていることが青春である。青春の中にいるとき、みんな、こんな日々がいつまでも続きやしないと知っている。
逆に言えば、そのことを知らないと青春に堪えられない。結局は無駄な時間になるというのに、全身全霊で、スポーツや恋や勉強に、ぶつかっていかなくてはいけないんだもの。あるいは全身全霊でぶつからない選択をしないといけない。なにをするにも重みがあり過ぎる。儚さで防御しなくちゃとてもじゃないけどやってられない。
故に、イソップ童話の『すっぱい葡萄』みたく青春をあえて憎み、嫌い、遠ざけることもある。身近な人たちとドラマティックな関係を築き、自分が傷ついたり、誰かを傷つけたりするのが嫌で、推し活のように外へ青春を見出すことも。
ただ、そんな回避行動も時間の経過で意味を喪失していく。とどのつまり、すべてが「青春だった」と過去形で包括されてしまうのだ。吉田拓郎の『青春の詩』みたいに、恋人と喫茶店に入ることも、ナンパすることも、悪さをすることも、アルバイトばかりも、勉強一筋も、なんにもしないことも「ああ それが青春」とノスタルジアにまとめられてしまう。
いつか終わるとわかっているから、青春もバカンスも楽しいけど切ない。それは非日常。やがて淡々とした日常がやってくると決まっている。わたしたちはそんな未来を織り込み、現在を謳歌している。それぞれの形で。
しかし、振り返ってみれば、そういう非日常こそ人生だったと思わなくもない。甲本ヒロトはクラスメイトについて、「友達じゃねぇよ、クラスメイトなんて。たまたま同じ年に生まれた近所の奴が同じ部屋に集められただけじゃん」と言っていたけど、そんな偶然一緒になっただけの相手と過ごした時間こそ、案外、記憶に残っている。旅先で名前も知らない誰かと交わした会話が大事だったりする。
国木田独歩の『忘れえぬ人々』もそういう話だった。
春先の瀬戸内海で目にした漁師だったり、阿蘇山の麓ですれ違った逞しい青年だったり、愛媛は三津の浜に立っていた琵琶法師だったり。いずれも、偶然に出くわした人々が忘れえぬ存在になってしまう。
コスパやタイパが重視され、マッチングアプリで運命の恋人と出会えしまうような時代になってしまったからこそ、改めて、必然だらけの人生において偶然が果たす役割の大きさに思いを馳せてみたくなる。
そして、ギョーム・ブラックの映画はそんな気持ちにぴたり寄り添ってくれる。新作『また会えるよね』と同時上映の『リンダとイリナ』は淡々とした映像で、青春が甘美で美味しいこと、かつ、賞味期限が短いことを見事にすくい取っていた。
卒業や親友の引っ越しを前に、毎日をぎこちなく過ごす高校生の生活が描かれる。『また会えるよね』はドキュメンタリーで、『リンダとイリナ』はフィクションである。ただ、ワークショップに参加した高校生が高校生として振る舞っているので、まるでドキュメンタリーみたいな仕上がりが面白い。
パンフレットに掲載されている監督インタビューによれば、リンダ役とイリナ役(というか本名)の高校生二人はリアルに親友で、初対面のときから見るからに仲良しだったとか。その友情を頼りに物語を組み立てたというのに、撮影直前、断絶状態にあったというから驚きだ。
撮影が始まる数日前、彼女たちの友情が危機に瀕していることに気づきました。彼女たちは、ほとんど話をしなくなっていました。私は、彼女たちが一緒にいるのを見るのが好きだったので、動揺しました。映画は、おそらく彼女たちの関係について描くことになるだろうという直感がありました。どうして彼女たちが私を全面的に頼し、こんなにも惜しみなくその胸の内を明かしてくれたのかは分かりません。おそらく彼女たちはそれを話したかったし、聞いて理解してもらいたかったのでしょう。彼女たちの胸の内には、まだまだ言えずにいることがたくさんあるのです。
当然、フィクションだけど主演二人の本音がにじみ出るものとなっている。それはもうドキュメンタリーよりドキュメンタリーなんじゃないか? 凄まじいものを見ていると思う反面、思春期の友情ってこんなだったよなぁと懐かしさを覚えるところとあって、奇妙な鑑賞体験だった。
他にもイリナとある男の子がデートするシーンがあったのだけど、二人は実際に交際していて、実際にデートした内容を再現してもらったという。
イリナと彼は、本当にあったことの再現を承諾してくれました。彼らは数週間前に、実際にデートしていたのです。私たちは、彼らの交際が始まる瞬間の再現を楽しみました。ボタ山でのジョギングも私たちの思い付きではありません!
そして、エンディングに流れるフランソワ・アルディ『友情』の朗らかさたるや。年上からの暖かなエールとなっていた。
こんなフィクション、他にない。そして、ドキュメンタリーであるはずの『また会えるよね』も似たような理屈で類を見ないドキュメンタリーになっている。カメラはある少女たちのグループを中心に記録しているのだけど、なぜ、彼女たちを選んだのか問われ、ギョーム・ブラックは妙なことを言っている。
実を言うと、彼女たちが私を選んだのです。私は女子、男子に関係なく、仲のよい友人グループを撮りたいと思っていました。興味があったのは彼らを結び付けている絆でした。ですからドキュメンタリーのプロジェクトのために、すでに出来上がっている友人グループを探しているということだけを伝えました。最終的に少し諦め始めた矢先、彼女たちの方からやって来て、この場所で、みんなで一緒に生きた証を残しておきたいと言われたのです。
少女たちは誰にも話したことのない心の内を静かに明かす。母親の鬱、父親の不在、姉の死など。友だちとバカ騒ぎしている姿にナレーションでそのことが語られる。下着で川を泳いだり、男の子のドレッドヘアーをカットしたら、廊下でマットレスをドミノみたいに倒したり。くだらない時間が彼女たちの生きる糧となっていることが時間差で理解されてくる。
そうは言っても、わたしはそんな青春を送ったわけではない。なのに共鳴するものがあるのはギョーム・ブラックという媒体を通しているからに違いない。
ドキュメンタリー映画を撮っていて興味深いのは、他の人たちについて語っているようで、実は彼らを介して自分のことを語っていることです。この映画は私にとても個人的なレベルで響きます。それは、私が青春を十分に満喫してこなかった、多くのことを経験しないまま、特にこうした高校時代の強い友情を知らずにきてしまったという気持ちがあるからです。こうした友情を描くことは、私にとって彼らを介してそれを生きることなのです。
ギョーム・ブラックの映画は心を無加工で提示する点に特徴がある。SNSに投稿する自撮りが盛り盛り加工されているように、昨今、批判されないように心をよりよく見せるよう加工する傾向が各所で見られる。金間大介はそれを「いい子症候群」と名づけ、『先生、どうか皆の前でほめないで下さい―いい子症候群の若者たち』という本の中で分析を行っていた。
なんでも、授業中、生徒たちはみんなの前で褒められることを嫌がるようになっているというのだ。褒められると目立ってしまう。あいつ調子乗っているよなぁと悪く言われるきっかけになり得る。そのリスクを避けたいのである。
ポジティブな方向に目立つことも嫌がるようになっている。無論、ネガティブな方向も嫌なわけで、とにかく「普通な子」を演じようとするというのだ。イジメられるまでいかなくても、イジられるかもしれないというのが辛いというのはなかなか大変だなぁと思う。友だちとLINEでメッセージを送り合っていても、常に、スクショで拡散されるかもしれないわけで、友だちとの会話すらしんどさがある。
とはいえ、デジタルネイティブな彼ら・彼女らにとって、それは当たり前なことであり、そうじゃない時代に子ども時代を過ごしたわたしたちとは異なる印象を持っているのだろう。たしかに大人もいまや仕事のやり取りをLINEでするようになり、既読をつけた以上は早く返信しなくちゃという焦燥感を当たり前にこなしているが、一昔前には考えられないことだろう。
結局のところ、目的のあるコミュニケーションにおいて、失敗しちゃいけないプレッシャーが働き、心が押しつぶされてしまうのだ。
それでも生きていかなくてはいけない高校生たちの不合理な言動をギョーム・ブラックはカメラを通して優しく抱きしめていた。SNSでつながろうと思えばつながれるにもかかわらず、卒業や引っ越しを機に自らブロック。友だちをリセットしてしまうどうしようもなさが瑞々しい。
24時間、リアルでもデジタルでも関わり続けることができるから、関わらないことに意味が出てしまう苦しさ。わたしはあなたと関わりたくても、あなたも同じように思っているかはわからない。そんな駆け引きで誰も望んでいない方向へ突き進む矛盾が繰り返される。そういう若さが無加工で並べば、新しい時代の映画になってしまうんだから素晴らしい。
事件はひとつも起きていないのに、ギョーム・ブラックの映画を見ると、人生、こんなもんでいいかと身軽になるのが気持ちいい。たぶん、青春やバカンスを成功や失敗という評価軸ではなく、純粋に存在した時間として肯定してくれるからなのだろう。
作中、高校生たちが勉強していたアウグスティヌス『告白』に記されている永遠のあり方がそこにはある。始まりも終わりも持続もなく、人間の主観から完全に切り離された超越的なあり方が。
パリの北西部にあるレジャー・アイランドを記録した傑作ドキュメンタリー『宝島』でもそうだったけど、この監督は青春やバカンスといった終わることを前提にしている、過去と未来を孕んだ現在という時間の価値を本当によく理解している。
日々の生活でとても残念に思うのは、私たちは無数の運命とすれ違っているのに、それについて本当に何も知らないということです。私たちの生き方が、好奇心、寛容さ、時間、相手を知りたいという気持ちを失わせているのです。それが突然、この撮影という仕掛けを作ることで、すべての出会いが可能になったのです。
たかが偶然。されど偶然。
科学という観点から見れば、反復可能性がない偶然はきっかけに過ぎず、それ自体を評価することは困難だろう。事象を検証し、法則を見出し、必然でコントロールできるようになってはじめて成果となる。ところが、一人の生活者として、わたしたちは偶然に惹かれてしまうのも本当で、意味があるとかないとかではなく、単純にそういうのが好きなんだよね。きっと。
いまのわたしがなぜこうなっているのか、つまらない自己紹介みたいに学歴や職業を並べてみれば、とりあえず理路整然と語ることはできるけど、正直、そんな単純なわけねえだろと呆れてしまう。一期一会の忘れえぬ人々、忘れえぬ物事によってもいまのわたしは構成されているから。
ギョーム・ブラックは、過ぎ去ってしまえばすべて過去になる時間にも、忘れえぬ偶然にも、確かな価値があることを思い出させてくれる。
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