無関心に傷つくのは、大人だけだろうか
問いのある日常 ep.12
前回、私はこう問いを置いた。
無関心は暴力なのだろうか。
なぜ大人は、無関心にこれほど傷つくのだろう。
でも、書きながら、ふと思った。
無関心に傷つくのは、大人だけだろうか。
子どもはどうだろう。
「見て見て」と言って、
顔も上げてもらえなかったとき。
絵を描いたのに、
「あとでね」とスマホを見続けられたとき。
あからさまに怒られるよりも、
反応がないほうが、
子どもの目がすっと曇る瞬間がある。
あれは、何が起きているのだろう。
動物もそうだ。
声を荒げられなくても、
ただ触れられなくなるだけで、
距離をとるようになることがある。
人間だけではないのかもしれない。
「無関心」は、
脳の複雑さとは別の場所に触れている。
それは、存在の確認だ。
私はここにいる。
あなたは、それを知っている。
この往復が途切れるとき、
心は静かに揺れる。
大人は理屈をつけられる。
「忙しいだけだよね」
「たまたまだよね」
でも、身体は知っている。
返ってこない感覚。
宙づりのままの存在感。
無関心に傷つくのは、
未熟だからでも、依存的だからでもない。
それは、関係の中で生きる構造を持っているからだ。
子どもも、動物も、
そして大人も。
では、ここでもうひとつ問いが生まれる。
私たちは、どれくらい
“ちゃんと見る”ことをしているだろう。
言葉を返すことよりも、
視線を向けること。
評価することよりも、
気づくこと。
無関心に傷つくのは、大人だけではない。
それは、生き物としての私たちの共通点なのかもしれない。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
