「褒めて伸ばす」も「叱って伸ばす」も古い。今どきの人の育て方
こんにちは、長尾屋の長尾和(ながお やわら)です。
人の育て方について、世の中ではよく二つの流派が語られます。「褒めて伸ばす」派と「叱って伸ばす」派。あなたはどちら、なんて聞かれることもあります。
でも、独立してから多くの人と関わるうちに、私はだんだんこう思うようになりました。褒めるか叱るか、という議論そのものが、もう少し古いんじゃないか、と。今日は、商社時代の自分への反省も込めて、人の育て方について書いてみます。
商社時代、私は「叱って育てる」側だった
正直に告白すると、商社にいた頃の私は、完全に「叱って育てる」側の人間でした。
背中を見て覚えろ、結果がすべてだ、甘えるな。上司にそう育てられ、自分も後輩に同じことをしてきました。実際、それで伸びた人もいた。厳しさが必要な場面があるのも事実です。
でも、振り返ると、私のやり方でつぶれていった後輩も確かにいました。萎縮して、自分で考えることをやめてしまった人。あの頃の私は、「育てている」つもりで、実は「自分のコピーを作ろうとしていた」だけだったのかもしれません。これは、いまだに反省していることの一つです。
褒めても叱っても、「他人の評価」で動かしている
ここで一つ、大事なことに気づきました。褒めるも叱るも、構造はまったく同じだということです。
どちらも、「他人の評価」で相手を動かそうとしている。褒められたいから頑張る、叱られたくないから頑張る。どっちにしても、行動のエンジンが「他人の顔色」になってしまうんです。
これだと、褒めてくれる人や叱ってくれる人がいなくなった瞬間、その人は動けなくなる。上司の前では頑張るけど、いなくなったらサボる。そういう人を、私はたくさん見てきました。育てたはずなのに、自立していない。これは育成として、半分失敗なんですよね。
答えを渡さず、「問い」を渡す
では独立後の私がどうしているか。意識しているのは、答えを渡さず、問いを渡すことです。
たとえば、若い人が「この件、どうしたらいいですか」と聞いてくる。昔の私なら、即座に「こうしろ」と答えを渡していました。その方が早いし、自分も気持ちいいから。
でも今は、ぐっとこらえて聞き返します。「あなたはどう思う?」「もし私がいなかったら、どう動く?」と。最初はみんな、戸惑った顔をします。でも、考えてもらう。自分なりの答えを出してもらう。それが多少回り道でも、自分の頭で出した答えは、その人の血肉になります。答えを渡すのは、相手の考える機会を奪うことでもあるんです。
「教える」より「伴走する」
もう一つ変わったのは、立ち位置です。
上に立って「教える」のではなく、隣を「一緒に走る」。少し先を歩く兄貴分くらいの距離感が、ちょうどいいと思っています。
私自身、若い人や畑違いの分野から、教わることばかりです。デジタルのことなんて、二十代の子の方がよほど詳しい。だから「教えてやる」という上から目線は、もう成り立たない。一緒に走りながら、私の方が長く生きている分の経験を、必要なときにそっと差し出す。困ったときに「ちょっと相談していいですか」と言ってもらえる関係。それが、今の時代の育て方なんじゃないかと思っています。
失敗できる場を、どう用意するか
人が本当に伸びるのは、結局「自分でやってみて、しくじって、そこから学ぶ」ときです。
だから私が一番気をつけているのは、相手が安心して失敗できる場をつくることです。致命傷にならない範囲で、任せる。口を出したくなるのをこらえて、見守る。そして、しくじったときに責めるのではなく、「で、次どうする?」と一緒に考える。
これは、相手を信じていないとできません。失敗を引き受ける覚悟が、こちらにいる。育てるというのは、教えることより、信じて待つことの方が、はるかに難しいんです。
育てるとは、いなくても困らない人をつくること
最後に、私が今たどり着いている結論を一つ。
人を育てるゴールは、「自分がいなくても、その人がちゃんと立っている状態」をつくることだと思います。褒める人も叱る人もいなくても、自分の判断で動ける。そういう人を増やすことが、本当の意味での育成です。
褒めるか叱るか、というのは結局、育てる側の都合の話。大事なのは、相手が自分の足で立てるようになること。そのために、答えではなく問いを渡し、上にではなく隣に立ち、失敗を引き受ける。
地味で、手間がかかって、すぐには成果が見えません。でも、これがいちばん遠回りに見えて、いちばん確実な道だと、私は今のところ信じています。
