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ファンダムの倫理学の見取り図


1. はじめに:ファンダムの暗黙のルールから

SNSで推し活界隈を眺めていると、明文化されていないルールがやたらと多いことに気づく。

実在のアイドルで二次創作をする人は、アカウントに鍵をかけて「検索避け」をする。グッズを譲るときは定価ないし交換が礼儀とされ、レアグッズの高額転売には非難が飛ぶ。推しの昔の路線のほうが好きだったとしても、それを本人のリプライ欄に書き込むのはなんとなくよくないと思い、たいていの人は黙っている。「にわか」という言葉には、棘があるので慎重に使わざるを得ない。

ファンたちは日々こういう判断をしていて、しかもその判断はかなりの程度そろっているように見える。逸脱した人は「マナー違反」と呼ばれ、ときには炎上する。ただ、「なぜそうすべきなのか」と改めて訊かれると、うまく答えられる人は少ないのではないか。

はじめに自己紹介をしておくと、私は倫理学を専門とする研究者で、最近は「ファンダムの倫理」と呼ばれつつある分野の研究をしている。この記事では、この新しい分野がどんなことを考えているのかを紹介したい。

先回りして言っておくと、これは倫理学者がファン活動に乗り込んできて「あれはダメ、これは問題」と決めつける、という話ではない。順序はむしろ逆である。ファンは、自分では意識していないだけで、すでにかなり込み入った倫理的な思考を日々行っている。なぜ転売に腹が立つのか、なぜ検索避けをするのか、なぜ「にわか」と呼ばれるとムッとするのか。この分野の面白さは、そうした思考を言葉にして、その理屈を取り出してみせるところにあると私は思っている。宇佐見りん『推し、燃ゆ』を読んで「わかる」と思った人は、もう半分くらいこの記事の話題の中にいる。

以下では、この分野の意外な出どころ(スポーツ倫理学である)と、なぜ今この問いが切実になっているのか(SNSと「推しとの距離」の変化)を押さえたうえで、具体的なトピックを一つずつ見ていく。推しの不祥事、過激なファン、公式側の責任、「にわか」問題、ナマモノ二次創作……どれも、ファンなら一度は考えたことがあるはずの問題である。

2. 「ファンダムの倫理」という若い分野

ファンについての研究そのものは、実はかなりの蓄積がある。メディア研究や社会学では、1990年代から「ファン研究(fan studies)」と呼ばれる分野が育ってきた。ファンを「熱狂的で非理性的な群衆」として外部から(あるいは見下す)のではなく、ファン自身の実践や自己理解を内側から記述しようとする研究群で、Matt Hillsの Fan Cultures(2002年)あたりが定番とされている。

一方で、哲学、とくに倫理学がこの領域に本格的に参入したのはごく最近のことだ。ファンであることの何が良くて何が悪いのか、良いファンとはどういうファンなのか、といった規範的な問いを正面から扱う論文が増えてきたのは、体感としてはここ10年ほどである。

分野が立ち上がりつつあることを示す出来事として、2026年6月にスイスのベルン大学で「The Ethics of Fandom(ファンダムの倫理)」と題したワークショップが開催された。私も参加してきたのだが、推しへの愛着、ファンダム内の上下関係、ファンの責任といったテーマについて、倫理学者たちが二日間にわたって真剣に議論する場というのは、少し前なら考えにくかったものだと思う。発表内容はいずれ論文として世に出ていくはずなので、ここでは踏み込まないが、「ファンダムの倫理」がいま国際的に動き出している分野だということは伝わるだろう。

では、この分野はどこから来たのか。意外に思われるかもしれないが、出どころのひとつはスポーツ倫理学である。

3. ルーツはスポーツ倫理学にある

ファンダムの倫理の出どころのひとつはスポーツ倫理学、それもサッカーや野球の「ファン論」である。考えてみれば納得の話で、スポーツのファンは行動が目に見えやすい。スタジアムに集まり、声を出し、ときに相手チームのサポーターと衝突する。フーリガン問題を抱えるヨーロッパのサッカー文化圏で、「ファンであることの善し悪し」が哲学の問いになったのは自然な流れだろう。

この領域の古典的な論争に、「パルチザン対ピュアリスト」というものがある。パルチザンとは特定のチームを愛し、勝敗に一喜一憂するファンのこと。ピュアリストとは、特定のチームに肩入れせず、競技そのものの美しさやプレーの質を愛する観戦者のことだ。さて、良いファンはどちらだろうか。

ピュアリスト派の言い分はこうだ。パルチザンの愛は偏っている。自分のチームの反則には甘く、審判の不利な判定には怒り、ひどい場合には暴力にまで至る。競技を公平に味わえるピュアリストのほうが、観戦者として上等ではないか。これに対してパルチザン擁護派は、それは観戦というものを狭くとらえた見方だと応じる。特定のチームへの忠誠があるからこそ、スポーツ観戦はあれほど豊かな経験になる。地元のクラブを何十年も応援し続けることには、美術館で名画を鑑賞するのとは別種の、しかし確かな価値があるはずだ。Nicholas DixonやStephen Mumfordといった哲学者たちが、こうした論争を積み重ねてきた。

この構図は、そのまま推し活に置き換えられる。「推しを愛するからこそ見えるものがある」のか、それとも「愛は目を曇らせる」のか。「箱推し」と「単推し」、あるいは「作品のファン」と「担当のファン」のあいだにある微妙な緊張も、同じ問いの別の現れとして読める。スポーツ倫理学が数十年かけて耕してきた問いは、ジャンルの垣根を越えて(ある程度は)使い回せるのだ。

ありがたいことに、この方面には日本語で読める入口がすでにある。『世界最先端の研究が教えるすごい哲学』(稲岡大志ほか編、総合法令出版)には、「好きなスポーツ選手が不正行為をしたらファンをやめるべきか?」(稲岡大志)、「レアグッズの転売は道徳的に問題なのか?」(長門裕介)という、まさにこの記事の話題ど真ん中の章が収められている。一般向けの本なので、この記事を読んで興味が湧いた人の次の一冊として薦めやすい。

4. なぜ暗黙のルールが今揺らいでいるのか

ファンダムの倫理が「いま」動き出した分野だとして、なぜいまなのか。私の見立てでは、鍵は「推しとの距離」の変化にある。

かつてのスターは遠い存在だった。テレビや雑誌の向こうにいて、ファンが接触できる回路は握手会やファンレターなど、限られた公式のチャンネルだけしかない、というのが一般的だったはずだ。ファンダムの暗黙のルールは、この「遠さ」を前提に調整されてきた。ところがSNSは、この前提を崩してしまった。推しは毎日ストーリーズを投稿し、リプライ欄は誰にでも開いていて、深夜の配信では今日あった出来事を話してくれる。

心理学には「パラソーシャル関係」という言葉がある。メディアの向こうの人物に対して、一方向的な親しみを感じる関係のことだ。この概念自体は1950年代のテレビ研究に由来する古いものだが、SNS時代のパラソーシャル関係は質が違う。毎日更新される日常、「いいね」が返ってくるかもしれない可能性、配信中に名前を読んでもらえるかもしれない期待など、親しさの感覚は、かつてとは比べものにならないほど濃い。しかし関係が一方向的であることは、実は変わっていない。この「濃いのに一方向」というねじれが、ファンの側の判断を難しくしている。リプライでどこまで踏み込んでいいのか。配信者の体調を心配するのは優しさか、それとも踏み込みすぎなのか。

事態をさらにややこしくしているのが、インフルエンサー、YouTuber、VTuberといった存在である。彼らは完全な芸能人ではないが、素人でもない。事務所の保護やメディアという緩衝材なしに、生身でファンと向き合っていることも多い。芸能人との距離感については、ファンダムの側に数十年かけて育った常識がある。しかし「元は一般人だった配信者」との適切な距離は、誰にもまだよくわからない。ルールが育つ速度より、新しい関係のかたちが生まれる速度のほうが速いのだ。

もうひとつ、SNS時代に特有の現象を挙げておきたい。「オーディエンス・キャプチャ(audience capture)」と呼ばれるものだ。配信者やクリエイターが、ファンの反応に合わせていくうちに、いつのまにか自分の芸風や人格そのものをファンの期待に合わせて作り変えてしまう現象を指す。再生数といいねが数字で見える環境では、ウケた方向に寄っていく圧力は本人の意思より強く働くことがある。応援しているだけのつもりのファンが、集まりとしては推しを縛っているかもしれない。

要するに、ファンダムの暗黙のルールは「距離」を前提に組み上げられてきたのに、その距離自体が動いてしまった。古いルールの調整し直しが、いまあちこちで進行中なのである。

5. 問題のカタログ

ここからは、ファンダムの倫理が扱う具体的なトピックを一つずつ見ていく。どの項目も、結論を出すことより、ファンが普段なんとなくやっている判断の中身を取り出してみせることを優先したい。

5-1 推しが悪いことをしたらどうするか問題

ある朝起きたら、推しの名前がトレンドに入っていた。不倫、暴言、あるいはもっと重い犯罪かもしれない。ファンなら誰でも一度は想像したことのある(そして一部の人は実際に経験した)場面だろう。

このときファンダムの中で起きることを観察すると、反応は思いのほか多様だ。すぐにグッズを処分して「担降り」を宣言する人。「本人が反省しているなら」と応援を続ける人。何も表明せず、ただ静かに距離を置く人。「作品に罪はない」と言って、人としては見限りつつ作品の消費だけ続ける人。いろいろなパターンが考えられる。そして興味深いことに、ファンたちはお互いの選択をかなり気にする。「こんなときもファンでいてこそ本物」という声と、「まだ応援してるの?」という声が、同じファンダムの中でぶつかりうる。

ここには、少なくとも三つの問いが含まれている。第一に、ファンをやめる「義務」はあるのか。推しが悪事をしたとき、応援の継続はその悪事への加担になるのだろうか。お金を落とし、再生数を回すことは、本人の社会的な力を支えることでもある。第二に、逆にファンで居続けることに固有の価値はないか。友人が罪を犯したとき、すぐに縁を切る人を、私たちは必ずしも立派だとは思わない。長年の愛着には、簡単に投げ出さないことの良さが絡んでいるようにも見える。倫理学者のAlfred Archerは、推しへの愛着を友情や恋愛と同じ「愛」の一種として真剣に扱い、この葛藤を分析している。第三に、「作品に罪はない」は本当か。これは美学で「不道徳な芸術家の問題」として盛んに議論されている論点で、人と作品は切り離せるのか、切り離せるとしてもファンの消費行動は人のほうを支えてしまわないか、が問われている。

大事なのは、この三つの問いのどれも、ファンがすでに直感のレベルでは考えているということだ。「担降り」という言葉があること自体が、ファンであることをやめるという行為に固有の重みがあることを、ファンダムが知っている証拠である。日本語では、前述の『世界最先端の研究が教えるすごい哲学』の稲岡論文「好きなスポーツ選手が不正行為をしたらファンをやめるべきか?」が、まさにこの問題をスポーツを素材に論じている。

5-2 悪質なファンの問題

推しのライバルとされるアイドルのSNSに、攻撃的なリプライを送りつける人がいる。オーディション番組で推しの競争相手を組織的に叩く、共演者との熱愛の噂が出れば相手を激しく攻撃する。あるいは「内ゲバ」のようなものを想定することもできるだろう。こうした「過激派」は、どのファンダムにも一定数いる。

ここで観察したいのは、過激派本人ではなく、周りのファンの反応のほうだ。多くのファンは、同じ推しを持つ誰かが攻撃行為をしたとき、「ファンダムの恥」と感じる。「あんなのはファンじゃない」と切り離そうとする人もいれば、「私たちファンがこう見られてしまう」と頭を抱える人もいる。ハッシュタグで注意喚起が回り、「推しの名前を汚すな」という言い方で自浄が試みられる。

これはある意味で不思議な反応である。攻撃をしたのは赤の他人だ。会ったこともなければ、フォローすらしていないかもしれない。それなのに、なぜ「恥」を感じるのか。なぜ「私たち」という主語が出てくるのか。

これは「集合的責任」の問題の一種として考えることができるかもしれない。個人が自分のした行為に責任を負うのは分かりやすい。しかし、自分が選んで入ったわけでもない集団(同じ推しのファンというだけの緩いつながり)の中の誰かの行為について、他のメンバーは何かを負うのだろうか。負うとしたら、それは何をすることなのか。謝罪か? 注意喚起か? それとも「あれはファンではない」という切り離しだろうか?

興味深いのは、最後の「切り離し」がファンダムで実際に一番よく使われる手であることだ。「あんなのは本当のファンじゃない」。この言い方は過激派を追い出して集団を守る働きを持つ一方で、あるごまかしを含んでいる。攻撃する人はたいてい、本人の主観では推しへの愛ゆえに攻撃している。愛が攻撃の燃料になっているのだとしたら、「本当のファンなら攻撃しない」と言って済ませるのは、愛と攻撃性の結びつきという一番嫌な問題から目をそらすことにならないか。ファンであることそのものの中に、暴走の種が含まれているのかもしれないのだ。

そして「ファンダムの恥」という感覚を裏返せば、ファンたちが「ファンダムはただの人の集まりではなく、振る舞いに水準がある共同体だ」と暗黙に考えていることが見えてくる。誰も入会審査などしていないのに、である。

5-3 公式・運営側の責任

ファンが暴走したとき、責任はファンだけにあるのだろうか。

たとえばオーディション番組を考えてみよう。視聴者投票で合否が決まり、「あなたの一票が推しの人生を変える」と煽られ、脱落者は涙ながらに去っていく。この仕組みのもとでファン同士が敵対し、他の練習生への攻撃が起きたとき、「攻撃したファンが悪い」で話は終わるだろうか。あるいは、ソーシャルゲームの「ランキングイベント」で推しキャラの順位が課金額で決まる仕組みの中で、生活を壊すほど課金してしまう人が出たときはどうだろう。あるいは、「限定」と称した高額のファングッズを公式が乱発し始め、転売対策もろくにとらなかったらどうだろうか。

ファンダムの中では、こういう場面で「公式が煽った」「運営の設計が悪い」という批判が実際に飛び交っている。この批判は、よく見るとかなり洗練された責任の考え方を使っている。攻撃や過剰な課金をしたのは個々のファンで、その責任が消えるわけではない。しかし、人間がどう振る舞うかは環境の設計に強く影響される。競争を煽る設計、ギャンブル的な高揚感を誘う設計、親密さを演出する設計は、ファンの中の特定の傾向(嫉妬、独占欲、承認欲求)に狙って火をつける。設計者はそれを知っていて、むしろそれで収益を上げている。だとすれば、火をつけた側にも応分の責任があるのではないか。

倫理学ではこの種の問題を、個人の行為の責任とは別の水準、つまり「環境や制度の設計者の責任」として論じることができる。カジノの設計者やSNSのアテンションエコノミーの設計者に向けられるのと同じ問いが、アイドル運営やゲーム運営にも向けられるわけだ。人の弱さを収益源にする設計は、どこからが搾取なのか。

もう一段ややこしい問いもある。アイドルやタレント本人の責任だ。5-2で書いたような過激なファンをアイドルやタレントは諫めたりする役割責任を持つだろうか、という風に展開することも可能だろう。

責任の在り処を一つに決めることが目的なのではない。ファン・本人・運営・市場構造と、責任が層をなして分布しているという見取り図そのものが、「誰が悪いか」の言い合いを一歩先に進めてくれる。

5-4 応援が芸風を狭める問題

バラードで売れた歌手が、実験的なアルバムを出したとする。ファンの反応は割れる。「新境地!」と歓迎する声の裏で、「昔の路線に戻ってほしい」という声がリプライ欄に並んだとしよう。こうしたファンの行為はひとつひとつは全く罪がないかもしれないが、振り返ってアーティスト当人につらい影響を与えてしまうかもしれない。

似たことは配信者の世界ではもっと速く起きている。あるゲームの実況で伸びたチャンネルは、そのゲームから離れられなくなるだろうし、毒舌キャラでウケた配信者は、本人が疲れていても毒舌を期待され続ける。これが4節で触れたオーディエンス・キャプチャである。再生数といいねが数字で見える環境では、ウケた方向に寄っていく圧力は、もはや本人の意思の問題ではない。ファン一人ひとりは「好きなものを好きと言っているだけ」なのに、その積み重なりが、推しの選択肢を静かに削っていくことになりかねない。

ここで注目したいのは、ファンの側がこの構造をうすうす知っていて、すでに対処を始めていることだ。冒頭の1節で挙げた例を思い出してほしい。推しの昔の路線のほうが好きでも、本人に直接それを伝えるのはなんとなく違う気がして黙っておく……。この「黙っておく」は、単なる遠慮ではない。分解すると、「私の好みを伝えることが、本人の進みたい方向への圧力になるかもしれない」「応援とは相手の選択を支えることであって、私の欲しいものを注文することではないはずだ」という、かなり込み入った配慮が畳み込まれている。ファンは、自分の愛が推しの自由とぶつかりうることを、直感的には知っているのだ。

とはいえ、話はそう簡単でもない。ファンの期待に応えること自体は悪いことではないし、期待とのせめぎ合いの中から良い作品が生まれることもある。観客を無視した表現が常に尊いわけでもない。問題は期待があることではなく、期待が本人の視界を覆い尽くして、他の選択肢が事実上消えてしまう状態のほうだろう。だとすると、良いファンの応援とは、推しの現在を肯定しつつ、変化の余地を残しておくような応援——「今のあなたが好き」と「違うあなたも見てみたい」を両立させる応援——ということになりそうだ。言うは易しだが、リプライひとつの書き方の問題として、これは案外実践的な話である。

芸術家と観客の関係をどう考えるかは、美学が長く扱ってきた主題でもある。芸術家の自律性、観客の期待、市場の圧力。ファンダムの問題はここでも、古い問いの新しい現れなのである。

5-5 「にわか」と「本物のファン」の問題

ドラマの主題歌をきっかけにあるバンドを好きになった人が、ライブのMCで曲名を叫んだら、周りから「にわかが」という視線を向けられた。SFファンダムの会場で、女性ファンが「どうせ彼氏に連れてこられたんでしょ」と値踏みされる。

ファンダム研究ではこうした振る舞いを「ゲートキーピング(門番行為)」と呼ぶ。誰が「本物のファン」で誰がそうでないかを選別し、偽物を門前で追い返そうとする振る舞いだ。そして重要なことに、この門番はしばしば偏った基準で動いている。疑われるのは圧倒的に女性や新規のファンで、「彼氏の趣味でしょ」という言葉によく表れているように、女性のファン活動は「誰かの付き添い」「ミーハーな動機」と推定されやすい。メディア研究者のKristina Busseは、ファンダムで「正しいファンのあり方」とされるものが、実は男性型の実践(知識の収集、設定の網羅、歴の長さの誇示)を基準に作られていることを指摘している。

さて、ここで倫理学らしい問いを立ててみたい。そもそも「本物のファン」を判定する基準など、あるのだろうか。

思いつく候補を順に試してみると、これが面白いように全部壊れる。知識量だろうか。それなら攻略wikiを丸暗記した人が最良のファンになるが、その人が作品を愛している保証はどこにもない。歴の長さだろうか。デビュー当時から惰性で追っている人と、昨日出会って人生を変えられた人の、どちらが「本物」なのか。使った金額だろうか。それは財力の測定であってファン度の測定ではない。愛の強さだろうか。しかし愛の強さは外から観測できないし、本人の自己申告も当てにならない。5-2で見たとおり、ライバルを攻撃する人ほど自分の愛の強さを確信していたりする。基準を細かくしようとすればするほど、「本物のファン」という概念が判定に使えるようなものではないことが、かえってはっきりしてくる。

それなら話は簡単で、「本物のファンかどうかなんて気にするな」で終わりそうなものだ。ところが、そうならないところにこの問題の一番興味深い層がある。イギリスのライターKatrina Griffithsが自身の経験を書いている。彼女は映画『ボヘミアン・ラプソディ』の公開より前からのQueenのファンだったのに、映画のヒット後、「映画から入ったにわかだと思われていないか」という不安に悩まされ、周囲に問われてもいないのに自分のファン歴を証明したくなっている自分に気づいた。門番は外にいるだけではない。ゲートキーピングの基準は内面化され、疑われた側が「私はちゃんとしたファンです」と、あの壊れた基準で自己弁護を始めてしまう。彼女はこれを内なるinner ゲートキーパーと呼んだ。「にわか」という言葉に棘を感じるとき、私たちの中でもこの門番が動き出しているのではないか。

ここまでをまとめると、かなり皮肉な構図になる。「本物のファン」の基準は、検討すればするほど恣意的で厳密なものにならない。にもかかわらず、この概念は、他人を追い出す道具として使われ(5-2の「あんなのはファンじゃない」も同じ構文だった)、さらには自分自身を縛る内なる検閲官としても働いている。判定基準としては使いものにならない概念が、これほど強力に人を動かしているのだ。

ではこの概念は、ただ捨てるべき道具なのだろうか。私は、必ずしもそうではないと考えている。「本物のファンとは何か」という問いは、他人をランク付けする物差しとしては壊れている。しかし、「自分は良いファンでありえているだろうか」と自分に向けて問うときには、別の働き方をする。他人と比べるためではなく、自分の応援の仕方——攻撃的になっていないか、推しを縛っていないか、誰かを門前払いしていないか——を振り返るきっかけとしてなら、この問いには意味が残る。ランキングの道具としては死んでいるが、自己点検の道具としては生きている、と言ってもいい。

5-6 ナマモノ二次創作の問題

実在のアイドルや俳優、配信者を登場人物にした小説や漫画を描く文化がある。いわゆる「ナマモノ」二次創作だ。恋愛もの、ときには性的な内容も含む。「本人の許可も取らずに、実在の人間でそんなものを?」という反応はごく普通にありうるものだろう。三島由紀夫の『宴のあと』をめぐる裁判など、いわゆる「モデル小説」の問題を思い起こす人もいるかもしれない。

ところが、この界隈の内側を見ると、印象はかなり変わる。日本のナマモノ文化には、おそらく世界的に見ても厳しい部類の自主規制の体系があるからだ。作品は鍵付きアカウントやパスワード付きサイトの中だけで共有する。人名はそのまま書かず、伏せ字や隠語に変えて「検索避け」をする。本人や公式の目に触れるところには決して持ち出さない。同人誌の通販でも書店には卸さない、といった具合である。破った人は界隈の内側から強く咎められる。誰が定めたわけでもないこのルール群を、ファンたちは「本人に見つかったら怒られるから」という以上の何かとして運用しているように見える。

ちなみに、実在の人物を素材にした創作は日本の同人文化に特有のものではない。英語圏や欧州でも real person fiction(RPF)という確立したジャンル名があり、現代では、メルケル元ドイツ首相を探偵役にした商業ミステリがドイツで人気シリーズだというし、実在の連続殺人鬼を主人公にしたフィクションなども多く観測できる。つまり「実在の人物をフィクションにしてよいか」という問いへの答え方は、文化によってかなり幅がある。政治家の探偵ものが堂々と書店に並ぶ社会もあれば、日本のナマモノ界隈のように、恋愛創作を鍵の内側に閉じ込めることで折り合いをつけた文化もある。日本の慣習は唯一の正解ではなく、ありうる調整のひとつなのだ。

つまりナマモノ界隈の自主規制は、危害・公私・同意といった複数の道徳原理を織り込んだ調整の産物になっている。もちろん完璧な解決策ではない。しかし「全面禁止」でも「何でもあり」でもない第三の道を、ファンたちは何十年もかけて手探りで作り上げてきた。これは民間の知恵と呼んでいいものだと私は思う。

そして、ここには美学の問題も隠れている。ナマモノ創作が扱っているのは、実在の人物そのものというより、メディアを通して作られた「キャラクターとしての本人」だ。実在の人と、その公的なイメージと、二次創作の中の人物。この三つはどう区別され、どこまで区別できるのか。フィクションと現実の境界という美学の古典的な主題が、ここでは同人誌の頒布ルールという極めて実践的な形で問われているのである。

6. 美学・芸術哲学の知見を活用しよう

ここまで「ファンダムの倫理」を倫理学の話として紹介してきたが、実はこの分野、美学・芸術哲学とほとんど地続きである。気づいた読者もいると思うが、5節の各項目の結びには、繰り返し美学の問題が顔を出していた。

推しの不祥事の問題(5-1)は、美学で「不道徳な芸術家の問題」として近年もっとも活発に論じられているテーマのひとつと、そのまま重なる。問題を起こした芸術家の作品をどう扱うべきか——美術館は展示を続けてよいのか、映画は配信停止にすべきなのか——という問いは、「推しの曲をもう聴けない」というファンの葛藤の、制度の側から見た姿である。応援が芸風を狭める問題(5-4)は、芸術家の自律性と観客の期待という古典的な主題の現代版だった。ナマモノの問題(5-6)には、フィクションと現実の境界という、これまた美学の伝統的な難問が埋まっていた。

そして何より、この記事全体を貫いてきた「良いファンとは何か」という問いは、「良い鑑賞者とは何か」という美学の問いの一種である。作品をどう受け取り、どう語り、作り手とどう関わるのが良い鑑賞なのか。ファンダムは、この問いが最も切実に、最も生々しく問われている現場なのだ。美学というと「美とは何か」を論じる浮世離れした学問というイメージがあるかもしれないが、少なくともこの方面に関するかぎり、推し活の悩みのど真ん中を扱っている。

ただし、地続きだからこそ難しい問題もある。ある分野で得られた知見は、どこまで他の分野に持ち越せるのだろうか。スポーツのパルチザン論をアイドルファンに当てはめるとき、実は何かがずれていないか。チームは引退しないが、推しは卒業する。作品のファンと人間のファンでは、「対象が悪いことをする」の意味がそもそも違う。ジャンルごとの違いを削ぎ落としていったとき、最後に残る「ファンであること」の共通項は何なのか、愛着なのか、応援という行為なのか、共同体への所属なのか。じつはこれ自体が、この分野の未解決の基礎問題である。ファンダムの倫理が一つの分野として立つかどうかは、この問いへの答えにかかっていると言ってもいい。

日本語圏でも、この接続はすでに始まっている。分析美学と呼ばれる英語圏スタイルの美学の紹介がこの十年ほどで大きく進み、不道徳な芸術家の問題をはじめ、ポピュラーカルチャーを正面から扱う議論が日本語で読めるようになってきた。ファンダムの倫理に興味を持った人が次に進む先として、美学は有力な選択肢である。

7. おわりに

この記事では、「ファンダムの倫理」という若い分野を、具体的なトピックとともに紹介してきた。最後に、冒頭で述べたことをもう一度、少し違う角度から言っておきたい。

倫理学がファンダムを研究するというと、どうしても「学問が上から降りてきて、ファン活動を採点する」という図を想像されがちだ。しかしここまで見てきたとおり、実際の風景はむしろ逆である。検索避けの慣習、定価譲渡の礼儀、「黙っておく」という配慮、「担降り」という語彙など、ファンダムには、倫理学者が設計したわけでもないルールの工夫が、すでにいくつも埋まっている。完璧ではないし、恣意的な基準(「本物のファン」)が人を傷つけている場面もある。それでも全体として見れば、ファンダムは倫理的な思考が日々実践されている現場であり、倫理学のほうがそこから学べることも多い。少なくとも私は、この分野の研究を始めてから、理論を現実に当てはめるというより、ファンダムの「学級会」から考えはじめることが増えた。

だから、この記事から何かひとつ持ち帰ってもらうとしたら、ルールのリストではなく、問いの向きを変える習慣であってほしい。「あの人は本物のファンか」という問いは、5-5で見たとおり、おそらく制度に落とし込む際にはだいぶ議論含みのものにならざるを得ない。しかし向きを変えて、「自分は良いファンでありえているだろうか」と問うことには意味が残る。攻撃的になっていないか。推しを縛っていないか。誰かを門前払いしていないか。この問いに完璧な答えを出せる人はいないが、問い自体を持っている人と持っていない人の応援は、長い目で見ればたぶん違ってくるはずである。

私の倫理学における一番の関心は幸福や人生の意味にある。何かのファンであることは幸福や人生の意味に影響してきそうだ、という見込みでファンダムの研究を始めた。この逆に、「ファンであるとはいかなることか」ということから倫理とは何か、ということを考えるルートもあるだろう。ファンダムの倫理学が倫理学を豊かにすると同時に、倫理という観点によって人々のファン活動がより充実したものになるとよいと思っている。

8. 文献案内

最後に、この記事の先へ進みたい人のための読書案内を読みやすい順に並べる。

  1. 宇佐見りん『推し、燃ゆ』(河出書房新社)。推しが「燃えた」ときファンの内側で何が起きるかの精密な記録で、この記事で扱った問題のほとんどが、理論の言葉になる前の生の姿で書かれている。すでに読んだ人も、この記事のあとで読み返すと違う顔を見せるはずだ。

  2. Examining Fandoms: Gatekeeping & Labeling ライターのKatrina GriffithsがMediumに書いたエッセイ。5-5で紹介した「内なるゲートキーパー」の当事者一人称の記録で、学術論文ではないぶん、直接胸に刺さる。英語も平易である。

  3. 稲岡大志、森功次、長門裕介、朱喜哲編 『世界最先端の研究が教えるすごい哲学』(総合法令出版)。一般向けの哲学トピック集だが、「好きなスポーツ選手が不正行為をしたらファンをやめるべきか?」(稲岡大志)、「レアグッズの転売は道徳的に問題なのか?」「学生スポーツの選手は金儲けしてはいけないのか?」(長門裕介)と、本記事の話題ど真ん中の章が三つも入っている。自分が編者兼執筆者なので手前味噌になるが、一章が短く、ここから拾い読みするのが一番敷居が低い。

  4. Alfred Archer & Jake Wojtowicz, Why It's OK to Be a Fan (Routledge, 2024)。タイトルどおり「ファンであることは擁護できる」を正面から論じた一般向けの哲学書で、本記事の7節の結論の、いわば完全版。分野の現在地を知るのにも最適だが、邦訳はまだない。誰か訳してほしい。

  5. Alfred Archer, "Fans, Crimes and Misdemeanors" (The Journal of Ethics, 2021)。推しの不祥事にファンはどう向き合うべきかを「愛の倫理」として扱った論文で、5-1の背景にあたる。

  6. Kristina Busse, "Geek Hierarchies, Boundary Policing, and the Gendering of the Good Fan" (2013)はファンダム内のジェンダーと上下関係(ヒエラルキー)についての学術的な分析である。非常に面白い。

  7. Matt Hills, Fan Cultures (Routledge, 2002)。哲学ではなくメディア研究の本だが、ファンを外から採点せず、ファン自身の自己理解から出発するという重要な視点を提供している。より新しい展望としては同じHillsの論文 "From Fan Culture/Community to the Fan World" (Palabra Clave, 2017) があり、こちらはオンラインで無料で読める。


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