春にはほどけるバタークリーム
クリスマスの夜は、音が少しだけ嘘をつく。
商店街のスピーカーから流れる「きよしこの夜」は、サビのたびに半音ぐらい落ちていて、全然きよくない。焼き鳥屋のお兄さんは「チキンあるよ〜」と叫んでいるけど、どう見てもただのねぎまだ。
それでも、「Merry Christmas」と印刷された紙のゲートをくぐるたび、ざわめき全体が、ちょっとだけ背伸びした音になる。
普段なら聞き流せる笑い声や「今年はさ〜」みたいな会話が、耳の奥に長く残る。
わたしは、そういう音の端っこを選んで歩く。
カナエと過ごすはずだった今夜の予定は、「ごめん、彼氏がインフルでさ」の一行であっさり書き換えられた。
だから今は、一人でケーキ屋の行列に並び、一人でホールケーキを買い、一人でその重さを持て余している。箱のじんわりした重さを感じるたび、「これ丸い空白だな」と思う。丸いくせに優しくない。
駅前広場に近づくと、イルミネーションが音を立て始める。青白いLEDからは、ぱちぱち、と小さな油跳ねみたいな高音がして、スマホのシャッター音が水滴みたいに舗道へ落ちていく。鼓膜の裏が、細い針で撫でられるみたいだ。
このままだと耳が溺れる。そう思って、わたしはアーケードの裏へ回り込んだ。
ここまで来れば、クリスマスは届かない。店の換気扇と、誰かが落とした段ボールを畳む音だけが生きている路地。
けれど、その奥には少しおかしな光景が広がっていた。
ショートカットの女の子がひとり、耳の後ろにペンを挟んで、冬の空にマイクを向けている。
その隣では、おとなしそうな女の子が両手で小さな瓶を支えている。瓶の口からは、銀色の細い光の筋が、するすると吸い込まれていた。
最初は電飾の反射かと思った。けれど、よく見ると、音の聞こえてくる方向と光の向きがぴったり同じだった。
ちょうどそのとき、通りのほうで誰かの声がぼんやり流れ込んできた。
「この前は本当に……ごめん」
その声は、ほとんど消えかけていた。なのに、路地の空気がふるえ、白い息の輪郭みたいなものがふっと光って、瓶の口へ細く引っ張られていく。
瓶の中で、光が一度だけ小さく渦を巻き、すう、と静まった。わたしは、無意識にケーキの箱を持ち直していた。
立ち止まったわたしに気づいて、ショートの子が会釈する。
「サエ、そのまま集めてもらっていい?」
隣の子は、こくんと頷いたまま瓶を握り続ける。ショートの子は一度マイクを下ろして、耳の後ろのペンで瓶のラベルにさらさらと何か書き込み、それからこちらを向いた。
「ごめんね、何してるのか、ちょっと気になって……」
ショートの子が、首を少し傾ける。「そりゃ気になるよね」と相槌を打つみたいに。
「……えっと、わたしハルで、こっちがサエです」
声は意外に低くて落ち着いていた。隣の子——サエは、瓶を抱えたまま、空を見上げている。
見上げているというより、空に残った何かを逃さないように目で押さえている感じ。
「今夜の音を、少し拾ってるだけなので。気にしなくて大丈夫です」
「拾うって……音を?」
自分で言いながら、変な質問だと思う。音は拾うものじゃない。落とし物じゃない。なのに、この路地では、音がちゃんと落ちている気がする。
サエが、ちらっとこちらを見る。目だけが動いて、顔は動かない。
「音が見えるとか?」
冗談のつもりで言ったのに、声の最後が少しだけ真剣になっていた。
「わたしは、そこそこ。そういうのはハルの担当なので」
サエは何でもない顔で言って、また空へ視線を戻す。
「この仕事してると、まあ。多少は見えます」
ハルはそう言って、耳の後ろからペンを抜き、くるっと一回転させた。
「この町、言いそびれたことが音になりやすいんですよ。特に、クリスマスとか、そういう日は」
言いながらハルは、サエから瓶を受け取って、軽く揺らした。
中で、さっきの「ごめん」がまだ息の形をしている気がした。青みがかった薄い膜みたいに、瓶の内側に張りついている。
「これは大丈夫なやつ。でも、放っとくと、ちょっと重くなる音もあるんです。そういうのは回収して、寝かせておくんです。時間が経つと、ちょうどよく変わるんで」
「変わるって……なにが?」
「味、ですね」
ハルは当たり前みたいに言った。サエがまじめな顔で頷く。
説明としてはさっぱり意味がわからない。なのに、どこかで妙に納得してしまう。
こういう日の音には「今年」の重さが貯まっていることを、わたしも知っているからだ。笑い声に張り付いたため息とか、イルミネーションの裏でこっそり折れた気持ちとか。
「それにしても……だいぶ、漏れてますね」
サエが、わたしの胸のあたりを遠慮がちに指さす。
「え?」
「たぶん『もうやめたい』って音」
サエにそう言われて、心臓が叩かれたみたいに、小さく鳴った。その音すら拾われそうで、あわててケーキの箱を胸の前に抱え直す。
「……そういうのも、回収してるの?」
わたしの声は、自分で聞いても情けない。
「できますよ」とサエ。
「ただ、一度預かったら、すぐには戻ってきません」とハルが続ける。
「そのかわり、時間が経つとちゃんと色が変わる。甘ったるさだけの音は薄まるし、苦すぎる音には、砂糖みたいなのが沈む。たぶん」
たぶん、って何だ。そう思いつつも、わたしはケーキの箱を見た。
この丸い重さを、中身ごと笑い話にできるのは、きっと来年だ。今はまだ、切れない。
「じゃあ、ひとつだけ。預けてもいいかな」
「もちろん」とハル。
サエが新しい瓶を一本、手のひらで温度を確かめるみたいに転がしてから、マイクを取り出す。
「言葉にしてもらったほうが、きれいに録れます」
その一言で、喉の奥が詰まった。言葉にしたら、ここで崩れる。でも、言葉にしなかった結果が、このホールケーキだ。
外の「きよしこの夜」が一瞬だけ音程を外す。その隙間に合わせて、わたしは息を吸った。
「カナエのこと、好きでした」
口に出した瞬間、胸の中で小さく何かがちぎれる音がした。
マイクの先で空気が震えて、その振動がそのまま細い光に変わり、瓶の口へすうっと吸い込まれていく。
サエが静かに栓を閉め、ハルがラベルにペンを走らせる。
「過去形にしたいんですね」とサエが呟く。
「……たぶん」
そう答えると、ハルが少しだけ笑った。
「じゃあ、今日は仮の名前で」
彼女が書いた文字は、丸くて読みやすかった。
〈十二月二十四日・未練の薄膜・バタークリームは春を待つ〉
「いや、なんでバタークリームって……」
「だって」とハルが、わたしの腕のホールケーキを指さす。
「その箱から、一人で食べる音がしてましたから」
「そこまでわかるんだ……」
情けなさとおかしさが半々で、少しだけ笑いが漏れる。その笑いも、きっとどこかで誰かに聞かれている。
「もしよかったら」
わたしはおそるおそる口を開く。
「これ、三人で分けない?」
「いいんですか?」とサエの目が輝く。
「じゃあ、音の回収は、いったんここまでで」とハル。
「ケーキを切る音も回収したいけど」と笑いながら続ける。
わたしたちは、公園まで歩き、段ボールをテーブル代わりにして、箱を開けた。
フィルムを剥がす「ぺりぺり」が、やけに立派な音で鳴る。フォークがスポンジを割るときの、しゅわっとした空気の抜け方まで、ハルとサエは耳を澄ましている。
「メリークリスマス、とか言う?」とわたしが言うと、
「当然です」とハル。
「じゃあ、せーので、で」とサエ。
そのすぐ後には、三つの声が小さく重なってから、ゆっくりと沈んでいった。
商店街の「きよしこの夜」は相変わらず微妙に外れているし、どこかの家から「来年もまた一緒にいようね」という声がこぼれてくる。
きっと、その約束のいくつかは嘘になる。けれど今夜だけは、まだ誰も知らないふりをしている。嘘の手前で、ちゃんと温かいまま残っている。
公園の端には、甘ったるいバタークリームと、ひと口ぶん軽くなった「好きだった」があって、ハルのフォークが、しゅっと鳴るたび、サエの視線がそっちへ小さく揺れる。
その揺れも、きっとどこかでやわらかい音に変わる。
春になったら、あの瓶の中身はどう変わるんだろう。
未練は、たぶん薄まる。苦さは、たぶん丸くなる。甘さは、少しだけ落ち着く。なんとなく、そうなっていてほしい。
そういうふうに味が変わっても、「待った時間」だけは残る気がする。バタークリームは、春を待つ。待てる人間になりたい、と思う。たぶん、わたしはまだ無理だけど。
少なくとも今夜のところは、ホールケーキがきれいに空になる音だけが、嘘をつかずに、ちゃんと現実として鳴っていた。
こちらのスピンオフとして書きました。
ここ数日、タイムラインを読めていなかったので、夜中にひっそりと。
片想い文芸部、期間限定とはいえ、またこの名前で集まれるのがうれしいです。
こうやってイベントが重なってくると、ようやく年末だな、と実感できる。
そんななかで、ようやく仕事も落ち着き、ちゃんと腰を据えて書くことができて良かったな、と思います。
音を売る店のことや、二人組のことを知らない人にも、一篇の変な話として読めるようにしつつ、前の話を知っている人には「またこの二人が変な仕事してる」と笑っていただけたら嬉しいです。
読んでくださって、ありがとうございました。
またどこかで、片想いの続きを書かせてください。
