10年前の自分に、やっと返事を書ける気がした
大学を卒業して、10年が経ちました。
このあいだ、たまたま自分の卒業論文を読み返しました。
正直に言うと、読む前は少し怖かったです。
10年前の自分の文章なんて、たぶん拙いに決まっています。グラフの作り方も変だろうし、言葉も大げさだろうし、謝辞だけやたら長いだろうし、きっと途中で「うわあ」と声が出るだろうなと思っていました。
実際、出ました。
うわあ、と思いました。
でも、不思議なことに、読みながら少し泣きそうにもなりました。
うまい文章ではありませんでした。論の運びも甘いし、今ならもっと違う書き方をすると思います。けれど、そこにはちゃんと、当時の自分の本気がありました。
卒論のタイトルは、「都市農村交流による生消連携活動の活性化への提案」でした。
硬いです。
本当に硬い。
自分で書いておいて何ですが、タイトルだけ見ると、ずいぶん肩に力が入っています。
でも中身を読み返すと、言いたかったことは今もほとんど変わっていませんでした。
都市と農村が、ただ売る人と買う人の関係で終わらないこと。
農産物や体験を通じて、生産者と消費者が顔の見える関係になること。
その間に立って、関係をつくる人が必要だということ。
10年前の自分は、そんなことを書いていました。
それを読んだとき、少しだけ救われた気がしました。
ああ、自分はこの10年、あまり遠くには行けなかったけれど、少なくとも大きくは逸れていなかったのかもしれない。
そんな気持ちになりました。
卒論の続きを、地域で書くことにした
私と福島県郡山市逢瀬町の関係は、大学2年生のころから始まりました。
最初から、地域づくりをやるぞ、なんて思っていたわけではありません。先生に連れられ、先輩に連れられ、気づいたら逢瀬町に通うようになっていました。
農家さんの家に泊めてもらい、畑に入り、地域の人に会い、食卓を囲む。
東京で生まれ育った私にとって、そこにある暮らしは新鮮でした。
でも、楽しいだけではありませんでした。
東日本大震災と原発事故のあと、福島県産の農産物には風評被害がありました。学生だった私は、かなり単純に、「このままだと福島の農業がなくなってしまう」と思いました。
だから、何かしなければいけない気がしていました。
そのころ取り組んでいた活動の1つが、学生が福島のぶどう園に援農に入り、地元ワイナリーと連携してワインをつくり、都市部で福島の農業のことを伝えるプロジェクトでした。
当時の私は、福島の農業の問題は風評被害だと思っていました。
もちろん、それは間違いではありません。
でも、地域に通ううちに、もっと根深い課題が見えてきました。
農家の高齢化。
後継者不足。
担い手不足。
地域の中で役割を担う人が、少しずつ減っていくこと。
風評被害は、課題を表面化させた大きな出来事でした。でも、その奥には、震災の前からずっと続いていた農村の課題がありました。
卒論で私は、都市農村交流を入口にして、生産者と消費者の信頼関係を育て、農村を支える人を増やす仕組みを提案しました。
都市の人が農村に行く。
農家さんと出会う。
農作業を手伝う。
食べる。
買う。
また来る。
誰かに話す。
もしかしたら、いつか住む。
今思うと、ずいぶん素朴な設計です。
でも、その素朴さに、私は当時かなり本気でした。
そして大学を卒業した翌月、私は逢瀬町に移住しました。
卒論で書いたことを、書いただけにしたくなかったからです。
卒論の続きを、地域で書こうと思ったのだと思います。
地域は、思っていたよりずっと忙しかった
移住してすぐ、私は農家さんの家に居候しながら、農作業を手伝い、地域の行事に顔を出し、少しずつ逢瀬町の中に入っていきました。
「地域に入る」と言うと、なんだか美しい言葉に聞こえます。
でも実際には、そんなにきれいなものではありません。
まず驚いたのは、人間関係の近さです。
誰がどこにいたか、だいたい伝わります。車も覚えられます。何かをしようとすれば、「それ、誰に話したの?」と聞かれます。
都市の感覚で考えると、少し怖いかもしれません。
でも、その近さがあるからこそ、地域は成り立っているのだとも思いました。
もう1つ驚いたのは、農村はまったくのんびりしていないということです。
農家さんも地域の人も、とにかく忙しいです。
農業、仕事、家のこと。その上に、行政区、消防団、地域行事、草刈り、共同作業、祭り、団体の役員。
地域の暮らしは、見えない役割の積み重ねでできています。
だから、都市部の人や学生を受け入れることは、ただ「来てください」と言えば済む話ではありません。
誰に声をかけるのか。
誰に先に話すのか。
どの順番で相談するのか。
誰に負担がかかるのか。
誰がいくら受け取るのか。
誰の顔を立てるのか。
電話しても出ない。
メールしても返ってこない。
結局、家まで行って話すしかない。
そういうことを、何度もやってきました。
この10年で一番やっていたことは、たぶん交流ではありません。
調整です。
すごく地味です。
全然映えません。
でも、これがないと何も始まりません。
私は、都市農村交流という言葉をずっと使ってきました。でも現場に入ってみると、交流そのものよりも、交流が始まる前と終わった後の方がずっと大事だとわかりました。
当日、参加者が楽しそうにしている時間は、もちろん大切です。
でもその裏側には、誰かに頭を下げ、誰かの予定を聞き、誰かの機嫌を読み、誰かの負担を減らし、誰かの出番をつくる時間があります。
都市と農村のあいだに立つ仕事は、華やかではありません。
だいたい、あいだに立つ人は、どちらからも少しずつ怒られます。
都市側には「もっとわかりやすくしてほしい」と言われます。
地域側には「急に言われても困る」と言われます。
参加者には「もっとこうしたかった」と言われます。
農家さんには「次はもう少し早く言って」と言われます。
行政には「成果を数字で出してください」と言われます。
そのたびに、はい、すみません、次はこうします、と言いながら、また次の予定をつくっていく。
何をやっているんだろう、と思う日もあります。
でも、始まってしまえば、地域の人たちは本当に強いのです。
農家さんは、自分の言葉で農業を話します。地域の人は、暮らしの話をします。参加者は、最初は少し緊張しながら、だんだん笑うようになります。
その瞬間を見ると、またやってしまいます。
本当に困った仕事です。
「お客様」ではなくなる瞬間
10年前の卒論で、私は「生消連携」という言葉を使っていました。
生産者と消費者が、ただ売る・買うだけではなく、顔の見える関係になること。
当時の私は、それが大切だと思っていました。
今でも、その考えは間違っていなかったと思います。
でも、10年地域で活動していると、その言葉だけでは説明できない人たちが出てきました。
お客様として来たはずなのに、いつの間にか手伝う側になる人。
学生として来たはずなのに、次の企画を自分たちでつくり始める人。
宿泊者として来たはずなのに、地域のイベントに人を呼んでくれる人。
農産物を買うだけでなく、都市部の販売を手伝ってくれる人。
その人たちは、消費者ではあります。
でも、それだけではありません。
参加者であり、手伝い手であり、企画者であり、語り手です。
私は、ある時から「この人はもうお客様ではないな」と感じる瞬間が増えました。
それは、訪問回数だけでは決まりません。
何度も来てくれるお客様は、とてもありがたいです。でも、何度来てもお客様のままの人もいます。それはそれで大切な関係です。
一方で、たった数回の関わりでも、地域の中で何かしらの役割を持つ人がいます。
人を連れてくる。
発信する。
手伝う。
企画する。
地域の外で地域の話をする。
役割を持った瞬間、その人は地域の「関係者」になります。
この変化を、今の言葉で言えば「関係人口」なのだと思います。
ただ、私は「関係人口」という言葉を、移住の手前にあるものとしてだけ捉えるのは少し違うと思っています。
移住しなくても、地域に深く関わる人はいます。
隣町の人でも関係人口になりえます。
学生でも、旅行者でも、仕事で関わる人でも、何度も来る人でも、地域の外で発信してくれる人でもいい。
大事なのは、住民票ではなく、役割です。
その人が地域の中で、あるいは地域の外から、何かしらの役割を持っているかどうか。
それが、私がこの10年で見てきた関係人口の実感です。
10年で、1人でした
成果の話をします。
地域の仕事をしていると、成果を聞かれます。
何人来たのか。
何回実施したのか。
いくら売れたのか。
満足度は何%だったのか。
もちろん、数字は大事です。
私も報告書を書くので、数字から逃げるつもりはありません。
でも、都市農村交流や関係人口づくりの成果は、数字だけではなかなか説明できません。
この10年で、私にとって一番大きな成果は、2025年度に、これまで関係人口として逢瀬町に関わっていた人が実際に移住し、新規就農したことです。
10年前、卒論を書いていた私は、都市農村交流を通じて農業に関心を持つ人を増やし、いつか新規就農にもつなげたいと考えていました。
それが、10年かかって1人、生まれました。
10年で1人かよ。
そう言われたら、確かにそうです。
自分でも少し思います。
もっとできたのではないか。
もっと多くの人を呼べたのではないか。
もっと仕組みにできたのではないか。
そういう悔しさはあります。
でも、その1人がいるのと、いないのとでは、私の10年はまったく違います。
1人の人が、東京から逢瀬町に移り、農業を始める。
それは、表にすると小さな成果かもしれません。
でも、私にとっては、一生抱きしめていられるくらいうれしい成果でした。
数字の「1」は、時々ものすごく大きいです。
地域の仕事では、100人来ました、1,000人に届きました、という話が評価されやすいです。
でも本当は、1人が変わることがあります。
1人が戻ってくる。
1人が移住する。
1人が企画者になる。
1人が地域のことを自分の言葉で話し始める。
その1人が、次の10人を連れてくることもあります。
私は、この10年で、ようやくそのことを実感しました。
こぼれていく関係の方が多い
もちろん、すべての関係が残るわけではありません。
むしろ、こぼれていく関係の方がずっと多いです。
逢瀬町には、これまで本当にたくさんの学生や参加者が来てくれました。文京学院大学、日本女子大学、ほかにもさまざまな大学や学校、団体の人たちが関わってくれました。
でも、その全員が今も逢瀬町と関係を持っているわけではありません。
多くの人は、人生の次の場所へ行きます。
就職する。
結婚する。
子どもが生まれる。
別の地域に関心を持つ。
忙しくなる。
逢瀬町のことを少しずつ思い出さなくなる。
それは、少し寂しいです。
でも、自然なことでもあります。
関係は、残るものだけではありません。
こぼれるものでもあります。
だから大事なのは、100人来た人すべてを関係人口にすることではないのだと思います。
こぼれていくことを前提にしながら、それでも残る1割の関係をどう育てるか。
その1割が、地域にとって大きな意味を持つことがあります。
2026年1月に、都内で「逢瀬の日」というイベントを実施しました。
そこには、これまで逢瀬町に関わってくれた人たちが集まってくれました。
学生時代に来てくれた人。
農家さんと関わった人。
活動を応援してくれた人。
久しぶりに顔を見る人もいました。
ああ、関係はまだ残っていたんだなと思いました。
その場にいた人たちの人数だけで言えば、大規模イベントではありません。
でも、私にとっては、この10年の答え合わせのような時間でした。
交流は、その日で終わります。
関係は、その後も残ります。
都市農村交流で本当に大事なのは、その後の方なのだと思います。
属人化は悪なのか
この10年で残った大きな課題もあります。
それは、私に依存しすぎていることです。
地域内の調整、企画の設計、行政とのやり取り、大学との連絡、参加者対応、会計、報告、広報、次の展開づくり。
かなりの部分が、私に集中しています。
これは良くないです。
でも同時に、地域の仕事において属人化を完全に悪だとも思っていません。
地域の仕事は、人と人との関係で成り立っています。
誰が話すか。
誰が頼むか。
誰が謝るか。
誰が間に入るか。
それによって、物事の進み方がまったく変わります。
だから、属人性があること自体は自然です。
問題は、その属人性を、何も言葉にしないまま放置することです。
誰に、どの順番で話すのか。
どこに無理が出るのか。
誰が何を得意としているのか。
参加者をお客様から手伝い手に変えるには、どんな場面をつくればいいのか。
そうした感覚を、少しずつ言葉にしていく必要があります。
私が次の10年でやりたいことは、ここにあります。
自分がやってきたことを、武勇伝にするのではなく、設計図にすること。
他の地域の人も使える形にすること。
地域に人を呼ぶだけではなく、関係が生まれ、育ち、役割へと変わっていく仕組みをつくること。
私はその役割を、「関係人口創出コーディネーター」と呼びたいです。
少し長いです。
でも、今のところこれ以上しっくりくる言葉がありません。
イベント屋でも、旅行会社でも、移住相談員でも、行政職員でも、研究者でもない。
地域を見る。
人を見る。
入口をつくる。
役割を渡す。
地域側の負担を調整する。
外から来る人の期待を翻訳する。
関係が続く余白を残す。
そして、その仕事にちゃんと価格をつける。
この仕事がなければ、関係人口は雰囲気だけで終わります。
「地域が好きです」だけでは続きません。
「また来たいです」だけでは仕組みになりません。
好きになってくれた人が、次にどう関われるのか。
そこまで設計して、ようやく関係は育ちます。
10年前の自分に、恥をかかせなかっただろうか
私は、勢いで地域に入りました。
大学を出て、就職もせず、手ぶらに近い状態で移住しました。
今思うと、かなり危ないです。
人にはあまりすすめません。
地域に入りたい人がいるなら、仕事、収入、住まい、関係性、役割を少しずつ設計してから入った方がいいです。
本当にそう思います。
それでも私は、その危なっかしい入り方をしたからこそ、今ここにいるのだとも思います。
10年前の自分は、たぶんもっと大きなことができると思っていました。
都市農村交流で地域を変えられる。
生消連携で農村と都市をつなげられる。
新規就農者を増やせるかもしれない。
そんな熱い思いで地域に入りました。
結果はどうだったか。
10年で、1人でした。
たくさんの関係は生まれました。
でも、こぼれていった関係もたくさんあります。
成功した企画もあれば、全然人が集まらなかった企画もあります。
褒められた日もあれば、怒られた日もあります。
地域のためになったのかと聞かれたら、今でも少し迷います。
ただ、年に何回か、地域の人に「ありがとう」と言ってもらえることがあります。
そのたびに、まあ、ぎりぎりグッジョブかなと思います。
私には、「明日の自分に笑われない、昨日の自分に恥をかかせない」という言葉があります。
この10年を振り返ると、明日の自分にはたぶんまだ笑われます。
もっとやれただろう。
もっと仕組みにできただろう。
もっと稼げただろう。
もっと人を育てられただろう。
そう言われる気がします。
でも、昨日の自分には、ぎりぎり恥をかかせずに済んだのではないかと思います。
10年前の卒論に書いたことを、全部は実現できませんでした。
でも、放ってはおきませんでした。
紙の上に書いた言葉を、地域の中に持っていきました。
畑に持っていきました。
農家さんの台所に持っていきました。
学生のバスに持っていきました。
都市部の販売イベントに持っていきました。
ゲストハウスの食卓に持っていきました。
そして、10年かけて、ようやく返事のようなものを書ける気がしました。
都市農村交流は、人を呼ぶことではありません。
生消連携は、買う人と作る人をつなぐことだけではありません。
関係人口は、移住の手前にいる人のことだけではありません。
地域に来た人が、何かしらの役割を持つこと。
その役割が、次の関係を生むこと。
その関係が、地域の外にも広がっていくこと。
私は、これからの都市農村交流を、そういうものとして考えたいです。
次の10年に向けて、最後に問いを置きます。
人を呼ぶことではなく、関係を育てる設計ができていますか。
10年前の自分は、たぶんこの問いを見たら、少しうれしそうにする気がします。
そして、少し偉そうに言うと思います。
「だから卒論に書いたじゃん」と。
まったく、生意気な学生です。
でも、その生意気な学生がいたから、今の私がいます。
では、また10年後に。
