卒論の続きを、地域で書いていた― 都市農村交流・生消連携・関係人口の10年 ―
はじめに
さて、どう書いたらいいかと思いながらタイピングをしています。
というのも、2025年度に結構な量の報告書を書いてまとめるタイミングがあってせっせと書き書きしてたのですが、それがまたよく書けましてですね。あー俺も文章が書けるようになったなと感心してました。
そんなときふと、大学を卒業して今年で10年目だなと。
なんとなくエモ懐かしい気持ちになったので自分の文章力の変化を楽しもうと10年前に書いた卒業論文を読み返してみました。
もちろん、キモ拙い、グラフの書き方変てこ、謝辞長すぎ!みたいな文章でした、が、気持ちがすごい乗っていました。当時の自分は本気でそう思っていたんだなって思いました。
その時の卒論のタイトルはこれです「都市農村交流による生消連携活動の活性化への提案」ふむふむ。
結論は
・都市と農村が、売る・買うだけの関係ではなく、双方向で、継続的で、経済的にも意味のある関係になること。
・農産物や体験を通じて、生産者と消費者が顔の見える関係になること。
・地域と都市の間に立って、関係を編集する仲介人が必要だということ。
だそうです。
書いてから読み返したことなんてなかったからびっくりしましたがこの10年間ほぼ変わらない思いで活動してきたんだなと感動しました。
まさに今、私自身が軸にしている、したいことだなと。
まさか10年前の自分の文章にこんな熱い気持ちにさせてもらえるなんて思ってもみなかったです。この気持ちが熱いときに10年前の卒論へのアンサーとこれまでの実践、そして今思う提案をまとめておこうと思いました。
そんな感じで書き始めています、取り合う椅子に座りPCを起動させて書き始めました。
最終的にはちゃんとまとめるつもりなので少しでもご興味をお持ちくださったなら読んでみてね!です。
では、本編行ってみよう!
※ここからは少しだけ報告書のように、10年の実践を整理して書いていきます。
いつものnoteより硬いところもありますが、10年前の卒論へのアンサーなので、今回はちゃんと整理してみます。 最後に戻ります!
第1章
10年前の卒業論文で、何を提案したのか
まずは、10年前の自分はどんなことを問題と考えてどんなものが不足していてどんなことが必要と考えたのかその問題提起についてとその解決のためにどんな提案をしたのかについて書いていきます。
めっちゃ簡潔に書くとこんな感じ↓
最初に考えるきっかけになったのは福島県の震災からの原発事故からの風評被害、これによって農作物が売れない、農家がなくなっちゃう。って思いました。
そこで学生ながらに何かできないかなといろいろ試して1つ軸となるプロジェクトを立ち上げました。それが「文京ワインプロジェクト」です。このプロジェクトを進めるためにたくさん福島県に通い、そこでいろいろ話を聞くと、福島県農業の本質的な問題は風評被害ではなく農家の高齢化・後継者不足であるということがわかりました。
そこで卒論では農業と絶やさないための都市農村交流のあり方にについて調査して考察して以下のことを提案しました。
都市農村交流を入口に、生産者と消費者の信頼関係を育て、交流特産品や教育・産学連携・行政連携を組み合わせながら、農村の担い手不足や農業の持続性に対応する仕組みをつくることです。
以上がめっちゃ簡単に卒論を要約したものです。
より詳しく書いてみますのでお時間ある方は以下もチェックしてください。
しっかり版↓
10年前の卒論の主題は都市農村交流を通じて、生産者と消費者の関係を深め、農村農業の活性化につなげることでした、なんでそう思ったかというと、考え始めるきっかけは東日本大震災と、福島第一原発事故後の福島県産農産物への風評被害でした。
お米の全袋検査もやるし出荷制限もないのになんで買ってもらえないんだろう、ほかのどの県より本気になって農業に向き合って頑張っているのにこのままだと福島県の農業がなくなってしまう!と。
まずはその風評被害を打破するために学生として何ができるのだろうかと、いろいろ試していました、そこで定着した活動が、学生が福島県のぶどう園に援農に入り、地元ワイナリーと連携してワインを商品化し、都市部の消費者へ農家の現状や食の安全性を伝える「文京ワインプロジェクト」 でした。
活動進めて行くうちに福島県農家が抱える問題の本質は風評被害ではないことがわかりました。農家の高齢化・後継者不足であると気づきました。
そのため卒論では、福島県郡山市の農村をフィールドに、農業を絶やさないための都市農村交流のあり方を考えました。卒論で使っていた「生消連携」とは、単なる農産物の売買ではなく、生産者と消費者が人間関係を築き、消費者も農作業や交流を通じて農業を理解し、支える関係として当時の自分は定義していました。
つまり、10年前の提案の出発点は、農産物を買ってもらうことではなく、農業を理解し、支える人を増やすことでした。農村・農業の活性化に必要なこととして、次の2点を重視していました。
1つ目は、消費者に農業・農村への関心を持ってもらい、国内産農作物の購入を促進すること。
2つ目は、新規就農者の獲得に向けて、農業に関心のなかった人にも農業の魅力を知ってもらうこと。
そのための手段として、卒論では都市農村交流、とくに一時滞在型のグリーンツーリズムに注目していました。
都市農村交流には、一時滞在型、二地域居住型、定住型の3つがあると整理したうえで、まずは最も参加しやすい一時滞在型のグリーンツーリズムから始めるべきだと考えていました。ただし、グリーンツーリズムだけでは不十分であり、そこに六次産業化の考え方を組み合わせる必要があると提案していました。
具体的には、まずグリーンツーリズムで農村・農業への関心を喚起し、その後、六次産業化によって安定した収入源をつくり、新規就農者を呼び込むという流れを描いていました。
なんと、この時点で、10年前の卒論はすでに、体験 → 関心 → 消費 → 継続的関係 → 就農・定住という段階的な関係づくりを考えていたということです。
さらに、都市農村交流を単なる観光や余暇として終わらせるのではなく、生産者と消費者の双方に利益がある関係にする必要があると指摘していました、既存のグリーンツーリズムには、都市住民が農村にお金を落とすだけの一方通行になりがちで、本当の意味での「WIN-WIN」になっていないのではないか、という問題意識があったみたいです。
また、不特定多数を対象とした交流では、信頼関係や安心感が生まれにくいとも考えていました。
そのため、単発で広く人を集める交流よりも、特定の地域同士が継続的に関係を深める都市農村交流の重要性を提案していました。
そのモデルとして、東京都世田谷区と群馬県川場村の都市農村交流を参照し、自治体間の強い関係性や「第二のふるさと」づくりのような仕組みに注目していました。調査結果から、都市農村交流への参加回数が多い人ほど、農業の魅力や生消連携の重要性への関心が高まることがわかりました。
また、参加者は一度きりの交流ではなく、継続性があり、双方向性のある交流を求めていました。
そこで卒論では、都市住民と農村をつなぐために、行政間の連携を活用したマッチングの仕組みや人的交流だけでなく、経済的なつながりを生み出すために、「交流特産品」の開発を提案しました。交流特産品とは、二つの地域の産業を組み合わせ、交流の象徴となる商品をつくるという考え方です。
文京ワインプロジェクトでは、文京ワインを郡山市とふじみ野市の交流のシンボルとし、郡山市には販路開拓、ふじみ野市には地域ブランドの獲得をもたらす構想でした。
また、その商品を単なる物販にせず、農作業体験ツアーや都市側のイベント参加と組み合わせることで、交流を継続・発展させることを目指していました。
加えて、都市農村交流を続けるためには、PR、受け入れ調整、マッチング、企画運営を担う第三セクターのような中間支援組織が必要であると提案しました。
これは現在でいう、地域コーディネーターや関係人口の中間支援機能に近いものです。
また、具体的な展開案として、「農村の活性化×教育」や「農村の活性化×産学連携」も提案していました。
以上しっかり版でした!
つまり、10年前の卒論で提案していた都市農村交流は、単なる観光ではありませんでした。
都市と農村が互いに補い合い、商品、教育、産学連携、行政連携、中間支援を組み合わせながら、長く続く関係をつくる仕組みだったのです。
第2章
地域に入って見えた、都市農村交流の現実
私と逢瀬町の関係は、大学2年生、20歳の時から始まりました。
当時は、先生に連れられるまま、先輩に連れられるまま逢瀬町に通っていました。最初から明確な目的があったわけではありません。
ただ、通うたびに地域の人と出会い、農家の暮らしに触れ、都市では見えなかった農村の現実を少しずつ知っていきました。
その後、卒業論文を書くために、年間100日ほど逢瀬町に通い詰めました。そして、2016年11月に何とか卒論を書き上げました。卒論のテーマは、「都市農村交流による生消連携活動の活性化への提案」です。
そして2017年3月に大学を卒業し、翌4月に逢瀬町へ移住しました。
卒論で書いたことを、書いただけにしたくなかったからです。都市農村交流が本当に地域を支える仕組みになるのか。生産者と消費者の関係は、交流を通じて深まるのか。都市と農村は、社会的にも経済的にもWIN-WINの関係をつくることができるのか。
それを、実際に地域に入って確かめたいと思いました。
この10年の動きを一文でまとめると、次のようになります。
卒論で提案した都市農村交流を、逢瀬町への移住、個人事業の開業、農泊、学生受け入れ、行政連携、国際交流、Leu.の拠点づくりを通じて実践し、「人を呼ぶ交流」から「関わり続ける人を育てる仕組み」へ発展させてきた10年です。
東京出身で、大学卒業まで地元を出たことがなかった私にとって、逢瀬町への移住は大きな転換でした。最初は農家に居候しながら、農作業を手伝い、地域の行事に顔を出し、少しずつ地域の中に入っていきました。
移住直後には、地域団体「郡山逢瀬ふじみ野net文京スマイル」を立ち上げ、逢瀬町、ふじみ野市、文京学院大学をつなぐ活動を始めました。地域の集会所でのイベント、空き家情報の聞き取り、農家へのヒアリングなどを通じて、「外から来た若者」が地域の中でどのような役割を持てるのかを探っていきました。
2019年には、個人事業「おおせのとおり」を開業しました。
これは、最初から明確な事業計画があって始めたものではありません。農家での居候、農業センターの臨時職員、税理士事務所での勤務、地域で増えていった人間関係の延長線上に生まれた仕事でした。誰かの希望や困りごとを聞き、それを企画や事業として形にしていく。そのような仕事として、「おおせのとおり」は始まりました。
その後は、逢瀬いなか体験交流協議会を軸に、農泊、農業体験、学生ツアー、地域イベント、首都圏での物販、大学連携、行政事業などを運営していきました。2019年以降は、日本女子大学での講師、フィールドスタディの受け入れ、逢瀬町産品の販売、文京学院大学との連携、婚活イベント、しめ縄づくり、農家民宿視察、モニターツアー、人材育成セミナーなど、かなり広い範囲で実践を重ねてきました。
コロナ期には、対面での都市農村交流が難しくなりました。その中で、オンライン座談会、研修、ワークショップ、体験プログラムの再設計などに取り組みました。
この時期は、私にとって重要な転換点でした。単に「人を呼ぶ」ことができなくなったことで、そもそも地域に人を呼ぶとは何なのか、受け入れ体制とは何なのか、体験の価値とは何なのかを考え直すことになったからです。
2021年から2023年にかけては、活動がさらに広がっていきました。ベトナム人参加者との交流、Phoenix House International Schoolの受け入れ、イギリスやタイからの来訪者対応、稲作体験、料理体験、門松づくりなど、逢瀬町の農村体験は国際交流や教育プログラムとも接続していきました。
最初は「都市と農村」の交流として始まったものが、次第に「地域と学生」「地域と外国人」「地域と移住希望者」「地域と教育機関」といった、より多様な関係へ広がっていったのです。
同時に、日本女子大学や文京学院大学などとの大学連携も継続してきました。逢瀬町では2004年頃から、農家民宿を中心とした農村交流が続いています。これまでのべ2,000人を超える大学生が逢瀬町を訪れ、農業や地域の暮らしに触れてきました。
2024年前後からは、栃木県那須塩原市の地域共生型ゲストハウス「Leu.」の立ち上げにも参画しました。
Leu.は、私にとって単なる宿泊施設ではありません。若者や学生がふらっと立ち寄り、農業、まちづくり、暮らし、仕事を味わうことができる場所です。私はLeu.を「宿」というよりも、「寮」のような場として捉えています。
誰もが自分の可能性やチャレンジ精神を開花できる場。実験し、評価され、実践できる舞台。そのような場所として、Leu.に関わることを決めました。Leu.workや学生向けフィールドスタディの受け入れも、その延長線上にあります。
現在は、福島、栃木、埼玉の3拠点を行き来しながら、地域の人と都市の人をつなぐフリーランスの地域コーディネーター、研究員として活動しています。観光でも移住でもない、そのあいだにある関係性を育てることが、今の私の仕事です。
ただし、この10年をきれいな成功物語としてだけ書くことはできません。
地域に入って見えた都市農村交流の現実は、想像していたよりもずっと複雑でした。
まず、卒論で立てた問題意識そのものは、大きく間違っていなかったと思います。私は当時、福島県の農村は日本の農村問題を先取りしていると考えていました。実際に、原発事故によって一気に表面化したように見えた課題の多くは、事故以前から存在していたものです。
人手不足、後継者不足、農業者の高齢化、地域の担い手不足。これらの課題は、福島県だけの問題ではありませんでした。現在では、福島県を追いかけるように、全国各地で同じような問題が顕在化しています。
一方で、卒論を書いていた当時には見えていなかったこともあります。
福島県農業は、課題の先取りだけでなく、解決策の先取りも経験してきた地域だったということです。原発事故という大きなクライシスによって一度大きく落ち込んだ福島県農業は、その後、ICT、AI、ロボティクスなどの導入による効率化や生産性の向上にも取り組んできました。
農業人口は減っているにもかかわらず、農業生産額は回復傾向にある。そうした動きから見えてくるのは、福島県農業が単に被害を受けた地域ではなく、危機の中で新しい農業のあり方を模索してきた地域でもあるということです。※昨年初めて生産額が震災前を超えましたが理由は米価の高騰なので何とも、、
しかし、都市農村交流の現場は、そうした大きな話だけでは進みません。
実際に地域に入って一番驚いたことの一つは、コミュニティの狭さです。
農村は、人と人との距離が近い場所です。それは温かさでもあります。しかし同時に、プライバシーのなさでもあります。誰が、いつ、どこで、何をしていたのか。そうした情報はすぐに地域の中を回ります。車も知られているため、どこにいたのかもすぐにわかります。
私はもともと人との距離感に対して鈍感な方だったので、大きな問題にはなりませんでした。しかし、都市から来た人すべてがその距離感を受け入れられるわけではないと思います。
都市農村交流を考える時、農村の人間関係の近さを、単純に「温かい」とだけ捉えることはできません。そこには安心感もありますが、息苦しさもあります。
もう一つ、外から見ていた時にはわからなかったことがあります。
農村は、まったくのんびりしていません。
農家も地域住民も、とにかく忙しいです。農業、仕事、家のことに加えて、一人ひとりが何かしらの共同体の役割を担っています。行政区、消防団、地域行事、農業団体、自治会、祭り、草刈り、共同作業。地域の暮らしは、見えない役割の積み重ねで成り立っています。
そのため、都市部の人や学生が地域に来ること自体は歓迎されても、受け入れには大きな調整が必要になります。
紙の上で計画を立てることはできます。パソコン上で行程表をつくることもできます。しかし、本当に大変なのはその後です。
誰に声をかけるのか。誰が参加するのか。誰に先に話を通すのか。誰がいくら受け取るのか。誰の顔を立てるのか。
電話をしても出ない。連絡をしても返ってこない。結局、家まで行って話すしかない。そういうことも何度もありました。
さらに、地域では話しかける順番も重要です。「自分のところに来る前に、あの人のところへ行ったのか」と言われることもあります。都市農村交流の調整は、単に日程や人数を合わせる作業ではありません。地域の人間関係の中で、順序や距離感を間違えないように進めていく作業でもあります。
この10年で一番大変だったのは、交流そのものではなく調整でした。
特にしんどかったのは、地域の中で仲違いが起きた時の対応です。どちらかの味方になるわけにもいかず、かといってどちらかの敵になるわけにもいきません。地域の中で活動を続けるためには、常に微妙な立ち位置に立ち続ける必要がありました。
一方で、調整さえうまくいけば、地域の人たちは交流のプロフェッショナルでした。
受け入れが始まってしまえば、農家さんや地域の人たちは、参加者を楽しませる力を持っています。農業の話、暮らしの話、食べ物の話、地域の歴史。そうしたものを、自分の言葉で伝える力があります。
だからこそ、都市農村交流の成否は、当日のプログラム内容だけで決まるものではありません。むしろ、始まる前の調整と、終わった後の関係づくりによって決まります。
この10年で、私は「交流」と「関係」は違うものだと考えるようになりました。
交流は、人と人が出会い、話し、体験を共有することです。一方で、関係は、その交流の前後に続いていくものです。
たとえば、生産者と消費者という関係が先にあり、その後に交流することで、信頼が深まり、購入や契約が継続することがあります。逆に、先に交流があり、その後に消費者と生産者という関係が生まれることもあります。
つまり、交流は関係を進めるものです。交流そのものが目的なのではなく、交流を通じてどのような関係が育つのかが重要なのです。
この10年で地域に残ったものは何かと聞かれれば、やはり「関係」だと思います。
2026年1月に、都内で「逢瀬の日」というイベントを実施しました。そこには、これまで逢瀬に関わってくれた人たちが集まってくれました。かつて地域を訪れた人、農家と関わった人、学生時代に逢瀬に来た人、活動を応援してくれた人。
そうした人たちが、時間が経っても逢瀬との関係を持ち続けてくれていることを実感しました。
一方で、関係はたくさんこぼれてもいます。
都市農村交流に参加した人のすべてが、地域と関わり続けるわけではありません。むしろ、絶対数でいえば、多くの関係はこぼれていきます。感覚的には、残る関係は全体の1割程度かもしれません。
しかし、それは必ずしも失敗ではありません。
大切なのは、100人来た人すべてを関係人口にすることではなく、こぼれていくことを前提にしながら、それでも残る1割の関係をどう育てるかです。
10年前の私は、都市農村交流によって都市と農村が互いによくなる仕組みをつくれると考えていました。10年後の今も、その考えは大きくは変わっていません。
ただし、今はそこに一つ付け加えたいことがあります。
都市農村交流は、自然には続きません。
地域に人を呼ぶことよりも、地域の中で受け入れを調整することの方が難しいです。参加者に満足してもらうことよりも、地域側に無理が残らないようにすることの方が重要です。一度来てもらうことよりも、その後に関係が続く余白を残すことの方が大切です。
都市農村交流は、単なるイベントではありません。都市と農村のあいだに、関係をつくるための入口です。
そして、その入口を本当に機能させるためには、交流を企画する人、地域の事情を理解する人、外から来る人の期待を翻訳する人、地域内の人間関係を調整する人が必要です。
地域に入って約10年過ごして見えた都市農村交流の現実は、華やかな交流の裏側に、地道で複雑な調整があるということでした。
けれど、その調整を引き受ける人がいて、交流が関係に変わっていく仕組みをつくることができれば、都市農村交流は今でも十分に意味のある取り組みだと思います。
結局、この10年で一番やっていたのは「交流」ではなく「調整」「設計」だったのだと思います。地味です。全然映えません。でも、これがないと関係は育ちません。
第3章
生消連携は、関係人口へと変化した
10年前の卒業論文で、私は「生消連携」という言葉を使っていました。
当時の私にとって、生消連携とは、生産者と消費者の関係を深めることでした。
農産物を作る人がいて、それを買い、食べ、活用する人がいる。その関係を、単なる金銭のやり取りだけで終わらせるのではなく、心の交流や信頼関係の構築にまで広げていくことが大切だと考えていました。
しかも、それは個人と個人の関係だけではなく、地域同士の関係として行われた方が効果があると考えていました。都市側の地域と農村側の地域が、定期的に互いを訪れ、交流し、社会的にも経済的にも支え合う。
そのような関係をつくることが、当時の私が考えていた生消連携でした。
この考え方は、今でも大きく間違っていたとは思っていません。
野菜を買う人は消費者です。作る人は生産者です。
地域に観光で来る人も、ある意味では地域を消費する消費者です。宿に泊まり、食事をし、景色を見て、体験をして帰っていく。観光とは、地域の資源を消費する行為でもあります。
しかし、10年地域で活動してみて、その枠組みだけでは説明しきれない人たちがいることに気づきました。
それは、地域を消費するためだけではなく、地域を再生するために訪れる人たちです。
私は今のところ、その人たちを「貢献型旅行のお客様」と呼んでいます。
地域に来て、ただサービスを受けるだけではない。地域の仕事を手伝う。地域の人と一緒に企画をつくる。地域に人を呼び込む。イベントを手伝う。農産物を都市部で販売する。地域での経験を自分の言葉で発信する。
そういう人たちが来ることによって、消費されてすり減っていく地域ではなく、関わる人が増え、持続していく観光地域に近づいていくのではないかと考えるようになりました。
10年前の「生消連携」という言葉では、こうした人たちを十分に捉えきれていなかったのかもしれません。
この変化は、特にLeu.で顕著に見えています。
Leu.には、働きながら滞在するヘルパーさんがいます。地域のレジャー事業者でアルバイトをしながら泊まりに来る学生もいます。何度も訪れるうちに、自分でイベントを企画する人も出てきました。
その人たちは、単なる宿泊者ではありません。もちろん、宿泊料を払うお客様ではあります。
しかし、それだけでは説明できません。地域の仕事を手伝い、地域に人を呼び込み、地域で新しい動きをつくっていく人たちです。
これは、10年前に考えていた生産者と消費者の関係とは少し違います。
生産者と消費者の関係は、基本的には「作る人」と「買う人」の関係です。しかし、現在の実践の中で見えてきたのは、「地域に関わる人」という存在です。
お客様であり、手伝い手でもある。
参加者であり、企画者でもある。
宿泊者であり、地域の担い手候補でもある。
このような人たちを考える時、「関係人口」という言葉はとても近いものがあります。
関係人口という言葉を知った時、私は比較的すんなりと受け入れることができました。移住でも観光でもない形で、地域に関わる人たち。その意味では、自分が現場で見てきた人たちに近い言葉だと感じました。
ただし、「観光と移住のあいだ」や「移住の途中段階」のように説明されると、少し違和感もあります。
関係人口は、必ずしも移住に向かう途中の人ではありません。
移住しなくても、地域に深く関わる人はいます。隣町の人でも関係人口になりえます。都市部の人だけでなく、近隣地域の人、学生、仕事で関わる人、何度も訪れる人、地域の一部の役割を担う人も含まれます。
その点で、生消連携と関係人口には違いがあります。
生消連携は、生産者と消費者の関係を前提にしています。そこには、農産物を作る人と買う人、農村と都市という構図があります。
また、多くの場合、金銭のやり取りが関係の中心にあります。
一方で、関係人口は必ずしも金銭を介しません。何かを買うから関係人口になるわけではありません。地域に役割を持ち、地域との関係を継続していることが重要です。
この10年で、私が「この人はもうお客様ではない」と感じた瞬間もありました。
たとえば、学生の中には、途中から完全に運営側に回ってくれた人たちがいました。地域のことを自分事として考え、学生企画のツアーを本当に一生懸命つくってくれました。都内で開催した「逢瀬の日」でも、堂々と発表してくれました。
その姿を見た時、彼らは単なる参加者ではなくなっていると感じました。
地域に来る人が「消費者」から「関係者」に変わる入口は、役割を担った時だと思います。それは、与えられた役割でも、自発的に生まれた役割でも構いません。何度も来ていても、ずっとお客様のままの人はいます。それはそれで大切なお客様です。しかし、関係者になるかどうかは、訪問回数だけでは決まりません。
大事なのは、その人が地域の中で何らかの役割を持つかどうかです。
旅行中に少し農作業を手伝うことは、体験としては大切です。
しかし、それだけで関係者になるとは限りません。一方で、逢瀬町産の野菜を東京圏で販売する時に手伝ってくれる人は、地域の外にいながら地域の役割を担っています。その人は、かなり関係者に近い存在だと思います。
学生との関係も、この10年で変化してきました。
特にコロナ禍では、来訪による交流ができなくなりました。その時期には、オンラインで地域と学生をつなげたり、SNSの発信を手伝ってもらったりしました。そこには確かに「関係」はありました。しかし、実際に会い、地域を歩き、農家と話すような「交流」はありませんでした。
アフターコロナになると、堰を切ったように来訪による交流が増えました。特に印象的だったのは、昔来ていた学生がまた逢瀬に来てくれるようになったことです。当時の学生が、今では親になっていることもあります。そうした人たちが子どもを連れて逢瀬に来ることは、地域の人たちにとっても良い刺激になっています。
学生は、単なる消費者ではありませんでした。
関係人口候補であり、貢献型旅行のお客様であり、時には企画者であり、地域の未来を一緒に考える存在でした。
逢瀬町とLeu.では、関係人口づくりの形にも違いがあります。
本質的には同じです。どちらも、地域に関わる人を増やし、関係を育てていく取り組みです。
ただし、逢瀬町は、生消連携が進化して関係人口になっていった文脈に近いと思います。農業、農泊、大学連携、地域団体の活動があり、その延長線上で関係人口的な関わりが生まれていきました。
一方で、Leu.は最初から関係人口の創出を意識して設計された場所です。宿泊拠点であり、寮であり、サードプレイスでもある。訪れる人の数も多く、関係が生まれる母数も大きい。
そのため、関係人口づくりを仕組みとして実践しやすい面があります。
言い換えれば、逢瀬町は「生消連携から進化した関係人口」であり、Leu.は「関係人口2.0から始まった実践」と言えるかもしれません。
この10年で強く感じているのは、関係人口はただ増やすものではなく、育てるものだということです。
人を呼び込むことは重要です。
しかし、それ以上に大切なのは、訪問者のフェーズを設計することです。
初めて地域を知る。
訪れる。
体験する。
手伝う。
再訪する。
役割を持つ。
企画に関わる。
地域の外でも地域を支える。
このような道筋を設計しなければ、関係は自然には育ちません。
もちろん、最後はその人次第です。どれだけ仕組みを整えても、すべての人が地域と関わり続けるわけではありません。
できることは、関係が生まれる可能性を上げることです。そして、こぼれていく関係を少しでも減らすことです。
10年前に学生だった私が提案した生消連携は、現在では関係人口創出という言葉に近づいています。さらに、私自身はそこに貢献型旅行という考え方も重ねています。
ただし、言葉が変わっても、目的は変わっていません。
生消連携も、関係人口創出も、貢献型旅行も、すべて手段です。
本来の目的は、持続可能な地域をつくることです。
地域を一方的に消費するのではなく、地域に関わる人を増やすこと。買う人と作る人の関係を超えて、役割を持つ人を育てること。都市と農村、地域と学生、地域と宿泊者、地域と外部人材が、それぞれの立場で関わり合える仕組みをつくること。
それが、10年の実践を経て見えてきた、生消連携の次の形です。
第4章
10年の実践で得た成果と、残った課題
10年の実践を振り返ると、成果は確かにありました。
ただし、その成果は単純に「何人来た」「いくら売れた」「何回イベントを実施した」という数字だけでは説明しきれません。
もちろん数字も大事です。しかし、都市農村交流や関係人口づくりの成果は、数字の外側にもあります。
この10年で一番大きな成果を一つ挙げるとすれば、2026年1月に実施した「逢瀬の日」です。
「逢瀬の日」は、これまで逢瀬町と関わってきた人たちが東京に集まり、その関係を改めて確認し合う場になりました。
逢瀬町に来たことがある人、学生時代に関わった人、農家と交流した人、企画を一緒につくった人、地域を応援してくれている人。そうした人たちが、時間が経っても逢瀬との関係を持ち続けてくれていることを実感できたことは、とても大きな成果でした。
さらに、2025年度には、これまで逢瀬町で関係人口として関わっていた人が実際に移住し、新規就農しました。
これは、10年前に卒業論文を書いていた自分にとっては、非常に大きな意味を持つ出来事です。
都市農村交流を通じて農業に関心を持つ人を増やし、将来的には新規就農にもつなげたい。そう考えて地域に飛び込みました。
その結果として、東京から逢瀬町に移住し、新規就農する人が一人生まれたことは、胸を張れる成果です。
もちろん、10年で一人という数字だけを見れば、決して大きな成果には見えないかもしれません。むしろ、当時の自分が持っていた熱量や期待から考えれば、もっと多くの人を農村に呼び込み、もっと多くの担い手を生み出せると思っていた部分もあります。
その意味では、悔しさもあります。
しかし同時に、この一人の成果は、一生抱きしめていられるくらいうれしい成果でもあります。地域に人生をかけて飛び込んだ結果として、一人の移住と新規就農につながった。その事実は、簡単に数字だけで測ることはできません。
一方で、Leu.での実践には、逢瀬町とはまた違う形の成果がありました。
Leu.では、初年度から一定の成果を出すことができました。宿泊者数は2,474人、イベント開催数は39回、地域アルバイトは189人泊、ヘルパーは180人泊となりました。関係人口の数でいうと、ざっくり400人ほどの関わりが生まれたと考えています。
さらに、Leu.での滞在をきっかけに、2名が那須塩原市の地域おこし協力隊に就任しました。これは非常に大きな成果です。
Leu.は、最初から関係人口の創出を意識して設計した場所でした。宿泊するだけでなく、働く、手伝う、企画する、地域事業者と関わる、アルバイトをする、イベントに参加する。そうした複数の関わり方が生まれるように設計してきました。
その結果、Leu.にはたくさんの関係人口の芽が残りました。
逢瀬町では、長年かけて育ってきた関係がありました。Leu.では、初年度から関係人口が生まれやすい仕組みを意識してつくることができました。どちらも本質は同じですが、成果の出方には違いがあったと思います。
地域側に残ったものを一言で言えば、やはり「関係」です。
逢瀬町では、「また頑張ろう」という活力が残りました。半年後に学生が企画してツアーを実施する。
そのときにまた会えるように、地域側も頑張りたいと思う。そういう感覚が生まれています。
これは、単に参加者が来たという話ではありません。次に会う理由ができるということです。
地域の人にとって、外から来る人との関係が、次の活動への励みになる。そのような関係が残ったことは、成果だと思います。
参加者側にも、それぞれの地域に対する感覚が残ったのではないかと思います。
お気に入りの地域。
帰ってきたくなる場所。
チャレンジできる場所。
自分の役割を試せる場所。
都市農村交流やLeu.での滞在は、参加者にとって単なる旅行ではなく、そのような場所を持つ経験になっていたのではないかと思います。
経済的な成果も、まったくなかったわけではありません。
逢瀬町では、逢瀬いなか体験交流協議会の売上は毎年少しずつ上がっています。それに伴い、地域事業者や農家に支払う金額も増えています。大きな金額ではないかもしれませんが、地域内にお金が落ちる仕組みは少しずつできてきました。
Leu.では、宿泊やイベントを通じて単純に売上が立ちました。それらに付随して、中潟個人、つまり「おおせのとおり」の収入も上がりました。
委託案件も増え、地域コーディネーターとしての仕事も広がっていきました。
ただし、成果として説明しにくいものも多くあります。
特に難しいのが、関係人口候補の存在です。
たとえば、Leu.を通して地域に関心を持った人が、5年後に地域に就職するかもしれません。学生が何度も訪れ、数年後に地域の仕事に関わるかもしれません。
しかし、その可能性は単年度の成果としては書きにくいものです。
行政報告や補助金報告では、その年度の実績を求められることが多くあります。
何人参加したのか、何回実施したのか、どのような成果があったのか。そうした指標は必要です。しかし、関係人口づくりの本当の成果は、数年後に出てくることがあります。
たとえば、大学生から「今度の企画の下見は、中潟さんなしで学生だけで見学したいです」と言われたことがありました。これは、私にとっては非常に大きな成果でした。
学生が自分たちで地域に向き合い、自発的に動こうとしているからです。
しかし、それを報告書にどう書けばいいのかは難しい。
学生の自発的な変容は、定量では測りにくいものです。
それでも、現場では確実に大きな成果として感じられるものです。
この10年で一番大きな課題として残ったのは、事務局機能です。
正直に言えば、私がいるから何とかなっている部分が大きいです。これは間違いありません。
地域内の調整、企画の設計、関係者との連絡、行政とのやり取り、参加者対応、会計、報告、広報、次の展開づくり。そうしたものが、かなり私に集中しています。
これは、私しかできないからです。なぜなら、これまでずっとやってきたからです。誰にどう話せばいいのか、どの順番で声をかけるべきか、どこで無理が出るのか、誰が何を得意としているのか。そうした情報は、マニュアルだけでは引き継ぎにくいものです。
ただし、属人化そのものを全面的に否定しているわけではありません。
地域の仕事は、ある程度属人的になります。人と人との関係で成り立つ以上、誰がやるかは重要です。むしろ、属人性があるからこそ信頼が生まれる部分もあります。
しかし、持続可能性の期間を延ばすためには、その属人性を少しずつ仕組みにしていく必要があります。今は、そのためのメソッドをつくっている途中です。自分がやってきたことを言語化し、他の人にも読んでもらい、手伝ってもらえる状態にしていくことが必要だと感じています。
都市農村交流や関係人口づくりは、事業として黒字化できないわけではありません。
各事業単体で見れば、黒字化できるものもあります。実際に、体験事業やイベント、宿泊を組み合わせることで、収支を合わせることは可能です。
しかし、難しいのは、事務局やコーディネーターへの報酬をきちんと含めた時です。
地域の人を調整する。企画を設計する。参加者を集める。関係者と連絡を取る。報告書を書く。次につなげる。こうした仕事には、本来きちんと報酬が必要です。
けれど、その報酬まで含めると、予算が合わないケースがあります。もちろん、最初からその分を含めて先方に予算を打診しています。
しかし、それでは実施できないと言われることもあります。その場合は、こちらから断ることもあります。
ここは、都市農村交流や関係人口づくりの大きな課題です。
交流の場は評価される。参加者の満足度も高い。地域にも意味がある。
けれど、それを成り立たせるためのコーディネーターの仕事に、十分な報酬がつきにくい。
ここを変えなければ、持続可能な仕組みにはなりません。
このあたりの「地域コーディネーターはどう仕事にしているのか」「委託案件としてどう受けるのか」「何に価格をつけるのか」という話は、かなり実務的な内容になるので、別の有料noteにまとめています。
興味がある方はこちらもどうぞ。
有料note『地方で仕事をつくるコーディネーター実践記録』
地域側の受け入れ負担も課題です。
特に大変なのは、地域内調整です。これは逢瀬町でもLeu.でも共通しています。誰に声をかけるのか。どこまでお願いするのか。どのように役割分担するのか。受け入れる側に無理がないか。こうした調整は、見えにくいけれど非常に重要です。
Leu.では、参画者の年齢が逢瀬町に比べて比較的若いこともあり、助けて助けられての関係が成立しやすい面があります。それでも、地域内調整は大変です。さらに、ヘルパーやアルバイトの管理も大きな負担でした。
うまくいった企画には、共通点があります。
それは、熱い思いがあったことです。
なんとなくやる企画は、うまくいきません。
やるべき理由がある企画は、うまくいきやすいです。
主催者に本気度があると、自分の責任で参加者を呼ぼうとします。
誰かに任せきりにせず、自分自身の企画として動きます。
逆に、うまくいかなかった企画には、自分だけが盛り上がっていたり、企画側の人たちが孤立していたりすることがありました。
企画は、一人の熱量だけでは続きません。熱量を持つ人がいて、その人が孤立しないこと。
周囲に協力者がいて、参加者にも意味が伝わっていること。そこまでそろって初めて、企画は動き出します。
補助金や委託案件は、都市農村交流や関係人口づくりにとってプラスでした。
補助金や委託案件があったからこそ、実施できた事業はたくさんあります。地域にお金を落とし、企画を形にし、外部の人を呼び込むきっかけになりました。
一方で、難しさもあります。締め切りに追われること。行政の都合に振り回されること。
単年度で成果を求められること。報告書の形式に合わせなければならないこと。
現場の時間と制度の時間が合わないこともあります。
だからこそ、今後は成果指標も見直す必要があります。
参加人数や満足度だけでは、関係人口づくりの成果は十分に測れません。今なら、再訪率、役割移行率、地域外での発信数を重視したいと考えています。
再訪率は、一度来た人がもう一度地域に関わったかどうかを示します。
役割移行率は、参加者がお客様から手伝い手、企画者、発信者、地域の担い手へと変化したかどうかを示します。
地域外での発信数は、地域に来た人が、自分の場所に戻った後も地域について語り、発信しているかどうかを示します。
こうした指標の方が、単なる参加人数よりも、関係の深まりを測るうえでは重要だと思います。
10年前の自分が考えていた「農村の担い手不足」や「新規就農者の獲得」には、正直なところ、十分には近づけませんでした。
胸を張れる成果は、逢瀬町に一人、東京から移住して新規就農してくれた人が生まれたことです。
しかし、それ以上に大きな流れをつくれたかといえば、まだまだです。
これは、学生時代の自分が思い描いていた都市農村交流の限界でもあるのかもしれません。
農村の担い手不足を、都市農村交流だけで解決することはできません。
新規就農者を増やすことも、簡単ではありません。
農業の収入、住まい、地域との関係、技術習得、家族の事情、制度。さまざまな条件が重なります。
だからこそ、今は関係人口創出という別のアプローチで、持続可能な地域づくりを目指したいと考えています。
人が移住するかどうかだけではなく、移住しなくても地域に関わる人を増やす。農業を継ぐ人だけではなく、農業や地域を支える人を増やす。
地域に仕事をつくる人、発信する人、手伝う人、企画する人を増やす。
その積み重ねの先に、持続可能な地域があるのではないかと思います。
この10年で自分自身が得た一番大きな成果は、プロジェクトを進める力がついたことです。
いろいろなことを試してきました。うまくいったことも、失敗したこともあります。
農泊、学生ツアー、イベント、行政連携、大学連携、物販、宿泊拠点、ヘルパー制度、地域アルバイト、委託案件。
そうした実践を通じて、企画を立て、関係者を巻き込み、事業として進める力は確実についたと思います。
一方で、自分自身の課題として残っているのは集客です。
ただし、これは多くの場合、企画者自身が本気で動くことで補える部分でもあります。企画者が自分の責任で人を呼ぶ。その熱量がある企画は、やはり強いです。
10年前、私は「これをやってやる」と本気で思って地域に飛び込みました。
都市農村交流で地域を変えられる。生消連携で農村と都市をつなげられる。新規就農者を増やせるかもしれない。そんな熱い思いで、人生をかけて地域に入りました。
その結果、胸を張れる成果は、逢瀬町に一人、東京から移住して新規就農してくれた人が生まれたことです。
これは、悔しくもあります。
でも同時に、ものすごくうれしいことでもあります。
10年やって、たった一人。
でも、その一人は確かに生まれた。
これが、都市農村交流の現実だと思います。
成果は関係として残りました。けれど、それを仕組みとして残すには、まだ課題があります。
事務局機能、コーディネーターへの報酬、属人化、地域内調整、成果指標、関係人口候補の可視化。解決すべきことは多くあります。
それでも、たくさんの失敗と、少ないけれど大事な成功を積み重ねることで、関係人口創出の設計図は少しずつ見えてきました。
都市農村交流は、人を呼ぶだけでは足りません。
生消連携は、買う人と作る人をつなぐだけでは終わりません。
関係人口創出は、雰囲気だけでは続きません。
必要なのは、関係が生まれ、育ち、役割へと変わっていく仕組みです。
この10年の実践で得た成果は、その可能性を確かめられたことです。
そして、残った課題は、その可能性を個人の経験で終わらせず、地域に残る仕組みにしていくことです。
第5章
次の10年に向けた提案
都市農村交流を「交流」で終わらせないために
10年前の卒業論文で、私は「都市農村交流による生消連携活動の活性化」を提案しました。
当時の私は、都市と農村が交流することで、生産者と消費者の関係が深まり、農業や農村を支える仕組みができるのではないかと考えていました。
その考えは、今でも大きく間違っていたとは思っていません。
ただ、10年現場で活動してみて、少し見方が変わりました。
都市農村交流は、人を呼ぶだけでは足りません。
地域に来てもらうだけでは、関係は残りません。
楽しかった、また来たい、いい体験だった。
それだけで終わってしまうと、交流は一過性のイベントになります。
次の10年に向けて私が提案したいのは、都市農村交流を「交流」で終わらせず、関係人口を育て、さらに「関係圏」をつくっていくことです。
ここでいう関係圏とは、行政同士の姉妹都市のような制度的な関係ではありません。
ある地域で関係人口となった人が、自分の暮らす地域や所属するコミュニティに、その関係を持ち帰る。そこでまた別の人が地域に関心を持つ。Leu.で出会った人たちが、それぞれの拠点で再び集まり、そこから新しい交流や仕事や学びが生まれる。
そうした、人と人の関係を起点にした地域間のつながりを、私は「関係圏」と呼びたいです。
10年前に考えていた生消連携は、生産者と消費者の関係を深めるものでした。
その後の10年で、それは関係人口創出という考え方に近づいていきました。
そして次の10年では、関係人口をさらに広げ、地域と地域が人を介してつながる「関係圏」をつくることが重要になると考えています。
都市農村交流を「交流」で終わらせないとは、来た人をそのまま帰さないということです。
もちろん、物理的には帰ります。
でも、関係まで終わらせない。
地域に来た人が、次にどう関わるのか。
どんな役割を持つのか。
地域にどんな変化をもたらすのか。
その関係が、仕事や学びや共創につながるのか。
さらに、その人の暮らす地域やコミュニティに広がっていくのか。
そこまでの道筋を設計することが、次の都市農村交流には必要です。
そのためには、訪問者の段階を考える必要があります。
最初に地域を訪れる人がいます。
もう一度来る人がいます。
地域の何かを手伝う人がいます。
企画や事業を一緒につくる人がいます。
地域の外で、その地域のことを語り、紹介し、人を連れてくる人がいます。
私はこの段階を、次のように整理しています。
Visitor:初回来訪者
Repeater:再訪者
Contributor:貢献者
Co-Creator:共創者
Ambassador:語り手・紹介者
この中で、最も重要な分岐点はContributor、つまり貢献者になる段階です。
何度も来てくれる人は大切です。
再訪してくれるだけでも、もちろんありがたい存在です。
しかし、地域との関係が一段深まるのは、その人が地域の中で何らかの役割を持った時です。
手伝う。
発信する。
人を連れてくる。
企画に関わる。
地域の仕事に参加する。
地域外で地域の産品を売る。
そうした役割を持った時、訪問者は単なるお客様から関係者へと変わっていきます。
ただし、これは自然に起きるものではありません。
関係人口は、ただ人を呼べば増えるものではありません。
関係人口は、育てるものです。
そして、関係人口を育てるためには、それを設計する人が必要です。
私はその役割を、「関係人口創出コーディネーター」と呼びたいです。
関係人口創出コーディネーターは、単にイベントを企画する人ではありません。地域に人を呼ぶだけの人でもありません。
地域を見る。
人を見る。
関係の入口をつくる。
訪問者のフェーズを設計する。
地域側の受け入れを調整する。
大学や企業や行政との接点をつくる。
役割を生み出す。
継続する仕組みをつくる。
価格をつける。
成果を言葉にする。
こうした仕事を担う専門職です。
一時期、どの組織にもAI人材が必要だと言われたように、これからは地域に関わる分野において、関係人口創出人材が必要になると考えています。
地域にも、大学にも、行政にも、企業にも、関係人口創出を設計できる人が必要です。
そして、この仕事にはきちんと報酬を払うべきです。
都市農村交流や関係人口づくりの現場では、参加者の体験料、宿泊費、農家への謝金、食材費、交通費などは予算化されます。
しかし、それを設計し、調整し、関係をつなぎ、次につなげるコーディネーターの報酬は軽視されがちです。
これでは持続可能になりません。
地域の人を調整する。
企画を設計する。
参加者を集める。
関係者と連絡を取る。
報告書を書く。
次につなげる。
こうした仕事には、本来きちんとした報酬が必要です。
関係人口創出を本気で地域政策や地域事業として位置づけるなら、事業費の中にコーディネート費を明確に組み込むべきです。
次の10年で必要なのは、現場で使える「関係人口創出の設計図」です。
その設計図は、難しい理論だけでは足りません。現場で使えるものである必要があります。
地域をどう見るか。
人をどう見るか。
誰に、どの順番で話すか。
どのように訪問者を受け入れるか。
どの段階で役割を渡すか。
どのように再訪につなげるか。
どう提案するか。
どう価格をつけるか。
どう成果を測るか。
こうした、見方、手順、提案の言葉、価格のつけ方まで含んだ設計図が必要です。
成果指標も変える必要があります。
これまでの都市農村交流では、参加人数や満足度が重視されがちでした。もちろん、それらも大切です。しかし、関係人口創出を考えるなら、それだけでは足りません。
次の10年で重視すべき指標は、再訪率、役割移行率、地域外発信数です。
再訪率は、一度来た人が、もう一度地域に関わったかどうかを示します。
役割移行率は、参加者がお客様から手伝い手、企画者、発信者、地域の担い手へと変化したかどうかを示します。
地域外発信数は、地域に来た人が、自分の暮らす場所や所属するコミュニティで、その地域のことを語っているかどうかを示します。
特に重要なのは、役割移行率です。
初めて来た人が、もう一度来たのか。
再訪者が、手伝い手になったのか。
手伝い手が、企画者になったのか。
企画者が、地域の外で語り手になったのか。
この変化を見なければ、関係の深まりは測れません。
単に何人来たかではなく、その人がどう変わったか。
地域とどのような関係を持ったか。
次にどんな役割へ移行したか。
そこを見る必要があります。
その意味で、「貢献型旅行」は次の10年の重要な考え方になると思います。
言葉そのものは、今後別の表現に変わるかもしれません。
しかし、内容としては重要です。
一般的な観光は、地域にお金を落とし、地域資源を消費するものです。もちろん、それも地域にとって大切です。
しかし、消費だけでは地域はすり減っていく可能性があります。
一方で、貢献型旅行は、地域を支えることや再生することに何らかの貢献を組み込んだ旅行です。
農作業を手伝う。
地域イベントを手伝う。
地域の情報発信に関わる。
地域産品の販売を手伝う。
地域の人と一緒に企画をつくる。
自分の得意なことを地域に差し出す。
そうした関わりを通じて、参加者はお気に入りの地域を見つけることができます。
ただし、参加者に「貢献しろ」と押しつけすぎることには危険もあります。
地域のために来たのだから働け、役に立て、成果を出せ、という空気になってしまうと、旅行としての楽しさや余白が失われます。善意の押しつけにもなりかねません。
だからこそ、事前学習が重要です。
地域に入る前に、その地域の背景や課題を知る。
自分が何をできるのかを考える。
同時に、地域側も参加者に何を期待し、何を期待しすぎないのかを整理する。
また、企画段階から参加者候補や、それに近い属性の人を巻き込むことも必要です。地域側が良いと思っていることと、参加者側が求めていることにはズレがあります。そのズレを事前に埋めておくことで、貢献型旅行の危うさを減らすことができます。
逢瀬町での実践とLeu.での実践を踏まえると、特にLeu.のモデルは横展開できる可能性があります。
Leu.は、単なる宿ではありません。寮であり、サードプレイスであり、地域と外部人材の接点です。
宿泊、仕事、学び、イベント、手伝い、地域事業者との接続が、一つの場所で起こるようになっています。
初年度から宿泊者、イベント、地域アルバイト、ヘルパー、地域おこし協力隊への接続など、一定の成果も生まれました。
これは、Leu.が最初から関係人口創出を意識して設計された場所だったからです。
もちろん、すべての地域でLeu.をそのままコピーできるわけではありません。地域ごとに人も産業も文化も違います。
しかし、入口をつくり、関係を育て、役割へ移行させるという考え方は、他地域でも応用できるはずです。
今後は、第2のLeu.のような場所を他地域につくることも目指したいと考えています。
大学連携も、次の10年でさらに発展させるべきです。
これまでの大学連携は、学生が地域に来て学ぶ、フィールドワークをする、農業体験をするという形が中心でした。
今後は、それぞれの大学の専門性に応じた成果を地域に接続していく必要があります。
ある大学では、経済学的な成果を測る。
ある大学では、環境的なアプローチを行う。
ある大学では、データサイエンス的に関係人口を分析する。
ある大学では、学生が企画運営に関わる。
大学ごとの専門性を地域に接続し、それぞれ違う成果を生み出していく。
それをコーディネートすることも、関係人口創出コーディネーターの仕事です。
行政や委託案件との関係も、一方向ではなく、互いに提案し合える関係が理想です。
行政から地域に期待が押しつけられるだけではうまくいきません。逆に、地域側から行政に提案できる関係も必要です。
地域には現場があります。
行政には制度や予算があります。
大学には研究や教育があります。
企業には人材や資金や技術があります。
それぞれが一方的に利用し合うのではなく、互いに提案し合い、補い合える関係をつくる必要があります。
企業との連携にも、大きな可能性があります。
これからの企業にとって、地域は研修先であり、社会的価値を実感する場所であり、新しい事業の実験場にもなります。
社員研修、福利厚生、CSR、副業人材、ワーケーション、新規事業開発。企業が地域と関わる理由はたくさんあります。
AI人材の次に、地域と関われる人材、地域で事業を考えられる人材、社会課題を現場で捉えられる人材が必要になるかもしれません。
地域は、そのような人材を育てる場にもなります。
農業や農村側にとっても、関係人口は大きな可能性を持っています。
関係人口になった人たちに向けたファンマーケティングによって、農産物の販路を広げることができます。繁忙期の担い手になってくれる人もいるかもしれません。地域外で野菜を売ってくれる人、PRしてくれる人、イベントに人を連れてきてくれる人も生まれます。
一方で、都市側にとっても、農村と関わる意味は大きくなっていくと思います。
東京圏への一極集中型の社会には、限界があります。その限界を迎える前に、自分にとってのお気に入りの地域を持つことは重要です。
いくつになっても、別の拠点があることには意味があります。
自分の暮らしや仕事の外側に、もう一つの地域との関係を持つことは、ウェルビーイングにもつながると思います。
10年前、私は新規就農者を増やしたいと考えていました。
その目標は、今でも大切です。実際に、逢瀬町に一人、東京から移住して新規就農してくれた人が生まれたことは、胸を張れる成果です。
しかし、次の10年では、その目標を少し更新したいと思います。
新規就農者を増やすことだけをゴールにするのではなく、関係圏を一つ増やすことを目標にしたいです。
移住者を増やすことだけが地域づくりのゴールではありません。人口が減っても、地域を維持できる可能性を高めること。そのために、地域に関わる人、支える人、語る人、手伝う人、仕事をつくる人を増やすことが重要です。
地域に住む人だけで地域を支えるのではなく、地域に関係する人たちと一緒に地域を支える。
それが、次の10年の都市農村交流の方向性です。
私自身は、次の10年で、関係人口創出コーディネーターとして、地域の関係人口創出の設計者でありたいと考えています。
そして、そのうえで後進を育成する立場になりたいです。
全国で関係圏が生まれていくようにしたい。
そのための設計図をつくりたい。
現場で使える言葉と手順を残したい。
一人の経験で終わらせず、他の地域でも使える形にしたい。
この10年の実践から、他の地域の人に一番伝えたい教訓があります。
それは、一人で盛り上がるな。一人にさせるな。
ということです。
地域づくりでは、熱量はとても大事です。
けれど、一人だけが盛り上がっている状態は危険です。本人も疲弊しますし、周囲もついてきません。
一方で、熱量を持った人を一人にしてしまうことも危険です。企画者が孤立すると、良い企画でも続きません。
地域に必要なのは、熱量を持った人を支える仕組みです。
逆に、真似しない方がいいこともあります。
大学を出て、就職もせず、勢いだけで手ぶら移住することです。
私はそれをやりました。結果として今があります。けれど、誰にでも勧められる方法ではありません。
勢いだけで地域に入るのではなく、関係性、仕事、収入、住まい、役割を少しずつ設計しながら入る方がいいと思います。
都市農村交流は、人を呼ぶことが目的ではありません。
人を呼んだあとに、何が残るのか。
来た人は、どのような関係を持つのか。
地域は、その人とどう関わり続けるのか。
その関係は、次の地域や次の人へどう広がるのか。
そこまで考えて初めて、都市農村交流は持続可能な地域づくりにつながります。
次の10年に向けて、最後に問いを置きたいと思います。
人を呼ぶことではなく、関係を育てる設計ができていますか。
おわりに
さて、久しぶりにこんなに長い文章を書いてみたのでところどころ寄り道したりぐちゃってなったりしてしまいました。そんな時はAIさんに添削してもらおう!とお願いしたりして何とか書き上げました。
卒論のアンサーみたいな書き方をしましたが何か調査をしたり実験したりしたわけではないのでただの「10年前の私へ10年後の私より」みたいなお手紙というか感想文って感じです。
座右の銘として「明日の自分に笑われない、昨日の自分に恥をかかせない」って掲げています。書いててぎりぎり10年前の自分に恥をかかせない活動ができてたと言えそうです!
書きながら思ったのはどっかの章で書いた成果として「移住者が一人増えた」っていうのが自分の中で本当にうれしかったんだなって実感しました。数字だけ見ると10年で1人かよって思うけど、この「1」があるのとないのでは全然モチベーションが違うなって思いました。
この10年とんでもないくらいの人たちにお世話になってなんとか活動してこられました。
最近多拠点居住になってちょっと疎遠になっちゃった人もいるけど1度でも関わってくれた人達には私からは感謝しかありません。これは本当です。
まだ30年しか生きてないけどそのうちの⅓をつかって自分の思いを表現できてうれしいです。地域のためになったのかといわれるとどうだろうという感じですが年に数回地域の人に「ありがとう」って言ってもらえてるのでグッジョブかな!
長々とお付き合いいただきましてありがとうございます。
今後ともどうか中潟をよろしくお願いいたします!!!!
では、また10年後に。
なお、今回の記事では10年の実践を大きく振り返りましたが、実際に地方で仕事をつくる時の考え方、委託案件の受け方、コーディネーターとしての立ち回り方については、別記事でかなり具体的に書いています。
読み終えて「で、実際どうやって仕事にしてるの?」と思った方は、こちらも読んでもらえたらうれしいです。
有料note『地方で仕事をつくるコーディネーター実践記録』
