[24]我が家の記(二)二代藤右衛門④
明和の騒動
二代藤右衛門の生きた時代、
佐渡では大きな騒動が起きている。
明和年間に起きた
いわゆる 遍照坊騒動 と呼ばれる事件である。
明和の頃、佐渡では
凶作や重い年貢の負担によって
多くの百姓が深刻な困窮状態にあった。
当時の記録には
「住民窮乏言語ニ絶シ」
とあり、
住民の困窮は言葉にもできないほどであったと
記されている。
年貢を納めることすら
思うように出来ない状況であり、
村々の生活は限界に近づいていた。
こうした状況の中で
遍照坊と呼ばれる僧を中心に、
村々の有志が集まり
住民の困窮について話し合いが行われたと伝えられている。
その集まりには
二代藤右衛門の名も見える。
一説には
加茂神社に人々が集まり、
五十余村にわたる百姓の窮状について
相談が行われたとも伝えられている。
五十余村という規模は、
当時の佐渡においては
決して小さな動きではない。
しかしこの動きは
やがて幕府側の知るところとなった。
事件は発覚し、
藤右衛門は
仲間五人とともに捕らえられることになる。
明和四年(1767)十一月、入牢。
そして
明和七年(1770)三月まで
牢に入れられていたと記録されている。
およそ二年余りの入牢であった。
しかし取り調べの結果、
藤右衛門には
重大な罪はないと認められた。
藤右衛門の行動は、
後に 義民 として語られることもある。
※義民=民衆の苦しみを救おうとして行動した人物を指す。
ただし家の記録である
「我が家の記」には、
この出来事について詳しい説明はない。
残されているのは
「若キ時 公難ニ逢ヒ 久シク苦ミ」
という一文のみである。
※公難=公の事件や災難。
後の当主が
あえて詳細を書かなかったのか、
あるいは
書くことを控えたのかは分からない。
しかし
二代藤右衛門の人生の中で
この事件が大きな出来事であったことは
間違いない。
