【距離一歩分の体温】
冨嶋くん。
私の青春のすべては、その名前だった。
出会いは、いつだって校舎の隅っこ。成績の順位を競い合うのが、私たちのコミュニケーションだった。
「負けたわ〜!」
廊下の突き当たり、夕陽に染まる横顔で、冨嶋くんは振り返る。
「次は俺が一番取るから!」
「取らせないよっ」
それだけのやりとり。たったそれだけのことで、私の世界はいつも鮮やかな色に染まった。
放課後、部活が終わってもすぐには帰らない。誰もいない静かな廊下で、彼の足音を待っている。すっと伸びた美しい背筋。そのうしろ姿に、私はいつの間にか恋をしていた。
初めての告白は、学校の裏側だった。破裂しそうな心臓を抱えて立った私に、冨嶋くんはまっすぐな目で言った。
「――好きな子がいるんだ」
失恋だった。なのに、なぜだか少しだけ嬉しかった。適当な誰かとではなく、たったひとりの人をちゃんと大切にしようとする彼だからこそ、私はなおさら好きになってしまった。
「あの⋯さ、好きでいてもいいかな?」
「うん」
それが、私たちの新しい始まりだった。三ヶ月後、彼の好きな子に彼氏ができたと聞いた。
「今がチャンスだよ」友達の言葉に背中を押され、私は再び学校の裏側へ走り出した。
二度目の告白。真っ赤な顔で、うまく息もできない私を見て、彼は笑った。
なのに、恋人になった途端、私たちはひどく不器用になった。好きすぎて、名前が呼べない。近づくことすら怖くて、朝の下駄箱に手紙を滑り込ませた。
『一緒に帰りませんか?』
冷たい夕方の廊下。まわりの冷やかす声のなかで、待っていてくれる彼の横を、私たちは友達よりずっと離れて歩いた。緊張しすぎて、人間一人分の隙間がどうしてもあまってしまう。
初めての、映画館。少しでもお洒落に見せたくて、無理をしてヒールを履いていった。もともと高い背が、ますます高くなる。
私は、いつの間にか猫背になっていた。隣で彼が何かを話しかけてくる。
「うん、そうだね」
顔だけは、必死に笑っていた気がする。友達だった頃の何気ない会話は、今でも覚えている。
なのに、あの日は何を話したのか、思い出せない。彼の顔さえ、まともに見られなかった。
そして、やってきた受験の季節。
『入試が終わるまで、距離を置こう。終わってもまだ好きでいてくれたら、卒業式に会おう』
その手紙を見た私は、怖くなって逃げ出した。彼の瞳に映る、不器用でちっぽけな自分を見ることができなかったから。
それから、五年の時間が流れた。
成人式。彼は、来る気がしてた。冨嶋くんなら、そういう人だから。
「こんどサシ飲みしない?」
「サシ飲みってなに?」
「二人で飲むことだよ。なんで知らないんだよ」
「したことないもん……」
私たちは隣町の居酒屋で、人生で初めて「正面」に向き合った。彼の目を見る。心臓の音は、七年前と何も変わっていなかった。
名前を呼びたかった。心のなかでずっと叫んでいた。
「誠」という名前を、一度でいいから口に出したかった。
でも、結局できなかった。私はバス。冨嶋くんは電車。同じ街に住んでいるのに、私たちはやっぱり、同じ方向へ並んで帰ることはなかった。
ずっと「冨嶋くん」と呼んでいた彼。近づくことを許されていたはずなのに、一番近づけなかった人。
あの頃の私たちは、きっと不器用で、意地っ張りで、
世界で一番子どもだった。
遠ざかる電車の光を見送りながら、私はそっと、胸のなかで彼の名前を呼んだ。
――またね、誠。
