「発信している自分」が恥ずかしかった
最初に書いた記事を投稿したあと、しばらくスマホが見られなかった。
通知が怖かった。
反応があっても怖いし、反応がなくても怖い。どちらに転んでも傷つきそうな気がして、画面を伏せたまま家事をしていた。
「私ごときが」という声が、ずっとそこにあった
発信を始める前から、頭の中に声があった。
「あなたが言うことって、誰かの役に立つの?」
「同じようなことを言っている人、もっとうまい人がいるんじゃない?」
「目立ちたいだけに見えない?」
この声は外から来るんじゃなく、自分の中から来ていた。
自分を一番厳しく批評するのは、いつも自分だ。
そういう人は、私だけじゃないと思う。発信したいと思いながら、「私ごときが」という言葉に何度も足を止めてきた人が、きっとたくさんいる。
インスタライブで、声が震えた
初めてライブ配信をしたとき、手が震えていた。
見ている人は0人だった。それでも、「誰かに見られる」という感覚が怖かった。
話しながら、頭のどこかがずっと「今の変だったかな」「なんか偉そうに聞こえなかったかな」と実況中継していた。
終わったあとに録画を見返す気には全然なれなかった。
自分の話し方、表情、間。全部が気になるのが目に見えていたから。
それでも、続けた。
うまくやろうとするのをやめて、ただしゃべることにした。
さらけ出すのが怖い本当の理由
「恥ずかしい」の下を掘り下げてみると、もっと正直な感情があった。
否定されるのが怖い。
「こんなことを言って、変な人だと思われたら」「共感されなかったら、自分の感覚がずれているということになる」
発信することは、自分の内側を外に出すことだ。
内側を出したものが否定されると、自分そのものを否定された気がする。
だから怖い。恥ずかしいのは表面で、本当は「傷つきたくない」だった。
それでも続ける理由を、見つけた
ある日、ライブのコメントに一言あった。
「同じこと思ってました」
たったそれだけだった。
でもそれを見た瞬間、涙が出そうになった。
私が恐る恐るさらけ出したものが、誰かの「同じだった」につながった。
うまくなかったのに。整っていなかったのに。それでも届いた。
そのとき思った。
発信とは、自分を売り込むことじゃない。「こういう人間がここにいる」という、静かな声だ。
その声に「私もいる」と返してくれる人がいれば、それで十分だ。
恥ずかしさは、消えない。でも変わった。
今も発信のたびに、少し緊張する。
投稿ボタンを押す前に、一瞬止まる。
でもその緊張は以前と少し違う。「どう思われるか」ではなく、「これが誰かに届くかな」という方向に変わってきた。
自意識が邪魔をしなくなったわけじゃない。
ただ、自意識よりも「届けたい」が少しだけ大きくなった。
それだけで、投稿ボタンを押せるようになった。
恥ずかしさと一緒に、続けていく。それが今の私の発信の仕方だ。
