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漂う「スマホ農場」――私たちの判断は。

前回は新知事に対する期待や、それを具体化するための方策を論じた。開票から一日経過し、少し選挙戦そのものを眺め直してみたいと思う。

今回の選挙では、「スマホ農場」というワードを目にする機会が多かった。SNS上で大量の投稿を流し、スマートフォンを通じて有権者を誘導するような選挙運動を指していると思われる。
おそらくは先の衆議院選挙で与党が膨大な量の動画広告を掲出し、その経済力に物を言わせて選挙戦に臨む姿が、「政権による認知戦」の様なものを感じさせたのかもしれない。
しかし、この言葉には心をざわつかせる気味悪さがある。それは、情報を受け取った選挙民がまるで自我を失ったように行動し、本来の姿である「自ら考えて一票を投じる」という視点が失われた様に表現されているからだと思う。

もちろん、インターネット上で組織的な発信が行われること自体は問題になり得る。特定の候補を持ち上げたり、反対する候補を攻撃したりする投稿が大量に流れれば、それが情報環境に影響を与えることはあるだろう。ただ、「大量の投稿があった」ということと、「それによって有権者が操られた」ということは同じではない。SNSで情報を見た人が、そのまま投票所へ連れて行かれるわけではない。候補者の発言を聞き、テレビや新聞の記事を読み、家族や友人と話し、自分の暮らしや地域の状況と照らし合わせて投票する。もちろん情報に流される人もいるだろうが、それはインターネットが登場する前から存在していた。

もっとも、今回の選挙戦を振り返ると、先の衆院選のときのような大規模な発信が行われているようには思えない。両陣営へのSNS上の批判も、選挙が近づけばよく見られる応酬の範囲を大きく超えるものではなかったように思う。だとすれば「スマホ農場」という言葉は、今回の実態を説明するために持ち出されたというより、前回の選挙で生まれた批判の型が、指し示す中身を確かめられないままネット上を漂い、目についた投稿に次々と貼り付けられていった、と、見ることもできる。

SNSという私の狭い観測範囲ではあるが、粘着的な攻撃はどちらの支持者からも見られた。古謝氏やその支援者の投稿には、自民党の支援を受けたことから宗教団体と結びつける書き込みがあり、玉城氏側にも、支援する人々を特定の運動家になぞらえて揶揄する投稿があった。候補者を政策ではなく、支持者や周辺人物のイメージによって攻撃するやり方は、どちらの陣営にも起こり得る。これはSNS特有の現象というより、選挙になると現れる人間の感情が、SNSによって目立つようになったものとも考えられる。

さて、インターネットが選挙に入り込んでくる以前はどうだったか。私たちは新聞や選挙公報、候補者のビラを読み、テレビやラジオを通じて、選挙に必要な情報を得てきた。
冷静に考えると、私たちは、インターネットが登場する前から、誰かが選んだ情報の中で政治を判断してきた。新聞には紙面の大きさや掲載順があり、テレビには放送時間がある。何を報じるのか、何を報じないのかという選択もある。そこには記者や編集者の判断が入り、それを通じて私たちは社会を見てきた。それを「オールドメディア農場」と呼ぶ必要はない。だが、インターネットだけを特別な情報操作の場として扱うことにも違和感がある。

インターネットにも既存メディアにも、それぞれ長所と弱点がある。インターネットは誰でも発信できるため、従来なら表に出なかった普通の人の声が届く。一方で、誤情報や誹謗中傷も広がりやすい。既存メディアは取材や編集の体制を持つ一方で、組織としての判断や編集方針を通した情報になる。どちらが優れているというより、私たちは異なる性質の情報源を使っていると考えた方がよい。
だからこそ、「スマホ農場」という言葉だけで今回の選挙結果を説明することには慎重でありたい。なぜならば、「スマホ農場」という言葉が本当に問題にしているのは、発信の量ではなく、受け取る側がどう振る舞ったかという想定のはずだからだ。

実際の有権者は、そんなに単純ではない。候補者の発言を聞き、報道に触れ、家族や同僚と話し、自分の暮らしや土地の記憶と照らし合わせながら、一票の理由を組み立てていく。その過程のどこかで特定の投稿に心を動かされることはあっても、それをもって「操られた」と言い切るのは、有権者という存在をあまりに軽く見ていることにならないか。

古謝氏に入れた人も、玉城氏に入れた人も、自分の一票をSNSに明け渡したわけではない。むしろ「スマホ農場」という言葉そのものが、自分と異なる結果を選んだ有権者への説明を、都合よく外側に押し付けるための言葉になっていないか。その一票を軽んじる仕草は、支持した候補の勝敗にかかわらず、有権者そのものへの軽視である。そのたびに、実際に投票所へ足を運び、迷いながら一票を投じた個々の有権者の存在が、語りの中から消えていく。

インターネットも、新聞も、テレビも、私たちに情報を届ける手段にすぎない。その情報を信じるのか疑うのか、別の情報と照らし合わせるのか、そして最後にどちらへ一票を投じるのか。それを決めるのは有権者である。SNS時代の選挙を考えるとき、私たちが忘れてはいけないのは、情報を発信する側の力だけではない。情報を受け取り、考え、投票する側にも、判断する力があるということだ。

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